2014年12月29日月曜日

この一年

2、4週クラスもこの土、日曜日で今年最後の制作を終えました。
最後はちょっとお休みの方も多く寂しかったのですが、
集中した深い深い時間となりました。
充実感いっぱいで今年を締めくくることが出来て良かったです。

皆様、本年も有り難う御座いました。

外へ発信する場面の多かった一年でしたが、
改めて制作の場が変わらず、と言うよりはより充実した内容を実践出来たこと、
作家、スタッフ共に本質をしっかりと深められた実感があります。

場が全てです。

2015年はまた別の形で外への発信の場面が増えると思いますが、
場を守る、場を深めるということ、
日々、作家達と心を通い合わせて、
幸せと高い質の作品を生み出して行きたいです。

ここ最近もダウン症の人達を紹介した企画が目立ちます。
そのほとんどが正しい認識に立ったものとは思えません。
まだまだ、そのレベルです。

でも、もう多くは言わないことにします。
人それぞれ、それを良しとする人がいるからあるのだと思います。

アトリエ・エレマン・プレザンの活動を良しとして下さる多くの方々がいます。
僕達はまずその声に答えて行くことに専念したいです。

今年を終えて、制作の場を振り返ると、
やはりここにこそ価値があるし、比較することではありませんが、
日本一、世界一の場所だと本気で思います。
むしろもっと良い場があれば嬉しいのですが。

僕達はみんなで大切に大切に、思いをかけ、響き合い、
この場を創って来ました。
その結果が気がつけば遥かな高みにまで達していたのだと思います。
大袈裟な言葉だと思われるかもしれませんが、
冷静に分析も続けながら、濾過してきて、奇麗なものになったのは事実です。

来年も外へ向かっては更なる希望に繋がる展開を、と考えております。
気を引き締めて、制作の場も創って行きます。
どうぞご期待下さい。

この世界の中で良い環境を創って行きましょう。
ささやかな日々の中で繋がりを大切に、
物質面以上にあたたかいこころとこころで響き合って行きましょう。

皆様、良いお年をお迎え下さい。

2014年12月26日金曜日

冬の光

こんにちは。
相変わらず寒いですね。
でも晴れると光が奇麗。
昨日はクリスマスでしたね。

平日のクラスでは来客者が続きました。
少しお話しする機会が多かったのですが、
何かちょっとでも希望を感じていただけていれば嬉しいです。

昨日は中原さんが来て下さいました。
「楽園としての芸術」をふりかえりながら、
今のこと、次のことに思いを巡らせました。

気持ちが通じ合える人がいることは幸せなことです。

今年もたくさんのことがあったけど、すべてが良いステップになったと思う。

このブログももっと書こうと思いながらも、
今の社会情勢を見ていて、このままで良いとは思えない。
差迫った現実を前に、もっと中身を見直して行かなければ、と思う。
思うところもあって一つ一つの社会情勢に関しては書かないことにした。
ただ、全ての根底にあるのは個人の判断と選択だ。
そして自分の判断に責任を負うこと。
来年度からは、内容と言葉を新たなものとして行きたい。
今はまだどうなるか分からないけれど。

明日と明後日、締めくくりに相応しい場にしていきたい。
撮影も入ります。

僕達の仕事は細かな積み重ねも重要だ。
目から鱗という体験が何度も起きる。
その度に身体も心も変わるし、動きや佇まいも変化する。
ちょっと抜けて、見晴らしが良くなったり、また分からなくなったり。

最近も新しい発見があって、現場においてちょっとだけ変わった部分がある。

ヒントはそこら中に転がっているのだな、と実感する。

つくづく思うのは、たくさんの場面でしっかり韻を踏んできたり、
見ること、感じることを怠らないで来たことが、活かされて行くということだ。
場においてもだけれど、人生のすべてがそうだと思う。
あの頃、落語をいっぱい聞いてて良かったとか、
音楽にしても映画にしても味にしても、
これは、と思ったものは自分の中に入れておくべきだと思う。
たくさんの場面がその後に活きて来て、さまざまなところで助けてくれたり、
教えてくれたり、新たな場所に連れて行ってくれる。
自分とは別のところで人生や場も生命をもって生きているのだから。

僕にとっては、場の中でこれまで経験して来たこと全てが、
活き活きと動き出す瞬間が何より楽しい。

一つ一つの場面に命が吹き込まれる。
そして、突如として場が輝きだす。どんな細部までも。

作家が居てスタッフが居て、みんながいて、
絵を描いているという、そういうことなのではなく、
もっと言うに言えない必然性が場全体を貫いていて、
自然のリズムだけが目の前にある。

それだけが確かなものだと感じられる時間。

あと2日だけど、みんなと良い場に入ろう。
そして来年も。

2014年12月21日日曜日

幸せな時間

1、3週の土、日曜日クラスは今年最後の制作を終えました。
場、作品ともに素敵なものになりました。

場に立つことで気がつくこと、感じることがある。
そこでしか動かない感覚や知覚と言うものがある。

いつでも場に教えられる。

日曜日クラスは今年も保護者の方々が企画して下さって、
みんなでケーキを食べた。
今年も色んなことがあったけれど、
こうしてみんなが笑っていられることがなにより。
今日は欠席もなく、みんなで過ごすことが出来た。
ゆうり君の「早いねー」が印象的だった。

時が過ぎるのは本当に早い。

プレも今週でおしまい。

そして、2、4週の土日のクラスも。
来年と言ってもまたすぐだけど区切りは大切。

今度の土、日もしっかり頑張ろう。

みんなが居てくれたことがどれほど素晴らしかったか。
特に制作の場の中で掛け替えのない時間が流れた。

一人一人へのありがとうの気持ちは、場にこめて行きたい。

2014年12月19日金曜日

年末

寒い日が続きますね。
水曜日は女子美術大学で学生さん達にお話させていただきました。
みなさんが熱心に聞いてくれたので深い内容までお話し出来ました。

相手あってのお話でいつも同じようにはいかないな、と感じています。

外でお話ししていて一般の方が聞きに来られない環境も多いので、
今度一度、主な内容を書きたいと思います。

今年の教室日もあと数回となってしまいました。
いつも本当に心苦しいのですが、年内のご見学はおしまいにさせて頂きます。
お待ち頂いているみなさま、申し訳御座いませんが来年度でお願い致します。

各クラス今年最後となりますので、作家達の制作環境を優先させて頂きます。

色んなことがあった一年でしたが、自分自身の反省点が頭を離れません。

出来ることは良い場を生むための努力のみです。
心を込めて、一つ一つの場に挑みたいと思います。

場は一生を通じて何かは出来ると思うし、深められると思っている。
ただ、感度は落ちて行くし、瞬発力も落ちる。
全く個人の中で始まり終わる場であった時期、
人と人の密な関わりだけがあった時期、
エンターテイメントとしての場であった時期、
そして最後に完成形として作品としての場を目指して来た時期。
それぞれの時期が終わろうとしている。

その時、その時の最善の形を目指せば良い。

気持ちも弱くなるときがある。
それも肯定しようと思う。
支えてくれた人達、仲間達の存在に感謝出来るから。

自分一人では何も出来ないという当たり前なことを、
ついつい忘れてしまっていた時期もあったと思う。

さて、またゆっくり書きたいと思います。
まずは土、日曜日のアトリエが良い場となるように頑張ります。

2014年12月16日火曜日

帰って来ました。

久しぶりのブログ更新です。
皆様もお忙しい時期かと存じます。

一ヶ月も東京のアトリエを留守にしていたので、
その間に色んなことがあったし、書くこともいっぱいある。

なるべく短く書きます。

三重での充実した日々。
広い海や、これからの気まぐれ商店のこと。
少しづつ動きだし、形になってきている。

アースデーというイベントでダウン症の人達のこと、
作品の力や文化についてお話しさせて頂いた。
続きのような形でカフェのブーゲンビリアでもお話した。
内容はまた改めてこのページにでも書こうと思います。

三重では日が射して明るい日が多くて、ずっと光に包まれている感じだった。

お正月に帰ることが出来ないので、金沢の実家にもよって来た。
三重から金沢へ向かうと光から陰へ、表から裏へ行くようだった。

金沢は相変わらずで、どんよりと曇っていて、雨か雪が続く。
見上げる空はいつでも霞んでいる。
冬でも湿度が高いので乾燥とは無縁だ。
雪を見ながら思った。
北陸はずっと嫌いだったけれど、この厳しさが僕達を強くしたのだと。

金沢ではいつでも居場所がなくて、行くところも最近はほとんどない。
かつてあったものも無くなっている。
唯一尊敬出来る珈琲屋があって、久しぶりにマスターと会えて嬉しかった。
たった一杯の珈琲がこんなに多くを与えてくれる。

帰りはバスだったので新潟の雪景色をずっと見ていた。
金沢より更に更に積もる雪。
ただただ真っ白な景色。
全てが洗い流されて行く。
そこへ生きる人達の素朴さや忍耐強さを思う。
そしてやっぱり美しいと思う。

厳しさと豊かさは同時にあるのかも知れない。

アトリエへ帰って来て、この一ヶ月で産まれた作品を見た。
少し安心した。基本は大丈夫だろう。
イサには勿論もっともっと上を目指してもらうけど。

プレのみんなは元気で本当にあたたかく繋がっている。
明日はハルコの誕生日だけど、
イサがテル君も居るから今日お祝いしたいと言って来た。
それで豪徳寺まで歩いてケーキ屋さんでシュークリームを買って来た。
みんなでハッピーバースデーを歌った。

これからの僕は現場においてはサポート役に回るだろう。
一番先頭から見える景色は特別なものだ。
責任は大きいけれど与えられるものは計り知れない。
そこに立てる人間はたった一人だ。
だから僕はいつまでもそこにはいたくない。
次の人の場所が無くなるから。
行けるところまでは行ったし、見るべきものは見て来た。
ここから先に出来ることは、正確な場を守ることと、次に繋ぐことだ。

さて、明日は女子美術大学で特別講義という形でお話させて頂きます。
若い人達に伝えて行くことも繋げる大切な仕事だと思っている。


2014年11月10日月曜日

怖い話?

三重へ行ってきます。
ブログはしばらくお休みさせていただきます。

この2日間、とてもとても深く良い場が生まれた。
作品ももちろん素晴らしいものがたくさん。

この時期は身体面、精神面ともに不調の人が多い。
それでも制作の場に入れば出来ることはいっぱいあるし、
むしろ深い集中に繋がることも多い。

場と言うのは誰のものでもない、文字通りみんなものもの。
中心に立つ人間はみんなの夢を背負わなければならない。

しばらくイサに託して行くので、
一緒に出来る期間には本気の場をいっぱい見てもらいたいと思ってやってきた。
特に今知ってもらいたかったのは、正確な時を刻むということだ。
単純に言えば、手抜きしないということかも知れない。
確実に点を打つこと、どんな難しい場面でも出来ることを正確に実行すること。
その上でどっしり構えて終わりまで見守ること。
打った点が芯まで届いているのか、見極めること。

ぶれない揺れない、こころの構えを大切にということだ。

季節は変化し、心も身体もその影響化にある。
条件はしっかり見ておく必要がある。
全てには良い面も悪い面もあるのだから。

日曜日の午後のクラスで半年に一度くらいだろうか。
怖い話大会がある。
司会はさとちゃんのときとしんじくんの時がある。
これ、話してるうちにみんな深いところに入って来て、
怖いかどうか、と言うよりは、
何かしら不思議な気になる記憶やこころに関わる話になって行く。
面白いことに、ここで思い出すことや、初めて理解することが沢山ある。
不思議な記憶の数々は普段こころの奥深くにあって、
意識のレベルにはのぼってはこない。

順番に離しているのだけど、途中からは司会者が決めた人の話が多くなる。
今日はしんじ君が終わらなくなって、というか終われなくなって、
僕に何度もふってきたので話すことが多かった。
お陰で色んなことに気がついた。
不思議で面白い体験だった。

小学校の頃、転校することが決まった男の子がいて、
10人くらいのメンバーで彼の新しい家に行くというイベントをひらいた。
かなり遠い場所だったはずだけど、みんな自転車で出発。
僕はそのころ、自転車がなくて友達の兄弟のを借りて行った。
出発前に友達のおばあちゃんから不思議な話を聞かされて、
それだけでも別の話が出来るくらい。
その時間からちょっと不思議な感じがあったのかも知れない。
一緒に集合場所に行った友達と話していた情景が一番鮮明に記憶にある。
それは新しい味のガムが発売していて、
そのガムが美味しいのだけど、柔らか過ぎてつい飲み込んでしまう、というもの。
僕も飲んでしまったと思う。
あれ、なんでなんだろう、
と話しながら当時の金沢としては珍しい雲のない青空の下を走った。
犀川の川沿い。汚れたガード下、砂利道。
途中でグループがいくつかに分かれて、人が減って行く。
それからが変なのだ。
行く途中までの道は覚えているのに、はたして目的地に着いたのかとか、
どうやってそのあと帰って来たのか、全く記憶が途切れてしまっている。
ぽっかり穴が空いてしまったように。
そして転校することになった友達は一体どこへ行ってしまったのか。
しばらく経って、一緒に行ったメンバー数人とは話したと思う。
誰一人、記憶がない。
一体あの一日の旅は何だったのか。
何度か思い出そうと試みてみたことがあった。
でも、記憶は全て断片的で、その一つ一つの場面は鮮明に覚えているのに、
記憶に連続性がない。
何よりもある瞬間からの記憶が全く抜け落ちてしまっている。

こういう話をいくつか思い出していると、
命とか記憶とか人生と言うものはそもそも分からないもので、
あの子供の頃のぽっかり空いた穴のような場面が所々にあると思う。

しかもそこに大切な何かがあったり、本質的な何かがあるような気がする。

僕達はずっとずっと旅をしている。
もっと見てみたいしもっと知りたいと思っている。
でも、分からないことだらけで、どこへ向かっているのかも分からない。
一つだけ言えるのはここで分かち合える仲間と出会えていることで、
この時間がどれほど掛け替えのないものなのか、ということ。
今、こうしてここにいられることが嬉しいし、
一緒に居てくれる人達が楽しんで欲しいと思う。

いつでも未知の世界が目の前に広がっている。
いつでも無限が僕達に立ちはだかる。
もう少し進んでみたいと思う。
ちょっと怖いけど、ちょっと不思議な感じがするけど、
行ってみようかな、と思う。

ここでみんなと話していると、僕も、私もこんなことがあった、
あるいはこんなことを想像した、と確認し合っている。
みんなで一緒に絵に向き合っているという場だからこそ、
おきることなのではないだろうか。

2014年11月8日土曜日

大切な時間

三重へ行く前なので東京の諸々の用事を終わらせています。
このブログもしばらくお休みさせて頂きます。
書けば書くことも出来るのですが、
少し時間を置いて内容を深めた方が良いと思って、
東京にいる間だけという形にしています。

急きょ、最近の作品を少し出しておかなければいけなくなって、
たくさん見ていたのだけど、2時間くらい集中していただけで足や腰が痛い。
立ちっぱなしが疲れるみたいだ。
今まではどうってことなかったのだけど。

この土、日はしっかりと挑んで行きたい。
これまでは責任感の方がどちらかと言うと強かったけど、
ここ最近は場に立てる幸せを感じている。
有り難いことだなあ、と。
思えば本当に僕にはこれしか無いのだし。
それを必要としてくれる人がいることは、
自分が存在していて良いと言われていることでもある。

感謝と同時にしっかりやって行かなければ、という思いだ。

ずっと聴き続けているピグミーの人達の音楽が頭を、身体を駆け巡っている。
途方にくれるくらいに素晴らしい。
全身の細胞が目覚めだし、活動しだし、喜んでいる。

こころも身体もあの世界を知っている。どこか記憶に響くものがある。

歌はどこから始まるのか、何人かが同時に、あるいは誰か一人が、
その声に重ねて他の人が歌う。更にまた別の声が加わる。
何層にも何層にも。
それぞれの声があちこちから重なって行く。
無限に折り重なった声が、空間を揺らし場が立ち上がる。
奥行き立体感、そしてここであり彼方であるという独自の空間の感覚。
今この瞬間であり、遥か昔であると言う独自の時間感覚。
途轍もなく遠くからであり、この場の生々しさでもあるという独自の距離感。
場は歪みうねり、動き出す。
海のようでも森のようでもあり、そのどちらでもある。
騒々しいがまたどこまでも静けさが漂っている。

一人一人は自分のいるべき場所を把握している。
声を聴き、全体を認識し、自分のいるべき場所を見つける。
呼びかけに答える。
それぞれが投げかけ、投げ返す。
場はもう一つの身体でもある。
一人一人は場と言う身体の細胞の一つだ。

僕達も日々、場に入る時、このようにお互いの声を聴き、お互いの声を活かす。
奥行きが生まれ、全体が生まれる。
やがて無限が顔をだす。
僕達は包まれ、どこまでも安らかになる。
その時、僕達は一人一人の個人ではなく、場の一部として、
場が自分を活かしてくれる。
そこでそれぞれが一番深く繋がることが出来る。
だから、場を離れても僕達は他人ではなくなる。

感じ合うこと。響き合うことこそが愛情の本当の表現だと思っている。
それは一緒に音楽を奏でるようなもの。
ピグミーの人達の音楽はそれを最も理想の形で示している。

一種類の音ではなくて、たくさんの音があればあるほど、
重なったときの気持ち良さは高まって行く。

僕達の普段の場でも出来るだけ多くのことを認識していることが大切だ。
しっかり見ていること。しっかり聴いていること。
しっかり感じていること。
すべては今この瞬間にしかないのだから。
どんなものでも大切にしなければならない。

今年も制作の場はあと数回しかない。
大切にしていきたい。

2014年11月6日木曜日

ポリフォニー

曇り。静かに雨が降ったり止んだり。
しばらく東京を空けるので、道具の注文とか早めの払込を済ませた。
物価が上がっていますね。
イサも良い感じだし、今度は少し安心して行って来ることが出来る。

もうすぐ、悠太に会える。あれから2ヶ月近くも経ってしまった。
毎日写真を見ながら暮らして来た。

前回、タルコフスキーのことを書いた。
制作に向かうという僕達の日々や、作家達の示している根源的な創造性を、
見て行った時、美や芸術を真っ正面から捉えざるをえない。

ここでも何度も書いて来たが、
生命にとって必要がないものが長く残ることはないと考える。
美や芸術だって食物と同じくらい必要な何かなのだと思う。
生命に直結しないものは、はっきり言ってしまえば無用なものだ。

そこで快、不快で判断するのが正しいということも書いて来た。
不快は生命を害するものであり、快は生命を活かすものだと。

美は人に快を与えるものであるはずだ。

では何故、美や芸術といったものが生命にとって必要なのか。
僕は思うが、人間とは絶えず感覚や知覚を広げなければならない存在だ。
何故かと言うなら、人間は自ら限界をつくり、偏った世界の中で、
感覚も知覚も閉じてしまう性質があるからだ。
ほっておくと、見えなくなるし聴こえなくなる。
本来はもっと多様で豊かであるはずの世界を狭めてしまう。
だからこそ、感覚を開くことや、知覚を広げることが日々必要となる。
それは食べることで生命が維持されるのと同じ位に重要なことだ。

人は感動したがるが、何故感動する必要があるのか。
それは今言ったような理由で感動で心を動かさないと、閉じた知覚は固まってしまう。

美や芸術が知覚を変える力や、感覚を目覚めさせる力がなければ、
それは本来の価値から程遠いものだと言える。
いや、もしかすると芸術だけではなく、科学や学問だって同じことかも知れない。

キュービズムとは何だったのか、相対性理論とは何だったのか、
時代と共に新しい概念が沢山生まれて来るのは何なのか。
それらは条件反射のように固まってしまった感覚や知覚を変えて、
本来の世界の多様さ豊かさをかいまみせようとして生まれたものだ。

新しいものに出会ってみたいと思い、
新しいものが生まれた瞬間に心が動くのはこのためだ。

前置きが長くなってしまった。
今日はポリフォニーのことを書きたい。
と言ってもポリフォニーは西洋音楽の概念であって、
僕がイメージしているのはもっと複雑でもっと原始的なポリフォニーのこと。

西洋音楽でいうところのポリフォニーとは多声音楽、
つまりはいくつもの違った線がそれぞれの声の流れに向かいながら、
重なって行くというようなものだ。
特徴的なのは主役となるラインが存在していないことで、
それぞれがみんなバラバラに動いているようで重なって来るということだ。

これまでもここで書いて来たことだが、様々な表現において、
多様なものが同時に動いている、という次元が扱われることが多い。
それが一つの究極の形なのかも知れない。

僕が時々書いて来た、沢山の時間を同時に生きるということも、
あるいは様々な経験が降り積もってその場で動き出すということも、
バラバラなものが同時に動き出すということも、ポリフォニーのようなものだ。

西洋音楽においてはフーガとか対立法とか、
たくさんの場面でポリフォニーが出て来る。
ルネッサンスやバッハは代表的な例だろう。
ただ、そこで言われる多声音楽、ポリフォニーというのは、
いかに複雑に見えても計算されたものであり、書き記すことが出来るものだ。

もっともっと複雑で即興性の高いものが存在している。
例えばピグミーの音楽。
これが頭にあったので最初にポリフォニーという言葉で言って良いのか迷った訳だ。
ピグミーの音楽は西洋のポリフォニーより遥かに多様性に満ちている。
ある意味でポリフォニーの原型と言えるかも知れない。

ここ数日、寝る時にはピグミーの音楽を必ず聴いている。
集中して聴き続けて来たので、今もずっと頭の中で鳴り続けている。
久しぶりに音楽に夢中になっている。

初めてピグミーの音楽のCDを聴いたのはもう10年近くも前だろう。
面白いと思ったし、奇麗だと思った。そして、時々聴いたりもしていた。
でも、本当の意味での出会いはまだだったのだろう。
音楽は良いなくらいのもので僕の前を通り過ぎていた。
お陰でずいぶん遠回りしてしまった。
もっと早く気づくべきだった。

これほど「場」に近いというよりは、「場」そのものな音楽は他に無い。

ほとんど無限に近い彼らの声の重なりを聴いていると、
途方も無い気分だ。まるで自分が誰だか分からなくなる。
全てが細部まで活き活きしていて、同時に鳴り響き、響き合う。
多様さ複雑さが多いほど全体の境界が存在しなくなる。
本当に場そのものだ。

これはあらゆる音楽の究極でもあるし、芸術ばかりでなく、
コミニケーションや、人間の在り方の究極でもあるとおもう。

やっぱりか、でもあり、なーんだ、でもあるのだけど、
努力して人が積み上げて来たものなんか、いったい何なんだろうと思わされる。

だって彼らはすべて持っているのだから。

ピグミーの音楽を聴いていると、人間がどんな存在なのか分かるし、
もっと言えばどうあるべきなのか、とかこの世界や宇宙の本当の姿が見える。
彼らは歌うことでそれを日々確認して響き合っているのだろう。

そして、何よりも素晴らしいのは、ここには特別な存在がいないことだ。
歌っている人達はみんな平等だし、プロもいない。
特別な努力だとか、特別な才能というものが必要だというのは、
僕達の世界の思い込みなのだと分からせてくれる。

そうかあ、やっぱりそうなのかあ、と感動する。

こんなに豊かで、全部持っている人達が生きている。
何かを創ったと思ったり、どこかまで行けたと思うのは錯覚なのだなと思う。

ある意味で最初から全部あるのだと、彼らの存在と音楽が教えてくれる。

たくさんの声が混ざり合っているのを聴いていると、
森が歌っているようでもあるし、宇宙の声だとも思う。

どこか、遠い場所に連れられて行くようで、
元の場所に帰って来たような懐かしさもある。

僕達が場に入る訳も教えられた気がする。
彼らが歌い、響き合い、世界と同化して行くのと同じように、
僕達も日々、場に入り、そこで喜び合う。
それが人として産まれて生きることの意味なのだと思う。

2014年11月5日水曜日

タルコフスキー

次の土日のアトリエが終わったらまた三重へ行って来ます。
今回も少し長くなりますが宜しくお願いします。

ご見学のご希望について、出来るだけ対応させて頂きましたが、
どうしてもお待ち頂いているままになっている皆さん、
本当に申し訳ない気持ちですが、年内の対応が難しいかも知れません。
12月の後半に佐久間が帰って来てから、少しでも調整させて頂くつもりですが。

12月は年末は居なければならないので、
1週、2週は関川君ゆきこさんで、3週、4週が佐久間となります。

さて、今週は人に会うことが多かった。
場に関してはその時間以外はすっかり別人になってしまうのが僕。
場を離れたらもう何もかも忘れてしまって、
また場に入ったら繋がりきる、という日々を送って来た。
そして、そうあるべきだと思って来た。
でも、最近はまたちょっと違っている。
場を離れても気持ちは場に残ったままのことがある。
深く入ったまま、抜け殻のようにぼーっとしてしまうこともある。

ちょっとそういうのがあっても良いかなとも思っている。
日常生活にはそんなに支障もないし。

僕の言う場は特殊なものなのだけど、ずっと付き合って来て、
やっぱり普遍的な部分があったり、
どんな人にとっても根源的なことなのではないかと思う。

場に入っているの時の感じは説明出来ないけれど、
タルコフスキー監督の映画の世界とにていると言ってみてもいい。
だから僕にとってタルコフスキーは単に好きな映画監督ではなくて、
特別な存在だ。
感謝さえしている。

タルコフスキーの映画を見てもらえれば、場の感覚がイメージ出来ると思う。

タルコフスキーは難解だと言われているが、誤解だと思う。
むしろシンプルすぎて人がつい深読みしてしまうのだと思う。
全て何かの例えや暗示ではなくて、直接的なイメージだと捉えると、
とても分かりやすい世界ですらある。
心の奥で映る世界がそのまま描かれているだけだと僕には思える。

その中でも最も正面から本質に迫ったのは「ストーカー」だろう。
その「ストーカー」が恐らく最も人気がない。

この映画は更に僕にとってはあまりにも場や自分の人生と重なる。
単純に言ってしまえば、ゾーンという場所に人を連れて行く案内人がストーカー。
ゾーンは謎で危険視もされていて立ち入り禁止になっていて、
入ると法律で裁かれたりもする。
ゾーンを心の奥にある場所と言ってしまえば、これはそのままの話だ。
心の奥の場所は危険でもあるし、ある意味で国家や制度で禁じられてもいる。
もっと言えば自分自身でも禁じていたりする。
案内人はそこへ人を連れて行く。

あまりにシンプルな話だ。

映画に感動しても、感情移入しても、そこに自分を見ることはないが、
「ストーカー」だけは別で、自分を見ているみたいな気になってしまう。

それはともかくとしても、移動しながらゾーンに入って行く場面が本当に凄い。
圧倒的だし美しいし、途轍もなく深い。
映像の素晴らしさはタルコフスキーの全作品に共通している。

こういう作品が最近レンタルビデオの店になかったりする。
とんでもない。
そういえば「かくも長き不在」という素晴らしい映画も、
どこへ行っても見られなくなっている。
やっぱりこういうのは何とかした方が良いだろう。
本でも音楽でも同じことが起きている。

「ストーカー」は僕にとって、
フェリーニの「甘い生活」、小津安二郎の「晩春」、
ビスコンティの「山猫」と並んで最も好きな映画だ。
この中で一番は選べないけど。

2014年11月3日月曜日

一期一会

寒くなりましたね。

制作の時間は本当に充実。

仕上がった作品にはまだそんなに変化は出ないけど、
制作のプロセスはかなり変わって来た。
季節の変化はとても重要だ。
変わり目は特にエネルギーと注意力が必要。
気が抜けない。

イサにもここの場面をしっかり覚えてもらおうと思っている。

かれも以前と比べ仕事をしっかりおぼえて来たが、
更に筋金入りにならなければならない。

その時、その場が上手く行く場はクリアしたとしましょう。
次の段階はずっと先までもつ現場を。
一つ一つを怠りなく積み重ねていなければ、月日に耐える場にはならない。

勘やセンスだけの場は時間とともに失われて行く。
(勿論、勘やセンスはかなり大切なものなのだけど)

後でしまったと思わないために、
気がついた時には何故か枯れていたなんてことにならないために、
しっかりと基礎を固めて、日々の努力を積み重ねる。

僕自身も場に立ち続ける意味を噛み締めている。
場に立てるということが本当に有り難い。

思えば場が大切なことをみんな教えてくれたのだし、
場なくしては何も無かったとさえ思う。

世界は一つではないこと。別の知覚を得ることは可能だということ。
身体や心を変えることの可能性。
認識を分けて使うこと。
身体や心をバラバラにしたり分散させたりして、
さらにそれらを同時に動かすやり方。
たくさんの見方や感じ方。
教えられたことは本当に多い。

場に入らなければ分からないこと、見えないことが沢山あった。

場が無ければ、今の理解も経験も無かっただろう。

場の中で感じていることは無限なので、言葉で説明することは出来ない。

ただただ、濃い時間が流れて、いくつもの人生を生きているような感覚だ。

そこで流れた時間や行った場所や、それぞれの心と人生が、
もう一人の自分、というよりは無数の自分のようになっている。

僕達は無限の中にいるのだと実感する。

もう11月。
今年も残りわずかだ。
毎度言うことだけど、良い場にしたい。
たくさんの笑顔と美しい作品が生まれる場を。
場の中でまた作家達と生きたい。
一期一会ということを強く実感する。

2014年10月31日金曜日

命の輝き

ここ数日、何度か燃えるような夕焼けに遭遇した。
と、書いてみてそうか、そもそも夕焼けって夕が焼けると書くのか、と気がつく。

最近、言葉が安くなったと思う。
思ったことを何でも書くという人も多い。

そんな中でどんな言葉を紡いで行ったら良いのか、と考えさせられる。

社会情勢を見ていても、いや、つまり今というこの場面を見ていて、
本当に今言わなければいけないこと、
書かなければならないことはもっと別のことなのだという思いがある。

ただ、僕にはそれを発信するだけの力はない。

だからこそ、自分の仕事の中で答えて行かなければ、という思いが強い。

ここ1、2年、断続的に制作の場に撮影が入っている。
先日、監督からこれまでのサンプルを少し見せて頂いた。

映像に対して否定的な見解を持って来た僕だけど、
そこには確実に何かが映っているような気がした。
一言で言えば可能性を感じた。

東京都美術館でのあの素晴らしい展示にしても、
学芸員の中原さんとの対話だったと思っている。

僕達は仕事を通して対話する。
それぞれが形で示して来る。そこにこちらも形で返す。
それが相手への敬意の示し方の唯一の方法だと思っている。

何度も書くが制作の場において、インチキは通用しない。
全て形となって現れるものだ。
作家達は必ず形で示して来る。
これに形で答えて行かなければ、すぐになんだ、つまらないな、でおしまいだ。

今の社会の中でどのように、振る舞うべきか、それは突きつけられた問いでもある。

作家達と付き合っていて、作品だけではなく、凄いもの出して来たなあ、
ということが沢山ある。
真っ正面から受けて、それをどうするのか。
そこが大切だ。

場に立っていて、これまで以上に自分の人生を感じることが増えて来た。

ただ見ていただけで感動したと言ってくれる人がいる。
作家達の姿にもスタッフの姿にも、見た人の心を打つものがある。
また、場とはそういうものでなければいけないと思っている。

絵でも、映画でも音楽でも、本でも、何でもいいから、
圧倒的なものに触れる経験を積んで行く。
その経験が僕達を助けてくれる。

美しいものというのははかり知れないものだ。
ちょっと良い、何となく心地良いといった程度のものではない。
これ以外にあり得ない、これしかないと感じるような圧倒的な世界。
そういうものにこそ出会う努力をしていくこと。

これまでの経験が全部吹っ飛んでしまって、
ああ、この今のためにだけ全てはあったのだ、と思えるような。
もっと言えば危ないことかも知れないが、
これ以外の全てはとるに足らないどうでも良いことなのだとさえ思えるような。
そんな瞬間を経験すること。

だから、そこまで行かないような、絵や映画や音楽をあるいは文章を、
どれだけの数を集めてもくだらないおままごとにすぎない。

こんなことを書いているのも、
久しぶりにCDでサンソンフランソワのピアノを聴いていて、
その影響があるかも知れない。
フランソワもタイプとしてはあんまり好きではなかった。
最近また惹かれるようになって来て不思議だ。

フランソワの演奏を一言で言えば、豊穣さであり過剰さであると思う。
ある意味でやり過ぎ。
でもそこにこそ惹かれている。
思えば制御が行き届き過ぎて、小さく小さく生きている現代の人間。
あまりにチープでちゃちな表現と生き方だらけ。
こんな時だからフランソワに魅力を感じるのかも知れない。

あれだけのテクニックがあれば、しっかりコントロールして、
練習もして構成もちゃんとつくれば、
誰しもが認める非のうちどころのない演奏が出来ただろう。
でもそこじゃないというところがフランソワの素晴らしさだろう。

壊れても崩れても、一瞬輝く何かの方がよっぽど大切だという感性。
立川談志だって、恐ろしい位、落語が上手い。
でも上手さを超えた何か言うに言えない世界を表現出来てこそ、
という思いがあの芸をつくっていた。

フランソワは破滅型の天才の典型的な例だったから、
破綻した生活が若死にの原因になったのは間違いないだろう。
それでも才能に溺れて甘えている芸術家とは一線を画している。
どこが違うか。圧倒的な何かを形に出来ているかどうかだろう。
あの演奏の前では破綻もなにもない。
悲劇とか不幸とか、そういうものを無化してしまう輝きがある。
あの音楽の前で幸福とか不幸とか、早死にとか長生きとか、
そんな価値観が通用しようがない。

一瞬の美の前にすべてを犠牲にしたとも言えるが、
その美はあまりにも圧倒的なものだった。

この前では他のものは無価値に見える、というだけの何か。
過剰と言ったのはそういうことで、談志の落語にもそういう瞬間があった。

好きな映画の話をするとその人がどんな人か分かってくる。
例えばフェリーニの作品で何が一番好きか、
「道」なのか「8 1/2」なのか。
僕なら迷わず「甘い生活」を選ぶだろう。
フランソワのように豊穣さ過剰さに溢れた作品。
多分古びることはないだろう。
虚しさ痛ましさ、儚さ切なさ、救いようのなさ、それ故にひときわ輝く瞬間。
風景、リズムとテンポ、疾走感、目がくらむほどの美しさ。

この瞬間のためにこそ全てがあったかのような、輝く時。

確かに普通に生きて行くためには、
様々なことでセーブをかけて行くしかないだろう。

でも、時には、この世界はもっともっと凄いものだということを思い出したい。

僕自身はどんな世の中になろうとも、
場に立つ以上はどこまでも輝く瞬間と、
どこまでも深く進む覚悟を持ち続けたい。

2014年10月28日火曜日

夕焼けと木枯らし

今日は少し冷えるようだ。

よしこが送ってくれたゆうたの保育園での写真。
外での笑顔はまた違ってかわいい。

昨日の夕方、輝くような強いオレンジの光が遠くから見えていた。
沈んで行く太陽は大きかった。

いつでも全力で取り組んで来た。

日曜日、疲れもあったのかも知れないが、うっかり忘れていた。
以前働いていたところの仲間達が東京に来ていて、
行く予定をしていたのだが、行かなかった。

行きたかったなあ。
みんなに会いたかったなあ、と思う反面、
もういいんじゃないか、という気持ちもある。
忘れてしまったというのも、僕が無意識に選択したのではないか、と。

あんまり厳しい姿勢をとると孤立して行く。
また嫌なことを言うと思う人もいるかも知れない。

もし行っていたら、またスッキリしない気持ちで帰って来ただろう。
一緒にやって来たからこそ、共感出来ないことはある。

前に進む気持ちがないのなら仕方がない。
誰も人を強制することは出来ないし、してはならない。

夜、テレビを見た。
たまに書いているから番組名も良いだろう。
NHKのプロフェッショナルという番組。
歯科医師の方だった。
とても素晴らしいお仕事をされていた。
こういうのを見ると励みになる。

他の歯科医師達を教えている場面があって、考えさせられた。
患者さんとの関係もそうだ。

信念を持ってブレてはならない、ということが現状ではなかなか難しい。
教えられて自分の仕事で患者さんに向き合ったとき、
すべきことを貫けないという例も紹介されていた。
歯医者は虫歯になった時に、
痛みをとってもらう場所という認識が一般的だからだ。
たいして、この方は患者さんに正しい知識を伝え、
どのように生きて行く中で、歯を保って行くか、という視点に立ち続ける。

虫歯を治してもまたすぐになる、また治すという現状に異議をとなえる。

予防にも徹底して力を入れている。
当たり前のことかも知れないが、
こういうシンプルなことが様々な場所で実践されていない。

本当にみんなのためを考えた時には、
今すぐに望まれたり期待されたりする方向と違う選択をとらざるを得ないことが多い。
人がすぐに喜ぶこととは単純に今の痛みをとってもらうことだから。

全体の文脈を正しく把握したとき、最善の選択は、
一見遠回りで手間もかかって敬遠されていることをしっかりやって行くことにある。

遠回りに見えることが一番近道かも知れない。
コストがかかることが、長い目で見ると一番低コストかも知れない。
手間暇かかることが最終的には一番無駄のないことかも知れない。

今の世の中の常識では、みんなのためとか、誰々のためといった選択が、
合理的で分かりやすいことにしか目がいかない。
安いけどすぐに壊れるものを買い続けて、結局高くついた、という話といにている。

考えぬいて、信念を持って、ブレずに、伝える努力もしっかりして行く。
その覚悟が必要だ。

予告で見たのだが、来週は更に必見。

夜は木枯らしが吹いた。

さて、良い仕事をしていきたい。

2014年10月27日月曜日

最近のこと2

良い天気ですね。

精神面、身体面で調子を崩している人も多い時期です。
ちょっとでも心地良い時間を過ごしてもらえる場でありたいです。

色んな波があって、良いことも悪いこともあります。
それが生きているということだから。

よしことキクちゃんを中心に「エレマンの気まぐれ商店」が始まっています。
HPも日々更新されていますので、是非是非ご覧下さい。

ここ数日も場に立っていて、素晴らしい時間が流れ続けた。
作品も凄いのばかりで。

流れは日に日に自然になって行く。

場に入るために努力を重ねて来たこともあった。

今は場が自分をどこかへ連れて行ってくれている実感がある。

場の流れのに従っている時だけが本当の時間だと思える。

これからは磨きをかけていく段階に入るだろう。

そして、今の僕はここで出来ることをイサに見せて行くことを重視している。
出来るだけたくさん、見ておいて欲しいと思っている。

場において全体を見極める中心にいる人間は一人でなければならない。
その役割はいずれはイサになって行くだろう。
勿論、他の人材も同時に育って行かなければならない。

急ぐことは危険だけど、これも少しづつ移行して行く。

季節は変わって行く。
いつでも大切に生きて行こう。

2014年10月24日金曜日

最近のこと

この5日間くらいで書くことも溜まってしまったけど、
これからは落ち着いたペースで行きたい。

今日は日中ちょっと暖かかったが、ここ数日ですっかり寒くなった。

秋もすぐに終わって冬が来るのだろう。

制作の場にかなり集中した日々が続いていた。
数点、はっとすると言うか、もっと言うなら驚くような凄い作品が生まれた。
それもまたこれまでにない感じのものだ。
本当に終わりというものがない。

場にもやはり正確な場というものがあって、
ちゃんと韻を踏んで行かなければ良い形にはならない。
偶然は時間が消し去って行く。
正しい場所に立っているのか、いつでも確認する必要がある。

現場以外の場面ではなんだかちょっとぼーっとしてしまって、
うっかりが多い。
ああ、あれも忘れてた、これも忘れてた、とか。
気がつくと時間だけが過ぎているのだから、手遅れだ。

気づかないレベルだけど、疲れもあるのかな。

制作の場に深く入っている時は、自分が一つの空間のようになって、
そこを色んなものが通過して行く感覚になる。
そして通過して行く様々なものに対して敏感になる。
流れを方向付けたり限定したりしないように、
ただ通過して行くのに任せて行く。
自然な柔軟さがそこにある。
流れは様々な方向へ動いているが、そこには必ず調和がある。

身体の調子が良い時は身体を意識しないはずだ。
身体を意識しない状態。身体が無くなったような感覚が健康なように、
心も本当に健康な時は心が無くなったように感じるもの。
心も身体も流れなのであってもともと存在していないものだ。

しばらく場への集中が続いて、外を歩いていてもぼーっとしていた。
歩きながら景色を見ていて、ああ、こんな全ては夢なのかも知れないな、
と感じていた。

喜んだり悲しんだり、色んなことをしながら、
時にはむきになって生きているけれど、本当は何もかもが夢みたいなものだと思う。

世界の深く、こころの深く、本当に奥にあるものは夢のように柔らかい。

明日の午前のアトリエは取材も入っている。
良い場でみんなと過ごしたい。

2014年10月19日日曜日

凛とした美しさ

今日も光が奇麗だ。
先週位から始まっていたけれど、作家達の生み出す色彩も、
秋の乾いた日差しのように、濁りのない透明なものになっている。

当たり前だけど、
その作品がこの時期の日差しに照らされている光景は美しい。

制作の場も引き締まっている。

冬まで行くともっと内面に向かう部分が強くなるが、
秋の今くらいの時期はバランスがとても良くて貴重な時間でもある。

もちろん、色んな良さ、色んな美しさ、色んな楽しさがある。

今の僕は凛としたもの、品格を感じさせるもの、清潔で透明な美に惹かれる。
そして作家達の作風はそんな方向へ向かっていて、
一番見てみたいものを見せてもらえて有り難い。

彼らはやっぱり凄いなあ、と思う毎日だ。

2014年10月18日土曜日

今日はどこまで行けるか

朝晩、冷えますね。

さて、土曜日のクラス。

ここから冬にかけて、またまた時の経つスピードが上がって行く気がする。

制作の時間は密度が濃くなって行く時期でもあるので、
良い時間を少しでも増やしたい。

今日は何が見えるだろうか。
どんな景色と出会えるだろうか。

僕達はお互いの表情を確認し、見つめ合う。
お互いの存在を皮膚で感じる。
今日もみんなでここにいる、と。
一人一人が自分の中にみんなとの時を刻む。
場はそこにあって僕達に教えてくれる。

今日も行こう。あの素晴らしい風景を見に。

行く時は一緒。
いつでも。

2014年10月17日金曜日

音楽と環境

少し寒くなってきて、
この部屋でブログを書くのも暖かい服を着た方がよくなる時期か。

おそらく、ここ2年くらいのことだろうか。
制作の時間に音楽をかけておくようになった。
その前はたまにはあったけれど、僕自身はかけないようにしていた。
理由はいろいろあって。

まずは制作環境は全てが何らかの意味を持つということ。
特に視覚や聴覚は制作に影響して来る。(勿論、嗅覚も)
影響=悪な訳ではないが。

さまざまな条件を見極めて一番良い方向を選択して行くので、
感覚的刺激が強いものは避けている。

外を歩けば刺激ばかりなのだから、少しは静かな場所が必要でもある。

まあ、スタッフとして集中して、見逃さないで行けるかどうかが大事なので。

最近は音楽をかけていても、それぞれの要素が活かせるようになってきた。

音楽は方向性をハッキリ持っているので、割と強い。
呼吸の問題もあって、特に歌の場合、息づかいが気になってしまう。
呼吸が合わない。
場の鉄則から言うなら、殆どの歌手は息が浅い。
もっと言えば過呼吸気味。
大好きな手嶌葵も呼吸の観点からだけ見れば、良くない。

場に集中していて自然に息が止まってきている時に、
浅い呼吸を小刻みにされるとタイミングがズレる。

そんなことから、特に歌は避けてきたのだけど、
上手く使えるようであれば、音楽があるということは心地良い。

最近では場に音楽が馴染んでいて、欠かせない要素になりつつある。

個人的にも音楽には随分助けられてきたし救われてきた。
プライベートで言えば音楽がなければ一日が終わらない。

音楽を使うかどうかに繊細だったのも、音楽と言うものが直接性が強いものだからだ。
おそらく心に最もダイレクトに響くのは音楽だろう。
ある意味でもっとも効果があるとも言える。

場において一番気をつけなければならないのは、
芯に入るまでの感覚だ。
一番早いのは何も介在させないで直接入る。
これは最も基本でありもっとも早い。
そして早くて効果の高いものは危険性も強い。
扱い方を間違えると良くない。
薬と同じだ。

じわじわと時間をかけて入って行く分には、力は弱いが悪影響はない。
リスクを考えるとじわじわだけで行くのが安全かも知れない。
でも、それだけではやっぱり難しい。

音楽と一緒で直接的に強く早く芯に届くものでしか進めない部分もある。

音楽は確かに危険性も強い。
政治や運動に利用されることも多い。
絵画や映画を使って人を行動させることは難しいが、音楽の場合は良くある。
それだけ直接人の心を動かしてしまう。
善くも悪くもだ。
音楽と他の表現を比較したとき、その使われ方の違いに気がつくだろう。
政治以外にもそんな例は沢山ある。

芯に届くことは大切だけど、どのくらいの時間をかけるべきか、
どのくらいの直接性を持って進めるかは、
状況を見て適切に判断する必要がある。

ただ早くて効果があれば良いというものではないし、
逆にゆっくり安全に進めばそれで良いというものでもない。
どんな時でもその時に必要なのは何なのか見極めることだ。

もっと違うことを書く予定だったけど、時にはこんな話題もあって良いかも。

2014年10月16日木曜日

深く深く潜ること

今日は良く晴れている。
昨日のブログで不気味という言葉を使ってみたけど、
そんなにどろっとした感じでもなく、
ある意味で奇妙さと言った方が適切かも知れない。
それでも何か足りない感じはするが。

外へ出ると複雑な仕事が色々あって、人間関係にしろそうそう単純ではない。

でも、制作の場に立ったら、すべきことはいつでもシンプルだ。
それはいつまでも変わらない。

どれだけ深く潜ることが出来るのか。
それだけだ。
深く深く潜ること、そこに何かがある。

一度でもその景色を見た人間は、一度でも体験した人間は豊かになる。

生きていることは楽なことではない。
自分のことなんてどうでも良いと思っても、
人がしんどい思いをしなければならないのを、見るのは辛いものだ。
そして、全ての人がそういうものを経験しなければならないのが、
この世界というものらしい。

人に何もしてあげることが出来ない。

本当に本当に色んな思いをして行かなければならない。
誰しもが。

そういう現実を前に、制作の場に立っている。
場に立つ時は裸だ。何も持たない。
一人一人とどこまで行けるか。
外で色んなことを経験しているし、この後も経験して行く。
ここでは内側へ潜ろうとする。
そこにだけ答えがあるということを知っているから。

何故、深く潜る必要があるのか。
例えていうなら、見晴らしの良い場所に行って欲しいからだ。
そこに立って見てみた時に、全てが肯定されるからだ。

人には色んなしがらみがあって、悩んだり苦しんだりする。
表面的な部分、浅い部分にしか触れられないと、
そこにある喜びや悲しみが全てになってしまう。
どうしても視界は狭く限定されている。

全体が見渡せるもっと良い場所があることを、
深く潜る経験によって知ってもらう。
それが本当に大切なことだ。

作家達は僕達より遥かに潜り方が上手だ。
でもいつでも問題なく行ける訳ではない。
人はみな同じ。程度の差があるだけだ。

条件が違うから、深く入ることの困難さも人それぞれ。

大事なのは行こうとすること。
もっと先まで見ようとすること。

僕達はみんなでその場所に立ってきた。
ああ、奇麗だねえ、素晴らしいねえ、と。
隣には一緒に来た人達が居て同じ景色を見ていることが出来る。
ここまで来て良かったね、またこようね。と。
全てが見渡せる、見晴らしの良い場所。全てが輝く場所。
行ったことのある人は、その記憶が自分を助けてくれる。
だからなるべくたくさん行って、記憶を刻んでおく。
まだ行ったことのない人は、一度は連れて行きたいし、一度は見て欲しい。

深く深く潜ること。
いつでもそこに答えはある。

2014年10月15日水曜日

不気味さ

台風が行った後、昨日は良く晴れて暑いくらいだった。
重力が軽くなって空を駆け上って行くような天気で、
ふと安川加寿子のピアノの音が頭をよぎった。

今日は曇り。雨が降ったり止んだり。
そして少し肌寒い。

今日はある感覚について書いてみたい。
それは僕達の仕事とも深く繋がっていることでもあり、
現代という時代とも密接に関わって来る。

「得体が知れない」とか「不気味」というと普通はマイナスのイメージがある。
でも、僕はこのような感覚がとても大切だと思う。

これまで当たり前にしてきたもの、常識や思い込み。
とらわれと言っても良い。
これまで自分が使ってきた枠の中では、
あるいは感覚や知覚では捉えられない次元のものを前にした時、
人はそこに不気味さを感じる。

だとするなら、そういうものにこそ触れて行くべきだ。

何なのか全く分からないのに、それが自分を魅了して離さない。
そんな経験もある。

そして、そういったものに触れて行くことで、何か自分が変わって行く感覚。

芸術と言われている領域にも本来はそのような経験が元にある。

生きていて殆どの時間は、良いか悪いか、幸福か不幸か、
もっと言えば損か得か、そんな世界が大半だ。
そこで何か違うのではないか、世界はもっと別のことを示しているのではないか、
という直感なり、違和感なりが生まれる。

だから人はあえて不可解なもの、得体の知れない不気味なものに近づく。
言い換えれば、新しいものに出会おうとする。

自分にも人にも見たまますぐに分かるような、生き方や仕事は浅い。
かつての価値観が意味を失うような次元、
そこから先に何があるのか全く予想がつかない世界。
そこからが面白い。

最近、僕が聴いている音楽もそういうところがある。
聴いていて惹かれるけれど、それが何なのか全く分からない。
ただこの世界が確実に自分を変えてくれたという自覚はある。

僕の手元に「古道具、その行き先」という展覧会のカタログがある。
ここにのっている物達もまた同じような感覚をもたらす。
確かに美しい。でもその美は得体の知れない何かだ。
それらの物は何も語ってはいない。何も主張してはいない。
何ものでもない何かだ。

それがそれでしかあり得ないような世界。

この前、テレビをつけたらお笑いのコントで一番を決める番組がやっていた。
面白かったし、レベルがあがっている。
でも一番感じたのは、もはや笑わせるという次元を離れてしまっている。
面白い、面白くない、という感覚が遥か先まで行ってしまった。
それは良いことでも悪いことでもなく、
何かを突き進めて行くと必ず、そういうところまで行ってしまう。
日本の笑いというものが歴史的にもここまで進んできて、今の形になったと言える。

何か無意味な世界観であったり、全く取りつく島がないような何かを見せたり。
得体の知れなさ、不気味さ、そしてそこにある未知の気持ち良さ。
ただ大事なのはそこに実在感がなければ芸にならない訳で、
分からないけれど、何かである、それでしか言い表せない何ものかを、
強いリアリティで形に置き換えているものが、様々なジャンルで現れて来る。
笑いも音楽ももうそんなところまで来ている。

この感覚は現代に生きていなければ分からないと思う。
確かにいつの時代もそういった領域に触れているものはあった。
ただ、ここまで身近なところに出て来ることはなかっただろう。

世界は不気味なもので、その得体の知れなさの前で、みんな立ち尽くしている。
どうして良いのか分からないし、ある意味でどうすることも出来ない。
そういう今を様々な表現が示してしまっている。

不可解なものこそ、答えのないものこそ楽しい。
裸になってもう一度、遊びの感覚を取り戻してみよう

危機と可能性は背中合わせだ。
善くも悪くもそんな時代を僕達は生きている。

2014年10月14日火曜日

木漏れ日が心地良い。

今日は平日のクラスがあるので昨日から台風を心配していた。
東京はもうぬけたようでほっとしている。
風はまだあるようだが大丈夫でしょう。

葉っぱから水が垂れていて、乾いた柔らかい日差しがあたって、美しい。

日曜日もとてもとても集中した制作となった。
一人一人の良さが出ていて、やっぱりこの時間は何ものにも代え難い。

確かな、狂いのない現場というものがある。
正確な点をしっかりうっている自覚。

スタッフとして、イサもかなり成長した。

自戒の意味もあって、家族やプライヴェートの話題はあんまり書かない。
毎日、ゆうたの写真を見ていると時間が経ってしまう。
今月はよし子もゆうたも体調が悪くて、次から次へと病気があったが、
大分落ち着いて来た。
この前は電話で
「ぱぱあ、マンボウ温泉行こう。マンボウって可愛いよねえ。マンボウは
噛まんよねえ。マンボウは歯がないもんなあ。マンボウ温泉って気持ちいいよ。」

頑固で一筋縄では行かないところがある子だけど、
本当にやさしくて、いつも見せる気遣いには驚いてしまう。

時々行く定食屋さんがある。
先日、僕の隣に仲の良さそうな親子が向かい合って座った。
お母さんと小学校低学年の男の子。
見つめ合う感じがあたたかい。
お母さんがやさしく話しながら見守っている。
男の子は子供にしてはゆっくりゆっくり食べる。
お母さんを見上げて「痒くなってきた。」と言った。
「これ、駄目かあ。じゃあこっち食べな」
2人は別の会話をしながら、また楽しそうに食べ始めた。
男の子はお母さんに気づかれないように足を掻いている。
お母さんも気づいているけど、他のことを話している。

涙が出そうになってしまった。

「すいません。失礼ですけど、食物アレルギーですか。」
「そうなんです。」
「うちの息子もなので、ちょっと声をかけてしまってごめんなさい。」
「今、おいくつですか」
「もうすぐ3才になります。」
「大きくなったら、普通に食べられるようになりますよ。」

少しだけお話しした。
男の子がとてもやさしそうだったのが印象的だった。

日曜日のアトリエで、誰かが何かを言う度に鳥が「ピーッ」と返してきた。
午後近所の家からピアノの音が聴こえてきた。
はっとした。バッハのイギリス組曲。
そのとき、晴れ渡った景色も制作中の作品もあまりに美しく、
バッハの音楽が芯の部分で聴こえてきた。
こんなに素晴らしい音楽だったのか、と。

夜、家にあるCDで聴いてみたけど、予想通りもう聴こえなかった。
経験は掛け替えのないもの。
一度しかないもの。

それは日々の制作の場でも同じだ。
だから、僕らはそこでの経験を大切にする。

2014年10月12日日曜日

今日もアトリエ

今回も台風が心配。
今日はまだもちそうだけど。

土曜日のアトリエはとても良かった。
とにかく作品が素晴らしい。絶妙な色使い。
昨日の日差しも幻のようで、外の色に応じるように変幻自在だった。
作家達の奥深さを思い知らされる。
シンプルだけどニュアンスは多彩だ。
終わった後、机に並んだ作品達が日差しを受けて輝いていた。
作家達の魂そのものがここにあるようだ。
ずっと傍にいるのに、いつも感動する。命の鼓動を感じる。
深く制作の中に入って行った時の彼らは、次元が違うのだと思う。
僕らは格下。
だからせめて自由に動き回っても揺れなように土台を支える。
居ても居なくてもあんまり変わらない存在になって行きたい。

スタッフとしても高い集中を保てた。
ずっと続けていることだが、
やっぱり日々気をつけていかなければならないことは多い。

特に休み明けや、大きな展示やイベントの後のアトリエ。
外の流れを持ち込んではいけない。
浮かれたり沈んだりが少しでもあれば場が乱れる。

全力でとか、一生懸命とか、大袈裟に言えば命をかけるとか、書くことが多い。
でも、それは注意力とエネルギーを最大に使うということであって、
がむしゃらにやれば良いということではない。
力技はなるべく避けるべきだ。

力は入れ過ぎても抜き過ぎてもいけないものだ。

作家達の溢れ出る創造性と響き合うスピード感には、
やはりクリエイティブなある種のセンスが必要。
それ以上に大切なのは今書いた同じ意識を保ち続ける職人性のようなものだ。

僕達は日常はともかく、一度場に立てば良い時と悪い時があってはならない。

場の中では全てが動いていて、外の状況も様々に変化している。
こころも身体も限界を持っている。どんな変化も起こりうる。
不確定の要素がほとんどなのだから、自分の力でどうこう出来るものではない。
だからこそなのだが、唯一出来ることは、その時の最高を目指す姿勢。
与えられた条件の中から最善を見つけ出し、そこまで行く労を惜しまないこと。

いつでも現在の流れを感じ、行くべき方向へ順応して行く敏感さ。

流れが良くない時でも、良くない中での一番良い場所が必ずある。

さて、今日はどんな場が見られるだろうか。

2014年10月11日土曜日

無限の反復

さて、今日もみんなと良い場を目指して行きます。

最近もアトリエを出る時、「行って来まーす」という作家がいる。
その想いはしっかり受け取っていなければならない。

この仕事をしているからでもあるけど、
ダウン症の人達の世界について語って来た。
ちょっとだけ触れたが自閉症の人達の世界はまた別の型で出来ている。
自閉症の人達の場合はその幅がかなり大きいので、纏めることは難しいが。
ただ重要なポイントは共通している部分もある。
一時期は自閉症の人とずっと過ごしていたことがあって、
その頃はずっとその世界にいたように思う。

今日はちょっとだけ、ほんのさわりしか書けない。

三重であっちゃんの描いている旅行記を読んだ。
絵本のような漫画のようなつくり。
素晴らしかった。そして懐かしかった。
あっちゃんはカルタも面白いし、いろんな表現でその世界を見せてくれる。
最近、特に世界観を表す表現が深くなっていると思った。

一つの場所に行くまでの体験が描かれているが、
なかなか目的の場所にはたどり着かない。
もしかしたら、これはずっとずっと到着することがない物語なのかも知れない。
たとえ目的地に着いたとしても、それが目的なのではないことはすぐに分かる。
何故なら彼女には周辺や断片にこそ何かが見えているから。
その場所には決して中心や意味と言ったものは存在していない。

画面は断片の連続で、断片同士を繋げる「意味」や「価値」が存在しない。
あるいは解釈が入り込まない。

いくつもの断片は、それだけで固有の輝きを持っていて、
他とは完全に切り離されている。

会話の場面。顔は画面に必ずと言って良いほど登場しない。
身体だけ、あるいは足だけが見えている。
視点は次々に飛んで行き、様々な断片が映し出される。
言葉も身体も場所も、すべてが断片化され、文脈から切り離されている。
スピディー、場面は変わる、ぱっぱっと。

見えて来る景色はその度に新鮮なのに、
どこかで同じ場所をぐるぐる回っている感じがする。
いくつかの断片が何度も反復されて行きながら、
少しづつズレて別のものになって行く。
僕らの考えるストーリーや世界はここにはない。
僕らはいつでも世界を解釈し続けているから、感情が捉える意味しか無くなっていて、
細部がこんなに鮮やかに見えることはない。

解釈や感情をはぎとられた世界は、いつまでも無限の反復を繰り返していた。
看板の角、記号でしかない言葉、デザインのような景色、
廊下、階段、何度も出て来るトイレの場面、下からのアングル。
見上げた空。
一定のリズム。

この世界に身を委ねていると本当に心地良い。
それはある種の音楽を聴いている時の感じに近い。

そこにあるものを経験すると、僕達の世界は相対化される。
この世界だけが全てではないことは忘れてはならない。

ある人と共に過ごしていた時期、僕には確かにこんな風に見えていることがあった。
懐かしいなあ、と思った。
もっともっと深い部分に触れて行くことは可能だが今回はやめておく。
そして、僕はもう分析することはしない。
ただ、面白いですよ、とは言えるけど。

こんな世界を追体験させてくれる表現に驚いた。
世の中、くだらない映画や音楽に溢れていて、
どこかで見たものばかり見せられるが、
こんなに新鮮なものに出会える場面もあると、
いつか何らかの形でご紹介出来ないかな、と考えてみたりする。
あっちゃんの一言カルタも面白いです。
こちらは気まぐれ商店のHPでご覧になれます。

2014年10月10日金曜日

何も知らない

またまた台風が近づいている。
今度はかなり大きいようで心配だ。
明日から、土日のアトリエがひかえている。

空もどんどん遠くなって行く。
虫の声、鳥の声も遠くなって行く。
秋から冬にかけての乾いて冴えた感覚も好きだ。

季節を意識するようになったのは、
僕の場合はやっぱり制作の場を見て行く中でだった。

作家達の作品も変わって行くし(特に色)、制作に向ける意識も変わる。

僕達スタッフに必要な動きも当然変わって来る。

順応していくということはいつでも大切だ。

自分たちよりもっともっと大きなものが大半を占めていて、
ほとんどはそこで決まって来る。

大きな流れを知って順応して行くためには、謙虚さが最も必要だ。

自分は何も知らないという自覚。
何も持っていない故に、今起きていることを感じようとする。

目の前の事物は動いているし、全く知らない何ものかなのだ、という感覚。

先月、三重で過ごしていたとき、近くにある大王崎まで散歩する日が多かった。
真っ青な海。どこまでも広く、深く。
波の音は途切れることはない。

目の前に無限が佇んでいることを自覚したとき、
その当たり前の奇跡の前でなす術もない。

どこまでも続く海を見ていると、気が遠くなる。
自分がここに立っていることに驚く。

いろんなことがあったけれど、みんなすーっと消えて行く。
考えも感情も残らない。

小さな小さな自分や社会を気にして生きるか、
目の前にある無限に謙虚に耳を傾けるか。

遥かに深く大きなものがある。
それを見るためには自分というものを捨てるしかない。
何も知らない、何も見えていない、という自覚だけが感じる力を高めてくれる。

すべての感覚が開き、無限に包まれ、目にする全てが新鮮に輝く。
気持ち良く生きよう。

2014年10月9日木曜日

終わりの始まり

「楽園としての芸術」展、昨日終了しました。
皆様、有り難う御座いました。

素晴らしい企画と展示。あたたかい人達。
これまで応援してく下さってきた方々。新しく出会った方達。

大型の作品を会場内で制作した日。
夏の公開制作。9月9日の最後の公開制作。
9月15日の講演会。

すべてがあの作品達の客観性と普遍性に向かっていたと感じる。

僕自身は毎日作品を見ながら、削がれて行く感覚があった。
作品はどんどん固有の形そのものの美しさを見せてくれて、
今回ほど「客観」や「普遍」という言葉を意識したことはなかった。

終わったばかりなので展示について多くを語りたくはない。

美術館を出て、中原さんと2人で上野を歩いた。
人が集まっている場所があった。
みんな夜空を見上げている。
僕らもみると大きな月に陰が重なって行く。
皆既月食だ。

太陽と月の接触。その神秘的な景色を前に、
こういうことだったのだな、とやっぱり思った。
僕達は無言でじっと月を見ていた。
この夜空と静寂を忘れることはないだろう。

キクちゃんからメールが届いていた。
終わりの始まりの日です、と書かれていた。
ダウンズ・タウンの会社部門として準備を進めてきた、
「気まぐれ商店」がついに始まった。
HPからのスタートなので、どんな活動なのか、是非是非ご覧下さい。

そうだ、この終わりは、終わりの始まり。
中原さんとも「これが終わりではない」と話していた。
まだまだ先なのかも知れないし、
その時期はいがいに早くやって来るのかも知れないが、
中原さんとのお仕事も次があると思っている。

2014年10月7日火曜日

いよいよ最終日

東京都美術館で開催されている「楽園としての芸術」展、
明日8日、いよいよ最終日です。

あっと言う間でした。

実り多い機会でした。充実していました。
内容的にも、社会的意味も大きなものだったと思います。

来場者数もまずまず、反響も大きかったと思います。

それでも、もっともっと多くの方に見て頂きたい、見て頂くべきだと感じています。
まだまだ見るべき方がいらっしゃると思えてなりません。

最後の一日ですが一人でも多くの方にお越しいただきたいです。

皆様、お見逃しのないように。

2014年10月6日月曜日

もう一度「終わり」について

昨日の夜から激しい雨が続いた。

台風の時期はゆうたの喘息が心配。
よしこは流行性の結膜炎にかかってしまって、目があけれらない状態。
みんなに手伝って貰って何とか過ごしているそうだ。
うーん。困った。どうしよう。

判断をちょっと迷ったけど、今日は平日のクラスをお休みにした。

雨はかなり降ったけれど、風はそれほどでもなく、
昼を過ぎた辺りからすっかり晴れた。

イサと少し話していた。
終わりについて何度か語ってきたが、もう一度その話になった。
外は光が射してきてふわっと浮き上がった世界にいるようだ。
幻の中みたいで懐かしい。美しかった。眩しいくらいに。
それは終わりの景色のようだった。

土、日曜日の制作の場で僕は変化を感じていた。
とても良い場だった。そして僕とみんなとの関係は変わってきたな、と思った。
新たなる段階に入るということは、一つの終わりを経験することだ。

これまでも色んなことが終わって行った。

展覧会も残すところあと2日。
今確かに輝いているあの場も終わって行く。

調子の良い時、制作の場で上手く動けている時は不思議な感覚がある。
予感のようなものを絶えず感じていて、
意味は分からないけれど、とにかく今はここでこうした方が良い、
ということが感じられて、ただただ正しい場所に点を打ち続けている感じ。
次はここにこれをおいて、そして次はここにおく、ということが分かる。
分からないけれど予感があって、終わりには分かるだろうと思っている。
そうやって正確にただおいて行くと最後のところで絵のように意味が見えてくる。

こういう時に感じるのは、終わりは始まりの中にすでにある、ということ。

これもいつでもということではないけど、
ある瞬間、安らかな気持ちになる。安心感に包まれるというか。
ふと、思う。
僕はここに居るけど、ここにこんな世界があるけど、
本当はもう全ては終わっていて、どこからか振り返っているのではないか、と。
その感覚はかなりリアルで今この瞬間が懐かしくなってくる。

終わりはすでにそこにあって、
終わったところからプロセスを振り返っている感覚。

終わりは確かに悲しく、分かれは確かにつらい。
それでも終わりの中には永遠があるような気がする。

死んでしまった人達が、生きていた時より実在感を持っているのは何故だろう。

台風が行った後、まるで世界が浄化されたようにそこにあった。

終わりから見ると全てはあるべき場所にある。

夜になって大きな月が浮かんでいた。
とても静かだ。

2014年10月4日土曜日

もっと先へ

今日は久しぶりに制作の場に入る。
一般の方で言えば本業のようなもの。

昨日も大切な方達が多くいらして下さった。

新しい出会いもあり次の仕事のお話も少し出始めている。

曇り空。台風が近づいているようだ。

こういう日は意外と制作の日としては悪くない。

どんなことであれずっとずっと続けて行けば、
難しくなって行くことも多いし、細かな議論に入って行く。
多くのことが必要な気がして来る。
でも、人が生きて行く上で大切なことはシンプルだと思う。

あたたかいものがこころに満ちていれば、それは人に響く。

見ているもの、見えて来るもの全てに敬意を払う。
これがエッセンスだ。

僕達はどこかから来て、どこかへ向かって行く。
一切のことはその過程と言える。
通り過ぎて行くすべてが掛け替えのないものだ。

全ての瞬間が特別な瞬間。

この自覚や意識を保てれば、良いものがやって来るし、ある意味で与えられる。

例えとして、制作の場で関わるという自分の仕事を例に出す。
相手を大切に思っていれば、そこで起きていることを特別に思っていれば、
振る舞いが変わるはずだ。
多くの人がそうするようには動けないはずだ。
触れるか触れないかの、産毛レベルの感覚をもっと大切に出来るはず。

見ていると言葉も無礼。立っても座っても無礼。
本人にはその自覚がない。こういうケースが多い。

何故、その場所に立つのか。何故その場所に座るのか。
全ては物事に触れて行く時の意識にかかっている。

やさしくやわらかく、自然に、それが基本。

そこにあるものが今自分が思っているより、
もっともっと大切なものだと感じれば良い。

生きているとは本当はもっと強烈なことだ。
小さく小さく、狭く狭くなってしまうのも人間だけど、
突き破って外に出られる力もみんな持っている。

いつでもまだまだもっと面白くなるはずと思って行くことが大切だ。

2014年10月3日金曜日

大切な人

今日の朝日は素晴らしかった。
遠くから差して来る光。

連日、会場通いを続けさせて頂いている。
土、日曜日は大切な制作の場に入らなければならない。
最後の土、日に伺えないのは残念。
でも多くの方に見て頂きたい。
本当にもう終わってしまう。

昨日は元学生チームのスナフこと宮浦君が来てくれた。
雰囲気が変わってしまってないか、ちょっと不安だったけど、
変わらないどころか密度を増していて嬉しかったと言ってくれた。
帰ってきた感じとも。
そう仕事のレベルを落としては大切な人達の帰る場所が無くなってしまう。

いつまでもこの純度を保って行きたい。

話は前後して宮浦君の来る少し前のこと。
これを書くと佐久間は尊敬する人がいっぱい居ると思われてしまうが、
またまた尊敬している方が来て下さった。
僕は尊敬という言葉はそう簡単には使いたくない。
ここ数年は一年に100人以上は人と出会っているはずだけど、
尊敬するような人は一生に10人以内だろう。

ただ、そういう大切な方々がみんな反応してくれるということだ。

そのジャンルでは大袈裟かも知れないが、
日本一ではないかと密かに思っている方。
丁寧にじっくりご覧になっている姿が印象的だった。
大切な方とは滅多に会わないし、そんなに話すこともない。
お互い感じ合っているから。

公開制作の日、こんな感想もいただいた。
てる君との関係について、制作の場に入っている時間、
あんなに丁寧にやさしく触れ合ってその時間を大切に過ごしていたのに、
終わった瞬間に2人ともあっさりと、じゃあまた、となった場面が面白かったと。
それは僕達の深い関係を表している。
あえてそうしている訳ではない。
分かり合っているから無言の会話となるし、
深く繋がっているからさっと離れることも出来る。
そして離れたとき、より深く繋がるものがあることも知っている。

作家との関係もそうだし、男であれ女であれ、仕事であれ、
惚れきると必ず帰ってくるものだと思う。

空が少しづつ高くなって行く。
秋の日差しは透き通るようだ。
目を閉じていても光を感じる。

今日も掛け替えのない一日が始まる。

2014年10月2日木曜日

昨日の美術館で

昨日は都民の日ということもあり、多くの方にご来場いただきました。

しょうぶ学園のドキュメンタリー映画を見せてもらった。
その後、福森さん達の講演も聞かせてもらった。

映画では素敵な場面が沢山あった。
福森さんは照れ隠しでいろいろやっているけれど、やさしくて正直な方だ。
肝心の音楽や外へのアプローチの仕方は共感出来ないけれど、
それを楽しむ多くの人がいるのだから、それはそれで良いのだと思う。

福森さんと出会えて良かったと思う。
そして今回の展示ではしょうぶ学園さんとご一緒出来て本当に良かった。
作品の違い、アプローチの違い、環境の違い。
根本にあるのは対象となる人達に何を見ているのか、という部分だと思う。
決定的な見解や解釈に違いがあると思う。
たぶん良い悪いの問題ではなく。

映画の中の福森さんと障害を持つ人達との関係が奇麗で、
こころに響く瞬間がたくさんあった。

そう言えば、お世話になった共働学舎も間もなく映画となる。
嬉しい気持ちと、やっぱり不安が残る。
自分が昔居た場所だと複雑な心境だ。

いずれにしても、人と人が繋がること、
それも必ずしも一つの世界だけがあるのではなく、
違った世界があって、そこが繋がることで新しいものになって行く。
そんな共生の在り方に時代は向かって行かなければならない。

僕らは福祉ではないので同じような活動は他にはないだろう。
だからこそ他の活動とも繋がって行きたい。
その上でここでしか出来ないことをしっかりとやっていく。

昨日、僕に話しかけてきたおばあちゃんがいた。
しんじ君の会場内で制作した大型の作品の前で涙が出たと言う。
若い頃に美術をされていた。
すっかり普通の生活になって、様々なことを経て歳を重ねた。
趣味は美術館を巡って絵を見ること。
しんじ君の作品を見て、美に触れた時の新鮮な感動が甦ったと言う。
これまで見た作品で一番感動したとも。
何度も何度もありがとうと仰っていた。
たくさん生きて来なければ、様々な経験を重ねて来なければ見えないもの。

こういった方々の心に響くということが、彼らの作品の特質だと思う。

2014年10月1日水曜日

嬉しい気持ち

今日は曇っていて雨になりそうな感じです。
都民の日ということで東京都美術館は無料だそうです。
お時間のある方、この機会にどうでしょうか。
しょうぶ学園さんのドキュメンタリー映画の上映会があります。

昨日は久しぶりに赤嶺ちゃんと会った。
彼女は今ダンスの先生をやっていて、
ちょうど日曜日に自分の生徒達の初めての発表会を終えたところ。
もうすっかり仕事に馴染んで忙しそう。
色んな場所で活動している。
発表会が感動的なものだったようで、誘われていたのに見に行けず残念。
でも、佐久間さんに教わったことをやってるから、見て欲しかった、と言われて、
本当に本当に嬉しかった。

先日来てくれた、ぶんちゃんも今は施設で働いていて、
アトリエのような場を目指す、と言ってくれている。

離れていても、どんな場所でもそんな繋がりが素晴らしい。

イサも一生懸命だ。
最近は会わない日もあるけれど、本気でやっているな、と感じている。

僕はかつて恩師の一人にもうとっくに超えちゃったから任せて、
と生意気を言ったけど、今誰かがそう言ってくれるようになったら嬉しい。
いや有り難い。

そして、会場に思いがけず、
かつて経堂で素晴らしいカフェを運営していた方が来て下さった。
仕事として生き方として尊敬している方だ。
今は違う場所で更に進化したお店を開いておられる。
嬉しかったし、励みになったし、やっぱり有り難いなあ、と思った。
本当に丁寧なお仕事をされる方で、
一つの食べ物や場にどれだけ手間をかけていることか。
それもわざとらしさのかけらもない。
本物と言えるお仕事をされる方だ。
大変だけど一緒に頑張りましょう、と言われて、
どんな人の言葉より実感がこもっていて、よし、やって行こうと思えた。
同じ言葉も発する人にとって重みも深みも違って来る。
日々、実践していなければ本当の言葉は出て来ない。

尊敬出来る、本物と言えるお仕事をされている方が、
うなずいて下さることで、この方向はやっぱり間違っていないなと、
確認することが出来る。
様々な場面でそんな勇気をもらって進んできた。

僕は弱い人間だ。みんなの気持ちが後押しするから進むことが出来る。

時々、思い出してはにやっとしてしまうことがある。
いつも中原さんとは気持ちが通じ合って、
人の評価なんて問題じゃない、もっと高い次元のことを見て行く、
と言い合っているのに、会う度に、こう言ってくれた人が居た、
あの人が褒めてくれた、こんな批判がある、こう言われた、
とか話題はそればかりで、2人で一喜一憂している。
こういうのは小ちゃいのかも知れないけれど、
そういう弱さがあることで乗り越えていった時の喜びも大きい。
(勿論、中原さんは僕レベルではなく、お付き合い頂いている訳です。)

場に入る時も、外でお仕事する時も、いつでも上手くのかなあ、
と不安でいっぱいになっている。
やる直前までやりたくない。
それでも応援してくれる人達が居る、一緒にやってきた仲間達が居る。
たくさんの人達の想いや夢を背負っている。
全力を尽くすしかない。

だから楽しいし充実感もある。
能力がものすごくあって簡単に出来てしまうなら、
こんなに多くの経験が出来ただろうか。
こんなに共感してくれる人達に出会えただろうか。

一人では出来ないから力を合わせる。
人からいただくもので一番嬉しいのは、想いであり気持ちだな、と思う。

2014年9月30日火曜日

魔法の時間

僕が居ない時も含めて、この東京のアトリエで日々流れている時間。
一度、創造性の源に触れれば、まるで魔法のように自然に美が生み出されて行く。
始まりも終わりもなく、あまりに自然に。

終わってみると、今目の前にあった世界が魔法のように感じられる。

公開制作でてる君が見せた魔法のような時間。
16点並んでいる作品が全て必然のように感じられてしまう。
どこを切り取っても完璧なのに、完璧さに伴う硬さがまるでない。

本当のもの程、美しいもの程、良いものほど儚いものだ。

展覧会も残りわずかな時間となってしまった。
こうして確かに存在して輝いている世界ももうすぐ消えて行ってしまう。
多くの方に見て頂きたい。
そして自分の体験として記憶に残してもらいたい。

夜、ラヴェルを聴いた。
つい最近発売されたチェリビダッケの演奏。
中古でなく新しいCDを買ったのも久しぶり。

チェリビダッケの演奏するラヴェルは、儚い魔法の時間に誘い込む。
美しいものはいかに儚いか思い知らされる。

それにしてもあまりにも美しい。

霧の中で佇んでいるようだ。
現実は遠いむこうにあって、夢とか幻の世界に居る。
お伽噺の中に。
それなのに、現実から離れれば離れるほど、この夢がリアルになる。
現実よりこちらの方が本当なのだとさえ思ってしまう。

特に「マ・メール・ロワ」の美しさ。
全く現実離れしているのに、具体的な現実の記憶や感触が自分の中で甦って来る。
輝く瞬間が今、生まれ消えて行こうとしている。
音楽を聴いて涙が出て来た。

どれだけさみしく、悲しくなろうとも、それ故に輝くものがある。

疲れない為に、失わないために、悲しまないために、生きている訳ではない。
認識の深みに向かって行くことは、儚さや悲しさを見つめて行くことでもある。

見ないようにすることで、本当に美しいものを損なってしまう。

見ていよう、感じていよう、全てを受け取ろうとすることが大切だ。
まだまだ歩き続けなければならない。
旅の途上で見える景色が重なり合って浮かんでいる。

2014年9月29日月曜日

やっぱり凄い高倉健

土、日曜日のアトリエもイサとゆきこさんが、
良い場にしてくれていると思う。
仕上がった作品を見てそう感じている。

次の土日から僕がアトリエなので、
一番多くお客様がおみえになる週末に、
会場に居られるのはこれが最後ということで昨日も一日居ました。

ここへ来て来場者数もグンと増えている。

9日におこなった公開制作と15日の講演会の反響も、
僕のところまで届いている。
終わったことをああ良かったと振り返るのではなく、
多くの人が今想いを持って下さっていることが嬉しい。

いつも書くことだけど、本当に人には恵まれているし、
有り難いとしか言い様がない。

夜はなるべく休んでおこうと他のことを考える。
あれこれCDを取り出して来て聴いている。

昨日の夜、帰って来て何を聴こうか、と思いながらも、
何気なくテレビをつけた。
「あなたへ」という映画が丁度始まるところで、
見ようと思った訳ではないのに最後まで見てしまった。
素晴らしかった。
ストーリーは単純と言うか、もっと言えばありきたりで陳腐なものとも言える。
それなのに感動するのは高倉健という役者の力だ。
他の役者もかなり良かったけど高倉健の前では霞んでしまう。
いや大滝秀治だけは圧倒的な存在感で高倉健すら圧倒していた。

ただ立っていたる高倉健。後ろ姿。ふーっと息をする。つぶやく。
歩く高倉健。じっと想いに沈む高倉健。
どの場面も深い。
たくさん生きてたくさん経験して、良い意味で耐えて来なければ出来ない佇まい。
どの場面も人生の味わいの深さを感じさせる。

高倉健は小細工をしないからある意味でワンパターン。
またそれ、と思う時もあったけど、今は有無を言わさない凄みに達している。

言葉にならない想いを身体が表す。

色んなことがある、全てのことが刻まれていって、
やがて一つの味わいとなって行く。

進んで行かなければ見えて来ないものがある。

だんだんと色んなものが見えて来るようになると、
言葉にできることは少なくなって来る。
外に表さないでじっと内省してきた経験が高倉健の佇まいに現れている。

同じところに戻ってきてしまうが、
やっぱりこの世界は素晴らしいものであると思う。

2014年9月27日土曜日

金曜日の朝、電車に乗って直接上野の展覧会場へ。
クリちゃん達一家が来てくれた。
再会が本当に嬉しかった。
これからどんなに場所が離れていてもこの仲間達と繋がっていたい。

三重での報告も色々あります。
いよいよキクちゃん達と会社部門が始まります。
HPが出来上がる頃、詳しくお伝えしたいです。

うーん。書くことが沢山あったのに、すっかり東京モードになってしまっている。

そんな訳で気持ちも落ち着いてからゆっくり書いて行きたいです。

展覧会が残り少ないので、会期が終わるまではこちらに集中。

今日は大切な方達を会場でお迎えすることが出来たので、本当に良かったです。

久しぶりの方。いつも必ず駆けつけて下さる方。
普段から尊敬している方。

制作の場での僕の仕事は、いつでも空っぽになって自分を明け渡すこと。
人やこころや事物や、もっと大きなものや風や流れが僕を通過して行く。
流れを淀ませないように繊細な手加減でものに触れる。

生きていて沢山の人に会って、普段過ごしている時間もだんだん、
制作の場のように流れとして見えて来るようになった。

僕はただそこにいて流れて行く様々な形を慈しむように眺めている。
全てのことは今しか起こりえないことだから、
大切に大切にかみしめる。

全てはやさしく消えて行く。
ここへ来れて良かったね。ここにあって良かったね、と。
とても静かに、もっと深く、そしてどこまでも。

風はなく涼しい気配だけがそこにあった。
夜の闇は沈黙している。

2014年9月15日月曜日

感謝

東京都美術館で作家の高橋源一郎さんの後に、
お話しさせて頂きました。

髙橋さん、久しぶりの再会嬉しかったです。
お話、有り難う御座いました。

僕の方は緊張のため、話も上手く纏まっていなかったと思います。
お聞き下さった皆様、有り難う御座いました。

あれもこれも言いそびれたな、と反省していましたが、
終わってから良かったと言って下さる方も沢山いて、本当に有り難いです。

中原さんからもメールを頂きましたが、反響は悪くないそうでホッとしています。

遠くからこの為にお越し下さった方もいました。
恐縮しています。

イサも稲垣君も緊張したと言っていた。
モロちゃんも来てくれていて、緊張したそうです。
こういう仲間達の存在が本当に有り難い。
頼りなくてごめんね。
みんながこの場面で自分のことのように感じてくれていたこと、
支えになったし、これからもなります。

皆さん、ありがとうございました。

明日から三重へ行かせて頂きます。
展覧会も後少しなので今回は早めに東京に帰って来て、
会場でまた皆様にお会い出来ればと思います。

2014年9月14日日曜日

ちょっとづつでも

秋になって虫の声がとてもとても良く聴こえる。

今日は外の光も庭の緑もきれい。

しばらく外にいて、アトリエに帰って来ると充実感に浸る。
沢山の方とお会いしてお話しする日々が続いていた。
そんな中で制作の場に入ると本質的なものだけがあって、
やっぱりここが大切だと思う。
そしてこういう在り方を伝えて行かなければ、とも思う。

僕にとっては作家達が一番通じ合える存在だ。

こころは響き合うもの。
何らの感触も実在感もない人が多いが、
ここではみんなはっきりと手応えがある。

投げかけて来たものをしっかり受け止める。
投げ返す。またそれに返して来る。
その繰り返し。
言葉を使ったり使わなかったり、とにかく対話して行く。

人と人が共にいることは、こういうことなのに、
一歩外へ出るとなかなかそうはいかない。

簡単にいえば嘘だらけ、誤摩化しだらけだ。
ゆうすけ君の言葉で言えば「お化け」。

だから誰だか分からない人間がいる。
肩書きはあっても、人としての形が見えない。

生きていることは自分がプレイして行くこと、
目の前に現れて来るものをどう捉えて、答えて行くかで、
楽しさも豊かさも変わって来る。

アトリエでの制作の場とはこの単純な事実に真っすぐ向き合うことだ。
作家達もスタッフもずっとずっとそれを続けて来た。
そこに何かしらヒントを感じてくれる人達がいる。

僕達の方法はいつでも単純でシンプルなものだ。

これから社会との関わりの中でどうして行くべきか。
いつも最善を尽くしているけれど難しい。
みんなにとって良い形はどこにあるのか。
答えは一つだけだとは思わない。
その時、その場では必要な決断をして行かなければならないから、
これで行く、という方向を示して来た。
ただ、それはその時の最良の方向であって、唯一の答えなどではない。
次にはもっと理想に近づくかも知れない。

様々な見解がある。
時に議論することもあるし、批判することもある。
ただ、どんな考えであれ、本当の意味で否定したくはない。
全ては一理はある。
何故なら、そのように考える人、感じる人が一人でもいるのだから。
考えとしては意見としては認めるべきだと思う。

一番大切なことは、歩みを止めないことだ。
いつでも前に向かって行けば、少しでも改善され理想に近づく。

一人一人違うのだから、みんなにとって良いはない、という意見も聞く。
でも少なくともそこへ一歩でも近づくことなら出来る。
今より良くは出来る。出来ることは進めて行く。
力を合わせて。

2014年9月13日土曜日

薔薇の香り

季節の変わり目。
よしこが疲れ気味なので少し心配だ。

昨日も会場で様々な方にお会いしたが、
涙を流す方、こんな作品と出会えて良かったと仰る方、
これまで見た展覧会でベストワンです、とお話し下さる方もいた。

僕達はこういった思いを真っすぐ受け止めて、忘れてはいけない。

何の為にやっているのか、いつも胸に刻んで行かなければならない。

15日は髙橋源一郎さんの後で中原さんとお話させて頂く。
昨日も夜になって中原さんと会場で立ち話していたが、
いつも深い話題になる。
お付き合いさせて頂いて、展覧会の時間の経過とともに関係も濃くなっている。
15日は打ち合わせなしで行くことになっているが、
その前にほとんど話しちゃってる気がする。
でも、また違う感じになるだろう。
人前で話すのは何度経験しても緊張するけど、緊張の中で頑張ります。

今日は土曜日クラス。
ここも午前からかなり濃く深い制作になる。

火曜日の公開制作の中盤位からだろうか、
どこからか急にバラの匂いがしてきて、てる君と2人でなんか良い匂いするねえ、
と話していた。
それはあの場、あの時間に相応しいものだった。
会場でご覧になっている方からのものだったかも知れない。
それでも不思議だ。

あの甘い時間にピッタリだった。
てる君も僕も男には珍しくバラの香りがすきだし。

それはともかくとしても、香るような場でありたいと思う。

2014年9月12日金曜日

美しい佇まい

昨日は雨にも関わらず、多くの方にご来場頂いた。

有り難いなあ、と思うことが沢山ある。

書きたいことは色々あるが、もう少し落ち着いてから纏めたい。

今日はこれから明日のアトリエの準備をしてから会場へ向かう。

昨日の夜、そして今日寝起きから音楽を聴いた。
田中希代子のピアノが今の僕には響く。

尊敬している珈琲屋さんの味を、
清潔で奇麗で、心も身体も洗われるようだ、と書いた。

田中希代子の演奏も同じことがいえる。

あまりに真っすぐ過ぎて驚く。

田中希代子はストイックだ。ただ、何故こんなに心を打つのだろう。

これだけ真っ正面から何かに挑むことは、今の時代難しい。

逃げない、感傷に浸らない。
凛とした佇まい。芯の強さ。
正しい姿勢。
揺るぎない確信。

一つ一つの音が決然として前の音を断ち切って行く。

確かに遊びもおおらかさもない、ある意味で一面的な音楽だ。
でもそれで良いんだと思わせられる。

人は何もかもを手に入れることは出来ない。
ある決断をするとは他を諦めることでもあるはずだ。

勇気をもらうとはこういうことを言うのではないか。

破綻のない端正な、そしてちょっと硬い音楽。
完璧主義が窮屈に感じる人もいるかも知れない。

完璧しか目指せない彼女のような人が必要なのではないか。

正しさとは何かを教えてくれる音楽だ。

自分の中に無駄なものがいっぱい付いて来たと感じた時、
僕は田中希代子の音を聴きたくなる。
真っすぐに前を見ようと思う。

まぎれもない音楽がそこにある。

2014年9月11日木曜日

秋の雨

雨が続きますね。
昨日は上野からの帰りが大雨で美術館の方に傘を借りました。

いい音楽を聴きたいなあ、と最近思っています。
それも新しく出会いたいです。

何も付け加えられていないもの、素のもの。
そのものがそのまま目の前にあったらどうするだろうか。

ここのアトリエから生まれている作品は、
そういう意味で最も素の状態に近いものだ。
彼らの本来持っているものはこういう世界だと言える。

だから見た方の反応も本当に素直だ。
昨日も絵ではないけれど、ものをつくっている方が感動を伝えてくれた。
言わずにはいられないといった雰囲気でこちらも嬉しかった。
大切なもの理想とするものがすべてここにあると仰った。

見るとか経験するとかいうことは本来こういったことで、
あれこれ理屈をこねまわすことではない。

素材や手法や意図ばかり質問してこられる方もいるが、
そんなことは何ら本質的な話ではない。
どんな道具を使って描いてもかまわない。

問題なのは内面が触れ合って、響き合って、一緒に見つけて行っているのか、
それだけだ。

もっと広い場所で沢山の素材を使って自由に制作すれば良い、という意見も聞いた。
そのように思われるなら、おやりになってみてはいかがでしょうか。
はっきり言ってしまえば、このレベルの作品は生まれないでしょう。
それは保証します。
さあ、何でもあるよ、自由にどうぞ、といって、人が自由になれるなら、
誰も苦労はしないでしょうね。

何か下らない書き込みもありますが、
見たら何でも言って良いというのはどうでしょうか。
発言には責任があります。

直接対話させて頂ければ、全てお答えします。

繰り返すが、大切なことは一つだけだ。
目の前の作品が自分のこころに響くものなのかどうか。
何か感じるかどうか。
感じるのなら、心をうつものなら、それは何かなのでしょう。

何も感じないのなら、残念ですがそれは現時点では縁のないものでしょう。

それだけのことです。

作品から何を感じるかは人それぞれです。
自由です。
ただ背景に関しては自分の偏った憶測で、
ああだこうだと詮索するのは下品で無礼な行為と知りましょう。
もし本当に知りたいのであれば、知っている人に聞きに行くべきです。
興味本位ではなく真摯に知りたいと言えば、
本気でやっている人なら教えてくれるでしょう。

まあ、これは人生のことだけど、
良く思うのは耳を澄まさなければ聴こえないものがある。
一生気づかない世界もある。
知れなければ損だよとは誰にもいえないが、
僕自身は気づけることを幸せに思う。
自分の知っている馴染みのある世界が全てでないことに豊かさを感じる。
未知のものに日々出会えることにワクワクする。

世界は奥深いなあ、とため息が出る。

いろんなことがあった。
沢山のことを思い出す。
過ぎて行った夏に再会出来た人たち。
みんながいつでもいてくれたことに感謝している。

2014年9月10日水曜日

今日は少しプレのみんなと会ってから会場へ行こう。

15日のお話が終わって、1、2日中にはまた三重へ行かせて頂きます。
ご不便おかけしますが、ご協力宜しくお願いします。
10月はずっと東京にいる予定です。

ここから冬まで、あっと言う間に過ぎて行くのでしょう。

風が変わって行く、皮膚が感じている。
時々、弱い雨が降ったり止んだり。

色も光も変わって行く。

冷たい空気。

夏の上野は賑やかだった。
イベントや大道芸やスターバックスの行列。

僕達は静かな場所で美に囲まれていた。

確かな感覚。見逃さない目。聞き分ける耳。柔らかい身体。
大切なのは身近で具体的なものを動かせる力だけだ。

どんな困難の前でも怯む必要はない。

そして沢山の人達が残していってくれたものを忘れない。
感謝の思いが僕達を助けてくれる。


2014年9月9日火曜日

スーパームーン

さっきまでずっと月を見ていた。

今日は本当に特別な日だ。

東京都美術館で公開制作を行った。
結果で言うなら生涯最高の場になったと思っている。

制作の場はいつでも奇跡のようだし、一生に何度しかないような体験を、
たくさんたくさん経験して行く。

それでも様々な面を総合的に見るなら、今日のが最高だ。

アトリエを離れて行っていることや、
一対一での場ということで本来とは違う部分が多いが、
エッセンスが凝縮されたとも言える。

ここへ至るまでさんざん自分にプレッシャーをかけて来た。
今回が集大成にならなければ、と思って来た。

それが出来てほっとしている。

てる君という作家と出会えたことに、
十数年も深く深く共有して来れたことに感謝している。

てる君の一番良い部分と佐久間の一番良い部分が出たのではないか。

制作の場において、スタッフにはゴールはないし、
常に満足してはいけない。
やり終えても達成感とは絶えず無縁だ。
でも、今回だけは特別に許される時だと感じている。

これがこそが目指して来た場所なのだから。

中身だけの話で言えば、行ける所までは行ったのだと思う。

特別な時間だったと言うことで言えば、
プロとして場に立って来て、これほど何もしなかったこともない。
今回は小手先のことは全て忘れた。

始めからてる君が答えてくれていたから。
何も付け足すものもひくものもなかった。
それ以上に何をするのも失礼なくらいの場面だった。

改めて思った。
佐久間の良さは技術にもセンスにもなくて、もっと根本のところにある。
作家が答えてくれる男だと言う部分だろう。

実際、今回の意味を僕よりてる君の方が理解してくれていた。
本当に有り難い限り。

プロとして立った以上、楽しいだけの場はあり得ない。
だから今回は初めて楽しんでいたのかも知れない。

プロであることもスタッフである事も捨てることが出来た場だったのだろう。

こんな時間を過ごせて幸せでした。
みんなにありがとう。

2014年9月8日月曜日

またぱらぱらと雨が降り出した。
秋の天気は安定しない。

静かだなあ、と思う。

作家の中では小さな子が1人2人は絶えずいて、
何年も付き合って行くのでいつの間にかみんな大きくなっている。
今は2人いる。

日曜日のクラスでその1人が座った瞬間に、
あれえ、大きくなってるぞ、と感じた。
背丈のことではなくて、何か反応が違う。
そのまま絵を描き始めたけれど、やっぱり作品も、描くプロセスも違う。
今日が境目だったか、と。
一夏の間に本当に成長した。

思えば僕の膝の上に座って描いていた人達が、
今では一人で堂々と描いている。
中にはもう僕を必要としない作家もいる。

当たり前のことだろうけれど、そうやって進んで行くということは凄いことだ。

最近、特に思うのだけど、瞬間が全てなのではないか。

美も本当は瞬間の中にしかないと思う。

人は何でも自分のものにしたいから、そして永遠にとっておきたいから、
残そう残そうとして逆に本当のものを壊してしまう。

何度か書いたが作品も出来上がった瞬間が一番美しい。
それはよく考えれば不思議なことだ。

ここで制作する作家達が出来上がった作品にあまり興味を示さないのは、
そのような態度は本質的なことなのではないか。

美だけではなく、人生のすべてが瞬間にこそあって、そこで輝く。

それが分かっていれば、もっともっと今を大切に出来るし、
人にやさしくなれると思う。

どんな時も疎かに出来ない。

消えるからこそ、今輝く。

以前、様々な仕事のメンバーで10名くらいいただろうか。
中華料理のお店で飲んでいた時、思わぬ出会いもあって、
意気投合したり、古くからの付き合いの方々と盛り上がっていると、
カメラマンの方が「こうしてるけど、みんな死んで行くんやろうなあ」とつぶやいた。
楽しそうで微笑みながらの発言なのでみんなも笑っていた。

その言葉を自覚した瞬間、その場がより輝いて見えた。

僕達の今は2度と戻っては来ない。

2014年9月7日日曜日

今後の予感

土、日曜日、いつでも全力で挑んで来た。
やっぱり輝くような時間だ。
その日の答えはその日みつけるしかない、ということが面白い。

今日は、学生時代からアトリエ見学やお手伝いをしていて、
今は他の施設で絵の指導を始めるぶんちゃんと、5年ぶりの再会の中野さん、
施設長の方の3名が見学。
午後のクラスが終わると3人とも「凄い!」と感動していた。

場というものは、
やっぱりどこかで伝わって行くのだと最近は確信している。

火曜日の公開制作も良い時間になって、
見た方それぞれの体験となってくれれば、と思う。

いつでもそうだけど、今しか出来ないことがある。
今しかないものがある。

今回の展覧会もそうだし、普段の現場もそうだけれど、
ようやく、ここまで来たと思う。
社会的評価の話ではなく、内容のことだ。
やっとここまで来たし、間違っていなかったな、と思う。

これが落ち着いたら、次はもう少し違う方向を目指すことになるだろう。

個人的な体験で言うなら、僕が見せてもらった世界があって、
それを他の人達にも知ってもらいたかった。
伝えることは教えてくれた人達へのお返しであり、
責任であると感じて来た。

若かったせいもあるだろうし、僕の実力がなかったという部分でもあるが、
誰も信じてくれない時期があった。
佐久間の言っているような世界などない、と。

色々あったけれど、
多くの人がひしひしと何かがあると感じてくれるようになった。

社会的な部分で言うなら、まだまだこれからだろう。
やるべきことも無限にある。

ただ、核心的な部分に関してだけいうなら、
今いるところが一つの答えであり完成形だと言えると思う。

だからこそ次の段階に行ける。

いくつかのことに関してはもう良いかな、と思っているし、
これで終わりというものもある。

これからは生活により近い形を一歩一歩進めて行くだろう。
もっともっとやわらかくなって行くことだろう。

おっと、次の話をするのはまだ早いですね。

今日は蒸暑い時間帯もあったけれど、空気は秋のものだ。
夏合宿から1年経って、夏の公開制作も終わって、
あの人もあの子も子供を産んで、いつでも時間は進んで行く一方だ。

仲間達の成長は嬉しい。
成功するような道にいなくても、一生懸命歩んでいることが素晴らしい。

これって美しいよね、と共感してくれる多くの人と出会って来た。
一緒に信じようよと言い合える仲間にも恵まれた。
尊敬している人達が、良いことやってるよと言ってくれた。
そんな人達と一緒に歩いて来た。これからも進んで行く。

そんなのはないんだよ。世界は一つだよ、と言う人達も沢山いた。
誤解もある偏見もある。悔しい思いもいっぱいある。
非難されたり批判されたり。
出来ると言われる人達がいて、勝っていると言われる人達がいて、
力があったり、お金があったり権力があったりする人達が、
こちらを笑っていることがある。どうだ、ここが本当の場所だぞと。

言い続ける人達は変わらないかもしれない。
気づかない人は、いつまで経っても気づかないかもしれない。

それがどうした?
僕達には誰も壊すことが出来ない「場」があるのだから。
宝くじに偶然当たった訳ではない。

みんなが思い合って良くしようと努力して協力して、
みんなの力であたためて来た場がある。
すべてはここから生まれるのだから。

繋いで行こう。

2014年9月6日土曜日

楽しい時間

連日会場通いをさせて頂いておりました。
今日、明日は制作の場に入ります。

沢山の有り難いお気持ちがあって、
教えてもらえたこともいっぱいあって、
最後には一生懸命やって行くしかないな、と思っています。

いつでも力は全て使うし、あるものは全部あげるし、
出し惜しみだけはしない。
もともと何も持っていなかったのだから、失うことを恐れない。
無くなったらまた生み出せばいい。

僕には自閉症の友達がいて、彼と長年生活した後、
別れる時にメッセージをもらった。
最後の所に「でも、君は人付合いがへたくそだった」と書いてあった。

本当にそのとおり。

生きることも多分へたくそだ。
遊べば遊び過ぎるし、真剣になればなり過ぎてしまう。
若い頃はよく「良いけどやり過ぎ」という評価をうけた。

特別な何かがある訳でも、出来る訳でもない。
だからどうしても一生懸命やるしかない、と思ってしまう。

金曜日はお客さんの中から「ここが究極ですね」という言葉までいただいた。
午前中から夜の9時まで会場にいた。
夜、学芸員の中原さんと焼き鳥屋へ。
上野のディープなお店。4人位しか座れなくて、場所も外で屋台に近い。
こういうの良いなあ、と思う。こういう場所にいる時間も良いなあ。
遅くまで話しこんでしまった。
中原さんと僕だとツッコミ役がいない感じでどこまでも真面目。
外から見ていると可笑しいかも。
でも、僕にとっては本当に楽しい時間だった。

地位もお金もないし、器用な生き方は出来ないけど、
人にだけは本当に恵まれているなといつも思う。

さて、今日のアトリエも作家達と共に最高の場にして行こうと思います。

2014年9月2日火曜日

公開制作を行います。

今日はアトリエをイサに託して展覧会場へ。
ダウンズタウンの冊子以来、
ずっとお世話になっているデザイナーの小林さんが会場に来て下さった。
久しぶりにお会いして色々とお話しして楽しかった。
深い部分で理解して下さっている方がいる事だけが支えだ。

しょうぶ学園の福森さんも来ていて展覧会初日以来の再会。
いつの間にかずっと昔からの付き合いのような感じに。
福森さんの人柄なのだろう。人懐っこくて素直な方だ。
9月15日にもお会い出来そうだ。

一日会場にいると多くの方にお会いする。
福祉がどうの、芸術がどうのというお話をする方はむしろ少ない。
みなさんそれぞれが、そのような観念的で抽象的なことに留まってはいない。
もっと差迫ったこと、自分自身の事、今必要なこととして、
ここに何かヒントがあるという直感をもたれている方が驚く程いらっしゃる。
先日も書いたが、見て下さる方々の真剣さに驚く。

お話しした方の中で、学校の先生は夏休みの最後に来て下さって、
教育のこと、個性のことを、考えるきっかけになった、とお話してくれたし、
音楽を演奏される方は創造性とは何か、技術とは何か、と考えさせられたと。
同じように障害を持つ人達と関わる方達もそれぞれテーマをおもちだった。

つまりはジャンルと関わりなく、自分のこととして考えさせる何かが、
この作品達にはあるということだ。

人間とはどんな存在なのか。生きるとはどんなことなのか。
生命や宇宙の仕組みはどうなっているのか。
創造性は何処からやって来るのか。

これまでの世界だけが正しいとはもはや誰も思ってはいない。
変えて行かなければならないし、変わらなければならない。
その為のヒントをみんな探している。
もちろん、僕達も探している。

最終的には人の幸せって何なのか、というところではないだろうか。

よく話していることだけど、
僕達のアトリエは幸福度は他のどんな場所より高いと思う。
世界で一番幸福な場所、楽しい場所を目指して行くのが制作の場だ。

さて、来週の火曜日、9月9日の午後14時頃から公開制作を行います。
今回は作家一人なのでよりシンプルに制作の過程が体感出来ると思います。
作家もスタッフも作品もそして場も生ものです。
いつでも上手く行くとは限りません。
でも恐らくは素晴らしい何かが感じられる時間になるかと思います。
ご興味のある方は是非ご覧下さい。
安定度の高い作家ですし、佐久間の経験と現場感を最大限に使って行きますので、
人が見ていても大丈夫だと思いますが、
出来たら少しだけ離れた位置から見て下さい。
おすすめは上から全体を見ることです。

長いと思っていてもいつの間にか半分終わってしまいました。
この展覧会は多くの方に見て頂きたいです。
後半も沢山の方のご来場をお待ちしております。

2014年9月1日月曜日

健康

今日は雨。
アトリエで打ち合わせがある。
プレのみんなにも久しぶりに会える。

夏の公開制作の真ん中の日に、
尊敬している珈琲屋さんが豆を送って下さった。
凛としていて、身体も心も洗われるような味だった。
こういう仕事をしたい、と強く思った。

清潔で品のある仕事。
しっかりと張りはあっても、柔らかく透明感があるような。

自分はまだまだだと思う。

未だにあるものや人と戦っている部分がある。
戦うのは比較するからであって、そこを超えた所に行かなければならない。

本当のものに近づけた時、良い仕事と思えることを出来た瞬間、
汚い言葉だが、ざまあみろ、という気持ちがどうしてもある。

悔しい想いをずっとしてきたから。
端的に言ったら、僕が出会った人達、今でもずっと関わっている人達が、
ぜんぜん理解されていない。
もっと面白いのに、そしてもっと凄いのに、と思う。

午前のクラスで制作している作家にこんな人がいる。
彼はアトリエに来ると、まず制作の場と廊下とを区切るドアを閉めるのだが、
その時、廊下へ向かって、「おぼえとけよ」と言う。
そのまま椅子に座って紙と絵の具に向かって静かに手を合わせる。
そしてすぐに描き始める。

僕はいつも彼に共感する。
僕も場に入るときはいつでもそんな気持ちだ。
おぼえとけよは、人ってそんなもんじゃないぞ、ということで、
本当のものに僕達は向かって行く、
それが出来る事をこの場で証明してみせるという気持ち。
それから場にたいして感謝と祈りの気持ち。

未だに心ない発言を聞く事がある。
でも、もうそろそろ言い返すのはやめにしたい。
正直に言うなら付き合う時間がもったいない。

これは単なる一例にすぎないが、
しばらく前に作業所の高齢の職員の方が、
絵の具の素材等をもっとこうしたら良い、とかトンチンカンなことを言っていた。
この程度の事は良くある事なので別に腹も立たないが、
もっと大きな話でも同じだ。
そのように思う人は自分でやればいい。
もっと言うなら、やってみせて欲しい。
結果の違いは分かる人には分かる。

外から何かを批判する人の気持ちが本当にわからない。
僕も何かを批判する時はある。
でもそれは自分がやっているからだ。

こちらは形で見せて来た。
それが違うと思う人達は形でそれ以上のものを見せて欲しい。
残念ながら出来ないだろうが。

生きているのだから対話したい。
こう思いませんか、と投げかけたものに対しては、
私はこうですよ、と答えて欲しい。
僕らは場に入ればいつもみんなそうしている。
傍観者のように外から採点する人は一人もいない。
あなたは誰ですか、と聞きたい。
姿形のない人や意見と対話など出来ない。

あの珈琲が教えてくれた事は、美は人を健康にするということだ。
早くそういう世界に行きたい。
良い場も人を健康にする。

2014年8月31日日曜日

8月31日

昨日の夜、東京に帰って来ました。
展覧会の会期中にお休みを頂くなんて初めてでした。
しばらく空けていたので、なるべく会場に顔を出したいと思います。

昨日の夜に掃除をして、
今日は午前にアトリエも応援してくれている知り合いの個展に行って、
そのまま上野へ。
一日会場にいました。

会場は本当に真剣な雰囲気でした。
みなさんが集中して作品を鑑賞している姿に感動しました。
一般の方々の方が本気で作品に向き合うな、と思いました。
今では僕自身、あんな風に純粋に見る事は出来ないだろうな、とも思います。

鑑賞の妨げにならないように、ひっそりと佇んでいましたが、
それでも多くの方とお話する事になりました。
今日一日で出会った方々だけでも沢山います。

ゆっくりと作品と対話して頂ければ、それ以上のものはないのですが、
真摯な興味を示して下さる方々が、お話したかったですと、
仰ってくださるので、その想いにはお答えしたいです。

時代も変わり、多くの方々の興味の対象も変わり、
今ではかつてない程、作品の芯に触れて下さる方が増えています。

こんな時だからこそ本当のものを残して行きたい。
作家達の本質を伝えて行きたい。

さて、書く事が沢山あり過ぎるので、また落ち着いた時にとっておきます。

夏の終わりが早そうですね。
もう、気配は秋です。

悠太に触れながら眠れないのがさみしい。

三重でキクちゃんが、今吹いてる風が切ないと言っていたけど、
本当にそうだ。
この蝉の声もいつまで聴けるだろうか。

どん底のような闇も、輝かしい日々も、どんな物事も過ぎ去って行く。
過ぎ去ったものは2度と戻っては来ない。
すべては消えて行く。

僕が最も孤独だった頃。10代で滋賀県の工場地帯で働いていた。
これから何だってする事は出来るけれど、この時間だけは取り戻せない、
と感じていた。
多分、青春のような時期のことを考えていた。
その時期をたった一人で過ごさなければならないやるせなさ。
最も感じる時、考える時、日々が輝く時間に、真昼のような真夏のような時に。
かつての仲間達は遠い所で、その時間をみんなと共有していた。
それまでの子供時代を考えると、これからは自由があった。
何だって手に入れる事が出来た。
でも一番大切なこの時だけはもう2度と手にする事は出来ないだろう。

そんな日々が過ぎて行った。それすらが終わってしまった。
終わってしまって、今振り返ると、
実はその時間こそが僕にとってのかけがえのない青春だったと気づかされる。

もうすぐ夏が終わる。

2014年8月22日金曜日

8月22日

暑い日が続きます。
皆様、お元気でしょうか。

今日はよし子が仕事なので、僕はゆうたと留守番です。
明日から一週間もないですが、少し三重へ行く予定です。

本当はもっと早く移動する予定でしたが、
間に色々と仕事が入ったり、
お世話になっている方々が展覧会場にお越し下さると連絡があったりで、
結局東京を離れられない日々でした。

そのかわり、ゆうたとはゆっくり過ごす時間がありました。
約束していた所にはほとんど連れて行く事が出来たし。

今回の展覧会は美術館主宰で行っているので、
普段のようにずっと会場で皆さんをお迎えするという形もとれず、
後でご連絡を頂いておりました。
直接お礼も出来ずに申し訳ないですが、来て頂けて本当に感謝です。
9月、佐久間が東京に居る間はなるべく会場にも行こうと思います。
何かありましたら一声かけて下さい。
なるべく対応させて頂きます。

夏の公開制作も無事進める事が出来た。
ご協力頂いた方々に感謝です。
普段と違う環境で本来のものを発揮出来たかと言うと、
難しい部分もあります。
でも、記憶しているだけでも輝かしい場面もいくつか生まれました。
全体として良い場になったと思います。
普段のアトリエはより自然でより柔らかいです。

9月も公開をちょっと予定しています。

ただ、今回は特別な場面だと認識しています。
これは作家達とスタッフの普段の蓄積があって、
理解にも恵まれ、沢山のご協力があって可能だったことは付け加えさせて頂きます。
本来的には制作を公開することには反対です。
ご覧になった方がこういった形で人前で容易に場が出来ると考えて欲しくないです。

リスクが大きかった分、展示との一体感等、
今回は特別な空間が生まれたと思います。
その辺りの収穫はまた展示が終わってから振り返りたいです。

こうしている間にも夏は過ぎて行く。
どんなことも終わって行く。

ゆうたとずっといたいけど、そうする事も出来ない。

悠太が起きたので中断。

また東京に帰って来たらブログ更新します。

2014年7月30日水曜日

生きること

場の中にいる時、個々の作品は鮮明に見えてはいない。
そのかわり、もっと強い実在感のある何ものかが見えている。
形としては捉えられない何か。

生きている限り変化し続けるもの。

流れとして感じたり、音として聴こえたり、
川のように流れ、海のように深く、森のように底知れず、
何かがあるが、決して固定出来ないし、名付けることも出来ない。

ただ、宇宙も生命も動いているものであって、
そこに躍動感とか震えがある。

動いていること、変化していること、そこに本質がある。

知ろうとすることの意味のなさ。

それより一緒に楽しめば良い。

絵を描き続けること、何かを創り続けること、
それは特殊なことではなく、生き続けることと同じ。

僕達は今日もここに居るし、歩くしかない。動くしかない。

2014年7月27日日曜日

始まりました

暑い日が続きます。
アトリエでの様子を見ていると、作家達もややつかれぎみです。
身体に気をつけて過ごしたいですね。

展覧会無事スタートしています。
プレスリリース、レセプション、内覧会を終えて、昨日が初日です。
盛況とのことで感謝しています。

僕もまた新たに作品達に出会う事が出来ました。
個人的にはこのレベルの展覧会はそうそうないと思っています。
彼らのエッセンスがあるし、質も高いし、一言で言えば凄いものを感じます。

ただ、毎回言うことですが、絵は自分で見て感じるもの。
それぞれが自己の体験の中で出会って行くものだと思います。

僕らは本当は何も語るべきではないかも知れません。

そんな訳で、だからこそ是非、作品に触れて頂ければと思います。

今日は午前の制作の場に入ろうと思います。
真剣勝負。美しい時間をみんなで創って行きます。
一つ一つの作品、一つ一つの場が答えです。

上野と経堂の場が響き合うように。
創る人、見る人、様々な立場でその場にいる人、
みんながやさしい感情に満たされるように。
そこに平和と調和の静かな風が運ばれるように。
人と作品、こころと美、人と人、こころとこころ、個と世界、
たくさんのあたたかい出会いが生まれるように。

今、自分の目の前にあり、足下にある、この場所が、
こここそが世界中に繋がる地点なのだと思う。
美も調和もここにあるよ、とそういうことを彼らの作品は教えてくれている。

2014年7月25日金曜日

26日、展覧会開始

昨日の雷は凄かったですね。

明日から「楽園としての芸術」展スタートです。

僕も今日始めて展示の全貌を見せて頂きます。

よしこが取材を受けていたので、昨日は美術館へ行っていたのですが、
その時点では、これから大詰めといった感じだったようです。
直前まで悪戦苦闘されているだろうと思います。
学芸員の方、具体的な作業を担当される方々に感謝です。

沢山の方々のご協力と努力なしでは一つの企画は成立しません。
本当に有り難い事だと思っています。

23日の制作ではアトリエスタッフ達も大分疲れただろうと思いますが、
昨日一日空けさせて頂いて、スッキリと今日に備えました。

始まってしまえば、後は見る方々のものだと思っています。
普段の制作の場でもそうですが、送り出すところまでがこちらの仕事。
そこから先は多くの方々の客観的評価に委ねられます。

作品なので、こちらが何を見て欲しい、感じて欲しい、
ということは押し付けられない、ということです。

個人的な経験が重要になってくると前回も書きました。

様々な反響や批判もあるでしょう。
ドキドキしながら楽しみです。

そんな中、初日は絵画クラスの日です。
僕達は普段の制作の場を最も大切にして行くべきです。
土曜日のクラスが充実した制作を行えるように、
場に全力を尽くします。
スタッフは関川君、ゆきこさんです。
僕は最初は居られるかも知れませんが、展示の初日でもあり、取材も入っていて、
そしてしょうぶ学園の方の講演もあるので会場へ行かせて頂きます。

宜しくお願い致します。

2014年7月24日木曜日

いよいよ展覧会

昨日、東京都美術館で大きな作品を制作しました。
しんじ君、ゆうすけ君、ゆうこさん、けいこさんの4名。
スタッフはよしこ、さくま、イサ、ゆきこさん、きくちゃん、みひろ、
いながき君、の7名で挑みました。
作家達もスタッフも良い集中力で本当に素晴らしい場でした。
作家も作品も、そして場もその時勝負だからこそ、
全力で行かなければならない場面があります。

アトリエとしては昨日の現地での制作が仕上げでしたが、
圧倒的に素晴らしかったと思っています。

作家達のエネルギー、即興性、感度の高さ、そこに答えるスタッフ達の動き、
学芸員の中原さんをはじめとする構成して下さった方々のお仕事、
全てが響き合って良い流れが生まれました。

僕達もまだ全貌は見ていませんが、今回の展示はエッセンスだと感じています。

どんな方にも見て頂きたい、お勧め出来る展覧会だと思います。

ご期待下さい。

作品、一点一点が個人の世界を超えた、作家達共通の感性を示しています。
それはまず、アトリエの場においてもそうですし、
さらにダウン症の人たちみんなが共有しているものでもあり、
もっと言うなら僕達も含め人間誰しもが持っている大本のところを表しています。

作品との出会い、美しいものとの出会いは、個人の体験だと思います。
美は普遍的なものですが、そこへ入る経験は個人的なものです。
ご覧いただく全ての方が、
その人でしかない経験を通して何かを見るのだと思います。

描く人の経験、その場にいるスタッフの経験、作品を展示構成する人の経験、
そして見る人達の経験。
それぞれが異なっていて、
それでもどこかで響き合う何ものかがあるのではないでしょうか。

本当の意味で彼らの作品の本質に触れられる機会となりました。
そのことの社会的意義も大きいと考えます。

ご興味のある方は是非、会場まで足をお運び下さい。
僕自身も個人としてまっさらな目で展示を見に行きたいと思います。

2014年7月22日火曜日

祈り

それにしても暑いですね。
台風が抜けて、ゆうたもとりあえずは何とか行けそうです。
元気でさえ居てくれれば、と思います。

いよいよ、展覧会です。
皆様、是非ご覧になって下さい。

色んな場面でお話しさせて頂く機会も増えたし、
時に講演もさせて頂く。
このブログでも沢山語って来た。
でも、そんな言葉の遥か先にあるものが作品からは見えてくる。

それからスタッフ目線に立つなら、
作品は場において妥協をしなかった証でもある。

作家や自分の事以上に場のことを発言する事が多い。
作品については語れないし、見てもらうのが一番。

それでも10年前には場について語るなんてナンセンスだと思っていた。

様々な事に時期というものがある。

想いを込めることや、覚悟を持つ事や、注意力を使い切ること、
それに命を賭ける事、場において大切な事として語って来た。

それだけではない。そこから後一歩何かが必要だ。
最近はそれを祈りと呼んで良いのではないかと考えるようになって来た。

全ての人がそうである必要はないけれど、
僕にとっては場に入る、場に立つとは祈りなのではないかと思う。
これは別に宗教とは何の関係もない話なのだが。

どんな時でも場に立って来たから、一つ一つの情景が強烈に残っている。
あの時も、あんな時も、場に居たな、と。
人生のあらゆる場面で。
辛い時も悲しい時も、誰かや何かを失った時も、
それでも場に立っていた。

だから、僕にとって誰よりも場は特別なものだ。
個人レベルの経験から見えて来る事については、またいつか語るだろう。

今日はキクちゃんと合流する。
明日から、様々な準備がある。

前回の絵画クラスでよしこが少し場に入っていたが、
夫としてとは別のところで、やっぱり彼女は貴重な存在だと思わされた。
極端な言い方かもしれないが、
僕らの仕事にもミリ単位の精度が要求される場面がある。
しかもなかなか習って憶えられるものではない。
すんなりそれが出来る、そして絵になる、というところに、
やっぱり彼女の凄さがあるし、まあ、何と言うか、そこを計算でやっていない、
というのも面白い。
場にとって貴重な存在だ。
繰り返すが、そういう人はあんまり居ない。

一面的な言い方に過ぎないが、場においての個性を考えると、
よしこはあたればボームランというタイプ。
僕はどんな球でもバットにあてる事が出来るというところが強みかな。
僕は地味な努力型だから。

あまり書く時間はないが、HPも開いて頂く機会が多い時期なので、
またどこかで出来るだけ更新して行きたいと思います。

2014年7月19日土曜日

本日

ゆうたとよしこが無事東京に合流しています。

疲れもあり、喘息が完全に治まっていないので、
今日はアトリエに居させて頂きます。

制作の邪魔にならない範囲で、2階と行き来しています。
制作の後の時間で少しみんなとも触れ合って欲しいと思っています。

ゆうたの成長にとっても、こういう環境に触れる時間や、
何気なく作品の色を見ておく経験が大切だと考えております。
制作に関しましては、スタッフが責任をもって普段の環境の質を保ちます。
参加されている皆様、ご理解の程、宜しくお願い致します。

外部から、ご見学の希望が殺到しておりますが、
東京アトリエは8月は夏休みとさせて頂いております。
申し訳御座いませんが9月にもう一度お問い合わせ下さい。
宜しくお願い致します。

さて、今日も良いアトリエの時間となりますように。
ブログの更新もちょっと間が空くかも知れませんが、
またお会いしましょう。

2014年7月17日木曜日

匿名性

結局、昨日も暑かったです。
これからは秋まで暑い日が続くのでしょうね。

しばらく珈琲を飲まなかった。
よしこが東京に来るので、美味しい豆を買っておこうと、
久しぶりに大好きで仕事としても尊敬している珈琲屋さんへ。

その方のつくり出す味は本当に素晴らしいが、
特に凄いと思うのは雑味やわざとらしさが全く無いこと。
透明感があって、内にぐっと秘められている何かがある。
丁寧だし、更に言うなら表面を着飾った美しさではなく、
内面から出て来る本物の美しさがある。

少しお話ししていて、珈琲業界の他の方々のことや、
今、社会でうけているものについての話題だった。
結論はやっぱり名前が出ている人にばかり注目が集まる、
それによって分かり易い、つまりはそれっぽいものばかりが流行る。
作り手も名前を打ち出して行くことが、創る中心にさえなって行く。
これでは良いものは生まれないし、良いものの価値が見落とされてしまう。
結果、本物が滅び、偽物ばかりが残って行く。

美と美を扱う業界は無縁のものだ。

外に出る時、そして出す時、このことが一番注意すべきことだ。
世に出ることは名前が出ることでもある。
それにはリスクが大きい。

良いものは、美しいものには匿名性がある。
本当の作品はすべて匿名であった方が良いと思う。

日本に数々ある美しい仏像なんて、その大半は匿名だ。
かつての民芸にしてもそうだろう。

名前なんか出さないにこしたことはない。

僕自身も自分の名前が出ることには気をつけている。
名前は発言や行為に対する責任の意味でしか使わない。

多くの良いもの、美しいものが名前のせいで台無しになって行く場面がある。

だから、僕達のアトリエは本当に理想的だ。
ここでは競争はないし、誰も目立とうとしない。
活かし合うことが基本にある。
みんなそれを知っている。
場とはそういうもので、前にも書いたが得しようとすると場に嫌われるから、
結局自分が楽しくなくなる。
楽しもうと思うと、必然的に活かし合う形となる。
これがみんなが知っている場の基本だ。
誰でも気持ち良く過ごしたい訳で、それを追求して行くと、
最終的に場の声を聴く、場の流れを感じる、そして活かし合う、という形になる。
ここの作家達は日々、それを実践しているし、肌で知っている。

2014年7月16日水曜日

元の形

今日は曇りですがその分、少し涼しいですね。

昨日はプレの時間に久しぶりのあきこさん達が来てくれました。
双子の子供達も。

海外生活だと滅多に会えないけれど、繋がりを大切にしていきたい。

やっぱり人。みんなのことが大好きです。

これから、色んな部分でもっともっとシンプルにして行きたいし、
自分自身もシンプルになって行きたい。

そして、場にしても展示にしても、他の活動にしても、
シンプルさの持つ力強さを感じられる方向に行けたら、と思う。
根本のところで何が大切なのか。
最後に残るものは何なのか。
そこへ立ち返るにはどうすれば良いのか。

そういった人として元の形が必要とされる時代だと感じている。


2014年7月15日火曜日

もう7月

何度も言っても仕方ないですが、暑いですねえ。

プレのみんなも元気です。
暑い日は途中でゴロゴロしてたりします。
自然体です。

よしことゆうたが本当は昨日、今日くらいに東京に来る予定だったが、
台風と風邪の影響で体調がいまいちで、体力が戻ってからということになった。

プレのみんなと会いたかったけど残念。

でも、以前と比べたら喘息も酷くなくなっているし、
体力もついて少し安心出来るようにもなった。

病院の先生とよしこと支えてくれる家族、親戚、それにアトリエのみんなのお陰だ。

夏は切ない思い出、辛い思い出も多いが、その倍以上鮮やかな情景を思い出す。
沖縄も素晴らしかったなあ、またいつか行きたいなあ。
山形で花火を見たことも思い出すし、信州での日々も思い出す。
去年やその前の夏合宿。
今年はどんな夏になるだろうか。

日曜日にしんじが言った「海は深い、浅い、これよ」。
そうだよなあ。
深かったり浅かったり、良かったり悪かったり、嬉しかったり悲しかったり、
色々あって、場所ばかりでなくいろんなところに行って、
浮かんだり沈んだり、そうやって続いて行くんだな、と思う。

自分が正しいと思っていた時期もある。
勢いもあって恐れも知らない時期もあった。
人の気持ちを知り、恐れることを知り、単純には行かなくなった。
その分、認識は深まっていると信じたい。

いつでも今が一番と思える。それが幸せだ。
だって、どんなことであれ、それを知ることが出来たのだから、
経験することが出来たのだから、その前には戻りたくはない。

今日も暑いですが良い一日になりますように。

2014年7月14日月曜日

昨日のアトリエ

暑い日が続きますね。

すっかり空っぽになってしまう。
その感覚は気持ち良いものでもある。
でも、良いとか悪いとかではなくて、なんだか不思議なものだ。

一つの場に対してすべてを使う、ということだけど、
使おうと思っても使えるとは限らない。
それはあくまで場がそうさせる。

昨日の午後のクラスのこと。
急な欠席が多くて、最近では珍しく、しんじ君とさとちゃんの2名となった。
ところが、ここから2人が凄いモードに入った。

こういうことが起きる。
勿論、結果として創られた作品は普段以上のものになる。
しかし、それ以上にそこへ向かって行くときの、静けさや深さや、
力強さや、繊細さが凄い。

こういう時間こそが生きている時間だ。
作家もスタッフもそういうところに賭けて行く。

いつまで経っても面白いなあ、と思う。


2014年7月13日日曜日

途轍もない作品

昨日は暑かったですね。
2、4週クラスは撮影が入っていることが多いです。

昨日は午後のクラスが久しぶりに全メンバーが揃って、みんな嬉しそうだった。
最近は休みの人が結構いたから。

いつでも数名は心配な人もいる。
何もしてあげられないのだが、せめてアトリエにいる時間でちょっとでも、と思う。

そして全部のクラスがそうだが、
一人一人がさり気なく気にかけ合っている姿が素晴らしい。

ここしばらく、ゆうすけ君の作品が更なる高みに登っている。

作家にはピークというものがあって、その時期はそんなに長いものではない。
ピークを過ぎたからと言って、ただ枯れて行くばかりではなく、
色んなことが可能だ。
ピークが過ぎて行くことは別に悪いことではない。
むしろ一人一人にピークというものが与えられている、と考えた方が良い。

ピークを過ぎると、燃え盛るような新鮮さはもう戻っては来ない。

それなのに、ゆうすけ君は再びピーク時のようなところへ来ている。
これは不思議だし、凄いことだと思う。

自然にピークが終わり、落ち着いて行く分には良いのだけど、
場合によっては何か切っ掛けがあって、ガクンと落ちてしまう人がいる。
今だから言えるが彼にもそんな時期があった。
しんじ君やゆうすけ君の場合、そういう時でも作品に入る時はある程度は、
良いのが描けるという部分がある。
それと、ゆうすけ君の場合はまだ内面から見えて来るものに、
もう一度、行けるかも、という要素があった。
こういう時期は周りの認識が大切になって来るので、
リスクに気がつかない方が良い。
希望を失わないことが大切で、もっというなら楽天的なくらいで良い。

たとえ、以前のテンションまで戻らなくても、良い作品は創れるし、
幸せであることも出来る、そういう在り方を一緒に見つけることが大事だ。

どっちかな、ちょっと行けそうな気もするし、安定の方に行くかも知れないし。
そんな訳で、微妙な時期は誰にも話せないこともある。
話すと影響がでるし、考慮する要素が増えてしまうからだ。

少しでも可能性があるなら、最大限に活かしたい。
少しでも良い時間の記憶は刻みたい。
ピークの時、上れるだけ上った人はピークが過ぎても、安心感が違う。
作品は残るが、もっと大切なプロセスや場は消えて行くもの。
ただし、食べたものが消えて行くのと同じで、
その消えたものが自分の身体を作っている。

前に拾うことが大切だと書いたが、
そういう良い流れやこころの動きを拾って行くことで、
見えなくなって消えて行きそうになっている大切なものが、
再び表に現れるということがある。

ゆうすけ君の作品は奇跡のように再び燃えているが、
以前より深みも増している。
ここに来れて良かった。

これはあくまで信頼関係の上でのこととお断りしておくが、
ある時期は僕がテーマを指定することもあった。
こういうことは普段は絶対しない。
アトリエ・エレマン・プレザンにおいては、指導的な手は一切加えない。

ただ、ここが難しいところなのだが、本人の内なる声を聴き、
時にはあえて踏み込むことで、よりその人が活きてくるなら、
そこは責任を自覚した上で進めなければならない。

単純な話になるが、アニメの絵を写して描きたいと言ってくる人に対して、
一歩、じゃあ頭の中に入れて見ないで描いてみる?
それだけでも絵のみならず、こころの動き方は変わって来るし、
終わった時、本人はこうしておいて良かったと実感する。

そういう経験があるから、彼らもどう?と聞いて来るし、
滅多にないけど、こうしよっか、と僕がいう時、うんいいね、とすぐに答えてくれる。

内面の声を聴いて、信頼関係の中から生まれた作品と、
指導され、描かされた作品とは圧倒的な違いがある。
それは見れば分かることだ。

何度も書いたが、描かされた、と言っても指導されていない絵も含まれる。
その場にある雰囲気や、言葉を発しなくてもいる人の目線、
描かせる、強要する要素は無限にある。

そんなことはともかく、
ゆうすけ君の作品は凄いです。
これこそ絵でしか表現出来ないなにものか。
言葉を超えた感覚の世界であると同時に、普遍に達している。
奥深い内面の世界であると同時に、どこかこの宇宙のようだ。
そこには内も外もない。

2014年7月12日土曜日

農耕と狩猟

今日もちょっと暑くなるのだろうか。

この2、4週の土曜日はどちらかと言うと集中型のメンバーが多い。
1、3週のクラスが動であるならこちらは静。
単純には言い切れないけれど。

スタッフも静かに集中して場に入る。

良い時間が流れれば驚くほどの何かが生まれて来るのも、
この土曜日の良いところだ。

2、4週の日曜日のクラスは外で色んな出来事が起きている日が多いし、
1、3週の日曜日は特に午後クラスは良く晴れた日が多い。

そう言えば、この2、4週の土曜日の午前のクラスは雨が多い。
時には嵐の中だったり。
外の喧噪をよそにみんなが凄い集中力を発揮している場面がいくつも記憶にある。

この前、テレビで長い間変わらない生活を続けているという人達が映っていた。
タレントがその生活に入って行くという番組。
いわゆる狩猟民族で、番組で見た限り何かを栽培したり蓄えたりは一切していない。
道具はほぼ槍だけで、その槍も木を歯で噛んで作る。
狩りに出て獲物を穫って、全員に平等に分けて食べる。
穫れない時は諦めて帰って来る。
ひたすらその繰り返し。
ただ、ただそれだけの毎日なのだが、見ていて良いなあ、と思う。
こういうことだよね、と思う。
彼らには家もなかった。かなり遠いところまで移動しながら狩りを続けている。

彼らはことさらに何かをしようとはしない。
自然の中での自分達の位置を分かっていて満足している。

ありのままに近い生活だろう。
何も持たず、裸で自然の中に居る。

一方で農耕のようなことはどうだろうか。
食べ物を栽培するので同じ場所に居続ける。
毎日、手をかける。
村のような共同体が出来て行く。

信州にいた頃、働いていた場所の近くにおじいさんがいて、
山の主のような人だった。
農業をずっとやって来たので何でも知っていた。
それどころか、蚕のことや炭焼きのこと、村の歴史に関わること、
本当に多くの知識と経験を持っていた。
良い米を作ろうと思ったら、毎朝、毎晩、田んぼに入れ、良く観察しなさい、
そんなことを言っていた。
実際に彼は毎日、田んぼで何かしていた。
裸足で入れば、土に何が足りないのか、今年の収量はどれくらいか、分かった。

最近も考える、日本の本当の生活をするには毎日家にいなければならない。
でも、そこから見えて来るものは果てしなく大きいと思う。
毎日、何かに手を入れて行く、維持されて行くと同時に磨かれて行く。
新しいものよりも、月日が経ったものの美しさ。

農耕的なものと狩猟的なものとまで言ってしまうとテーマが大きくなり過ぎるが、
手をかけ、日々磨かれて行く世界と、
いつでも新鮮な恵みの中にいて、裸の身体と感覚だけをたよりに、
明日を考えずに生きられる世界。

またまたテーマをこちら側によせるなら、
制作の場にもこの2つの要素が共存している。
割合で言ったら6対4、狩猟6に農耕4だろう。

磨かれて想いがこもった場に入って、こころや自然や偶然の波の中から、
輝く瞬間を穫ってくる。
感謝とともに誰が穫ったものであれ、全員で平等に分けて食べる。

日々、積み重ね、ゆっくり大切に創って行くと同時に、
ほとんど無限に見える広がりをひたすら歩き続け、本当のものを見つける。
的を外してはならないが、それ以上に的を見つける力が大事だ。

そして、どんな時も仲間の存在を忘れてはならない。
自分のために動くのではなく、みんなのために動く、これが基本中の基本だ。

2014年7月11日金曜日

それにしても蒸しますね。

さてさて、最近は増々静かに仕事したいなあ、と思っています。
世の中騒々しいですが。

今の時代は何でも情報化されていて、ほとんど何処に居ても変わらなくなった。
それなのに未だに田舎者も大勢居る。
田舎者とは田舎に住んでいる人ではない。
一言で言えば劣等感から媚へつらう人。
都会が良いと思い込んでいる人。
外で有名な人が歩いていると喜ぶ人。

こういった方々が勝手に騒いでいる分には良いのだが、
他人も同じように考えていると思い込まないで欲しい。

別に科学なんて絶対ではないし、権威が偉いとも思わないし、
都会が素晴らしいものだとか、海外が進んでいるだとか思わない、
そんな価値観の人間も多く居ることを忘れないで頂きたい。

誰もが目立ちたいとは思ってはいない。
地位も権力も全く興味がない、そんな生き方もある。

自分の名前や手柄に拘る人間も田舎者の一種と言える。

バカバカしいと思わないのだろうか。

そんなものは全く何も与えてはくれない。

僕はいつでも手ぶらでいたい。
制作の場が楽しいのは自然界と一緒で、
人間の作りあげた下らない価値が通用しないところだ。
身動き出来る裸がいつでも一番幸せにしてくれる。

騒ぎ回るのはやめよう。

もっと中身を考えよう。

何故、あえてこんなことを書くのかというと、
こういう人達が世の中で騒ぎ回ると、
静かに質の高い仕事や生き方を追求している人間が巻き込まれるからだ。
少なくとも別の価値観も尊重して頂きたい。

さっき、鮮やかな虹が出た。
しかも二重の虹。感動。
駅の前で多くの人が見惚れていた。
あんなの人には創れない。
僕達は与えられてこの場にいさせてもらっているだけだ。
この奇跡のような現実に毎日もっと感謝したい。

2014年7月10日木曜日

大切なこと

早めに仕事と用事を終わらせて、建物の中に居る。
これから台風ですね。

すっかり暗くなって風も強くなって来ました。
教室日でなくて良かったと思っています。

昨日のブログで上杉さんのことを書いた。
いろいろ思い出していて、一つだけ書いておきたいことがあった。
良い方だったけれど、僕が最も素敵だなと感じたのは打算のなさだった。
シンプルなことだけどこれは大切なことだ。

たとえ稚拙であれ、多くの失敗を重ねようと、
最後のところでは損得勘定を離れた姿勢に人は清々しさを感じる。

世の中はお金がベースになっている以上は、
善意の人がなかなか上手くいかない仕組みになっている。
お金自体が悪い訳ではないが、お金というものは人の醜さを引き出す。
こういう仕組みではずるい人ほど成功することになる。
だから何も成功者が良い訳ではない。

昔から、理想を語ると実現出来るのかなあ、と反応する人が多い。
こういう人達は実現出来るかどうかだけを考える。
実現出来ないことに労力を費やすのは無駄だから、損だからだ。
始めから失敗しないようなことを選んで動く。
世の中では賢いと言われる人達だ。
僕はこの賢いという言葉をずるい、汚いと置き換えたい。
自分がそこから無縁だといういう訳ではない。
誰しもがそういうずるさや汚らしさを持つからこそ、
そうでないようにしたいし、人のそう言う部分が引き出されない環境を創りたい。

損したくない、得をしたいという感情がどれだけ醜いものか、自覚を持つべきだ。

場において自分を顧みないという姿勢だけが、仲間達のこころをうつ。

上杉さんの他にもう一人思い出す人がいる。
以前、イニシャルでこのブログに書かせて頂いた方だ。
僕より10才位上の方だろう。
本当に短い間だけど一緒に仕事をしたことがある。
孤児院のようなところにいる子供達と合宿をした時だ。
このとき、彼と2人で数日間、僕の言葉でいえば一緒に場に入った。

最初は子供達とサッカーをしているところだったか、
彼がみんなの笑い者になっていて、それを楽しんでいるのが分かった。
そしてその場はどんどん輝きだした。
彼は重要なタイミングを見極めると、自分のダメな部分を曝して、
みんなに笑われながら、一人一人が人のどんな部分も肯定出来る雰囲気を創っていた。

その場面を見ながら、場を知っているな、と僕は思った。
それが分かる人はこれまで数人しか出会っていない。

彼は自分を捨てることなんて平気で出来たし、
いつでも喜んで損する気持ちがあった。

僕らはすぐに意気投合した。

そういう人と場に入ると本当に楽しい。
一緒に投げ合って行くと共に音楽を奏でて行くようだ。

場においては一番エネルギーを使う人が一番損するように出来ている。
そこが素晴らしい。

僕らはみんなとコミニケーションをとらなければならないが、
打算はそれをストップさせてしまう。
自分のことを考えた瞬間に繋がりが止まってしまう。
ああ、この人はここまでか、と相手をがっかりさせてしまう。
打算は深いところでの繋がりの中で一番見えてしまうところだ。
この人、自分のことを考えてるな、損したくないな、とか。
明日のことを考えるようでは良くならないのは当たり前だ。

場の中で、自分を考える人を見ていると悲しくなる。

セコいな、ずるいな、ケチだな、という人がほとんどだ。
なんでそこで全部あげないのだろう、と思う。

何もかも失っても良いという覚悟がなければ、場になど入れない。

外からどんなに出来ないレッテルを貼られていようと、
明日を考えないで場に立つ人を見ると、すぐに伝わるものがある。

生きているほとんどの時間が損か得かで出来ていたとしても、
最後のところではこんな世界を大切にしようではないか。
みんなが投げ出し合って、自分を顧みないで、人や場を見つめているとき、
そこで響き合うものの素晴らしさは言葉にできない。
これこそが生きている時間だと感じる。

少なくともそういう時間をこの世の中のどこかには、
ひっそりとでも良いから残して行きたい。

2014年7月9日水曜日

上杉さん

台風はかなり大きいみたいですね。
いやあ、蒸暑かったですね。

昨日、前世田谷区議会議員の上杉裕之さんを偲ぶ会に出席しました。
多くは語らないことにしたいです。

出会いから始まって色んなことを思い出していた。
代々木から経堂へアトリエを移転する際には一緒に探して下さったばかりか、
ご自分の自宅をどうでしょうか、と提案して下さった。
ダウンズタウンで馬を飼いましょう、それが私の夢です、と常々語っていた。
多くの人をご紹介頂いた。
沢山相談にものって頂いた。
お誘い頂いて、色んな場所にご一緒した。
よしことのやりとりでは、
三重で早くゆうたと一緒に釣りをしたいと言って下さっていた。

映像で様々な場所で指揮をする上杉さんの姿を見た。
ベートーヴェンの第9を指揮する上杉さんを見ていて、涙が溢れそうになった。
そして、この人の根本はやっぱり音楽なのではないか、と感じた。
やさしくて愛があって、夢があって、素直な方だった。
その元には美に対する感性があったのだろう。

そういえば、テレビ番組のレポーターに挑戦する浅田真央を見たけど、
海外を歩きながら、出会うものに対しての驚きや発見の姿が本当に素直だった。
途中、リストのピアノ曲の演奏を聴く場面があった。
彼女は最初のいくつかの音を聴いただけで涙を流していた。
美への感受性が、やさしさや素直さの元にある。

美しいものを尊敬することほど大切なもことはない。
そして美は個人のものではない。
もっと普遍的な何かだ。
上杉さんの献身的な生き方はその一つの現れだったと思う。

2014年7月8日火曜日

原始の植物

しばらく、ご見学の方が続いていた。
この場所を必要とされている方々は、
現在アトリエのメンバー以外に沢山の人がいるのだ、と実感する。
今、社会の中でどんなアプローチが必要なのか、
僕達に与えられた責任を考える。

様々な世界があるいは、あまり使いたくない言葉だが業界がある。
前にも書いたが業界と一般の人達とのズレは大きい。
一般の人達の感じ方が実は大事だ。
業界の常識とはそこに生きる人達の損得勘定で作られて来たものだから、
少しづつ社会からズレて行く。
何も話題になっている政治や学会の話ばかりではない。
どんなジャンルであれ業界には業界にしか通用しない理屈があって、
本当に社会に必要なことが出来にくくなっている。

業界で評判が悪かったものが、一般には反響が高かったり、
業界で高い評価を得たものが、一般には何の反響も呼ばないことは良くある。
何故か。
業界に社会がない、社会性がないからだ。

このことはまたいつか考えよう。

そんなことより、アトリエも一般の人達、社会へ向けてしっかり発信したい。

そうしなければ、いつまで経っても限られた人達が、
言い方は悪いが、傷跡をなめ合っているうちに終わってしまう。
まっさらな人達に何かを感じてもらう、興味を示してもらう、
更に言えば、何か凄いものがあるぞ、と感じてもらう、
それが広がって行ったとき、始めて社会の中での彼らの文化が守られる。

台風の影響でよしことゆうたが心配だ。
台風が近づくと本当にひやひやする。

しばらく、お会いする人との関係でもあるが、深めの話題になることが多かった。
かなり深いものを出していると、不思議に触れている現実も違って来る。

そんな中で、絵とタイトルの話とか、筋とかストーリーのことを話していた。
作品におけるタイトルは拘ると逆に絵の邪魔をして見えなくする場合もある。
また、絵を描いているとき、彼らはとっかかりとして、ストーリーや、
具体物を出して来るが、それは最初の導入であって、
どんどん絵に入って行って、感覚が反応しだしてからは、
色と線と戯れ、もっと言葉にならない世界に行っていることは確かだ。
ダイレクトに感覚の世界に入ってる作家、たとえばしんじ君の絵を見たりすると、
本質が分かり易いが、みんなそれぞれがそのような表現が根本にあって、
付随するものとして言葉や具体物や物語が出て来る。
そのとっかかりばかり見ていては本質は見えて来ない。

というような話題にもなった。
そして制作の場に入って、かずき君が仕上げた作品が答えてくれた。
タイトルは違うものになったが、
テーマは最初の植物でまだ色んなものが分かれる前、
全てが繋がっていた頃の植物だという。
あまりにも僕がテーマで語っていることに近いが、
これは彼自身がはっきりとそう言ったのだ。
こうなって来ると、タイトルも描かれた作品も同じものをはっきり示すケースだ。

それにしても、全てが渾然一体と化して動いているその美しい一枚は、
様々なことを象徴していて、僕自身、本当に良いイメージをもらったと思う。
このイメージでまた場へのアプローチが一つ増えるし、動きも変わる。
前に書いた繋がるカギのようなものだ。

いつか、作品もご覧いただければ、と思います。

2014年7月7日月曜日

志村ふくみ

2日間とても良い場があって、作品もいつになく光っていた。
その前の週もかなり良かったり深かったりしたので、
1ヶ月ほどこの流れが続いていた。

エネルギーが溢れるように湧き出て来る時でも、
流れの良い時はどこか遠いところから見ているような感覚になる。
どうも作家達もそういう瞬間があるみたいだ。

とてもクリアで明晰で、瞬間に敏感に反応出来ているのにぼーっとしている感じ。

深い場が続く時はやはり眠りが深い。何の夢も見ない。何の記憶もない。

昨日は眠ったというより、気を失っていた。
気がつくと朝。
その前までのすべてが消えて、スッキリする。
ここからはまた新しい。

そうだテレビを見た。
途中からだったが素晴らしかった。
日曜美術館の特別編だったのだろうか。
染織家の志村ふくみが特集されていた。
全部良かったから、何処がとは言えないけど、やっぱり色って凄いなと思う。
色は命だし宇宙だし、人間のさかしらを超えた何かなのだと、
そしてそれを言葉ではなく肌で知っている人なのだと感じた。
志村さんのような人こそ、何かを知っている人だ。

志村さんの言葉や姿や、
そして染めた着物が背景の自然と一体化している場面に感動。
あの音楽は何とかならないのだろうか。
あんな「感じ」とか「雰囲気」とは全くかけ離れた本物が目の前にあるのに。

最も印象に残ったのは、というかもっと自分が分からなければならない、
と感じさせられたのは、
「人間よりも植物の方が位が高い」という言葉だ。

記憶だけで書いているので間違っているかもしれないが、
志村さんはそのように言っていた。
欲と言ったのだったか我欲だったか、
とにかく、そういった小さな頭や意識の世界に生きている人間に対し、
植物はただただこの宇宙の摂理に忠実に、ひたむきに生きている。
その営みの厳粛なる姿。

志村さんは本当に植物を尊敬している。

このように書いても、
志村さんのぽろっと出て来る言葉の豊かさに届くどころか、
擦りもしないのが残念だが、実際にご覧になられた方はその世界に触れたと思う。

制作の場に入る時、僕達にも必要なのは我を離れ、
自然界や宇宙の摂理に忠実であること。
遥か先を見ておられ、歩いておられる方々が居る。
及びもつかない。
でも、どれほど遠くても、目指すものが遥か彼方であろうと、
今歩いている道が間違っていないことだけは確かだ。

2014年7月6日日曜日

場への信頼

昨日も本当に良い場だった。
何度も言うがこれって楽園だなあ、と思う。
でも、それは一人一人の良くしようと言う意思の現れだ。

最近よく話すことだが、作家達への信頼と、作家からもらうスタッフへの信頼は、
勿論、必須条件なのだが、もう一つ場への信頼が必要だ。

場への信頼は色んな局面で僕達を助けてくれる。
そして、場からも信頼されなければならない。
作家との内面的な対話と同じように、場ともしっかり対話して行く。
前回の言い方で言えば、拾うこと、どれだけ拾えるのかが大事。
誰かがこうしたい、といったら、そうしてあげるのは簡単。
でも、それはすでに主張されたものであり、意識レベルのものだ。
制作や場に関わって行くと、意識にのぼる浅いレベルでの接触は初期的な段階だけだ。
無意識の反応や声を聞く。そして尊重する。
尊重するというのは拾うことだ。
何かが現れて来る、それはほとんどの人が気づかないレベルで。
気づかないあるいは、気づく必要がないものと思われている、
何気ない動きの中に大切なものやメッセージがある。
拾わなければ、大切に扱われなかった、尊重されなかったと、無意識が感じる。
そして出づらくなって来るので、表面から見えるものはより減って行ってしまう。
そうすると更に拾いづらくなる。
それが人の心であれ、場であれ同じだ。
場の中で偶然の何かが起きる。
それはただ単に誰かがくしゃみした時に偶然ポットが音を出したとか、そんなこと。
それが何かを示していると感じたら、しっかり拾う。
拾ってもらえれば、次も出易くなる。
それが対話であり信頼関係だ。

場が応えてくれるという信頼があれば、場は助けてくれる。
僕達も場が何か言っているとき、必ず拾うことで、
言ったことはちゃんと聞いてるな、
と信頼され、次のメッセージをもらうことが出来る。

作家との関係と一緒で一方向の付き合いではない。
どちらかだけが受け続けるということはない。
響き合い、応え合う。
最終的には何処までがどっちなのか分ちがたいほど深く対話して行く訳だ。
改めて言うが、僕の言う対話は言葉のことではない。

フィッシュマンズの「男達の分かれ」を聴いている。
最後の頃のライヴだけど、彼らのどのCDより好きだ。
はかなさや切なさ、悲しさにみちているけれど、本当のところに触れていると思う。
どんなに辛くても、感じないより感じた方が良い。
その先にきっともっと美しいものが見えて来るから。

2014年7月5日土曜日

場そのものが作品

さて、土曜日のアトリエ。
この1、3週目の土曜日のクラスは午前、午後ともににぎやかなクラスだ。
こういうエネルギーの強いクラスの場合、前半の1時間が重要だ。
制作にも勢いがある。
今日は雨かもしれないが、暑くないので描く環境としては良い。

先週ゆうすけ君が描いた作品が一週間経って、色も大分落ち着いた。
素晴らしい作品だ。これまで見て来たのともまた違う。
一枚の絵の持つ力の凄さを感じさせる。

前回は入魂の作品だったので、普段2枚描く彼も1枚にした。
100枚分の内容だ。勿論、数では語れないが。

前にも書いているが、さとし君やゆうすけ君の作品は特に、
出来たばかりの数時間が一番美しい。
その状態を残せないのは残念だが、しかしそれは制作の場が残せないのと同じ。
それぞれの時間は消え去った訳ではなく、こころの中に刻まれていく。

確かに色のトーンが落ちるという部分も大きいが、
それ以上に彼らの場合、その場、その場の風景に融合して描いている。
季節や天気や、外の光との関係。作家達同士やスタッフのこころの動き。
描き始めの時間と終わりまでのプロセスでの変化。
それら全ての中で、調和して行く。
その結果、その場に最も合った作品が、
その日、その瞬間に最も光る作品が生まれる。
だから、当然出来上がった時がその作品が最も輝く時だ。
それはやはり音楽のようだ。
もう一つ言うなら、出来上がった作品を切り取って見るというのは、
CDで音楽を聴くようなもの。
良い悪いではなくちょっと別のものだ。
色を塗り重ねているうちに、外の景色が薄暗くなって行き、
対応するように光の度合いを強めて行く。
出来た瞬間、薄暗い景色の中で荘厳に輝く色彩が、ぴたっと決まる。
逆に霧のような景色の中で、淡いぼかしたような色が重なり、
徐々に外の景色に光が射して来たその時に、作品が完成される。
外からの光に照らされ、淡い色の作品が景色の中に溶け込む。
まるでその光から自然に生み出された色のように。

よく現場を見に来る方が、セッションを見ているようだ、
と仰るが全くその通りだ。

場というものは、絶えず輝こうとしているし、
そこに入った個人も場の中での自分の最適な位置に行こうとする。
ここには偶然と言う要素も入り、その偶然を一人一人がどう扱って行くのか、
そして、流れや空気をそれぞれが感じ、互いを活かし合う。
音楽でいえば、相手の音を良く聴いて自分の音を出す。
言葉を使わないところでの対話が大切になって来る。

外の音、響き、庭の色の変化、筆の動き、言葉、それぞれが活かし合う。
ある意味で言うなら、一瞬の隙もない。
その一瞬が全体の中での大切な要素になって来るから。
さらにいうなら、何処まで拾うことが出来るのか、と言うことでもある。

そうやってその日の場という作品をみんなで創って行く。
いつも場について書くが、場というのは実態として存在している訳ではない。
その瞬間瞬間に、一人一人の気づきによって創りあげて行くものだ。

今度の展覧会は「楽園としての芸術」つまりは芸術的な環境とも言える。
これを制作の場に限って言うなら作品としての場と言えるし、
同じことになるだろうが、作家達は作品のみならず、生き方も美しい。
(もし様々な環境での無理がなく、本来の状態が保てるならば。)

今日も良い場を。


2014年7月4日金曜日

マーラー

この前のプレの日、イサとみんなが楽しそうに過ごしている中で、
僕はソファで休んでいたらそのまま寝てしまった。
次の日、ハルコさんが折り紙でソファを作ってくれて、
「はい。サクマさん、これで寝ていいよ」と言ってくれる。
言葉にすると、やさしいなあ、ということだが、もっと深い部分もあって。
とにかく、こういうの良いでしょう。

よく浅いとか深いと書いてしまうけど、
別に深くなければならない、という意味ではない。

ただ事実として深い部分をいっぱい見て行くことが、僕達に要求されている。

物事が良いか悪いかで出来ていたら、こうすればこうなるで出来ていたら、
分かり易いし単純で良い。
でも、ほとんどのことはそうはなっていない。

複雑で情報量も多くて、混沌としている。
そんな現実を見ていると疲れるから、多くの人は単純化して考える。

この前の朝、玄関から男の子の声がして、
雨がどうとか言っている。
時々、こんにちはとか。
声がゆうたに似ているので、あれ、ゆうたかな、どうして東京に?
と思って覗くと、オウムが立っていた。
オウムがこんにちは、という。
言葉までしゃべるのだから、飼い主がいるはずだ。
保護しておきたかったが、すぐに飛んで行ってしまった。

あれだって一体何を示していたのだろうか。

喜びと悲しみが全く別のものだったら、ただ喜びだけを探せば良いだろう。

人の生にはもっと言い表せないほど深い何かがある。
深い部分から逃げたいと言う気持ちと、そこに触れてみたいと言う気持ち、
人にはその両方がある。

美と言うものにしても、ただ美しいだけではない。

ずっと昔、一枚の写真に衝撃をうけた。
僕が最も苦手なものは血だ。見ただけでクラクラしてしまう。
その写真はどこかの神社の儀式を撮っている。
無数の兎と鹿が首を切られて、並んでいる。
生け贄なのだが、想像以上の数だ。
他にも色んな儀礼の道具が並んでいただろうか。
白装束を着た人達が並んでいる。
ゾッとして鳥肌が立った。残酷さも感じた。
だが、それと全く同時に何とも言えない感動があった。
そこには確かに美が存在していた。

ああいう突き上げて来るような感情を何と表現したら良いだろうか。

全く言葉が触れ得ない、あるいは全く何の手がかりもない領域。
論理的には絶対に分析出来ない世界。
そういうものが僕達の根本にはあって、みんな扱いかねている。
でも、どこかでそれに触れなければ、充実感もないことは知っている。

この話はしたくない。本当は。
恩師の信さんの長男が亡くなったころ、
僕は内部に過激すぎる感情を抱えていて、どうすることも出来なかった。
最初で最後の精神的危機に直面していた。
10日間くらいだろうか、いろんなところを逃げ回っていた。
東京で友達の家に行った。そこで本当に小さな音でなっていた音楽。
美しかった。救われたと思った。
あんなに美しいものに触れたことはない。

ならば本当の美に触れる経験は、悲しみや痛ましさや絶望と無縁ではないだろう。

夜、レナードバースタインとイスラエルフィルハーモニーのマーラー9番を聴く。
(最後の第4楽章)
途轍もなく美しく、はかなく、悲しく、痛ましく、そして慈愛に満ちている。
凄いと言うか凄まじい。
掘って掘って、抉って、何処までも深いところに触れようとしている。
いつでも聴くような、また聴こえるような演奏ではない。
音楽でしか表現出来ない、語れない生の深淵に連れられていく。

バーンスタインは実はあまり好きではなかった。
芸術家に必要な厳しさが足りないと思っていた。
もっと自己を律するべきなのではないかと。
でも、この演奏は全く別次元で、それもバーンスタインでなければ出来ないだろう。

時にはこういう深いところまで行かなければならない、と思う。
そして、どれほどそこに痛ましさがあるにせよ、
最後のところでの本当の意味の肯定が、愛がそこにある。
生命は美しいのだと感じる。

逃げずに直視することも大切だ。

それにしても、
世の中で美しいとか楽しいとか言っているものとの次元の違いに驚く。
こういうものもあると言うことを知るのは、
間違いなく素晴らしい経験であると言い切ることは出来る。
でも、みんながみんな、そういう次元に行く必要があるのかは分からない。

良いものが必ず万人に求められるとは限らない。

浅かろうが深かろうが、少なくともお互いを否定してはならない。
良しとする基準を強制してはいけない。それは勧誘と同じだ。

ただ、僕らはどこかで本当のものを切望している。
そしてそこに触れるような深い何かを生み出すことは可能だ。

2014年7月3日木曜日

生き方

霧の中から見える光。
強くなったり弱くなったり。

いつからこの感覚を憶えたのか、もう思い出すことも出来ない。

創造性の源に入って行く時、他では得られない不思議な感覚になる。

昨日は夜、アトリエを応援してくれている、しとみ君と会っていっぱい話した。

話しながら、ああ、あの時の感触と言うか、
雰囲気と言うかそこがなかなか伝わりづらいところなんだろうな、と思った。

良い悪いではないと、最近は感じる。

入って行く時の感覚。
自分が消え入りそうな。

福祉領域の人達ばかりでなく、多くの人は障害を持つ人に接する場面で、
意識的にせよ、無意識的にせよ、上から目線を外すことが出来ない。
これは正義を主張している人達でもそうだ。

そこから見えているものと、僕達の見ているものとはまるで別のものだ。

例えて言ってみれば、こういうことだ。
自分のこととして考えてみれば分かると思うが、
内面の奥深くとか、裸の自分なんてものを人前にさらせるだろうか。
僕の場合で言えば、相手にそれをしてもらわなければならない状況にいつもいる。
だから、自分が正しいとか正義とか、助けてあげようでは、その先には行けない。
むしろ、本当に奥深くまで行く時には、申し訳ないような、
あるいは自分なんかが居てはいけないような気持ちで居る。
だからこそ、中に入れてもらえる。
ノックもせずにぱっと戸を開けようとする人が居るから、カギが閉められる。

本来は誰にも見せないような、もっと言えば自分自身でさえも普段は見ないような、
そんな領域まで一緒に歩いてくれる人達を裏切ることなど出来ない。

静かにそっと、そこに何があり、何が動こうとしているのかを見ようとする。
いいよ、おいで、見せてあげる、と言ってもらえたら、
ゆっくりついて行く。
ほら、もっと先まであるよ。
ここの扉も開けてあげるね、そういうことを言ってもらう。

あるいは、その味も分かるの?だったらもっと美味しいのもあるよ。
あ、もうこのワインも開けちゃおうか。
そんな風にまでしてもらう訳だ。

だから、そんなところまで連れてってもらうためには、
振る舞い方から、気づき方から、色んなものが必要になる。

大切なのはそのセンスなのだと思う。構えと言うか。

毎回、書くことだけど、多くの人は見えているものが全てだと思っているから。
それが全てだったら、感じる必要が無くなる。
だから感じようとしなくなるし、感じなくなる。
僕にとっては見えているものとは、奥にあるものを表す何かだ。
制作の場、創造性、人のこころは特にそうだけど、
何もそればかりではなく世界全体がそういうものなのだと思っている。
言い換えれば、世界観の問題かもしれない。

そこに見えているものしか存在しないと考えるか、
全ては何かを表しているし、何かを語っているものとして、
読み取ろう、感じとろうとし続けるか。
そこに対話があるし、そこにコミニケーションがある。
生きるとは世界と対話することだと思う。

何だって、何かを語りかけて来る。

絶えず、開いていて、感じていて、対話しているか。
今日も生きているか。

制作の場は特殊なものではなく、そういう生き方そのものだと思う。

2014年7月2日水曜日

夜の散歩

昨日はプレの時間はみんなと居て、ちょっと休んだ。
夕方からパソコンでの打ち込みの仕事をしていてたので、
身体が硬くなるし、眼も頭も疲れた。
一日暑かった。

夜は冷たい空気が戻って来て雨も降らなかったので散歩する。
闇は良いのに街頭が明るすぎる。

暗闇を歩き続けるのは気持ち良いし、感覚が研ぎ澄まされて行く。
色んなことが感じられ、色んなことが見えて来る。

この前、5分間ほどだけ見えたピンク色の光について書いた。
そして忘れていた。
前回のアトリエである作家が黄色い太陽のようなのを描いたので、
「朝日か、夕日?」と聞くと、「ほら、昨日見たやつ。光」
「ええー、あれのこと」「そうあれだよ」
ほとんどは言葉以外のところで対話している。

2駅分ほど歩いて戻って来ると近所の大きな木が闇の中でそびえ立っている。
勿論、いつもそこにあるのだけれど、
今はひときわ存在感があって、何かを伝えて来ているように感じる。
この木ってこうやって見ているより、本当は大きいのかも、と思う。
そして下から見上げると、本当にどんどん大きくなって行く。
ほとんど夜空に届きそうなくらいに。
大きさって客観的に存在しているのだろうか。
急にその巨大さが迫って来て、なんだか途方もない感覚の中で、
僕は一人見上げていた。

ああ、以前に見上げた瞬間に、
何処までも大きさがクローズアップする木の夢のことを書いたっけ。

ダウン症の人たちと出会ってからのこと。
彼らと続く日々のことはこれまで書いたり語ったりして来た。
その前に10代の頃の経験があって、
僕にとってそれは言葉にするのに随分時間を要する記憶だった。
未だに語れないところもある。

部屋の片付けをしていてメモ帳が出て来た。
何度か信州時代の経験を書いてみたことがあった。
色々やってみて、難しいな、という結論に至ってやめてしまった。
その頃、これは小説にでもすれば少しは書けるかもと思って、
数パターンの文章を書いた。全部繋げるつもりで、どれも断片的なものだ。
それらの断片は書いた時期も場所もまちまちで、
もはやどこに行ったのかも分からない。

見つかったメモ帳はわずか10ページ分ほどだけど、
もう恥ずかしいと言う繊細な感情も失っているので、
懐かしないあと、読んでしまった。

実際に書かれているエピソードより、暗示しているものが僕の記憶を刺激する。

主人公の一人、りえの独白の場面。

「私は誰もいなくなった森の中で一人でタバコを吸い続けた。もうここにはあの時あった大切なもの全てが無くなっている。それなのにこの森はここにある。また、私は車を走らせる。結局、みんな真面目過ぎた。だから誰も残れなかった。今、私だけがここに居る。私の不真面目さにも意味がある。」

「私の前からみんなが居なくなって、それまで分ちがたく結びつき、染み付いてしまっていたものからやっと自由になって、ようやく自分の身体で見たり聞いたり出来る日々がやって来て数年が過ぎた。そしてひさおが死んだ時、あの日々をめぐる様々な断片の最後のひとかけらまでが失われ、みんなと見て来たすべてがこの世界から消えて行った。私達が過ごして来たあの山の中でのこと。私だけが残され、何を思い出すべきなのだろう」

こんな場面がいくつかメモされていて、書いてあることより、
書こうとしていたいろんなことが懐かしかった。
言葉に少し刺激されて、もう一度、外へ出た。

夜に佇むあの大きな木が無限のように見える。

まだまだこれから続いて行くことだし、振り返る必要もないだろう。
制作の場にもっともっと立ち続けたら、今度は何が見えて来るのだろう。

2014年7月1日火曜日

この先の10年

いやー、暑いですねえ。
湿気も多いので金沢を思い出します。

プレでのみんなを見ていても、こういう日は身体の動かし方が省エネモード。
元気がない訳ではなく、上手だなあ、と思う。

先の話をしてもなんだけれど、秋頃までに今後のことを含めて、
アトリエの向かうべき方向を内部向けに纏められれば、と思う。

まずはスタッフ達の意識の共有。
それから、参加している保護者の方達に今一度、方向性を確認して行きたい。
法的な整備も必要となって来るだろう。
ただ、ここから先は本当に自らの意思で良しとして、参加して欲しい。
スタッフも保護者の方達も含めて。
考えは様々だから、強要したくない。違う考えやスタンスがあって良いと思う。
その中でアトリエはこの考えで進める、それを良いと思う人、
同じ理想をとれる人が一緒に行けば良いと思う。
今は選択肢も多いし、更に言えば自ら新しい活動を作ることも出来る。
僕達はそんな中から、この方法を考え、選択してし、
意志を持って進めて行く集まりでありたい。

前回の絵画クラスもそうだったが、深い部分に触れて行けば行くほど、
制作の場に専念したいなあ、と思う。
そろそろ、そこは交代して行かなければ、と言う気持ちと、
まだまだ行ける、責任もある、と言う想いに揺れる。

外での意識を場に持ち込むことはない。
でも、外での仕事とのギャップは大きくなって行くばかりだ。
個人レベルで言えば、疲れるし、
何も命を削って理解されないことを続ける意味があるのか、と思う時もある。
矛盾を解消する方法はあって、それがさっき書いた場に集中して、
その後の整備や発信の仕事を他の人に委ねることだ。
そうすればもっと多くの人を見ることも出来るし。
だがなかなかそうはいかない現実がある。

まあ、どんな時でも場に立ち帰ると答えがある。
場には一人一人の意思と想いが集まっているのだから。

作家達と僕達が一緒に見ている世界が、
本当の意味で理解される日はまだまだ遠いのだろう。

でも、これまでにない新たな一歩を、
そのとき理解されずとも、確実に刻んで行けば、いずれはという想いはある。
10年前と、今とではどれほど、認識が変わって来たことか。
この変化を生み出したのはこころある活動を続けて来られた方々の、
地道な努力によってであることは忘れてはならない。
放っておいては何も変わらない。
自分のことだけを考えていては社会には伝わらない。

個人レベルでの幸せや安心だけを考えるのなら、
お金をたくさん集めて必要な物と環境を整備しておけば良いのだろう。
それだってなかなか準備するのは大変だろうが。
それにこころの問題に触れなければ、個人の幸せだって本当は分からない。

僕らはみんなのことを考えたい。
未来のことを考えたい。他の環境にいる人達や、社会全体のことも考えたい。

繋がりを創りたい。
目先のことより、本質が問われる時代が来ている。
安心も安全もままならない時代に、
真に切望されている世界観を描けなければならないと思う。

2014年6月30日月曜日

自己否定

不安定な気候が続きますね。
大雨の時とか、アトリエまで来るのが大変で、
遠いところから来てくれている人は特に心配だ。
でも、そんな日ほどアトリエの中では静けさと集中の度合いが高まっている。
良い日だなあ、と思うことが多い。
とはいえ、真夏の猛烈に暑い日や台風の時とか、
何もこんな日に絵を描かなくてもなあ、とも思う。
代わりの日がもっとあれば通っている人達も気楽なんだけど。
理想はいつでも来て制作出来るような場所。

来月はこのブログもこんなには更新出来ないだろう。

土、日曜日のご見学も増えている。

なるべく普段の形を大事にして来たので、
展覧会前だからといって、来客や打ち合わせを減らさないで来た。
お仕事の方もそうだが、特に希望を求めてやって来られる一般の方は、
可能な限りは対応して行きたいと考えて来た。
7月は少し、調整させて頂きます。

どれだけ疲れてもやれる時は良いのだが、
お断りしたりお待ち頂くのは本当に心苦しい。

出来ない、求めて下さる方が居るのにお応え出来ない、
という事実がのしかかってくる。
一緒に動ける仲間か、外で連動してくれる活動がどうしても必要だ。

ワールドカップはもう、凄い試合しかない。
今のコロンビアは本当に強い。
負けたけどチリも凄いチームだった。
一人一人が自在に対応し動いているのに、絶えず全体が連動するという、
理想のチームプレーだった。それに連動の仕方が美しい。
全員で一つの身体のようだ。
みんなで何かをする時とか、場と言うのでも、単に連動していると言うだけでなく、
その繋がり方や同時性自体が美しく見える、と言うのがポイントとなる。

ブラジルもコロンビアもトップ選手がずば抜けて素晴らしい。
こちらは個人の戦いの要素がかなり重要だ。

日本代表については人ごとには思えず、厳しめに書いた。
でも、あの後の本田選手の会見は立派だった。
さすがは本田選手だ。
ああいう場面で、状況を即座に把握して、失敗や甘さを認め、
ちゃんと自己否定できる強さ。
あそこで違いが出て来る。
自分の物差しを変えなければならないかも知れない、とさえ言っていた。
なかなか言えることではない。
僕は意外に自己否定は大切だと思っている。
そこに留まってはいけないが、強い否定から次のステップに入って行く。
勇気がいることだが、生きるということは変化して行くと言うことなのだから。
これまでの彼を見ていても、
ただの強がりやはったりではああいう風には出来ないことは分かる。

重要な場面でこれまでの在り方に拘らないで、脱皮して行けるか。
自分自身を顧みる。

2014年6月29日日曜日

トイレ

暑いですね。
今日は5週目の日曜日ということでアトリエはお休みです。
事務仕事しつつ、部屋の片付けをしています。
2階の部屋は暑くて進まない。

そんな訳で本日2度目ですが、少し気分転換も兼ねてブログを更新します。
今月は少し頑張って、ブログを沢山書きました。久しぶりに。

トイレについて考えてみた。
男女の違いや平等が議論される。セクハラ野次問題とか、バカな話がいっぱいある。
でも、いくら平等だと言っても、
男と女が違う存在であることを無視すると逆にお互いにストレスになると思う。

今はまだ平等は議論されても、違っていることや、
違っていて良いということがよく考えられていない。

男女の平等にしても、
どちらかと言うと男基準での男的世界観の中での権利が言われている。

同じだと思うからスタンダードを作って、その中での平等を確立しようとする。
その過程でお互いの違いやオリジナリティが失われて行く。
違いこそ、尊重されるべきなのに。
存在しない真ん中を目指すのではなく、
男が男であって良い社会、女が女であって良い社会が理想なのではないか。

発展途上国という言葉があるが、何を持って発展と呼ぶのだろうか。

男と女の話で良くあるのが、何か食べようとお店を探す。
何が良い?と男が聞く。女性は何でも良いと言う。決めて、と。
そして男が選んだ店に入り、後で美味しくなかったとか、
別のものが食べたかったとか、不平を言う。
男は何でも良いって言ったのに、と怒る。
これなんかも思考構造が違うと言うだけなのだけど。
こうなっているからこう、という順番で考えてその論理を優先するのが男だ。
女性は迷ったときは誰かに決めてもらいたいと思う。
そしてそこは決めてしまわなければならない。
でも、決めてしまった時点でこの話は終わっている。
決めたからこの場面は終わりなのだ。
後で不平を言うというのはもう次の場面の話。
嫌だったり不快だったりしたものは出してしまいたいのが女性だ。
ためてはおけない。
だから、ここの場面ではこれを連続で考えて論理を取り出すから、
男としては何んでも良いと言ったのに不平を言う、という矛盾を感じてしまう。
それを女性の感情から見ると、迷ったら決めてもらいたい、という感情。
それと不快感は発散したいと言う感情、それぞれを見てみると当然のことになる。

これと同じことが民族の違いや様々な違いの中にある。
僕は10代の頃に一般に障害を持つと言われる人達の世界に飛び込んで、
仲間にしてもらって、最初に気がついたのはスタンダードなどない、ということだ。
例えば自閉症の人が居て、ジャンプしたり大声を出したりしていると、
多くの人は何故そうしているのか分からないから、荒唐無稽に見える。
でも、彼らにはその行動、一つ一つに意味も一貫性もある。
少し深く付き合えばすぐに分かることだ。

そんなことで、トイレのことだった。
僕達のアトリエは生徒達も学生達もお客様も、保護者の方達も、
人数で言うなら女性が中心だ。

少ない男性陣のトイレの後、便座が上がっている時が良くある。
ああ、これもそう言えば、よく言い合っているやつだ、と思っている。

僕は女性の多い場所での共同生活も長かったので、
便座を上げたままにするのは違和感があるし、ずっと昔から下ろしていた。

ただ、良く女性陣の言っている必ず下ろすのがマナー、
みたいな見解はちょっと偏っていると思う。
何故なら、多くの女性は下りている便座を使用して、そのまま出ているのだから。
これは女性側の視点が強い。

そこで今の僕の結論は蓋を閉める、ということだ。
そうすれば、どちらにとっても同じ状態といえるし、
トイレ自体、蓋をしておいた方が良いような気もする。

これはトイレを通して何を考えたかを書いたのであって、
こうして欲しいと言う話ではない。
別に空けてあっても構わない訳だけど、こんなちょっとバカバカしいところから、
スタンダードって何なのか、と考えてみた。

余談ですが、男が座っておしっこすることは反対です。
尊厳も身体機能にも影響があるでしょう。
息子が居るのでそのこと割と真面目にを考えています。

雨の日が続きますね。
昨日のアトリエも充実していました。
作品も今月だけで、これは凄いと言うのがいっぱいあります。

先週のプレの時間にみんなが雷と遊んでいて、面白いなあ、と思った。
こういう世界観はどこから出て来るのだろうか。
ゴロゴロゴローと音がすると、「来たー」とか「やったー」とか「よーし」と
返して行くのだけど、それがどんどんあいのてみたいになって行く。
ずっとただそれだけを繰り返して行くのだが、
それだけで楽しくもあり、充実感もあり、もっと分からない深いものもある。
世界との近さを感じるし、自然のリズムに、こころや、
声のリズムで反応して行くことで、一緒に音楽を奏でているようになる。

雷とみんなとのやりとりを聞いていて、
こんな風に世界と対話して戯れて行けたら楽しいだろうな、と思う。

単純なことかも知れない。
でも、こういうこと一つとっても、様々な気づきを与えてくれるし、
それは誰にとっても無視出来ない何かなのではないだろうか。

昨日のアトリエでも、前回もほとんどのクラスで、
「アナと雪の女王」が話題になっている。
それも、みんながみんな歌いだす。
見に行かなきゃなあ。

2014年6月28日土曜日

アートと福祉?

朝、かなり激しく雨が降ったけど、この後も大丈夫かなあ。
今日はアトリエの日。

さて、今日のテーマは今書くのはまだちょっと早い気がするのと、
纏まって書く時間がないので、さわりだけちょっと。

今度、アトリエでお会いする方は「アートと福祉」について聞きたいとのこと。

このテーマはこれまで数名の方がお話ししたいと言って来ている。

展示やイベントの際、そういったご質問を受けることも多いし、
今度の展覧会でもお話する機会があるかも知れない。
僕自身はもっと深いところのお話をしたいが。

まず、はっきり言えるのは、いつも言っていることだけど、
現在の障害者アートのような形は、アートにも福祉にもならないと思う。
理由はこれまで何度も書いた。
制作において本人が幸せであり続けられるか、
もう一つは外で見ている人に飽きられないか。
作者の喜びに関しては環境と関わる人間の問題であり、
見ている人や社会とのバランスは、外へ出して行く時にどのような視点に立って、
何を目指しているか、という部分だろう。

この2つをごちゃ混ぜにして議論は出来ない。

しかし、どちらも同じことが言える。
僕達は知らず知らずのうちに、
自分達の社会や常識や理想を彼らに押し付けていないか。

大事なのは繋ぐこと、
繋ぐためにはそれぞれの世界観の違いにも敏感にならなければならない。
違いが分からなければ、両者を繋ぐことは出来ない。

少し興味のある方で、「こんなに紹介されて本人は喜んでいるでしょう」とか、
逆に「こんな紹介のされ方をはたして本人が望んでいるのか」
という声を聞くことがある。
どちらも同じことの表裏を表していると思う。

本人が喜んでいるというのも、人によって違うだろうし、
周りの反応や環境によっても違って来る。
ただ、本来の彼らを見て来た人間として言わせてもらえば、
紹介されたり人に見られて喜んでいる時の感情は、
制作の場で僕達が見ている彼らの喜びとは比較にならない。
評価されて、もっと低次元に言えば目立って嬉しいのは、こちら側の世界観だ。
勿論、彼らもこちら側の世界観の影響は受けるが。

彼らの本当の喜びに繋がることをする。
これが、僕が制作の場が全てだという訳だ。

本人が望んでいるのか、という疑問にも同じ答えがかえって来る。
その望みを結晶化させたものが作品であり、
それは見られることを前提としたものではないからこそ美しい。
そして作家は制作時にすでに満たされている。
後は、こちら側がどうしたら、どう扱ったら、
関わった人間として責任が果たせるのかという問題、
つまりこちら側の問題になって来る。
極端な話、捨ててしまう人だっているだろうし、
ものすごい価格で売るような仕組みを作る人も居るだろう。
どちらも良いとは思えない。

無論、これはかなり単純化して書いている。
実際にはもっと複雑な要素が様々あるのだが。

では外へ出して評価して頂く目的は何か。
彼らの持つ世界観のエッセンスを知ってもらい、
それが結果として彼ら全体の文化の尊重に繋がるため。
そして、そこに近づくためには効果がなければいけないし、
甘い視点に立ってはすぐに見向きもされなくなるだろう。
ある意味、それは戦いの要素も含むので、
その場面に作家達を巻き込むことは許されない。
こういう言い方はしたくはないが、
本人が商品として操られているテースを見る。
酷い話だ。

外へ向かって行くとき、全ては手段にすぎない。
それを通して、まだ存在に気がついても居ない人達が、
おや何だろう、ここに何かあるぞ、と少しでも感じてもらうために。
言い換えれば、物にしても、展覧会やイベントにしても、
それ自体以上に、その背景にある何ものかを知る切っ掛けと考えている。

アートが美を問題にしているのなら、
そして福祉が喜びや幸せをつくり出そうとしているのなら、
それは繋がると言うよりは、こころの中で最初から繋がっている。

本当に深く美しいものを経験した時、
例えば素晴らしい作品が生まれる、制作の場が輝くような時間になる。
そんな時、作家と僕が一緒に感じるのは、
変な言い方かも知れないけれど、誰にも見せたくないという感覚だ。
見せたくないと言うと語弊があるが、
何か今触れたもの、触れているものの大切さは、
侵したくない、汚したくない、そっとしておきたい、という感情でもあり、
とてもとても柔らかく繊細になっている時間でもあるので、
その一瞬だけは、もう外に出て行くことは全部やめてしまおう、とさえ思う。

それでも、こういうものがある。
価値がある、ということをやっぱり伝えて行きたい。

いよいよ、東京都美術館での展覧会が近づいている。
今回、書いたことも含め、さまざまな見方が可能だろう。
何よりも作品そのものの素晴らしさを見て欲しい。
そこから何かがきっとみえて来るはずだ。

僕自身も始めての経験になるだろう。
そしてまた新しく作品達とその世界観に出会えるのだろう。

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アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。