三重へ行ってきます。
ブログはしばらくお休みさせていただきます。
この2日間、とてもとても深く良い場が生まれた。
作品ももちろん素晴らしいものがたくさん。
この時期は身体面、精神面ともに不調の人が多い。
それでも制作の場に入れば出来ることはいっぱいあるし、
むしろ深い集中に繋がることも多い。
場と言うのは誰のものでもない、文字通りみんなものもの。
中心に立つ人間はみんなの夢を背負わなければならない。
しばらくイサに託して行くので、
一緒に出来る期間には本気の場をいっぱい見てもらいたいと思ってやってきた。
特に今知ってもらいたかったのは、正確な時を刻むということだ。
単純に言えば、手抜きしないということかも知れない。
確実に点を打つこと、どんな難しい場面でも出来ることを正確に実行すること。
その上でどっしり構えて終わりまで見守ること。
打った点が芯まで届いているのか、見極めること。
ぶれない揺れない、こころの構えを大切にということだ。
季節は変化し、心も身体もその影響化にある。
条件はしっかり見ておく必要がある。
全てには良い面も悪い面もあるのだから。
日曜日の午後のクラスで半年に一度くらいだろうか。
怖い話大会がある。
司会はさとちゃんのときとしんじくんの時がある。
これ、話してるうちにみんな深いところに入って来て、
怖いかどうか、と言うよりは、
何かしら不思議な気になる記憶やこころに関わる話になって行く。
面白いことに、ここで思い出すことや、初めて理解することが沢山ある。
不思議な記憶の数々は普段こころの奥深くにあって、
意識のレベルにはのぼってはこない。
順番に離しているのだけど、途中からは司会者が決めた人の話が多くなる。
今日はしんじ君が終わらなくなって、というか終われなくなって、
僕に何度もふってきたので話すことが多かった。
お陰で色んなことに気がついた。
不思議で面白い体験だった。
小学校の頃、転校することが決まった男の子がいて、
10人くらいのメンバーで彼の新しい家に行くというイベントをひらいた。
かなり遠い場所だったはずだけど、みんな自転車で出発。
僕はそのころ、自転車がなくて友達の兄弟のを借りて行った。
出発前に友達のおばあちゃんから不思議な話を聞かされて、
それだけでも別の話が出来るくらい。
その時間からちょっと不思議な感じがあったのかも知れない。
一緒に集合場所に行った友達と話していた情景が一番鮮明に記憶にある。
それは新しい味のガムが発売していて、
そのガムが美味しいのだけど、柔らか過ぎてつい飲み込んでしまう、というもの。
僕も飲んでしまったと思う。
あれ、なんでなんだろう、
と話しながら当時の金沢としては珍しい雲のない青空の下を走った。
犀川の川沿い。汚れたガード下、砂利道。
途中でグループがいくつかに分かれて、人が減って行く。
それからが変なのだ。
行く途中までの道は覚えているのに、はたして目的地に着いたのかとか、
どうやってそのあと帰って来たのか、全く記憶が途切れてしまっている。
ぽっかり穴が空いてしまったように。
そして転校することになった友達は一体どこへ行ってしまったのか。
しばらく経って、一緒に行ったメンバー数人とは話したと思う。
誰一人、記憶がない。
一体あの一日の旅は何だったのか。
何度か思い出そうと試みてみたことがあった。
でも、記憶は全て断片的で、その一つ一つの場面は鮮明に覚えているのに、
記憶に連続性がない。
何よりもある瞬間からの記憶が全く抜け落ちてしまっている。
こういう話をいくつか思い出していると、
命とか記憶とか人生と言うものはそもそも分からないもので、
あの子供の頃のぽっかり空いた穴のような場面が所々にあると思う。
しかもそこに大切な何かがあったり、本質的な何かがあるような気がする。
僕達はずっとずっと旅をしている。
もっと見てみたいしもっと知りたいと思っている。
でも、分からないことだらけで、どこへ向かっているのかも分からない。
一つだけ言えるのはここで分かち合える仲間と出会えていることで、
この時間がどれほど掛け替えのないものなのか、ということ。
今、こうしてここにいられることが嬉しいし、
一緒に居てくれる人達が楽しんで欲しいと思う。
いつでも未知の世界が目の前に広がっている。
いつでも無限が僕達に立ちはだかる。
もう少し進んでみたいと思う。
ちょっと怖いけど、ちょっと不思議な感じがするけど、
行ってみようかな、と思う。
ここでみんなと話していると、僕も、私もこんなことがあった、
あるいはこんなことを想像した、と確認し合っている。
みんなで一緒に絵に向き合っているという場だからこそ、
おきることなのではないだろうか。