2014年6月30日月曜日

自己否定

不安定な気候が続きますね。
大雨の時とか、アトリエまで来るのが大変で、
遠いところから来てくれている人は特に心配だ。
でも、そんな日ほどアトリエの中では静けさと集中の度合いが高まっている。
良い日だなあ、と思うことが多い。
とはいえ、真夏の猛烈に暑い日や台風の時とか、
何もこんな日に絵を描かなくてもなあ、とも思う。
代わりの日がもっとあれば通っている人達も気楽なんだけど。
理想はいつでも来て制作出来るような場所。

来月はこのブログもこんなには更新出来ないだろう。

土、日曜日のご見学も増えている。

なるべく普段の形を大事にして来たので、
展覧会前だからといって、来客や打ち合わせを減らさないで来た。
お仕事の方もそうだが、特に希望を求めてやって来られる一般の方は、
可能な限りは対応して行きたいと考えて来た。
7月は少し、調整させて頂きます。

どれだけ疲れてもやれる時は良いのだが、
お断りしたりお待ち頂くのは本当に心苦しい。

出来ない、求めて下さる方が居るのにお応え出来ない、
という事実がのしかかってくる。
一緒に動ける仲間か、外で連動してくれる活動がどうしても必要だ。

ワールドカップはもう、凄い試合しかない。
今のコロンビアは本当に強い。
負けたけどチリも凄いチームだった。
一人一人が自在に対応し動いているのに、絶えず全体が連動するという、
理想のチームプレーだった。それに連動の仕方が美しい。
全員で一つの身体のようだ。
みんなで何かをする時とか、場と言うのでも、単に連動していると言うだけでなく、
その繋がり方や同時性自体が美しく見える、と言うのがポイントとなる。

ブラジルもコロンビアもトップ選手がずば抜けて素晴らしい。
こちらは個人の戦いの要素がかなり重要だ。

日本代表については人ごとには思えず、厳しめに書いた。
でも、あの後の本田選手の会見は立派だった。
さすがは本田選手だ。
ああいう場面で、状況を即座に把握して、失敗や甘さを認め、
ちゃんと自己否定できる強さ。
あそこで違いが出て来る。
自分の物差しを変えなければならないかも知れない、とさえ言っていた。
なかなか言えることではない。
僕は意外に自己否定は大切だと思っている。
そこに留まってはいけないが、強い否定から次のステップに入って行く。
勇気がいることだが、生きるということは変化して行くと言うことなのだから。
これまでの彼を見ていても、
ただの強がりやはったりではああいう風には出来ないことは分かる。

重要な場面でこれまでの在り方に拘らないで、脱皮して行けるか。
自分自身を顧みる。

2014年6月29日日曜日

トイレ

暑いですね。
今日は5週目の日曜日ということでアトリエはお休みです。
事務仕事しつつ、部屋の片付けをしています。
2階の部屋は暑くて進まない。

そんな訳で本日2度目ですが、少し気分転換も兼ねてブログを更新します。
今月は少し頑張って、ブログを沢山書きました。久しぶりに。

トイレについて考えてみた。
男女の違いや平等が議論される。セクハラ野次問題とか、バカな話がいっぱいある。
でも、いくら平等だと言っても、
男と女が違う存在であることを無視すると逆にお互いにストレスになると思う。

今はまだ平等は議論されても、違っていることや、
違っていて良いということがよく考えられていない。

男女の平等にしても、
どちらかと言うと男基準での男的世界観の中での権利が言われている。

同じだと思うからスタンダードを作って、その中での平等を確立しようとする。
その過程でお互いの違いやオリジナリティが失われて行く。
違いこそ、尊重されるべきなのに。
存在しない真ん中を目指すのではなく、
男が男であって良い社会、女が女であって良い社会が理想なのではないか。

発展途上国という言葉があるが、何を持って発展と呼ぶのだろうか。

男と女の話で良くあるのが、何か食べようとお店を探す。
何が良い?と男が聞く。女性は何でも良いと言う。決めて、と。
そして男が選んだ店に入り、後で美味しくなかったとか、
別のものが食べたかったとか、不平を言う。
男は何でも良いって言ったのに、と怒る。
これなんかも思考構造が違うと言うだけなのだけど。
こうなっているからこう、という順番で考えてその論理を優先するのが男だ。
女性は迷ったときは誰かに決めてもらいたいと思う。
そしてそこは決めてしまわなければならない。
でも、決めてしまった時点でこの話は終わっている。
決めたからこの場面は終わりなのだ。
後で不平を言うというのはもう次の場面の話。
嫌だったり不快だったりしたものは出してしまいたいのが女性だ。
ためてはおけない。
だから、ここの場面ではこれを連続で考えて論理を取り出すから、
男としては何んでも良いと言ったのに不平を言う、という矛盾を感じてしまう。
それを女性の感情から見ると、迷ったら決めてもらいたい、という感情。
それと不快感は発散したいと言う感情、それぞれを見てみると当然のことになる。

これと同じことが民族の違いや様々な違いの中にある。
僕は10代の頃に一般に障害を持つと言われる人達の世界に飛び込んで、
仲間にしてもらって、最初に気がついたのはスタンダードなどない、ということだ。
例えば自閉症の人が居て、ジャンプしたり大声を出したりしていると、
多くの人は何故そうしているのか分からないから、荒唐無稽に見える。
でも、彼らにはその行動、一つ一つに意味も一貫性もある。
少し深く付き合えばすぐに分かることだ。

そんなことで、トイレのことだった。
僕達のアトリエは生徒達も学生達もお客様も、保護者の方達も、
人数で言うなら女性が中心だ。

少ない男性陣のトイレの後、便座が上がっている時が良くある。
ああ、これもそう言えば、よく言い合っているやつだ、と思っている。

僕は女性の多い場所での共同生活も長かったので、
便座を上げたままにするのは違和感があるし、ずっと昔から下ろしていた。

ただ、良く女性陣の言っている必ず下ろすのがマナー、
みたいな見解はちょっと偏っていると思う。
何故なら、多くの女性は下りている便座を使用して、そのまま出ているのだから。
これは女性側の視点が強い。

そこで今の僕の結論は蓋を閉める、ということだ。
そうすれば、どちらにとっても同じ状態といえるし、
トイレ自体、蓋をしておいた方が良いような気もする。

これはトイレを通して何を考えたかを書いたのであって、
こうして欲しいと言う話ではない。
別に空けてあっても構わない訳だけど、こんなちょっとバカバカしいところから、
スタンダードって何なのか、と考えてみた。

余談ですが、男が座っておしっこすることは反対です。
尊厳も身体機能にも影響があるでしょう。
息子が居るのでそのこと割と真面目にを考えています。

雨の日が続きますね。
昨日のアトリエも充実していました。
作品も今月だけで、これは凄いと言うのがいっぱいあります。

先週のプレの時間にみんなが雷と遊んでいて、面白いなあ、と思った。
こういう世界観はどこから出て来るのだろうか。
ゴロゴロゴローと音がすると、「来たー」とか「やったー」とか「よーし」と
返して行くのだけど、それがどんどんあいのてみたいになって行く。
ずっとただそれだけを繰り返して行くのだが、
それだけで楽しくもあり、充実感もあり、もっと分からない深いものもある。
世界との近さを感じるし、自然のリズムに、こころや、
声のリズムで反応して行くことで、一緒に音楽を奏でているようになる。

雷とみんなとのやりとりを聞いていて、
こんな風に世界と対話して戯れて行けたら楽しいだろうな、と思う。

単純なことかも知れない。
でも、こういうこと一つとっても、様々な気づきを与えてくれるし、
それは誰にとっても無視出来ない何かなのではないだろうか。

昨日のアトリエでも、前回もほとんどのクラスで、
「アナと雪の女王」が話題になっている。
それも、みんながみんな歌いだす。
見に行かなきゃなあ。

2014年6月28日土曜日

アートと福祉?

朝、かなり激しく雨が降ったけど、この後も大丈夫かなあ。
今日はアトリエの日。

さて、今日のテーマは今書くのはまだちょっと早い気がするのと、
纏まって書く時間がないので、さわりだけちょっと。

今度、アトリエでお会いする方は「アートと福祉」について聞きたいとのこと。

このテーマはこれまで数名の方がお話ししたいと言って来ている。

展示やイベントの際、そういったご質問を受けることも多いし、
今度の展覧会でもお話する機会があるかも知れない。
僕自身はもっと深いところのお話をしたいが。

まず、はっきり言えるのは、いつも言っていることだけど、
現在の障害者アートのような形は、アートにも福祉にもならないと思う。
理由はこれまで何度も書いた。
制作において本人が幸せであり続けられるか、
もう一つは外で見ている人に飽きられないか。
作者の喜びに関しては環境と関わる人間の問題であり、
見ている人や社会とのバランスは、外へ出して行く時にどのような視点に立って、
何を目指しているか、という部分だろう。

この2つをごちゃ混ぜにして議論は出来ない。

しかし、どちらも同じことが言える。
僕達は知らず知らずのうちに、
自分達の社会や常識や理想を彼らに押し付けていないか。

大事なのは繋ぐこと、
繋ぐためにはそれぞれの世界観の違いにも敏感にならなければならない。
違いが分からなければ、両者を繋ぐことは出来ない。

少し興味のある方で、「こんなに紹介されて本人は喜んでいるでしょう」とか、
逆に「こんな紹介のされ方をはたして本人が望んでいるのか」
という声を聞くことがある。
どちらも同じことの表裏を表していると思う。

本人が喜んでいるというのも、人によって違うだろうし、
周りの反応や環境によっても違って来る。
ただ、本来の彼らを見て来た人間として言わせてもらえば、
紹介されたり人に見られて喜んでいる時の感情は、
制作の場で僕達が見ている彼らの喜びとは比較にならない。
評価されて、もっと低次元に言えば目立って嬉しいのは、こちら側の世界観だ。
勿論、彼らもこちら側の世界観の影響は受けるが。

彼らの本当の喜びに繋がることをする。
これが、僕が制作の場が全てだという訳だ。

本人が望んでいるのか、という疑問にも同じ答えがかえって来る。
その望みを結晶化させたものが作品であり、
それは見られることを前提としたものではないからこそ美しい。
そして作家は制作時にすでに満たされている。
後は、こちら側がどうしたら、どう扱ったら、
関わった人間として責任が果たせるのかという問題、
つまりこちら側の問題になって来る。
極端な話、捨ててしまう人だっているだろうし、
ものすごい価格で売るような仕組みを作る人も居るだろう。
どちらも良いとは思えない。

無論、これはかなり単純化して書いている。
実際にはもっと複雑な要素が様々あるのだが。

では外へ出して評価して頂く目的は何か。
彼らの持つ世界観のエッセンスを知ってもらい、
それが結果として彼ら全体の文化の尊重に繋がるため。
そして、そこに近づくためには効果がなければいけないし、
甘い視点に立ってはすぐに見向きもされなくなるだろう。
ある意味、それは戦いの要素も含むので、
その場面に作家達を巻き込むことは許されない。
こういう言い方はしたくはないが、
本人が商品として操られているテースを見る。
酷い話だ。

外へ向かって行くとき、全ては手段にすぎない。
それを通して、まだ存在に気がついても居ない人達が、
おや何だろう、ここに何かあるぞ、と少しでも感じてもらうために。
言い換えれば、物にしても、展覧会やイベントにしても、
それ自体以上に、その背景にある何ものかを知る切っ掛けと考えている。

アートが美を問題にしているのなら、
そして福祉が喜びや幸せをつくり出そうとしているのなら、
それは繋がると言うよりは、こころの中で最初から繋がっている。

本当に深く美しいものを経験した時、
例えば素晴らしい作品が生まれる、制作の場が輝くような時間になる。
そんな時、作家と僕が一緒に感じるのは、
変な言い方かも知れないけれど、誰にも見せたくないという感覚だ。
見せたくないと言うと語弊があるが、
何か今触れたもの、触れているものの大切さは、
侵したくない、汚したくない、そっとしておきたい、という感情でもあり、
とてもとても柔らかく繊細になっている時間でもあるので、
その一瞬だけは、もう外に出て行くことは全部やめてしまおう、とさえ思う。

それでも、こういうものがある。
価値がある、ということをやっぱり伝えて行きたい。

いよいよ、東京都美術館での展覧会が近づいている。
今回、書いたことも含め、さまざまな見方が可能だろう。
何よりも作品そのものの素晴らしさを見て欲しい。
そこから何かがきっとみえて来るはずだ。

僕自身も始めての経験になるだろう。
そしてまた新しく作品達とその世界観に出会えるのだろう。

2014年6月27日金曜日

日々のこと

日常と言ってしまうと、それっぽくなってしまうし、
そういうことをコンセプトにしているものをあまり良いとは思わない。
それで、日々と一応言うのだけど、多分同じことかも。

酵素ジュースが出来ているのだけど、
よしこが言うにはゆうたは今リンゴのしか飲まない。

リンゴ、ないぞ、と思って昨日から仕込み始めた。
夏になってしまうと気温は高すぎるし、今の内しか出来ない。

毎日、打ち合わせやら、準備やら、来客の対応だったりで、
仕事が忙しい時期なのだけど、
こんな時に限って、家のことがしたくなる。

もうちょっと時間があれば、あれもしたい、これもしたいということが出て来る。

今、一番始めたいのはぬか漬け。
でもなあ、定住していないとなあ。

酵素を作っていると、毎日、手を入れて育てて行くので、
身近なことばかり考えるようになる。

これまでは外にばかり目が行っていたけれど。

本当に落ち着きなく、歩き続け、走り続け、探し続けて来た。
一ヶ所に居た事はないし、同じことを続けたことはなかった。
ただ一つ「場」という運命的に出会ったもの意外は。

住む場所にも物にも何の執着もなかった。
もっと酷いことを言えば一緒に居る人だって次々変わって行くのが普通だった。

糠床や酵素のように「場」も手を入れて育てて行かなければならない。
そういうものに出会ってなかったら、僕なんてろくな人間になっていないだろう。

反復もそうだけど、日々の積み重ねが大切なのだとようやく認める気になっている。

野村萬斎が狂言サイボーグなら、僕は「場」におけるサイボーグ。
現場サイボーグであり、現場職人だ。
大した人間でないどころか、ろくなことはやって来なかったけど、
場に対してだけは必要な努力も尽くして来たし、
何もかも投げ出してでも打ち込んで来た。

一つでもそういうものがあって良かったと思う。

今でも場に助けられるし、一緒に創ってくれる仲間達に救われる。

そろそろ日々の生活も手を抜かないような人間になりたい。

日本の生活の中には日々、手を入れておかなければならないものが沢山あった。
そこから見ていると、何処にも行かなくても充実した世界があっただろう。
住む場所や使う道具や身近な物に気を配った本当の生活。
いつか僕もそのような生活が出来るだろうか。

うーん。
言い訳としては、やらなくてはならない仕事が多過ぎて。

2014年6月26日木曜日

アフリカのリズム

昨日は書かなかったけれど、ワールドカップの結果は残念でしたね。
僕も3時30分位には目が覚めて、始まるまでドキドキしていました。

悔しいですね。

色々思ったけれど、これはサッカーだけじゃなくて組織とか、
個人の意識とか今の日本とか、結構大きな問題だなあと感じた。

戦略論としてああすれば良かったとか、こうすれば良かったとか、語られるが、
そもそも圧倒的な実力差を見せつけられたと思う。
実力の中には身体能力や技術ばかりでなく精神面も含まれるが。

技術的な部分で言えば、選手達の問題か監督なのか、もっと組織全体のことか、
分からないが現状認識に客観性がなさすぎた。
どこが劣っているのか、足りないのか冷静に分析して、
ちょっとづつ積み上げて行く他ないのに、そこを精神論にもって行ってしまっていた。
応援する側も選手達も前向きとか、諦めずとか、
信じてということばかり口にしていた。
本来の日本のサッカーとか。いつもの調子でやればとか。
でも、これが今の実力で、
まだまだ劣っているということを認めなければ次には行けない。
ただ前へ前へという気持ちだけでは。

さらに精神的な部分でも、動機とか欲望とか自分がという意識が弱い。
上手い試合をしたいのか、勝ちたいのか。
責任感が必要だと思うが、サッカーのみならず、
責任感を失敗しないという部分にしか向けていない人が多い。
サッカーで言うなら、失敗しない責任、上手くプレイする責任の他に、
それより大事な自分が決める、点を取るという責任が必要なはずだ。

人生や仕事においてもそうだと思う。

僕が10代の頃は本当に何十人単位で場に入ったりしていたけれど、
場の中で保つことや、失敗しないことに責任を感じる人はいても、
場を良くする、より良いものにして行く責任を自覚する人は少なかった。

それにしても南米のチームは強い。
自分が点をとるという自覚も強いし、
勝ちに行く、前へ出るという欲望とか動機がしっかりある。
後は勿論、身体能力が凄い。

なんというか、リズム感だろう。
音楽を聴いていても南米はリズム感が違う。
アジアは真似出来ないだろう。

日本人はリズム感は弱いのだろう。
お能の呼吸や間も一種のリズムだけど。

前回、反復について書いたけれど、
リズムも反復によってうまれている。

アフリカの音楽に惹かれる。
シンプルなリズムの反復。

アフリカの音楽が反復の原型なのだろうか。
それは分からないけれど、強い魅力を感じるし、
聴いているとどんどん身体に入って行く感じだ。
音もリズムもシンプルで、力強い。
いろいろ付け足して行って複雑になったものより、
こういうところに核心があるような気がする。

2014年6月25日水曜日

反復について

このテーマではすでに何度か書いているが、改めて考えてみたい。
作家達が反復することの意味を以前書いた。
それはとても大切な生命の仕組みに関わることであるとさえ思う。

間についても、リズムについても何度か書いている。
そしてこれらは実は一つだと思う。あるいは美や調和というものも。

制作の場における僕達スタッフの役割は、
当然ながら作家達が最良の資質を発揮してくれるための条件をつくること。
その中でおおまかに言って、個人に向かう時は感じとることと共感することが、
そして場に全体に向かう時は、間使いが最も重要だ。

間が使えなければ、相手に入って行けないし、溺れてしまう可能性もある。
それから良い場にならない。

場が良くならないのは間が悪いからだ。

僕達が場に入る時、物質的な道具は一切使わないで仕事する。
生身の身体とこころだけが使えるものだ。
自分の身体とこころをどう使って行くか、その要になっているのが間だ。

間については良く考える。

またまたバックハウスの演奏を聴いている。
変わった解釈がある訳でもなく、飛び抜けた技術を駆使する訳でもないのに、
なぜあそこまで特別な音楽が生まれるのか。
無骨な音を淡々と重ねて行くだけなのに、
あんなに崇高な世界が何故生み出されるのか。
彼の音楽だけが立派なものに見え、品格が漂うのはなぜか。

聴いていてやはり間を感じる。
クラシックのピアニストは大体2つのタイプに分かれる。
音そのものの美しさを追求し磨きをかけて行くタイプと、
音はあくまで手段として曲のもつ物語、ストーリーを描くタイプ。
前者は物質的なものを、後者は精神的なものを問題にしているように見える。

バックハウスはどちらでもない。
音そのものに磨きをかけていく気などさらさらないが、
かといって曲の持つストーリーのことも全く問題にしていない。
曲の物語性を追求する演奏家は感情移入型が多いが、
バックハウスは決して感情的にならない。

バックハウスは音をただ重ねて行く。
大事なのはそこで生まれる間だと言える。

あの間が偉大さや崇高さを感じさせる。

バックハウスをずっと聴いていたある瞬間、モランディの絵がぱっと頭に浮かんだ。
バックハウスとモランディに共通する何かがある。
手元にモランディの画集がないから確認出来ないが、
なにか間が共通していて、同じ次元を示している気がする。

そして、間の背後には反復があり、反復の背後には間があるのだと、と感じる。

間と反復の繋がる場所がバックハウスとモランディの示すところではないか。

バックハウスは同じ曲を何度も何度も反復する。
それも全くと言って良いほど同じ解釈で、同じテンポで。
それどころか、曲全体をストーリーとして進行させずに、
まるで同じ音を反復しているかのように弾いている。

バックハウスが職人的な雰囲気を持つのは反復という要素によってだろう。
職人が反復して行く世界もやはり何かしら崇高なものを感じさせる。

場において同じことは2度と起きない。
全ての瞬間が一度きりなのだ、ということはどれほど強調しても足りないほど、
重要なことで、良くこころに刻む必要がある。
だが、一方で基本となる形は変わらないと言う部分もあり、
ここに反復の大切さもある。
1000回でも、2000回でも反復していく。
間が反復を生み、反復が間を生む。

そしてその反復が僕達を高いところに連れて行ってくれることは確かなようだ。

2014年6月24日火曜日

曇り空

今日は打ち合わせが2つ。

外の人とお話しする時、
いつでも作家達や出会った人達の想いが僕の中で動き出す。

制作に関わる以前から僕に教えてくれた人達。

そこで見せてもらったものは無限に近い。

いくつもの人生を同時に生きているようであり、
一つの大きな流れだけがあるようでもある。

いつでもその人と行けるところまで行って来たから、
これまで全く後悔はない。

さあみんなから見せてもらったものや、
ずっとずっと先にある豊かな世界を、今後どうやって伝えていくか。

喜びや幸せに繋がることだけを考えて来たけれど、
それはどこまでも深くて、果てしないものでもある。

何かに成功したり、ちょっと得したりしたから嬉しい、と言うレベルから、
ただ歩いているだけなのに触れている世界の様相が変わって来る、
というレベルの幸せもある。

繋がることの奥深さ、響き合うことの可能性。共感の宇宙といえるもの。

人が居るのだから、響き合いたい。
同じ響き合うなら、浅いところで響き合うよりも、
より深い部分で響き合いたい。

2014年6月23日月曜日

ピンク色の光

忙しくなって来ると空白の時間も何かしていないと、
間に合わないような気がして来る。
何にもない時でもやることがたくさんあるような気がしたり。
でも、結局少し休んでから進めた方が早かったりする。

さっき、スーパーからの帰り道に見た景色は一体なんなんだろう。
幻のように神々しかった。
それはわずか5分位のことで、
ずっと見ていたのにいつ消えたのか分からない位、自然に現れ、消えて行った。
最初は紫の濃淡が光っていてやがて、光に滲みが出て来て透明なピンクになった。
その頃が一番きれいでもっとも濃く、最も薄い不思議な色だった。
色と言うか光だった。

色んなことを考えていたと言うよりは思っていた。
僕達は真剣に価値のあることを実現させようと努力して来たことは確かだ。
そして、自分が今選択している方法に迷いはない。
外部への発信から始まり制作の場と言う基本に至るまで、
本当のところ、現在多くの人が求めている形とは違っているとさえ思う。
決して多数派ではない。
でも、誰かがこういうアプローチをとらなければならないと思う。
いずれは本当の理解が得られる日が来るだろう。
信じてくれる方、応援してくれる方、これだからアトリエは良いと言ってくれる方、
そんな方々の想いも背負っている。

今後も妥協やブレがないようにしていきたい。

ただ、一方で全く葛藤がない訳ではない。
もっとこうしたいという気持ちもある。

制作の場に関しても多くの方が必要として下さっている。
絵を見て下さいと言って下さる方が何人も居る。
小さなアトリエで見られる人数も限られているし、
僕自身も外での仕事が多くなっている。
お会いしてお話しして、少しでも希望を感じてもらって、
メールでのやり取りをしたり、繋がって行けるようには努力している。
それでも、制作に直接関わってあげられないのは歯痒くもある。
よし、おいで、一緒にいっぱい絵を描こうね。
見せてね。教えてね。と言えないことが残念だ。
僕はもっと制作の場を見る仕事をした方が良いのかも、とも思う。

他の環境があまり良くないことは分かっているということもある。
だから良い環境を増やす、良い人材を輩出するという仕事もしたい。

作家達の持つ素晴らしい世界を考えたら、
今進めていることは全て不可欠で、最も彼らに相応しいことだと確信している。
それでも、やっていることの本当の意味を、
今一緒に共有出来たらどんなに素敵なことだろうとも、やっぱり思う。

そんな想いを行ったり来たりしている時に、
ピンク色の光に出会った。

本当に美しく、光の中に包まれ行くようだった。
世界が突如輝く瞬間がある。
もっともっと計り知れない何かを見せてくれたな、と思った。
美があるから、そして美は生命を動かすから、
単純にそこだけを見て行けば良いと、今日の景色が教えてくれた。

ピンク色の光は、やっぱりどこか懐かしくて、
やっぱりそれはダウン症の人たちの描く世界と同じものだった。

2014年6月22日日曜日

ちょっとだけ雨

先週、そして今週と素晴らしい作品がたくさん生まれている。

いつも言うことだけれど魔法のようだ。

イサにしっかり見てもらって、つかんで欲しいと思っているので、
伝えるつもりで動いている。

大事なところはいくら言葉で言ってもだめで、やってみせて行くしかない。

場に入るなら一人が一番動き易い。
人と一緒だとエネルギーをかなり使う。

必要な注意力はかなりの体力を使うので、基本は良く寝ること。
人生は複雑で、仕事も生活もコントロール出来るものではない。
だから良く寝るという単純なことも出来ないことは多い。
寝ていないと影響が出るくらいなら、
もっと色んなことに立ち向かって訓練した方が良い。
あくまで出来る時はだが、何をするより寝る。

酵素シロップ、レモンをベースにしたのが完成。
他に梅のも仕込み中。

ナイの演奏でベートーベンを聴いている。
噛み締めるように進行する音楽。
ナイの人生を聴いているようだ。

見るとか聴くということも、今の風潮では光を強くするとか、
音を鮮明にするとか、そういうことだと思われている。
それは音を音だと思うからで、例えば絵画であればそれを絵画だと思い込む。
そうではなくて、それが真の芸術であるなら、
そこにあるのは一つの精神、魂だ。
こう言ったからと言って何も曖昧な話ではない。

一つの感覚に頼ろうとすると感度が落ちるということでもある。
見ている時に視覚だけに頼ると何も見えない。
聴いている時も同じ。

最近、ソニーの言っていることが気になる。
見るテレビから感じるテレビと言っていた。
更には音楽の方でも聴く音から感じる音へと言っているようだ。
同じことを言っているのか分からないが、これは本質的なことかも知れない。

少し雨が降っている。
あまり梅雨らしい梅雨でもないが、僕は嫌われるこの季節が案外好きだ。

2014年6月21日土曜日

世界への信頼感

今の時間が縦にも横にも繋がっていて、
もし人の芯に入って行くものとなるなら、それはかけがえがない。

人は人と向き合う時、事物や世界と向き合う時、
経験や意識化されていない記憶をもとにしている。
それは癖でもある。

あるいは精神的な体力のようなものがあり、
こころのバネと言っても良いものだが、
これも深い部分にある経験や記憶が元となる。

場での経験が大切なのは、
人間にとって幼少期が大切なのと同じ意味だと思っている。

人間にとって元となるものを養うことが、生命の根幹に関わることだ。

人への信頼はこの地球や世界への信頼に繋がる。
そして、そのもとは幼少期に作られた母親への信頼だろう。

甘やかすと弱くなると思っている人は多いが、
深い愛情がこころの中に入っている人間は強い。

表面的な浅い部分へ影響が行くことは簡単なのだけれど、
深い部分、芯の部分にはなかなか入っては行かない。

良い絵が生まれる時のプロセスと言うものがあり、
それはその人のこころのある領域が活性化されて来る時だ。
そのとき、同時に幸福感というものを実感している。
言い換えれば幸せと創造性は一つの場所から来ている。

場に入る、とは一人一人が幸せと世界との繋がりや信頼感、
安心感をこころの深いところで見つけること。
そしてその記憶を刻んで行くこと。
芯に入った体験は次もその場所に導いてくれる。

三重でこんなことがあった。
ゆうたはアレルギーがあるので寝る少し前とか、
寝ぼけている時とか、体温が高くなると身体が痒くなる。
いつもよしこが添い寝して身体をかき続けている。
夜中にまたいつものように悠太が痒い痒いといっている。
よしこがしばらくかいたりさすったり風をおくったりしていた。
濡れタオルで身体を拭いている時だ。

あれ、という不思議な感覚になった。
なんだろうこの感じは。感覚に集中して行くとなつかしさがやってきた。
これと同じ時間をどこかで経験している。
よしことゆうたはいつもこうしているので、その記憶かとも思ったが、
どうも違う。もっと古く深い部分にある記憶だ。
そして情景がありありと見えて来た。
祖母が居て、僕の身体を熱いタオルで拭いてくれている。
何度も濡らし絞り、拭いてくれる。
僕は身体を掻きむしっていた。
何も考えてはいなかった。ただあたたかい世界との繋がりがあるだけ。
皮膚に直接触れるあたたかさ。祖母のやさしい顔。

この情景を思い出したのは始めてだ。
こんなことがあったこと自体気がつかなかった。
でも、ここにある信頼感や安心感やあたたかさや、
そしてなつかしい感触は人生の様々な場面で僕に訪れた。
これまでこの感覚にどれだけ助けられたか分からない。
その感覚がどこから来ていたのか、僕は始めて気がついた。

僕が幼い頃、母は夜も仕事があって家にいなかった。
祖母がきて面倒を見てくれることも何度かあったと思う。
祖母は夜は家へ帰っていたから、そんなに長い時間ではなかったはずだ。
この記憶もあのとき、祖母は僕が寝入ってから家へ帰ったのだろうし、
または泊まっていった数少ない一日だったのかも知れない。
とにかく愛情は時間ではないとあらためて思う。
そして、よしこが今、ゆうたにしてくれていることは、
いつまでも彼の中に残って行く。
こうして繋がって行くことに、よしこにもゆうたにも感謝している。

人が大人になってしまうと、深い部分に入って行くことも、
そこに響く時間を創ることも容易ではない。
それでも、僕達は場を共有し、一緒に見つけ出して行こうとする。

今日も明日も制作の場がそのようなあたたかなものになるように、
一人一人にかけがえのない時間として芯に入って行けるように、
注意力を働かせて挑んで行きたい。

2014年6月20日金曜日

ベートーベン

東京都美術館での展覧会に向けて、会場での制作を考えている。
どんな段取りで進めるか、作家達が安心して制作出来る空間を創りたい。

会場内で制作するのは始めてなので、普段通りとまでは行かないだろうが、
出来るだけ良い形にして、展示との一体感が生まれたら素晴らしい。

中原さんが本格的な展示をして下さるだろうから、
制作空間も連続したものにならなければ、と思っている。

来週は打ち合わせと来客が続くので準備の方も合間をぬって進めて行く。

明日の土、日曜クラスも久しぶりなので、いつも以上に気持ちをこめたい。

梅雨時期で体調もいまいちですが、いよいよこれからです。

大きなイベントばかりではなくて、
基礎とも足場とも言える細々した仕事が日々あります。
これが本当は一番大事だとも思っています。

次のプロジェクトについてもまた具体的にご報告出来ると思います。

サッカー、ご覧になりましたか。
いやー、くやしいですね。残念です。うーん。
冷静に言ってしまえばサッカー好きの人に怒られるかもしれませんが、
ああいう場面はちょっと難しいのではないでしょうか。
お互いに勝とうとするからどこかにスキが出るのであって、
相手が守りに徹して来た場合はなかなか崩せるものではないと思います。
仕方ないといってはなんですが。
まあだからこそ初戦を落としたのは痛いですね。
でも、案外コロンビア戦、可能性がなくはないと思います。
勝負的に見たらこういう場面は力が出易い。

あれから一週間経って酵素が出来上がり間近。

ベートーベンのピアノソナタ30、31、32番の3曲は特に好きだ。
クラシックは演奏家次第なのでほとんどの場合、作曲家より演奏家を聴く感じ。
でもこの3曲だけは曲自体が好きなので、これまで本当に色んな演奏家を聴いて来た。
僕の中のベストはヴェデルニコフとやはりバックハウス。
それにちょっと変化球としてグールド。この3つを聴いてきた。

なんか別の演奏家でこの曲を聴きたいな、と思って探していると、
以前中古で400円で買ったけど聴いていなかったものが出て来た。
エリー・ナイというピアニスト。
何故今まで気がつかなかったのだろう。
凄い。多分この曲はこれからこの人の演奏で聴くことになりそうだ。

音はうねっていて闇の奥とか、夜の底から聴こえて来るようだ。
ずっしり重く、ゆっくりゆっくり進んで行く。

一つ一つの音が深い。
エリー・ナイがどんな人なのかは分からないし、そんなことはどうでも良い。
この演奏だけがあれば。
音楽からこのような精神性が感じられることは、もはや滅多にない。
音楽のみならずあらゆる芸術が現在そうなっているのだろう。

良い場と、良い作品が生まれ続けるということに、今後もかけていきたい。

2014年6月19日木曜日

世界との対話

天気予報では雨だったけど、強い光が射している。

今日の空や草木や風が語りかけて来るもの、
示しているもの、それらを通して、世界と対話する。
生きているとはその対話のことだと思う。

現実や物質とこころやイメージが全く違うものだと思っている人は多いだろうが、
実はそれほどの違いがあるとは思えない。

内側も外側もいつでも動いて変化している。

絵を見ている時、実際に現れている色や線を見ているよりは、
その背後で動いている、未だ形になっていないものを見るし、
感じとっている。

そういう見方が定着して来ると、
生きている世界のすべてがそのままではなく、
何か形をなさない動きが変化して行くプロセスに見えてくる。

内部と外部があったり、物質とこころがあったりするのではなく、
一つの変化し続ける動きの濃淡があるだけだったり。

だからいつでも感じとり、順応し調和して行く。
対話して行くと言っても良い。

今日の道や座った椅子や飲み水と対話する。
そんなことの連続の中に制作の場もあるのだろう。

2014年6月18日水曜日

繋がるヒント

今日は曇り。

外での仕事も増えて、ここ数年色んな出会いにも恵まれる。
それはそれで有り難いことも沢山ある。
でも、物事には表と裏、表面とその背景がある。
そして絶えず見えているものよりその奥にあるものも方が遥かに重要な真実がある。

制作の場より面白いものはない。
そこにあるのは表面の上っ面の部分ではなく、人間の根幹に関わるもの。

場での充実感もあるいは辛さというか、
使うエネルギー量も外で行うものとは比較にならない。

生きているということの本当の形。
研ぎ澄まされた素の姿だけがそこにある。
そこから見たとき、様々な物事の見え方や捉え方が変わって来る。

日曜日の午前のクラス、一体どこまで潜るのかという深いところまで行って、
最後は一人の作家だけが残って、そこから更に先に入って行った。
場はもっと行って良いよと言っていた。
場がかなり助けてくれて、僕達は海の底のような場所で、
一体感と安心感とどこまでも果てのない感覚に包まれていた。

みんなが帰った後、スタッフもお昼休みの時間、場から離れようとすると、
場が寂しがる。不思議だ。
あれだけ暖めてくれていたのだから、冷やすのに少し時間が必要なのだろう。
誰もいない部屋に音楽をかけておいた。

何度も何度も経験していることだが、
僕は知覚が変わること、動きが変わること、目の前の事物の意味が変わること、
そういうことにしか価値を感じない。
本当に生きていれば、そして何か大切なものや意味のあるものがあるなら、
それらは理屈ではないはずだ。
具体的に自分を変えてくれるはずだ。
昨日までの世界を終わらせてくれるはずだ。

いつでもそういう何かを追求して行く。

こころと深く繋がることとか、奥の奥にある領域に触れるためには、
カギやヒントとなる何ものかを見つけなければならない。

それは生きることそのもので、
人生を通じて人はより大きな世界と繋がって行くカギを探していると言える。

一つの音楽の中であったり、絵画や映画の中にそれが見つかることがある。
本の中の言葉に見つかることもある。
一つの概念、イメージが現実を大きく変えることもある。

例えば生物学の話を聞いていて、全ての細胞はもともと一つで、
その一つの細胞がたくさんに分かれて行くというイメージが、
実際の自分の動きやこころと身体の使い方を変えた時期があった。
浮世絵を見ていた時、世界との接し方が変化した。
モーツアルトをずっと聴き続けたことがあって、
最後にはモーツアルトのモーツアルトらしさは消えてリズムだけが残って、
セロニアスモンクに行ってアフリカのリズムに行って、
グールドの初期の演奏に行って、歩くテンポや呼吸に行って、
全部がリズムになって、という経験。
食べるにしても、作るにしても、
あるいは美味しい珈琲を探すことにしても、
このカギとかヒントを求めている。

カギはへその緒のようなもので、繋がるための切っ掛けだ。

海を見て、感覚を開いて、皮膚に波のバイブレーションを感じていると、
海のようになれないかな、あのように動けないかな、
とまた一つのキーが現れて来る。

2014年6月17日火曜日

その時、その場のバランス

今日はプレのクラスに保育士さん達のご見学。
熱心な方達で、ダウン症の人たちの絵画の教室を始められたそうだ。
制作のこと、作品のこと、社会へのアプロ一チのこと、
それから教育や福祉の在り方のことなど、いろいろお話した。

僕達の東京のアトリエも問い合わせが多く、
生徒は定員なので、求めておられる方に環境を提供出来ない状態が続いている。
こちらの体制も整備して行きたいが、
他の良い活動が増えてくれることを願っている。
その為に手伝えることは手伝いたいといつも考えている。

最終的に目指すべき場所はみんな同じなのだろうと思う。
ただ手段は色々だろう。

僕らは福祉的な視点や扱いに対して疑問をなげかけてきたが、
それらが間違っているとは思ってはいないし、
現時点でのアトリエの在り方が唯一の答えだとも思わない。

一人一人の本当の幸せがどこにあるのか、そこにつきる。

日々の制作の場と同じで、答えがある訳ではなく、そこでの最善を見つけること。

作品が展示される、大きな場所や小さな場所で、
グッツが作られる、企業とのコラボがある。
それらは全て価値のあるものであり、
他ではない新しい可能性を示して来たと思う。

ただ反対意見もあるのは分かっているし、反対する人が間違っているとも思わない。
一人一人が考えがあり立場も違う。
当然、求めるものも理想も違うだろう。
それぞれの立場に立てば、そうだよね、とは思う。
それでもその中で繋ぐこと、決断することをしていかなければ、
歩みは止まってしまう。

まずはこんなに可能性がある、と言う部分を予感させることを大切にして来た。

答えではない、ベストではない。
でも、その時の色んな条件や社会の中で出来うる最善の選択だと思っている。
答えや理想に遠くても、その線上にあることは確かだ。

時間はかかっても多くの人に喜んでもらえるものになるはずだ。

同じように人間のこころにも答えはない。
いつも言うように複雑なバランスの中で保たれる、
つまりはその時々の最善を見つけて行くことにしか道はない。

多くの人は良いものや悪いものがあって、悪いものはなくした方が良いと考える。
あるいは病気と言うものが実在していて、
治したいとか、治りたいと思う。

でも、それも危険な考え方で、こころをそんな風に方向付けてしまうと、
一つ何かが良くなっても、どこかでおかしくなって行く。

答えがない状況でも、良いものも悪いものも混ざり合っている状況でも、
その中での良いバランスを見つけて行く。

制作の場においては、その時、その瞬間の中での良い形を見つけて行く。

色んなものがあることが実は良いことなのだと思う。

だからデコボコした現実を一つ一つ噛み締め、
味わって行くところに豊かな人生があるのではないだろうか。

2014年6月16日月曜日

梅雨の合間の太陽

日中は暑いですね。

土、日曜日の2日間は久しぶりに深く深く潜って来た。
作家達は凄い部分もやさしい部分も、素晴らしく、
こんなに奥のところまで出してくれるのか、という感動もある。

短い時間であっても芯に入って行く経験。
濃い時間だ。
良い場とはまるで海の底のようだ。

作品も良いのばかり。いつまでも見ていられる。
だからこそ教室が終われば見ない。終わりが無くなるから。

そしてどれだけ深く奥に進んで行っても、僕達はすっと帰ってくる。

作家達もスタッフもそういうことを繰り返して来たけれど、
この帰って来る、ということも重要なことなのだと思う。
また一緒に行くことが出来るのだから。

昨日の朝、ゆうたから電話。
「パパあ、お仕事頑張ってね。あいやとう。」

悠太の声。嬉しい。

毎日撹拌している酵素シロップ。少し泡が出てきた。
よし子とゆうた用に作っているので、すべて無農薬のにした。
2種類のレモンと甘夏も2種類、ビワ、人参、あと少し何か入れたような。

2014年6月15日日曜日

その時が全て

やっぱりみんな凄い絵を描くなあ、と当たり前のことを思っていました。
土曜日も充実した深く静かな時間となりました。
今日も良い場になりますように。

最近は場を離れることも出て来たので、
久しぶりに入ったりすると、集中の仕方も意識や身体の使い方も、
いつもとどれだけ違っているのかを感じる。

僕のような怠け者はこれほど真剣に何かをすることは、
普段の生活ではあり得ない。

使い尽くす、すべてを出し尽くす、
ということがどれだけ素晴らしいことかが分かる。

その時、その場ですべてをかけて、そして次の場面ではまたゼロから、
それが本当の生き方なのだと思う。

作家達の絵にしたってそうで、彼らは次の絵のことなど考えない。
目の前のその一枚がすべてで、そこに全エネルギーを注ぎ込む。

2014年6月14日土曜日

楽園としての芸術

いよいよ東京都美術館での展覧会が近づいて来た。
お会いする人達とお話ししていると、一様に来て下さると言う。

美術館側の特設サイトも充実していますので是非ご覧下さい。

作家達の世界の精髄に触れられる展示になるだろう。

アウトサイダーアートやアール・ブリュットとして行われる展覧会の多くが、
既成のイメージだけで成り立っている。
そのイメージは外部から作られたもので、それ自体を問い直す視点も乏しい。
更には作品をどのような基準で選定しているのかも曖昧だ。

そんな中で今回の展示は作品主体の本格的なものになるはずだ。

恐らく多くの人が始めて見るような世界に出会えるのではないだろうか。

僕の想像ではあるのだが、学芸員の中原さんの熱い目線を思うと、
そんな風に感じるのだ。

勿論、それがすべてだとは思わない。
様々な視点があって良いだろう。
ただ、こうじゃないどろうか、こうであるはずだ、それは違っている、
という見解をそろそろ提示し合い、議論して良い段階に入ったのではないだろうか。

僕達は外に出るまでしっかり作品を守り、
本当に信頼出来る方に恵まれた時にはその方に全面的に委ねる。

そこから客観性や社会性が生まれて来る。

僕自身も今回の展覧会がどんなものになるのか、予想がつかない。
だから楽しみだ。

中原さんから頂いた楽園としての芸術というテーマを、
今僕は考えている。
中原さんは展示と言う具体的な形で見せて下さるだろう。
僕は一つ一つの場の中でその答えを出して行きたい。

今日の制作の場が、楽園としての芸術を感じさせるものにならなければならない。

2014年6月13日金曜日

想うこと

大きな月が闇の中で光っていた。

そして今日は良い天気。

三重でのことちょっとづつ書いて行こうと思います。

子育て日記にしたくないので、悠太のことをしばらく書かなかった。
その間に本当にいっぱい学ぶことや気づかされることがあり、
嬉しいことや心配や、色んなことを通過して、
どんどんどんどん語り得ないことになって行く。
悠太の存在がなければ、今の僕はいないと思う。
彼が生まれてから変わったことの多くに本当に感謝している。

よしこときくちゃんと今後の展開へ向け準備をすすめている。
アトリエの中で社会へ向けて発信する部分の多くはこの部門で行う予定。

きくちゃんと言う有能な仲間を得たことで、新しい段階に入って行くだろう。

制作の場もそうだけど、どこまでも本質にこだわって行きたい。

これから世界はどうなって行くのか。
子供達が大きくなった時にどんな環境になっているのか。
人格が形成される大切な時期に、こころにも身体にも良くないものが溢れている。
本当のものを知らないで、経験しないで大人になったらどうなるのか。

本当のものに触れる機会を作って行きたいし、
本当の経験が出来る場を創りたい。
ダウン症の人たちが静かに語りかけている調和の文化を形にして行きたい。
それがダウンズタウンの大きな目標だ。

生命の様式に立ち返ること。

海を見ていると、思考が消え、感情が消え、自分が消えて行く。
何もない場所に戻って行く。

田植えの手伝いに行ったり、たくさん歩いたり、大切な人をむかえて語り合ったり、
どこかのあまり美味しくない珈琲を煎り直してみたり、
仕事もたくさん入っていたけれど、どこまでが仕事なのか分からないくらい、
三重での日々は生活と密着していた。

よしこと酵素シロップづくりを始めたのが楽しかった。
それで東京に帰って来てまた作り始めた。
次回はよしこ達が東京に出て来るので、その時に使えるようにしたい。
ゆうたのアレルギーにも良いような気がしている。
毎日混ぜて思いを入れらるのがいい。
愛情は質の良い常在菌として生きて行く。生き物だから面白い。

今回のフラボアはまた色が良くなって、
作品の世界を新しい場所に運んでいる。
明るくやさしく、様々な環境に調和して行くという世界観が、
佐々木さんという信頼出来るデザイナーの手によって、
形となり、作品だけの世界とは違う可能性をも見せてくれる。
個人的には晴子さんのありがとうシリーズが入っているバックが欲しい。
たくさんの文字が配置されているデザインは、
毎日ありがとうカードを描き続けている、彼女の時間と、
生活やプレでの日々を、そしてあの笑顔を連想させる。
はるこはみんなを思い、
気持ちをこめるということを生きる基本にしている作家だ。
出会った人に自分の書いたカードをあげ、折り紙をおり、メールを書く。
いつも人を思い、愛している。
そんな彼女の世界観が伝わって来るバックだと思う。
だからお守りのようになるかも。
誰かが自分のことを想ってくれることは、どんな人にとっても嬉しいこと。
でも、余裕や時間がなかったり自分のことで精一杯だったりして、
想っては欲しいけれど、人のことは想えないという状況が今の時代。
そんな中で人を想うという無償の行為を続けるはるこ達が、
貴重な存在であることは当然だと思う。

さてまだまだ書くことはありますが、今日はこのへんで。

2014年6月12日木曜日

アトリエ

皆様、お久しぶりです。
ブログの更新が遅くなってしまいました。
東京に帰って来ました。

三重での時間は仕事もプライヴェートも本当に充実していた。
改めてよし子達と肇さん敬子さんには感謝の気持ちだ。

書きたいことはいっぱいあるのだけれど、
今日は東京の制作の場のことを書くことにする。

東京アトリエの皆さん、ごめんなさい。
僕が離れている間、制作の場が本来の質を保てていなかったようです。
この土、日から少しでも良い場を取り戻して行きます。
そして、次回僕がいない間は今回のようなことのないようにしていきます。

帰って来て、みんなの絵をずっと見ていました。
こんなはずはない、どうなっているのか、落胆と申し訳ない気持ちと。

絵を見れば、場がどうだったのかは大体分かります。

作家達と信頼して任せて下さっている保護者の方達を思うと、
これからスタッフ達は身を引き締めて行かなければならない。

最終責任は僕にあります。
次のクラスからしっかりやって行くことで、必ずお返しします。

何人かの作家に関しては、
このような絵を描くはずがないというものまでありました。

本来は公の場でこのようなことを書くのは、
現場にいた関川君に悪いし、
黙って修正すれば良いかなとも考えました。

でも、僕達には責任があることを忘れてはいけない。
下駄屋が鼻緒の切れた下駄を売ってしまったようなものなのだから。
ちゃんと回収して直さないと。
誤摩化してはいけない。
失敗は認めて、反省してやり直さなければならない。
看板に偽りがあってはいけない。

ここから先は関川君にだけ言うことにしよう。

いつでも良い場であれるように、みんなの希望となるように、
外部からも多くの期待を背負っているのだから。
僕達はいつでも最良を目指して改善して行きます。

これからもみんなと一緒に喜び合える環境を創ります。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。