2013年5月31日金曜日

善悪

今日は暑くなった。
明日のアトリエの準備をして、今日はお休みにさせてもらいました。

久しぶりに喫茶店へ行ったら、バーバーのアダージョが流れてきて、
思わず聴き惚れてしまった。
やっぱり奇麗なものに触れていたいと思った。

最近は何かとああでもない、こうでもないと葛藤があって、
簡単で明晰だったころとは変わってきたなあ、と思う。

もっと素直になりたい。

そんなことを書きながらも、最近思うことがある。

無意識に無自覚に生きることにノーと言ってきたけれど、
ここのところの社会の思考停止状態は凄い。

僕のところに相談に来る人の話を聞いていてもそうだ。

障害や差別の問題にも触れてきたけど、
何となくそうなっているから、触らぬ神にたたりなし的な状況はおおい。

みんな、そうやって育ってきてしまったのだからしょうがない部分もある。
でも、考えてみよう。
この世界に絶対に正しいものも、絶対に間違ったものも存在しない。
仮にあったとしても、自分で経験してみないと分からないはずだ。

条件反射で良い悪いを言って騒いでいる。
特に悪だと言われている物事に対しての過剰な反応は危険なレベルでさえある。

無条件に良いことだと思い込んでいることにも気をつけた方がいい。
福祉や教育やボランティアが必ず正しいと思うのは間違いだ。

むしろ正しいとか善だと思われているものが逆の効果を生んでいるケースは多い。

人助けは絶対の善だろうか。
ありがた迷惑というものも存在している。

無条件に良しとされる、健康とか長生きとか、それに何の意味があるのだろうか。
極端な話で申し訳ないが、そういった価値を否定している訳ではない。
絶対なのかということを問うている次第だ。

僕は人生がまだ始まってもいないような年齢から、
身体に気をつけて無理をしないようにしている人を見ると、
何なんだろうと思う。

僕自身は健康も長生きも、それ自体が価値となることはない。
何のための健康かということが大切なのではないか。
時にはそんなものを犠牲に出来る程の、何らかの価値を見つけているだろうか。
それを見つけることの方が先決だ。

身体のことなんかもっと疲れ果ててから考えれば良い。
長くもない人生、安息は死んでからで充分。

この前、オーガニックコーヒーを飲んだら、不味さに驚いた。
知り合いのお茶屋さんが無農薬や放射能不検出をうたうお茶に関して、
「あんな美味しくないお茶を飲むくらいなら、安全なお水を飲めば良い」
と言っていたことを思い出した。
安全とか安心とかって、それ自体が目的化されるのは可笑しい。
あくまで手段であったり、プラスアルファの部分の話なはずだ。

矛盾なく葛藤なく、さっぱりして生きたいのは僕も同じだけど。

現実はしっかり見て行かなければならない。
ほっこりなんかしてる場合じゃないし、癒されてどうするつもりだろう。

幸せについても書いてきたけど、
僕は自分が幸せになることなんか興味ない。
自分を見つめる暇があったらもっと仕事したいし、
自分のことを考えるエネルギーをもっと他へ向けて行きたい。
癒されている時間なんかない。

身体に悪いから、これをしないとか、
身体に良いからこうするとか、無意識に言っているけど、
問題なのはその身体を何の為に何に使うのかではないだろうか。

誰がなんと言おうと、どのように見られようと、
こう思うから、こっちへ進んでみる、という勢いが必要だ。
僕達は誰かに命令されて生きてるのでもなければ、
誰かの機嫌を取るために生まれてきたのでもないはずだ。

自分で考え、感じ、判断し、責任を持つ。
今、こうなっているからこうではなく、
良いものを創って行く。
そのプロセスでみんなと繋がって行けたら素晴らしい。

2013年5月30日木曜日

すべては夢

梅雨に入った。
温い風が大きく木々を揺さぶる。
薄く霧があって、どこかなつかしい。
遠い場所にいるようだ。

制作の場に立つとき、僕達は自身の全細胞を目覚めさせる。
裸になってその場に入り、神経を研ぎ澄ます。
人のこころと向き合うとき、とても繊細な手つきが必要となるから。
もし上手く行けば、僕達は一つになって本当の場所へたどり着く。

僕達はゆっくり色んなものを捨てて、はぎ取って行く。
捨てて捨てて、落として落として、何処までも裸になって行く。
少しづつ、感覚が開きだす。無駄なものをすべて落とすと透明になって、
どこまでも軽くなって、そのとき、ようやくこころが本来の動きを取り戻す。

そこからはある意味で光りしかない。

ここへはあんまりエピソードのようなことは書いて来なかった。
外でお話しする時も、そのような話はしないようにしている。
なぜかと言うと、一般の人が理解出来ないような次元のことがいっぱいあるからだ。
不思議なことも、普通には起こりえないこともおきる。
奇跡みたいなこととか、現実が変わったりだとか。
そのような出来事は一人一人の内面の親密な部分と関わっているので、
当然、プライバシーのような意識もある。
それから信頼関係もある。
でも、こういったエピソードを話さない一番大きな理由は、
繊細な流れが途切れてしまう可能性があるからだ。
場、とは潜在的なものを顕在化させるところだ。
まだ外に現れていないものが、この場でだけちょっとだけ外へ出てきてくれる。
でも、この出てきたものを外で話してしまうと、
次から出て来づらくなるということだ。

あんまり説明することは出来ないけれど。

まだ、雨が降っていないが、雨の気配や匂いがする。
かすかに雨の音が聞こえる。
まだ、耳で捉えられるものではなく、予感のような音。

外で温い風に吹かれていると、
ガムランの音色が聴こえて来る。
一度だけ行ったことがあるバリ島で聴いた音楽だ。
ガムランはこの世のものとは思えない音で夢の音のようだ。

すべては夢のようなものだ、とよく言われたり書かれたりしているが、
それは本当だなあと実感する。

さっき書いたような場をいつでも続けてきたので、
この実感がどんどん深いものになっている。

最近はいつでもそう感じるようになった。

これまでは、あるとき、過去を振り返ってみて、ああ夢のようだと感じたり、
どこか遠い場所を歩いている時に、
懐かしい感覚と同時に夢の中にいるような気がした。
制作の場に深く入っている時もその感じになる。

でも、今は瞬間ではなくいつでも夢のような感じがする。

夢を見ているような眼差しでこの現実を見る。
実はこれがけっこう大切だ。
僕達の普段のあり方は緊張で、こころが動かなくなっている状態だ。
不確定な現実を必死になって固定化させて見ている。
いつも夢中になり過ぎて、身動きが取れなくなっている。

夢の中いるような感覚は、リラックスした本来の状態ということだ。

あるとき、冬の寒い夜。
友人と2人で話し込んでいた。
彼が突然、僕達の共通の友人について、
「そういえば、あいつって本当にこの現実にいたのかなあ」とつぶやいた。
その瞬間、みんなで過ごした過去や、今はいない友人との思い出が、
強烈に蘇ってきた。
沢山の場面がうかぶ中、
僕自身も彼は本当にいたのだろうかという気分になっていた。
そう考えると、これまでおきたことのすべてが本当に夢の中のように思える。
そして、この場で2人で話している光景だって夢なのではないだろうか。

この前、サウダージという言葉を書いたけれども、
その時に思い出したこと。
昔見た夢だ。
僕は森の中にいる。裸の男たちがハンモックで寝ている。
いつものように僕も寝ようとする。
男がやってきて、妻のところへ行った方が良いという。
子供が沢山居るから手伝ってあげろ、と。
その子供達は僕の子供ではない。
ああ、そうだったと思い出す。
僕は前日に結婚したのだった。
集落の人々に囲まれてその日、初めて妻を見たのではなかったか。
僕達は決められたことを決められた通りにするだけだった。
僕は妻と子供達の元へ向かう。
懐かしい感覚に包まれる。
たったそれだけの夢だ。
でも、この夢で見ていた森や原野や集落はまるで現実のようで、
ずっとずっとそうしてきたかのようにおぼえている。

こうして今、生きていることも夢のようなものなのだろう。
夢のようにはかなく美しい、この世界と、今日という1日の中で、
出会う出来事や人々を大切にしていきたい。

2013年5月29日水曜日

ちょっとだけ続き

雨がちらついてきた。
今日もみんなに良い時間を過ごして欲しい。

昨日のブログで「おおかみこども」を見た感想を少し書いた。
これは女性の、そして母の物語だ。
けれども、僕達にとっても身近に感じられるのは、
やっぱり女性性とか母性といったものは男にもあるからだ。

それから、またまた制作の場での話になってしまうが、
僕達スタッフに大切な要素としてあるのも、女性性とか母性と関わっている。
つまりは見守る視線なのだけど、
僕はこれについてはけっこう自覚的にずっと考えてきた。

自分の中の母性が強く動かなければ、場や人に安心感を感じさせることは出来ない。
けれども、以前も書いたが母性は危険でもある。
距離の近さが僕達を盲目にしてしまう。
自分も相手も母性に溺れると出口を失う。

生命力というものは、切ること、区切ること、分けることによって、
グーッと湧き出て来る時期ある。
母性は一体化が強過ぎてそのタイミングを逃してしまう。

どこまでも抱きしめ、一体化するが同時に客観視している状態。
深い愛とともに、醒めた俯瞰する眼差し。
そういった状態でいなければ、僕達は良い動きが出来ない。

映画の中で母親は小さく弱かった頃の雨をいつまでも抱きしめている。
雨が一人で進みだしても、どこかで泣いているのじゃないかと心配し、
自分が抱きしめて守ってあげなければと切実に思う。
あのシーンは本当に切ない。
母性ゆえに雨の自立した姿が見えない。

ずっと「大丈夫」を言ってもらっていた雨。
背中をさすってもらっていた雨。
その場面がちらついて悲しい。
でも、雨はもう違うところにいる。

花がいつまでも少女なのも、女性を良く表している。
花は母であると同時に少女だ。

その意味で本当の女性性や母性の可能性を実現しているのは雪だと思う。
この物語が雪の眼差しで語られていることも大切だ。
雪には母性の限界を突き抜けたやさしさが感じられる。
雪には母性と客観視が同時にある。
彼女がその視線を獲得出来たのは、小さな頃から2つの世界に引き裂かれ、
どちらでもない自分を見つめてきたからだろう。
花はおおかみ男を愛した人間であり、
雨はどちらかと言えばおおかみとして生きて行く。
雪はどちらでもない。
おおかみと人間の間を入ったり来たりしながら、
おそらく一番悩み抜いて自己を確立している。

雪の母を語る時の愛情は客観視と母性が共存している。

草平という男の子との出会いが雪を大きくしたことは間違いない。
一番感動的なシーン。
雨が降る中、教室の窓を空け、雪は草平に自分がおおかみであること明かす。
揺れるカーテンごしに雪の顔がおおかみになり、また人間になる。
このいったりきたりが雪という女性だ。
おおかみであることを伝える訳だけど、
このシーンはおおかみでも人間でもない雪を象徴しているし、
この場面で初めて雪はそんな自分を自覚し、認められたのだと思う。
父のことも母のことも、雨のことも愛情に満ちた眼差しで穏やかに語る雪は、
やっぱり本当の意味の母なる存在なのではないだろうか。

そして、子育ての中で僕達が気づいて行かなければならないことは、
子供は半分は自分達の分かる世界に属していても、
半分はおおかみなのだということだ。

雪のようにすべてを愛し、すべてを受け入れ、一生懸命生きて行きたい。

2013年5月28日火曜日

母なる感情

雨が降り出しそう。
もう梅雨に入るのかも。

平日のクラス、イサが責任を持って良くやっている。
今日はイサの誕生日。
あきが紙で創ったケーキを、はるこが折り紙で創ったロウソクをプレゼントしていた。
ケーキの上にロウソクをのせて、みんなで笑っていた。

合宿のプリントが三重から届いたので、これから配ることになる。
前回の合宿のことをイサと話していた。
帰りの日に奇麗な虹が出て、みんなが同じ虹を見ていたこと。
虹見てって、みんながその日、メールしてきたこと。
なつかしいなあ。

あの虹を離れた場所からみんなで見ていたように、
僕達はいつでも繋がっている。
そういう景色を一緒に見るために、こうして続けている。

さて、今日は全く別のことを書くつもりだったが、ちょっと気分が変わった。
最近はそんなことが多いなあ。

はるこが「ゆめかあ」とまたつぶやいていた。
はるこのその言葉を聞く度に、こんなすべては夢のようなものだなあと感じる。
これまでの月日も本当に夢のようだし、
みんなで場に入っている時間はいつでも夢の中。

何度も書いているが、夢の中にいるような感覚や、
どこか遠くにいる感じや、今が過去であるような感覚が、
アトリエにいる時のいつもの感じであったりする。

この前たまたま、あるピアニストのインタビューを読んだ。
演奏中におきている感覚について「サウダージ」という言葉を使っていた。
サウダージと言うのは、たしかポルトガル語で、間違っているかも知れないが、
郷愁というか、ある強烈な懐かしさのような感情を意味している。
僕はサウダージという言葉自体にサウダージを感じる。

結局のところ僕がダウン症の人たちに惹かれるのも、
サウダージを感じるからだ。

戻って行く、遡って行く、遥か昔やかつてを見つめる。
どこまでも帰ろうとする感情。

本当に良い時間を過ごしているとき、(僕らの場合はほとんどが制作の場でのこと)
ずっとずっとここにいたし、ずっとこうだったんだな、
という懐かしさが蘇って来る。

あきこさんに借りていた「おおかみこどもの雨と雪」のDVDを見ていた。
いつもは多角的に見たり、分析的に見たりしてしまうのだけど、
今日はそんなことが出来なかった。何故だろう。
これが本物中の本物の作品かと聞かれれば、そうは思わない。
でも、今、僕はこれを見て涙が止まらなかった。
やさしくて、寂しくて、悲しくてかなしくて仕方なかった。

なにもかもが過ぎ去って行く、すべてが過去になり、
遠い彼方へ消えて行く、といういつもいつも考えることが、
はかなく、もろく、切なかった。
今いる人達はみんないなくなる。
ここにあるものはみんななくなる。
でも、だからこそ、すべてが大切で、すべてに優しくありたい。
だからこそ、いつでも人を愛したい。

この映画では母の視点が一番クローズアップされていた。
大切に思う人とずっと一緒にいることは出来ない。
ということは良く経験することだけど、
その最も典型は母と子ではないだろうか。
大人になって自立して強く生きて欲しいと、願う。
それはとりもなおさず、自分を置いてどこまでも遠くへ、
手の届かないところへ行ってしまう寂しさを引き受けることだ。

当然のことだけど、雨が母の元を去って行ったのはオオカミだからではない。
母と子であるなら、必ずこうなって行く。

映画を見ながら僕は母にも子にもなっていた。
それからおおかみ男にも。

もう2度と自分の元へは返って来ないであろう子を見つめる母の愛情。

母として、すべての母としてこの世界を見つめてみる時にどんな情景が見えるのか。
僕はいつの間にか母なる視点ですべてを見ていた。
あるものすべてを抱きしめて、何処までも遠くへ行くのを見守っていた。

生きることは辛いことで、悲しいことだ。
悲しいから愛に満ちているとも言える。

毎回、書いていることだけど、本当に今しかないということだ。
そして、みんなみんな幸せになって欲しい。

さて、透明な悲しみと慈しみの感情を持って、
日々の場を創って行きたいし、毎日を生きて行きたい。

2013年5月26日日曜日

もっと前へ

今日は曇り。
思っても言ってはいけないことなのかも知れないが、
忙しくしているともったいない。
時間は容赦なく過ぎて行く。

人生を大切にしなければならない。

昨日のアトリエもはっとするような作品が多く生み出された。

書くべきことがたくさんあって、
ずっとずっと書きたいと思っていたのだけど、
そんな一つ一つが過去になってしまったので、他のことにしようと思う。
いつでも、今の実感の中にいたいと思うのだ。

アトリエの活動やメッセージが本当に多くの人達に共感されたり、
伝わりだしているなあ、と感じるこのごろ。

社会も人の意識も変わりつつあるのだと思う。

ずっと同じ意識で挑み、同じことを語ってきたけれど、
全く誰にも響かず、伝わらない時期もあった。
よくわからないことを言っていると思われていた。
勿論、こちらが未熟で拙かったせいもあるだろう。
でも、社会が変わったのだと思う。
大切なことが何なのか、そこに向かわなければならなくなった。
というより、そこへ向かわざるをえなくなった。

僕自身は人間にとっての根源的な問題だけを考えてきたし、
実践してきた。
根源に帰らなければならなくなること、それが必要になること。
そんな時代は本当に大変だと思う。

人間とか、生きるとか、幸せとか、もっと言うと愛とか、
本当に必要なことはそれだけなのだけど、
それに気がつくということはそれだけ、目の前に困難があるということだ。

豊かでなに不自由無く、繁栄しているとき、人は根源など考えない。

何かが崩壊し、信じるものがなくなり、これまでの価値が価値でなくなる。
なにもかもが失われて、裸になって最初からやり直しの時が来る。
僕はそれが今おきつつあることだと思っている。

多くの人にとって、変わりつつある流れは、不幸であったり、
困難であったり、悲しむべきことであるだろう。
けれども、ここから始まるのだと考えられたら素晴らしい。

美しいとはどんなことか。
どんなふうに生きて、どんな風に繋がって、どんな風に喜びあえるか。
これまで制作の場の中で探求してきたことが、
この社会にとってどんな価値となるのか試されている。

僕達がこの小さな場で、昨日も今日もおこなうこと。
それは、一度、こころの奥深くへ潜ること。
一人一人が自分の中でその作業をおこなって、
同時にこの場全体で深め合い、高め合う。
そうして行くと、全員が自分で自分が全員になる。

人のこころの深くには調和がある。
その調和はこの宇宙の秩序と同質のものだ。

だから、いつでもこころの中で感じとろう。
深く感じて、深く聴くことが出来たら、ゆっくりと外へ向かって広げて行こう。

響き合う場を社会の中に創って行きたい。

2013年5月25日土曜日

前へ

前回の更新から気がつくと一週間が過ぎている。
その間、沢山の人に出会った。

前回のブログの次の日。日曜日のクラスは素晴らしかった。
良い時のアトリエの雰囲気は本当に現実とは思えないほど輝いている。
作家たちの姿は透明で美しい。
良い時の佐久間は自分でも驚く程、場に流れを創る。
たまには褒めてあげようと思う。
やっぱりこんな仕事を出来る人はそういないのだから。

でもでも、次の段階へいこう。
困難の無いところでは人は成長しない。

僕にとって1日1日の現場がすべてだった。
それより大切なものは存在していなかった。

場に関して僕には困難は存在しない。
より良くする努力はいつでも怠らないけれど。

挑戦しなければならない。挑まなければ。
新しい扉を開いて行かなければと感じている。

だから、これまではこれまで。

今日は暑くなるそうだ。

とにかく、まっしぐらに突き進もう。

よーし、やるぞー。

2013年5月19日日曜日

創り続ける

昨日はずいぶん寝た。時間というよりは深さ。
熟睡した。

お問い合わせが増えている。

アトリエに関心を持つ方や、何かを求めて来られる方が本当に多い。

希望に繋がる場を創り続けなければと、日々実感している。

今年は8月10日から一週間、三重県で合宿をおこなう。
今、詳細をプリントにしている。
今回は外部からも見に来ていただける場所にしたい。

アトリエで生まれた絵を通じて、様々な形で社会との関係を創っている。
新たな可能性を模索している。

こうした活動は言うまでもなくすべて、
普段の制作の場で生まれて来るものの延長にある。

大切なのは、みんなで良いもの、良い環境を創ることだ。
制作の場に入るとき、一人一人が自分の中の良いものに向かう。
創造性や愛や調和と言ったものを言葉ではなく、深く自分の中からみつける。
その場にいる全員が笑顔であれるように振る舞う。

本当に経験が深まれば、いつでもどんな場所でも最善を尽くすことで、
調和して行けることを知ることになる。

目指す目標は遥か遠くにあるばかりではない。
今日1日でも、調和のビジョンに包まれることが出来る。

アトリエでの時間は毎日そうでなければ、と思っている。

僕達は留まることをしない。
僕達は進み続け、創り続ける。
アーティストと名乗る人からよく連絡を受ける。
アーティスト、作家、芸術家、何でもいいが、それらの言葉が何を意味するのか。
創ることに専門家はいない。いらない。
僕達が生きることは創ることだ。
毎日、毎瞬、この生を創っていくこと。

何も恐れることはない。
進めば何かが見えてくる。

そして、これからみんなが本当に創っていかなければならないのは、
調和であり平和であり、あたたかいつながりだ。
それが出来るということを、私達の今後の活動から直感していただきたい。
ダウン症の人たちの作品から感じていただきたい。
作品から伝わって来るビジョンが世界中に届けば素晴らしい。

どんなに小さなところからでも、僕達は始める。

自分が今立っている場所から見つめ直そう。
しっかりと生きているか、良い仕事をしているか、
愛を持って、内側から湧き出るものによって行為しているか。
大切に慈しむように事物に触れているか。

人間には寝ている状態と起きている状態の2種類しかないと思っているかも知れない。
意識と無意識のどちらかしかないと思っているかも知れない。
でも、それは違う。
学者や専門家がそう言った訳ではない。
僕自身が経験していることを言っている。
人はもっと目を覚ますことが出来る。
もっと深く強く感じることが出来る。
強く愛し、強く悲しむこと。
もっと目をあけて、もっとよく見て、もっと良く聴いて、
身体もこころももっと使って行けば、生きている現実や世界は変わって来る。

深く生きるとはそういうことだ。
アトリエではみんな日々、そういった経験をしている。

昨日のアトリエも良い時間だった。
今日もそんな時間をみんなで創っていきたい。

2013年5月14日火曜日

戦わない知恵

日中は暑いくらいの日が続く。
そのうち、冬と夏しかなくなるんじゃないかと思ってしまう。
土、日曜日はやっぱりとても良い雰囲気になった。
勿論、作品も良い。
土曜日は雨でしっとり。日曜日は暑くなったけど、日差しはやわらかく繊細だった。
優しい日差しを受けて穏やかな時間が流れていた。

時々、本当に時間が止まる。
それくらい質の高い、密度の濃い時間になっているのだろう。
僕にとっていつまでたっても制作の場や人のこころは神秘であり続ける。

本当のことだけ言って行きたいので、最近はブログの更新も遅れて来る。

さとちゃんがアトリエに入るなり言った言葉。
「暑いからコックリさんでもしませんか?」
凄いセンスだなあ。

しかも作品はかなり良かった。
幻の世界を描いてると語りながら色が重ねられて行く。

そういえば、あみちゃんが「まぼろしいなあ」と言ったことが何度かあった。

幻みたいが、まぼろしいって、なかなかのセンスだと思う。

日曜日は朝、犬の散歩で歩いている時に、
今日のアトリエは絶対いいなあと思った。

近所にお花屋さんがあって、そこのあんちゃん風の男性は面白い。
サーフィンとか自転車とかスケートボートとか、
多分、スキーとかもなんだろうけれど、とにかく遊ぶ。
店では音楽をいっぱいかけたり、お香を焚いたり。
そして、植物が外にまで出ていて、それを嫌っている人もいる。
夜は道で友達を囲んで立ったり座ったりしてずっと話している。
ヒッピー風で適当な感じもある。
ところが、この人、実はかなり繊細で、花や植物に関しては結構深い。
良い仕事をする人だ。
僕は人に花を贈る時はだいたいは彼にお願いする。
繊細でセンスが良いからだ。
こんな感じの人に、こんな時に、と言うと、
「じゃあ、こうこうこういうかんじかな」と、すぐにイメージを作ることが出来る。

イメージが明確であること、プロとして状況に応じて動けること、
これが大切だ。

そうそう、その花屋の彼が朝、
立ち話で「今日、いいっすね」とお客さんに言っていた。
それが日曜日。
いいっすねには勿論、天気が大きいのだけどそれだけじゃなくて、
その日にその時間にあった雰囲気、すべての清いもののこと。

僕もその日、今日いいなあと思っていたから、その風景がすんなり入ってきた。

昨日は打ち合わせで、これからの私達に必要なのは、
ダウン症の人たちのような調和する感覚、争わない知恵、
戦わない豊かさでありセンスだという話をした。
それでも、僕自身は相変わらず戦っている。
この矛盾。

みんなにやさしくありたいと思う。
ただそれだけのことが、結構難しかったりする。

人が集まって、簡単ではないけれど、時には上手く行かないこともあるけれど、
その中で気持ちが通い合い、響き合う場を創る。
その場が最大の作品といえる。
良い絵を描くように、良い社会を創って行く。
良いと思った人達が共鳴しあって、環境が創られて行く。
これからの3年くらいのところが本当に大事だと思う。
今年の合宿とそこから先に期待していただきたい。
良い流れを生んで行きたい。

2013年5月8日水曜日

制作空間から見えるもの

暑くなってきた。
よい天気で鳥の声もよく聴こえる。
よし子とゆうたも無事、三重へ帰った。

一人の夜は本当に静かだ。

平日のクラスはイサ、あきこさん、稲垣君がいてにぎやか。
僕は制作の場以外の仕事が増えてきた。

ボランティアをしてくれているあきこさんも、
旦那さんの転勤があって夏にはお別れだ。
でも、何らかの形で繋がって行きたい。

よしこがパソコンの画面をゆうたと僕の写真にしてくれていた。
かわいいなあ。本当はずっとずっと一緒にいたい。

普段、作品だけでは見えない世界を語ってみよう。
例えば、出来上がった作品は美しいけれど、
さとし君やゆすけ君の作品とか(特にさとし君の作品は)、
絵の具が乾く前の色にこそ神髄がある。
残念ながらその色彩は人に見てもらうことが出来ない。

このあたりは微妙で、そこを見てしまっていると、
あの状態の作品が忘れられない。
それに彼らが本当に見ている色に近いのは、絵の具が乾く前の状態だ。

乾燥して時間を経ても変わらないものと、かなり質が変わってしまうものがある。

それに、そこまで考えてしまうと、
もっともっと美しいのは、作品になる前のこころから色が始まるところだ。
線や形がまだ出来上がる前の、どんなところにでも行ける無限の柔らかな空間。
そこから光が溢れ出て来るように、色が色を呼び、変化が次の変化を呼ぶ。
形にならない光と色が戯れ合って、無限が形へ向かって行く。
どの瞬間にも調和がある。
その情景がもっとも素晴らしいと言える。
この場面は制作の場以外では見られない。

勿論、絵として完成された一枚に、その秘跡は宿っているのだけど。

僕達が生きていることも、何かを実行することもそういうことで、
形になって見える前のまだ、どんな形にもなりうる柔らかな無限のような、
そんなこころの動きが一番面白い。

現実は一つで、何処までも形は固定されていると思い込んでいるけれど、
本当はもっとやわらかく、どんな風に見ることも、
どんな風に触れることも可能なのだいうことを忘れないでいよう。

今、僕達が生きている世界は、僕達がそのように解釈した世界だ。

絵を描く、というこころの動きを見ていると、
縛られないで、解放された状態でいる時に、
どんなに美しい世界が見えるのかが分かる。

2013年5月3日金曜日

判断、決断。

色んなことがあった。
忙しいけれど、充実した時間が流れている。
よし子とゆうたとゆっくりの時間も作ることが出来た。

公園や動物園に通った。

ゆうたはいっぱい、いっぱい笑ってくれる。

ゆうたは三重で保育園へ通う為にアレルギーの検査結果を持って行く必要があった。
検査結果を待っていたので、よし子たちはゴールデンウイークは東京になった。
アレルギーの検査が東京になったのは、
三重では対応してくれる病院が少なかったからだ。
東京でも結構たらい回しだった。
お医者さんによって見解もバラバラだし、対応が不誠実なことも多い。
この件に関しては本当は書きたいことも多いが、今回はやめておく。

ただ言えることは、専門家が何でも知っていると思ったら大間違いだということ。
まあ、これは僕なんかはずっと痛感してきたことだ。
たまたま10代の頃から、精神や知的な障害のある人達と関わってきたけれど、
この世界ほど専門家が何も分かっていないどころか、
間違った見解を広めている世界も珍しい。

ここでも何度も書いているけれど、
自分の感覚と判断を磨いて情報に左右されないことが大切だ。

土、日曜日の絵画のクラスが面白い。
毎日、これを続けたいとすら感じる。
こんな感覚は今までになかった。
もっと時間があればもっといけるのに、と思う。
でも、一方でもっと深いところ、一段二段深いレベルにいかなければ、とも思う。

現場に関してだけ言えば、体力があるうちが一番良いのだから、
いまのうちにもっと沢山の人に関わっておくべきだと思ったりする。
いつかは同じようには出来なくなるのだから、
可能性がある部分はどこまでもやっておくべきではないかと。

同じ次元に留まっている気はない。

ゆうたと色んな公園に行ってみたけれど、
井の頭公園の中にある熱帯鳥温室の風景が忘れられない。
熱帯植物が鬱蒼と広がっていて、本当に南国の森の中に入っているようだった。
熱帯植物が生い茂っている景色。
あの懐かしさと、こころが強く動く感じ。
なにかゾクゾクするような感覚。
僕にとってそういう経験が美を感じさせるのであって、
芸術家が美を作り、美術館へ行けば美に出会えるといった概念とは、
一生無縁だし、そうありたいとさえ思う。

熱帯の森に包まれたまま駅まで歩いた。
駅前に選挙カーが止まっていて演説が行われている。
その党のメンバーには一緒に仕事をしたことのある方の名前もある。
なんて遠い、無縁なところにいるのだろう。
政治によって何かが変わると信じる人はいまだに多い。
やってみて虚しさを悟ることになるのだろうが、
そんなことをしている時間があるのだろうか。

熱帯の植物の生命力がいつまでも頭に残っていた。

政治に惹かれる人達は結局は権力が好きなのだ。
一人の人間のこころがどうあるのか、地道にああでもない、こうでもないと、
積み重ね、ちょっとはまともになったかな、いやまだだな、
とかいう世界とは本当に無縁な世界という他ない。
僕がまだ未熟で分かっていないだけかも知れないが。

それにしても、誰に言う訳でもないが、
たった一回の人生、思いっきり生きた方がいい。
誰に遠慮する必要もないし、人に好かれることにエネルギーを使うのはバカバカしい。
褒められても、よしよしされても、それだけで満足出来るだろうか。
本当のことを貫きたい。

何をするのも専門家だよりとか、教科書に答えが書いてあるとか、
検索すれば答えが見つかるとか、
そんな安直な依存は捨ててしまった方がいい。
答えは自分で探す。
さっきも書いたように美術館に行けば、美が分かる訳ではない。

大切なのは、どんな生き方が可能かということ。
出来る限り、美しく、調和的な生を創りたい、ということだ。

美の問題は生命の問題だ。
何が美しく何が美しくないのか。
何を選び、何を捨てるのか。
生命はあらゆる瞬間にその判断を実行している。
美の感覚とは生命力だ。

誰かが美しいと言ったら美が生まれる訳ではない。
肩書きや能書きに頼っている限り、感覚は動かない。
どれだけ、先入観を捨てられるか、それが勝負だ。

アトリエの近所にお団子屋さんがあって、
そこで甲高い声のおばちゃんがいつも売っているのだけど、
このおばちゃんがマジックでその日に売っているものの名前を書いて、
店の前に貼っている。
歩いているとよし子が、「相変わらずいい字だねえ」と言う。
「あのおばちゃんの文字のファンだから」と。
毎回、見ていて、特に良かった時のはケータイの張り紙にしていたと言う。

流石だ。
当たり前だけど、評論家の語る美の概念に全く左右されていない。

選び、捨てる、判断する。
生きることはその連続で、感覚が弱い人は不安だから、
専門家や誰かの作った基準に頼ろうとする。

感じること、誰にも頼らず、何にも依存せず、
ただ、感覚のみが根拠となるような勇気を持つこと。

僕自身は制作の場に立つ時、自分の最も尊敬している人ですら、
今の自分の感覚より正しく判断出来るとは思わない。
もし、その場にその人がいて「違っているよ。こっちだよ。」
と言われても、僕は自分が感じた方を信じるだろう。
そして、その結果には全責任を負うつもりだ。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。