2013年5月30日木曜日

すべては夢

梅雨に入った。
温い風が大きく木々を揺さぶる。
薄く霧があって、どこかなつかしい。
遠い場所にいるようだ。

制作の場に立つとき、僕達は自身の全細胞を目覚めさせる。
裸になってその場に入り、神経を研ぎ澄ます。
人のこころと向き合うとき、とても繊細な手つきが必要となるから。
もし上手く行けば、僕達は一つになって本当の場所へたどり着く。

僕達はゆっくり色んなものを捨てて、はぎ取って行く。
捨てて捨てて、落として落として、何処までも裸になって行く。
少しづつ、感覚が開きだす。無駄なものをすべて落とすと透明になって、
どこまでも軽くなって、そのとき、ようやくこころが本来の動きを取り戻す。

そこからはある意味で光りしかない。

ここへはあんまりエピソードのようなことは書いて来なかった。
外でお話しする時も、そのような話はしないようにしている。
なぜかと言うと、一般の人が理解出来ないような次元のことがいっぱいあるからだ。
不思議なことも、普通には起こりえないこともおきる。
奇跡みたいなこととか、現実が変わったりだとか。
そのような出来事は一人一人の内面の親密な部分と関わっているので、
当然、プライバシーのような意識もある。
それから信頼関係もある。
でも、こういったエピソードを話さない一番大きな理由は、
繊細な流れが途切れてしまう可能性があるからだ。
場、とは潜在的なものを顕在化させるところだ。
まだ外に現れていないものが、この場でだけちょっとだけ外へ出てきてくれる。
でも、この出てきたものを外で話してしまうと、
次から出て来づらくなるということだ。

あんまり説明することは出来ないけれど。

まだ、雨が降っていないが、雨の気配や匂いがする。
かすかに雨の音が聞こえる。
まだ、耳で捉えられるものではなく、予感のような音。

外で温い風に吹かれていると、
ガムランの音色が聴こえて来る。
一度だけ行ったことがあるバリ島で聴いた音楽だ。
ガムランはこの世のものとは思えない音で夢の音のようだ。

すべては夢のようなものだ、とよく言われたり書かれたりしているが、
それは本当だなあと実感する。

さっき書いたような場をいつでも続けてきたので、
この実感がどんどん深いものになっている。

最近はいつでもそう感じるようになった。

これまでは、あるとき、過去を振り返ってみて、ああ夢のようだと感じたり、
どこか遠い場所を歩いている時に、
懐かしい感覚と同時に夢の中にいるような気がした。
制作の場に深く入っている時もその感じになる。

でも、今は瞬間ではなくいつでも夢のような感じがする。

夢を見ているような眼差しでこの現実を見る。
実はこれがけっこう大切だ。
僕達の普段のあり方は緊張で、こころが動かなくなっている状態だ。
不確定な現実を必死になって固定化させて見ている。
いつも夢中になり過ぎて、身動きが取れなくなっている。

夢の中いるような感覚は、リラックスした本来の状態ということだ。

あるとき、冬の寒い夜。
友人と2人で話し込んでいた。
彼が突然、僕達の共通の友人について、
「そういえば、あいつって本当にこの現実にいたのかなあ」とつぶやいた。
その瞬間、みんなで過ごした過去や、今はいない友人との思い出が、
強烈に蘇ってきた。
沢山の場面がうかぶ中、
僕自身も彼は本当にいたのだろうかという気分になっていた。
そう考えると、これまでおきたことのすべてが本当に夢の中のように思える。
そして、この場で2人で話している光景だって夢なのではないだろうか。

この前、サウダージという言葉を書いたけれども、
その時に思い出したこと。
昔見た夢だ。
僕は森の中にいる。裸の男たちがハンモックで寝ている。
いつものように僕も寝ようとする。
男がやってきて、妻のところへ行った方が良いという。
子供が沢山居るから手伝ってあげろ、と。
その子供達は僕の子供ではない。
ああ、そうだったと思い出す。
僕は前日に結婚したのだった。
集落の人々に囲まれてその日、初めて妻を見たのではなかったか。
僕達は決められたことを決められた通りにするだけだった。
僕は妻と子供達の元へ向かう。
懐かしい感覚に包まれる。
たったそれだけの夢だ。
でも、この夢で見ていた森や原野や集落はまるで現実のようで、
ずっとずっとそうしてきたかのようにおぼえている。

こうして今、生きていることも夢のようなものなのだろう。
夢のようにはかなく美しい、この世界と、今日という1日の中で、
出会う出来事や人々を大切にしていきたい。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。