2013年2月27日水曜日

今日はしっとり雨。
春になるのだなあ、と身体が感じている気がする。
気温もだいぶん穏やかになってきた。

昨日は満月で、まるいまるい月があやしいくらい奇麗だった。
夜になっても月の光で外は明るかった。

色んなことがあるけれど、生きていることは素晴らしいことだな、と思う。

昨日、アトリエでてる君とあきこさんが話しているのが良い感じだった。
何気ない会話なのだけど、心地よく、みんなにこんな時間があって良かったと。

あきこさんが家族の話をしている。
てる君のやさしい声。
「あきこさんて、子供っているんだ。」

みんないつまでも一緒にいられれば、どんなに良いか、と思うが、
でも、僕達はいつでも深く繋がっている。
ここにいてくれた人達みんなが。

結構好きだった喫茶店が5月頃で閉店することになったそうだ。
良い場所だった。
記憶の中に刻まれていく時間。

始まりがあれば終わりがある。
出会いがあれば別れがある。

離れていれてもこころは一つ、みたいな言葉はよく聞くだろうけれど、
僕のような仕事や生き方をしていると、
この言葉は本当に深い実感となってくる。

この場にもたくさんの人達がやってくる、
少しの時間でも一緒に過ごした人達は家族のようなものだ。
僕はいつでも一人一人に、何かを残してあげたいと思う。
単純なことだけどいっぱいの愛情を注ぐことくらいしか出来ない。
僕自身もみんなから本当に大きな深い愛をもらっている。

みんな大好きだし、みんな幸せになって欲しい。
どんな時も繋がりを忘れないで欲しい。

そして、僕達は進み続けなければならない。
やらなければならないことが待っている。

庭の緑が雨に濡れてひかっている。
もう、空気も変わってきた。
春が来る。
静かな季節がやってきて、それからまた次の季節になる。
今年の夏は暑いみたいなことを誰かが噂していた。

2013年2月25日月曜日

最近のこと

相変わらず寒い日が続いているが、春の気配もしてきた。

さて、しばらくブログが書けなかったが、
先週は見学や会いにきてくれる人が沢山いた。

いろいろお話ししていて、思うところがいっぱいあったが、ここでは書かない。
誰かの迷惑になってはならないので。

一つだけ、これももう何度も書いているが、
ダウン症の人たちに関わる人達に言いたい。
彼らに関わることを仕事としている人も、関係者もご家族もそうだが、
権利を訴える前に、自分達の理解のレベルを上げるべきだ。
よかれと思って行われている活動も、本当に彼らにとって良いのか、
深く考えてみるべきだ。
彼らのためと思っていることが、マイナスの効果をはたしていることも多い。
はっきり言ってしまえば、そういうものがほとんどだ。
いったい何の為に何がしたいのか、彼らのために何の役に立つのか、
本当に考えてみて欲しい。

おごってはならない。
知っていると思い込むべきではない。
謙虚にいつでも学ぶ姿勢が必要だ。

いくら身近に過ごしているからと言って、
彼らのすべてを分かっていると思わないことだ。

何かをしてあげたい、とか助けてあげたいという思いは、
確かにちゃっと上から見ていることではあるけれど、
それ自体は否定したくはない。
ただ、本当に助けになりたいのなら、自分が良く知ることが必要だ。
まず、何が必要なのか、感じなければならない。

僕自身はこうして彼らの作品制作の場に関わっているが、
月に100枚を超える絵が生まれる中で、
どの瞬間も新しい何かが見えてくる。
彼らの奥深さは、これくらいでは見えないな、と感じる。
まだ、先があるからいつでも続けていく。

ダウン症の人達のことを分かって下さい、というメッセージをよく見るけど、
あなた達は分かっているのですか、と問い直したい。
みんなで一緒にもっと分かろうよ、というのが正しいし、
みんなで彼らの声にもっと耳を澄ませてみようよ、ということなのではないか。
まずは、僕達、私達が、日々変わっていくこと。
率先して彼らの世界に入っていって、そこに何があるのか、
見極める努力を怠らないことではないか。

そんなことを感じている。

僕自身はいつでもシンプルな考えしかない。
ダウン症の人たちと関わっていくこと、一緒に生きていくことは、
楽しいし幸せなことだ。
僕は彼らが本来の力を発揮出来る場面を創ることが出来るし、
そうすると彼らは僕にたくさんのことを教えてくれる。
これが理想の関係だと思う。お互い与え合っているわけだ。
いつもこんなに与えてくれるし、教えてくれる存在が、
他の人達にとっても有用でないはずがない。
だから、他の人達との出会いの場所を創ったり、
彼らの世界観を伝えたりする。
そうすると、出会った人はみんな何かを感じてくれる。

こういうことが社会全体に広がっていけば良い。
ダウン症の人たちと社会との関係が出来ていく。
一緒にいると幸せと思う人が増えていって、
みんなでこんな風に生きようよ、という理想を示せばいい。
きっとそうだねと思う人が広がっていくはずだ。

僕のところには全く新しい意識を持った人達がやってくる。
みんな現状の福祉のあり方や、彼らとの関わりに疑問を持っている。
もっと彼らと一緒になりたいと思っている。
時代は変わっている。
古い発想は捨てるべきだ。
特に何かを教えたり訓練させていきさえすれば良いと考える人達。
ご自分が勉強して訓練しなさいと言いたい。
うーん。
最近はとくにあんまり批判は書かないようにしてきたけど、
やっぱり最後の一言が出てしまう。
いったい何様のつもりなんだ、とやっぱり書いてしまいました。

2013年2月20日水曜日

どこまでも

昨日は少し雪が降っていた。
今日は良く晴れたけれど、相変わらず気温は低い。
でも、こうしているうちにすぐに春がくるだろう。

今日もみんな元気。
ハルコは少し眠そうで、時々思い出を話す。
懐かしいなあ。
あんな事があった、こんな事があったと。
「ハルコ、佐久間さんこと卒業したね」とつぶやいている。
ああ、そういえばそうだな。
ハルコがドキンちゃんとか稲垣君とか、
いろんな人達に気持ちを向けていく前は、
ずっと「佐久間さんことすき」だった。

成長とともに関わる人も増えていく。

こうして、みんなとの関係も変わっていく。

今、ハルコともアキともてる君とも、
思い出を語り合える関係になれていることが素晴らしいことだと思う。

僕達は一緒に過ごしてきたし、一緒にたくさんの経験をしてきた。
一緒に成長してきた。
そして、一緒に場を創ってきた。

今日はだいすけ君もご機嫌だった。
ゆうすけ君は新しくスケッチブックに描き始めた。

アキさんは制作に関しては絶好調だ。

プレの時間は手伝ってくれている、
あきこさんとみんなとの関係もとても良い感じ。

しばらく前の話だけど、
水曜日のクラスが終わって自然に机を土日のクラスように片付けていると、
稲垣君が「佐久間さん。木曜日とか金曜日はこの部屋使わないんですか?」。
「うん。教室以外ではここへはあんまり入らないかな。」

こんな会話があった。

場の話を良く書くので、これも書いてみよう。
教室以外の時間は僕はこの場所に入らない。
入らないようにしている訳ではないが、なぜか入れない。

みんながいて初めて場になる。

誰もいないその場所に入ろうとするとはじかれる感じもある。
それと、空気感というか、場に対する敬意を保ちたいという気持ちもある。

きっちりと場に入るためには、場からちゃんと離れることも必要だ。
場と自分との距離が大切だ。

場との関係に自分なりのルールを作ることで、
場に入った時の心構えが変わるし、
場に入った瞬間に適切な動作が出来るようになる。

僕自身は場の中では完全に自分を捨てる。
自分を忘れるし、自分のことなんて考えることはない。

だから自由だ。
身体もこころも軽い。

場は楽しいし、そこではすべてが明晰に見える。
場と一つになり、場の呼吸を感じると、
宇宙の鼓動が聴こえてくるような感覚になる。

ここに場があって、ここにみんながいて、すべてが繋がっている。

僕達は前へ進む。
あるいは奥へ奥へと向かう。
誰も避けようとも、逃げようともしない。
みんなで行く。どこまでも行く。
そこには始まりも終わりもない。
ただひたすら、歩いていく。

これからもずっとすっとそうしていくだろう。
そして、あらゆる瞬間に全く新しい何かが現れ、
僕達に教えてくれる。僕達を導いてくれる。

人のこころと、場への信頼さえ持っていれば、
恐れも迷いもない。
歩み始めたら、立ち止まることはない。
意味とか目的とか価値とか、
そんなとってつけたようなもののことはとっくに忘れてしまった。

ただ、どこまでも深く、どこまでも遠く行くだけだ。
いつでもワクワクしながら。

共有してくれる沢山の仲間に出会えていることに感謝だ。

2013年2月19日火曜日

作品と、作品の手前で動くもの。

今日も寒い。
そして、曇っている。

ところで、このブログも僕としては教室と一緒で、
何も考えないし何も決めないでとにかくその場に入る。
とにかくパソコンの前に座ってみる。

今日も何を書くのか分からない。

場においては、いつでも良くしていくこと、
良い意思とこころを保つことが大切だけど、
書く時は場から得た何かによって、
読んでくれる人が感じてくれるようなことを書いていきたい。

もう何度も書いていることだけど、場は本当に不思議だ。
ときに海に潜っていくようであり、ときに山を上っていくようであり、
森の奥へ分け入っていくような感触もある。

やさしさや愛情が高まっていくとき、
こころが純化され、透明感を持ってくる。

そして、すべては消えていく。

瞬間のものと連続しているもの。

僕が人生で得てきたものはすべて、
一人一人のこころの奥から貰ってきたものであり、
場から学んだものだ。

場に入って、深く入っていくとき、どんな感じがするのか、
どんな世界が見えてくるのか。
出来れば書きたいけれど、それを言葉にすることは出来ない。
ただ、どんな人でも、真剣に生きていると見えてくる経験と同じことだろう。

今週は三重から帰ってきて、
前回に続いて保護者の方達がごはんを作ってくれた。
みんなで食事しながらお話する時間も大切なものだ。
日曜日は夜、アトリエに見学に来ている稲垣君の太鼓デビューを見に行った。
赤嶺ちゃんが踊って、稲垣君が太鼓。
レオ君という稲垣君の先生も出演。(レオ君もアトリエに来ている)
3人ともとても良かった。

これからアトリエを見学したいと言う人達にいっぱい会った。

よし子の喘息は今回とても辛そうで、
ずっと心配だったけど、その後ゆうたにも発作が出てしまった。
あんなに小さな身体で可哀想で涙が出る。
良い自然環境で2人の身体が強くなっていけば良いけど。
身内は代われるものなら代わってあげたいと、良く言うけど本当にそうだ。
と言うよりも、何も出来ずに見ているのは辛い。
昨日から特にゆうたの方は大分快復したそうだ。

いつもと少し感じが違ったので、体質も変わったのかも知れない。
でも、もしかして例の中国の化学物質の影響かなと思わなくもない。
時期が重なっているから。
本当に怖いことだし、とんでもないことだ。

よし子と一緒にいると、普段気にしないことも見えてくる。
ああ、世の中こんなに悪いものがいっぱいあるのか、と。
特に喘息の原因になるものはたくさんある。
いつでも小さな子供や、女性や身体の弱い人を優先させる社会であるべきだ。
気がつかないということは恐ろしいことだ。
放射能の本題もそういうところにあるのに、
影響が出る時には自分は死んでいるとかいう理屈で無視する世代もある。
自分のことを問題にするのではない。
どうすれば影響を受けやすい人達を守れるのかと言うことだ。

僕だって10年か15年くらい前だったら、
自分の身体がどうなろうと別にかまわなかった。
この世界から貰えるだけ貰ったのだし、いつ死んでもいいやと思っていた。
ありがたいことに若くしてそれだけ素晴らしい経験が出来た。
でも、今はそうは言っていられない。
ゆうたのために生きて、いっぱい一緒に経験していかなければならない。

なんだか変な話になってきた。
久しぶりに展示された作品を鑑賞したことは書いた。
もう一度、そのことを考えてみる。
僕らはというか、僕はなのかもしれないが、
作品は展示されて初めて見えてくる。
例えば、展示する為に作品選定を行うときと、
教室で制作を見ている時は全く違う意識だ。
というより、眼も全く違う感じになる。
ある意味で、作品を作品として、絵を絵としてみるのはここからだ。
現場では絵を見ていない。絵は見えない。
絵を見てしまうと動いている流れに方向付けしてしまうことになりかねない。
場においては、絵ではなく、その後ろで動いているこころを見ている。
(もちろん、筆の動きやビィジュアルは見ている。)
どんな方向にも変化していける柔らかい流れを見る。
絵には始まりと終わりがあるが、場やこころの動きは始まりも終わりもない。
すべては連続している。流れを途切れさせてはいけない。

絵は動かない。絵は一枚で完結しているし、していなければならない。
でも、描いているこころは絵が出来ても動き続けている。
一つの絵と次の絵との間に境目はない。
作品として完結される前の部分を見ていくことが場を見ることだ。

だから、場ではすべてが渾然一体となっている。

作品を見る時は、そういったこころの目と言うか、
背景を見ている視点をきれいさっぱり捨てなければならない。
ここでは肉眼で見えるものがすべてだ。
作家たちのこころの世界(それは私達にとってはあまりに明白なものだ)が、
一枚の絵画として体現されていなければならない。

作品を選ぶことは、ある瞬間を切り取ることだから、
切り取った部分に一番本質的な何かが現れていなければ意味がない。

そこで、この場を見る視点と、絵を見る視点は両方とも必要だ。
どちらかだけでは分からない。
作品は徹底的に客観的でなければならないが、
客観的とは本質的とか普遍的ということでもあるから、
ここでしか出会えない作家の顔というものが確実にある。
アトリエや制作の場だけ見ていたのではそこが見えない。

場は主観でもあり客観でもあるという微妙なものだ。
追求していくと、やっぱり場が一番難しくも深くもあるのだけど。
そして、僕は場を見ていくことを最も大切にしている。

2013年2月18日月曜日

思うこと

寒い日が続いている。
体調はまちまちで風邪でお休みのメンバーも多い。
でも、制作に関してはみんな調子が良いようだ。
色がのっているというか、同じ色でも輝きがある。

この前、三重にいく直前にアキが、
「サクマちゃん。やっとゆうたやん、ムギューやねえ」
と言って微笑んでいた。
僕とユウタが再会して、ゆうたを抱きしめることを喜んでくれている。

帰ってきてからも、「いっぱいギューした?」と言ってくれる。

こういう大人と言うか、
包み込むような視点で見られていることに気がつく時、はっとする。
そんな瞬間がよくある。

昨日もまあゆちゃんを見ていて、
あー、もう完全に一人で描けるようになったなあと思い、
ほっとして感慨に耽ってしまった。(時間にするとほんの一瞬だけど)
ちょっと伸びをして振り向いたら、
力が抜けた僕の顔を見ながら、まあゆちゃんは微笑んでいる。
ここでもはっとした。
彼女の方が僕へ、良かったね、安心したねと言っているようだった。

見通していると言うか、すべてを感じて分かった上で、
振る舞っている部分が彼らにはある。

柔らかく次元の高い愛情がそこにある。
それは、言葉をまったく要さない。

こういう世界が存在することに気がつかないで、
自分が教えている気になっている人達がいる。

この前、中華屋に入ったら、どこかの学校の教師達が集まって話していた。
バカ話だ。バカ話が悪いわけではない。
普段はそんなたわいもないことで盛り上がって、
仕事となれば真剣にする、それでいいのだと思う。
ただ、このバカ話はあまりにも次元が低すぎる。
学校や行事や生徒達の話をしていたが、
とてもとても、人を教える立場にいる人間とは思えないレベルだ。
いじめや体罰はこのところ、とても問題視されているが、
ああいう次元の低い教師が教えることの弊害をもっと考えるべきだ。

育てると言うか、人が育っていく時間を見守る立場を考えて欲しい。
もっと真剣にやれよ、としか言いようがない。

2013年2月15日金曜日

三重に行ってました。

さてさて、東京に帰ってきました。
まず真っ先にブログを書いています。
僕はこのページを結構大事にしているので。

まずは三重での展覧会のことを書きます。
お時間がある方は是非ご覧下さい。
これまでの展示とはまた違った新しい構成になっています。
自分が展示に関わらなかった時は客観的に見ることが出来るので、
こちらも勉強になるし、新鮮に絵に感動する。
身近な人間が良いとか悪いとか言うべきではないが、
今回の様に僕自身は関わっていない時は、本当にお客さんとして見えるので、
やっぱり凄いなあと書きたくなる。
ご覧いただけると分かるのだけど、
特に一階の図書室の部分にある、大きな作品3点は群をぬいている。
図書室側から上を見上げると展示室の階の大きな作品も見えるようになっている。
四角がいっぱいの作品、圧倒される。

あの大きな作品達はこれまでのアトリエでなかったものなので、
多くの方々に見ていただきたい。

今回、三重では今後のダウンズタウンに向けての様々な要素を考えた。
今後、またご報告出来る時が来ると思います。

それにしても三重のアトリエのある場所はとても良い場所だと実感する。
あの静けさは何ものにも代え難い。
作家たちの持つ世界や文化に最も適した環境だと思う。
あそこの場所を選んだことということが、
肇さんと敬子さんの人間性だし、思想でも哲学であるとも言える。
こういうところで身内を褒めることはしない方がよいと思っている。
でも、今回だけはおおめにみていただきたい。
肇さんも敬子さんもそういう意味でやっぱり、良い意味で芸術家だと思う。
僕にはそういう部分がないので尊敬する。

ところでこれもどうしても私的な話になってしまって申し訳ないが、
僕にとっては久しぶりのゆうたとの時間だった。
本当に幸せなときだった。
よし子の喘息が出てしまっていてそれが、見ていて辛い。
今回は少しきつい感じなのでそれだけが心配だ。

ゆうたといる時間は特別なものだ。
すべての瞬間が記憶に残っていくし、
僕がこれまで経験してきたどんな出来事とも違っている。
人や状況と一体となることはかなりしてきたのだけど、
ゆうたと一緒になっている時は、本当に深く本当に柔らかい。
世界の感じ方がすべてやさしくなっていて、
包み込まれていくような感覚だ。

夜、ゆうたを抱いて外へ出た。
星が奇麗なので、凄いなあと思って見上げると、
ゆうたもじっと空を見ている。
上を指差して「あー」「あー」と僕に教えてくれる。
星を見ているゆうたの目が忘れられない。

お風呂に入りにいって、外のデッキのところでゆうたを肩車した。
2人で見た英虞湾の景色。

それから、やっと歩くようになった。
練習して待っていてくれたかの様に、歩いてくれた。
お風呂を出てよし子達を待っている時間。
ゆうたが急に歩き出した。
それからは毎日、みんなに歩く姿を見せて微笑んでいる。

かわいい。本当にかわいい。

ゆうたが与えてくれるものに対して、僕はゆうたに何があげられるのだろうか。

良く晴れた日。
暖かくて、太陽がいっぱいで、静かな時間だった。
ゆうたを抱っこしたまま、犬の水を汲んでいた。
水道に向かって斜めからの景色がぱっと見えた。
それは抱っこされているゆうたから見える景色だった。
水がきれいで、葉っぱの濃い緑と、空の深い青と、日の光が輝いていた。
どこまでも広い世界に、あたたかくやさしい時間があった。
始まりも終わりもないような永遠の中にいるような気分。
僕とゆうたの前に水が流れていた。
僕はゆうたの目で世界を見ていた。

東京へ帰ってくる電車の中で、
たくさんの情景が何度も何度も蘇ってくる。

たくさんのものを与えられている。

明日は土曜日クラスだ。
見学もある。
三重での良い時間が教室に宿ってくれるようにしたい。
良い経験が良い場につながる。

東京のアトリエも訪れる人みんなの故郷のような場所にしていきたい。

2013年2月11日月曜日

いっぱいの音楽

さて、今日から三重へ行ってきます。
今、出る準備なのだけど、ちょっとだけ書きます。
今週はブログお休みです。

土曜日も日曜日も良い場になっていた。
流れがあった。
今は良く流れている。
そんな感じだ。

いよいよ4月に入ると関川君が戻ってくる。(まだ大学院在籍期間だけど)
そこで彼にも場に入ってもらう。
これからは、これまで以上に本気で教えていくし、しっかり任せていく。

今、アトリエに来てくれている人達とも、この場を一緒に歩いていきたい。
作家たちを中心に関わる人達みんなにとって良い場でありたい。

スタッフとして自覚すべきことはたくさんあるけれど、
まずはよく見て、感じて、流れるように動いて、
実地に積み重ねていくことが大切。
いつでも、今出来ることをすること。
能力的に出来ないことが問題になることはない。
出来ることはいくらでもある。

こころと向き合う時は、行くと決めたら最後まで行ってみることだ。
出口まで自分で見つけなきゃだめだ。
そういう経験をしていくと確実に分かることがある。

ときに僕は「見える」とか「読める」ということを言うが、
とり間違えないで欲しい。
場においては絶えず、現在進行形だ。
今が大事。いま、ここでどう動いているか。
きれいに動けているか。
それがすべてだ。
今、流れているかどうかだ。

深く入ることは大切だけれど、場ではそれ以上に響き合うことが重要だ。
前にも書いた。
こころは弾力があって、触れれば跳ね返ってくる状態が健康だ。
自分のこころをそういう風にしておくことだ。
場においていらないもの、邪魔になるものの最たるものは自意識だ。
自意識を捨てて、場に入ることだ。
それは難しいことではない。
外へ出たら、また自意識を持っても良いのだし。

場を一枚の絵の様に見て、ちゃんと調和していて美しければ良い。
音楽の様に聴いて、響き合って活き活きしていれば良い。

本気で挑んでいけば、場は楽しいし、多くのことを教えてくれる。
僕達は普通には一回限りの一つだけの人生しか生きられない。
人間とはそういうものだ。

でも、場を深く経験するということは、
同時に様々な人のこころを生きることだし、
いくつもの視点を持つことだ。
小さな空間にたくさんのこころと経験と記憶が凝縮されている。
それらが響き合うとき、折り重なり無限に広がるとき、
自分が自分を超えて、とてつもなく豊かな世界に入っていく。

響き合うことの気持ちよさ。

生きていくとか、生活していくということは、
それだけで、ちょっとづつ自分を限定していくことだ。
気がつかないうちに視点は偏り、動きは鈍くなる。
僕の言葉でいうと「見えなくなっていく」。

本当はもっといっぱい色んなことがあふれている。
今、この瞬間だって複雑で豊かな音楽が奏でられている。
沢山、見て、聴いて、全身で感じて、生ききること。

僕の中ではたくさんの人が生きているし、それぞれが会話している。
出会った情景や様々な記憶が折り重なり、響き合っている。
それらは複雑に絡み合って、どこまでがどれと区別出来ない。

ただ、音が鳴っていないことを寂しいことだと気がつけない人が多いと思う。
世界中に音楽が鳴り響いているし、
自分の内側からも鳴っている。響き合っている。いつでも。

2013年2月9日土曜日

時は過ぎていく

本日から三重での展覧会が始まっています。
今日はトークライブだったようだ。
東京のアトリエは絵画クラスの日。
展覧会は3月10日までですのでお時間のある方は是非ご覧下さい。
三重チームが一生懸命働いているので、東京のアトリエも良い働きをしたい。

さて、僕も明日の教室が終わったら、月曜日から三重へ行ってきます。
すでにプリントをお配りしておりますが、平日のクラスは月、火、水とお休みです。
お間違えのないようにお願い致します。

それにしても時間が経つのは早いものだ。

一人暮らしももう一ヶ月、過ぎてしまった。

今日は来客を予定していたが、その方がお休みになったので、
赤嶺ちゃんが来てくれた。

最近、平日はあきこさん、稲垣君、それから赤嶺ちゃん、と、
みんなが支えてくれている。
僕のことを心配してくれているふしもあって、
みんなのやさしさに感謝したい。
いつも多くの人を可愛がってきたけど、
気がつくと僕が一番、やさしくされたり可愛がられたりしている。
僕はいがいと人に可愛がられる性質のようだ。
こんなに生意気なのに。

夜、少し時間がある時でもテレビを見なくなった。
音楽にはずいぶん救われている部分がある。
たまたま、部屋の整理をしながら、大好きでずっと聴いてきた音楽を聴き直した。
そして感じたのは本当に良いものは、
どんなジャンルにしろほんの僅かしかないということだ。
ある意味で人生を賭けて、そんな美しいものに出会いたいと思ってきた。

結局、時を重ねて行く中で、友として残っていった音楽は数える程しかない。
久しぶりにクラシックを聴いていた。
原千智恵子のショパンピアノコンチェルト、
チョンキョンファのバイオリンで弾かれたバッハのエール。
バーバーのアダージョ。ベートーベンピアノコンチェルト皇帝第二楽章。
モーツアルトピアノコンチェルト20番と21番の第二楽章。
ヤノヴッツの歌う、シュトラウス4つの最後の歌。
バックハウスのラストライブのシューマン。
まだいくつかはあるけれど、そんなに多くはない。

ジャマイカの音楽をただひたすら聴いていた時期もある。

でも、どれだけ美しい音楽も、どこかしら背伸びした、
それ故に魅力あるものであることは確かだ。
それは自分が日本人だからだろう。
自分の呼吸や間とは違うからこそひかれるのだろう。
本当に無理しないで呼吸のように浸っていられる音楽があるだろうか。
例えば、日本だからと言って民謡とか雅楽とかもなんか、
聴こうと構えなければならない。
能の謡なんかはかなり自然に聴けるけど。
僕にとっては一番何も考えずにゆっくり聴いていられるのは、
やっぱり小唄かも知れない。
今も小唄を聴きながら書いている。
これこそが自然な自分の呼吸のように感じられる。

そう言えば、九鬼周造という凄い哲学者がいるが、
彼の哲学書ではなくて短い随筆を集めた本が岩波文庫から出ている。
その中に「小唄のレコード」という文章が載っていて、これが素晴らしい。
本当に短い文章だけど人生の深淵に触れている。
書いてあるのはただこれだけ。
小唄を聴いていると、この世のことなど何もかもどうでも良い、
という気分になる、そしてこの情緒の世界こそが真実なのではないか、
とそんなことを書いている。
本当にそうだなあ、と感じてしまう。

永遠とか無限とか、そんな果てしなく大きな何ものかを、
深く感じて、そこへ向かって行くことこそが、生きることだと思う。
そして、そんな途方もない無限の前で佇むとき、
この世界のすべてが小さくはかない存在として感じられる。
人もものも出来事も、みんなこの無限からやってきて、やがて帰って行く。
無限から来て無限に帰る束の間のはかなさ、それが僕達の情緒を作っているのだろう。
そんなことをこんなにさり気なく表現出来ていることが、
小唄の凄さなのではないだろうか。

何もかもが消えて行くからこそ、今この瞬間が美しい。

先日、これも本当に久しぶりに映画館で映画を見た。
「二郎は鮨の夢を見る」という映画。
鮨職人小野二郎のドキュメンタリー。
多くを語る気はしない。
ただ、いい仕事がしたいと強く思う映画だ。
映画と言うか小野二郎が素晴らしいのだけど。
何度か書いた、一流とか、本物とか、良い仕事とか、
そんなすべてはこの人の生き方の中にある。
本気で仕事しているというただそれだけのシンプルなことが、
どれだけ美しいことであるのかを教えてくれる。
また、それをずっと続けて行くということの凄さ。
ああありたいとは思うけれど足下にも及ばない。
足下にも及ばないが、少なくともああいう次元を目指して仕事をするべきだ。

絶えず今日より上の仕事、
もっと良いあり方を追求し続けるという姿勢は共感出来る。
でも、次元が違うなと思ったのは、
休みが嫌いで仕事しているより疲れるという部分。
仕事している時の方が気が楽だと言う。
そんなところまでいきたいなあと思う。
思うけれども、まだまだだ。
僕には休みは魅力的だ。放っておいたらずっと怠けてしまう。
仕事は何より愛しているけど、怖いと思うこともあるし、
出来ることなら逃げたいと思うこともある。
(仕事を辞めたいとか続けたいとかいうこととはちょっとニュアンスが違う。そういう思考法は僕にはない。)
場に入ってしまえば、さっと変わって行く自分がいるのだけど、
だからこそ自分が怖い。自分が自分をなかなか許してはくれない。
場に入れば、後先考えずに全部の力を使い切ってしまう、
そういう風に即座に変わる自分が怖い時もある。

でも、場がなければ僕はどこまでも楽な方に行ってしまうから、
こうして場が与えられ、全力でやれ、と命じられているのかも知れない。

仕事している姿、動き、本当に奇麗だなあと思う。
ああいう動きが出来たら良いなあ。
この先、出来ればああやって長い時間、続けて行ければ、と願う。

ゆうたにそろそろ、良い絵本を読んであげたいと思って、
あきこさんと話していたら、彼女がたくさん教えてくれた。
あきこさんから借りた絵本を見ていたら、僕が夢中になってしまった。
良い絵本は自分を子供に戻してくれる。
子供がどんな風に世界を見ているのか、本当に知っている絵本作家が描いている。
絵本を読んでいる間、
自分が子供だった頃の時間を再現しているような経験だった。
これでゆうたにどんな絵本を与えるべきかも分かってきた。

小唄を聴きながら、こうしている時間もまた過ぎて行くのだと実感する。
何もかもが過ぎ去る。なにもかもがやがて消えていく。
いつでも、精一杯生きて、今一緒にいてくれる人や物事を大切にしていきたい。

2013年2月5日火曜日

全体の地図

明日は雪が降ると言うから、アトリエにつくまでのみんなが心配。

寒さも大分なくなってきて穏やかな日々だ。

よし子のブログで日曜日のアトリエがパワー全開で、
きっと東京でも同じ現象がおきているだろうと書いてあって、
さすがに感じとるなあ、とまったくそのとおりだった。

日曜日は午前中の後半から教室の雰囲気が光をさしたように明るくなった。
みんな良い作品しか描かない。場も素晴らしい。
午後、15分程、外へ出て散歩した。
その時、歩きながら景色を見て感じて、これは午後もかなりいいんじゃ、
と思った訳だけど、午後クラスも別次元。

でも、良い場って何が違うんだろう。
一年に何度か、本当に良い場になる時がある。
その雰囲気はとても言葉では説明出来ない。
この場所だけが何かとてつもないものになって、本当にこれが現実なのだろうか、
というくらいに輝かしい空間が現れる。
それはいつもでたっても謎だ。
やっぱり、そこには何かしら恵みのようなものがあるのではないだろうか。

色んな悩みを持った人達と話すことも多いのだけど、
社会的にも本当に難しい時代になってきたのだろう。
様々な価値観が崩壊して、信じられるものが何もなくなっていくし、
みんな何かしらどこかに不安を抱えざるをえなくなっている。
希望を持つことが難しくなっている。

僕はこれまでずっとダウン症の人達に学んで、
シンプルな生き方に立ち返ることを提案してきた。

今日は少しだけ視点を変えて、
スタッフとして場を見る人間として、
何かこれからの考え方の参考になるような部分がないか考えてみたい。

特に震災以後の世界は不安だけではなく、
どこかに痛みや傷を持って生きている人が多いだろう。

色んな方の話を聞きながらも、僕に言えることは少ない。
僕には場を創るという中から見えてくる経験しかない。
ただ、いつも言うように僕の言う場とは人生の縮図のようなものでもある。

場を見る時の眼差し、視点を今のこの世界の中で保つことが、
一つの打開策とまでは行かなくとも、
なにか少しは不安を軽減してくれるかも知れない。

この前は漫画のことを書く中で距離ということを言った。
この距離というのは、場を見ている時に大切な要素だ。
人との距離、自分との距離、場との距離。
良いものとの距離、悪いものとの距離。
距離感というのは付き合い方とも言える。
あるものはすべて否定出来ないし、消すことは出来ない。
だから、この世の中に存在するものはすべて受け入れるしかない。
受け入れ切れないと感じるなら、距離が近すぎるからだ。
適切な距離をとること。

一言で言えば、今、世界は完全に答えのない道に入っている。
情報はあふれ、何が正しいのか判断がつきにくくなっている。

混乱して迷わない為には、最初から答えがあると思わないこと。
答えがないという状況に慣れることが大切だ。

場の話だけど、制作の場において答えは存在しない。
場には無限の要素があふれている。
現代社会は様々な情報にあふれ、混乱しやすいと書いたが、
場における情報量は実はその比ではない。
こころの動きや想いや、偶然や、ありとあらゆる要素が、
場に影響を与え、場を創っている。
答えがない状況の中で、ほとんど無限の要素がとびかっている。
そこでそれらを感じつつ把握しつつ、混乱しないで良い要素を拾って行く。
そのためには距離が必要だ。
何があっても飛び込んだり飛びついたりしてはいけない。
まずは全体を見渡すこと。
こういってしまうと語弊もあるのだが、あくまで例えで言うなら、
上から見下ろしている視点に少しだけ似ている。
あるいは地図を見るような感覚だ。(現実には僕は地図が苦手なのだけど)

前にすべての人に役割があって、居るべき場所があるから、
自分の存在意義など探さなくてもそこにある、と書いた。
それも、地図の様に全体の中で見えるわけだ。

一人の人のこころの中でも触れて行くと宇宙に繋がるくらい大きなものだ。
でも、場においては一人の人と一体になるわけではない。
いる人全員とある意味で一つになる。
しかもこれは一つに解け合ってしまって渾然一体となるわけではない。
あくまでも違う視点が違うままで行き交っている。
場においてはいくつもの要素が、それぞれ違うままで、
行き来している。
それらを同時に経験しているということが重要だ。
場は動いているから結論は出ない。
絶えずすべての要素を活かす気持ちでいることが大事だ。

今の世界を生きるのには、こういったこころの姿勢が必要な気がする。

様々な不安があり、恐れがあり、悲しみや傷がある。
何よりも世の中全体に対しての不信感がある。
沢山の葛藤があり、多くの情報に埋もれている。
この中から負の要素を完全に消し去ろうとしないことだろう。
こういった状況とどう付き合って行くか、ということが大切だ。
良いものも悪いものも、ちょっとだけ距離をとって見てみよう。
全部の要素が消えてなくなるものでないなら、上手く付き合って行こう。
もし、受け入れられなかったり、上手く付き合えないと感じたら、
対象との距離が近すぎると自覚して、もっと距離をとってみよう。

場を見ている時の視点を地図に例えた。
この地図を見るような眼差しを身につければ、大分、気持ちが楽になると思う。
地図から自分を見ているから、自分が他人より重要になることもない。
自分の扱い方も他人の扱い方も、適切な距離が見つかる。

もちろん、いつも地図だけ見ているわけにはいかない。
僕の場合は地図はぱっと一瞬で見る。そして一瞬しか見ない。
でも、分からなくなったら地図を見れば良い。

2013年2月3日日曜日

正直に仕事する。

今日は一変、冷たい風が吹く。
でも、あまり冬らしくはない。

インフルエンザ、かなり流行っていますね。
みなさま、お気をつけください。

一人なので体調管理により気を配りだしている。
なるべくよく寝ることが一番。
なかなか出来ない時もあるけど。

最近、眠りの深さが凄い。
ビックリしてしまうほど。
寝ている時は本当になんにもない。

前回、「西洋骨董洋菓子店」のことを書いたけど、
あれでもう一つメインのテーマを忘れていた。
やっぱり仕事といってしまうとつまらないけど、
あの漫画で言えばお店を、みんなが大事に思っていて、
結局は良いお店にしたい、良い仕事をしたいという想いが、
一人一人を成長させていく。
色んなことがあるけれど、いつでも美味しいケーキを売って、
人を笑顔にさせる、そのことで自分ものびていく。
とても単純に言ってしまうと、何よりもそこなのだろう。

僕も昨日より今日のアトリエを良い場にしていきたい。
いつもそんなことを考えている。

仕事という言葉を使ったけれど、これは大きな意味での仕事。
生きる中で何かその場で自分が出来ることを精一杯する、
そんな行為としての仕事だ。

だから、自分が過去にどれだけのことが出来たのかとか、
どんな手柄をたてたのかとか、そんなことではない。
年をとって、自分が何かをしたから偉かったんだと思いたがるのは見苦しい。
もちろん、若い時からどこかで、人から認められたい、評価されたいと、
ほとんどの人は気にしている。
その次元のものは仕事とは呼ばない。

幸い僕は何も成し遂げていないし、偉業を残す気もない。
歳をとったら昔ああだったと自慢出来ることは一つもない。
そんなものはいらない。ただシンプルに生きたいだけだ。

若い時も、それから歳をとっても違う形で、
自分の役割や価値を人は求める。
それは当然のことで、なにも間違ってはいない。
ただ、方向性がズレると人から喜ばれない。
認められたいために、評価されたいためにする行為は、
言い換えればすべて自分のためのことだからだ。

この前も書いた。
存在意義など求めなくても、
その人がそこにいることがそのまま、意味であり価値なのだ。

僕は自分が見てきた、経験してきた場を通してしか言えないが、
そこから見ると、存在する意味や役割は作るものではない。
感じるもの、認識するものだ。
例えば、場を見る。場を見る時は全体をぱっと見る。
絵を見るような感じで見る。
ちゃんと見えれば、そこにいる全員のいるべき場所や役割が見える。
その時、すべての人に価値があり、この場から一人でも欠ければ、
場自体が成立しなくなることが分かる。
それなのに、多くの人はそれに気がつかないで、
右往左往する。自分の価値を探す。あるいは認められようとする。
そんな必要は一つもないよ、というところから見ていることが、
場を見守る役割だ。

ただ、その場に居られればそれでいい。

まあそう思えるまで色んなことがあるのだけど。

仕事と言えば、この前、ある珈琲屋を良い店だと書いたけど、
個人的にはもっと小さな店が好きだ。
アトリエのある商店街の途中にある、
白い昔のフランス(イメージ)のようなカフェ。
一見、よくある女の子の好きなほっこりした店のようだけど、
実はかなり本気で仕事している。
女性の方が経営しているが、彼女は不器用なくらいに作るものにこだわっている。
手をかける、丁寧にする、ということが哲学のようになっている。
妥協はいっさいない。
こんな風に仕事したいなと思わせられる。

それから、ぜんぜん違う場所なのだけどカレー屋があって、ここも凄い。
インド人が作っているのだけど、かなり独創的で、
こういう言い方もなんだけど芸術的だ。
食べると別次元に連れて行かれる。
経験したことのないものを経験させてくれる。
コアなリピーターが多いらしく、いつもこんでいる。
このインド人が頑固と言うか、こだわりが強くて、
無理解な客としょっちゅうケンカしている。
ほっておけばいいのに、本気になってしまうくらい真面目だ。
分かる分かる、と思いながら自分を見ているようで反省させられる。
この前も一見簡単そうなメニューのレシピを聞かれていて、
客が「家で作るから」とか言っただけなのに、
むっとして「これは絶対作れない」とつぶやいていた。
笑ってしまうくらい本気だ。
他の店と比較されることも嫌いで、ある時なんか、
こういうカレーが食べたいという素人の安直な意見に真っ向から、
「うちに来なくていいよ。カレー屋なんか沢山あるんだから、他の店に行けば」、
と大真面目に怒っていた。
この前は名言を聞いた。
料理の背景を聞かれて、なんとカレー屋じゃないとまで言ったのだ。
「何流でも何派でもないよ。北でも南でも。なんでもいい。インド料理でもないし、カレー屋さんでもないよ。強いて言えばスパイス屋かな」
分かるけど、そんなの言ってどうするんだ。
真剣に仕事すると、どうしてもこうなってしまうところもある。
だから、自分の昔を見ているように感じる時もある。

みんな不器用だけど悪気がある訳じゃないんだよね。

他にも一つか2つは紹介したい例もあるが、今日はやめておく。
彼らはあくまで自分の本気の仕事で人を喜ばせたいと思っているだけだ。
誤解も生まれやすいだろうが、それでも、世の中のほとんどは、
騙してでも、相手が気がつかないで満足すればそれで良いと思っている。
そんな中で、正直な仕事をしていこう、
たとえ気づかれなくてもウソや妥協や手抜きはするまい、
という姿勢は立派だ。見習うべきだと思う。

2013年2月2日土曜日

漫画

朝、犬の散歩。
今日の気候は一体なんだろう。
不思議な静けさだ。
生温い。
時々、風が吹いてくるが、それも温い風だ。
なんだかまた昔の時間に入り込んだような日だ。

昔の日本には風の名前だけで凄い種類があったと、何かの本にかいてあった。
それから、色にも驚く程の名前があった。
そんな時代は多分、人間の知覚自体が違っていただろう。

いつでも、もっと多くのものを感じる力を持ちたいものだ。

アトリエの制作の場の中では、こういった微細な感覚が大事になるし、
普段の何倍も感覚が開いていく。

これを書きながら今、急に日が射してきて、明るくなった。
こんな変化は場の変化に繋がっていく。
場に入れば僕には見える。
何もしなくても分かる。
こんな感覚はよく考えてみると不思議だ。
実はあんまり深く考えたことがなかった。

例えば僕はよく適切な距離というのを言うのだけど、
人のこころとこころの距離はもしそれを把握出来たとしても、
急に縮めたり伸ばしたりはなかなか出来ない。
というか出来ないらしい。
僕にはそれは本当に簡単なことだ。

だからといってどうということではないのだけど。

赤嶺ちゃんから借りた漫画を読んだ。
西洋骨董洋菓子店という漫画。ドラマにもなったらしい。
面白かった。
舞台になった阿佐ヶ谷のお店が懐かしかったのだけど、
後半は全く違う物語になっていって意外だった。
前半は甘いものと人生の魅惑。読んでいてもケーキが食べたくなる。
ストーリーがすすんでいくと、少しづつ登場人物、一人一人の背景が見えてくる。
トラウマという言葉は好きでないし、勘違いもされている言葉だと思うが、
この物語の登場人物はみんな心に傷を負っている。
そして時々、その傷が場面の中で現れてくる。
出てくるけど、深く掘り下げられることはない。
大きく言ってしまえば、一人一人が快復に向かうのだけど、
その快復は傷が消えていくことではない。
最後のシーンでも結局、傷は消えないという場面が描かれる。

傷も痛みも弱さも決してなくなることはない。
それらが終わることも消えることもない。
でも、傷をもったまま彼らは幸せになっていく。
それを一言で言えば、距離が生まれたということだ。
傷や弱点と向き合うことで、自分の中にその存在を認める。
そこで距離が生まれる。それでいい。
なくしてしまおうとすると、実はもっと良くないことになる。

これは、僕の人のこころや場や人生に対しての考えと同じだ。
弱点をなくすことは出来ないし、こころの中の傷をゼロにすることも出来ない。
それよりも、それをどう認めて、どう付き合っていくのか、その距離が問題だ。

そういう意味で、自分や自分のこころとの付き合い方が上手く描かれていた。

これは人に対しても同じことが言える。
僕のところに、病気になってしまった子や、困った状態の子が来ることがある。
来る場合もあるし、連れて来られる場合もある。
周りの姿勢として大切なことは、直そうとか良くしてあげようと思わないことだ。
特にご両親は何とか良くしたいと思って必死になる。
でも、周りが良くしたいと思えば思う程、逆効果だ。

僕は人を見たとき、相手の一番良い部分をまず見る。
見ると言うか、そこが見える。
だから、即、相手を受け入れられる。
まず、必要なことは、今、どんな状態にあろうと、今の状態の相手を受け入れる、
認めていくことだ。
極端に言えば、治らなくても良くならなくてもいいというくらい。
とことん認めて、付き合っていく覚悟が周りに出来た時、
ゆっくりと変化が起きてくる。
もしかしたら、自分や自分の態度が変われるかどうかが問われているのかも知れない。

もっと他のことを書こうと思っていたのだけど、
それがなんだったのかも忘れてしまったし、
そろそろみんなが来る時間なので今日はここまでにします。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。