2013年1月30日水曜日

もう一つの世界への道

昨日のプレではてる君が「みんなでカラオケやろうよ」といったのがきっかけで、
カラオケの話題で盛り上がった。
何を歌うのか、一人一人、得意な歌の話。
そのうち、順番に歌ったりして、楽しかった。
みんなの歌は本当にいい。
あきとさんとゆうすけ君は元気いっぱいで、声が外に開いている。
はるこさんとてる君はささやく様な穏やかなやさしい歌い方だ。

だいすけ君はちょっと機嫌が悪かったけど、多分頭が痛かったようだ。
圧迫感があるような感じの、なんと言うか飛行機でなるみたいなの。
僕も途中で少し感じたから分かるのだけど。
あんまり言わないけどそんなのはよくある。
もちろん、全部は自分に取り込まない。
そんなことをしたら仕事にならない。

だからいつも書くことだけど、共感と言っても、
さまざまなレベルや段階がある。
場に対してもこころに対しても、僕は深く入るということを書いてきた。
でも、今は深く入ることは滅多にしない。
一人一人が入っていっても僕はここにいて見ている。
以前程の強い注意力が必要なくなった分、身体にかかる負担は少ない。
でも、決して真剣度が変わった訳ではない。
手を抜くことはない。

そして、今だからこそ、以前の自分がどれだけ深く潜っていたのかが分かる。
関わりや場に対する深度は実は選べない。
深く行こうとか、浅めで行こうとか、そういうものではない。
何かこう場が決める部分がある。
以前、あんまり深く入るのをセーブしようとちょっとだけ思ったことがあったが、
場に入ってしまうと、そんなわけにはいかなかった。
ある意味で僕達は望まれる動き方しか出来ないようになっている。

今は実感として、例えば深く入ろうと思ったとして、(思わないけど)
場がそれを要求していない。
入るな、とまでは言わないけど、そこに行くのはもう終わったよ、
と言われているような部分がある。

共感するということは響き合うことだ。
響き合うことが出来れば、一体になるまでは必要ではない。
ただ、いつでも一体になれるという感覚は必要だ。

必要な時はいつでも深く入ることが出来る、
という経験の蓄積は求められるのかも知れない。

場やこころにたいしてはいつでも謙虚な姿勢が大切だ。
どうすべきか、伺いをたてなければならない。
その上で許されたことだけをする。
僕はずっとそうしてきた。

昨日は赤嶺ちゃんが来てくれた。
読んでみて、と漫画を貸してくれたので楽しみだ。
舞台となっているのが阿佐ヶ谷のお店らしいのだけど、
そこは僕が阿佐ヶ谷で一人暮らしをしていた時に通っていたお店でもある。
懐かしいなあ。

ところで、朝起きてすぐに歯磨きをすると風邪をひきにくいらしい。
最近、僕も実践している。
夜の間に菌が繁殖していて、そのまま何かを食べることは避けた方がいいらしい。

歯と言えば、最後に歯の治療が終わってから噛み合わせがよくない。
バランスが悪い。
身体はどこかしら限界があるから、どこかがうまく機能しない。
まあ、そこが面白いのだけど。

納豆を毎日食べている。
みそ汁と梅干し、海藻。
健康食で続いていたら、悪い癖で味の濃いものが食べたくなった。
それで、先日たこやき屋さんに行った。
凄い繁盛しているお店なんだけど、
関西弁のおじさんと言うかお兄さんくらいかの人が、
人情的でいい感じだ。
小学生の女の子が何人かいたのだけど、そのお兄さんとのやり取りが、
今の時代とは思えない懐かしさがある。
よく来るお客さんの話から、女の子があの人知ってる、
犬の散歩してて良く会う、という内容でずっと話している。

金沢にいた頃、「しま」というたこやき屋さんがあった。
そのころで、たこ焼き一個10円という世界。
凄く狭くて、奥にゲームの台が置いてある。
思えば、しまでどれだけの会話が重ねられただろうか。
しまはいまでも僕にとっての自分の居場所みたいなもののイメージのもとにある。

朝、犬の散歩をしていると、
道路の途中から全く別の世界に入っている。
あれ、ここからなんか違う次元の世界の入り口になっているな、と。
それは、多分前日に子供達がコンクリートの上にチョークで書いた道。
普通の道の上に彼らが書いたもう一つの道が重なっている。
そして、もう一つの道の方が深い。
その道は確かに存在していて、その上を歩いていくと、
彼らのこころの内側にある世界に入っていける。
今は確かにその道はこうして残されている。
その内に消えていくだろうけれど。
道に書かれた線が消えていっても、彼らのこころの世界が残っていれば、
また同じように書いて遊ぶのだろう。
でも、いつの日か、こころの中の世界も消えていってしまう。
悲しいことかも知れないけれど、
こうして大人になってコンクリートの上にその道を見つけて、
そこを歩いていける人生もあり得るということを感じて欲しい。
いつでもそこへ入っていける生き方もあるということを。

2013年1月28日月曜日

紫の日

風邪もかなり流行っている様なので、皆様もお気をつけ下さい。
寒い毎日が続くが昼間はとても明るくぽかぽかしている。

昨日の夜は雪も降った。そして、夜中に地震。

なんにもなく過ぎていけばいいけど、気をつけておくにこしたことはない。

日曜日にしんじ君が描いた絵のタイトルが、
「2月10日、地震、津波、停電」というもの。
まさかとは思うが、一応はいつでも避難出来るようにと思う。

日曜日の教室。
佐久間 「桃太郎ってなんだっけ?」
しんじ 「プールに桃が浮かんでるやつだよ。」
佐久間 「えっ、プールに?」 
しゅうちゃん 「違うでしょ。岡山県だよ。」

先週は子供が風邪をひいてお休みだった、あきこさんが久しぶりに来てくれた。
みんなも喜んでいる。
彼女の存在が平日のクラスにとって本当にありがたいなあ、と思う。
まだ、内部だけでサンプル的に見ているのだけど、
あきこさんがハンドメイドでみんなの作品の活かし方を考えてくれている。
良いものが出来てくるから、今後、カフェなどで限定販売したいと思う。
よし子とも三重での展開を話し合っている。

今年は見取り図を創ってみたいと思うし、一部は初めて行きたい。

僕の最大のニュースはゆうたが5歩だけど歩いたという報告だ。
嬉しい。本当に嬉しい。
僕も頑張らないと。

はるこ 「佐久間さん。さっきのパン、チーズ入ってたよ。」
佐久間 「ああ、入ってたね。」 
はるこ 「さっき、牛の味した?チーズ」
佐久間 「うん」
はるこ 「聴こえた?モー。牛のお母さんの声。」
そうかあ。やっぱりはるこはすごいなあ。
こうやって教えてくれてるんだなあ。
チーズを食べて、牛のお母さんのモーという声が聴こえたら、
そんな世界にいたら、本当に豊かでやさしくなれるだろう。

昨日は久しぶりに、深く深く眠った。
朝の始まりはいつもより遅くなった。
数ヶ月に一度くらいこんな日がある。
深い眠りの中でブラックホールのように何もない真っ暗なところから、
混沌とした、本当に混沌とした夢が何種類も折り重なってやってくる。
纏まりのないもの、濁ったもの。
そして、みんな消えていく。ああ、リセットされたな、と感じる。
起きると身体も軽い。

ここしばらくは、たくさんの人と会っていたから、
自分の中にいっぱい人の思いや感触が入っていた。
いろんな人のこころの動きが入ってきては出て行く。

僕の場合、多分いつも深く眠ることで昇華する。

僕は昔から強気と言うか、かなり不遜な生き方をしてきた部分もあって、
あんまり恐れというものを感じない。
罰当たりと言うか、なんと言うか。
そうそう、子供の頃は本当にみんなと遊んでいて、
罰が当たるよと言われることをいっぱいやっていた。
例えば、お守りの中身を見るとか。
その時も変な感覚があって人にはやらせない。
ダメだよ。多分、罰が当たるよって言って。
でも、なぜだか僕は自分は大丈夫という感覚があった。
迷信を信じないというのとは違って、なんかこういう態度で行けば許される、
という変な感覚だ。
だから罰に当たったことはない。
どうでも良いことを書いてしまったが、
そんな罰当たりな人間でも、恐れると言うか、
申し訳ないという気持ちになることがある。
僕の言葉に影響を受けてメールをくれたり、
是非会いたいと言ってくれる若い人が多い。
そんな時、申し訳ない気分になる。
何とか出来ればなんとかしたいけれど、僕は何一つ持っていない。

せめて、時間が許せば話を聞いてあげたい。
でも、それすら出来ないときもある。

今月、会った人の中には遠くからわざわざ来てくれた人もいる。

出会った人達ばかりではなく、みんなの幸せを願わずにいられない。
今、一緒にいられない人達のことを強く思う。
みんな幸せになって欲しい。

ああ、悲しい人だなあ、とか孤独だな、とか切ないなあ、という人に会う時もある。
その後で一人で歩いていると、その悲しさや切なさが、
自分のものとして感じられる時もある。

でも、忘れないこと。
悲しみや切なさは悪いものではない。
そこを通してしか見えない真実もある。
悲しみを知らなければ分からないこともある。
ただ、言えることは個人的な悲しみを通して、それを超えていくことを目指そう。
個人的な悲しみの先には根源的な悲しみ、切なさといったものがある。
なんと言うか、人間が人間であることの悲しさ、切なさの様なものが。
そこを見るようになると、深みが出てくる。

今日はゆうすけ君あきさんはるこさんの3人が紫系の服を着ていた。
ゆうすけ君が濃い紫の絵を描いていたので、アトリエ全体が紫になった。
不思議な空間で、神秘的な時間ですらあった。
庭の緑の草木が風に揺れていて、
同じリズムでだいすけ君がゆれながら笑っていた。
みんなが色と形と線と光で、風に揺れて漂っていた。
柔らかい柔らかい存在になっていた。
人間も自然の一部だ、という当然のことを忘れてしまっている人が多い。
画面いっぱいの紫に包まれながら、何とも言えない開放感を味わった。

まだまだ、書くべきことはたくさんあるが今日はここまでにしておこう。

2013年1月25日金曜日

珈琲屋

気がつくと日の出や朝日のことをいっぱい書いているが、
それでもやっぱり言わずにはいられない。
今日の日の出も素晴らしかった。
まだ誰もいない商店街の通りを光が貫いていく。
建物の間から、コンクリートに重なるように、木の葉の隙間から、
いたるところに、間をおきながら、光がゆれている。
今日は風が見える様な気がする。

靴によって歩く感覚、地面を蹴る感触が違う。
まだ、ベストな靴に巡り会ってはいない。

光のゆれ、風の動き、風景の流れ、
心の中の景色、昨日見た夢、数日前の教室。
みんなと交わした会話や笑い。
夜に聴いていた音楽。
リズム、リズム、リズム。

絵具を作りながら考え事をしていた。珍しく。
ふと机の引き出しを開けると紙が入っている。
鉛筆で「どりメダル」とだけ書いてある。
どりメダルっていったいなんだ。
一人なのにくすっと笑ってしまう。

なるべく、納豆を食べている。
あとは、もずくや梅干しやみそ汁や‥‥
足湯や半身浴をして身体を温める。
健康第一と思っているわけではないのだけど、これもリズムに入るため。
続ければ良いのだろうけど、一つでもなかなか続けていくのは難しい。

ところでよし子のブログの写真にあったけど、
あのCDに書いてある「その男CD」ってなんだろう。
これにもくすっと笑ってしまう。
なんでこんなに面白いことが多いのだろうか。

昨日の続きだけど「abさんご」を読みながら、
最後に来てどうしてもこれを落ち着いた良い場所で読み終えたい、
という気分になってしまった。
それで徒歩圏内にある珈琲屋へ散歩がてら向かった。
僕の一番の趣味は散歩だ。
ところで、ここをなんで喫茶店でもカフェでもなく、珈琲屋と書いたかと言うと、
このお店はコーヒーに関わるほぼすべての業務を行っていて、
場の提供だけがメインではないからだ。
何年も通っているが、最近、ますますこの店が好きになってきた。
コーヒーに関しての考えは個人的には僕の趣味とは方向性が違うけど。
それでも、ここで教えられた味覚の体験も多い。

本を読みながらボンヤリしていると、
書かれている世界の時間に入っていく。
この場所自体がこの小説に書かれている時間のように感じられる。

対応してくれた店員に注文したいコーヒーについて少し聞いたのだけど、
奥に戻ってからスタッフ達の会話が聞こえる。
店員とスタッフという2つの呼び方をしてしまったが、
この店はスタッフという感じかもしれない。
それで、さっきのスタッフが先輩に注意を受けている。
説明の仕方がダメだと。
その先輩スタッフはかなり明確に、どこがどうダメで、
何を心得ておかなければならないか、説明している。
この店はスタッフ全員が真剣に考えて仕事している。
流石だ。
アトリエもこういう組織にしていきたい。

先輩スタッフの注意は長い。
しばらく、何気なく聞いていて気がついた。
この同じ様な状況は一年前にも見たぞ、と。
更に、2年前も見たかもしれない。
そうすると、このスタッフは成長していないのだろうか。
決してそんなことはない。
以前より対応も良くなっているし。

そう、やっぱりしっかり教えること、
真剣に伝えることも大切だと思う。
一人一人が真剣に挑むからこそ、
教えなければならないこと、伝えなければならないことが出てくる。

これがまたいいのだけど、2人のやり取りを穏やかに見守る女性スタッフがいる。
注意をしている方にも、されている方にも、
その女性スタッフはやさしい眼差しをおくって、
でもまじめにやり取りを見ている。決して口出ししない。
2人共に対して本当の愛情を示している。
この3人の関係が素晴らしい。
この途中でさらにオーナーも登場するのだけど、
この人は一通り自分の店を見渡して、置いてあるものを確認すると、
「味には問題ない?」とスタッフに聞く。
「味は大丈夫です」という答えを聞くと、うなずいてそのまま出て行く。

良い店だなあと思う。
同じ目標に向かって、一緒に向上していく意識が共有出来ている。
それが組織のあるべき姿だ。
みんなが幸せにならなければならない。

2013年1月24日木曜日

深めること、伝えること。

さて、今月は結構書いてきた。

昨日はNHKの北川さんとお話しした。
出生前診断についてや、今の社会の中でアトリエがどんな意味をもつのか、
僕自身も日々考えさせられ、問いかけられている気がする。

僕達の仕事もこれからやるべきことは多い。

自分にどんなことが出来るのか、どんな役割があるのか考える。
何度か書いてきたが、これまで僕は深めることを中心にすすめてきた。
これからは伝えることであり、つなげることを中心にしていくと。
この深めることと、伝えることが僕の役割なのではないかと考えている。
仕事には向き不向きがある。
向いていないことをどれだけ努力しても、なかなか人の役に立つことは難しい。
自分の役割を自覚することが大切だ。

僕には昔から個性や独創性がない。
何かをゼロから作り出すことはむかないかも知れない。
例えば、僕が今取り組んでいるようなことがらも、
もとはと言えば共働学舎での経験がベースだし、
障害を持つ人達のこころを深く知ることで、
そこから世界観を掴んでくるということも、
宮嶋真一郎の思想に背景がある。(そのような言葉では語られてはいないが)
ダウン症の人達のセンスを見つけだしたのも、佐藤肇、敬子が最初だ。
現場においても、個性的なのはよし子だ。

僕自身はどちらかと言うと、そういう独創的な人達が直感してきたことを、
深めていくこと、その本質を見極めることが自分の役割だと思っている。
それからそれを伝えていくこと、繋いでいくことが使命だと思っている。

僕のことを面白いと言ってくれる人もいるけど、
僕自身は面白いものを探したり、面白い人と付き合ったりして、
そこにある面白さを活かすことしかしていない。

みんな面白いなあ、大好きだなあ、と思っているだけだ。

そういう意味でも、これから更に繋いでいきたい。

しばらく、荷物の整理や雑用に追われていたので、
今日は久しぶりの休日だった。
そんなことで本屋さんに行った。
直木賞とか芥川賞とかが発表されたからといって、読んでみようとは思わない。
でも、今回は読みました。「abさんご」。75歳での芥川賞受賞だそうだけど、
そういう話題性は別として作品が素晴らしい。
もう長い間、小説なんて読んでいなかったのだけど、
久しぶりに良い読書だった。さっき買ってもう読み終わってしまった。
言葉が生きているし、個性的な文体なのだけど、それより、
本当に丁寧に書かれていることと、事物を慈しむ眼差しがいい。
ありきたりな感想だけど、死の視点から生を捉えている感じだ。
ここにある懐かしさは人間の本質である、回帰と関係している。
本当に良いもの美しいものにはこの懐かしさがある気がする。

遠い世界に回帰して、そこからもう一度この世界を見ている。
今、ここにいると同時に、ここが遥かな過去であり、
すべてが終わったところから思い出されていることの様な、無限の感覚。

僕がジャマイカの音楽が好きなのも、この無限からの懐かしさがあるからだ。
言葉にすると矛盾してしまうが、今が過去であるという感覚。
すべては終わっているけれど、活き活きと輝いているという感覚。
もう書くまでもないことだけど、アトリエで僕が場に入っているとき、
良いときはこれと似た感覚になる。

最後の3ページは珈琲屋で読んだのだけど、その話は次回書きます。
(一言だけ言わせてもらうなら、この本の装丁は内容に合っていない。良い本になるにはデザインも大事だ。残念だなあと思う。)

2013年1月23日水曜日

まったなし

今日は少し穏やかな気候になった。
寒さもそんなには感じない。
朝日が今日もとてもきれい。

最近はなるべく睡眠をとるように心がけています。

食事と睡眠。
これから一人暮らしが続いていくと、基本を大切にしておかなきゃと思っている。
夜はつい音楽を聴きたくなってくるのだけど。
あと、甘いものも最近は控えている。どこまで続くか。
こういうのは言ってしまうと、逆のことになってしまうことが多い。
風邪なんかぜんぜんひかないよ、と言った次の日に風邪をひいたり。

寒いけど、みんな本当に元気に毎日制作に励んでいる。
こういう日々はまったく変わらない。
いつも良いテンションでいられる彼らはやっぱり素晴らしいなあ。

まだ、開けていない荷物があって、合間に整理している。
もう写真はないだろうと思いながらも、色々出てくる。
あれっこんなところにも、と。

聴き続けているレゲエやダブのリズムが呼吸になって、
見ている景色や生きている世界が、そのリズムで感じられてくる。
時々、ずっと昔の時間の中にいる様な気がする。

今日みた夢はボクシングの大会に参加するというので、
なぜかNHKに向かっている。
地下に降りていくと、そこが会場になっていてもう他の選手は来ている。
僕が最後みたいだ。勝つのか負けるのか。
不思議にワクワクしていて怖さはまったくない。
戦う直前にそろそろ起きる時間だ、と思って起きてしまった。
もし、戦っていたらどうなっただろうか。
というより、なんであんな夢をみたのだろう。

音楽を聴く体験も、作った人間の世界観をなぞっていくことで、
その人間が描写しているものと一つになることだ。
だから、ある意味で、何かを鑑賞することは、
自分が他のものになって世界を見てみること、感じてみることだ。

何かを深く感じることは、これまでの自分の知覚を変えることだ。
知覚が変換されると、新しくものが見える。
以前見ていたものは過去になっていく。
生きるということは、それの繰り返しだ。

場を見る経験も毎日変化していく。
ここでも相手のこころの動きや感じ方や、知覚をなぞり、
自分が自分を離れて対象と一つになる。
一口に一つとか一体といっても、実はそこには様々なベクトルがある。

制作のみではなく、人間にとって理想的な状態は、
緊張と弛緩の良いバランスだ。
数字にすることは出来ないが、目安は7の弛緩3の緊張。
力が抜け切った状態で、明晰な強い注意力をもつ。
この状態にどうやって入るか。あるいは人にどう入ってもらうか。
場をそのバランスにどうやってもっていくのか。
緊張感を高めてから少しづつ緩めていくのか、
リラックスしきってから徐々に注意力を強めていくのか。
時と場合によってどちらが良いのかは異なる。
僕の場合は最初の緊張感を高めてから、ゆっくり緩めていく方を選ぶことが多い。

古い写真を見ていると、
ああ、あの頃はぜんぜん違う世界を生きていたな、と感じる。
もちろん、まったく変わっていない部分もある。
面白いのは、いつでも楽しいなあ、新しいことがいっぱいで幸せだなあ、
と感じてきたのに、絶対、過去に戻りたくはないということだ。
同じことはもう出来ない。
いつも一生懸命だったな、と思う。
もう一度ともし言われてももう出来ない。

突如として、見えている世界が変わる時がある。
そうすると、もう以前には戻れない。
戻りたいと思うかどうか、
あるいはもっと単純にあのときああすれば良かったという後悔。
僕は過去に後悔は一つもない。
その時、やり切っているから。終わりまで行っているから。
それで、その程度か、と言われれば、それが自分の実力なのだから仕方ない。

あるものにはみんな終わりがある。
終われば、新しいものが始まる。
だから、一つ一つ後悔のないように、全力でやり切る。
出来事から貰えるものは全部貰っておく。

例えば、こういう場に関しては、同じ時間は2どないわけだ。
ある時、新しい世界が見えてくる。
それは、自分が見たいと思ったからでも、
自分がそこまで行ったからでもない。
場が見せてくれたわけだ。
場がくれたものだ。
僕達は選べないし、決めることは出来ない。
場に従う。それだけの話だ。
今、見せてもらっているものは、今だけ見せてもらっているものだ。
次、どこへ連れて行かれるかは分からない。
だからこそ、今見せてもらっているものをしっかり見ておく。
それが次への準備だ。

人生にまったはない。すすむのみ。

とてもとても天気が良くなってきた。
今日も一日、みんなにとって良い時間が流れますように。

2013年1月21日月曜日

カフェ

ダウンズタウン、カフェ部分を創っていくことを始めようとしている。
このカフェは、これまで制作やプレでの様々な活動や、日々の中で、
ダウン症の人たちと創ってきた、豊かな時間をベースにしたい。
その延長で来てくれた人達に、ダウンタイムのようなものを感じてもらいたい。
普通のカフェではなくて、これまでのアトリエを外に開いた感じにしたい。
離れたところから、日常の意識のまま作品を見るのではなく、
ゆったりとした時間に入って、人本来のリズムを取り戻してもらって、
作品と自然の調和を味わえる場所にしたい。
美術館で作品を鑑賞するのとは違う、
彼らの作品にあった付き合い方も提案出来る気がする。
いわば、作品と一緒にその内側の時間を感じてもらい、
作品を体験してもう。その時間、作品の世界を生きてもらう。

そんなことを色々と考えているが、構想も纏めてみたいと思っている。
アトリエから、また新しい環境が展開出来ればと思っている。

どんな時も、その場に立って深く感じてみることで、何かが始まる。
東京のアトリエの一日でも、それが一番大切だ。
そんなこころの働きが止まっているのなら、一度、リズムを取り戻す必要がある。
ゆっくり呼吸してみる。
目の前にある自然を感じとる。

今日は、というか今この瞬間は、それ以前の過去との連続ではない。
今は今しかない。
この時間を豊かでやさしいものにしていきたい。
人間にはそうする力があると思う。

アトリエに来てくれた人達は、みんな何かを感じてくれている。
それが一つの切っ掛けだ。

もし、今、ここでみんなに笑顔がなかったら、
何かが間違っていると考えた方がいい。

みんなが楽しい場所、一緒にいると感じられる場所。
三重のアトリエも、東京のアトリエもそんな場所を創ってきた。
そんな時間を創ってきた。
これから創られていくカフェは、
一般の人達にこの調和の心地よい文化を体験してもらうためのものとなるだろう。

2013年1月20日日曜日

生きる意味

相変わらず寒い日が続いている。
朝、犬の散歩で外へ出ると、冷たい引き締まった空気と、
冬の日差しが清々しい。
ここにいて、こうして歩いていることに感謝したくなる。

一人暮らしにもようやく慣れてきた。
昨日は生徒保護者の方達がキッチンを整理して下さり、
それから美味しい食事まで作っていただいた。
みんなで食べるということはやっぱり大切だ。
普段、一人で食べているので、こういう機会は本当にありがたい。

よし子のブログのゆうた観察日記を読んで癒されている。
面白いなあ、可愛いなあ、と思うのは親だからだろうか。
でも、最近、外を歩いていても赤ちゃんを見掛けると可愛くてしかたない。

東京アトリエに関しては、以前より確かに責任が重くなったわけだけど、
内面的にはなんだか楽になってきた。
これは場に対してもそうだけど、僕自身が変化してきている。
今まで自分を縛ってきたものや、自分に課してきたことが、
自分から離れつつある。

追求してきた。深く入るために、自分を律してきた部分は大きい。
追求には終わりはないし、一生続くのだけど、ここで一区切りだ。
今はより開かれた場にしていきたいと思っている。
そして、それが出来る時期にようやくきたということだ。
作家たちも場も僕も、ずいぶん成長した。

場に関して、もう多くは語らないけど、
一つだけ書くとすれば、
「場に入る」という言い方をしてきたが、
本来は場を自分の身体の様に感じられるくらいにならなければいけない。
そうなれば、何も難しいことはないだろう。

場にたいしての「感じ」は段階によってどんどん変わっていく。
一度、変わると前には戻れない。
僕自身はこれまでの様な探求型はもう卒業したと思っている。

それにしても、アトリエも生活も楽しいし、
後はゆうたとの時間をどうやって作っていくかだ。

文字をあんまり読まなくなってしまった。
暇があると見てしまっていたテレビも、ここのところぜんぜん見ない。
音楽だけは繰り返し聴く。
レゲエとダブ。と言ってもほとんど同じもので3、4枚のCDを何度も聴く。
リズムがここまで身体に入ってきたときはなかった。

僕はある意味で言うと「むこう側」の世界から見えることを語ってきた。
普段、当たり前だと思って生活している世界がすべてではないと。
今、作られているこの現実だけが現実ではないと。
自分が変われば、見えている世界も変わるということを。
それはダウン症の人たちの価値を認識するためばかりではない。
「これがすべて」という思い込みは本当に危険なものだ。
今の世界が抱えている問題のほとんどが、この思い込みから生まれている。

だから「むこう側」を語る必要がある。
もっとむこう側も確かにあるよ、それはこんなだよ、と。

でも、気がつくといつの間にか視点が変わっていた。
ずっと前は「こちら側」から「むこう側」を見て、入ったり語ったりしていた。
いつの頃からか、むこう側はむこう側ではなくなった。
自分のいる場所が「むこう側」になっていた。

今、誰しもが汚染された世界の中で、
人類の進むべき道も見えず、漠然ととほうにくれている。
世界の危機は急速に進んでいる。
誰も答えを持っていない。何が起きるのか分からない。
何が起きてもおかしくない。何をすべきか、正解はない。
たった一人で、世界の前に立たされている。
この感覚を忘れない方が良い。
ここからしかスタートはないのだから。

場を見てきて、言い換えれば人のこころの奥深くに分け入ってきて、
言えることはただ一つ。
すべてを大切に丁寧に扱おう。
この一瞬のかけがえのなさを実感していよう。
次の自分の行為を最後の仕事だと思って、こころを込めておこなおう。

たった一人の人間が何か一つでも良いことが出来れば、
何かが始まる。そして、その一人が集まれば、世界は変わる。
少なくともその可能性に賭けてみたい。
それが生きる意味、この世界に生まれてきた理由だと思うから。

2013年1月15日火曜日

普遍を超える

昨日の雪で今日はみんなが来るのを心配していたけど、
無事にアトリエで楽しく制作することが出来た。
まだ道には雪が積もっているけど、だいぶとけたようだ。

アトリエは細かいところを変えながら掃除中だ。
少しでも来てくれた人が居心地が良くなるように。
待合室も少し奇麗になった。

朝、玉葱とジャガイモが古くなりそうだったので食べた。
ジャガイモは茹でただけで、玉葱はオーブンで焼いただけなのに、
時間がかかってしまってブログを書けなかった。

今日は借りていた家の鍵を返しに行って来た。

洗濯機がエコモードというのになっていて変えられない。
でも、普通に洗濯出来るからいいか。

一日がすぐに過ぎていく。

それにしても最近、少し無駄な力が抜けて来た様な気がする。
こだわりも減って来たし、人の意見を聞いて自分の考えを変えるようになった。

本当に今まで力を入れすぎていたようだ。
僕にとって今は変わり時だなと思う。

例えば、強烈な意思の力の様なものがあって、
実はこれは場のようなものを動かすとき必要不可欠な要素だ。
でも、そういう意味ではそういう意思の力は以前より弱くなっている。
そのお陰で柔らかさや、力が抜けた状態になれている。
全体としては良いことだと思っているけれど、
自分が何を失いつつあるのか見ていなければ、次に対処出来ない。
意思の衰えは体力の衰えでもある。
30代で衰えなどないと普通は思うだろうが、
こういった事柄ではおおいにあり得る。
10代が一番勢いがあるくらいだ。
意思の力というのは「何がどうなろうと、絶対にここまでもっていく。絶対にここは動かさない」という強い決意だ。
これを言葉で書くと強引で乱暴に聞こえてしまうが、決してそんなことはない。
この力がないとまとまらない部分は多い。

今はなかなか、そんな強い意志を持ち続けることは出来ない。

そのかわりもっと大きな流れに入ることが出来る。
もっと優雅にいることが出来る。

流れがあるから、流れに任せたり、自分以外の人や状況にゆだねる。
完璧じゃなくてもいいよね、と思える。
そう思えることで流れが良くなる。
以前では見えていなかったものが感じ取れる。

場に関してももともと、ひきで見ることは大切な要素なのだが、
最近はよりひいた視点に入っている。
確かに一体感は以前より弱い。
でも、人や場がより活き活きすることがある。
善くも悪くも影響力が弱くなるからだ。

最終的に言うなら、僕らの仕事はただ見ていることにあるので、
手をかけること、力を加えることをなるべく控えなければならない。
僕自身は何者でもないのだから。
作家たちが描く、作家たちが活きるのが場だ。
僕はそこではただいるだけだ。
マンションで言えば管理人だ。僕が住む訳ではない。
あるいは良く話すことでもあるが、場ではプールの監視員みたいになればいい。
高い椅子に座って見渡しているだけ。
みんなは楽しく泳ぎ回ったり、真剣に練習したりしている。
何をしようとただ任せていればいい。
溺れたり危険な状況になったり、人に迷惑をかける人が居た場合のみ、
僕は動けばいい。

そういう意味においては少しづつだけど、場だけでなく、
組織の中で、あるいは生活の中での力を抜けるようになってきた。

意思の力だけではなく、人間としてのあらゆる力は減っていったり、
衰えていったりして最終的にはなくなってしまう。
そうなった時、もっと大きな流れの様なものを知っていなければならない。
抜くということも出来るようになっていなければならない。

いつの段階でも、場は教えてくれる。現実は教えてくれる。
僕自身、次を見つけていかなければならない。

相変わらずダブを聴いている。
以前は聴こえなかったものまで聴こえてくる。

今日はもう一つだけ書いておしまいにしよう。
毎回どこかで書いておきたかったことだ。
このブログでもときどき、どこかで誰かから聞いたとか、
テレビで見たとか、確か何かに書いてあった、
と言った様な不確かな事柄をテーマにすることがある。
そのことで思うのだけど、なぜ、調べて確かめて書かないのか。
何も調べることが面倒なわけではないし、そうする時間がないわけでもない。
確認しておいた方がこちらもすっきりするし、安心でもある。
多分、これがもっと以前だったら僕もそうしていただろう。
ある時期から感覚的にそういう世界とは違うところに行ってしまったのだと思う。
何かを思い出す。あるいは聞く。
その時、そこから何かが見える。そうだ、ということはこうかも知れないぞ、と。
その発見は面白い。そこから先、ではここで得た情報を調べてみよう、
と思った瞬間に、そういうものがバカバカしく感じられる。
言葉ではうまく言えないが、確認するという行為自体がなにか嘘くさい。
そんなものより、さっき見えたもの方が本当だと確信する。
この2つの世界には開きがある。

例えば、またぎという人達がいる。猟師のよいうな人達だ。
いわば自然の最も近くに生きている人達だ。
そのまたぎの人が世間話でよくエコロージーをバカにしている、
エコロジストしょうがねえ、と言っているという。
これは誰かから聞いた話だ。これなんかもいい話だなと思うけど、
分析してもしかたない。
本当に自然に生きている人からは、
エコロジーなんてそんな風に見えるといういことは大切だが、
そんな説明をするより、またぎはエコロジーが嫌いらしいと言った方が、
よっぽど何かが伝わる気がする。

そこで僕は普遍化できないものや、今の状況にしか通用しないものの価値を感じる。
そういうことを大切にしたい。
一般的にはこうなのだけど、ここではこうした方が良いなとか、
それが正解なのだけど、今は正解しないでこっちに行った方がいいなとか、
こうすべきなんだけど自分にはこっちの方が正しいとか、
この人にはこの方が絶対にいいとか、そういう感覚は大事だ。

平等とか、普遍とか、正しいとか、いつでもという、
そういう世界だけでは見えないものが確実にある。

人の感覚は狂いやすいし、人は自分を妄信してしまって他が見えなくなることがある。
それが危険だから、しっかりと基準をもつことが必要だし、
僕も基本やセオリーどおりで80%は進めていく。
でも、最後に頼れるのは自分の感覚だけだ。
そして、最後のところでは自分の感覚を疑ってはいけない。
自分の感覚だけが命綱になる。
何かが自分を保証してくれることはないし、
誰かが良しと言ってくれるわけでもない。
自分がたった一人でその場に立っている。
そこで信じられるのは自分の感覚のみなのだ。

だからこそ、いつまでも調べて確かめる世界にいてはならない。
そんな世界を出て、もっと違うところに行かなければならない。

そこに何があるのか、僕にも分からない。
ただ、毎日新しい何かが見えてくる。そんなことの連続だ。

ここまで書けば何の為にこの話題に触れたのかお分かりいただけたことと思う。

2013年1月13日日曜日

ただ居ること

寒いけれど朝はよく晴れて気持ちがいい。

昨日のアトリエでアキさんが登場するなりじっと僕の顔を見て、
「佐久間さーん。ゆうた君元気」
「ん。元気だよ。三重に慣れて楽しそうだって」
「三重に?三重になんやっけ。三重になんていった?」
「慣れて来たって。最初は不安だったみたいけど、慣れて落ち着いたって。」
「あーー。そやことかあ。よかったお。それだけ心配してたお」

こういう時の雰囲気は全く言葉にできない。
でも、アキのやさしさが本当に嬉しい。
ゆうたがアトリエに来る時は彼女がいつも遊んでくれていたし、
今から来るよ、と言うと一番楽しみにしていた。
ゆうた君に、作ってあげる、と色んなものを作ってくれた。
ゆうたにはアキの人間としての素晴らしさが分かるらしく、
他のどんな大人や子供より心を許していた。
アキは作家性も強い人なので、創作に集中する時だけは誰の動作にも反応しない。
ゆうたに、今から描いてくるからちょっと待っててね、と語りかける大人の表情。
それでも、描きながら、ゆうたを時々、ちらちら見ている。
「カワイなあ。うん、カワイいいからしょうがない!」
とスケッチブックを閉じて、立ち上がりゆうたの方に走っていくこともあった。
時に創作と子供への愛で揺れ動く、母なる作家のようでもあった。
よし子よりも過保護で、ゆうたの前を歩きながら、
頭を打たないように手で支えながら「ゴツしますよー」とついていく。

そんな愛情たっぷりのアキさんだったから、
ゆうたがいなくなって寂しいのだろうと、どんな言葉をかけてあげようか、
僕は少し迷っていた。
でも、「よかったお。それだけ心配してたお。」と言った彼女は、
そのまま絵を描きだした。何かを振り切ろうとする構えもまるでなかった。
言葉の通り、心配してくれていて、元気で良かったと安心したようだった。

この心構えを見習いたいと思う。
僕自身はまだまだ寂しかったが、彼女の振る舞いを見て、
本当にそうだな、そうあるべきだなと思った。

何度も書いていることでもあるけれど、
彼らの精神性の偉大さをもっと知ってもらいたい。

僕のところには悩める人々がたくさん来る。
話を聞いていて感じるのは、場についていつも考えることと一緒だ。
プライドやコンプレックスがいかに意味のない、
マイナスしか生み出さない感情か、いつも思う。
プライドやコンプレックス(この2つは同じものの異なる現れ方で、元は一緒だ。)
の原因は恐れだと、何度か指摘して来た。
もう一つ言えることは、
みんな、何かであらねばと思いすぎている。
だから何者でもあれない自分に悩んでいる。
何か出来なければ、人に認められないと感じている。
それは、比較であり競争意識だ。
何者かであれたら、人より上だと思いたがる。
こういう繰り返しは何も生み出さない。
たとえ、何者かになって、人から認められても、
持続していく為に更なる不安が生まれてくるはずだ。
何者かであろうとすることって、ななんだろう。
仕事が自分だとか、これが出来る自分にすがろうとする心理。

前回、何もしない時間について書いた。
何もしない。何者でもない。
それは私達の本当の姿だ。
着飾って、何か他のものに見せかけようとして、使っているエネルギーを、
今、ここにいる時間に使ってみてはどうだろうか。

僕自身は恐れも不安も、コンプレックスもプライドも、
ほとんどない。
ゼロだとは言えないだろうが、何かを邪魔するほど心を占領されてはいない。
かといって、自信がある訳ではない。
ただ、自分が何かであろうとしないだけだ。
そうすれば、悩むこともない。
僕は別に何かが出来る訳ではないし、どこか人より優れたところがある訳でもない。
それで良いと思っている。
それでも楽しいことはたくさんあるのだから。

自分がいる意味を考える必要はない。
ただ居ればいい。
僕はそのことをダウン症の人たちから学んだのだと思う。

表現、という言葉をこれまで何気なく使って来たが、
ここでの作家たちは、何か表現しなければならないものを持っている訳ではない。
ただ、自然に筆を持って戯れている。
その瞬間が楽しいから描いているだけだ。
絵を描くことで、自分を認めてもらおうという心理とは無縁だ。
だから、結果、あの様な素晴らしい作品が生まれる。

意図を捨てること。作為を持たないこと。
執着しないこと。
ただ、素直に気持ちよくあればいい。
自分も人も、周りの環境も自然に楽しくしていく。
そんな生き方が理想だ。
繰り返すが、そういう存在がダウン症の人達であり、
僕らのこころの中にもそんな世界がある。

夜、時間がある時は最近音楽ばかり聴いている。
ビリーホリデイからピアソラ、
今はレゲエやダブといったジャマイカの音楽が身体に入ってくる。
これは最近のことだ。
ずっと昔に初めてレゲエを聴いた時は、リズムが謎だった。
ミステリアスだからひかれた。
でも、そんなに集中して聴く機会はなかった。
ある時にあの低音や歪みや揺れは、ジャマイカの海の波から来たのでは、
と思い始めた。そこにアフリカの大地の鼓動も加わっている。
謎が多い音楽だが、どこか遠いところに連れられて行く。
遥か昔に帰っていく様な感覚だ。
そこにはもはや時間も存在していないのではないか、とまで思う。

いくら音楽を聴いても、無音にするとあの川の音が聴こえてくる。
身体が川の音を記憶している。
川の音を聴きながら、身を委ねていると、いつの間にか眠っている。

草木はただそこにあるだけ、居るだけだ。
意味や目的を追い求めすぎて、何者かでなければならないと思っていると、
本当の美しさ、自然の流れが見えなくなる。
僕達は目の前にある物事を、本当に見ているだろうか。

素直に向かっていけば、
色んなことが見えてくるし、現実がたくさん教えてくれる。

何者かであろうとしなくても、場に入ればやることはいくらでもある。
場が自分を受け入れ、自分にこうあれ、と教えてくれる。
そして場はどこにでもある。今、居るところが場だ。

2013年1月12日土曜日

場所の記憶

しばらく、寒さがおだやかになっていたが、ここ数日、また寒くなった。
あと、乾燥するんだ、ということをこの頃になってようやく実感するようになった。
いかに何も気にしないで生きて来たか、ということだけど。
水分が奪われるのはやっぱり、良くないらしい。
ということで、加湿器をつけて、水分補給も心がけている。

金沢では逆だった。冬は湿気が強くてほとんどの家では除湿器をつけている。
壁もびしょびしょになる。

今日は土曜日の絵画クラス。
どんな時間になるだろうか。
絵具を作りながら、ワクワクしてくる。
何年経ってもこの感覚は変わらない。

仕事部屋の窓からは庭の木が一番近くで見える。
緑の間からやさしい光が射している。

心地よい場所に対しては様々なイメージがある。
誰しもがほっと出来る場所を求めていると思う。

ダウンズタウンのイメージに繋がる本を、待ち合い室に置いてみたが、
いがいとカフェ関連が多くなってしまった。
でも、カフェって結構大事だと思う。
ある田舎でも、そのカフェ一軒あることで、遠くまでわざわざ人が来る。
そういう場所がいくつかある。

人には立ち止まる時間や、自分を整理し、経験や考えを纏める時間が必要だ。
さらには時には、何もかも忘れて、ただあるだけの自分に立ち返る時間も必要だ。
居心地の良い場所にいると、ただ、穏やかな時間だけが流れていく。
何もしないということも大切な何かだ。
そこから、見えてくるもの、見つかるものはたくさんある。

東京にはカフェや喫茶店は無数にあるけど、良い場所は少ない。
僕にとって原体験となるのは、金沢での日々だ。
かつては金沢には喫茶店があふれていた。
こんなにあって使う人いるの?とおもうほど。
その中で僕達があこがれの大人の場所として、記憶に残っている数軒がある。
珍しく実名で書く。
「ぼたん」「オーレ」「しばふ」「ローレンス」。
他にも個性的なのがあったけど思い出せない。
この中で現存するのはローレンスだけだ。少し雰囲気は変わってしまったけど。

時代は変わり、良い店もどんどんなくなっていく。

金沢で喫茶店が消えていったとき、
自分のいる場所がなくなっていくように感じたものだ。

その後は金沢にいても、旅に出たりした。
能登半島の先端にいってみたり。
ずっとむこうに韓国やロシアがある。
波の音。青黒い海。

海、と言えば、三重での夏合宿を思いす。
やっぱり日本海と太平洋は全く違う。
どこまでも広い、果てしない海、というのは太平洋だ。
波も穏やかで、激しくない。
黒くない。本当に青い。
大王崎の景色は美しい。
波の音を聴いて、潮の香りを嗅いでいたら、そのまま自分の場所に帰っている。

前に書いたが怒濤の様な川の音も耳に残っている。
視覚の記憶より、音の記憶や、匂いの記憶の方が強く影響を残す様な気がする。

さて、日々のアトリエも一人一人の身体の記憶に残っていくものにしていきたい。

2013年1月10日木曜日

一流を知ること

今日は風が冷たく、寒かった。
二階にシングルベットをおいた方が便利だと思って、
無印に見に行ったのだけど、結局いらないなあ、布団でいいやとなった。
僕はもともと引き算で考えて来たけど、
3・11以降は本当になるべくシンプルな生活を心がけている。
あると便利も、ちょっと考えればなくていいになってしまう。
本当にいつ何がおきるか分からないし、どこにいても仮の場所という感じがする。
これからは、なるべく、これがなければ生きていけないというものを減らして、
なくても生きていけるという感覚でいた方がいい。

ダウン症の人たちなんかは、何にもいらないという状態で生きられるし、
何もなくても楽しめる力を持っている。
最初は結構、執着も強いのだけど、いざ無いとなれば、別に平気だったりする。
そんな、生き方を私達も身につけていくと、今後の道が開けてくると思う。

あやなちゃんの得意技に「貪欲ローック」というのがある。
貪欲ロックって凄い。消費社会に対して使いたいものだ。

そんなことで久しぶりに駅に行ったのだけど、
偶然、NHKの北川さんにお会いした。
結構久しぶりだ。
電車でちょっとお話しした。メールも頂いていたのに返信出来ていなかったし。
吉川さんが企画を頑張っている話とか。
それで、北川さんも別の企画を立てたいと言っていた。
また、アトリエでお話ししましょう。

出生前診断の問題もいよいよだし、
メディアがちゃんと彼らの価値や可能性の部分も伝えていく義務がある。
アトリエの活動が、何かのヒントを示してくれればと思う。

和田さん、吉川さん、北川さん、企画を実現させて下さい。

無くてもいいという話だけど、
僕の場合、本当に何も無くて暮らしていた時期が長い。
だからどうとでもなると思っている。
無いことを知っていれば、恐れるものも何も無い。

でも、一方で逆も考える。
以前、豊かさについて書いた。
そこでは精神的な豊かさをテーマにしたけど、
物質的な豊かさを否定した訳ではない。
あえて本当のことを言えば、贅沢はいつか自分の肥やしになる。
贅沢から学ぶことは多い。
と言っても、成金でも、ただの浪費でもなく、本当の意味での贅沢のことだけど。

人は成熟すれば、多くを求めなくなる。
贅沢も必要なくなる。
でも、その為にはまずは努力すること、勉強すること、遊ぶこと。
その経験が無ければ、本当のことなど分かる訳がない。

今、僕は贅沢を求めない。
なぜなら、身銭を削って贅沢をし続けた時期があったからだ。
ひたすらお金を稼いで一円も残さないように、その日暮らしをした。
いい店、本物の食べ物や環境。
僕は、その頃、信州に行って別の仕事をしようとしていたから、
そこから先は、
もしかしたらお金を稼ぐ仕事には一生つかないかも知れないと思っていた。
確かにそこから先、僕が自由に使えるお金をもったことはない。
今思うと、あれは本当に勉強になった。

僕達は一流の仕事をしなければならないし、
一流の人間になっていかなければならない。
その為には一流を知る必要がある。
何でも均一化された手頃で便利なものばかりに触れていたのでは、
何も変わらない。
違いを知ること。本物と偽物があることを知ること。

本物に触れる為の努力をすること。
コーヒーひとつとっても、コーヒーとコーヒー風味の飲み物は違う。
一時期、書店に
「缶コーヒーを飲む人は成功しない」という様なタイトルの本が並べられていた。
僕から言わせれば、缶コーヒーどころか、
ドトールとかスターバックスのコーヒーを、
偽物と気がつかないようでは本物は分からない。
(ちょっと付け加えるなら、偽物とまで言うのは大袈裟かもしれない。僕も普段はこういうものを飲むし、美味しくない訳でもない。ほっとすることも事実だ。ただ、ここではあくまで、手をかけられた本当の味のことを言っている。回転寿司が本来のお寿司の形と違うからと言って、偽物だと思う人はいない。でも、回転寿司を食べて美味しいな、と思っても、それを本物とか一流と思う人もいないということも、また、事実だ。なにもこだわりの店で高いコーヒーを注文するだけが本当だという訳ではない。気に入った豆を買って来て自分でどうすれば美味しくなるか、工夫してドリップしてみる。これだとマシーンでいれられたものより安いし、味だって美味しい。手間隙をかけることも贅沢の一つだと思う。)

もちろん、お金がなくても本物を知ることは出来る。
僕自身もそんな一時期を終えて、
もっと大切なものの為にはお金を貰わなくてもいいという道に入っていった。
でも最初から人が成熟出来るのか、僕には分からない。
少なくとも僕にはすべてのプロセスが必要だった。

正直に言うなら、これは恥ずべきことだが、
人より遥かに多くの異性と付き合って来た。
こんなことを経験しないで、成熟出来るのならそれにこしたことはない。

色んなことを経験して、本当にシンプルになっていく。
どんどん、そんなのはもういらないな、となっていく。

でも僕には分からない。
今の時代はあまりに醒めているというか、諦めていると言うか、
薄味過ぎる気がする。これが大人と言えるのか、成熟と言えるのか。

何かの本で読んだのだけど、
刀鍛冶か何かの職人さんが言った言葉として、
「若い頃は本当にやりすぎるというくらいやってきたけど、歳をとってみると、もっとやっておけば良かったと思う」と。
これは仕事や修行のことが主なのだろうけれど、
何事もとことんやってみる、ということが大切だと思う。

仕事に関しても、僕はいつも思うのだけど、
その場で最後まで終わらせると言うことが基本だ。
終わらせていないから、後に引きずる。
後に残して、持ち帰って個室で考えるなんてことは出来ない。

人生だって、やり残したらだめだ。
何でも経験しておいた方がいい。

場で人のこころに触れていると、よくわかることだけど、
こころには弾力がある。
触れば跳ね返ってくる。
この弾力が強い程、健康なのだ。
響き合うから楽しい。
触れて、感触がはっきりあって、跳ね返ってくるから、
その手触りで僕達はどんどん深いセッションをおこなう。

不健康な状態のこころは、触ったときに何の感触もない。
気持ちが悪いくらい無感覚で、のっぺらぼうだ。
こういう状況に挑む時は本当に体力と気力を使う。
下手をするとブラックホールに入って出られなくなってしまう。
ここで本当の力が試されるのだけど、そこから先は書かない。
感覚的な話になりすぎて書いても分からないだろう。
でも、ブラックホールにものっぺらぼうにも対処の仕方はいくらでもある。

ここでなぜこの話をしたかと言うと、
現代に生きる多くの人のこころが弾力を失っているのではないか、と感じるからだ。
成熟して、多くのものを必要としなくなることと、
こころの不感症で欲望がないのとでは全く意味が異なる。

まずは、もっともっと、高い経験があり得ること、
上には上があることを知って、
一流のものに触れていくことが大切なのではないだろうか。

2013年1月9日水曜日

洗濯

そろそろ洗濯物を、と思っていたら曇ってしまった。
乾燥してるし室内でもいいかな。

昨日は赤嶺ちゃんがアトリエに来てくれたので、終わった後少しお話しした。
僕にとって彼女は重要な存在だ。
遠慮せずに何でも言ってくれるから。
今回も話していていろいろと考えさせられた。
今年からの僕のテーマでもあるのだけど、
手伝ってくれる人達や学生たちに、活き活きと仲良くやっていってもらいたい。
作家たちの環境を整えることをずっとやってきたけど、
学生たちに対しては僕はまだまだ未熟だった。
学生たちにとっては、それから手伝ってくれる人達にとって、
これまで僕の影響力が強過ぎたようだ。
教え過ぎ、手出しのしすぎだった。
僕の評価を気にしたり、
ダメと言われることを恐れたりするようになってしまった部分もあるようだ。

もちろん、全体としては、みんな仲良くしているし、
一人一人はとても成長している。

僕はあまり人に影響を与えたくない。
みんなに小さくなって欲しくない。

一応だけど、書いておきます。
僕は評価する立場の人間ではない。
みんな、全員、素敵な存在だと思っているし、
変わっても変わらなくても、そのままで愛しています。

このブログでもそうなんだけど、僕自身は一人一人を縛ったり、
不自由にしている仕組みや考え方を、何とか取り払う為に書いて来たが、
逆に僕に批判されないように小さくなってしまったり、
それが一つの縛りになって影響を与えるのなら、やり方を変えなければと思っている。

愛情は与え合うものであって奪い合うのは良くない。
評価を競うのはつまらない。
みんな同じ様なレベルだよ、と言ったらこれも評価になるかな。

でも、一人一人ではみんな、僕には好きなことを言えるみたいだし、
実際に会っている人達は大丈夫だろう。

とにかく、楽しく素直が一番。

この前、シチューを作って一人で食べたら、次の日にはるこが、
「昨日、夢で佐久間さんのシチュー食べたよ」
またまたでた。

荷物を整理しているので色んなものが出てくる。
なつかしい物も多い。
10代、20代の頃は写真を撮る習慣がなかった。
だからほとんど写真がないのだけど、時々、誰かがくれたのが出てくる。
だいたいの人がそうなのだろうけど、やっぱり撮っておけば良かったかな、と思う。
僕の大切な記憶は16からの10年くらい、
色んな場所で色んな人達に助けられ、教えられて成長して来た時期。
その経験が今でも自分を支えてくれている。
それ以前、子供の頃のことはあんまり思い出せない。

ようやく、本当に最近だけど、金沢も良いところだったな、と思う。
久しぶりに帰りたいな、とか。
僕にとっての金沢のイメージは、川、雨、雪、湿り気と水だ。
いつも薄暗くて、さっぱり晴れる日は少ない。

小学校の頃、イルクーツクの子供たちとの交流会があった。
金沢は日本海にも面していて、ロシアや韓国と交流が深い。
イルクーツクの人達ともそんな繋がりで、学校に呼んでいたようだ。
明るく陽気な歌とダンスの会みたいなのがあって、
大人も子供も民族衣装と、様々な楽器を使って、
僕達に披露してくれた。
あの時の子供達の楽しそうな表情を何度も思い出すのは、
その後、彼らは全員、射殺されたと聞いたからだ。
あの時、使っていた楽器の中には実はピストルが隠されていた。
帰りの飛行機で彼らはハイジャックして国から逃れようとした。
でも、捕まって全員、大人も子供も女性も射殺されてしまった。
ニュースが流れ、新聞に載り、小学校の校長は「子供達がショックをうけております」
と発言していた記憶がある。

僕の一番の親友は宮腰といった。
彼は遊びの天才だった。
一緒にいるといつも面白いことが起きる。
でも、僕といるときが一番、その力を発揮する。
僕は彼の面白さを引き出すことに夢中だった。
思えば、あの頃から、自分が主体となってプレイすることを選ばずに、
人の面白さを楽しんだり引き出したりするポジションを選択していた。

よし子を見ていても思う。
彼女は自分で表現したり楽しんだりするタイプだ。
その部分をもっと活かしてあげられたら、と思う時も多い。
良い意味でクリエイティブというか。
僕とはそこがぜんぜん違う。

僕自身は実は自分の中にはなんにもない。
なんの個性もなんの才能も、やりたいことも。
だからこそ、人のこころと向き合うのかも知れない。

ここまで書いて来て、外が明るくなって来た。
洗濯出来そう。
やっぱり太陽のあたたかさは最高だ。

2013年1月8日火曜日

終わりから始める

今回のタイトルの言葉は、
昨日アトリエの後、稲垣君と話していて僕の口からふと出たものだ。
なるほど、と自分で気がつく。

また場について話し合っていた。
ここでもしょっちゅう書いていることだけど、
場に入り、場の中で自然な適切な振る舞いが出来る人はほとんどいない。
僕から見ていると、作家たち以外ではみんな、どこか不自然でぎこちない。
どこかによどみがある。それから、鈍いというか、遅い。
スピードに乗りきれない。
これは、誰かだけではなく、ほぼみんなそうだ。
こころや身体の振る舞いが汚いとまでは言わないが、美しくない。
人間は不完全な存在だ。
なかなか美しい振る舞いができないのはしかたない。
でも、なぜそうなるのか、そこに気がつくことが大切だ。

何度も書いて来たし、話してもきた。
この問題は人間が自然であることはどんなことか、
というとても深い部分と繋がることだ。

場ではその人の弱さが露骨に出てしまう。
だからこそ、場に入ることで人は成長する。

何も制作の場に限らず、人のこころと向き合う場においては、
自然さ、自然の流れが一番肝心だ。

場というものを20年近く見て来ても、
本当のこころや身体の構えと動きを適切におこなえる人を見たのは、
ほんの数人だろう。1000人単位の中での話だ。

誰か優秀な人や優れた人がいて、後は劣っているという話ではない。
そうではなくて、人間は不自然になってしまっている、ということだ。
その事実に直面出来ることが場の良さでもある。

問題を知らなければ、解決は出来ない。
まずは問題を知ることが大事だ。

なぜ、固くなるのか、鈍くなるのか、遅くなってしまうのか。
なぜ、自分から問題を作り出して溺れていくのか。
原因は無限にある。
プライドやコンプレックスはその代表だけど、
そういう感情がどこから来るかと言えば、やっぱり恐れだろう。
何かが怖いのだ。
本当は怖いものなど何もないのに。

ところで、場に入って、僕もプライドや恐れや悲しみや怒りを感じる。
すべての感情は普通の人と同じようにやってくる。
ただ、僕はそこにしがみつかない。すぐに終わらせてしまう。
すぐに気づいて、すぐに対処する。
それから、どんなものも、捕まえなければ、やがて去っていくことを知っている。

場の中で場を固くしてしまうのは、恐れによって生まれる不自然さだ。
みんな、こころや身体の構えが小さい。
少しのことでビックリしたり、パニックになってしまう。
落ち着きがない。怖くて不安なのだ。
その恐れや不安は相手や場に影響を与えてしまう。

安心感を持つこと、何があっても大丈夫という構えが場を良くする。

そんなことを話していて、ふと僕はなぜ場を恐れないのか考えた。
そうだ、僕は終わったところから始めている。
終わったところとは何か。形が完成された状態。
絵でいえば、描き終わったあと。
これはよくいうところの、出来上がりをイメージすることとは違う。
前にも書いたが、僕はイメージを持たない。
イメージの弱点を知っているからだ。
そうではなくて、感覚としていうなら、
始まった時にすでに終わっている感じだ。
今は始まりにいて、始まりは何もないから、何の問題もない。
そこで終わりも見えていれば、終わりにはすべてが終わっている訳で、
ここでも何の問題もない。
始まりと終わりに挟まれたプロセスだけの話なのだから、
何が起きてもそのプロセスを楽しむだけだ。

終わりから始めることが、場だけでなく人生の極意かもしれない。

あえて言えば予言のようなものだ。
霊のことを書いたことがあったが、占いや予言も僕には不思議なことではない。
占いや予言を信じる訳ではない。むしろ否定的だ。
そういうものには弱い人間が群がっているから。

でも、例えば完全に的中してしまう予言というものがある。
あれは何だろう。偶然ではない。
では、もし本当の予言というものがあり得たとしたら、
どのようなことがいえるだろうか。
つまり、その結果は決まっていた。終わりは分かっていたということになる。
そして、それは経験的にはあり得る話だ。
もちろん、断っておくがすべての予言がそうだということではない。
それから運命論とか決定論でもない。
すべてはあらかじめ決まっている訳ではないし、当然、変化する。
でも、例えばすべての人がやがて死ぬと言うことを否定する人はいない。
つまり、これだって予言だ。
やがて死ぬというレベルでの予言はあり得る。

終わりが見えていて、終わりから始めると、
すべてのプロセスは美しくなる。
それは本当に不思議なことだ。

始まったものはやがて最初の形に戻っていく。
宇宙も人のこころも。

どんなに問題があって、どんなに混乱しようと、
すべてがプロセスであることを知っていれば、恐れも迷いもない。

終わりから始めることを知れば、
こころにも身体にも自然な美しいフォルムが戻ってくる。
何も心配することはない。

2013年1月7日月曜日

賭けること

さてさて、平日のプレクラスも今日からスタートです。
またみんなからお正月の話が聞けると思います。

荷物の整理がまだまだだ。
アトリエと待合室は片付いたけど、今度は仕事部屋をなんとかしなければ。
二階の生活スペースはもともと狭いので、多少、行き場のない荷物を置いて、
寝る場所さえあれば散らかっていてもいいかな、と思っている。

昨日の日曜日クラスはメンバー全員が揃ったので、素晴らしい勢いだった。
場の良さや凄さは言葉にできないのが残念なくらいだ。

掃除をしながら、自分の呼吸を取り戻す。
散歩しながら考える。
コーヒーをドリップしながら、リズムに乗る。

場においては間合いが命だ。
間を合わせるだけではなく、間をはずすことも知らなければならない。

すべてがあまりに自然になっていく。

僕はお酒をほとんど飲まない。
今後は分からないけど、そんなに飲むことはないと思う。
酔わなきゃやってらんない、という人もいる。
お酒を飲まないで何が楽しいの?と聞かれることもある。
楽しいことはいくらでもある。
でも、僕は酔わない訳ではない。
多分、音楽を聴いて酔う。
最近は夜、ピアソラを聴く。
どんなジャンルでもランダムに聴く。
音楽に関してだけは体系を知りたくないし、勉強とは無縁でありたい。
ピアソラを聴くのであって、タンゴを聴く訳ではない。
ボブマーレーを聴くので、レゲエを知りたいのではない。
ジョビンを聴く。ボサノバが何かなんて知りはしない。
ただ、音楽が身体に入ってくる。

酔うか、酔わないかということで言えば、
普段の僕は酔ってはいけない立場にいる。
場を見るとき、大切なのは作家たちとの一体化なのだけど、
完全に一つになってしまってはいけない。
絶えず、どこかで醒めている必要がある。
描く人が良い状態に入り、気持ちよくなる。
その状況を創っていく為には、こちらは一緒に気持ちよくなりながらも、
最後のところでは、とどまっていなければならない。
そのバランス感覚が重要だ。

作家たちは本当に良い状態に入ると、自分すらなくなっている。
僕達は一瞬はそこへ入って、共感しつつもすぐに戻って来て、
作家がそこに居続けられるように、冷静な判断をしなければならない。

だから、実は本当に作家と一体になっている時は、
僕の場合、一人でいる時だ。
一人になった時、最後の一線を越えて彼らと一つになる。
でも、一人になった時に本当に繋がるという経験がなければ、
彼らを深いところで理解することは出来ないし、
その結果、場を共有している時に、適切な動き方が出来なくなるだろう。

場に深く入ることと、一人になることは同じくらい大切なことだ。

酔うことと、もう一つ、賭けるということを書いてみたい。
僕は賭け事をしない。博打をしない。
でも、賭けるということを否定しない。
むしろ、賭けることがどれだけ必要か知っているからこそ、
ある意味で人生を賭けている。人生自体を賭けているのだから、賭け事はしない。

賭けることが出来なければ、賭ける勇気がなければ、
何一つ生まれない。
ケチな人間はいやしい。ケチというのは何もお金に限ったことではない。
リスクを背負わない、賭けることを避けて、無難な方を選んでばかりいる人間。
自分さえ良ければいい、この世には損か得かしかないと思っている人間だ。
僕はなるべく損したということを言いたくない。
得したということも言いたくない。
それから、無駄という概念も自分の中から消しさりたい。
損したとか、得したとか、あれは無駄とか思う度に、
自分はケチくさい人間だな、と感じる。

損得を超えて物事を見る。
無駄と思うことは、
合理的に意味のあることだけに関わりたいという弱さであると知る。
ケチな心を捨ててこそ、大きな勝負が出来る。

変わる時には痛みを伴う。
何かを得る為には、何かを失う。
それでも、新しくなっていく。とどまらずにのびていく。
賭けること、賭けてみることを忘れてはならない。
負けること、失敗することも避けてはならない。
恐れてはならない。
ただ、どんな状況に追い込まれても、
言い訳したり責任を他に押し付けてはいけない。
それが賭けるということなのだから。
自分が結果に全責任を負って、決して後悔しない覚悟を持つこと。

僕自身も絶えず、賭けて来た。
行かない方が無難な状況はたくさんあったし、
今のままでいたいとまったく思わない訳ではない。
でも、そこで勇気を出して賭けることで人は大きくなる。

このタイミングで三重に行くことは、よし子にとっても賭でもある。
もちろん、送り出す僕にとっても。
それでも、先に進まなければならないし、やるべきことというのがある。
ミッションという言葉がある。
一人一人が自分の使命をはたしていく。それが大切なことだ。

いつか、誰かや何かの為になるのなら、
今の状況を少しでも改善出来るのなら、思い切ってふみだそう。

何も大きな話ばかりではない。
例えば、僕の場合で言えば、日々のアトリエの中で、
勝負の場面、賭ける局面などいくらでもある。
場とはむしろ賭の連続だと言える。
ここでは何かの為に、良くする為に賭けるのであって、
自分を守っている暇などないのだ。

今日も実は違うことを書こうと思っていて、こんな内容になってしまった。
これまでは過去に経験して自分なりに結論が出ていることを書いて来たが、
今は、それこそ現在進行形で書いている。
まだ、僕の中でも答えが出ていないことも書いている。

変わっていくかもしれない。その都度、書いていきたいと思う。

2013年1月6日日曜日

ちえちゃんのピアノ

今日の朝日はとてもきれいで、
アトリエの二階は金色に染まっている。
犬の散歩の時間は日の出だったので、ぼやっとしたオレンジだった。
歩きながら昨日、見ていた色だなと一体感を味わう。
絵具の減り方は不思議で、集中してなくなる色がある。
昨日の場合はオレンジだった。
他の人の絵に影響を受ける事はほとんどないし、
それに別のクラスに変わっても同じ色調が増えていく。
彼らは共通して何かを感じ取っている。
それを自然の奥にある何者かだと考える。

昨日、寝る時に聴いていたピアソラの音楽が頭を離れない。
ピアソラはやっぱり夜だ。

少しづつ、改善して行こうと思うのだけど、
手始めに、小さな事だけど待合室の本棚の中を変えようと思う。
来週のクラス位には整っていると思うので、
待合室をご利用の方はご覧になってみて下さい。
これまでは主に思想というか哲学というか、
ここでの実践に関係する考え方に繋がる本を置いていた。
今後はもっとダウンズタウンの空間を具体的にイメージ出来るような、
ビジュアルのある本を置きたい。
良い空間、心地よくて、誰もが訪れたい場所をイメージしていただきたい。
ダウン症の人たちの調和的センスが人々を癒すというような。
人が安らぎ、再び訪れたいという場を考えていくと、
幅広く様々なジャンルが参考になる。
カフェやリゾート施設や建築や観光やレストラン、温泉など。
その場所が良い場所で、人が集まって、それぞれが生きる活力を得ていく、
ということでいうなら、これらに加え、神社、仏閣といった信仰の場や、
森や海という自然も含まれていくだろう。
エネルギー、循環、食も大切な要素だ。
それらが良いバランスで一つになればいい。
そんなことを少しイメージ出来る様な本を置いていくつもりだ。

アトリエの中ではピアノをもう一度置くことにした。
狭いので残念ながら電子ピアノだけど。
早速、みんながピアノを弾いている。
印象に残っているのはゆうすけ君の弾き語りとか、
昨日のあんなちゃんともえちゃんの連弾。
音楽として素晴らしい。不思議な魅力がある。
はるこさんやちえこちゃんは普通に弾けるのだけど、
音が柔らかくやさしい。

今回のタイトルになっている「ちえちゃんのピアノ」はやまと君の絵の題名だ。
やまと君とちえこちゃんは本当に仲良しで、
喧嘩したり、好きなことを言い合ったりしながら、
いつもお互いを気にかけている。
昨日もちえこちゃんがピアノを弾きだすと、
やまと君は「はーあ、またはじまったかあ」と興味なさそうにしている。
全く聴いていない様な素振りで黙々と絵を仕上げていく。
使われている色は三色だけ。やさしく色が重ねられている。
この三色だけでこんなにきれいに豊かに見える。
描きおわるとこちらを向いて、「出来たよ。ちえちゃんのピアノ」とつぶやいた。
2人は本当に分かり合っているのだなあ、と思う。

2013年1月5日土曜日

明けましておめでとうございます。

皆さん、いかがお過ごしでしょうか。
今日は今年最初のアトリエです。

昨年は年末にもう少しブログをかく予定だったけど、
引っ越しに時間がかかってしまった。
本当は色々と書いておきたかったのだけど。

でも、せっかく新しい年なのだから、去年までの話はこの際やめましょう。

昨日、よし子とゆうたは三重へ向かった。
考えに考えて出した決断だったけど、やっぱり寂しい。
冬休み、数日一緒に過ごした悠太の笑顔が忘れられない。
ずっと一緒にいて、どんな時も、その成長のすべてを見ていたい。

僕たちはすすまなければならない。
立ち止まっている時ではない。

ビリーホリデイでも聴いていようと思っていたけど、
昨日の夜はピアソラを聴いていた。

ダウンズタウンは新たな段階に入りつつある。
東京アトリエも今年は新たな気持ちで挑んでいきたい。

一年だけ借りた家も返して、アトリエの二階での生活。
改めて、場に向かう状況でもある。
絵具を作りながら孤独感が去り、意識が場に集中する。

同じものを守り続けるだけでは意味がない。
10数年、よし子と2人で場を創って来た。
2人で創った場はここで一旦終わる。
ここからはまた新しい場が始まる。

より、シャープでクリアな場になっていくだろう。

このアトリエにあって、他ではないもの。
その価値を追求していきたい。
ここは作家が主役の場だ。
そして、他の活動と比較する必要は全くないのだが、
あえて言えば作品の質が違う。
おそらく、このレベルの作品が生まれ続ける場所は他にはないだろう。
そのことが何を意味するのか、そこが一番大切だ。

福祉や教育やアウトサイダーアートのことを、
これまで色々と書いてきた。
批判的な書き方が多かったと思う。
でも、それらを否定するつもりはさらさらない。
需要があって供給がある。
そのレベルを求める人達はそういうものに触れていけば良い。
もし、もっと高いレベルのもの、もっと本質に触れるものを見てみたい、
と感じてくれる人がいれば、それに答えるのが私達の仕事だと思っている。

これからも、この核心からぶれることはないだろう。

よし子と悠太と離れての生活が始まって、
励ましのご連絡をたくさんいただいている。
応援して下さる方達に支えられる日々だ。
AEPニュースと引っ越しで終わってしまって、年賀状も書く事が出来なかった。
年賀状でやさしいお言葉をいただいております。
ありがとうございます。

お一人お一人のお名前までは書けないが、
特に安藤さんからのお手紙は嬉しかった。
安藤さんは幻冬舎で社長秘書をされていたころから、
ずっとよし子と僕のことを気にかけて下さっていた。
節目節目に励まして下さって、僕達にとって本当に大きな存在だった。
まだ、思うように人に伝わらず、
2人でひたすらビジョンを信じて教室を創っていた頃、
一人でも本当の理解者がいるという事が、どれだけ励みになったことか。

さて、今年も充実したアトリエにしていこう。

それから、ブログに関しても肯定的な意見が多いことに驚いています。
応援、ありがとうございます。
今年も頑張って、活動の報告や、楽しめる内容のものを書いていきたいです。

本年も宜しくお願い申し上げます。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。