2013年1月10日木曜日

一流を知ること

今日は風が冷たく、寒かった。
二階にシングルベットをおいた方が便利だと思って、
無印に見に行ったのだけど、結局いらないなあ、布団でいいやとなった。
僕はもともと引き算で考えて来たけど、
3・11以降は本当になるべくシンプルな生活を心がけている。
あると便利も、ちょっと考えればなくていいになってしまう。
本当にいつ何がおきるか分からないし、どこにいても仮の場所という感じがする。
これからは、なるべく、これがなければ生きていけないというものを減らして、
なくても生きていけるという感覚でいた方がいい。

ダウン症の人たちなんかは、何にもいらないという状態で生きられるし、
何もなくても楽しめる力を持っている。
最初は結構、執着も強いのだけど、いざ無いとなれば、別に平気だったりする。
そんな、生き方を私達も身につけていくと、今後の道が開けてくると思う。

あやなちゃんの得意技に「貪欲ローック」というのがある。
貪欲ロックって凄い。消費社会に対して使いたいものだ。

そんなことで久しぶりに駅に行ったのだけど、
偶然、NHKの北川さんにお会いした。
結構久しぶりだ。
電車でちょっとお話しした。メールも頂いていたのに返信出来ていなかったし。
吉川さんが企画を頑張っている話とか。
それで、北川さんも別の企画を立てたいと言っていた。
また、アトリエでお話ししましょう。

出生前診断の問題もいよいよだし、
メディアがちゃんと彼らの価値や可能性の部分も伝えていく義務がある。
アトリエの活動が、何かのヒントを示してくれればと思う。

和田さん、吉川さん、北川さん、企画を実現させて下さい。

無くてもいいという話だけど、
僕の場合、本当に何も無くて暮らしていた時期が長い。
だからどうとでもなると思っている。
無いことを知っていれば、恐れるものも何も無い。

でも、一方で逆も考える。
以前、豊かさについて書いた。
そこでは精神的な豊かさをテーマにしたけど、
物質的な豊かさを否定した訳ではない。
あえて本当のことを言えば、贅沢はいつか自分の肥やしになる。
贅沢から学ぶことは多い。
と言っても、成金でも、ただの浪費でもなく、本当の意味での贅沢のことだけど。

人は成熟すれば、多くを求めなくなる。
贅沢も必要なくなる。
でも、その為にはまずは努力すること、勉強すること、遊ぶこと。
その経験が無ければ、本当のことなど分かる訳がない。

今、僕は贅沢を求めない。
なぜなら、身銭を削って贅沢をし続けた時期があったからだ。
ひたすらお金を稼いで一円も残さないように、その日暮らしをした。
いい店、本物の食べ物や環境。
僕は、その頃、信州に行って別の仕事をしようとしていたから、
そこから先は、
もしかしたらお金を稼ぐ仕事には一生つかないかも知れないと思っていた。
確かにそこから先、僕が自由に使えるお金をもったことはない。
今思うと、あれは本当に勉強になった。

僕達は一流の仕事をしなければならないし、
一流の人間になっていかなければならない。
その為には一流を知る必要がある。
何でも均一化された手頃で便利なものばかりに触れていたのでは、
何も変わらない。
違いを知ること。本物と偽物があることを知ること。

本物に触れる為の努力をすること。
コーヒーひとつとっても、コーヒーとコーヒー風味の飲み物は違う。
一時期、書店に
「缶コーヒーを飲む人は成功しない」という様なタイトルの本が並べられていた。
僕から言わせれば、缶コーヒーどころか、
ドトールとかスターバックスのコーヒーを、
偽物と気がつかないようでは本物は分からない。
(ちょっと付け加えるなら、偽物とまで言うのは大袈裟かもしれない。僕も普段はこういうものを飲むし、美味しくない訳でもない。ほっとすることも事実だ。ただ、ここではあくまで、手をかけられた本当の味のことを言っている。回転寿司が本来のお寿司の形と違うからと言って、偽物だと思う人はいない。でも、回転寿司を食べて美味しいな、と思っても、それを本物とか一流と思う人もいないということも、また、事実だ。なにもこだわりの店で高いコーヒーを注文するだけが本当だという訳ではない。気に入った豆を買って来て自分でどうすれば美味しくなるか、工夫してドリップしてみる。これだとマシーンでいれられたものより安いし、味だって美味しい。手間隙をかけることも贅沢の一つだと思う。)

もちろん、お金がなくても本物を知ることは出来る。
僕自身もそんな一時期を終えて、
もっと大切なものの為にはお金を貰わなくてもいいという道に入っていった。
でも最初から人が成熟出来るのか、僕には分からない。
少なくとも僕にはすべてのプロセスが必要だった。

正直に言うなら、これは恥ずべきことだが、
人より遥かに多くの異性と付き合って来た。
こんなことを経験しないで、成熟出来るのならそれにこしたことはない。

色んなことを経験して、本当にシンプルになっていく。
どんどん、そんなのはもういらないな、となっていく。

でも僕には分からない。
今の時代はあまりに醒めているというか、諦めていると言うか、
薄味過ぎる気がする。これが大人と言えるのか、成熟と言えるのか。

何かの本で読んだのだけど、
刀鍛冶か何かの職人さんが言った言葉として、
「若い頃は本当にやりすぎるというくらいやってきたけど、歳をとってみると、もっとやっておけば良かったと思う」と。
これは仕事や修行のことが主なのだろうけれど、
何事もとことんやってみる、ということが大切だと思う。

仕事に関しても、僕はいつも思うのだけど、
その場で最後まで終わらせると言うことが基本だ。
終わらせていないから、後に引きずる。
後に残して、持ち帰って個室で考えるなんてことは出来ない。

人生だって、やり残したらだめだ。
何でも経験しておいた方がいい。

場で人のこころに触れていると、よくわかることだけど、
こころには弾力がある。
触れば跳ね返ってくる。
この弾力が強い程、健康なのだ。
響き合うから楽しい。
触れて、感触がはっきりあって、跳ね返ってくるから、
その手触りで僕達はどんどん深いセッションをおこなう。

不健康な状態のこころは、触ったときに何の感触もない。
気持ちが悪いくらい無感覚で、のっぺらぼうだ。
こういう状況に挑む時は本当に体力と気力を使う。
下手をするとブラックホールに入って出られなくなってしまう。
ここで本当の力が試されるのだけど、そこから先は書かない。
感覚的な話になりすぎて書いても分からないだろう。
でも、ブラックホールにものっぺらぼうにも対処の仕方はいくらでもある。

ここでなぜこの話をしたかと言うと、
現代に生きる多くの人のこころが弾力を失っているのではないか、と感じるからだ。
成熟して、多くのものを必要としなくなることと、
こころの不感症で欲望がないのとでは全く意味が異なる。

まずは、もっともっと、高い経験があり得ること、
上には上があることを知って、
一流のものに触れていくことが大切なのではないだろうか。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。