寒いけれど朝はよく晴れて気持ちがいい。
昨日のアトリエでアキさんが登場するなりじっと僕の顔を見て、
「佐久間さーん。ゆうた君元気」
「ん。元気だよ。三重に慣れて楽しそうだって」
「三重に?三重になんやっけ。三重になんていった?」
「慣れて来たって。最初は不安だったみたいけど、慣れて落ち着いたって。」
「あーー。そやことかあ。よかったお。それだけ心配してたお」
こういう時の雰囲気は全く言葉にできない。
でも、アキのやさしさが本当に嬉しい。
ゆうたがアトリエに来る時は彼女がいつも遊んでくれていたし、
今から来るよ、と言うと一番楽しみにしていた。
ゆうた君に、作ってあげる、と色んなものを作ってくれた。
ゆうたにはアキの人間としての素晴らしさが分かるらしく、
他のどんな大人や子供より心を許していた。
アキは作家性も強い人なので、創作に集中する時だけは誰の動作にも反応しない。
ゆうたに、今から描いてくるからちょっと待っててね、と語りかける大人の表情。
それでも、描きながら、ゆうたを時々、ちらちら見ている。
「カワイなあ。うん、カワイいいからしょうがない!」
とスケッチブックを閉じて、立ち上がりゆうたの方に走っていくこともあった。
時に創作と子供への愛で揺れ動く、母なる作家のようでもあった。
よし子よりも過保護で、ゆうたの前を歩きながら、
頭を打たないように手で支えながら「ゴツしますよー」とついていく。
そんな愛情たっぷりのアキさんだったから、
ゆうたがいなくなって寂しいのだろうと、どんな言葉をかけてあげようか、
僕は少し迷っていた。
でも、「よかったお。それだけ心配してたお。」と言った彼女は、
そのまま絵を描きだした。何かを振り切ろうとする構えもまるでなかった。
言葉の通り、心配してくれていて、元気で良かったと安心したようだった。
この心構えを見習いたいと思う。
僕自身はまだまだ寂しかったが、彼女の振る舞いを見て、
本当にそうだな、そうあるべきだなと思った。
何度も書いていることでもあるけれど、
彼らの精神性の偉大さをもっと知ってもらいたい。
僕のところには悩める人々がたくさん来る。
話を聞いていて感じるのは、場についていつも考えることと一緒だ。
プライドやコンプレックスがいかに意味のない、
マイナスしか生み出さない感情か、いつも思う。
プライドやコンプレックス(この2つは同じものの異なる現れ方で、元は一緒だ。)
の原因は恐れだと、何度か指摘して来た。
もう一つ言えることは、
みんな、何かであらねばと思いすぎている。
だから何者でもあれない自分に悩んでいる。
何か出来なければ、人に認められないと感じている。
それは、比較であり競争意識だ。
何者かであれたら、人より上だと思いたがる。
こういう繰り返しは何も生み出さない。
たとえ、何者かになって、人から認められても、
持続していく為に更なる不安が生まれてくるはずだ。
何者かであろうとすることって、ななんだろう。
仕事が自分だとか、これが出来る自分にすがろうとする心理。
前回、何もしない時間について書いた。
何もしない。何者でもない。
それは私達の本当の姿だ。
着飾って、何か他のものに見せかけようとして、使っているエネルギーを、
今、ここにいる時間に使ってみてはどうだろうか。
僕自身は恐れも不安も、コンプレックスもプライドも、
ほとんどない。
ゼロだとは言えないだろうが、何かを邪魔するほど心を占領されてはいない。
かといって、自信がある訳ではない。
ただ、自分が何かであろうとしないだけだ。
そうすれば、悩むこともない。
僕は別に何かが出来る訳ではないし、どこか人より優れたところがある訳でもない。
それで良いと思っている。
それでも楽しいことはたくさんあるのだから。
自分がいる意味を考える必要はない。
ただ居ればいい。
僕はそのことをダウン症の人たちから学んだのだと思う。
表現、という言葉をこれまで何気なく使って来たが、
ここでの作家たちは、何か表現しなければならないものを持っている訳ではない。
ただ、自然に筆を持って戯れている。
その瞬間が楽しいから描いているだけだ。
絵を描くことで、自分を認めてもらおうという心理とは無縁だ。
だから、結果、あの様な素晴らしい作品が生まれる。
意図を捨てること。作為を持たないこと。
執着しないこと。
ただ、素直に気持ちよくあればいい。
自分も人も、周りの環境も自然に楽しくしていく。
そんな生き方が理想だ。
繰り返すが、そういう存在がダウン症の人達であり、
僕らのこころの中にもそんな世界がある。
夜、時間がある時は最近音楽ばかり聴いている。
ビリーホリデイからピアソラ、
今はレゲエやダブといったジャマイカの音楽が身体に入ってくる。
これは最近のことだ。
ずっと昔に初めてレゲエを聴いた時は、リズムが謎だった。
ミステリアスだからひかれた。
でも、そんなに集中して聴く機会はなかった。
ある時にあの低音や歪みや揺れは、ジャマイカの海の波から来たのでは、
と思い始めた。そこにアフリカの大地の鼓動も加わっている。
謎が多い音楽だが、どこか遠いところに連れられて行く。
遥か昔に帰っていく様な感覚だ。
そこにはもはや時間も存在していないのではないか、とまで思う。
いくら音楽を聴いても、無音にするとあの川の音が聴こえてくる。
身体が川の音を記憶している。
川の音を聴きながら、身を委ねていると、いつの間にか眠っている。
草木はただそこにあるだけ、居るだけだ。
意味や目的を追い求めすぎて、何者かでなければならないと思っていると、
本当の美しさ、自然の流れが見えなくなる。
僕達は目の前にある物事を、本当に見ているだろうか。
素直に向かっていけば、
色んなことが見えてくるし、現実がたくさん教えてくれる。
何者かであろうとしなくても、場に入ればやることはいくらでもある。
場が自分を受け入れ、自分にこうあれ、と教えてくれる。
そして場はどこにでもある。今、居るところが場だ。