2013年1月13日日曜日

ただ居ること

寒いけれど朝はよく晴れて気持ちがいい。

昨日のアトリエでアキさんが登場するなりじっと僕の顔を見て、
「佐久間さーん。ゆうた君元気」
「ん。元気だよ。三重に慣れて楽しそうだって」
「三重に?三重になんやっけ。三重になんていった?」
「慣れて来たって。最初は不安だったみたいけど、慣れて落ち着いたって。」
「あーー。そやことかあ。よかったお。それだけ心配してたお」

こういう時の雰囲気は全く言葉にできない。
でも、アキのやさしさが本当に嬉しい。
ゆうたがアトリエに来る時は彼女がいつも遊んでくれていたし、
今から来るよ、と言うと一番楽しみにしていた。
ゆうた君に、作ってあげる、と色んなものを作ってくれた。
ゆうたにはアキの人間としての素晴らしさが分かるらしく、
他のどんな大人や子供より心を許していた。
アキは作家性も強い人なので、創作に集中する時だけは誰の動作にも反応しない。
ゆうたに、今から描いてくるからちょっと待っててね、と語りかける大人の表情。
それでも、描きながら、ゆうたを時々、ちらちら見ている。
「カワイなあ。うん、カワイいいからしょうがない!」
とスケッチブックを閉じて、立ち上がりゆうたの方に走っていくこともあった。
時に創作と子供への愛で揺れ動く、母なる作家のようでもあった。
よし子よりも過保護で、ゆうたの前を歩きながら、
頭を打たないように手で支えながら「ゴツしますよー」とついていく。

そんな愛情たっぷりのアキさんだったから、
ゆうたがいなくなって寂しいのだろうと、どんな言葉をかけてあげようか、
僕は少し迷っていた。
でも、「よかったお。それだけ心配してたお。」と言った彼女は、
そのまま絵を描きだした。何かを振り切ろうとする構えもまるでなかった。
言葉の通り、心配してくれていて、元気で良かったと安心したようだった。

この心構えを見習いたいと思う。
僕自身はまだまだ寂しかったが、彼女の振る舞いを見て、
本当にそうだな、そうあるべきだなと思った。

何度も書いていることでもあるけれど、
彼らの精神性の偉大さをもっと知ってもらいたい。

僕のところには悩める人々がたくさん来る。
話を聞いていて感じるのは、場についていつも考えることと一緒だ。
プライドやコンプレックスがいかに意味のない、
マイナスしか生み出さない感情か、いつも思う。
プライドやコンプレックス(この2つは同じものの異なる現れ方で、元は一緒だ。)
の原因は恐れだと、何度か指摘して来た。
もう一つ言えることは、
みんな、何かであらねばと思いすぎている。
だから何者でもあれない自分に悩んでいる。
何か出来なければ、人に認められないと感じている。
それは、比較であり競争意識だ。
何者かであれたら、人より上だと思いたがる。
こういう繰り返しは何も生み出さない。
たとえ、何者かになって、人から認められても、
持続していく為に更なる不安が生まれてくるはずだ。
何者かであろうとすることって、ななんだろう。
仕事が自分だとか、これが出来る自分にすがろうとする心理。

前回、何もしない時間について書いた。
何もしない。何者でもない。
それは私達の本当の姿だ。
着飾って、何か他のものに見せかけようとして、使っているエネルギーを、
今、ここにいる時間に使ってみてはどうだろうか。

僕自身は恐れも不安も、コンプレックスもプライドも、
ほとんどない。
ゼロだとは言えないだろうが、何かを邪魔するほど心を占領されてはいない。
かといって、自信がある訳ではない。
ただ、自分が何かであろうとしないだけだ。
そうすれば、悩むこともない。
僕は別に何かが出来る訳ではないし、どこか人より優れたところがある訳でもない。
それで良いと思っている。
それでも楽しいことはたくさんあるのだから。

自分がいる意味を考える必要はない。
ただ居ればいい。
僕はそのことをダウン症の人たちから学んだのだと思う。

表現、という言葉をこれまで何気なく使って来たが、
ここでの作家たちは、何か表現しなければならないものを持っている訳ではない。
ただ、自然に筆を持って戯れている。
その瞬間が楽しいから描いているだけだ。
絵を描くことで、自分を認めてもらおうという心理とは無縁だ。
だから、結果、あの様な素晴らしい作品が生まれる。

意図を捨てること。作為を持たないこと。
執着しないこと。
ただ、素直に気持ちよくあればいい。
自分も人も、周りの環境も自然に楽しくしていく。
そんな生き方が理想だ。
繰り返すが、そういう存在がダウン症の人達であり、
僕らのこころの中にもそんな世界がある。

夜、時間がある時は最近音楽ばかり聴いている。
ビリーホリデイからピアソラ、
今はレゲエやダブといったジャマイカの音楽が身体に入ってくる。
これは最近のことだ。
ずっと昔に初めてレゲエを聴いた時は、リズムが謎だった。
ミステリアスだからひかれた。
でも、そんなに集中して聴く機会はなかった。
ある時にあの低音や歪みや揺れは、ジャマイカの海の波から来たのでは、
と思い始めた。そこにアフリカの大地の鼓動も加わっている。
謎が多い音楽だが、どこか遠いところに連れられて行く。
遥か昔に帰っていく様な感覚だ。
そこにはもはや時間も存在していないのではないか、とまで思う。

いくら音楽を聴いても、無音にするとあの川の音が聴こえてくる。
身体が川の音を記憶している。
川の音を聴きながら、身を委ねていると、いつの間にか眠っている。

草木はただそこにあるだけ、居るだけだ。
意味や目的を追い求めすぎて、何者かでなければならないと思っていると、
本当の美しさ、自然の流れが見えなくなる。
僕達は目の前にある物事を、本当に見ているだろうか。

素直に向かっていけば、
色んなことが見えてくるし、現実がたくさん教えてくれる。

何者かであろうとしなくても、場に入ればやることはいくらでもある。
場が自分を受け入れ、自分にこうあれ、と教えてくれる。
そして場はどこにでもある。今、居るところが場だ。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。