2012年11月27日火曜日

川の音など

来客者がちらほら。
色んなお話をする。
絵のこと、教育のこと、福祉のこと。
今の社会でおきていること。

この場所が何か良いものを持っていてくれて、
それが世の中に広まっていく事が出来れば。

たった1人の人でも、人に会って伝える事は大切だ。

急に寒くなったので悠太の機嫌が悪く、よし子から一時も離れない。
睡眠不足も続いているので、なるべく早く休みをとって交代してあげたい。

しかも、今年のAEPニュースがギリギリの時間にきている。

日曜日の午前のクラスで、
なおちゃんが「しゅうへい君としんじ君ってケンカばっかりしてますね」
と言う。(本当は名字で言っていたが、僕は名前で書くので直しました。)
そういうなおちゃんも2人を知り尽くしてるなあと思う。
その午後のクラスでしゅうちゃんとしんじ君は、
相変らずの掛け合いを楽しんでいた。
勿論、これはケンカではなくて、遊んでいるのだけど。
まさしくなんでも言い合える関係だ。
ちょっと見ただけだと、しゅうちゃんの方が優位にたっているようだが、
実際はしんじ君も言いたい事をいったり、
しゅうちゃんに何かを言わせようとじゃれたりしている。
実はしゅうちゃんの方が気をつかっている。

ハルコ、アキの関係もそうだ。
こちらは仲良く、言い合うような場面もないけど。
2人で話し合っているのを聞いていると、アキの意見の方が強いのかなと思っても、
結局、最終的にいつもハルコの意見に決まっていくようだ。
2人とも、お互いを良く知っていて配慮している。

修ちゃん、しんじや、ハルコ、アキのような、関係はうらやましいくらい素敵だ。

その日のしんじの制作も凄かった。
描いている時の孤高の雰囲気は、その場面を見た事のない人には想像出来ないと思う。
彼の普段の姿からも分からないだろう。
それ位、作品に向かうときの彼は別人のようだ。

てる君にしても、ゆうすけ君にしてもそうだけでど、
この凄みは普通の人には全く知られていない類いのものだ。

だからといって見せるということではないが。

この前、雨が降っていてずっと曇っていたのが、
急に日が射して来て明るくなった。
その時間は全員が同時に外に注目していたのだけど、
みんなとアトリエ自体がフッと輝くような感じだった。
ハルコ「パパ、お空からアイロンかけてるね。」

この前、川の音のことを書いたら、それからしばらくかつて聴いていた、
その川の音が聴こえてくる。

てる君の作品に「かわのさかなのやまのぼり」というのがある。
作品もタイトルもてる君の自由で透明な空気を伝えてくる。
こういうのは説明したり分析したりしない方がいいなあ。
でも、この透明感は川の水みたいだ。

久しぶりにまた夢をみた。
僕はたくさんの子供達と遊んでいる。
子供の合宿のような感じで、僕は子供達をみる役割のようだ。
いつものようにただ、子供達と遊んでいるだけなのだが、
僕の意志を直接伝える事はない。
一人リーダーの少年がいて、
彼に何かを伝えれば他の子供達に伝わるようになっている。
でも、僕がその少年に何かを言う必要はない。
その少年と僕は特別な関係のようで、僕が思った事はすべて、彼には分かるのだ。
少年はとてもやさしく、大人のように振舞うのに純粋で汚れがない。
彼といると彼の方が僕を擁護しているように感じる。
懐かしいのに実際にはあった事がない。
夢の中では完全に知っているのに、会った事がない少年。
唯一登場するおじさんが僕に、
「あの少年は変わっているねえ。あんなに賢いのに純粋さを持ち続けている。」
と語りかける。
寝ているときか、うっすら起きたときかに、
もう子供達がいなくなった後で僕は考え続けていた。
あの少年は誰だろう。あ、あれは多分、悠太だ。
だからあんなに懐かしい感じがしたんだ。

さっき、てる君のお母さんから電話があった。
お休みの連絡だったのだけど、
てる君がよし子さんと佐久間さんが元気か聞いて欲しいと言っているという。
本当にやさしさとか、相手を思う気持ちってこういう事だなあと思う。
小さなことだけど、これだけで伝わることがたくさんある。
そして、それはどんなにささやかでも、大きな出来事よりはるかに価値がある。

今日はよく晴れた。
コンクリートに落ち葉がいっぱい。
紅葉した葉っぱや緑の葉っぱが風でゆれている。

ハルコ「アキ、てんぷらみたい」
アキ 「ににがー」(なにがー)
ハルコ「アキ、こえか」(こえが)
アキ 「にーー」
ハルコ「アキたべたーい」 

2012年11月25日日曜日

分からない

早起きは三文のとく、という言葉は日の出が見られるからだろうか。
犬の散歩コースを変更して、あんまり朝日がきれいなので反対方向へ歩く。
これを書いている今もまだ朝日の力はある。
光の透明感、神々しさ。
少し標高のあるところに暮らしていた頃は、
どんなに夜が遅くなっても日の出が見たくて早起きしていたこともある。
日の出の光。透明な、赤でありオレンジであり黄金の色。
それはいつまでも特別な何かだ。

そういえば先日は、これも唖然とするほど美しい黄色を見た。
紅葉した銀杏なのだけど、輝きが凄くて別次元のようだった。

美しいものって、変ないい方だけどがっちりと存在していないような気がする。
あわいというか、あるか無きかのような。
ある意味で存在が薄い。存在感は強いのだけど。
それに少しの時間しかもたないで、すぐに消えて行くものが多い。

毎日、絵を見ていても、やっぱり描き上がる瞬間や、完成したばかりのものは、
特別な美しさを持っている。
色が乾くと少し衰えるという物理的な要因ばかりではない気がする。
その時間のそのプロセスの中でしか見えない何ものかを、
その場にいる人達は感じるのではないだろうか。

土曜日のアトリエ、久しぶりにゆうすけ君の絶好調の作品。
彼は描き続けて、今では円熟した作品になっているが、
色んなことを経験して、深みがでたぶん、
初期の頃の明るく健康的な力は少し失ってしまった。
今は今にしか描けない世界があるのだから、それはそれでいい。
でも、こうして時々、初期の頃のような感覚と、
今の彼の世界が良いバランスで融合するときがある。
描いている時、やっぱり日常での彼とは全く違う次元にいる。
たたずんでいる雰囲気は僕らなんかとは格が違う存在なんだなと思わせられる。

最近、ハルコがよく「佐久間さんザズ聴いてね。佐久間さん好きそうなザズ」
と言う。ザズはジャズ。
「佐久間さん、きのう聴いたよ。デーブス」
「マイルスデイビス?」「そう」

頭の中で何度も何度もリフレインされるフレーズがある。
バグスグルーヴという曲。
マイルスとモンクが共演したものだけど、
ある時期、この曲を聴きすぎて歩いている時はほとんど頭の中で、
曲がなり続けていた。マイルスは芸術的な繊細な演奏で素晴らしいけど、
ここではやっぱりセロニアスモンクが凄い。
モンクのリズムは不思議な魅力がある。
いくら聴いても分からない音楽だ。

分からないという感覚は実はとても気持ちがいい。

そうだ、実はこのことだけは書いておきたいと思って書きはじめた。
忘れてしまいそうなので書いておこう。
これも確かな情報ではないのだけど、
かなり前に本屋さんで立ち読みしていて、
そのまま出て来てしまって、今ではもう調べようもなくなってしまった。
不思議なことに時々、その事を思い出してしまう。
ちょっと気になるテーマなのかも知れないが、
かといってそれ以上調べる気もおきないことは事実だ。

なんという題名の本だったか、それすら憶えていない。
もしかしたら、その時読んだ数冊の本がまじった記憶かも知れない。
とにかく、宣教師がアマゾンかどこかの奥地へ行った調査の記録だ。
確か、言語学とか、言葉を研究しにいったのだったか。
そこで、こんな話しがあった。
人間というのは明るくなったら目覚め暗くなったら眠る。
それは体内の機能がそのように出来ている。
詳しくは知らないが交感神経が副交感神経と切り替わったりとか、
生理的な動きというものは、この昼と夜のバランスで成り立っている。
人間の身体は自然に順応してこういうバランスになっている。
でも、この事実を覆す人達も生きていると言う。
そこで暮らしている人達には昼とか夜とか、そういう区分がないらしい。
暗い時間に連続して寝ると言うこともない。
そうなってくると現代の医学でいう、
生理的な「本来の人間の機能」というのも絶対ではない。

この人達は更に言語学上も、学説を覆す特徴を持っていると言う。

こうやって、人間を分析して研究して、
こうなっていたと分かって来たことでも、
それに全くそわない生き方をしている人達が、この世界のどこかにはいる。

こういうことは、本当に面白いなあと思う。
簡単に片付けたくはないけど、つまり、そう簡単に分からないぞ、ということだ。
人間なんてそうそう分からないよ、と。
そういう事実を知ると、むしろ、面白いし、人間はいいなあと思う。

例えば、寝ない人達とか、食べない人達がいても何の不思議もない。
(そういう個人がいるという話しはあるようだが、ここで言っているのはあくまで文化とかそういうレベルでのこと。)

人間はこうやって出来ているから、こうするのが正解とみんな思っているけど、
実は結構思い込みである可能性が高い。

そんな中で例えば、ダウン症の人たちを一般の社会のルールに適合させれば、
それでいいと考えることになんの疑問も抱かない。
さらには、産まれる前から、診断して、それで、一体どうしたいのだろうか。

実は何も分かっていないし、もっと違う在り方も出来るかも、
という感覚は多くのものを与えてくれるだろう。

僕はダウン症の人達と過ごして来て、
たくさんのことに気づかされて来たし、
見えていなかった多くのものが見えるようになった。
存在すら知らなかった世界を認識することが出来るようになった。

だから、ないことになっているけど、他の世界もあるということを言いたい。
もう一つの世界と言っても良いけど、こっちの方が豊かだよ、と言いたい。

まあ、そういうテーマはこれまで随分書いて来た。

そう、そのアマゾンかどこかの人達は、
自分とか他人とかを分ける言葉を持たないらしい。
言葉がないと言うことは、そういう認識がないということだろう。

さて、自分と他人を分けたところで何が分かるのだろうか。
そんなことを考えると、彼らと私達ではどちらが正解か分からない。
というより正解など存在しない。

分からないという感覚を持つことは良いことだ。
分からない時は感覚が敏感になるし、こころが動く。
分かるときや知っているときは実は人間としての能力は弱まっているのではないか。

僕自身は今日もダウン症の人たちの制作に向き合うが、
ここでも、何も分かってはいないのだ。
場に入れば、自分が何をすべきかは分かる。
でも、なぜそうなのかは分からない。
言い換えれば、何も分からないのに、どうすれば良いか分かる。
これは作家たちもみんなそうだ。
この場で何をすれば良いのか、みんな分かる。
何も知らなくても、出来る。
分からないで分かるというか、
分かる分からないというのとは違う分かり方で分かる。
(これも何だか分からないか)

分からないことはいいことだと思う。
少なくとも分かるという思い込みよりはるかに楽しい。

2012年11月24日土曜日

川の流れのように

模倣すること、というタイトルにしようと思ったが、やめておこう。
今後は少し書き方を変えていきたいと思う。
何かついての考えをちょっと纏め過ぎたかな、と思っている。
体系をつくって、そこから物事を見ていきたくはない。
それより、その時々、日々の出来事や思ったことを、
結論は見えなくても今の考えに忠実に書いていってみようかな、と。

考えてみれば、答えも結論もない、こころや生き方をテーマにしているのだから。

模倣というのは、最近、環境についてやあれやこれを考えたりしているので、
以前このブログでも書いたが、
人はなぞる、くり返すということを、考え直してみたいと思った訳だ。
1人の人間のこころは周囲の環境や、そばにいた人達の思いをなぞる。
模倣する。
だからこそ、環境が大切だ。

変奏曲というジャンルがある。
同じ主題が様々な形に変奏されていく。
上手く出来ている曲だと、本当に自然な流れで、
一つの主題が多様な姿をとって、でもやっぱり同じ主題だと納得する。

ダウン症の人たちの描く世界も変奏曲のようだ。
いつも最初に現れる主題は一つでそれが変奏されていく。

それから、
同じフレーズがリフレインされながら、変化したり、
突如、インスピレーションがわいてきて、他のフレーズと重なり、
渦巻き、新しいフレーズがまたリフレインされ、次の閃きをさそったり、
という感覚ではジャズのようでもある。

模倣と言っても、反復といっても、くり返すことで、
他の要素が次々に加わって来て発展していくことは確かだ。

でも、リフレインされる部分、反復される部分なくしては、
その後の無限の展開もまたないのだろう。
模倣し続けることも大切だ。
良い感覚なり、心地良いリズムを見つけたら、くり返し何度も浸っていればいい。
そのうちに自分の中に刻み込まれてくるものがある。

いつも、客観性や冷静さを重視して書いているが、
それは実は僕自身が主観を信じきらなければならなかったり、
対象と一瞬にして一体化しなければ成り立たないような仕事をしているからだ。
客観性や冷静さを捨てて、深く入って行かなければ出来ないことをしているから、
そこから一度離れたらバランスをとる必要がある。
そういう意味で、人一倍、客観性や冷静さが大切になってくる。

いつも書くがどちらかではいけない。バランスだ。
男性性と女性性とか、みんなバランスだ。

そういう意味では、今の時代は、
むしろのめり込むほどの主観性のほうが欠落しているのかも知れない。
すべてが情報として処理されているような気がする。
上手く整理整頓しても分からないことはたくさんあるはずだ。
これしかないという強烈な体験をした方が良い。
分析なんて後ですれば良いのだし。
騙されまいとしすぎていないだろうか。
体験とは、間違いをおかしやすいものだ。
だからといって間違えまい、騙されまいと思っていてはどこにも行けない。
一度、騙されても良い、間違えても良いくらいの入り込みは必要だ。

これ以外にないという思い込み。
一度、そこから見てみることで、実はその後の客観性も深くなる。

惚れ込むという体験。
惚れ込んだ人であれ、音楽であれ、絵であれ、本であれ、
一度はそれに浸りきってそれ以外なくなるところまで同化してみる。
ここは良いけど、この部分はあんまり良くない、という入り方はしない。
惚れ込んだら、丸ごと取り込む。
何度も何度も、そのものに見を浸し、寝ても覚めても、そればかり。
くり返し、反復し、模倣する。
いつか対象と一つになって、同じ呼吸をしている。
その対象から物事を見たり感じたり出来るようになっている。
そういう経験をしてから、そこを離れていく。

尊敬する人が居たら、その人がこのことにはどう判断するか、
どんな場面でもその人がどう考えるか、まで感じてしまう。
息づかいまで体感してしまう。
そんなところまでいってみること。

同じ絵を何度も見た。同じ本を何度も読んだ。
同じ音楽をくり返しくり返し聴いた。
そんな日々に見えていた景色はきっと、自分に刻み込まれている。

この世には良いもの、美しいものはたくさんあるから、
それらを刻み付けて、それらを模倣していく。
でも、人間にとっての模倣のおおもとはやっぱり自然だろう。

何もかもどうすることも出来なくなったら、
自然に帰れば、再び立ち上がれる気がする。
分からなくなったら、自然に立ち返るのがいい。

森の中に入っていって、全身で自然に浸って、
全身で感じること。自然を感じ、自然の奥で何が動いているのか感じとる。
そうするだけで、何度救われたか分からない。

川の流れのように。
言うまでもなく美空ひばりの曲だ。
美空ひばりをそんなに聴いた訳ではないし、全く詳しくはないが、
確か最後の方の曲だろう。だから、歌声は全盛期ほどではないだろう。
別にこの歌を思い出したり、聴いたりした訳ではないが、
急にこの言葉が浮かんで、そうするといつも聴いていた川の音を思い出した。
ただそれだけだ。
川の流れのようにと言っても、川の流れは一つではない。
でも、すべての川は自然のリズムを体現している。
何かリズムが狂って来たら、海や川の音を聴き続ければ良い。
無意識のうちにそのリズムを模倣し、静かで深い呼吸になってくるだろう。

僕の聴いていた川は、怒濤のように激しい流れだった。
ごうごうと強いうねりを伴って、石にぶつかりながら、
勢いを全くおとさず流れ続ける。
その川の音の激しさで、始めてその場所に来た人は眠れない。
僕はその土地を離れて始めて、あの音に気がついた。
あれ、音がしないぞ、となって始めて、音を聴き続けていたことに気づいた。
それ位、その音と流れと一つになっていた。
いくかわのながれはたえずして、という方丈記の文章は、
その言葉自体が川の流れのようなリズムだ。

人は環境を模倣するから、荒れた環境、無機質な環境を変えなければならない。
自然を模倣して、バランスと調和を取り戻したい。

2012年11月21日水曜日

もの忘れ

昨日も、とても良いお仕事をなさっている方とお引き合わせいただいた。
教室が終わった後だったので、出来立ての作品を少し見ていただいた。
これから良い繋がりができればと思う。

土、日曜日の絵画クラスにいる時と、平日のプレクラスにいる時では、
意識の使い方はずいぶん違っている。
自分自身も何か違うものになっている。変ないい方だが。
そこに流れる時間と一つにならなければならない。
だから、そこに流れる時間がその時の自分だ。

もの忘れっていったい何だろう。
時々、もの忘れする。
しまったすっかり忘れてた、というものから、他愛のないものまで。
この前は犬の散歩中に、アレっ自転車がないぞ、確か乗って来たはずなのに、
どこに止めてここまで歩いて来たのだろう、と思って、
ゆっくり思い出しても分からない。
はっとして気がつく。
いやいや、アトリエに自転車を止めて犬だけ連れて来たんだ。
これは、だから何も忘れて来た訳ではなく、勘違いだ。
でも、物忘れのときの感覚と同じ感じがする。

同じように犬の散歩をしていて、帰って来くると、
持っていたはずの散歩用バックがない。
いったいどこに置いて来たのか。手から離すような場所もなかったはずなのに。
自転車に乗って散歩したコースをそのままたどってみる。
やっぱり途中のどこにもない。そう、あの時は持っていたもんなあと思い出すだけ。
ところが最後の方、本当にアトリエの近くまで来て、
曲がり角においてある。
いくら思い出そうとしても、そこの記憶だけない。

忘れてしまっている時、いったいこころの中で何がおきているのだろう。
そもそも、なぜ忘れてしまったのだろう。

言えることは、忘れていたことに気づいたときと、
忘れていたときでは違う時間の流れの中にいたということだ。

何か連続して流れている時間がどこかで切れている。

だからもの忘れをしてしまって、気がつくと、
何やら不思議な感覚になる。
懐かしいような、帰って来たような。
何もない見知らぬ世界にぽんと放り出されてしまったような。

でも、僕はこんな感覚に浸っている時の方が、
本当の世界にいるような気がする。
なぜなら、すっかり染み付いてしまったものの見方を手放せた感じがあるからだ。

ダウン症の人たちが教えてくれていることの一つに、
知っているものとしてではなく、知らないものとして、
この世界を見てみるということがあるような気がする。

場に入るということは、自覚的にもの忘れしてみようという感覚かもしれない。

2012年11月20日火曜日

呼吸

そういう方が多いと思うけど、
何とか年内に終わらせなければならない仕事におわれている。

そんな中でも外の世界の騒々しさから無縁な場所が教室。
ゆっくりとか違う時間という言い方で、ダウン症の人たちのリズムを語って来たけど、
ここでの彼らは一定のテンポがずれない、というのが凄い。
この1年を見ていても、いつでもどんな時でもペースが変わらない。
良い時も悪い時も同じリズムで時間が流れている。
ある意味で乱れないというか。
彼らと一緒にいると落着くという人も多いが、それはこのことと関係している。

彼らの感覚は鋭く、その瞬間を捉え、即座に調和して行く。
制作における即興性も物事を瞬時に見極める素早さも、
とてもスピード感があるものだ。
おっとりした彼らのたたずまい、
呑気そうな雰囲気のどこからあのスピード感が出てくるのか。
一言で言うとそれは軸が安定しているから、瞬時に動きに反応できると言うことだ。
動きのあるものを捉えるときや、即興性には軸の安定感が必要だ。
軸がブレないという状況で始めて、動き変化する流れに対応出来る。

前回、自由学園の環境が素晴らしいと書いた。
あの場所の秘密の一つが建物と自然のバランスにあるのだが、
特に線の安定感によって、不動の場所から外を見ているような感覚になる。
こちらが動かないから自然の繊細な動きが見える。

僕は10代の頃、禅寺でお坊さん達と一緒に生活させてもらっていた時期がある。
あの日々を思い出す事があるが、あれもブレない安定したリズムを見つけだし、
そこから物事に対応していくと言うとと関係している。
同じ時間に同じことをくり返す、全く変わらない日々が退屈かと言うと、
実はそんな事はない。普段よりもっと自然の変化を感じることが出来る。

疲れると呼吸が乱れる。緊張すると呼吸が乱れる。
同じ呼吸を保つことはなかなか難しい。

リズムというのは呼吸のことだ。

一定のリズム、テンポ、呼吸を保つこと。
作家たちの制作に流れている時間と出来上がった作品はその事を示している。
現代人の日常はリズムが乱れに乱れている。
色んな問題はそんなところからも来ているのだ。
ちょっと落着いて、と誰かが言わなければならない。

場を整えるという私達スタッフに要求されることも、
ここで言った安定したリズム、呼吸によって、いつでも安心出来る空間を創ることだ。

2012年11月19日月曜日

センスオブワンダー

寒い。寒いし薄暗い。
すっかり静かになった。

日曜日のアトリエ、午前のクラスも午後のクラスも、
制作に関してはみんな絶好調だった。
体調的には風邪ぎみの人が多かったけど。
絵具を片付けていてビリジャン(緑)の減りの多さに驚く。
クリスマスツリーだ。
それで本当にクリスマス頃になると、鏡餅とかが描かれる。
少し季節を先の季節を描く場合が多い。

金曜日に悠太は1才になった。
長い長い一年だった。
いつでも本当にかわいくて、本当にやさしい子だ。
真っすぐに一生懸命、ただ大きくなろうとしている。

よし子にとっては辛い日々だっただろうし、今でもそれは続いている。
アレルギーがあるために、普通の子より、気を遣い続けなければいけない。
夜の授乳も2時間間隔は今でも変わらない。
食べてくれたり、なかなか食べなかったり、
しばらく良くなっていたのが、また痒くなってきたり。

僕は仕事以外の時間は一緒にいて、なるべく悠太をみているけど、
それくらいでは彼女の負担は減らないと思う。
会社に出勤という仕事ではないのでちょっとは良いかもしれない。
少しの時間ならアトリエで面倒を見ることも出来るし、
みんなにとっても悠太にとっても、場にとってもそれは良いことだ。
でも、ずっとアトリエで過ごすというわけにはいかない。
制作の場の質を保つことは、そんなになまやさしいことではない。
両立するのはやっぱりどんな仕事であっても難しい。

よし子にも悠太にも日々支えられて感謝だ。

三重から一日だけ肇さんが来てくれたので、一緒に過ごすことができた。
そして、悠太の誕生日に自由学園の展示に連れて行ってもらった。

アキさんが作ってくれた折り紙のケーキをテーブルにおいてお祝い。
悠太はケーキはアレルギーで食べられないので、このケーキは嬉しい。
(アレルギー源が多いので、一般のアレルギー対応の食品もだめ)

自由学園の校舎には始めて入った。
生活に根ざした教育観は知っていたし面白いと感じていたけど、
そういった思想より、環境そのものの方が多くを語っている。
教育で最も大切なものは環境なのだと再認識した。

建物の高さ、形、窓の位置、縦と横のライン、
建物と建物の距離感、自然とのバランス。
それらすべてが自然に無意識のうちで人を育てていく。
調和の感覚だ。
どの位置にいても自然が感じられる。
人は自然の一部であり、自然の方がはるかに大きいという、
当り前の事実を忘れさせない。
巨大な建物は人を傲慢にする。
そうした環境では人間中心の意識しか育たない。
謙虚につつましくあれと言うなら、それを言葉で教育してもだめで、
それをデザインしなければならない。

教育は知識を詰め込むことではない。
技術を磨くことですらない。
もっとそれらのもととなる感覚を養うことだ。
知ることより、知りたいという気持ちを育てなければならない。
人はどんな事物からでも学ぶことが出来る。
学ぶための姿勢と感受性を持ちさえすれば。
まさしくすべての出発点はセンスオブワンダーではないだろうか。

学問も芸術も科学もあらゆる人の営みの原点にあるもの、
それがセンスオブワンダーだ。
自然への驚きと好奇心の感覚さえ養われれば、
学びも創造も自発的にうまれてくる。
逆ではいけない。

大人がしなければいけないことはことは、
子供達が大きなものの気配を感じとることが出来る環境をつくること。
きっかけをつくること。それから一緒になって好奇心を持つこと。
一緒に追求すること、一緒に学ぶことだ。

よく見ること、耳を澄ますこと、感覚を開いて、
感じること。
そのための場を創らなければならない。

ダウン症の人たちの世界の豊かさの秘密は、
このセンスオブワンダーにある。
彼らと一緒にいて、一緒に感じてみればすぐに分かる。
私達は思い上がりを捨てて、新鮮な開かれた気持ちを取り戻して、
もう一度、この世界に向かい合う必要がある。
その時には全く違う何かが見えて来るだろう。
いつでも希望はなくならない。

2012年11月17日土曜日

出生前診断

あえて、このテーマにした。
このキーワードで検索した場合、ちょっとでもヒットする可能性があるからだ。
したがって今回はこういったことに関心を持つ方に向けて書いている。
もし、ここで何かを感じてもらえたら、このページの他のブログや、
私達のHPもご覧いただきたい。

さて、出生前診断について以前、あらためて書くと予告した。
この話題に触れるかどうか、実は少し迷った。
それよりも、本分であるダウン症の人たちの可能性を見せたり、
楽しさを伝える取り組みに集中すべきではないか、と。
彼らの持つ世界を伝えていくことがすべてだと思っている。
こういう問題は本筋から逸れていく可能性もある。

それから、出生前診断については、それを反対するにしろ、賛成するにしろ、
(勿論、はっきりと賛成と言える人は少ないだろうが)、
どちらの立場をとるにしても、ややヒステリックになっている人が多い。
ここは冷静に考える必要があるところだ。

でも、そろそろ言わなければならない。
はっきり戦っていかなければならない。
曖昧な議論はしたくないので、まずは立場をはっきりさせよう。
出生前診断については、当然反対だ。

前置きが長くなった。
ここで言う出生前診断とは、例の妊婦の血液からDNAを調べるというもののことだ。

さて、ここでたまたまこのページを開いて読んで下さっている方がいたら、
お聞きしたい。あなたは何を調べようとしているのだろうか。
調べることで何が分かるのか、何を知ろうとするのか。

その前に一つ、今回の検査で分かる部分は本当にわずかであり、
ダウン症以外には幾つかの心臓の疾患他が分かるのみだ。
つまり、これはほぼ、ダウン症検査と言っていいものだろう。
その事を、専門家やこの検査を普及している方々に問い直したい。
ダウン症という特定の人達を対象にした検査を行うということは、
一言で言えば差別以外の何ものでもない。
こういう言動はあまりしたくはないのだが。
技術にたけた専門家こそが、倫理観を啓蒙し、偏見から人々を解放すべきだ。
需要があるから、供給するのでは医療が商売になってしまう。

反論を恐れずに言えば、本来は規制すべきだと思う。

ここからは、出生前診断について考える一般の人達に向けて書く。
まず、親としてあるいは親になろうとする人として、
自分の子供に障害がないことを願い、
産まれて来た子が健常であることを喜ぶ、出来れば、リスクは避けたいと思う。
これは本能であり、誰からも責められるべきことではない。
当然のことだ。
だから、もし出生前診断で確認したいと思ったり、
人やお医者さんからすすめられれば、なおさらそういう気持ちになるだろう。

ただ、ここで一歩、冷静に考えてみていただきたい。
この出生前診断ではダウン症と、他のいくつかの障害が分かるのみだ。
この検査でダウン症ではないと分かったとして、
一度、この様な思考をとってしまうと、不安はどこまでもつのっていく。
ダウン症ではないが、他の障害をもって産まれてくる可能性もある。
それら一つ一つを調べていくことは出来ない。

考えてみると、極端な話、
心理的にはダウン症でなければ産みたいという人がいないとも限らない。
そんな人が他の障害を持った人を産んでしまったら、どうなのだろうか。
怖いと思う。
少し言い方が悪いかも知れないが、ご容赦願いたい。
こういう部分を考えておかなければならないからだ。

そんな訳で、今言われている「生命の選択か、こころの準備か」という議論だが、
あの検査だけでこころの準備はできない。
ダウン症であるかしか分からないのだから。

それでも、準備だと言うなら、指摘しておきたいが、
仮にダウン症であると分かった場合、専門家はどのように説明し、
どのようなケアを行うのだろうか。
その後の対応や方向性が見えていない以上、
これはどちらかと言うと命を選ぶという方向にあるのではないだろうか。

もし、あなたがこころの準備のために、この検査を受けたいと考えるなら、
少しだけ想像してみて欲しい。
確かにダウン症は1000人に1人くらいの可能性で産まれる。
どこに原因がある訳でもないので、誰のところにでも産まれて来る可能性がある。
だから、あなたや私の子供がダウン症である可能性はある。
でも、こころの準備というなら、ダウン症の人達がどんな性質を持っているのか、
知らなければ、知ろうとしなければ意味がない。
今、あなたが想像しているような人達では恐らくないだろう。
そして、他の障害を持つ子供が産まれて来る可能性はもっとあるかも知れない。
そんな可能性がたくさんある。
他の障害を診断出来る方法が開発されれば、それもまた受けるのだろうか。
そういうやり方でこころの準備は出来ない。

出生前診断を受けて、安心して健常な子が産まれたとする。
そこで、少しは思わなだろうか。
その子が産まれる前に、こんな言い方をして申し訳ないが、
ためし、障害がなかったから産んだという意識がわずかに残らないだろうか。

もっと言えば、子供は自分の所有物ではない。
健常に産まれたからと言って、自分の思いどおりにいく訳ではない。
そんなこと当り前だと言うなら、考えてみて欲しい。
産まれる前に障害があるか、ないかをためし(あえてこんな言い方をするが)、
ないことを確認してから、産もうと決める(勿論、障害があっても産むことを選ぶ人の方が多いことは知っているが)ということが、
すでに自分の思う通りの子供であって欲しいということではないだろうか。
産まれる前から条件を確認していこうという意識は、
生まれてからも、子供を能力で計る意識につながる。
技術がこのまま暴走し、親達がそれに翻弄され続けるなら、
出生前に子供の能力まで判断する時代が来るかも知れない。

こころの準備とは、その子がどんな存在であっても、
受け入れ、育てていこうという覚悟ではないだろうか。

ここでは私達が普段テーマにしている、
ダウン症の人たちの持つ素晴らしい世界についてまでは語らなかった。
本当は彼らの描く作品に触れてみて欲しい。

出生前診断がどのような意味を持つのか、
もしかしたらそれはそれぞれ異なるかも知れない。
命の選択なのか、こころの準備なのか。
それも1人1人、それぞれに違う答えがあるだろう。
ただ、世界的に見ていくと、
これによって残念ながらダウン症の人たちが少なくなっていく可能性は高い。
それは避けなければならない。
止めなければならない。
自分達が何をしようとしているのか、知らなければならない。
文明は絶えず失ってから気がつく。
何を失おうとしているのか、よくよく考える必要がある。

私達は本当はまだ彼らのことを知らない。
知りもしないで、可能性を捨てようとしている。
そのつけは自分達に回って来る。

ダウン症の人たちは私達に様々なことを教えてくれる存在だ。
もし、そのことにご関心を示していただけるのなら、
アトリエ・エレマン・プレザンの活動を見ていただきたい。
作品をご覧になっていただきたい。
このブログの他のページもお読みいただきたい。

ここには大きな可能性が潜んでいる。
そして、そのことに気がつきだした人達がたくさんいる。

2012年11月14日水曜日

関わること。関わり続けること。

たっ君は朝、アトリエに到着すると、
「わっはっはっはっはっはー」と大きな声で笑う。
エプロンを付けて座るとすぐに筆をとって、手が動き出す。
本当に自然にさーっと動き出す。
意志で何かをしている感じがしないくらいに。
自動的に物事が進んでいくように。
ぱっと絵具を飛ばしたり、筆をドンっと紙に叩き付けて、
でも、ぜんぜん乱暴な感じがない。
スー、スーっと色が重なっていき、5分もしないで描きあげる。
途中、全くしゃべらない。合間合間に笑う。
お鮨、マグロ、海、がタイトル。
描き終わるとすぐに立ち上がって、今度は粘土でお鮨をつくる。

出来上がった作品はどれも美しい。
彼の制作を見ていると、即興というものが何なのか良く分かる。

多分、生きると言うことにおいてもアドリブは大切な要素だ。

彼と積み重ねて来た即興の制作の記憶。
色が重なる鮮やかで鮮明な時間の流れ、スピード感。
すべてが皮膚に刻まれているようだ。

たっ君は今月いっぱいでアトリエを離れる。
お父さんが海外に転勤で、家族みんなで移動する。

残すところあと一回。
一緒に場に入って、良いものを残そう。

今年ものこすところ後わずか。

みんなとの場の雰囲気や、一人一人の息づかい。
筆の動き、会話、笑い、流れ、何度も何度も形を変えつつくり返す。
みんなで場に入り、場を創り続ける。
自然な流れの中でかたちが生まれ、変化し、また次の形へ向かう。
去年も今年も来年も。

アトリエでの活動も、このブログも最初のころは説明しなればならない事、
話さなければならない事がたくさんあった。
何事も始まりはそうだ。
今は多くの説明の必要を感じない。

良い流れを見極めて、良い流れに入って行けばいい。
流れていれば問題ない。
止まっていなければ、固くなっていなければ。

流れの中でいろんなことを感じる。
関わって来たすべての人の声が聞こえる。
どの瞬間にも、どの時間の中にも、人や思いや、出来事が一つになって、
いつでも語りかけてくる。
すべての時間が同時にあって、すべての声が同時に聞こえている感覚。
関わるということは人に対しても出来事に対しても一つになるということだ。

創造すること、場に入ること、人と一緒に深めること、
プロジェクトを進めること、すべては関わることだ。
生きることとは関わること。
関わることとは関与し、関与され、変化し流れること。
次の瞬間には違うものになってしまうこと。
決して引き返さないことだ。
関わることは、関わり続けることだ。
一度でも関わったものは、折り重なって一つの流れを創っていく。
たくさんの人の顔や情景が、一人一人の呼吸と、
一つ一つの出来事や景色が、重なって、重なって大きな流れの中で、
見えてくる。聞こえてくる。
すべてが一つの身体の細胞のように。一つの海のたくさんの波のように。

それが見えた時、その地点に立った時、
始めて関わること、関わり続けることが何なのかが分かる。

無機質なコンピューター(物質としてのそればかりでなく、人間の頭の中の、意識の中の
機械的合理性)に閉じこもって、本当の関わりを知らない人達。
関わるという運動体に生命体に飛び込んで、参加した方が良い。
それが生きるということなのだから。

2012年11月12日月曜日

暖める

今週からさらに寒くなるようだ。
部屋をなるべく暖めている。

土、日曜日のアトリエでは、みんな本当に良い表情で作品もいっぱい出てくる。
まずは順調。
これから、寒い中での制作なので、別の意識に切り替えていく。
前にも書いたけど、気候や気圧や気温等、外的な条件は重要だ。
それぞれにあった配慮が必要になってくる。

作家もスタッフもどんな条件でも、それを最大限に活かして良いものを創っていく。
そういう場であり続けている。

だからどんな季節も、その季節の中でしか生まれない作品や場が出来る。
でも、仮にスタッフとしてどんな気候条件がいいかと聞かれれば、
まあ暖かいにこしたことはない。
明るくて暖かい季節や天気が良いことは間違いない。

もし、どんな場所でもアトリエが開けて、みんなが来ることが出来るなら、
やっぱり南の島のような環境でやりたい。
これは思いつきではなく、10代の頃、
様々な障害を持つ人達と暮らしていた時から考えていた。
考えていただけではなく、リーダーの方に「沖縄で始めましょうよ」と、
若気のいたりで提案したこともあった。
「君が責任を持って、そこで一生やる気があるなら考えるよ」
と言われて、そのままになったと思う。

あの頃は純粋に、どんな風にすればより良くなるかだけ考えていれば良かった。
みんなが支えてくれていたから、好きなように出来ていたのだと思う。

場や人のこころを考えると、そういう発想になるのだけど、
根が強い僕のような人間にとっては冬は良い季節だ。
むしろ新潟とか寒いところに行って雪を見たくなる。
実際に暮らしていたらどれだけ大変なのかは、経験があるので知っているのだけど。
豪雪地帯で雪が減っているのも寂しいものだ。

さて、そんなことより、具体的にこの季節はどんな心がけが必要だろうか。
外的環境も、内面的な部分でも、とにかく暖めておくことだろう。
身体を暖めることの大切さは東洋医学の多くのジャンルの方が指摘している。
それから、こころを暖めることだ。
自分のものも他人のものも。
やっぱり寒い季節はこころも冷える。
これは事実だ。
逆に暖かい季節は、それだけでこころを暖めてくれるか、
というとこれは言い切れない、というか多分そうはならない。
でも、寒さはそれだけでこころを冷やす。
良く暖めていかなければ、こころが動かない。

お互いを良く見て暖かい場を創っていきたい。

2012年11月11日日曜日

リズム2

さて、リズムについて書きたいが、
前回書いた西洋から生まれた考えの一番深くにあるものについて。
「部分は全体であり、全体は部分だ。」というものだったが、
この思想の凄さについて充分に書くことが出来なかった。
未だに現代アートとか現代音楽と呼ばれているものに、
多くの人が魅力を感じられないで、
ある時代のものには一定の愛好者がいるという事実がある。
それは、この思想が信じられていた、無意識に共有されていた時期の、
芸術、科学、他の様々なジャンルにあった秩序の美しさに由来している。
でも、ここではあっさり書くことしか出来ないが、
その世界観はすでに終わったものだ。
確かに強固な魅力はあるが、まだ意識中心、言語中心の世界観であり、
もっと奥に踏み込まなければ本当のものは見えてこない。

リズムについてだ。
自由について考えて来た、そこで抑圧や既成が自由を歪めていると書いた。
前回から書いている西洋型の秩序も合理主義も、
自然や物事を加工して理性のもとに配置することでバランスを保って来た。
リズムも、そんな中で解釈されている。

でも、本当はリズムこそが自由でありつつ普遍的秩序へいたる道具かも知れない。

リズムについて、これまでも何度か書いてきた。
リズムって何だろう、と考える。
あるリズムに乗っている時、あるリズムを感じている時、
それは確かに目の前に存在している。
でも、捕まえることは出来ない。メトロノームで計ることは出来ない。

音楽にだけリズムがある訳ではない。
リズムは生命体のすべてにあるし、もっと言えばこの宇宙のリズムだってある。

音楽を勉強しても、練習しても、それだけではリズムを見つけることは出来ない。
なぜなら、本当のリズムとはそれぞれの固有のものだからだ。
それは自分の中でしか見つけることは出来ない。

ダウン症の人たちが絵を描く姿をずっと見てきた。
彼らはそれぞれ自分だけのリズムを持っていてブレることはない。
しかも集まった時にそこに秩序がある。
これが本来の自由であり個性だ。
個性、オリジナリティとは人と違うことをしようという努力とは無縁だ。
ちょっと変わったことを考えてみようとか、
そんなレベルの話ではない。
もっと生命体の尊厳のようなものだ。

これも誰かから聞きかじったことだけど、
ボクシングでは打つ引く、フットワークやステップがあって、
リズムがとても大事だそうだ。
そして、普通の選手は相手によってそのリズムが変わるが、
強い選手はリズムが一定でどんな相手と戦っていてもリズムは変わらないという。
これも自分のリズムを持つという形だろう。

生命体は自然界から生まれている以上、この宇宙に通じていないものなど一つもない。
そして、どんな存在も、そこにしかないリズムを持っている。
自らの本来のリズムに忠実であれば、普遍へ通じる。

ここでも教育の問題だ。
学校だけのことではなく、家庭から社会からすべてが無意識でおこなっている教育。
そこでは、はいこの時間にはこれを始めましょうという、
ある一定のリズムを仕込んでいく。
その結果、人は本来の自分のリズムを忘れていく。
ここまで書いて来た人間中心の秩序だ。

本当は自分のリズムを知らなければ、他人や自然のリズムをつかむことは出来ない。
本当の秩序や調和に至ることも出来ない。

リズムを手放してはならない。
妥協したり安売りしてはならない。
それは自分だけのものであり、自然界が与えてくれたものなのだから。

まずは内面的にでも時計を捨ててみることだ。
時計などで時間は分からない。
時間は一つではないからだ。
それはみんな体験的には知っているはずだ。

リズムと時間は多様だ。
生命体一つ一つに与えられている尊厳だ。
リズムは呼吸だ。間でありテンポであるもの。

良い音楽を聴いていると、世界中がその音楽で満たされる。
見えるものすべてが、そのリズムで生まれて来ているように感じる。
それは錯覚ではない。
1人の人間に固有のリズムを通じて、
この宇宙の普遍的なリズムが感じられる。

ある時期、僕はセロニアスモンクとグレングールドの演奏を聴き続けていた。
モンクが頭になり続けているときは、どこを歩いていても、
モンクの間とテンポで世界が感じられる。
グールドの時はまた生きているものすべてや、そこにあり、
流れている事物のすべてがグールドのリズムで見える。
どこにいてもリズムがある。
風邪をひいて寝込んでいる時、ちょうどそのころ重労働が続いて、
身体もあちこちが痛かったり重かったりした時だった。
意識もぼーっとしている中で、音だけは明晰に聞こえていた。
窓の外から見た景色があまりに美しかった。
モンクやグールドのリズムがいたるところにあった。
そのリズムを通じて、生命や宇宙のリズムを聴いていた。

今でも僕はアトリエで一人一人のリズムを感じとることを大切にしているし、
場全体のリズムの重要性も知っている。

お互いを大切にしよう。
環境や自然の声をしっかり聴き取ろう。
そんなことをリズムが教えてくれる。

2012年11月10日土曜日

リズム

年末に向けての作業が始まっているので、
このブログではなるべく大きなテーマや纏まった話は扱わないようにしている。
でも、こんな時期に限って言わなければ、という話題が出てくる。
その一つは出生前診断なのだが、またいずれテーマにあげたい。

それからまたテレビが情報源で申し訳ないが、
先日、インターネットの危険性を訴える番組を見た。
具体的に脳にどのような影響をあたえるのか、という部分まで話していた。

コンピューターに対して消極的な話をすると、すぐに年寄りじみた見解にとられる。
だが、昔は良かったというレベルの話題ではない。
危険性、リスクを考えないで無意識化していくと原発と同じになる。

当然、僕達もパソコンを使っている訳だし、このブログもそうだ。
先日お伝えしたフェイスブックも赤嶺さん、稲垣君の努力で好評だ。
しっかりとした目的の為にビジョンを持って使っていく。
使い方次第だ。

出生前診断にしても、インターネットにしても、
その背景にどんな考えがあるのか見極めた方が良い。
一言で言うなら合理主義だ。
合理主義は地域的に言うなら西洋から生まれた最も強い思考法で、
はっきり言って際限なく暴走する。
すべてに整合性を見つけ、管理し把握出来るものに纏める。
その際、その思考法にとって無駄と思われるものは排除される。

今や西洋だけではなく世界中の人達が、
この思考法を無意識のうちに身につけている。
すべては知ることが出来るし、
分かることが出来ると思い込んでいるのはこのためだ。
こういう考えに毒されていくと、人間はどこまでも自分勝手に暴走する。
便利さのために環境を破壊して来たのはその一例にすぎない。

合理主義的な世界観の中では、
この世界のすべてがその中に収まっているように見えてしまうが、
それは人間の脳みそ、頭の中だけの世界だ。
近代の文明は脳の中に閉じ込められて、その外に出られなくなっている。
その場所で自滅していこうとさえしている。

もう一度、考えてみよう。
今、ここで見えている世界がいかに多様に見えようと、
それは人の創り出した物にすぎない。
本当の自然や世界は私達が知り尽くせるほど小さくはない。

合理主義は西洋から来たと書いた。
だが、東洋人の合理主義の方がはるかに危険だと言える。
なぜなら、西洋の合理主義には背景となる考えがあるのに対して、
東洋にはないから、はどめがきかなくなる。

ここで西洋型合理主義の根幹にどんな世界観があるのか考えてみたい。
それを知っておくことで、この考え方の可能性と限界を見る必要がある。
そして、それを超えて行かなければならない。

ここまで書いて来てふと思うのだが、
ダウン症の人たちや作品となんの関係もない話題だと思う方もいるだろう。
それは違う。
私達からなぜ、ダウン症の人たちのようなこころが失われているのか、
という問題と直結している。
私達が合理主義に毒されていなければ、
ダウン症の人たちのようなこころの在り方がもっと理解出来る。
もっと言えば人間が合理主義によってこころの機能を失う前の、
こころのありようを示しているのが彼らの存在だ。

さて、合理主義の背景にある世界観だ。
これを西洋の思考法の極意と言っても良いかも知れない。
それは西洋型の芸術、科学、宗教、すべてに行き渡った、
ある種、神秘的な世界観だ。
西洋型の芸術、科学、宗教の一番奥にはこの世界観があるし、
すべての道はここへ通じている。
西洋の偉人や天才はすべてここに到達している。
やや難しい考え方だけど、一言で言おう。
この世界のすべてのものは全体へ繋がっている、と言うことだ。
これを最も上手く表しているのが、西洋の生んだ音楽であるクラシックだ。
僕自身も実はクラシックを聴いているときに、このことに気がついた。
だが、クラシックについてそういう角度から語られることはあまりない。
評論家ではただ一人、許光俊という人がこのことをはっきり自覚している。
彼の本はみんないいが、ここに書いたような考え方を分かり易く書いているものに、
「クラシックを聴け」という本がある。
ここで、彼はクラシックの世界観を纏めている。
「部分は全体であり、全体は部分だ」という風に。

クラシック音楽では、曲の中に様々な主題が登場し、
その都度、耳に印象づけるが、意味は分からない。
そういう様々な主題が分からないまま、何か繋がっているなと感じながら、
心地良かったり謎めいたりしながら、音楽はどんどん進んでいく。
そして、最後のクライマックスに至って、すべての謎は解けて、
今までの主題のすべての意味は明らかになる。
すべては一つの絵のパーツだった。その絵の部分だった。
部分が集まって全体の絵になって、その絵が最後に見える。
ここで聴いている人は気持ち良くなるわけだ。

これはかなり深い世界観なのだけど、限界があることを忘れてはいけない。
最後に見える絵が、どれだけ神秘的に見えようと、
実は人知を超えていない。
一つに繋がった宇宙がどれだけきれいでも、
それは人間が創り出したものにすぎない。
完璧な秩序と調和があるが、どこか理性的で人間中心的だ。

前回、自由について書いた。
そことも繋がって来るが、ここにある人間の頭脳が創り出した秩序には自由はない。
自由はこの秩序を壊すだろう。
だから規制する必要がある。
ところが、自由について書いた時にいったが、
この秩序を壊しておくに進んでいったとき、実はもっと本当の秩序がある。
個性についても同じことが言える。

クラシック音楽に現れているような秩序とは、
あらかじめ、自由や個性を抑制し、すべてをパーツにして、
扱いやすくした上で全体を作って繋げていく。
きっちり整合性がとれるように、自然を変形させている。
人間によって創られた秩序であり調和だ。
音を12音階によって把握することも(倍音等、西洋以外のほとんどの音楽で重視されている要素が排除されていることは言うまでもない。絶対音感とは世界中の人間が英語でしか話せなくなっている状況に近い。)、色を補色や色彩論でくくることも、
人の手で扱いやすくするためだ。
勿論、それらはこの宇宙の原理の一部ではあるだろう。
でも、本来の自然界はもっと奥深い。
人間が創ったものではない本物の秩序が存在する。
それは合理的でもなければ、人から見た整合性がある訳でもない。
もっと揺らいでいたり、裂け目があったり、ぶれていたりする中に、
本当の一体感も秩序も存在している。

そんな訳で、人間中心の全体ではなく、一人一人の固有のものがある。
その固有性がリズムだ。

今回も長くなってしまった。
リズム2を書くかも知れない。

2012年11月7日水曜日

自由について2

よし子とゆうたは風邪。
少し喘息もでているので心配。

アトリエも年末に向けて準備やら打ち合わせやら、いろいろ。

朝、ゴミを出しに外へ出ると霧で真っ白だった。
本当に白という色があって神秘的な光景だった。
準備をしてアトリエへ向かう為にもう一度、外へ行くともうあの景色は消えている。
当り前だけどあらわれたものはやがて消えて行く。
美しいものもそうでないものも、いつか消えてなくなることだけは確かだ。

さて、自由について2となっているが、都合上そうなってしまったわけで、
前回はテーマを決めておきながら横道に逸れてしまって終わった。
だから1がある訳ではない。

先日、雑誌の取材の際もお話ししたし、
ラジオでは高橋源一郎さんもお話しして下さったが、
本当の自由にはある種の秩序があるということを、
もう一度、書いていきたい。

あえて本当の自由と書いたのは、自由という言葉は使われすぎていて、
誰しも何度も聞いているのに、その実態を知る人は少ないからだ。
よく勝手気ままにふるまっている人に対して、
「自由の概念をはきちがえている」というが、
では正しい自由とは何なのだろう。

僕自身は人間のこころというものの、様々なタイプの形を見て来た。
それが正しく機能しているときや、歪んでしまった場合、
どのように変化していくのか、ずっと向き合って来た。
そして、結論として人のこころを自由にすること、
自分のこころを自由にすることだけに徹底的に集中したいと思うようになった。
人を不自由にさせてしまっているものを、とことん取り除きたい。

もう一つ、いつも言うようにダウン症の人たちの持つ世界は、
私達の生き方にヒントを与えてくれる。
これまで見てきてそう感じることがおおい。
彼らの世界とは私達が本当に自由になった時、どうなるのかを示している。

なぜ、彼らはあのような絵を描けるのか。
あのようなバランス感覚を持っているのか。
習いおぼえた訳でもなく、色彩や造形の仕組みと言っても良いものを知っているのか。
それは彼らが自由であるからだ。

自由になった時、人は自然界の法則の一部になる。

多くの人は自由を恐れている。
それも気づかず、無意識に恐怖している。
さらには小さな頃からずっとずっと、刷り込まれて来ている事がある。
ああしてはいけない、こうしてはいけない。
大人が子供に限界をつくっていく。

社会も自由を恐れている。
それで、制限をつくり、縛っておこうとする。
既成をつくることで、自由にさせないようにしている。

そのような循環の中で、自由は怖いもの、
自由になることはいけないこと、という無意識の刷り込みが出来あがる。
その結果、本当はどうなのか誰も知らない。
自由になってみなければ、自由が分かる訳がないのだから。

では本当に自由は危険なのだろうか。
もしかして、私達がつくっている限界や制限の方こそ、危険なのではないだろうか。

私達はまず自分を縛り、それから人を縛っている。
お互いを拘束し合っている。
ある意味で催眠術を掛け合っているようなものだ。
よくマインドコントロールという言葉を聞くが、
人のこころと向き合っていく時、
マインドコントロールされていないこころになんて、ほとんど出会うことはない。
それくらい強固に自分と周りをがんじがらめにして限界を作っているのが、
普段の人のこころのありようだ。

すべて取り払って、すべてを元に戻してみること。
すべてを解放してみること。
そうやって本当に自由になった時、実はそこには秩序や調和といったものがある。
考えてみると当然で、
この宇宙がこんなに丁度良いバランスで成り立っているのだから。

言葉にしてしまうと簡単なことだけど、
自分や他人を自由にしていくのはなかなか難しい。
でも、少しづつ、自分にかけているブレーキに気がついていけばいい。
固くなってしまっているこころを、ゆっくり解していくことが大切だ。
自分が自由になれた時、人や周りの環境への見方や関わり方も変わる。

僕達の場合は制作という時間の中で、
一人一人のこころが解放されて、自由になっていくプロセスに夢中になっている。
これは本当に面白い。

2012年11月5日月曜日

自由について

ずいぶん寒くなってきた。
少し早めにエアコンをつけてアトリエをあたためている。

アトリエ・エレマン・プレザンの活動をフェイスブックでも、
発信していくことになりました。
こちらはダウンズタウンプロジェクトとしていますが、
展覧会やイベント等の情報ものせていくことになります。
ボランティアチームの赤嶺さん稲垣君が担当します。
2人のアトリエやダウン症の人達の良さを伝えていきたい、
という気持ちに期待しています。
新しいツールで、新しい視点でこれまでのアトリエや、
これからの情報を発信していってくれるそうです。
アトリエを応援して下さる皆さま、是非ご覧下さい。

日曜日のアトリエでは午前のクラスで、
なつみちゃんの表現がぐんと深くなってきた。
昨日、特におっと思ったのは、まあゆちゃん。
初めからいつもと集中の度合いが違っていたのだけど、
出来上がり間近で、作品に入り込み一体化していく。
色使いや、構成はこれまでいくつかのパターンがあるのだけど、
それが一つになっている。
こうして見ていると、やっぱりくりかえし重ねている行為が、
自己を深めていくということが分かる。
上手くいえないけど、染み込んでいくというか。

ダウン症の人達から、たくさんのことが見えてくるといつも言っているが、
その中でやさしさとか平和とか、
そういう要素は特に何度も触れてきた。
彼らのやさしさは物事に触れる時の手触りの繊細さにあらわれる。
ほとんど毎日、そんな場面を見ているが、
先日もてる君が「佐久間さーん。ドクブリが、ね。ドク、ブリですか」と
僕の後ろから話しかけてくる。
「ん。ドクブリ、あ、ゴキブリいた?」
「あっちに」
少し離れたところでよし子が笑っている。
よし子はずっと見ていたようで、話を聞くと、
てる君がずっと独り言を言っているので見てみると、
彼はずっと陰に隠れているゴキブリを覗いて話しかけていた、という。
「ドクブリなの。ドークーブリですか」と何度も何度も。

そんな訳でアトリエでは今年始めてのゴキブリを発見し、
僕がすぐに退治した訳だけど、
てる君のおおらかさにはみんな感動していた。

以前もアトリエが代々木にあった頃、
ベランダにゴミ袋を出していたらカラスがあさりに来た。
すぐに追い払おうと、立ち上がると、
窓ごしにてる君がカラスと話しだした。
僕達はしばらく見守っていたけど、10分くらいずっと話していた。
にっこり笑いながら「なーに、もってくの、泥棒カラス」。

昨日のクラスでも、描き終わった後で一生懸命、
何度も何度も絵の題名をくりかかえしつぶやいている。
自分で考えたタイトルだけど、忘れてしまうので、
何回も確認している。
「海、山!階段、サッカー!NHK!お家で見たところのNHK!」、と。
「お母さん、今日はこむかえ(おむかえ)こられないから、教えてあげないと」
といって僕の顔をみる。
とてもとてもやさしい目をして考えている。

みんなが帰った後で最後はすぐる君と2人になったのでお話していると、
いつもより考えながら話しているので、何か聞きたいことがあるのかな、
と思っていると、しばらく話してから、
「佐久間君は何か食べるものは、なにが好きですか」と
ゆっくり聞いて来た。
「うーん。何でも好きだよ。」
「じゃあしいたけは好きですか」
「しいたけ、すきだよ」
「今度、学園祭に行くから、佐久間君にしいたけ買ってこようと思って」

そんなすぐる君は昨日、凄いテーマの作品を描いた。
タイトルは「離れた空」。
地球を上から見ていて、横にも前にもいくつかの惑星がある。
ただ単に上というよりは、複雑な角度で描かれていて、
いったいこれを見ている人はどこから、見ているのだろう。
しかも、地球や他の惑星の上に(これも上と言えるか分からないが)青い空がある。
色んな角度から同時に見ているような感じでもあるが、
角度とか、そういう次元を超えてしまっている。
これがシリアスに描かれていたら、また印象が違ってしまうが、
すぐる君お馴染みの可愛くて、ちょっととぼけた、
そして、少し奇妙な感じの作品として描かれている。
これを見ている時、描いている時、いったい彼はどこにいるのだろう。
どこから見ているのだろう。

人に何かをしてあげたいとか、喜ばせたいという気持ちはみんな共通している。
でも、言葉ではなく、行為ですらもなく、
彼らのやさしい気持ちは気配のような感じで、透明感があって、
それに触れた時は切ないような感動がある。

おっと、今日のテーマは自由についてだった。
長くなってしまうので本題は次回にします。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。