2012年11月17日土曜日

出生前診断

あえて、このテーマにした。
このキーワードで検索した場合、ちょっとでもヒットする可能性があるからだ。
したがって今回はこういったことに関心を持つ方に向けて書いている。
もし、ここで何かを感じてもらえたら、このページの他のブログや、
私達のHPもご覧いただきたい。

さて、出生前診断について以前、あらためて書くと予告した。
この話題に触れるかどうか、実は少し迷った。
それよりも、本分であるダウン症の人たちの可能性を見せたり、
楽しさを伝える取り組みに集中すべきではないか、と。
彼らの持つ世界を伝えていくことがすべてだと思っている。
こういう問題は本筋から逸れていく可能性もある。

それから、出生前診断については、それを反対するにしろ、賛成するにしろ、
(勿論、はっきりと賛成と言える人は少ないだろうが)、
どちらの立場をとるにしても、ややヒステリックになっている人が多い。
ここは冷静に考える必要があるところだ。

でも、そろそろ言わなければならない。
はっきり戦っていかなければならない。
曖昧な議論はしたくないので、まずは立場をはっきりさせよう。
出生前診断については、当然反対だ。

前置きが長くなった。
ここで言う出生前診断とは、例の妊婦の血液からDNAを調べるというもののことだ。

さて、ここでたまたまこのページを開いて読んで下さっている方がいたら、
お聞きしたい。あなたは何を調べようとしているのだろうか。
調べることで何が分かるのか、何を知ろうとするのか。

その前に一つ、今回の検査で分かる部分は本当にわずかであり、
ダウン症以外には幾つかの心臓の疾患他が分かるのみだ。
つまり、これはほぼ、ダウン症検査と言っていいものだろう。
その事を、専門家やこの検査を普及している方々に問い直したい。
ダウン症という特定の人達を対象にした検査を行うということは、
一言で言えば差別以外の何ものでもない。
こういう言動はあまりしたくはないのだが。
技術にたけた専門家こそが、倫理観を啓蒙し、偏見から人々を解放すべきだ。
需要があるから、供給するのでは医療が商売になってしまう。

反論を恐れずに言えば、本来は規制すべきだと思う。

ここからは、出生前診断について考える一般の人達に向けて書く。
まず、親としてあるいは親になろうとする人として、
自分の子供に障害がないことを願い、
産まれて来た子が健常であることを喜ぶ、出来れば、リスクは避けたいと思う。
これは本能であり、誰からも責められるべきことではない。
当然のことだ。
だから、もし出生前診断で確認したいと思ったり、
人やお医者さんからすすめられれば、なおさらそういう気持ちになるだろう。

ただ、ここで一歩、冷静に考えてみていただきたい。
この出生前診断ではダウン症と、他のいくつかの障害が分かるのみだ。
この検査でダウン症ではないと分かったとして、
一度、この様な思考をとってしまうと、不安はどこまでもつのっていく。
ダウン症ではないが、他の障害をもって産まれてくる可能性もある。
それら一つ一つを調べていくことは出来ない。

考えてみると、極端な話、
心理的にはダウン症でなければ産みたいという人がいないとも限らない。
そんな人が他の障害を持った人を産んでしまったら、どうなのだろうか。
怖いと思う。
少し言い方が悪いかも知れないが、ご容赦願いたい。
こういう部分を考えておかなければならないからだ。

そんな訳で、今言われている「生命の選択か、こころの準備か」という議論だが、
あの検査だけでこころの準備はできない。
ダウン症であるかしか分からないのだから。

それでも、準備だと言うなら、指摘しておきたいが、
仮にダウン症であると分かった場合、専門家はどのように説明し、
どのようなケアを行うのだろうか。
その後の対応や方向性が見えていない以上、
これはどちらかと言うと命を選ぶという方向にあるのではないだろうか。

もし、あなたがこころの準備のために、この検査を受けたいと考えるなら、
少しだけ想像してみて欲しい。
確かにダウン症は1000人に1人くらいの可能性で産まれる。
どこに原因がある訳でもないので、誰のところにでも産まれて来る可能性がある。
だから、あなたや私の子供がダウン症である可能性はある。
でも、こころの準備というなら、ダウン症の人達がどんな性質を持っているのか、
知らなければ、知ろうとしなければ意味がない。
今、あなたが想像しているような人達では恐らくないだろう。
そして、他の障害を持つ子供が産まれて来る可能性はもっとあるかも知れない。
そんな可能性がたくさんある。
他の障害を診断出来る方法が開発されれば、それもまた受けるのだろうか。
そういうやり方でこころの準備は出来ない。

出生前診断を受けて、安心して健常な子が産まれたとする。
そこで、少しは思わなだろうか。
その子が産まれる前に、こんな言い方をして申し訳ないが、
ためし、障害がなかったから産んだという意識がわずかに残らないだろうか。

もっと言えば、子供は自分の所有物ではない。
健常に産まれたからと言って、自分の思いどおりにいく訳ではない。
そんなこと当り前だと言うなら、考えてみて欲しい。
産まれる前に障害があるか、ないかをためし(あえてこんな言い方をするが)、
ないことを確認してから、産もうと決める(勿論、障害があっても産むことを選ぶ人の方が多いことは知っているが)ということが、
すでに自分の思う通りの子供であって欲しいということではないだろうか。
産まれる前から条件を確認していこうという意識は、
生まれてからも、子供を能力で計る意識につながる。
技術がこのまま暴走し、親達がそれに翻弄され続けるなら、
出生前に子供の能力まで判断する時代が来るかも知れない。

こころの準備とは、その子がどんな存在であっても、
受け入れ、育てていこうという覚悟ではないだろうか。

ここでは私達が普段テーマにしている、
ダウン症の人たちの持つ素晴らしい世界についてまでは語らなかった。
本当は彼らの描く作品に触れてみて欲しい。

出生前診断がどのような意味を持つのか、
もしかしたらそれはそれぞれ異なるかも知れない。
命の選択なのか、こころの準備なのか。
それも1人1人、それぞれに違う答えがあるだろう。
ただ、世界的に見ていくと、
これによって残念ながらダウン症の人たちが少なくなっていく可能性は高い。
それは避けなければならない。
止めなければならない。
自分達が何をしようとしているのか、知らなければならない。
文明は絶えず失ってから気がつく。
何を失おうとしているのか、よくよく考える必要がある。

私達は本当はまだ彼らのことを知らない。
知りもしないで、可能性を捨てようとしている。
そのつけは自分達に回って来る。

ダウン症の人たちは私達に様々なことを教えてくれる存在だ。
もし、そのことにご関心を示していただけるのなら、
アトリエ・エレマン・プレザンの活動を見ていただきたい。
作品をご覧になっていただきたい。
このブログの他のページもお読みいただきたい。

ここには大きな可能性が潜んでいる。
そして、そのことに気がつきだした人達がたくさんいる。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。