2012年6月27日水曜日

深く掘ること

さて、前におおきな木の夢を書いたけど、
そろそろもう一つの夢の話を書こうと思う。

あれから数日後に見た夢だ。
今度は映画館にいる。僕ともう1人誰かが映画を見ながら話している。
画面には様々な景色が映し出されているが、あまりストーリーらしいものはない。
僕はあのおおきな木のことを思い出す。
懐かしいと思う。そして、それが本当にあったことだったのかなあと、考える。
スクリーンはかなり大きくなる。
突然、映像がぶつぎれになり、連続性がなくなる。
すべての場面が明晰にはっきりと映し出されるが、
それら一つ一つは全く繋がりを持たない断片のようだ。
しかも凄まじいスピードでどんどん場面が変わって行く。
見ている側の視点すら、上からになったり斜めからになったり、
瞬間に変わって行く。
スクリーンに映し出されている絵は、どの場面も、そこだけで完結している。
細部がクローズアップで明晰に映し出され、
次の瞬間にはまた連続性のない別の細部にスポットが当たっている。
バン、バン、バン、と場面が変わって行く。

僕は映画をみながら、これだよ、この情景だよ、と思う。
もう1人の人に
「これが僕が以前に一緒に過ごしていた自閉症の人から見た世界だよ」
と説明しているところで夢は終わる。

確かに変な夢なのだけど、僕のテーマそのままな気もしてくる。
この夢では自閉症の人の世界が出てくるのだけど、
ダウン症の人にしても、僕は彼らをただ客観的に外から見ているのではない。
彼らの内面の世界を、絵や場を通して、
多くの人に体感してもらいたいと思っている。

夢では見なかったけど、これがダウン症の人たちの場合はどうだろう。
思い切って描写してみよう。
なんの科学的根拠もない、「感じ」にすぎないので、
こういう風に感じる人もいるのか、くらいに思っていただければ良いと思う。

あの映画で個別のものが細部までリアルに見えていたのとは逆で、
ダウン症の人たちの場合は、細部は曖昧にぼやけている。
あそこでは一つ一つがぶつぎれでなんの連続性もなかったが、
こちらは連続性の方に比重がかかっている。
個別のものは境界があいまいに滲んでいる。
あのスピード感とは反対に、時間が止まっているように感じられる。
どこまでがそのものの固有性なのか判断出来ない程に、
連続性の中に溶け込んでいる。
まるで遠くから見ると一色に見える滲んだ色が、
近付くとわずかにいくつかの色が混ざっている、
でも、それらの色を一色づつに分けることなど不可能なくらいに、
混ざり合っている、という情景のようだ。

さて、この2つの見え方、感じ方、2つの世界は存在している。
誰も証明することは出来ないが、あることは事実だ。
大切なのは、私達が見ている世界だけが唯一のものではないということだ。

ただ、その後にこういう事をどう解釈するかは人それぞれだ。

今回は思い切って、体験的な実証不能な情景を書いてみた。
僕自身は、こういったことは人間とは何か、人間のこころとは何か、
ということを考えるキーだと思っている。
すべては私達1人1人のこころの中にある。

以前、ハルコとの思い出を書いた。
夏の合宿で彼女と石投げをしたり、穴を掘ったり。
あそこで彼女が暗示している「深く、もっと深く掘る」
「お空までと届くまで」ということは、
実は僕の人生の一番のテーマを示しているように思える。

2012年6月26日火曜日

見ることと見えること

さて、書くことは色々あるのだが、今日も少し別の話題。

昨日の夜、以前お世話になっていた共働学舎(現NPO法人)の、
まことさんから電話があった。
メンバーの1人のことで相談だった。
人間関係があんまり上手くいかないという人だが、
話していても人の話題はなかなか出て来ないと言う。
その中で、まことさんは何とか糸口を探すように対話を重ねている。
彼の口から「佐久間さん」という名前だけは登場するという。

彼と出会ったのはもう12、3年も前のことなのに。
今でも思い出すが、あんまり人と話さない彼が初めて会って、
僕としばらく遊んで話してくれたこと。
その夜、彼の部屋へ行くと、彼はもう寝ていたが机の上にノートが広げてあった。
小さな文字で、「今日出会った人。佐久間さん」と書いてあった。

僕はたくさんの人に出会って来たし、責任も強く感じている。

今、進めていることが、いつか誰にとっても良いものになって欲しい。

東京での活動としてかせられている仕事は苛酷なものでもある。
昔のように誰でも受け入れることは出来なくなった。
身体にも時間にも限界がある。
する必要があるのに、出来ないことは葛藤でもある。

でも、今僕達が優先させている活動は間違っていない。

まことさんと久しぶりに話せたことは、楽しい時間だった。
佐久間、変わったなと思ったかも知れない。
僕は僕で、だからまことさん、あまいんだよと思うところもある。

「土地もある。お前がやるなら、出来る環境があるぞ」
「本当に。じゃあ協力して何か創ろうよ。」
「よーし。言ったなあ。一緒にやるぞ。はじめるぞ」
「だからー。僕にももう責任があるんだよ。今、ある場も守らなきゃならない」

こんなことを言ってくれる人は貴重だ。

さんざんお世話になりがら、古い、とか、美意識に欠けるなあ、
とかあまいんだよなあ、とかいつも思ってしまって、
それでも付き合ってくれる人生の先輩がいることは、素直に嬉しい。

僕のような理解のされにくい、どこの馬の骨とも知れない小僧を、
お前、面白いぞ。お前のする事なら応援するぞ、と言ってくれたのは、
十代の頃に出会った禅寺の老師と学舎のまことさんと、
アトリエの肇さん敬子さんだったことは、今でも有難いと思っている。

来客の方、ご見学の方が増えているというお話は書いた。
今月に入ってから何名も対応していたから、
その間、スタッフのゆりあには頑張ってもらっている。
時にはそんなにしなくてもいいんじゃないの、と思うかも知れない。
先日、教室の後に僕はゆりあに話しかけていた。

「いっぱい人が来るでしょ。ゆりあ、人間には2つの眼と耳があって鼻と口がある。みんな一緒だよ。みんな同じ条件で、この同じ場所に入る。分かる?でもあの人達には僕に見えているような世界は見えないんだよ。見えるか、見えないか、それは僕には分かる。なぜ見えないと思う?見ようとしないからだよ。みんな同じ眼と耳をもって、同じ場にいて見えるものが違うのは経験の違いではない。見ようとする意志。感じようとする意志。すすんで自分の限界を超えて行こうとする勇気と、自分の知らない世界を見てみよう、学んでみようと思う謙虚さ。つまりはこころが見える世界を決めている。だから、伝えることは決して無意味ではない。伝えることで、僕の見ているものやダウン症の人達の世界が見えることはない。それは自分で見るしか方法はない。でも、伝えることで、その人が見る意識を変えるかも知れない。そうすれば、何かが見えてくる。だから、僕は見せるし伝えることをやめない。1人の人に伝わらないなら、他の人にも伝わらないだろう。そうだったら、僕達の活動に意味はない」

気がつくとこんな話になっていた。
彼女には分かっていることではあっただろうけど。

教室の場は作家が優先されるべきだ。
だから、どんな場合も場が保てるように来客には制限をつくる。
その上で条件が許される場合を見極めて、お客様を迎えている。
その事を少しだけこころにとめておいていただきたい。

そして、時間と人数の都合で未だアトリエにお越しいただけていない方に、
いつか機会をつくりますので、しばしお待ち下さい。

同時に、興味本位の方については、
それも悪いとは言えないけれど、
何でも見さえすれば分かるとは限らない、ということを知っていただきたい。
眼で見ても分からないことはいっぱいある。
こころで感じること。それはどんな場所にいても出来ること。

2012年6月24日日曜日

その先にあるもの

纏まった話を書く体力がない。
今日も少し雑感的な内容になってしまうだろう。

このブログでは僕の個人的な体験も結構書いている。
それを読んでいると、僕が特殊な人間に思えるかも知れないが、そんなことはない。
僕はきわめて平凡な、素朴で単純な人間だ。
一つのことにずっと関わっていくのが好きな人間だ。

では、なぜ個人の体験を通して語るのかというと、
深い部分に関わることは、それを捉える個人の生き方が問われるからだ。
だから、あくまで題材であって本題ではない。

アトリエに興味を示して下さる方が、
佐藤肇、敬子であったり、よし子であったり、あるいは最近では佐久間であったり、
そういう関わる側のストーリーにこころひかれることも多くなった。
それはそれで入口としては良いかも知れない。
でも、そこがきっかけで、その先を見て欲しい。
それぞれにそれぞれの物語があるだろう。
でも、僕らは触媒にすぎない。

大切なのはダウン症の人たちの持つ文化だ。
それは普遍的なものだと思っている。

私達が一つしかないと思い込み、そこだけを生きている世界の他に、
小さな、それでいて豊かなもう一つの世界がある。
自由で平和でやさしい世界。
そんなものがあることにほとんどの人は気がつかない。
そういう可能性を考えてみない。
でも、それはある。

彼らの感性と文化にこそ、私達の想像するその先の何かがある。

そんな可能性を感じてもらえるためになら、
私達、関わる人間の物語が使われても良いと思う。

僕は外でお話しさせていただく時、
このブログで書いているような個人的な体験はほとんど話さない。
(アトリエの背景として肇さんや敬子さん達の話まではするが。)
それは今書いたことが理由だ。

確かに、その先にあるものに触れることは簡単なことではない。
本当のことを言うと人は知らないものにひかれはするが、
知らないものを知りたくはない。というより知ることが怖い。
だから、自分の想像するストーリーを練り上げ、そこにあてはめて安心する。

その一つの典型が困難を乗り越えて、頑張って生きている、
さらに何かに異常な能力を発揮する天才、
というような図式だ。
(主にテレビ等で障害を持つ人を扱う場合に多いが、実はどんな人に対しても使われている一番分かりやすい構図かも知れない)

思い込みを捨てて、私達は何も知らないというところから始めなければならない。
そうしないと何も見えない。

まあ、でもこういう無理解については何度も書いて来たからもういい。

これから、僕達は新しいプロジェクトに挑んで行くことだろう。
必ず魅力ある何かが、多くの方に伝わってくれるものになると思っている。
これからもご期待下さい。

2012年6月23日土曜日

もうすぐ夏

忙しいというフレーズを入れないで書こうと思っている。
でも、すでに書いてしまったか。
かなりお問い合わせがたくさん来ていますが、
月曜日の返信とさせて下さい。

佐藤よし子のラジオ出演、無事終了致しました。
お聞き下さった皆さま、応援のメッセージを下さった皆様、
ありがとうございました。

朝は大雨で電車も遅れていて、しかも大混雑で悠太を連れての移動、
ここがかなり大変でした。
しばらく前からよし子も悠太も風邪だったし、
前日は悠太の夜泣きも凄かった。
大丈夫かなあと、思いながらも何とか行って来ました。
こんな時、よし子は結構のんきだから、僕は朝5時に起きて準備。
交通情報もチェック。生だから絶対遅れられない。

しとみ君から「よし子さん、かなり鼻声だったけど大丈夫?」
とメールが来たが、さすがに鋭い。

ギリギリまで何もしゃべらなかったのに、
どんな状況でもよし子は本番に強いなと思った。
中味も良かったのではないでしょうか。
僕は身近にいすぎるので、客観的な評価は出来ません。

欲を言えば、ダウン症の人達の感性について、
もう少し突っ込んでもらいたかったけど、
番組の性質にも配慮したのだろう。

前日にディレクターの方から「ご主人にも出ていただきたい」、
みたいなお話があったが、ご遠慮しておいて良かった。
ああいう場に僕は合わないだろう。

時間にも内容にも制限がある中で、
よくあんなに自然に話せるなあと感心してしまった。

悠太もスタジオの中では本当にいい子にしてくれた。

ラジオの方達がみんないい方で良かった。
本当に色んな出会いがあるなあと思う。

ラジオの前日はゆりあと次の企画の打ち合わせに行って来た。

平日のプレもとても良い雰囲気だ。
最近、ますますいいと思う。
平日は僕も場にいるが、ほとんどゆりあに任せている。
他の作業や仕事があることも事実だが、
スタッフとして自分が責任を持つ、
という経験をゆりあにしてもらいたいからでもある。
場を手伝うのと、自分がやるのとでは実際に見えるものが違ってくる。

平日のクラスに関していうなら、今や僕よりゆりあの方がいいだろう。

よし子やゆりあの仕事を見ていて、僕自身の役割も考える。
作家たちの制作と同時に、よし子やゆりあが仕事をしやすく、
気持ちよく働くために、裏で支えるのが僕の仕事かなと感じる。

今、色々と仕事が入っているけど、
東京は発信場所として、攻めに徹していきたい。
これからよし子と悠太は少しづつ、三重での環境づくりに入る。

東京のアトリエは可能性を発信しダウンズタウンに繋げていきたい。
そのためには、やらなければならないことが沢山ある。

そうそう、以前書きかけた夏の思い出や、夢の話も今度書く。

地球も汚染されているし、色んな面で浄化ということを考える。
いつの夏だったか、三重に行った時、
確か東京で身体のあちこちが痛かったりだるかったりしていた時期だった。
毎日、海に入って浮かんでいると、夜ぐったりと疲れて眠る。
そんな数日を過ごしていると、ある瞬間、浄化された感じがあった。
身体が敏感になって、ああ、本当はこういう状態が生きている、
ということなのだな、と実感したのだ。
時々、そんなことが思い出される。
そして、あの自然との一体感や浄化を忘れてはならないと思う。
不自然に生きざるを得ないなら、せめて自然さを忘れてはならない。

もうじき夏が来る。
梅雨が明けて、暑い暑い夏が来るだろう。
何度も何度も経験して来た、途方もない日射しや、
真っ青な空や、蝉の声や夜の静けさや、星の輝き。
子供の頃とまるで変わらないこの季節。

あ、昨日のラジオでもうひとつ思ったこと。
よし子は人に恵まれているなあということ。
特に友達。青春や友情はやっぱりいいなあ、と思う。
僕にとっても仲間たちのことを思い出すと、季節はいつも夏だ。
照りつける太陽や夜のカエルの声。
よし子は矢野顕子さんの「風をあつめて」を選んでたけど、
僕だったら同じ矢野さんの「中央線」や「雷がなるまえに」がいい。

今年はどんな経験をする事になるだろうか。

2012年6月20日水曜日

描写力

いつも、そうなのだけど、書きたいと思っているテーマが、
いくつかあるが、いざ始めようとすると、
あ、今度にしとこうかなとなってしまう。
いつまでたっても本当のことに迫れていないような気がする。

あまり、夢は見ないということを書いた。
でも、またまた夢を見た。
この夢の話はこれまた今度にしておこう。

昨日の夜、あまり良くないことなのだろうが、
我慢出来なくて台風を見に外へ出た。
よし子と悠太が寝静まった後、ひっそりと。
安全は確かめつつ。

自然が動いている時、やっぱりじっとしていられない。
何かゾクゾク感がある。
外は全く別の世界になっていた。
夜で人の気配もない。
ひたすら風を感じていると、どこまでも静かに、どこまでも一人になっていく。
自然がぐんぐん近くに来る。
自然と一つになる。

ダウン症の人たちの作品の特徴の一つに、自然との近さがある。
色にも形にも、人為的なもの、作為的なもの、
意図的に創られた感触がない。
ごく自然に調和した世界がそこにある。

ゆうすけ君はいつも外の景色を見て、色を教えてくれる。
「今日は薄い緑」「外は白」「水色系です」
「やけに白っぽい光が出て来たよ」等等。

全身が自然に感応しているからこそ、あのような作品が描ける。

そして、彼らには描写力がある。
絵を通して、彼らが見ているもの、感じているものに、
私達を引き込んでくれる。

すぐれた芸術はほとんど描写力があって、その作品にしかないリアルがある。
音楽でも絵でも、小説や映画でも一緒だ。
たとえ、実在しない世界を書いていても、
それがどこかにあるものとしてのリアルさがある。
描写力こそがそのキーだ。

描写力はなにも芸術の領域だけのものではない。
むしろ、人間にとって本質的な何かだ。

現代社会ではあらゆるジャンルで描写力が弱まっている。
なんのリアルも感じさせないものばかりだ。

人と会って話してみると分かるが、
話に情景が描ける人と、そうでない人がいる。

単純な経験でも、何かを食べて美味しかったという話に、
描写力がある人とない人がいる。

描写力のある人の話を聞いていると、
そこで自分も同じ体験をしているような気になってくる。

自然にふれ、経験を味わい、深いリアルを生きているかどうか、
それが描写力の有無を左右する。

自分の経験を情景として描ける人は、それだけの何かを生きて来た人だ。

前にも書いたが、人間というのは目の前にいる人を無意識になぞる。
例えばマネをするという行為がある。
マネは悪いものではない。
人のマネをしなければ、私達は言語を発することさえ出来なかったはずだ。
マネはまた、対象への愛情であり一体化であると言える。
マネをもっと深く言うとなぞるということになる。
人は無意識に相手の行為や思いをなぞるという事実が、
僕がいつも言っている、
相手のこころを生きることは可能だということの根拠の一つだ。
同じこころを共有出来るというのもこれなくしてはあり得ない。
科学ではいつになっても証明出来ないだろうが。

強い描写力を持った人ほど、相手に与える影響は強い。

以前あげた例でいうと、
目の前にいる人を安心させたければ、
自分が安心というものを身振りと、心構えで描写出来なければならない。

彼らの作品を前にした時に私達が感じているものは、
大自然の身振りをなぞろうとする時に感じる、
途方もなく大きく深く、やさしい感触だ。

人も自然の一部だから、無意識に自然のマネをしようとしている。
素直になればなるほど、楽しくなるようになっている。

2012年6月19日火曜日

エネルギーの法則

台風が接近している。
関東に大きく近付くのは夕方以降らしいから、
アトリエの時間は大丈夫だろう。帰宅時間の交通機関の状況は少し気になる。

少し見学の方の多い時期でもあるので、書いてみたい。
以前にも書いていることだが、特にマスコミ関連の方にはお気をつけいただきたい。
制作の場はとても繊細なものだ。
配慮と敬意を持ってご覧いただきたい。
その都度来られる方にはお話しして入る。

絵画クラスに関しては座ったままでのご見学をお願いしている。
ここがどんな場なのか、彼らがどんな存在なのか、
決めつけないで、まっさらな気持ちで見ていただきたい。
難しいがなるべく先入観をとって素直な気持ちで。

そうすれば、必ず何かが見えるはず。

良く、みんなにたくさん話しかける人もいるが、
言葉によるコミニケーションがすべてではない。

「すごいね」「きれいだね」とか、口先だけで言っても彼らには分かる。
まして、「ちゃんと考えてるんだあ」とか「細かく出来るんだね」なんて、
逆に失礼だと思わなければならない。

こんな言い方をするのも、作家たちの為の場所を汚して欲しくない、
という当然の思いもあるのだが、それだけではない。
せっかく、何かを感じたからこそ、見に来たのだから、
良いものを見ていただきたい、出会ったことのないものと、
出会っていただきたいという思いがある。

僕も含め、よし子やゆりあ達スタッフは、何気なく、
たわいもない会話をしたり、時には遊んでいるように見えるかもしれない。
でも、実はすべてが場を良くするために出ている行為であって、
ただの会話やただの笑いやただの遊びは、制作の場では一切ない。

だから、せめてしばらくの時間でも場全体を感じていただきたい。
少なくとも最初はひいて見る、ことが条件となる。
ひきで見たことがなければ、作家たちの創る作品も場も、
一人一人のことも理解出来ない。
彼らと普通の友達になることなら出来るだろうけど。
もちろん、そんなリラックスした場も創っていけたらとは思っている。
平日プレクラスはそれに近いだろう。
ただ、アトリエ・エレマン・プレザンは彼らの持つ本質に迫ろうとしている、
という大切な事は忘れないでいただきたい。
単に集まって楽しく絵を描けば、素晴らしい環境になるというものではない。

この場に入る資格がある人間は、
スタッフも含め、場に敬意を持って、素直に学ぼうとし、
自分の持つ先入観や固定されたイメージを、
瞬間瞬間に取り除いていこうという努力を厭わない人だ。

1人の人間の持つ意識や構えによって、その場は変わる、
人に強い影響を与える、ということは何度も書いて来たと思う。
そこで、知っていて損はない話をしてみよう。

これは人生のすべてにいえること。
仕事や家庭や生活の中全部がそうなのだけど、
違うレベルのエネルギーが2つ以上集まれば、確実に混ざる。
混ざるとどうなるか、混ざると真ん中の状態になる。
たくさんの人が集まると、その場はそれぞれのちょうど中間の状態に落着く。
このことは、何を意味するのか。
一番大切なことは、全員が高い意識を持つと言うことだが、
それは目指していくことではあるが、なかなかそうはいかない。
つまり、理想論だ。僕の話は理想が多いが、ここでは有効な現実に即したことを書く。
特にこれから、学び、伸びていこうという人に知って貰いたい。
道徳では人間は平等と言っているが、決して平等ではない。
違うもの、違うレベルが集まっているのが人間の世界だ。

一言でいうと、こういう事だ。
高いレベルの能力や意識を持っている人は損をする。
損をしていいということを言いたいのだけど、
損をするという事実は知っておいた方が良い。
例えば上手、下手という技術レベルの話でいうと、
何かを上手くなりたければ、まずは下手な人と一緒にやらないことだ。
自分より上手い人と一緒にやれば必ず上手くなる。
いつかは人の為に損をして全く構わないという人間になるべきだが、
伸びていく時期は、まず、自分より下のレベルの人間と付き合わないことだ。
日本の社会でそうすることはほとんど不可能だろうが。
自分より、上の人とばかり付き合っていけば、自分も引き上げられていく。

実は経験的には、運、不運も同じように見える。
申し訳ないが不運になりたくなければ、そういう人達で集まらないこと。

これはあくまで、
いつか強くなって、どんな人の為にでもなれるようになるための話。

こころのことでも同じで、あまりに清く良いこころを持つ人は、
人にあげるものが多いだけで損をして行く。
ビジョンのある人の周りに人は集まるが、
集まる人達はビジョンを貰う一方になる。

みんなが集まると、低いレベルにいる人達は少しだけ引き上げられ、
高いレベルにいる人達は少しだけ引き下げられる。

でも、これはいいことでも悪いことでもなく、ただの事実だ。
そこを自覚していけば、自分は今、どんな環境にいなければならないのか、
理解出来るようになってくる。
人の為に何かがしたければ、その人の持つエネルギーに左右されないだけの、
力を身につける必要がある。
そうしなければ、共倒れ。どちらにとっても良い結果にはならない。

でも、最後には理想の状態に辿り着くべきだ。
高い意識を持ち続け、損し続けられる人間に。
エネルギーが真ん中に来ることは、良いことでも悪いことでもなく、
ただの事実だと書いた。
ならば、損ではなく、ただの事実として真ん中のレベルに貢献出来る人間になろう。

2012年6月17日日曜日

お知らせ

ちょっとお知らせです。
6月22日(金)のNHK第一全国放送の「すっぴん」という番組に、
アトリエ・エレマン・プレザンの佐藤よし子が出演します。
作家の高橋源一郎さんのコーナーでのインタビューだそうです。
打ち合わせは火曜日なので、私達も詳細は分からないのですが、
日にちがあまりないので、先にお知らせします。
佐藤よし子の登場は午前10時30分頃と聞いています。

最近はよし子の出産、育児もあって、
外では僕がお話させていただく場面が多かったのですが、
少しづつ元のバランスに戻って来ました。
勿論、まだまだこれから伝えるべきことが多いので、
僕もそういったお仕事はお受けしていくつもりですが、
時間が許せば、よし子が出た方が柔らかくていいと思います。

とはいえ、まだ授乳中なので長時間は悠太と離れられない。
今回も僕は悠太の世話係で一緒に行きます。
たしか、代々木公園が目の前だったかな。
悠太と公園をお散歩しようかな、と思ったり。
あ、金曜日は生放送らしいです。
その後は、僕はある展覧会のレセプションに行ってきます。

月曜日からのプレは見学者が続く。
今後の新しい企画等、また近いうちにご報告出来ると思います。
どんどん、いい活動をして行きます。
三重での環境づくりも、同時に進める予定です。

昨日のアトリエ。
また、ハルコさんの話になってしまうが、
一枚目の絵を描きはじめて、薄い緑を最初に選んだのだけど、
おもむろにぬりだして、しばらく画面をうめてから、
「へー草原かあ」とつぶやく。「ここお花あったらキレイなあ」と、
今度は花の色を選んでいく。
そんなふうに少しづつ絵が出来ていく。
最初に草原かあと、気づく時、見ている方でも同じ発見がある。
あくまで、草原を描こうと決めて始める訳ではなく、
色をぬりながら、草原が見えてくる。
僕達が一緒に生きている場とはこんなところだ。
何も決められていないところから、たくさんの発見があり、
創造がある。今、目の前で色んな光景が生まれてくるのをみんなで見ている。
作家たちもスタッフも本当に楽しい。

よし子は、小さい頃からそんな人達と居る事が当り前の環境で育っている。
彼らの魅力を肌で知っている。
そんな、世界をラジオで話して欲しい。
彼女にしか言えないことがあると思っている。

2012年6月16日土曜日

2度とない今を生きる

梅雨に入った。
雨の匂いもいいものだ。
なるべく室内にいようとするから、普段より落着いた生活にもなる。

さてさて、今月はずいぶんお問い合わせが多い。
順番にご連絡しております。
まだ、ご連絡がいっていない方はしばらくお待ち下さい。

たくさんの方が、興味を示してくれるということは有難いことでもある。
どんな場合もなるべくご期待に添いたい。
今の時期は伝えることを重視していく。

木、金曜日はアトリエが休みの日だけど、
その日に打ち合わせがあったり、外にお邪魔するお仕事が多くて、
悠太とゆっくり過ごす時間がなかなかとれない。
まあ、普段はなるべく早く帰ったりして、
一般のご家庭よりは家族との時間が持てている方なのだが。
一日休みにするとなるとなかなか。
そんなわけで久しぶりに休みにして、
よし子と悠太とお出掛けした。
悠太のはじめての高尾山。(僕がエルゴに背負って歩くのだけど)
外を歩いている時から思っていたが、悠太の自然への反応はとても敏感だ。
まだ一才にもなっていないが、こんな時から自然に触れさせていきたい。

以前、大きな大きな木の夢を書いた。
あの夢の木の感触は時間と共に、少しづつ薄れていった。
なまなましい感覚が消えて行くと共に、
今度は悠太の視点が自分に再現されるような、不思議な感覚が芽生えた。
散歩している時に視線をおっているうちに、ちょっとづつ。
最初は景気を見ている悠太の眼を見ていた。
それが悠太の眼から見えるようになってくる。
あくまで感覚の話だ。
こういうことは、ある意味で普段のアトリエで、
作家たちと一体になろうと日々訓練して来たからおきるのかもしれない。

あのどこまでも無限に広がる巨大で不思議な木について、
僕は悠太から見えている景色かもしれないと、解釈してみたが、
多分、それだけではないような気もしている。

それはともかくとして、毎回書くことだが、
この一回のアトリエが限りなく貴重なものに思える。
今、ここで創られている場は、今ここにしかない。
その一回限り。一回こっきりだ。
そこにこそ命があり、そこにこそ大切な事のすべてがある。

それは生活においても本当に一緒だ。
今の悠太には今しか会えない。この時にしか。
2ヶ月前の悠太はもうここにはいない。
だからこそ掛け替えのない瞬間を生きていく。

仕事も家庭も全力で向き合っているつもりだが、
やっぱり、出来てない部分が多いだろう。
よし子やゆりあが不満を持っていないとはとても言い切れない。
でも、最低限、こっちのことが忙しいからこっちのことが出来ない、
という逃げ方だけはしないようにしよう。

再生機というものがある。
CDやDVDや写真など。
僕も今や音楽を聴くのはほとんどCDだ。
(昔はプレイヤーを持ってなかった。ほとんどコンサート)
再生機で何が再生されるのだろうか。
素晴らしいものほど、再生も再現も出来ない。
映画だって何度も見れると思っていても、実はその時にしか見えないものがある。

時々、あの時にあの本を読んでおいて良かったと思う時がある。
ということは、本だっていつ読んでも同じではないということだ。
本を読むのも、音楽を聴くのも、映画を見るのも、
自分にとっての体験であることは、おぼえておきたい。
体験は2度と再現出来ないものだ。

特に本を読むということが、情報を得ることに変わって来ているように思う。
読書は体験であって、情報を集めることではない。
大事な場所に線を引くような読み方では、本を体験出来ない。
情報ならインターネットで充分かもしれない。
(情報としても実は大切な情報はネットには出ないが)

僕達、アトリエの人間としては、最も大事なのは日々の教室だ。
昨日良かったから、そのままで良い場が出来る訳ではない。
今日も創ることが大切だ。
場があるから、人が共感してくれる。応援してくれる。
いる人が喜んでくれる。関わる人間も幸せを感じる。
それはすべて日々、良い場を力を合わせて創っているからだ。
この一回限りの場なくして、外で偉そうなことを言ったり、
言葉だけで書いたり、大袈裟に取り上げられたりしても、
なんの意味もない。
場が充実していてこそ、他の活動も意味をもつ。

今日も大切な大切な場を、みんなと一緒に創っていく。

2012年6月13日水曜日

約束

少し前に教室中、1人の生徒が僕の手を持ってきた。
しばらく委ねていると、僕の小指を引っ張って自分の小指と絡めた。
いわゆる指切りげんまんの形。
そして、僕を見て頷く。「分かったよ」と僕は言う。
こういう約束は僕は必ず守る。
どうやって守れば良いのか。何を約束したのか、言葉もないのに。
それはこころとこころで感じ合うしかない。
それが、一番大切な約束だ。

この生徒の場合、かなり長い間、病んでいた。
今でも完全に快復した訳ではない。
だから、この動作には大切な意味がある。

同じ日に今度は別の人から、手を握られ、手のこうにキスされた。
彼は男性だが、彼も長い苦しい時期を経験してきた。

明るく楽しく、平和なアトリエではあるが、メンバーの中には、
社会の中で、周囲の無理解の中でこころを病んでしまった人もいる。

彼らとの無言の約束を忘れてはならない。

自分の持つすべてを使う事を、書いた。
義務や責任を果たす事を書いた。
それらは決してただの重荷ではない。
そういった一つ一つを実行する事が、必ず喜びにつながる。

もう一つ大事なのが約束だ。

本当に厳しい状況にある時は、もうどんな動作も出ないという人もいる。
どこへ行っても何も出来ない。
そんな中でアトリエで絵を描くことが出来たりする。
(あくまで、例であってそんなに上手くいく事ばかりではない)
なぜだろう。
一つには僕自身で言えば、相手の信頼を裏切らない。
その形としては約束を守るということを、実行していく。

このブログで、これまでに書いて来たような心構えの一つでも自覚的に使えば、
困難な状況にある時、必ず乗り越える可能性につながる。
何かを変える、状況をよりよくすることが出来るはずだ。

今は社会全体が困難な状況にある。
こんな時に、何が出来るかが肝心だ。

自分のことを思うと、根が強く出来ている。
逆境を楽しむし、困難に挫けることはない。
迷うこともほとんどない。悩む時間があったら、少しでも状況にアプローチしてみる。
どうすることも出来ない時は、出来ることだけ迷わずする。
攻撃されても無理解にさらされても、簡単に意見を変えることはない。
人間関係の政治力に左右されることもない。

そんな僕でも、生きているのは本当に辛いことだなあと思う時がある。
約束を守り続けることに疲れる時もある。

でも、続ける。すすみ続ける。
そこから何かが変わっていく。
「もういいよ。ここでいいからここにずっといるよ」と言って、
立ち止まっている人達。
それがこれまでの友であったりする。
つらいことだけど、前に進み続けなければならない。
この世に生まれて動き始め、進み始めた以上は、留まってはならない。

2012年6月12日火曜日

すべてを使う

本当に時間が経つのが早い。
色々、すすめなければならない事はあるのだが。

7月には久しぶりの保護者会を予定している。
東京アトリエは人数が多いので、はじめて場所を借りてみる。
保護者の皆様には近いうちにプリントが郵送される事となります。
それぞれのクラスで顔を合わせる機会も少ない人達が、
交流を深める機会になればと思う。
スタッフも日々のアトリエでは制作の場に集中しているので、
保護者の方とお話しする時間があまりないのが現状だ。
こういう機会を作っていきたい。
そして、そろそろ夏の予定も決まる頃。
そちらも近いうちにご案内します。
今年は何とか三重でと考えていたけど、残念ながら経費や諸々の事情で、
実現は難しそう。三重の環境は今後、みんなが来れるように整える予定だ。
今年は東京での夏期アトリエとなりそうだが、
今回は外部の方の参加も可能な形を考えている。
普段はアトリエに来られないけど、体験してみたいという方々に、
いつものアトリエと同じ道具と環境を提供出来るように考えている。

最近はアトリエへの問い合わせも多い。
参加をご希望の方で、メンバーがいっぱいでお断りしなければならない事は、
本当に心苦しく申し訳ない。
出来る事なら、見てあげたい。新しい人と出会いたい。
お問い合わせいただいた方達は、いつか新しい環境のもと、
ご案内出来るように考えています。
そのための場も作ろうと思っているので、
ご連絡先をお知らせいただけると幸いです。
メールでご連絡頂く方で、なるべくお返事していますが、
時々、送信出来ない方がいます。
設定ではじめてのアドレスからの送信を拒否している可能性があります。
メール頂く前に設定をご確認のうえ、送信していただけると助かります。

さて、昨日のプロフェッショナル、またまた良かった。
天ぷら職人。
その前の回の石工の方も素晴らしかったけど、
レベルが上すぎて共感するという話ではなかった。
もちろん、あんな風に仕事に向き合っていきたいなとは思ったが。

昨日の天ぷら職人も共感するとか分かると言ってしまうのは、
僕のような若僧にはおこがましいことだと思う。
でも、一番そうだよなあ、と感じたのは、
その人が仕事に入る前にウロウロしていて、
なかなか入らないというシーン。
質問すると、「一番好きな事は仕事だよ」「一番嫌いな事?それも仕事だよ」
というようなことを言っていた。
「自分の全部を使って、全部を注ぎ込まなければならない。それはつらい」、と。
本当にそう思う。
彼は嫌いという言葉を使っていたが、
ギリギリまで仕事場に入らなかったのは、嫌だというよりは怖いのだと思う。
それは、仕事やお客さんへの敬意のあらわれだ。
自分の仕事を大切にすればするほど、本気で向き合うほど、
怖さが分かる。手を抜けなくなる。
絶えず、命のすべてを注ぐというのは、相当な覚悟がいる。
でも、一度、そんな仕事を知ってしまった人には半端な力加減は出来ない。
嘘はつけない。誤摩化せない。
人にも仕事にも、自分にも申し訳ない。
全力で、あるものをすべて使う。
使い尽くす。自分を甘やかす事が一番怖い。

そんな風に仕事に向き合う事こそが、本当の喜びにつながる。

僕達にとっては制作の場とはそのような舞台だ。
一回、一回の場はその時限り。もう2度と戻って来てはくれない。
本気でやらなかったら、たとえその一回だけでも、
永遠に本気でやらなかったという事実が残ってしまう。
その事実は確実に場や相手や自分を傷つける。
いつもすべてを使う覚悟で、そしてエネルギーでその場に挑む。
ちょっと前に「どんな心構えで描く人と向き合っていますか」
という質問をうけた。
多分、「相手を愛す」や「受け入れる」や
教育や子育てにも重なる言葉を期待されたのだけど、
(もちろん、それらの事もとてつもなく大事なのだが)
あえてこんなことを言ってみた。
「ここにあるものはみんな、いつか消えてなくなるし、ここにいる人も、自分もいつかいなくなる。という自覚を持ち続けるようにしています」
僕にとっては本当にそういうことだ。
いつかは、そしてそんなに遠くないうちに、消えて行くということは、
誰でも分かっている事。
でも、その事を本当に認識していれば、自分の動きが変わってくる。
決して力を抜けなくなる。
本気度が変わってくる。
消えてなくなる事は、確かに怖い、でも、それ故に愛おしく、大切に思う。
どんな時も全力を尽くして、絶えず前に進みたい。

2012年6月10日日曜日

シューベルト

夢をみた。
大きな大きな、木の夢。
それにしても不思議な木だった。
目の前で見ると、そんなに大きくはない。
細い幹が三本位かさなっている。少し緑の葉っぱもある。
僕が大好きな巨木のような感じとは違う。
見上げると、それがどこまでも大きい。
一番上が見えないくらい。
どこまでも、どこまでも上にのびている。
これほど、大きなものは見たことがない。
不思議な気配がただよっている。
その木の前に3人ほど人がいて、じっと木を見上げている。
その中に僕がいるのかどうか、定かではない。
いずれにしろ、誰もそんなに特定出来る人物ではなく、
あくまで木が中心になっている。
視点は下へ行ったり、上に行ったりする。
上に向かうと急に巨大なものにクローズアップする。

あれは一体なんだったんだろう。
分からないが不思議な安らかさがあったのは事実だ。

僕は夢をほとんど見ない。
興味もそれほどない。
心理学や精神医学の方々は夢に関心をいだく。
僕にとっては夢はそれほど重要ではない。
前にも書いたが、深い経験をしている時は現実が夢のように感じられる。
そちらの方が興味深い。

でも、あの夢の大きな木の感触は今でも残っている。
思い出すとどこまでも大きく広がる空間がありありとうかぶ。
今にもそこへいけそうな、手に触れられそうな感触だ。

あの夢の中での、その場が遠い過去でも、遥かな未来でもあるような感覚は、
やはりアトリエでみんなと共有している世界に近い。

1人の作家とのやりとりが、他の人とのものと重なっていたり、
他の人と既に経験したことが、その人と再び経験したりする。
場自体が、あれ、この場面は数年前にもあったなという風に、
何度もくり返されたりする。

信州にいたころ、農業を取り入れた生活をしていた。
これは本当に季節感が深くなる。
人生には変化と同時にくり返しの要素が強い。
四季は何度もめぐる。
その中で自分の人生や人との出会いと別れが経過されて行く。
あの場所でたくさんの経験をしてきた。
たくさんの人がやってきて、そしてさって行った。
確実に何かを残し、刻み、でも、2度と同じ時間には戻れない自覚をもって、
永遠に消えて行く。また、全く新しい何かが生まれる。
たくさんの出会いの中で、みんなが残していったこと、
その一つ一つが、四季の変化の中で思い出される。
田植えの時期、稲刈りの時期、草取りの時期。真冬のすべてが真っ白な時期。
去っていく人や消えて行く景色を感じるのは寂しいこと。
切ないことだ。けれど、それは形を変えてまたくり返される。
あの時はあんな事があった。あの人が居た。
その時のお米の収穫はこれ位だったとか。
そんな風に季節の中で刻まれ、時の流れが自覚されていた。
それが農業のいいところでもある。

と言っても農業を美化したり、農業が清く正しい行為で、
それが自然と生きることだというような、
かえって都会的な考え方には反感を抱く。
そんな宮沢賢治のようなことを言ってはいけない。(宮沢賢治自体は好きだけど)
この前も書いたが農業の中には蓄えようとしたり、
自然を管理してコントロールしようとする、
人間の悪い癖が現れていることも事実だ。
まして、農業は善人がやるもののようなイメージはなんとかすべきだ。
人生は道徳の教科書のようにはいかない。

それはともかく、農業をしていると、くり返しという感覚と、
季節の感覚が皮膚に刻まれて行く。
自然や人を慈しむ気持ちが生まれる。

夏の終わりに田んぼのわきで寝そべって、空を見ていた。
人はなんて小さいんだ、と思った。
そして、こうしているけど、こんな人生はすぐに消えてなくなるな、
本当に短いな、と感じた事がある。
そんな、何気ない思いが、
数年前、東京のベランダでハンモックにのっている時に再現された。
あ、たしかそんな事感じてたな、と。

夜になると、寝る少し前に悠太がグズる。
ちょっと夜風に当てると落着く。
それで泣出すと、抱っこして外を散歩する。
悠太はすぐにおとなしくなって、公園の木をじっと見る。
緑の葉っぱを目でおっている時の顔つきは、本当に真剣でやさしい。
彼には一体どんな風に見えているのだろう。
いつかまた、2人で、3人で、こんな風に景色を見るのだろうか。
あの夢の、おおき大きな木は、
もしかしたら悠太の目にうつった景色なのではないか。

このアトリエで10年も一緒にいる作家が、
最初の頃の場面を急に思い出したりする。
思い出すというよりは、その場面が戻ってくる。
戻って来たものは、以前にあったものより深くなっている。
そのとき気がつかなかった事に、今気がついたり。
時を重ねることによってしか見えて来ないもの、
時間を刻んでこそ分かること、とは多分こんなことだろう。

どんどん、どんどん、深くなって、
どんどん、どんどん、美しくなる。
でも、その分、悲しみも知っていく、本当の切なさも分かってくる。
そして、やさしくなっていく。

くり返される時間が少しづつ、変化していく。
シューベルトの交響曲弟9番のように。

2012年6月9日土曜日

義務と責任

何だか嫌なタイトルみたいだがしかたない。
今日はどうしてもそこを書かなければいけない気がする。

今日は雨。そろそろ梅雨入り。
夏が近いので夏の思い出でも書こうと思っていた。
記憶が自分を助けると言うことを以前書いた。
良い記憶を刻むということも。
教室をしていても、例えば他のことでも何でもそうだと思うが、
本当に良かった記憶や、その時の感触、安心感といったものが、
思い出されたり、現在とかさなったりする。
そういうふうに、良い経験や情景がくり返される。
良い場が生まれるためには、そういう経験が必要だ。
作家もスタッフも深いところで、一番大切な記憶を再現することがある。
それぞれの良い思いが重なって良い場が生まれる。

夏が来ると思い出す情景がいくつかある。
でも、今日はその話ではない。

原発や放射能のことについて、もう発言しないと言っておきながら、
少しだけ言わなければならない。
昨日の野田首相の発表を聞かれただろうか。
一言で言うと無責任。
今原発を動かすことが未来にどんな意味を持つのか、
あまりにも無責任な人が多すぎる。
ここではもう、この話にはふれない。
一つだけ、テレビのインタビューで街を歩く一般の人達の言葉があった。
そういう意見だけ編集したのだろうが、
原発がなければ困る、とか福井県に感謝してもらって良かったとかいう人がいた。
無知とは本当に恐ろしいことだ。
と言うより、ここまでは言いたくはないが、
無知とは罪であることをほとんどの人は自覚していない。
正しい知識は自分が得をするためにあるのでもなければ、
勉強して頭がいい人間になるためにあるのでもない。
正しい知識を持つことは、社会人としての責任であり義務なのだ。
なぜ、こんな当たり前のことを大人が教えないのだろう。

私達には義務と責任がある。
生きていて権利ばかりを主張する世の中になったが、
一番重要なことを忘れてはならない。
生きるとは、人間とは、絶えずどんな時も責任が伴うということだ。
責任のない場面はないと言える。
ところが、責任感がどんどん薄れている。
人間は他の動物とは異なる。他よりすぐれているという意味ではない。
社会という、人間にとってだけ意味を持つものを形成していると言うことだ。(動物愛護の人達はここを取り違えている)
子供には責任を教える必要がある。
何故なら責任や義務は本能ではないからだ。
この部分の自覚が足りないから、無責任な大人ばかりになってしまった。

こういう当り前な、常識を伝えないようになってはまずい。
政治家には当然、責任がある。
でも、選んだ方にも責任があることを忘れてはいけない。
よく悪い商品や偽物が発覚したり、産地偽装が発覚したりする。
むろん、それらをおこなった会社が悪いのだが、
このような土壌は私達の日々の選択に問題があることも事実だ。
良いものが消え、悪いものばかり生き残って行くのは、
買う方、選ぶ方に責任がある。
良くもないものを買ったり、見たり、褒めたりすること自体が、
悪いことであるいうことをしっかり知らなければならない。
悪いものを選ぶ人が多ければ、悪いものが増え、良いものが無くなる。
当然の仕組みだ。
選択する行為にも責任がある。
なぜ、世の中に良くないものがたくさんあるかというと、
それを欲しがる人がいるからだ。
時々、とんでもなく悪い政治家や、詐欺師や、会社がみつかる。
みんなでその人達を非難してスッキリする。
でも、誰が彼らに仕事を与えていたのか、考えなければならない。
騙された、だけではすまされない。

例えば、公共の場で人に迷惑になる行為を見たとする。
注意するのは、自分が相手を許せないからではない。
人間としての義務と責任だ。
教育でもそうだ。
そこを自分が許せるか、許せないか、我慢出来るか、出来ないかで判断する人がいる。
道端で倒れている人がいれば、助けるのは人としての責任だ。

良いものを貰ったり、良い人に出会って教わったりすれば、
責任が増える。と、僕は思っている。
僕が低いレベルにいれば、教えてくれた人に申し訳ない。
教えてもらったと言うことは、どういうことか。
もののように大切にしまっておけば良いという話ではない。
教えられたことを自分なりに実践する責任が生じたということだ。
僕はそう思ってきた。

伝える責任があるということをいつも書くのもそういうことだ。
制作の場で一人一人が見せてくれているもの、
そこに人間としての真実の世界があるから、
それを知ってしまった以上は伝えて行く義務がある。

社会のことをなぜ書くのか。
私達は狭いアトリエの空間に閉じこもっている訳ではないからだ。
ここだけ良ければそれで良いということではないからだ。
ここ自体が社会だ。
私達はみんな責任を負った社会的存在だ。
人類としての義務がある。
社会の中で役割があるからこのアトリエがあるのだ。
それらを無関係に考えること自体が無責任だ。

先日、終わりの場面だけ偶然見たのだけど、
あるアイドルグループ(そう呼ぶのかちょっと分からないが)の
選挙が放送されていた。本当に選挙と呼ばれているらしい。
かなり大掛かりなもので驚いた。
いつの間にこんな事になっていたんだろう。
こういうことを批判すると嫌われるらしい。
でも、まっとうな大人なら、嫌われたり攻撃されることを恐れて、
本当のことを口にしないのは良くない。
責任だ。だから言う。
こんなバカバカしいことに人生の時間を使っている場合ではない。
よく母親の言う「そんなことしてる暇があったら勉強しなさい」という、
意味のないセリフはこんな場面にこそ使うべきだ。
一番になったという人がコメントしていた。
彼女はあきらかに何かを成し遂げた人という立場で発言していた。
身近な人でまっとうな大人が教えてあげるべきだ。
あなたは、みんなから好かれようとして選ばれただけで、
まだ何も成し遂げた訳じゃないんだよということを。

それから、なぜそんなことも誰も言わなくなったかというと、
みんな好かれたいから、嫌われたくないからだ。
好かれたい、嫌われたくないは子供の欲求。
大人はそんな事は考えてはいけない。
先生が生徒に、親が子供に、大人が若者に、
好かれるため、嫌われないために発言するのは無責任だ。

これまでも、何度かここで多分、嫌がる人もいるだろうなあ、
と思うことを書いて来た。
批判も書いた。
攻撃することが目的ではない。人に嫌な思いをさせたい訳ではない。
でも、責任上、言わなければならない、黙っていてはいけないことがある、
ということだ。
本当は言いたくないことだ。

病気の子供に、あるいは大人でもいい、嫌がるから可哀想だからと、
注射や手術を諦める医者がいるだろうか。

2012年6月6日水曜日

今日は金星の太陽面通過

時々、外へ出てみても東京は雨雲におおわれて、
太陽も金星も見えない。
見えなくても感じることが大切。いや、見えないからこそ、感じること。

金環日食にしてもだけど、何十年、何百年に一度のことにたくさんぶつかる時期。
こんな頻度でまれな現象が起きるという周期があるのだろう。
つい、震災や人の世界での出来事をかさねてしまう。
人間にも宇宙にも大きなサイクルがあるのだろう。

こういう日は、こんな時は、
そんな大きなサイクルから物事を見つめてみる機会かも知れない。

私達の目から見て良いことや悪いことも、大きなところから見てみると、
単純に良い悪いと言えるものではないのかも知れない。
良い悪いは言えないが、エネルギーの強い時とそうでない時は存在する。

宇宙は大きい。
私達はその中にいる。
大きな時間と空間のサイクルの中の一瞬。

確かに今、人類は危機的な状況にある。
そこを楽観視してはいけない。危機感を持って自覚的に繋がって行かなければ、
簡単に滅んでしまうかも知れない。
でも、もう一つ。
あんまり言う人がいないので言うが、
はたして人類が滅ぶことが悪いことなのだろうか。
地球や宇宙にとっては負担が減り、もっと違う種や可能性を生み出せる、
という事になるかも知れないし、人類に変わる何かが出現するかも知れない。
人類こそがすべてで、絶対の権利があると言うおごりが、
実は人類をここまでの危機に追い込んだのではないだろうか。

私達はもっとおおきなスパンで物事を見て、
もっと謙虚にならなければいけない。

これまでも、ここでのテーマの中に、全体を捉えるとか、
大きなところから見る、とか俯瞰でみるとかいうことを書いてきた。
それは私達は日常の癖で、というか生きるための本能でもあるのだが、
近くのものしか見えなくなっているからだ。
ちょうど近視眼と同じ状態だ。
何かがおきると、すぐにビックリして、あるいは無意識に、
自分の感情や視点に飛びついてしまう。
それは水の中と一緒だ。
あがけばあがくほど、溺れて行く。

それほど、私達は物事の本質を見極めることが苦手といえる。
本質とは「自分」を離れなければ見えないものだからだ。

まるで、関係がないことのように聞こえるかも知れないが、
実はこれは全部、制作の場での重要なテーマだ。
作家たちが良い作品を生み出せるのも、この全体を捉える感覚にあるし、
作品の意味しているものも、エゴを超えたところにある美の感覚であり、
自然や宇宙の調和だ。それは「客観」の世界と言える。
私達が日常で、無意識のうちに陥っている近視眼的状態とは、
「主観」しかない世界だ。
更にはスタッフとして場を創る人間に最大に要求されるもの、
この俯瞰によるバランス感覚だ。
実際の現場では細かいところまで言うと、俯瞰だけでは場は動かない。
でも、俯瞰は絶対条件であることは事実だ。

地球や宇宙が大きなサイクルで、特別な時期にあるのだから、
この時を楽しむと同時に、
こんな風に物事を見る目線を意識してみてはいかがでしょうか。

2012年6月5日火曜日

「自分の」という感覚

ところで、よく自分のものにしろということが言われるが、
あんまり自分のものにしない方がいい。
というか「自分の」という感覚が、感性を退化させてしまう。
所有について書いて来たが、所有を一言で言うなら、この「自分の」という感覚だ。

よく話していることだけど、
スタッフや関わる人間にとって、制作の場は人生や世界の縮図だ。
これは比喩ではない。実際にそうなのだ。
だから現場において課題があるなら、それは自分の人生の課題と言える。
自分の駄目さももろにでてしまう。
だから、逃げることは出来ない。
例えば関わる相手との距離が近くなりすぎる人。
場面に夢中になり過ぎて周りが見えなくなる人。
逆に距離がどうしても近づけない人。
こういった癖は自分の人生での生活での弱点が、相手を通して出て来ている。
相手を安心させられない人。短い時間で満足感を与えられない人。
逆に甘えさせ過ぎてしまう人。遊び過ぎてしまう人。
こういう場面は恋愛関係や仕事の進め方や家族関係にも共通している。
だから、制作の場でどんな空間が生まれるかは、
一つはスタッフの生き方や生活が大きく関係してくる。
他は誤摩化してこの場だけ良くしようとしてもそうはいかないものだ。

前置きが長くなってしまった。
何を言いたいかというと、制作の場を通してみると、
この「自分の」「自分の」ものという感覚ほど駄目なものはないということだ。
自分の価値観、自分の考え、自分の思い、自分の感情、自分の能力。
場に入ったらこうしたものに左右されてはならない。
全く役にたたないどころか、自分を縛り身動きが取れなくなってしまう。
判断力も鈍るので危険であるともいえる。
男は特に気をつけなければならない。
プライドというものは、その代表だからだ。
意味のあるものにすら、しがみつくと危ないのに、
意味のないものにしがみつくのはなおさら危険。

自分のものなど何もないと、書いた。
すべては借りているもの、有効に大切にみんなのために使うべきだと。
そうするとまた帰ってくると。
これこそが、人間のもともとのまっとうな感覚だといえる。
どこから、「自分の」なんていう誤った考えが生まれたのだろう。

時々、ハルコが考え込んで「うーん。おもいださないー」と言う。
思い出せない、ではなく思い出さない、だ。
これは単純に言葉を間違えているだけではない。
その証拠は暫く経つと「あ、見えたよ」と言うからだ。
アキの「今、来たよ」と頭を指差して、おもむろに描き出す姿も同じ。
彼女たちにとって、記憶やアイディアも自分が持っているものではなく、
どこかからやって来るもの、与えられるものなのだ。

ここまで大きい話にするつもりはなかったが、
人間がこころというものを持った時、(そんな時があったのかは知らないが)
最初はこのこころに「自分の」という感覚はなかったと思う。
外の世界ばかりでなく、内部の自分のこころも、「自分の」ではなく、
「何か」、「動いるなにか」だったはずだ。
目の前で何かが動いている、何かがやって来るという感覚だったはずだ。

思い出せないという感覚より、思い出さないという姿勢の方が本来の形だと言える。
こんなことは認知科学かなにかの専門家が考えることなのだろうが。

「自分の」という感覚がすべてを歪めてしまっている。
それは弱さ以外の何者でもない。
弱いから守ろうとする、自分のものにして集めようとする。
ものでも精神でも同じだ。自分のという感覚で蓄えようとする。

人がまだ自然の中にいたころ。
必要なものはその時、集めて来ただけだろう。
食べ物は必要なだけ自然から採集する。
無くなれば移動する。こうしていれば、生態系も壊れない。
ところが、いつの日か計算の上で一定の作物を育てだした。
まさしく、蓄える、所有の始まりだ。ここから「自分の」あるいは、
「自分」自体ここから生まれたのかもしれない。
なぜ、始まってしまったのだろう。
おそらく、無くなってしまう不安があったのだろう。
安心や安全を求めたのだろう。
安心や安全を求めることは人間の本能だが、
行き過ぎると危険だということだ。
というより、安心や安全を求める気持ちが、
いつしか「自分の」という、もっと実体のない欲望に変わって行ったのだろう。

すべては弱さから来ている。
初めにふれた制作の場でのことと同じだ。弱点から目を背けてはならない。

それはそうとして、時には自分のという感覚を離れてみると面白いと思う。
こころにうかんできた事があったら、彼らのように、あっ来たーと、
素直に驚いてみたら、色んな発見がある。
当り前のように見ている景色も、自分のものだと思っている、
自分の身体もこころも、何処から来て貸してもらっていると認識すると、
感覚も感触も違ってくる。
人も仕事も、家族も、みんな今、ここにあるものは自分のものではなく、
こうして何かのために集まって来てくれていると感じてみたら。

こんな感覚で生きてみたら、物事の有難さも、世界の豊かさも、
もっともっと感じられるはず。

制作の場自体は作家とスタッフにしか見えない世界だけど、
こういう感覚をみんなが持てば、「場」で何が見えるのか分かるかも知れない。

2012年6月4日月曜日

仲間たち

またまたアレルギーの鼻炎が出てしまった。
鼻から頭にかけてかなり熱をもってきてしまったので、
昨日はお風呂もやめて、早い時間に寝た。
少し治まってきた。
いい病院がみつかったのだけど、ちょっと忙しくて行けていなかった。
そろそろ、行こう。
ゆうたのアレルギーと向き合いながら、10年以上ぶりに自分のアレルギーが、
出てしまったのも、何か運命なのだろうか。
それにしても、処方箋薬局の薬剤師の方が、とてもとてもやさしくて、
親身になって心配して下さって、やっぱりこういう部分は大事だなと思った。

さて、自分のことはまあいいとして、
昨日のアトリエは久しぶりに赤嶺ちゃん(元学生チーム)登場。
素敵な仲間も連れて来てくれた。
最近は男子が少ないので、このいながき君にはアトリエの良さを知ってもらいたい。
しかも18才。色んな良い出会いが、最も吸収出来る時期。
作家たちやこうした仲間たちをの関わりを作っていくことも、
大切な活動の一つだと思う。

三重での拠点づくりもそうだが、これからますます、輪を広げていきたい。
伝えていかなければならない。

10年前は、生徒にしてもたくさんの人と関わっていきたい気持ちだった。
今は自分の見ていける人数を考えることも多い。
教室自体もほぼ満員だし、それでも見て欲しいという方もいらっしゃる。
僕らの場合、相手の条件が難しくならなければ、
一旦関わった人とはずっと途切ず付き合っていく。
だから、10年、20年を見る気持ちがなければ受け入れられないし、
1人、2人では一生のうちに見られる人数は限られている。
こんなことはかつては考えもしなかった。

関西の方でお話をすれば、大阪や名古屋でもこのような活動をして欲しい、
というご意見もいただく。

今後、人が育つ環境を広げる必要がある。
場があれば人が自然に育っていく。作家もスタッフもそこは一緒だ。

これからの10年でどこまで行けるか、そこが勝負所だと思っている。
今日はこれから実現の可能性のある企画の打ち合わせに出掛ける。
まだ、詳細は言えないが、ダウン症の人たちの作品がまた、
可能性を生み出せる機会になっていくのではないだろうか。

2012年6月3日日曜日

もちつもたれつ

前回の続きというか、前回の内容の細かな部分にふれたいけど、
今日はあまり時間がない。
制作の場において実はとても大切な事の一つなのだが。
簡単に言うと、作家にしろスタッフにしろ、この場から何かを貰う、
そしてこの場に良いものを返すという循環の意識が大切だ。
良いものが自分のところに来たら、それを使ってみんなの場を良くしようとする。
これは人生においてもそうだと思う。
自分のところに集まって来たり、ひょいとやって来るものは、
自分を通して良く使われる為に来るのであって、
蓄えられるために来るのでは決してない。
自分自身のもって生まれた才能や能力だって、その後に身につけた技術や腕だって、
色んな条件が自分に与えてくれて、貸してくれていることは忘れてはいけない。
良くするために、使うためにある。

自分が持っているものを全部人のために使ったとしても、
それでも、自分に与えられているものの方が遥かに大きいことに気がつくはずだ。

場に返す、場のために使う、という言い方をした。
例えば、僕の場合、自分の人生で起きたこと、そこで経験したことは、
すべて制作の場に役立てようと思っている。
それを実践していると、今度はまた場が教え、与えてくれる。

腕で勝負している人たち(そんな人も少なくなった)はなおさらだ。
腕を磨くには経験が必要だが、経験は与えられたものだ。
仕事を重ねれば技が磨かれる。
その仕事は誰かが与えてくれたもの。
だから、腕や技は自分だけのものでなく、与えられて来たもの。

もし、思わぬ幸運がまいこんだとして、
どんなことを考えるだろうか。
ラッキーと思うか。
僕だったら、なぜ、なんのためにこの幸運は僕のところへ来たんだろう、
と考え、その経験の使い道と、返す場所を考える。

生きるサイクルはそういうふうになっている。

所有の意識が、損得勘定や勝ち負けをつくる。
そして狭い狭いからに閉じ込められてしまう。

損得勘定では本当の人生もおくれないし、本当の仕事も出来ない。

商売を生業とする人達でも、話していると、根っこのところでは、
お客様に喜んでもらいたいという損得勘定を離れた意識がある。
あっやっぱりそこなんだ、と嬉しくなる。
結局、ちょっと違いだけど、本当の仕事をしている人は、
対価な交換で満足している訳ではなく、
プラスアルファの部分を大切にしている。
そこまでは他も同じ。でも、そこにプラスがあるかどうかだ。

僕だって、前にも書いたかも知れないが、
こういうことをしている以上、当然、損得勘定ではとてもつとまらない。
場に使うこころのエネルギーは身体と直結している。
一つの場で疲れきってしまうのは、エネルギーの使い方が間違っているからだ。
自分の力でやってしまっていると疲れる。
それは何も知らない人のやり方。
僕らの場合は循環させる。自分自身は空っぽの器のようなもので、
エネルギーは場や、もっと大きなものの中にある。
僕らはそれを上手く循環させるだけだ。
だから疲れない。
でも、あくまでこれは基本というにすぎない。
基本だけですべてができるわけではない。
時には自分と言う個体のこころと身体的エネルギーを必要としている場面もある。
それがないともう、こころが動かないという人だっている。
そういう時、これは自分の身を削るしかない。
でも、その時、身を削るなんて意識は発生しない。
自然に当り前に身体が動く。
つまり、制作の場には損得勘定なんて動きようがない。
自分を守る意識や、少しでも自分を優位な場所におこうとする気持ちがあったら、
場自体が止まってしまう。
この時、自分という存在をまるごと使って、
相手にあげる場合、こちらにはかなり覚悟がいる。
こういうのは言ってしまうと美意識に反するが、ある意味で寿命を縮める行為だ。

それでも、そうしていると、良いものがたくさん、自分に与えられもする。

土曜日のアトリエで久しぶりに、新しいメンバーの1人と、
作品に向き合った時、かなりの力を使ったが、
本当に素晴らしいものが出来た。
こんな凄い世界を見せてくれるのだから、僕達は出来ることは何でもしなければ。

人と人。1人とみんな。人間と自然。世界や場。
人生はすべて持ちつ持たれつ。

2012年6月2日土曜日

所有とは何か

最近は少し減ってきたけど、こういう仕事をしていると、
いい人と勘違いされることも多い。
僕はいい人ではない。普通のというより、平均よりだらしない人間の部類だろう。
褒められないような生活をしてきた時期もあった。
人間性という意味では、例えばここへ来る学生達の方がはるかにいい。
だからこそ、せめて良い仕事ができればと思う。

制作の場において、最善をつくしてきた。
でも、偉そうなことを随分言って来たけど、
現場においても、理想とする状態には程遠い。
自分の現場がそれほど出来ているとは思わない。
そもそも、場の中で100点の仕事ができる人間がいたとしても、
(個人的にはいないと思っているが)
それだけでは上手くいくとは限らない。
こころという奥深く面白く、やっかいなものが相手だ。
たかだか、自分の実力くらいでなんとか出来るような相手ではない。
だからこそ、素晴らしいことがおきた時、感動がある。

仕事ばかりでなく、自分の力だけでなんとかしてやろうという感覚はだめだ。

それでも、まがりなりに真剣に向き合って来て、
こころというものの動きは少しだけは見えるようになった。

そんな、制作の場からの視点から言えることは、
私達の普段のこころの使い方が、かなり偏った、歪んだものだと言うことだ。
身体と同じように、こころも偏った使い方をしていると、
病気になったり、痛んだりして正常に機能しなくなる。
日常から正しいこころの使い方を心掛けねばならない。

そもそも、こころにも使い方があるということを、
学校でも教えないし、ほとんどの人は知らない。

身体もこころも粗雑に扱えば壊れる。

ダウン症の人たちの在り方や、作品を見ていると、
彼らが正しいこころの使い方が出来ていることが分かる。
ただ、彼らの場合はその理想的なバランスは極めてもろく、
壊れやすいことを知って、周りが大切にしていく必要がある。

さて、前回書き切れなかったことだが、
所有という概念がこころを歪めている原因として大きい。
もう無意識のうちに所有したいという、こころの動きが私達を縛っている。
まず、その事に気づくことが大切だ。
何故なら、所有の為に私達はこころのエネルギーのほとんどを費やしてしまって、
結果クタクタになっているからだ。
それでは気持ち良さ、心地良さを感じるこころの動きが生まれようがない。
従って不幸になる。
教育のことを何度か書いたが、大人は子供に何を教えているだろうか。
ほとんどは、損をしない方法や考え方、上手く勝つ道を教えている。
それは、無意識のうちに所有と繋がる。
誰だって勝ち負け、損得を考えて、負けるより勝ちたい、
損するより得したいと思っている。
実はその思考パターンが負けであり損なことに気がつかない。
勝ち負け損得を超えたところに、こころの機能を使わないと喜びは生まれない。

なぜ、勝ち負け、損得でものを見てしまうかと言うと、
所有しなければ、蓄えなければ、という切迫感があるからだ。
そして、所有の欲求とは恐怖から恐れから来ている。
恐れから生まれたものは人を破壊する。
失うことへの、無くなることへの恐怖から所有の欲求が生まれる。
出来るだけ、蓄えておこうとする。
世界が自分のものと、そうでないものの2種類に分かれて、
自分のものを出来るだけ外から集めようという事になる。

さあ、結論を言ってしまおう。
この考え方と、こころの使い方が分かれば私達はもっと豊かになれる。

人は蓄えたり、所有しようとすることでは救われない。
かえってこころが歪んでいくだけだ。
そもそも所有など本当は出来ない。
命が所有出来るだろうか。私達はいつ死ぬかも分からない。
食べ物だってお金だって、所有したつもりが、出来る訳がない。
だから、突然消えたりする。

たとえば、ダウン症の人たちの制作を見てみよう。
彼らは作品を自分の所有する才能から生み出していると思ってはいない。
どこからか来てくれるという風に感じている。
そうすると良い絵が描ける。

自分が持っている、所有している力や才能、あるいは権力を使っている、
という意識でいれば、やがては枯れていく。

どうやってこころを使うのか。構えを変えること。
すべては自分のものではない。自分は何も所有していない、
という感覚を持つと、こころは豊かに敏感に動く。
今、自分の前にあるものは全部借りているものだと思えばいい。
実際にそうだし。
だから正しく使う。
足りなくなったり、もっと必要になった時に、また借りればいい。

所有と違って、レンタルは管理する必要がないし、
自分の外に戻すことでより力を持って帰ってくる。

自分のものだと人は使い過ぎてしまう。
大切にしなくなる。ただ、失うまいとこころを使いすぎるだけになる。

例えば肉を腐らないように貯蔵する技術は尊敬に値するが、
ライオンにはそんなものは必要ない。
自然の中が貯蔵庫のようなものだ。
その中で自由に豊かになっていく獲物を、必要なときだけとってくればいい。

仕事も人間関係も、自分のものなどではない。
今、仮に自分に与えられていて、自分が正しく使って戻していかなければならない。

例えば、付き合いにしても本当の友達や大切な人とは、
そんなに頻繁には会わない。
大切にしているから、その人の時間を自分の所有にしたくはない。
そういう付き合いが、実はお互いを深め、理解を強くする。

僕も子育て中だが、愛情が強ければ強いほど、
子供が自分の所有ではないことを忘れてはいけない。
大人になって、1人で世界に向き合っていく時に、
みんなの為にたる人間を育てる。
世界から与えられた存在は世界に返す。

自分と言う存在だってどこかから与えられているのだから、
これを使って返していかなければならない。
それが与えられた役割というやつだろう。

所有に関しては、
もう少し具体的な細かいこころの動きと関係してくることなのだが、
今回は大枠だけのお話をした。
また機会があれば細かい部分を書いてみたい。
こういったことは、実は彼らの作品を読み取る上でとても大切な事だ。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。