2012年6月9日土曜日

義務と責任

何だか嫌なタイトルみたいだがしかたない。
今日はどうしてもそこを書かなければいけない気がする。

今日は雨。そろそろ梅雨入り。
夏が近いので夏の思い出でも書こうと思っていた。
記憶が自分を助けると言うことを以前書いた。
良い記憶を刻むということも。
教室をしていても、例えば他のことでも何でもそうだと思うが、
本当に良かった記憶や、その時の感触、安心感といったものが、
思い出されたり、現在とかさなったりする。
そういうふうに、良い経験や情景がくり返される。
良い場が生まれるためには、そういう経験が必要だ。
作家もスタッフも深いところで、一番大切な記憶を再現することがある。
それぞれの良い思いが重なって良い場が生まれる。

夏が来ると思い出す情景がいくつかある。
でも、今日はその話ではない。

原発や放射能のことについて、もう発言しないと言っておきながら、
少しだけ言わなければならない。
昨日の野田首相の発表を聞かれただろうか。
一言で言うと無責任。
今原発を動かすことが未来にどんな意味を持つのか、
あまりにも無責任な人が多すぎる。
ここではもう、この話にはふれない。
一つだけ、テレビのインタビューで街を歩く一般の人達の言葉があった。
そういう意見だけ編集したのだろうが、
原発がなければ困る、とか福井県に感謝してもらって良かったとかいう人がいた。
無知とは本当に恐ろしいことだ。
と言うより、ここまでは言いたくはないが、
無知とは罪であることをほとんどの人は自覚していない。
正しい知識は自分が得をするためにあるのでもなければ、
勉強して頭がいい人間になるためにあるのでもない。
正しい知識を持つことは、社会人としての責任であり義務なのだ。
なぜ、こんな当たり前のことを大人が教えないのだろう。

私達には義務と責任がある。
生きていて権利ばかりを主張する世の中になったが、
一番重要なことを忘れてはならない。
生きるとは、人間とは、絶えずどんな時も責任が伴うということだ。
責任のない場面はないと言える。
ところが、責任感がどんどん薄れている。
人間は他の動物とは異なる。他よりすぐれているという意味ではない。
社会という、人間にとってだけ意味を持つものを形成していると言うことだ。(動物愛護の人達はここを取り違えている)
子供には責任を教える必要がある。
何故なら責任や義務は本能ではないからだ。
この部分の自覚が足りないから、無責任な大人ばかりになってしまった。

こういう当り前な、常識を伝えないようになってはまずい。
政治家には当然、責任がある。
でも、選んだ方にも責任があることを忘れてはいけない。
よく悪い商品や偽物が発覚したり、産地偽装が発覚したりする。
むろん、それらをおこなった会社が悪いのだが、
このような土壌は私達の日々の選択に問題があることも事実だ。
良いものが消え、悪いものばかり生き残って行くのは、
買う方、選ぶ方に責任がある。
良くもないものを買ったり、見たり、褒めたりすること自体が、
悪いことであるいうことをしっかり知らなければならない。
悪いものを選ぶ人が多ければ、悪いものが増え、良いものが無くなる。
当然の仕組みだ。
選択する行為にも責任がある。
なぜ、世の中に良くないものがたくさんあるかというと、
それを欲しがる人がいるからだ。
時々、とんでもなく悪い政治家や、詐欺師や、会社がみつかる。
みんなでその人達を非難してスッキリする。
でも、誰が彼らに仕事を与えていたのか、考えなければならない。
騙された、だけではすまされない。

例えば、公共の場で人に迷惑になる行為を見たとする。
注意するのは、自分が相手を許せないからではない。
人間としての義務と責任だ。
教育でもそうだ。
そこを自分が許せるか、許せないか、我慢出来るか、出来ないかで判断する人がいる。
道端で倒れている人がいれば、助けるのは人としての責任だ。

良いものを貰ったり、良い人に出会って教わったりすれば、
責任が増える。と、僕は思っている。
僕が低いレベルにいれば、教えてくれた人に申し訳ない。
教えてもらったと言うことは、どういうことか。
もののように大切にしまっておけば良いという話ではない。
教えられたことを自分なりに実践する責任が生じたということだ。
僕はそう思ってきた。

伝える責任があるということをいつも書くのもそういうことだ。
制作の場で一人一人が見せてくれているもの、
そこに人間としての真実の世界があるから、
それを知ってしまった以上は伝えて行く義務がある。

社会のことをなぜ書くのか。
私達は狭いアトリエの空間に閉じこもっている訳ではないからだ。
ここだけ良ければそれで良いということではないからだ。
ここ自体が社会だ。
私達はみんな責任を負った社会的存在だ。
人類としての義務がある。
社会の中で役割があるからこのアトリエがあるのだ。
それらを無関係に考えること自体が無責任だ。

先日、終わりの場面だけ偶然見たのだけど、
あるアイドルグループ(そう呼ぶのかちょっと分からないが)の
選挙が放送されていた。本当に選挙と呼ばれているらしい。
かなり大掛かりなもので驚いた。
いつの間にこんな事になっていたんだろう。
こういうことを批判すると嫌われるらしい。
でも、まっとうな大人なら、嫌われたり攻撃されることを恐れて、
本当のことを口にしないのは良くない。
責任だ。だから言う。
こんなバカバカしいことに人生の時間を使っている場合ではない。
よく母親の言う「そんなことしてる暇があったら勉強しなさい」という、
意味のないセリフはこんな場面にこそ使うべきだ。
一番になったという人がコメントしていた。
彼女はあきらかに何かを成し遂げた人という立場で発言していた。
身近な人でまっとうな大人が教えてあげるべきだ。
あなたは、みんなから好かれようとして選ばれただけで、
まだ何も成し遂げた訳じゃないんだよということを。

それから、なぜそんなことも誰も言わなくなったかというと、
みんな好かれたいから、嫌われたくないからだ。
好かれたい、嫌われたくないは子供の欲求。
大人はそんな事は考えてはいけない。
先生が生徒に、親が子供に、大人が若者に、
好かれるため、嫌われないために発言するのは無責任だ。

これまでも、何度かここで多分、嫌がる人もいるだろうなあ、
と思うことを書いて来た。
批判も書いた。
攻撃することが目的ではない。人に嫌な思いをさせたい訳ではない。
でも、責任上、言わなければならない、黙っていてはいけないことがある、
ということだ。
本当は言いたくないことだ。

病気の子供に、あるいは大人でもいい、嫌がるから可哀想だからと、
注射や手術を諦める医者がいるだろうか。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。