何だか嫌なタイトルみたいだがしかたない。
今日はどうしてもそこを書かなければいけない気がする。
今日は雨。そろそろ梅雨入り。
夏が近いので夏の思い出でも書こうと思っていた。
記憶が自分を助けると言うことを以前書いた。
良い記憶を刻むということも。
教室をしていても、例えば他のことでも何でもそうだと思うが、
本当に良かった記憶や、その時の感触、安心感といったものが、
思い出されたり、現在とかさなったりする。
そういうふうに、良い経験や情景がくり返される。
良い場が生まれるためには、そういう経験が必要だ。
作家もスタッフも深いところで、一番大切な記憶を再現することがある。
それぞれの良い思いが重なって良い場が生まれる。
夏が来ると思い出す情景がいくつかある。
でも、今日はその話ではない。
原発や放射能のことについて、もう発言しないと言っておきながら、
少しだけ言わなければならない。
昨日の野田首相の発表を聞かれただろうか。
一言で言うと無責任。
今原発を動かすことが未来にどんな意味を持つのか、
あまりにも無責任な人が多すぎる。
ここではもう、この話にはふれない。
一つだけ、テレビのインタビューで街を歩く一般の人達の言葉があった。
そういう意見だけ編集したのだろうが、
原発がなければ困る、とか福井県に感謝してもらって良かったとかいう人がいた。
無知とは本当に恐ろしいことだ。
と言うより、ここまでは言いたくはないが、
無知とは罪であることをほとんどの人は自覚していない。
正しい知識は自分が得をするためにあるのでもなければ、
勉強して頭がいい人間になるためにあるのでもない。
正しい知識を持つことは、社会人としての責任であり義務なのだ。
なぜ、こんな当たり前のことを大人が教えないのだろう。
私達には義務と責任がある。
生きていて権利ばかりを主張する世の中になったが、
一番重要なことを忘れてはならない。
生きるとは、人間とは、絶えずどんな時も責任が伴うということだ。
責任のない場面はないと言える。
ところが、責任感がどんどん薄れている。
人間は他の動物とは異なる。他よりすぐれているという意味ではない。
社会という、人間にとってだけ意味を持つものを形成していると言うことだ。(動物愛護の人達はここを取り違えている)
子供には責任を教える必要がある。
何故なら責任や義務は本能ではないからだ。
この部分の自覚が足りないから、無責任な大人ばかりになってしまった。
こういう当り前な、常識を伝えないようになってはまずい。
政治家には当然、責任がある。
でも、選んだ方にも責任があることを忘れてはいけない。
よく悪い商品や偽物が発覚したり、産地偽装が発覚したりする。
むろん、それらをおこなった会社が悪いのだが、
このような土壌は私達の日々の選択に問題があることも事実だ。
良いものが消え、悪いものばかり生き残って行くのは、
買う方、選ぶ方に責任がある。
良くもないものを買ったり、見たり、褒めたりすること自体が、
悪いことであるいうことをしっかり知らなければならない。
悪いものを選ぶ人が多ければ、悪いものが増え、良いものが無くなる。
当然の仕組みだ。
選択する行為にも責任がある。
なぜ、世の中に良くないものがたくさんあるかというと、
それを欲しがる人がいるからだ。
時々、とんでもなく悪い政治家や、詐欺師や、会社がみつかる。
みんなでその人達を非難してスッキリする。
でも、誰が彼らに仕事を与えていたのか、考えなければならない。
騙された、だけではすまされない。
例えば、公共の場で人に迷惑になる行為を見たとする。
注意するのは、自分が相手を許せないからではない。
人間としての義務と責任だ。
教育でもそうだ。
そこを自分が許せるか、許せないか、我慢出来るか、出来ないかで判断する人がいる。
道端で倒れている人がいれば、助けるのは人としての責任だ。
良いものを貰ったり、良い人に出会って教わったりすれば、
責任が増える。と、僕は思っている。
僕が低いレベルにいれば、教えてくれた人に申し訳ない。
教えてもらったと言うことは、どういうことか。
もののように大切にしまっておけば良いという話ではない。
教えられたことを自分なりに実践する責任が生じたということだ。
僕はそう思ってきた。
伝える責任があるということをいつも書くのもそういうことだ。
制作の場で一人一人が見せてくれているもの、
そこに人間としての真実の世界があるから、
それを知ってしまった以上は伝えて行く義務がある。
社会のことをなぜ書くのか。
私達は狭いアトリエの空間に閉じこもっている訳ではないからだ。
ここだけ良ければそれで良いということではないからだ。
ここ自体が社会だ。
私達はみんな責任を負った社会的存在だ。
人類としての義務がある。
社会の中で役割があるからこのアトリエがあるのだ。
それらを無関係に考えること自体が無責任だ。
先日、終わりの場面だけ偶然見たのだけど、
あるアイドルグループ(そう呼ぶのかちょっと分からないが)の
選挙が放送されていた。本当に選挙と呼ばれているらしい。
かなり大掛かりなもので驚いた。
いつの間にこんな事になっていたんだろう。
こういうことを批判すると嫌われるらしい。
でも、まっとうな大人なら、嫌われたり攻撃されることを恐れて、
本当のことを口にしないのは良くない。
責任だ。だから言う。
こんなバカバカしいことに人生の時間を使っている場合ではない。
よく母親の言う「そんなことしてる暇があったら勉強しなさい」という、
意味のないセリフはこんな場面にこそ使うべきだ。
一番になったという人がコメントしていた。
彼女はあきらかに何かを成し遂げた人という立場で発言していた。
身近な人でまっとうな大人が教えてあげるべきだ。
あなたは、みんなから好かれようとして選ばれただけで、
まだ何も成し遂げた訳じゃないんだよということを。
それから、なぜそんなことも誰も言わなくなったかというと、
みんな好かれたいから、嫌われたくないからだ。
好かれたい、嫌われたくないは子供の欲求。
大人はそんな事は考えてはいけない。
先生が生徒に、親が子供に、大人が若者に、
好かれるため、嫌われないために発言するのは無責任だ。
これまでも、何度かここで多分、嫌がる人もいるだろうなあ、
と思うことを書いて来た。
批判も書いた。
攻撃することが目的ではない。人に嫌な思いをさせたい訳ではない。
でも、責任上、言わなければならない、黙っていてはいけないことがある、
ということだ。
本当は言いたくないことだ。
病気の子供に、あるいは大人でもいい、嫌がるから可哀想だからと、
注射や手術を諦める医者がいるだろうか。