2012年6月27日水曜日

深く掘ること

さて、前におおきな木の夢を書いたけど、
そろそろもう一つの夢の話を書こうと思う。

あれから数日後に見た夢だ。
今度は映画館にいる。僕ともう1人誰かが映画を見ながら話している。
画面には様々な景色が映し出されているが、あまりストーリーらしいものはない。
僕はあのおおきな木のことを思い出す。
懐かしいと思う。そして、それが本当にあったことだったのかなあと、考える。
スクリーンはかなり大きくなる。
突然、映像がぶつぎれになり、連続性がなくなる。
すべての場面が明晰にはっきりと映し出されるが、
それら一つ一つは全く繋がりを持たない断片のようだ。
しかも凄まじいスピードでどんどん場面が変わって行く。
見ている側の視点すら、上からになったり斜めからになったり、
瞬間に変わって行く。
スクリーンに映し出されている絵は、どの場面も、そこだけで完結している。
細部がクローズアップで明晰に映し出され、
次の瞬間にはまた連続性のない別の細部にスポットが当たっている。
バン、バン、バン、と場面が変わって行く。

僕は映画をみながら、これだよ、この情景だよ、と思う。
もう1人の人に
「これが僕が以前に一緒に過ごしていた自閉症の人から見た世界だよ」
と説明しているところで夢は終わる。

確かに変な夢なのだけど、僕のテーマそのままな気もしてくる。
この夢では自閉症の人の世界が出てくるのだけど、
ダウン症の人にしても、僕は彼らをただ客観的に外から見ているのではない。
彼らの内面の世界を、絵や場を通して、
多くの人に体感してもらいたいと思っている。

夢では見なかったけど、これがダウン症の人たちの場合はどうだろう。
思い切って描写してみよう。
なんの科学的根拠もない、「感じ」にすぎないので、
こういう風に感じる人もいるのか、くらいに思っていただければ良いと思う。

あの映画で個別のものが細部までリアルに見えていたのとは逆で、
ダウン症の人たちの場合は、細部は曖昧にぼやけている。
あそこでは一つ一つがぶつぎれでなんの連続性もなかったが、
こちらは連続性の方に比重がかかっている。
個別のものは境界があいまいに滲んでいる。
あのスピード感とは反対に、時間が止まっているように感じられる。
どこまでがそのものの固有性なのか判断出来ない程に、
連続性の中に溶け込んでいる。
まるで遠くから見ると一色に見える滲んだ色が、
近付くとわずかにいくつかの色が混ざっている、
でも、それらの色を一色づつに分けることなど不可能なくらいに、
混ざり合っている、という情景のようだ。

さて、この2つの見え方、感じ方、2つの世界は存在している。
誰も証明することは出来ないが、あることは事実だ。
大切なのは、私達が見ている世界だけが唯一のものではないということだ。

ただ、その後にこういう事をどう解釈するかは人それぞれだ。

今回は思い切って、体験的な実証不能な情景を書いてみた。
僕自身は、こういったことは人間とは何か、人間のこころとは何か、
ということを考えるキーだと思っている。
すべては私達1人1人のこころの中にある。

以前、ハルコとの思い出を書いた。
夏の合宿で彼女と石投げをしたり、穴を掘ったり。
あそこで彼女が暗示している「深く、もっと深く掘る」
「お空までと届くまで」ということは、
実は僕の人生の一番のテーマを示しているように思える。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。