さて、書くことは色々あるのだが、今日も少し別の話題。
昨日の夜、以前お世話になっていた共働学舎(現NPO法人)の、
まことさんから電話があった。
メンバーの1人のことで相談だった。
人間関係があんまり上手くいかないという人だが、
話していても人の話題はなかなか出て来ないと言う。
その中で、まことさんは何とか糸口を探すように対話を重ねている。
彼の口から「佐久間さん」という名前だけは登場するという。
彼と出会ったのはもう12、3年も前のことなのに。
今でも思い出すが、あんまり人と話さない彼が初めて会って、
僕としばらく遊んで話してくれたこと。
その夜、彼の部屋へ行くと、彼はもう寝ていたが机の上にノートが広げてあった。
小さな文字で、「今日出会った人。佐久間さん」と書いてあった。
僕はたくさんの人に出会って来たし、責任も強く感じている。
今、進めていることが、いつか誰にとっても良いものになって欲しい。
東京での活動としてかせられている仕事は苛酷なものでもある。
昔のように誰でも受け入れることは出来なくなった。
身体にも時間にも限界がある。
する必要があるのに、出来ないことは葛藤でもある。
でも、今僕達が優先させている活動は間違っていない。
まことさんと久しぶりに話せたことは、楽しい時間だった。
佐久間、変わったなと思ったかも知れない。
僕は僕で、だからまことさん、あまいんだよと思うところもある。
「土地もある。お前がやるなら、出来る環境があるぞ」
「本当に。じゃあ協力して何か創ろうよ。」
「よーし。言ったなあ。一緒にやるぞ。はじめるぞ」
「だからー。僕にももう責任があるんだよ。今、ある場も守らなきゃならない」
こんなことを言ってくれる人は貴重だ。
さんざんお世話になりがら、古い、とか、美意識に欠けるなあ、
とかあまいんだよなあ、とかいつも思ってしまって、
それでも付き合ってくれる人生の先輩がいることは、素直に嬉しい。
僕のような理解のされにくい、どこの馬の骨とも知れない小僧を、
お前、面白いぞ。お前のする事なら応援するぞ、と言ってくれたのは、
十代の頃に出会った禅寺の老師と学舎のまことさんと、
アトリエの肇さん敬子さんだったことは、今でも有難いと思っている。
来客の方、ご見学の方が増えているというお話は書いた。
今月に入ってから何名も対応していたから、
その間、スタッフのゆりあには頑張ってもらっている。
時にはそんなにしなくてもいいんじゃないの、と思うかも知れない。
先日、教室の後に僕はゆりあに話しかけていた。
「いっぱい人が来るでしょ。ゆりあ、人間には2つの眼と耳があって鼻と口がある。みんな一緒だよ。みんな同じ条件で、この同じ場所に入る。分かる?でもあの人達には僕に見えているような世界は見えないんだよ。見えるか、見えないか、それは僕には分かる。なぜ見えないと思う?見ようとしないからだよ。みんな同じ眼と耳をもって、同じ場にいて見えるものが違うのは経験の違いではない。見ようとする意志。感じようとする意志。すすんで自分の限界を超えて行こうとする勇気と、自分の知らない世界を見てみよう、学んでみようと思う謙虚さ。つまりはこころが見える世界を決めている。だから、伝えることは決して無意味ではない。伝えることで、僕の見ているものやダウン症の人達の世界が見えることはない。それは自分で見るしか方法はない。でも、伝えることで、その人が見る意識を変えるかも知れない。そうすれば、何かが見えてくる。だから、僕は見せるし伝えることをやめない。1人の人に伝わらないなら、他の人にも伝わらないだろう。そうだったら、僕達の活動に意味はない」
気がつくとこんな話になっていた。
彼女には分かっていることではあっただろうけど。
教室の場は作家が優先されるべきだ。
だから、どんな場合も場が保てるように来客には制限をつくる。
その上で条件が許される場合を見極めて、お客様を迎えている。
その事を少しだけこころにとめておいていただきたい。
そして、時間と人数の都合で未だアトリエにお越しいただけていない方に、
いつか機会をつくりますので、しばしお待ち下さい。
同時に、興味本位の方については、
それも悪いとは言えないけれど、
何でも見さえすれば分かるとは限らない、ということを知っていただきたい。
眼で見ても分からないことはいっぱいある。
こころで感じること。それはどんな場所にいても出来ること。