2012年6月5日火曜日

「自分の」という感覚

ところで、よく自分のものにしろということが言われるが、
あんまり自分のものにしない方がいい。
というか「自分の」という感覚が、感性を退化させてしまう。
所有について書いて来たが、所有を一言で言うなら、この「自分の」という感覚だ。

よく話していることだけど、
スタッフや関わる人間にとって、制作の場は人生や世界の縮図だ。
これは比喩ではない。実際にそうなのだ。
だから現場において課題があるなら、それは自分の人生の課題と言える。
自分の駄目さももろにでてしまう。
だから、逃げることは出来ない。
例えば関わる相手との距離が近くなりすぎる人。
場面に夢中になり過ぎて周りが見えなくなる人。
逆に距離がどうしても近づけない人。
こういった癖は自分の人生での生活での弱点が、相手を通して出て来ている。
相手を安心させられない人。短い時間で満足感を与えられない人。
逆に甘えさせ過ぎてしまう人。遊び過ぎてしまう人。
こういう場面は恋愛関係や仕事の進め方や家族関係にも共通している。
だから、制作の場でどんな空間が生まれるかは、
一つはスタッフの生き方や生活が大きく関係してくる。
他は誤摩化してこの場だけ良くしようとしてもそうはいかないものだ。

前置きが長くなってしまった。
何を言いたいかというと、制作の場を通してみると、
この「自分の」「自分の」ものという感覚ほど駄目なものはないということだ。
自分の価値観、自分の考え、自分の思い、自分の感情、自分の能力。
場に入ったらこうしたものに左右されてはならない。
全く役にたたないどころか、自分を縛り身動きが取れなくなってしまう。
判断力も鈍るので危険であるともいえる。
男は特に気をつけなければならない。
プライドというものは、その代表だからだ。
意味のあるものにすら、しがみつくと危ないのに、
意味のないものにしがみつくのはなおさら危険。

自分のものなど何もないと、書いた。
すべては借りているもの、有効に大切にみんなのために使うべきだと。
そうするとまた帰ってくると。
これこそが、人間のもともとのまっとうな感覚だといえる。
どこから、「自分の」なんていう誤った考えが生まれたのだろう。

時々、ハルコが考え込んで「うーん。おもいださないー」と言う。
思い出せない、ではなく思い出さない、だ。
これは単純に言葉を間違えているだけではない。
その証拠は暫く経つと「あ、見えたよ」と言うからだ。
アキの「今、来たよ」と頭を指差して、おもむろに描き出す姿も同じ。
彼女たちにとって、記憶やアイディアも自分が持っているものではなく、
どこかからやって来るもの、与えられるものなのだ。

ここまで大きい話にするつもりはなかったが、
人間がこころというものを持った時、(そんな時があったのかは知らないが)
最初はこのこころに「自分の」という感覚はなかったと思う。
外の世界ばかりでなく、内部の自分のこころも、「自分の」ではなく、
「何か」、「動いるなにか」だったはずだ。
目の前で何かが動いている、何かがやって来るという感覚だったはずだ。

思い出せないという感覚より、思い出さないという姿勢の方が本来の形だと言える。
こんなことは認知科学かなにかの専門家が考えることなのだろうが。

「自分の」という感覚がすべてを歪めてしまっている。
それは弱さ以外の何者でもない。
弱いから守ろうとする、自分のものにして集めようとする。
ものでも精神でも同じだ。自分のという感覚で蓄えようとする。

人がまだ自然の中にいたころ。
必要なものはその時、集めて来ただけだろう。
食べ物は必要なだけ自然から採集する。
無くなれば移動する。こうしていれば、生態系も壊れない。
ところが、いつの日か計算の上で一定の作物を育てだした。
まさしく、蓄える、所有の始まりだ。ここから「自分の」あるいは、
「自分」自体ここから生まれたのかもしれない。
なぜ、始まってしまったのだろう。
おそらく、無くなってしまう不安があったのだろう。
安心や安全を求めたのだろう。
安心や安全を求めることは人間の本能だが、
行き過ぎると危険だということだ。
というより、安心や安全を求める気持ちが、
いつしか「自分の」という、もっと実体のない欲望に変わって行ったのだろう。

すべては弱さから来ている。
初めにふれた制作の場でのことと同じだ。弱点から目を背けてはならない。

それはそうとして、時には自分のという感覚を離れてみると面白いと思う。
こころにうかんできた事があったら、彼らのように、あっ来たーと、
素直に驚いてみたら、色んな発見がある。
当り前のように見ている景色も、自分のものだと思っている、
自分の身体もこころも、何処から来て貸してもらっていると認識すると、
感覚も感触も違ってくる。
人も仕事も、家族も、みんな今、ここにあるものは自分のものではなく、
こうして何かのために集まって来てくれていると感じてみたら。

こんな感覚で生きてみたら、物事の有難さも、世界の豊かさも、
もっともっと感じられるはず。

制作の場自体は作家とスタッフにしか見えない世界だけど、
こういう感覚をみんなが持てば、「場」で何が見えるのか分かるかも知れない。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。