夢をみた。
大きな大きな、木の夢。
それにしても不思議な木だった。
目の前で見ると、そんなに大きくはない。
細い幹が三本位かさなっている。少し緑の葉っぱもある。
僕が大好きな巨木のような感じとは違う。
見上げると、それがどこまでも大きい。
一番上が見えないくらい。
どこまでも、どこまでも上にのびている。
これほど、大きなものは見たことがない。
不思議な気配がただよっている。
その木の前に3人ほど人がいて、じっと木を見上げている。
その中に僕がいるのかどうか、定かではない。
いずれにしろ、誰もそんなに特定出来る人物ではなく、
あくまで木が中心になっている。
視点は下へ行ったり、上に行ったりする。
上に向かうと急に巨大なものにクローズアップする。
あれは一体なんだったんだろう。
分からないが不思議な安らかさがあったのは事実だ。
僕は夢をほとんど見ない。
興味もそれほどない。
心理学や精神医学の方々は夢に関心をいだく。
僕にとっては夢はそれほど重要ではない。
前にも書いたが、深い経験をしている時は現実が夢のように感じられる。
そちらの方が興味深い。
でも、あの夢の大きな木の感触は今でも残っている。
思い出すとどこまでも大きく広がる空間がありありとうかぶ。
今にもそこへいけそうな、手に触れられそうな感触だ。
あの夢の中での、その場が遠い過去でも、遥かな未来でもあるような感覚は、
やはりアトリエでみんなと共有している世界に近い。
1人の作家とのやりとりが、他の人とのものと重なっていたり、
他の人と既に経験したことが、その人と再び経験したりする。
場自体が、あれ、この場面は数年前にもあったなという風に、
何度もくり返されたりする。
信州にいたころ、農業を取り入れた生活をしていた。
これは本当に季節感が深くなる。
人生には変化と同時にくり返しの要素が強い。
四季は何度もめぐる。
その中で自分の人生や人との出会いと別れが経過されて行く。
あの場所でたくさんの経験をしてきた。
たくさんの人がやってきて、そしてさって行った。
確実に何かを残し、刻み、でも、2度と同じ時間には戻れない自覚をもって、
永遠に消えて行く。また、全く新しい何かが生まれる。
たくさんの出会いの中で、みんなが残していったこと、
その一つ一つが、四季の変化の中で思い出される。
田植えの時期、稲刈りの時期、草取りの時期。真冬のすべてが真っ白な時期。
去っていく人や消えて行く景色を感じるのは寂しいこと。
切ないことだ。けれど、それは形を変えてまたくり返される。
あの時はあんな事があった。あの人が居た。
その時のお米の収穫はこれ位だったとか。
そんな風に季節の中で刻まれ、時の流れが自覚されていた。
それが農業のいいところでもある。
と言っても農業を美化したり、農業が清く正しい行為で、
それが自然と生きることだというような、
かえって都会的な考え方には反感を抱く。
そんな宮沢賢治のようなことを言ってはいけない。(宮沢賢治自体は好きだけど)
この前も書いたが農業の中には蓄えようとしたり、
自然を管理してコントロールしようとする、
人間の悪い癖が現れていることも事実だ。
まして、農業は善人がやるもののようなイメージはなんとかすべきだ。
人生は道徳の教科書のようにはいかない。
それはともかく、農業をしていると、くり返しという感覚と、
季節の感覚が皮膚に刻まれて行く。
自然や人を慈しむ気持ちが生まれる。
夏の終わりに田んぼのわきで寝そべって、空を見ていた。
人はなんて小さいんだ、と思った。
そして、こうしているけど、こんな人生はすぐに消えてなくなるな、
本当に短いな、と感じた事がある。
そんな、何気ない思いが、
数年前、東京のベランダでハンモックにのっている時に再現された。
あ、たしかそんな事感じてたな、と。
夜になると、寝る少し前に悠太がグズる。
ちょっと夜風に当てると落着く。
それで泣出すと、抱っこして外を散歩する。
悠太はすぐにおとなしくなって、公園の木をじっと見る。
緑の葉っぱを目でおっている時の顔つきは、本当に真剣でやさしい。
彼には一体どんな風に見えているのだろう。
いつかまた、2人で、3人で、こんな風に景色を見るのだろうか。
あの夢の、おおき大きな木は、
もしかしたら悠太の目にうつった景色なのではないか。
このアトリエで10年も一緒にいる作家が、
最初の頃の場面を急に思い出したりする。
思い出すというよりは、その場面が戻ってくる。
戻って来たものは、以前にあったものより深くなっている。
そのとき気がつかなかった事に、今気がついたり。
時を重ねることによってしか見えて来ないもの、
時間を刻んでこそ分かること、とは多分こんなことだろう。
どんどん、どんどん、深くなって、
どんどん、どんどん、美しくなる。
でも、その分、悲しみも知っていく、本当の切なさも分かってくる。
そして、やさしくなっていく。
くり返される時間が少しづつ、変化していく。
シューベルトの交響曲弟9番のように。