2012年6月10日日曜日

シューベルト

夢をみた。
大きな大きな、木の夢。
それにしても不思議な木だった。
目の前で見ると、そんなに大きくはない。
細い幹が三本位かさなっている。少し緑の葉っぱもある。
僕が大好きな巨木のような感じとは違う。
見上げると、それがどこまでも大きい。
一番上が見えないくらい。
どこまでも、どこまでも上にのびている。
これほど、大きなものは見たことがない。
不思議な気配がただよっている。
その木の前に3人ほど人がいて、じっと木を見上げている。
その中に僕がいるのかどうか、定かではない。
いずれにしろ、誰もそんなに特定出来る人物ではなく、
あくまで木が中心になっている。
視点は下へ行ったり、上に行ったりする。
上に向かうと急に巨大なものにクローズアップする。

あれは一体なんだったんだろう。
分からないが不思議な安らかさがあったのは事実だ。

僕は夢をほとんど見ない。
興味もそれほどない。
心理学や精神医学の方々は夢に関心をいだく。
僕にとっては夢はそれほど重要ではない。
前にも書いたが、深い経験をしている時は現実が夢のように感じられる。
そちらの方が興味深い。

でも、あの夢の大きな木の感触は今でも残っている。
思い出すとどこまでも大きく広がる空間がありありとうかぶ。
今にもそこへいけそうな、手に触れられそうな感触だ。

あの夢の中での、その場が遠い過去でも、遥かな未来でもあるような感覚は、
やはりアトリエでみんなと共有している世界に近い。

1人の作家とのやりとりが、他の人とのものと重なっていたり、
他の人と既に経験したことが、その人と再び経験したりする。
場自体が、あれ、この場面は数年前にもあったなという風に、
何度もくり返されたりする。

信州にいたころ、農業を取り入れた生活をしていた。
これは本当に季節感が深くなる。
人生には変化と同時にくり返しの要素が強い。
四季は何度もめぐる。
その中で自分の人生や人との出会いと別れが経過されて行く。
あの場所でたくさんの経験をしてきた。
たくさんの人がやってきて、そしてさって行った。
確実に何かを残し、刻み、でも、2度と同じ時間には戻れない自覚をもって、
永遠に消えて行く。また、全く新しい何かが生まれる。
たくさんの出会いの中で、みんなが残していったこと、
その一つ一つが、四季の変化の中で思い出される。
田植えの時期、稲刈りの時期、草取りの時期。真冬のすべてが真っ白な時期。
去っていく人や消えて行く景色を感じるのは寂しいこと。
切ないことだ。けれど、それは形を変えてまたくり返される。
あの時はあんな事があった。あの人が居た。
その時のお米の収穫はこれ位だったとか。
そんな風に季節の中で刻まれ、時の流れが自覚されていた。
それが農業のいいところでもある。

と言っても農業を美化したり、農業が清く正しい行為で、
それが自然と生きることだというような、
かえって都会的な考え方には反感を抱く。
そんな宮沢賢治のようなことを言ってはいけない。(宮沢賢治自体は好きだけど)
この前も書いたが農業の中には蓄えようとしたり、
自然を管理してコントロールしようとする、
人間の悪い癖が現れていることも事実だ。
まして、農業は善人がやるもののようなイメージはなんとかすべきだ。
人生は道徳の教科書のようにはいかない。

それはともかく、農業をしていると、くり返しという感覚と、
季節の感覚が皮膚に刻まれて行く。
自然や人を慈しむ気持ちが生まれる。

夏の終わりに田んぼのわきで寝そべって、空を見ていた。
人はなんて小さいんだ、と思った。
そして、こうしているけど、こんな人生はすぐに消えてなくなるな、
本当に短いな、と感じた事がある。
そんな、何気ない思いが、
数年前、東京のベランダでハンモックにのっている時に再現された。
あ、たしかそんな事感じてたな、と。

夜になると、寝る少し前に悠太がグズる。
ちょっと夜風に当てると落着く。
それで泣出すと、抱っこして外を散歩する。
悠太はすぐにおとなしくなって、公園の木をじっと見る。
緑の葉っぱを目でおっている時の顔つきは、本当に真剣でやさしい。
彼には一体どんな風に見えているのだろう。
いつかまた、2人で、3人で、こんな風に景色を見るのだろうか。
あの夢の、おおき大きな木は、
もしかしたら悠太の目にうつった景色なのではないか。

このアトリエで10年も一緒にいる作家が、
最初の頃の場面を急に思い出したりする。
思い出すというよりは、その場面が戻ってくる。
戻って来たものは、以前にあったものより深くなっている。
そのとき気がつかなかった事に、今気がついたり。
時を重ねることによってしか見えて来ないもの、
時間を刻んでこそ分かること、とは多分こんなことだろう。

どんどん、どんどん、深くなって、
どんどん、どんどん、美しくなる。
でも、その分、悲しみも知っていく、本当の切なさも分かってくる。
そして、やさしくなっていく。

くり返される時間が少しづつ、変化していく。
シューベルトの交響曲弟9番のように。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。