2014年10月31日金曜日

命の輝き

ここ数日、何度か燃えるような夕焼けに遭遇した。
と、書いてみてそうか、そもそも夕焼けって夕が焼けると書くのか、と気がつく。

最近、言葉が安くなったと思う。
思ったことを何でも書くという人も多い。

そんな中でどんな言葉を紡いで行ったら良いのか、と考えさせられる。

社会情勢を見ていても、いや、つまり今というこの場面を見ていて、
本当に今言わなければいけないこと、
書かなければならないことはもっと別のことなのだという思いがある。

ただ、僕にはそれを発信するだけの力はない。

だからこそ、自分の仕事の中で答えて行かなければ、という思いが強い。

ここ1、2年、断続的に制作の場に撮影が入っている。
先日、監督からこれまでのサンプルを少し見せて頂いた。

映像に対して否定的な見解を持って来た僕だけど、
そこには確実に何かが映っているような気がした。
一言で言えば可能性を感じた。

東京都美術館でのあの素晴らしい展示にしても、
学芸員の中原さんとの対話だったと思っている。

僕達は仕事を通して対話する。
それぞれが形で示して来る。そこにこちらも形で返す。
それが相手への敬意の示し方の唯一の方法だと思っている。

何度も書くが制作の場において、インチキは通用しない。
全て形となって現れるものだ。
作家達は必ず形で示して来る。
これに形で答えて行かなければ、すぐになんだ、つまらないな、でおしまいだ。

今の社会の中でどのように、振る舞うべきか、それは突きつけられた問いでもある。

作家達と付き合っていて、作品だけではなく、凄いもの出して来たなあ、
ということが沢山ある。
真っ正面から受けて、それをどうするのか。
そこが大切だ。

場に立っていて、これまで以上に自分の人生を感じることが増えて来た。

ただ見ていただけで感動したと言ってくれる人がいる。
作家達の姿にもスタッフの姿にも、見た人の心を打つものがある。
また、場とはそういうものでなければいけないと思っている。

絵でも、映画でも音楽でも、本でも、何でもいいから、
圧倒的なものに触れる経験を積んで行く。
その経験が僕達を助けてくれる。

美しいものというのははかり知れないものだ。
ちょっと良い、何となく心地良いといった程度のものではない。
これ以外にあり得ない、これしかないと感じるような圧倒的な世界。
そういうものにこそ出会う努力をしていくこと。

これまでの経験が全部吹っ飛んでしまって、
ああ、この今のためにだけ全てはあったのだ、と思えるような。
もっと言えば危ないことかも知れないが、
これ以外の全てはとるに足らないどうでも良いことなのだとさえ思えるような。
そんな瞬間を経験すること。

だから、そこまで行かないような、絵や映画や音楽をあるいは文章を、
どれだけの数を集めてもくだらないおままごとにすぎない。

こんなことを書いているのも、
久しぶりにCDでサンソンフランソワのピアノを聴いていて、
その影響があるかも知れない。
フランソワもタイプとしてはあんまり好きではなかった。
最近また惹かれるようになって来て不思議だ。

フランソワの演奏を一言で言えば、豊穣さであり過剰さであると思う。
ある意味でやり過ぎ。
でもそこにこそ惹かれている。
思えば制御が行き届き過ぎて、小さく小さく生きている現代の人間。
あまりにチープでちゃちな表現と生き方だらけ。
こんな時だからフランソワに魅力を感じるのかも知れない。

あれだけのテクニックがあれば、しっかりコントロールして、
練習もして構成もちゃんとつくれば、
誰しもが認める非のうちどころのない演奏が出来ただろう。
でもそこじゃないというところがフランソワの素晴らしさだろう。

壊れても崩れても、一瞬輝く何かの方がよっぽど大切だという感性。
立川談志だって、恐ろしい位、落語が上手い。
でも上手さを超えた何か言うに言えない世界を表現出来てこそ、
という思いがあの芸をつくっていた。

フランソワは破滅型の天才の典型的な例だったから、
破綻した生活が若死にの原因になったのは間違いないだろう。
それでも才能に溺れて甘えている芸術家とは一線を画している。
どこが違うか。圧倒的な何かを形に出来ているかどうかだろう。
あの演奏の前では破綻もなにもない。
悲劇とか不幸とか、そういうものを無化してしまう輝きがある。
あの音楽の前で幸福とか不幸とか、早死にとか長生きとか、
そんな価値観が通用しようがない。

一瞬の美の前にすべてを犠牲にしたとも言えるが、
その美はあまりにも圧倒的なものだった。

この前では他のものは無価値に見える、というだけの何か。
過剰と言ったのはそういうことで、談志の落語にもそういう瞬間があった。

好きな映画の話をするとその人がどんな人か分かってくる。
例えばフェリーニの作品で何が一番好きか、
「道」なのか「8 1/2」なのか。
僕なら迷わず「甘い生活」を選ぶだろう。
フランソワのように豊穣さ過剰さに溢れた作品。
多分古びることはないだろう。
虚しさ痛ましさ、儚さ切なさ、救いようのなさ、それ故にひときわ輝く瞬間。
風景、リズムとテンポ、疾走感、目がくらむほどの美しさ。

この瞬間のためにこそ全てがあったかのような、輝く時。

確かに普通に生きて行くためには、
様々なことでセーブをかけて行くしかないだろう。

でも、時には、この世界はもっともっと凄いものだということを思い出したい。

僕自身はどんな世の中になろうとも、
場に立つ以上はどこまでも輝く瞬間と、
どこまでも深く進む覚悟を持ち続けたい。

2014年10月28日火曜日

夕焼けと木枯らし

今日は少し冷えるようだ。

よしこが送ってくれたゆうたの保育園での写真。
外での笑顔はまた違ってかわいい。

昨日の夕方、輝くような強いオレンジの光が遠くから見えていた。
沈んで行く太陽は大きかった。

いつでも全力で取り組んで来た。

日曜日、疲れもあったのかも知れないが、うっかり忘れていた。
以前働いていたところの仲間達が東京に来ていて、
行く予定をしていたのだが、行かなかった。

行きたかったなあ。
みんなに会いたかったなあ、と思う反面、
もういいんじゃないか、という気持ちもある。
忘れてしまったというのも、僕が無意識に選択したのではないか、と。

あんまり厳しい姿勢をとると孤立して行く。
また嫌なことを言うと思う人もいるかも知れない。

もし行っていたら、またスッキリしない気持ちで帰って来ただろう。
一緒にやって来たからこそ、共感出来ないことはある。

前に進む気持ちがないのなら仕方がない。
誰も人を強制することは出来ないし、してはならない。

夜、テレビを見た。
たまに書いているから番組名も良いだろう。
NHKのプロフェッショナルという番組。
歯科医師の方だった。
とても素晴らしいお仕事をされていた。
こういうのを見ると励みになる。

他の歯科医師達を教えている場面があって、考えさせられた。
患者さんとの関係もそうだ。

信念を持ってブレてはならない、ということが現状ではなかなか難しい。
教えられて自分の仕事で患者さんに向き合ったとき、
すべきことを貫けないという例も紹介されていた。
歯医者は虫歯になった時に、
痛みをとってもらう場所という認識が一般的だからだ。
たいして、この方は患者さんに正しい知識を伝え、
どのように生きて行く中で、歯を保って行くか、という視点に立ち続ける。

虫歯を治してもまたすぐになる、また治すという現状に異議をとなえる。

予防にも徹底して力を入れている。
当たり前のことかも知れないが、
こういうシンプルなことが様々な場所で実践されていない。

本当にみんなのためを考えた時には、
今すぐに望まれたり期待されたりする方向と違う選択をとらざるを得ないことが多い。
人がすぐに喜ぶこととは単純に今の痛みをとってもらうことだから。

全体の文脈を正しく把握したとき、最善の選択は、
一見遠回りで手間もかかって敬遠されていることをしっかりやって行くことにある。

遠回りに見えることが一番近道かも知れない。
コストがかかることが、長い目で見ると一番低コストかも知れない。
手間暇かかることが最終的には一番無駄のないことかも知れない。

今の世の中の常識では、みんなのためとか、誰々のためといった選択が、
合理的で分かりやすいことにしか目がいかない。
安いけどすぐに壊れるものを買い続けて、結局高くついた、という話といにている。

考えぬいて、信念を持って、ブレずに、伝える努力もしっかりして行く。
その覚悟が必要だ。

予告で見たのだが、来週は更に必見。

夜は木枯らしが吹いた。

さて、良い仕事をしていきたい。

2014年10月27日月曜日

最近のこと2

良い天気ですね。

精神面、身体面で調子を崩している人も多い時期です。
ちょっとでも心地良い時間を過ごしてもらえる場でありたいです。

色んな波があって、良いことも悪いこともあります。
それが生きているということだから。

よしことキクちゃんを中心に「エレマンの気まぐれ商店」が始まっています。
HPも日々更新されていますので、是非是非ご覧下さい。

ここ数日も場に立っていて、素晴らしい時間が流れ続けた。
作品も凄いのばかりで。

流れは日に日に自然になって行く。

場に入るために努力を重ねて来たこともあった。

今は場が自分をどこかへ連れて行ってくれている実感がある。

場の流れのに従っている時だけが本当の時間だと思える。

これからは磨きをかけていく段階に入るだろう。

そして、今の僕はここで出来ることをイサに見せて行くことを重視している。
出来るだけたくさん、見ておいて欲しいと思っている。

場において全体を見極める中心にいる人間は一人でなければならない。
その役割はいずれはイサになって行くだろう。
勿論、他の人材も同時に育って行かなければならない。

急ぐことは危険だけど、これも少しづつ移行して行く。

季節は変わって行く。
いつでも大切に生きて行こう。

2014年10月24日金曜日

最近のこと

この5日間くらいで書くことも溜まってしまったけど、
これからは落ち着いたペースで行きたい。

今日は日中ちょっと暖かかったが、ここ数日ですっかり寒くなった。

秋もすぐに終わって冬が来るのだろう。

制作の場にかなり集中した日々が続いていた。
数点、はっとすると言うか、もっと言うなら驚くような凄い作品が生まれた。
それもまたこれまでにない感じのものだ。
本当に終わりというものがない。

場にもやはり正確な場というものがあって、
ちゃんと韻を踏んで行かなければ良い形にはならない。
偶然は時間が消し去って行く。
正しい場所に立っているのか、いつでも確認する必要がある。

現場以外の場面ではなんだかちょっとぼーっとしてしまって、
うっかりが多い。
ああ、あれも忘れてた、これも忘れてた、とか。
気がつくと時間だけが過ぎているのだから、手遅れだ。

気づかないレベルだけど、疲れもあるのかな。

制作の場に深く入っている時は、自分が一つの空間のようになって、
そこを色んなものが通過して行く感覚になる。
そして通過して行く様々なものに対して敏感になる。
流れを方向付けたり限定したりしないように、
ただ通過して行くのに任せて行く。
自然な柔軟さがそこにある。
流れは様々な方向へ動いているが、そこには必ず調和がある。

身体の調子が良い時は身体を意識しないはずだ。
身体を意識しない状態。身体が無くなったような感覚が健康なように、
心も本当に健康な時は心が無くなったように感じるもの。
心も身体も流れなのであってもともと存在していないものだ。

しばらく場への集中が続いて、外を歩いていてもぼーっとしていた。
歩きながら景色を見ていて、ああ、こんな全ては夢なのかも知れないな、
と感じていた。

喜んだり悲しんだり、色んなことをしながら、
時にはむきになって生きているけれど、本当は何もかもが夢みたいなものだと思う。

世界の深く、こころの深く、本当に奥にあるものは夢のように柔らかい。

明日の午前のアトリエは取材も入っている。
良い場でみんなと過ごしたい。

2014年10月19日日曜日

凛とした美しさ

今日も光が奇麗だ。
先週位から始まっていたけれど、作家達の生み出す色彩も、
秋の乾いた日差しのように、濁りのない透明なものになっている。

当たり前だけど、
その作品がこの時期の日差しに照らされている光景は美しい。

制作の場も引き締まっている。

冬まで行くともっと内面に向かう部分が強くなるが、
秋の今くらいの時期はバランスがとても良くて貴重な時間でもある。

もちろん、色んな良さ、色んな美しさ、色んな楽しさがある。

今の僕は凛としたもの、品格を感じさせるもの、清潔で透明な美に惹かれる。
そして作家達の作風はそんな方向へ向かっていて、
一番見てみたいものを見せてもらえて有り難い。

彼らはやっぱり凄いなあ、と思う毎日だ。

2014年10月18日土曜日

今日はどこまで行けるか

朝晩、冷えますね。

さて、土曜日のクラス。

ここから冬にかけて、またまた時の経つスピードが上がって行く気がする。

制作の時間は密度が濃くなって行く時期でもあるので、
良い時間を少しでも増やしたい。

今日は何が見えるだろうか。
どんな景色と出会えるだろうか。

僕達はお互いの表情を確認し、見つめ合う。
お互いの存在を皮膚で感じる。
今日もみんなでここにいる、と。
一人一人が自分の中にみんなとの時を刻む。
場はそこにあって僕達に教えてくれる。

今日も行こう。あの素晴らしい風景を見に。

行く時は一緒。
いつでも。

2014年10月17日金曜日

音楽と環境

少し寒くなってきて、
この部屋でブログを書くのも暖かい服を着た方がよくなる時期か。

おそらく、ここ2年くらいのことだろうか。
制作の時間に音楽をかけておくようになった。
その前はたまにはあったけれど、僕自身はかけないようにしていた。
理由はいろいろあって。

まずは制作環境は全てが何らかの意味を持つということ。
特に視覚や聴覚は制作に影響して来る。(勿論、嗅覚も)
影響=悪な訳ではないが。

さまざまな条件を見極めて一番良い方向を選択して行くので、
感覚的刺激が強いものは避けている。

外を歩けば刺激ばかりなのだから、少しは静かな場所が必要でもある。

まあ、スタッフとして集中して、見逃さないで行けるかどうかが大事なので。

最近は音楽をかけていても、それぞれの要素が活かせるようになってきた。

音楽は方向性をハッキリ持っているので、割と強い。
呼吸の問題もあって、特に歌の場合、息づかいが気になってしまう。
呼吸が合わない。
場の鉄則から言うなら、殆どの歌手は息が浅い。
もっと言えば過呼吸気味。
大好きな手嶌葵も呼吸の観点からだけ見れば、良くない。

場に集中していて自然に息が止まってきている時に、
浅い呼吸を小刻みにされるとタイミングがズレる。

そんなことから、特に歌は避けてきたのだけど、
上手く使えるようであれば、音楽があるということは心地良い。

最近では場に音楽が馴染んでいて、欠かせない要素になりつつある。

個人的にも音楽には随分助けられてきたし救われてきた。
プライベートで言えば音楽がなければ一日が終わらない。

音楽を使うかどうかに繊細だったのも、音楽と言うものが直接性が強いものだからだ。
おそらく心に最もダイレクトに響くのは音楽だろう。
ある意味でもっとも効果があるとも言える。

場において一番気をつけなければならないのは、
芯に入るまでの感覚だ。
一番早いのは何も介在させないで直接入る。
これは最も基本でありもっとも早い。
そして早くて効果の高いものは危険性も強い。
扱い方を間違えると良くない。
薬と同じだ。

じわじわと時間をかけて入って行く分には、力は弱いが悪影響はない。
リスクを考えるとじわじわだけで行くのが安全かも知れない。
でも、それだけではやっぱり難しい。

音楽と一緒で直接的に強く早く芯に届くものでしか進めない部分もある。

音楽は確かに危険性も強い。
政治や運動に利用されることも多い。
絵画や映画を使って人を行動させることは難しいが、音楽の場合は良くある。
それだけ直接人の心を動かしてしまう。
善くも悪くもだ。
音楽と他の表現を比較したとき、その使われ方の違いに気がつくだろう。
政治以外にもそんな例は沢山ある。

芯に届くことは大切だけど、どのくらいの時間をかけるべきか、
どのくらいの直接性を持って進めるかは、
状況を見て適切に判断する必要がある。

ただ早くて効果があれば良いというものではないし、
逆にゆっくり安全に進めばそれで良いというものでもない。
どんな時でもその時に必要なのは何なのか見極めることだ。

もっと違うことを書く予定だったけど、時にはこんな話題もあって良いかも。

2014年10月16日木曜日

深く深く潜ること

今日は良く晴れている。
昨日のブログで不気味という言葉を使ってみたけど、
そんなにどろっとした感じでもなく、
ある意味で奇妙さと言った方が適切かも知れない。
それでも何か足りない感じはするが。

外へ出ると複雑な仕事が色々あって、人間関係にしろそうそう単純ではない。

でも、制作の場に立ったら、すべきことはいつでもシンプルだ。
それはいつまでも変わらない。

どれだけ深く潜ることが出来るのか。
それだけだ。
深く深く潜ること、そこに何かがある。

一度でもその景色を見た人間は、一度でも体験した人間は豊かになる。

生きていることは楽なことではない。
自分のことなんてどうでも良いと思っても、
人がしんどい思いをしなければならないのを、見るのは辛いものだ。
そして、全ての人がそういうものを経験しなければならないのが、
この世界というものらしい。

人に何もしてあげることが出来ない。

本当に本当に色んな思いをして行かなければならない。
誰しもが。

そういう現実を前に、制作の場に立っている。
場に立つ時は裸だ。何も持たない。
一人一人とどこまで行けるか。
外で色んなことを経験しているし、この後も経験して行く。
ここでは内側へ潜ろうとする。
そこにだけ答えがあるということを知っているから。

何故、深く潜る必要があるのか。
例えていうなら、見晴らしの良い場所に行って欲しいからだ。
そこに立って見てみた時に、全てが肯定されるからだ。

人には色んなしがらみがあって、悩んだり苦しんだりする。
表面的な部分、浅い部分にしか触れられないと、
そこにある喜びや悲しみが全てになってしまう。
どうしても視界は狭く限定されている。

全体が見渡せるもっと良い場所があることを、
深く潜る経験によって知ってもらう。
それが本当に大切なことだ。

作家達は僕達より遥かに潜り方が上手だ。
でもいつでも問題なく行ける訳ではない。
人はみな同じ。程度の差があるだけだ。

条件が違うから、深く入ることの困難さも人それぞれ。

大事なのは行こうとすること。
もっと先まで見ようとすること。

僕達はみんなでその場所に立ってきた。
ああ、奇麗だねえ、素晴らしいねえ、と。
隣には一緒に来た人達が居て同じ景色を見ていることが出来る。
ここまで来て良かったね、またこようね。と。
全てが見渡せる、見晴らしの良い場所。全てが輝く場所。
行ったことのある人は、その記憶が自分を助けてくれる。
だからなるべくたくさん行って、記憶を刻んでおく。
まだ行ったことのない人は、一度は連れて行きたいし、一度は見て欲しい。

深く深く潜ること。
いつでもそこに答えはある。

2014年10月15日水曜日

不気味さ

台風が行った後、昨日は良く晴れて暑いくらいだった。
重力が軽くなって空を駆け上って行くような天気で、
ふと安川加寿子のピアノの音が頭をよぎった。

今日は曇り。雨が降ったり止んだり。
そして少し肌寒い。

今日はある感覚について書いてみたい。
それは僕達の仕事とも深く繋がっていることでもあり、
現代という時代とも密接に関わって来る。

「得体が知れない」とか「不気味」というと普通はマイナスのイメージがある。
でも、僕はこのような感覚がとても大切だと思う。

これまで当たり前にしてきたもの、常識や思い込み。
とらわれと言っても良い。
これまで自分が使ってきた枠の中では、
あるいは感覚や知覚では捉えられない次元のものを前にした時、
人はそこに不気味さを感じる。

だとするなら、そういうものにこそ触れて行くべきだ。

何なのか全く分からないのに、それが自分を魅了して離さない。
そんな経験もある。

そして、そういったものに触れて行くことで、何か自分が変わって行く感覚。

芸術と言われている領域にも本来はそのような経験が元にある。

生きていて殆どの時間は、良いか悪いか、幸福か不幸か、
もっと言えば損か得か、そんな世界が大半だ。
そこで何か違うのではないか、世界はもっと別のことを示しているのではないか、
という直感なり、違和感なりが生まれる。

だから人はあえて不可解なもの、得体の知れない不気味なものに近づく。
言い換えれば、新しいものに出会おうとする。

自分にも人にも見たまますぐに分かるような、生き方や仕事は浅い。
かつての価値観が意味を失うような次元、
そこから先に何があるのか全く予想がつかない世界。
そこからが面白い。

最近、僕が聴いている音楽もそういうところがある。
聴いていて惹かれるけれど、それが何なのか全く分からない。
ただこの世界が確実に自分を変えてくれたという自覚はある。

僕の手元に「古道具、その行き先」という展覧会のカタログがある。
ここにのっている物達もまた同じような感覚をもたらす。
確かに美しい。でもその美は得体の知れない何かだ。
それらの物は何も語ってはいない。何も主張してはいない。
何ものでもない何かだ。

それがそれでしかあり得ないような世界。

この前、テレビをつけたらお笑いのコントで一番を決める番組がやっていた。
面白かったし、レベルがあがっている。
でも一番感じたのは、もはや笑わせるという次元を離れてしまっている。
面白い、面白くない、という感覚が遥か先まで行ってしまった。
それは良いことでも悪いことでもなく、
何かを突き進めて行くと必ず、そういうところまで行ってしまう。
日本の笑いというものが歴史的にもここまで進んできて、今の形になったと言える。

何か無意味な世界観であったり、全く取りつく島がないような何かを見せたり。
得体の知れなさ、不気味さ、そしてそこにある未知の気持ち良さ。
ただ大事なのはそこに実在感がなければ芸にならない訳で、
分からないけれど、何かである、それでしか言い表せない何ものかを、
強いリアリティで形に置き換えているものが、様々なジャンルで現れて来る。
笑いも音楽ももうそんなところまで来ている。

この感覚は現代に生きていなければ分からないと思う。
確かにいつの時代もそういった領域に触れているものはあった。
ただ、ここまで身近なところに出て来ることはなかっただろう。

世界は不気味なもので、その得体の知れなさの前で、みんな立ち尽くしている。
どうして良いのか分からないし、ある意味でどうすることも出来ない。
そういう今を様々な表現が示してしまっている。

不可解なものこそ、答えのないものこそ楽しい。
裸になってもう一度、遊びの感覚を取り戻してみよう

危機と可能性は背中合わせだ。
善くも悪くもそんな時代を僕達は生きている。

2014年10月14日火曜日

木漏れ日が心地良い。

今日は平日のクラスがあるので昨日から台風を心配していた。
東京はもうぬけたようでほっとしている。
風はまだあるようだが大丈夫でしょう。

葉っぱから水が垂れていて、乾いた柔らかい日差しがあたって、美しい。

日曜日もとてもとても集中した制作となった。
一人一人の良さが出ていて、やっぱりこの時間は何ものにも代え難い。

確かな、狂いのない現場というものがある。
正確な点をしっかりうっている自覚。

スタッフとして、イサもかなり成長した。

自戒の意味もあって、家族やプライヴェートの話題はあんまり書かない。
毎日、ゆうたの写真を見ていると時間が経ってしまう。
今月はよし子もゆうたも体調が悪くて、次から次へと病気があったが、
大分落ち着いて来た。
この前は電話で
「ぱぱあ、マンボウ温泉行こう。マンボウって可愛いよねえ。マンボウは
噛まんよねえ。マンボウは歯がないもんなあ。マンボウ温泉って気持ちいいよ。」

頑固で一筋縄では行かないところがある子だけど、
本当にやさしくて、いつも見せる気遣いには驚いてしまう。

時々行く定食屋さんがある。
先日、僕の隣に仲の良さそうな親子が向かい合って座った。
お母さんと小学校低学年の男の子。
見つめ合う感じがあたたかい。
お母さんがやさしく話しながら見守っている。
男の子は子供にしてはゆっくりゆっくり食べる。
お母さんを見上げて「痒くなってきた。」と言った。
「これ、駄目かあ。じゃあこっち食べな」
2人は別の会話をしながら、また楽しそうに食べ始めた。
男の子はお母さんに気づかれないように足を掻いている。
お母さんも気づいているけど、他のことを話している。

涙が出そうになってしまった。

「すいません。失礼ですけど、食物アレルギーですか。」
「そうなんです。」
「うちの息子もなので、ちょっと声をかけてしまってごめんなさい。」
「今、おいくつですか」
「もうすぐ3才になります。」
「大きくなったら、普通に食べられるようになりますよ。」

少しだけお話しした。
男の子がとてもやさしそうだったのが印象的だった。

日曜日のアトリエで、誰かが何かを言う度に鳥が「ピーッ」と返してきた。
午後近所の家からピアノの音が聴こえてきた。
はっとした。バッハのイギリス組曲。
そのとき、晴れ渡った景色も制作中の作品もあまりに美しく、
バッハの音楽が芯の部分で聴こえてきた。
こんなに素晴らしい音楽だったのか、と。

夜、家にあるCDで聴いてみたけど、予想通りもう聴こえなかった。
経験は掛け替えのないもの。
一度しかないもの。

それは日々の制作の場でも同じだ。
だから、僕らはそこでの経験を大切にする。

2014年10月12日日曜日

今日もアトリエ

今回も台風が心配。
今日はまだもちそうだけど。

土曜日のアトリエはとても良かった。
とにかく作品が素晴らしい。絶妙な色使い。
昨日の日差しも幻のようで、外の色に応じるように変幻自在だった。
作家達の奥深さを思い知らされる。
シンプルだけどニュアンスは多彩だ。
終わった後、机に並んだ作品達が日差しを受けて輝いていた。
作家達の魂そのものがここにあるようだ。
ずっと傍にいるのに、いつも感動する。命の鼓動を感じる。
深く制作の中に入って行った時の彼らは、次元が違うのだと思う。
僕らは格下。
だからせめて自由に動き回っても揺れなように土台を支える。
居ても居なくてもあんまり変わらない存在になって行きたい。

スタッフとしても高い集中を保てた。
ずっと続けていることだが、
やっぱり日々気をつけていかなければならないことは多い。

特に休み明けや、大きな展示やイベントの後のアトリエ。
外の流れを持ち込んではいけない。
浮かれたり沈んだりが少しでもあれば場が乱れる。

全力でとか、一生懸命とか、大袈裟に言えば命をかけるとか、書くことが多い。
でも、それは注意力とエネルギーを最大に使うということであって、
がむしゃらにやれば良いということではない。
力技はなるべく避けるべきだ。

力は入れ過ぎても抜き過ぎてもいけないものだ。

作家達の溢れ出る創造性と響き合うスピード感には、
やはりクリエイティブなある種のセンスが必要。
それ以上に大切なのは今書いた同じ意識を保ち続ける職人性のようなものだ。

僕達は日常はともかく、一度場に立てば良い時と悪い時があってはならない。

場の中では全てが動いていて、外の状況も様々に変化している。
こころも身体も限界を持っている。どんな変化も起こりうる。
不確定の要素がほとんどなのだから、自分の力でどうこう出来るものではない。
だからこそなのだが、唯一出来ることは、その時の最高を目指す姿勢。
与えられた条件の中から最善を見つけ出し、そこまで行く労を惜しまないこと。

いつでも現在の流れを感じ、行くべき方向へ順応して行く敏感さ。

流れが良くない時でも、良くない中での一番良い場所が必ずある。

さて、今日はどんな場が見られるだろうか。

2014年10月11日土曜日

無限の反復

さて、今日もみんなと良い場を目指して行きます。

最近もアトリエを出る時、「行って来まーす」という作家がいる。
その想いはしっかり受け取っていなければならない。

この仕事をしているからでもあるけど、
ダウン症の人達の世界について語って来た。
ちょっとだけ触れたが自閉症の人達の世界はまた別の型で出来ている。
自閉症の人達の場合はその幅がかなり大きいので、纏めることは難しいが。
ただ重要なポイントは共通している部分もある。
一時期は自閉症の人とずっと過ごしていたことがあって、
その頃はずっとその世界にいたように思う。

今日はちょっとだけ、ほんのさわりしか書けない。

三重であっちゃんの描いている旅行記を読んだ。
絵本のような漫画のようなつくり。
素晴らしかった。そして懐かしかった。
あっちゃんはカルタも面白いし、いろんな表現でその世界を見せてくれる。
最近、特に世界観を表す表現が深くなっていると思った。

一つの場所に行くまでの体験が描かれているが、
なかなか目的の場所にはたどり着かない。
もしかしたら、これはずっとずっと到着することがない物語なのかも知れない。
たとえ目的地に着いたとしても、それが目的なのではないことはすぐに分かる。
何故なら彼女には周辺や断片にこそ何かが見えているから。
その場所には決して中心や意味と言ったものは存在していない。

画面は断片の連続で、断片同士を繋げる「意味」や「価値」が存在しない。
あるいは解釈が入り込まない。

いくつもの断片は、それだけで固有の輝きを持っていて、
他とは完全に切り離されている。

会話の場面。顔は画面に必ずと言って良いほど登場しない。
身体だけ、あるいは足だけが見えている。
視点は次々に飛んで行き、様々な断片が映し出される。
言葉も身体も場所も、すべてが断片化され、文脈から切り離されている。
スピディー、場面は変わる、ぱっぱっと。

見えて来る景色はその度に新鮮なのに、
どこかで同じ場所をぐるぐる回っている感じがする。
いくつかの断片が何度も反復されて行きながら、
少しづつズレて別のものになって行く。
僕らの考えるストーリーや世界はここにはない。
僕らはいつでも世界を解釈し続けているから、感情が捉える意味しか無くなっていて、
細部がこんなに鮮やかに見えることはない。

解釈や感情をはぎとられた世界は、いつまでも無限の反復を繰り返していた。
看板の角、記号でしかない言葉、デザインのような景色、
廊下、階段、何度も出て来るトイレの場面、下からのアングル。
見上げた空。
一定のリズム。

この世界に身を委ねていると本当に心地良い。
それはある種の音楽を聴いている時の感じに近い。

そこにあるものを経験すると、僕達の世界は相対化される。
この世界だけが全てではないことは忘れてはならない。

ある人と共に過ごしていた時期、僕には確かにこんな風に見えていることがあった。
懐かしいなあ、と思った。
もっともっと深い部分に触れて行くことは可能だが今回はやめておく。
そして、僕はもう分析することはしない。
ただ、面白いですよ、とは言えるけど。

こんな世界を追体験させてくれる表現に驚いた。
世の中、くだらない映画や音楽に溢れていて、
どこかで見たものばかり見せられるが、
こんなに新鮮なものに出会える場面もあると、
いつか何らかの形でご紹介出来ないかな、と考えてみたりする。
あっちゃんの一言カルタも面白いです。
こちらは気まぐれ商店のHPでご覧になれます。

2014年10月10日金曜日

何も知らない

またまた台風が近づいている。
今度はかなり大きいようで心配だ。
明日から、土日のアトリエがひかえている。

空もどんどん遠くなって行く。
虫の声、鳥の声も遠くなって行く。
秋から冬にかけての乾いて冴えた感覚も好きだ。

季節を意識するようになったのは、
僕の場合はやっぱり制作の場を見て行く中でだった。

作家達の作品も変わって行くし(特に色)、制作に向ける意識も変わる。

僕達スタッフに必要な動きも当然変わって来る。

順応していくということはいつでも大切だ。

自分たちよりもっともっと大きなものが大半を占めていて、
ほとんどはそこで決まって来る。

大きな流れを知って順応して行くためには、謙虚さが最も必要だ。

自分は何も知らないという自覚。
何も持っていない故に、今起きていることを感じようとする。

目の前の事物は動いているし、全く知らない何ものかなのだ、という感覚。

先月、三重で過ごしていたとき、近くにある大王崎まで散歩する日が多かった。
真っ青な海。どこまでも広く、深く。
波の音は途切れることはない。

目の前に無限が佇んでいることを自覚したとき、
その当たり前の奇跡の前でなす術もない。

どこまでも続く海を見ていると、気が遠くなる。
自分がここに立っていることに驚く。

いろんなことがあったけれど、みんなすーっと消えて行く。
考えも感情も残らない。

小さな小さな自分や社会を気にして生きるか、
目の前にある無限に謙虚に耳を傾けるか。

遥かに深く大きなものがある。
それを見るためには自分というものを捨てるしかない。
何も知らない、何も見えていない、という自覚だけが感じる力を高めてくれる。

すべての感覚が開き、無限に包まれ、目にする全てが新鮮に輝く。
気持ち良く生きよう。

2014年10月9日木曜日

終わりの始まり

「楽園としての芸術」展、昨日終了しました。
皆様、有り難う御座いました。

素晴らしい企画と展示。あたたかい人達。
これまで応援してく下さってきた方々。新しく出会った方達。

大型の作品を会場内で制作した日。
夏の公開制作。9月9日の最後の公開制作。
9月15日の講演会。

すべてがあの作品達の客観性と普遍性に向かっていたと感じる。

僕自身は毎日作品を見ながら、削がれて行く感覚があった。
作品はどんどん固有の形そのものの美しさを見せてくれて、
今回ほど「客観」や「普遍」という言葉を意識したことはなかった。

終わったばかりなので展示について多くを語りたくはない。

美術館を出て、中原さんと2人で上野を歩いた。
人が集まっている場所があった。
みんな夜空を見上げている。
僕らもみると大きな月に陰が重なって行く。
皆既月食だ。

太陽と月の接触。その神秘的な景色を前に、
こういうことだったのだな、とやっぱり思った。
僕達は無言でじっと月を見ていた。
この夜空と静寂を忘れることはないだろう。

キクちゃんからメールが届いていた。
終わりの始まりの日です、と書かれていた。
ダウンズ・タウンの会社部門として準備を進めてきた、
「気まぐれ商店」がついに始まった。
HPからのスタートなので、どんな活動なのか、是非是非ご覧下さい。

そうだ、この終わりは、終わりの始まり。
中原さんとも「これが終わりではない」と話していた。
まだまだ先なのかも知れないし、
その時期はいがいに早くやって来るのかも知れないが、
中原さんとのお仕事も次があると思っている。

2014年10月7日火曜日

いよいよ最終日

東京都美術館で開催されている「楽園としての芸術」展、
明日8日、いよいよ最終日です。

あっと言う間でした。

実り多い機会でした。充実していました。
内容的にも、社会的意味も大きなものだったと思います。

来場者数もまずまず、反響も大きかったと思います。

それでも、もっともっと多くの方に見て頂きたい、見て頂くべきだと感じています。
まだまだ見るべき方がいらっしゃると思えてなりません。

最後の一日ですが一人でも多くの方にお越しいただきたいです。

皆様、お見逃しのないように。

2014年10月6日月曜日

もう一度「終わり」について

昨日の夜から激しい雨が続いた。

台風の時期はゆうたの喘息が心配。
よしこは流行性の結膜炎にかかってしまって、目があけれらない状態。
みんなに手伝って貰って何とか過ごしているそうだ。
うーん。困った。どうしよう。

判断をちょっと迷ったけど、今日は平日のクラスをお休みにした。

雨はかなり降ったけれど、風はそれほどでもなく、
昼を過ぎた辺りからすっかり晴れた。

イサと少し話していた。
終わりについて何度か語ってきたが、もう一度その話になった。
外は光が射してきてふわっと浮き上がった世界にいるようだ。
幻の中みたいで懐かしい。美しかった。眩しいくらいに。
それは終わりの景色のようだった。

土、日曜日の制作の場で僕は変化を感じていた。
とても良い場だった。そして僕とみんなとの関係は変わってきたな、と思った。
新たなる段階に入るということは、一つの終わりを経験することだ。

これまでも色んなことが終わって行った。

展覧会も残すところあと2日。
今確かに輝いているあの場も終わって行く。

調子の良い時、制作の場で上手く動けている時は不思議な感覚がある。
予感のようなものを絶えず感じていて、
意味は分からないけれど、とにかく今はここでこうした方が良い、
ということが感じられて、ただただ正しい場所に点を打ち続けている感じ。
次はここにこれをおいて、そして次はここにおく、ということが分かる。
分からないけれど予感があって、終わりには分かるだろうと思っている。
そうやって正確にただおいて行くと最後のところで絵のように意味が見えてくる。

こういう時に感じるのは、終わりは始まりの中にすでにある、ということ。

これもいつでもということではないけど、
ある瞬間、安らかな気持ちになる。安心感に包まれるというか。
ふと、思う。
僕はここに居るけど、ここにこんな世界があるけど、
本当はもう全ては終わっていて、どこからか振り返っているのではないか、と。
その感覚はかなりリアルで今この瞬間が懐かしくなってくる。

終わりはすでにそこにあって、
終わったところからプロセスを振り返っている感覚。

終わりは確かに悲しく、分かれは確かにつらい。
それでも終わりの中には永遠があるような気がする。

死んでしまった人達が、生きていた時より実在感を持っているのは何故だろう。

台風が行った後、まるで世界が浄化されたようにそこにあった。

終わりから見ると全てはあるべき場所にある。

夜になって大きな月が浮かんでいた。
とても静かだ。

2014年10月4日土曜日

もっと先へ

今日は久しぶりに制作の場に入る。
一般の方で言えば本業のようなもの。

昨日も大切な方達が多くいらして下さった。

新しい出会いもあり次の仕事のお話も少し出始めている。

曇り空。台風が近づいているようだ。

こういう日は意外と制作の日としては悪くない。

どんなことであれずっとずっと続けて行けば、
難しくなって行くことも多いし、細かな議論に入って行く。
多くのことが必要な気がして来る。
でも、人が生きて行く上で大切なことはシンプルだと思う。

あたたかいものがこころに満ちていれば、それは人に響く。

見ているもの、見えて来るもの全てに敬意を払う。
これがエッセンスだ。

僕達はどこかから来て、どこかへ向かって行く。
一切のことはその過程と言える。
通り過ぎて行くすべてが掛け替えのないものだ。

全ての瞬間が特別な瞬間。

この自覚や意識を保てれば、良いものがやって来るし、ある意味で与えられる。

例えとして、制作の場で関わるという自分の仕事を例に出す。
相手を大切に思っていれば、そこで起きていることを特別に思っていれば、
振る舞いが変わるはずだ。
多くの人がそうするようには動けないはずだ。
触れるか触れないかの、産毛レベルの感覚をもっと大切に出来るはず。

見ていると言葉も無礼。立っても座っても無礼。
本人にはその自覚がない。こういうケースが多い。

何故、その場所に立つのか。何故その場所に座るのか。
全ては物事に触れて行く時の意識にかかっている。

やさしくやわらかく、自然に、それが基本。

そこにあるものが今自分が思っているより、
もっともっと大切なものだと感じれば良い。

生きているとは本当はもっと強烈なことだ。
小さく小さく、狭く狭くなってしまうのも人間だけど、
突き破って外に出られる力もみんな持っている。

いつでもまだまだもっと面白くなるはずと思って行くことが大切だ。

2014年10月3日金曜日

大切な人

今日の朝日は素晴らしかった。
遠くから差して来る光。

連日、会場通いを続けさせて頂いている。
土、日曜日は大切な制作の場に入らなければならない。
最後の土、日に伺えないのは残念。
でも多くの方に見て頂きたい。
本当にもう終わってしまう。

昨日は元学生チームのスナフこと宮浦君が来てくれた。
雰囲気が変わってしまってないか、ちょっと不安だったけど、
変わらないどころか密度を増していて嬉しかったと言ってくれた。
帰ってきた感じとも。
そう仕事のレベルを落としては大切な人達の帰る場所が無くなってしまう。

いつまでもこの純度を保って行きたい。

話は前後して宮浦君の来る少し前のこと。
これを書くと佐久間は尊敬する人がいっぱい居ると思われてしまうが、
またまた尊敬している方が来て下さった。
僕は尊敬という言葉はそう簡単には使いたくない。
ここ数年は一年に100人以上は人と出会っているはずだけど、
尊敬するような人は一生に10人以内だろう。

ただ、そういう大切な方々がみんな反応してくれるということだ。

そのジャンルでは大袈裟かも知れないが、
日本一ではないかと密かに思っている方。
丁寧にじっくりご覧になっている姿が印象的だった。
大切な方とは滅多に会わないし、そんなに話すこともない。
お互い感じ合っているから。

公開制作の日、こんな感想もいただいた。
てる君との関係について、制作の場に入っている時間、
あんなに丁寧にやさしく触れ合ってその時間を大切に過ごしていたのに、
終わった瞬間に2人ともあっさりと、じゃあまた、となった場面が面白かったと。
それは僕達の深い関係を表している。
あえてそうしている訳ではない。
分かり合っているから無言の会話となるし、
深く繋がっているからさっと離れることも出来る。
そして離れたとき、より深く繋がるものがあることも知っている。

作家との関係もそうだし、男であれ女であれ、仕事であれ、
惚れきると必ず帰ってくるものだと思う。

空が少しづつ高くなって行く。
秋の日差しは透き通るようだ。
目を閉じていても光を感じる。

今日も掛け替えのない一日が始まる。

2014年10月2日木曜日

昨日の美術館で

昨日は都民の日ということもあり、多くの方にご来場いただきました。

しょうぶ学園のドキュメンタリー映画を見せてもらった。
その後、福森さん達の講演も聞かせてもらった。

映画では素敵な場面が沢山あった。
福森さんは照れ隠しでいろいろやっているけれど、やさしくて正直な方だ。
肝心の音楽や外へのアプローチの仕方は共感出来ないけれど、
それを楽しむ多くの人がいるのだから、それはそれで良いのだと思う。

福森さんと出会えて良かったと思う。
そして今回の展示ではしょうぶ学園さんとご一緒出来て本当に良かった。
作品の違い、アプローチの違い、環境の違い。
根本にあるのは対象となる人達に何を見ているのか、という部分だと思う。
決定的な見解や解釈に違いがあると思う。
たぶん良い悪いの問題ではなく。

映画の中の福森さんと障害を持つ人達との関係が奇麗で、
こころに響く瞬間がたくさんあった。

そう言えば、お世話になった共働学舎も間もなく映画となる。
嬉しい気持ちと、やっぱり不安が残る。
自分が昔居た場所だと複雑な心境だ。

いずれにしても、人と人が繋がること、
それも必ずしも一つの世界だけがあるのではなく、
違った世界があって、そこが繋がることで新しいものになって行く。
そんな共生の在り方に時代は向かって行かなければならない。

僕らは福祉ではないので同じような活動は他にはないだろう。
だからこそ他の活動とも繋がって行きたい。
その上でここでしか出来ないことをしっかりとやっていく。

昨日、僕に話しかけてきたおばあちゃんがいた。
しんじ君の会場内で制作した大型の作品の前で涙が出たと言う。
若い頃に美術をされていた。
すっかり普通の生活になって、様々なことを経て歳を重ねた。
趣味は美術館を巡って絵を見ること。
しんじ君の作品を見て、美に触れた時の新鮮な感動が甦ったと言う。
これまで見た作品で一番感動したとも。
何度も何度もありがとうと仰っていた。
たくさん生きて来なければ、様々な経験を重ねて来なければ見えないもの。

こういった方々の心に響くということが、彼らの作品の特質だと思う。

2014年10月1日水曜日

嬉しい気持ち

今日は曇っていて雨になりそうな感じです。
都民の日ということで東京都美術館は無料だそうです。
お時間のある方、この機会にどうでしょうか。
しょうぶ学園さんのドキュメンタリー映画の上映会があります。

昨日は久しぶりに赤嶺ちゃんと会った。
彼女は今ダンスの先生をやっていて、
ちょうど日曜日に自分の生徒達の初めての発表会を終えたところ。
もうすっかり仕事に馴染んで忙しそう。
色んな場所で活動している。
発表会が感動的なものだったようで、誘われていたのに見に行けず残念。
でも、佐久間さんに教わったことをやってるから、見て欲しかった、と言われて、
本当に本当に嬉しかった。

先日来てくれた、ぶんちゃんも今は施設で働いていて、
アトリエのような場を目指す、と言ってくれている。

離れていても、どんな場所でもそんな繋がりが素晴らしい。

イサも一生懸命だ。
最近は会わない日もあるけれど、本気でやっているな、と感じている。

僕はかつて恩師の一人にもうとっくに超えちゃったから任せて、
と生意気を言ったけど、今誰かがそう言ってくれるようになったら嬉しい。
いや有り難い。

そして、会場に思いがけず、
かつて経堂で素晴らしいカフェを運営していた方が来て下さった。
仕事として生き方として尊敬している方だ。
今は違う場所で更に進化したお店を開いておられる。
嬉しかったし、励みになったし、やっぱり有り難いなあ、と思った。
本当に丁寧なお仕事をされる方で、
一つの食べ物や場にどれだけ手間をかけていることか。
それもわざとらしさのかけらもない。
本物と言えるお仕事をされる方だ。
大変だけど一緒に頑張りましょう、と言われて、
どんな人の言葉より実感がこもっていて、よし、やって行こうと思えた。
同じ言葉も発する人にとって重みも深みも違って来る。
日々、実践していなければ本当の言葉は出て来ない。

尊敬出来る、本物と言えるお仕事をされている方が、
うなずいて下さることで、この方向はやっぱり間違っていないなと、
確認することが出来る。
様々な場面でそんな勇気をもらって進んできた。

僕は弱い人間だ。みんなの気持ちが後押しするから進むことが出来る。

時々、思い出してはにやっとしてしまうことがある。
いつも中原さんとは気持ちが通じ合って、
人の評価なんて問題じゃない、もっと高い次元のことを見て行く、
と言い合っているのに、会う度に、こう言ってくれた人が居た、
あの人が褒めてくれた、こんな批判がある、こう言われた、
とか話題はそればかりで、2人で一喜一憂している。
こういうのは小ちゃいのかも知れないけれど、
そういう弱さがあることで乗り越えていった時の喜びも大きい。
(勿論、中原さんは僕レベルではなく、お付き合い頂いている訳です。)

場に入る時も、外でお仕事する時も、いつでも上手くのかなあ、
と不安でいっぱいになっている。
やる直前までやりたくない。
それでも応援してくれる人達が居る、一緒にやってきた仲間達が居る。
たくさんの人達の想いや夢を背負っている。
全力を尽くすしかない。

だから楽しいし充実感もある。
能力がものすごくあって簡単に出来てしまうなら、
こんなに多くの経験が出来ただろうか。
こんなに共感してくれる人達に出会えただろうか。

一人では出来ないから力を合わせる。
人からいただくもので一番嬉しいのは、想いであり気持ちだな、と思う。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。