2012年6月20日水曜日

描写力

いつも、そうなのだけど、書きたいと思っているテーマが、
いくつかあるが、いざ始めようとすると、
あ、今度にしとこうかなとなってしまう。
いつまでたっても本当のことに迫れていないような気がする。

あまり、夢は見ないということを書いた。
でも、またまた夢を見た。
この夢の話はこれまた今度にしておこう。

昨日の夜、あまり良くないことなのだろうが、
我慢出来なくて台風を見に外へ出た。
よし子と悠太が寝静まった後、ひっそりと。
安全は確かめつつ。

自然が動いている時、やっぱりじっとしていられない。
何かゾクゾク感がある。
外は全く別の世界になっていた。
夜で人の気配もない。
ひたすら風を感じていると、どこまでも静かに、どこまでも一人になっていく。
自然がぐんぐん近くに来る。
自然と一つになる。

ダウン症の人たちの作品の特徴の一つに、自然との近さがある。
色にも形にも、人為的なもの、作為的なもの、
意図的に創られた感触がない。
ごく自然に調和した世界がそこにある。

ゆうすけ君はいつも外の景色を見て、色を教えてくれる。
「今日は薄い緑」「外は白」「水色系です」
「やけに白っぽい光が出て来たよ」等等。

全身が自然に感応しているからこそ、あのような作品が描ける。

そして、彼らには描写力がある。
絵を通して、彼らが見ているもの、感じているものに、
私達を引き込んでくれる。

すぐれた芸術はほとんど描写力があって、その作品にしかないリアルがある。
音楽でも絵でも、小説や映画でも一緒だ。
たとえ、実在しない世界を書いていても、
それがどこかにあるものとしてのリアルさがある。
描写力こそがそのキーだ。

描写力はなにも芸術の領域だけのものではない。
むしろ、人間にとって本質的な何かだ。

現代社会ではあらゆるジャンルで描写力が弱まっている。
なんのリアルも感じさせないものばかりだ。

人と会って話してみると分かるが、
話に情景が描ける人と、そうでない人がいる。

単純な経験でも、何かを食べて美味しかったという話に、
描写力がある人とない人がいる。

描写力のある人の話を聞いていると、
そこで自分も同じ体験をしているような気になってくる。

自然にふれ、経験を味わい、深いリアルを生きているかどうか、
それが描写力の有無を左右する。

自分の経験を情景として描ける人は、それだけの何かを生きて来た人だ。

前にも書いたが、人間というのは目の前にいる人を無意識になぞる。
例えばマネをするという行為がある。
マネは悪いものではない。
人のマネをしなければ、私達は言語を発することさえ出来なかったはずだ。
マネはまた、対象への愛情であり一体化であると言える。
マネをもっと深く言うとなぞるということになる。
人は無意識に相手の行為や思いをなぞるという事実が、
僕がいつも言っている、
相手のこころを生きることは可能だということの根拠の一つだ。
同じこころを共有出来るというのもこれなくしてはあり得ない。
科学ではいつになっても証明出来ないだろうが。

強い描写力を持った人ほど、相手に与える影響は強い。

以前あげた例でいうと、
目の前にいる人を安心させたければ、
自分が安心というものを身振りと、心構えで描写出来なければならない。

彼らの作品を前にした時に私達が感じているものは、
大自然の身振りをなぞろうとする時に感じる、
途方もなく大きく深く、やさしい感触だ。

人も自然の一部だから、無意識に自然のマネをしようとしている。
素直になればなるほど、楽しくなるようになっている。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。