いつも、そうなのだけど、書きたいと思っているテーマが、
いくつかあるが、いざ始めようとすると、
あ、今度にしとこうかなとなってしまう。
いつまでたっても本当のことに迫れていないような気がする。
あまり、夢は見ないということを書いた。
でも、またまた夢を見た。
この夢の話はこれまた今度にしておこう。
昨日の夜、あまり良くないことなのだろうが、
我慢出来なくて台風を見に外へ出た。
よし子と悠太が寝静まった後、ひっそりと。
安全は確かめつつ。
自然が動いている時、やっぱりじっとしていられない。
何かゾクゾク感がある。
外は全く別の世界になっていた。
夜で人の気配もない。
ひたすら風を感じていると、どこまでも静かに、どこまでも一人になっていく。
自然がぐんぐん近くに来る。
自然と一つになる。
ダウン症の人たちの作品の特徴の一つに、自然との近さがある。
色にも形にも、人為的なもの、作為的なもの、
意図的に創られた感触がない。
ごく自然に調和した世界がそこにある。
ゆうすけ君はいつも外の景色を見て、色を教えてくれる。
「今日は薄い緑」「外は白」「水色系です」
「やけに白っぽい光が出て来たよ」等等。
全身が自然に感応しているからこそ、あのような作品が描ける。
そして、彼らには描写力がある。
絵を通して、彼らが見ているもの、感じているものに、
私達を引き込んでくれる。
すぐれた芸術はほとんど描写力があって、その作品にしかないリアルがある。
音楽でも絵でも、小説や映画でも一緒だ。
たとえ、実在しない世界を書いていても、
それがどこかにあるものとしてのリアルさがある。
描写力こそがそのキーだ。
描写力はなにも芸術の領域だけのものではない。
むしろ、人間にとって本質的な何かだ。
現代社会ではあらゆるジャンルで描写力が弱まっている。
なんのリアルも感じさせないものばかりだ。
人と会って話してみると分かるが、
話に情景が描ける人と、そうでない人がいる。
単純な経験でも、何かを食べて美味しかったという話に、
描写力がある人とない人がいる。
描写力のある人の話を聞いていると、
そこで自分も同じ体験をしているような気になってくる。
自然にふれ、経験を味わい、深いリアルを生きているかどうか、
それが描写力の有無を左右する。
自分の経験を情景として描ける人は、それだけの何かを生きて来た人だ。
前にも書いたが、人間というのは目の前にいる人を無意識になぞる。
例えばマネをするという行為がある。
マネは悪いものではない。
人のマネをしなければ、私達は言語を発することさえ出来なかったはずだ。
マネはまた、対象への愛情であり一体化であると言える。
マネをもっと深く言うとなぞるということになる。
人は無意識に相手の行為や思いをなぞるという事実が、
僕がいつも言っている、
相手のこころを生きることは可能だということの根拠の一つだ。
同じこころを共有出来るというのもこれなくしてはあり得ない。
科学ではいつになっても証明出来ないだろうが。
強い描写力を持った人ほど、相手に与える影響は強い。
以前あげた例でいうと、
目の前にいる人を安心させたければ、
自分が安心というものを身振りと、心構えで描写出来なければならない。
彼らの作品を前にした時に私達が感じているものは、
大自然の身振りをなぞろうとする時に感じる、
途方もなく大きく深く、やさしい感触だ。
人も自然の一部だから、無意識に自然のマネをしようとしている。
素直になればなるほど、楽しくなるようになっている。