2012年6月24日日曜日

その先にあるもの

纏まった話を書く体力がない。
今日も少し雑感的な内容になってしまうだろう。

このブログでは僕の個人的な体験も結構書いている。
それを読んでいると、僕が特殊な人間に思えるかも知れないが、そんなことはない。
僕はきわめて平凡な、素朴で単純な人間だ。
一つのことにずっと関わっていくのが好きな人間だ。

では、なぜ個人の体験を通して語るのかというと、
深い部分に関わることは、それを捉える個人の生き方が問われるからだ。
だから、あくまで題材であって本題ではない。

アトリエに興味を示して下さる方が、
佐藤肇、敬子であったり、よし子であったり、あるいは最近では佐久間であったり、
そういう関わる側のストーリーにこころひかれることも多くなった。
それはそれで入口としては良いかも知れない。
でも、そこがきっかけで、その先を見て欲しい。
それぞれにそれぞれの物語があるだろう。
でも、僕らは触媒にすぎない。

大切なのはダウン症の人たちの持つ文化だ。
それは普遍的なものだと思っている。

私達が一つしかないと思い込み、そこだけを生きている世界の他に、
小さな、それでいて豊かなもう一つの世界がある。
自由で平和でやさしい世界。
そんなものがあることにほとんどの人は気がつかない。
そういう可能性を考えてみない。
でも、それはある。

彼らの感性と文化にこそ、私達の想像するその先の何かがある。

そんな可能性を感じてもらえるためになら、
私達、関わる人間の物語が使われても良いと思う。

僕は外でお話しさせていただく時、
このブログで書いているような個人的な体験はほとんど話さない。
(アトリエの背景として肇さんや敬子さん達の話まではするが。)
それは今書いたことが理由だ。

確かに、その先にあるものに触れることは簡単なことではない。
本当のことを言うと人は知らないものにひかれはするが、
知らないものを知りたくはない。というより知ることが怖い。
だから、自分の想像するストーリーを練り上げ、そこにあてはめて安心する。

その一つの典型が困難を乗り越えて、頑張って生きている、
さらに何かに異常な能力を発揮する天才、
というような図式だ。
(主にテレビ等で障害を持つ人を扱う場合に多いが、実はどんな人に対しても使われている一番分かりやすい構図かも知れない)

思い込みを捨てて、私達は何も知らないというところから始めなければならない。
そうしないと何も見えない。

まあ、でもこういう無理解については何度も書いて来たからもういい。

これから、僕達は新しいプロジェクトに挑んで行くことだろう。
必ず魅力ある何かが、多くの方に伝わってくれるものになると思っている。
これからもご期待下さい。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。