2011年12月27日火曜日

アトリエは冬休みに入ります

今日は打ち合わせ。
明日は取材が入っている。

日曜日は今年最後の教室を終えて、みんなとケーキを食べた。
さとちゃんのお母さんが作ってくれたケーキ、凄く美味しかった。
そして、悠太も最後の時間に連れて来ることが出来た。
みんなにとても可愛がられて、悠太もご機嫌だった。

絵の時間はさとちゃんの燃えるような深い色に驚いた。
赤と黄色を混ぜて重ねていく。最後は本当に深い色が出来る。

彼らは一人一人、自分の色を持っていて、その色はその人にしか出せない。
同じ青でもしんじくんの青とゆうすけくんの青は違う。
勿論、線もそうだが、色彩の場合、ただ塗っているだけでも、
違う色になる。
筆圧と重ねる速度と時間に個性が出る訳だが、
それは言い換えれば「想い」の違いであり「姿勢」や「こころ」のあらわれだ。

さて、このブログも今年最後の更新となる。
夏から書き始めたブログだが、思った以上に好評でほっとしている。
今年はこれまで以上に伝えるということを重視してきた。
来年はすでにいくつか講演の依頼をいただいている。
アトリエとのスケジュールの調整は難しいが、
可能なかぎりお受けしていきたいと思っている。
このアトリエに、この制作環境やダウン症の人たちの文化に、
少しでも興味をしめして下さる方や、何かヒントを感じて下さる方がいるなら、
出来るだけ伝えていきたいし、少しでも希望や可能性を感じていただきたい。

勿論、制作の場、僕達のメインである教室の時間が最も大切だ。
でも、場には限界があることも確かだ。
物理的に言っても、時間にも人数にも限りがある。
良い実践があるなら、様々な場所や人に広がっていかなければならない。
大阪や名古屋や他の地域でも、この様な場を作って欲しいという声もきく。
人に繋がり、さまざまな場に繋がって行かなければならない。
そして、このアトリエで見えて来たものに普遍的な価値があるなら、
多くの人に知ってもらって、役立つものでなければと思う。
だから伝えることは大切だ。

今年いろいろ書いて来た。
色んな話題にふれたが、すべては制作の場から見えて来たこと、
ダウン症の人たちから学んだことでもある。
彼らが示すものをどのように受け取って行けば良いのか。
そこから、今、この社会を見たとき、どんな問題があるのか。

彼らの感性や在り方について考えた。
今、この時代の問題点も色々見て来た。
彼らを見ていて感じるのは、そこに私達の原点があると言うことだ。

便利さや現代を否定的に書いた部分もあったが、
僕は自然派ではないし、科学やテクノロジーや文明を否定する気はないどころか、
否定出来ないと思っている。
現代よりも昔の方が良かったとも思ってはいない。

ただ、真っすぐに見ていくと、今、私達が失いつつあるもの、
気がつかなくなっているものがあって、
そこにはとてつもない可能性があることは確かだ。
そして、それを失うことは、生命を失うことにつながる。

ダウン症の人たちから見て来たものとは、
私達が本来どのような存在であるのか、あるいはあるべきなのかということ。
それこそが本当の意味での、
自然であり、生命力であり、本能であり感覚の力なのだ。

現実について、質感やリアリティについて、
立体感について書いた。幸福について書いた。
世界は決して一つではないことも。
気づくことの大切さや、世界の豊かさ広大さについても。
それはすべて、今与えられているこの生命と、この世界を、
どんなふうに受け止めて生きていくべきなのかと言うことだ。

ダウン症の人たちはそのことのヒントを与えてくれている。
より良く生きるために、その声に耳を傾けよう。

見えて来るはずだ。聞こえて来るはずだ。
感じられるはずだ。

必要なのはこの世界全体にも、私達の内面深くにもある、
秩序と調和を感じ取ること。
それこそが生命の神秘だ。

調和はいつでもそこにある。
ただ、それを深く自覚し、深く生きればいい。
感覚を研ぎ澄まし生命の本来の力をとり戻そう。

2011年12月25日日曜日

立体感

今日はクリスマス。
そして、今年最後の教室だ。
来週は打ち合わせと取材が2件。それが終わったら、少し冬休み。
毎年そうだけど、短くて長い、長くて短い一年だった。
クリスマスでもお正月でも、考えてみれば来月は普段道理だし、
そんなに違いはない。
でも、季節を区切ることや節目を自覚することは、自分を豊かにする。
それで生に立体感が出てくる。というより、立体感を自覚する。

プレクラスの最終日に悠太を連れて来れて良かった。
みんなとのあたたかい触れ合いがぬくもりとして、皮膚に吸収されていくだろう。
クリちゃんとフクちゃんが来た時もそうだったけど、
子供にとっても彼らにとっても、良い時間になる。
人が全身の感触と感覚だけで生きている時代、
それがすべての基本となっていく。
アトリエで大切にしているのも、感覚の声を大切にする、
全身を使って感じてみる、創造してみるということだ。
だから、ダウン症の人たちと赤ちゃん、そしてアトリエの場は相性がいい。

さて、絵画クラスの制作はいつ見せるか。
それは、悠太がもっともっと大きくなってからだ。
勿論、制作が終わった後にメンバーとあったり、
制作中、待合室で保護者の方達とあったりするのは楽しいと思し、
そういう時間は作っていきたい。
でも、制作を見せるのはまだまだ早い。
そこをわきまえることが親にとっとも、悠太にとっても大事なことだ。
何度も書いたが僕自身は制作の場を神聖視している。
その場に入ると、全身の力が抜けると同時に、
崇高なものに向かう時の緊張感も高まる。
これは大人が自覚を持って、挑ませていただく「場」だ。
子供にとっては大人の姿勢が示すものを感じ取って、違いが自覚されていく。
その様な場面、容易に近づけないものがあると知ることは必要だ。
最初に書いた立体感がここで生まれる。
そういうものがないと、現実はのっぺりとした平面的なものになってしまう。
極端な話、生きている実感がないという世界になってしまう。

大人にならなければ経験出来ないという世界はあるべきだ。
それがないから、いつまでも自立出来ない人がいる。
制作の場は真摯な気持ちで、見せて欲しいと願い、
場を汚さないよう気をつける人だけが、
入ることを許される。そのルールは誰に対しても変わらない。

メリハリ、強弱、緩急、そう言ったものは必要で、片一方だけではだめだ。

よく、お風呂とか温泉施設で、子供が大声を出して泳いでいる事がある。
当然、泳ぐ場所は海かプールだろう。
でも、親は全く叱らないし教えない。
躾けの問題だけではない。
こういう事が実は私達の現実を味気ない平板なものにする。
つまり、場の違い、現実に対応して変化すべきことを教えないと、
現実感はどんどん薄くなっていく。

以前、リアリティや質感について書いた。
同じことを立体感という言葉で言ってみている訳だ。

便利さの弊害も書いて来たが、それもここと関わる。
いつでも手に入るなら、そもそも手に入れたくもなくなるし、
いつでも食べられるなら、食べる必要もなくなる。
今しかみれない、今しか体験出来ない。
今しか食べられないと言うことが、立体感に繋がり、現実の豊かさに気づかせてくれる。

だから、季節のものを食べるとか、雪だるまを作るとか、
海で泳ぐとか、そういうことがなにより大切だと思う。

立体感は遠近法で表現出来るものではなく、
そういう現実の様々な層を知り、経験していくことで滲み出てくる。

エアコンで温度管理して、インターネットでいつでも情報を集めて、
便利に見えても、実はどんどん立体感が損なわれている。
立体感が無くなると現実感が薄くなる。

例えば、安全などないとも書いたが、
安心や安全を絶対視していると生物として鈍くなっていく。
生きている実感と言うが、死を自覚せずに生はない。
この現実はもう二度と経験出来ないから、尊いのだ。
だから生きている実感にあふれている。
いつ死ぬか分からないから、今日の生が輝く。
生と死も、2つあってはじめて立体感が出てくる。

制作の現場においても平板なのっぺりした場であってはならない。
作品は現実を受け止めて生まれるのだから、
のっぺりとした薄い現場からは、のっぺりとした作品しか生まれない。
相手を受け入れるといっても、
ただ受動的にやっていたら相手からは手応えが感じられないだろう。
手応えが立体感でもある。
受け入れるという行為もあくまで主体的であるべきだ。
制作の場自体が、スタッフを含め立体的な質を持つよう、気をつけよう。

僕達の生き方にしても、立体感を大事にしたい。
仕事をしたり遊んだり、夏は下駄が履けるとか、
冬はこのセーターが着れるとか。
そうやってその時にしか出来ないことをする。
この店に入ると自分のテンションが上がるとか、
その場所に行くと自分の原点に立ち返るとか、
そういう、ものや場所を持っている人は強い。
そこから、立体感が生まれる。季節感が生まれる。
今を自覚する。豊かになろう。

しっかりとした強い現実感、リアリティが持てれば、
生命や環境を大切にする人間になれる。
人の気持ちを大切に出来る。
それが本当のやさしさだ。

こんなに豊かな世界の中で、争い合ったり、
わざわざ環境を破壊していくのはバカバカしい。
豊かさが実感出来ないから、間違ったことをしてしまう。

もう一度、命を見直し、より良く生きたいものだ。

2011年12月24日土曜日

お知らせ

東京アトリエは、水曜日にプレクラスも無事終わり冬休みに入りました。
土、日曜日、絵画クラスも今日と明日で今年は終わりです。

プレの最後の日には少しの時間だったけど、みんなに悠太と会ってもらいました。
その話はまた次回書きます。

クリスマスです。
本当に寒いです。今日のアトリエは部屋を暖めることから始めました。

さて、せめてブログをお読みいただいている方にだけでも先にお知らせです。
毎年、この時期に発行しておりました、会報誌と会計報告をお送りする時期が、
少し遅れてしまうことになりました。
申し訳ございません。

改めて、発送させて頂きますので、しばらくお待ち下さい。

たくさんの事があった年ですが、せめて最後くらいは皆さまが
こころ穏やかに静かな時間を過ごせるようにと願っております。

今年も皆さまのお陰で様々な活動に取り組むことができました。
毎年ラッシュジャパンさまからご寄付いただいておりましたが、
今年は東北支援の方にチャリティの活動を絞ると言うことで、
勿論、アトリエもその姿勢に共感でしたが、プレクラス等の活動が、
続けられるか不安でもありました。
皆さまからの支えがありまして、今年も有意義な活動が出来たと感謝しております。

震災の後、2つの展示を行いましたが、
両方とも数年越しの大切な企画でした。
好評に終えられたことを、有り難く思っております。

今年は、様々に考えさせられ、試された年でもありました。
社会にとって意味のある活動であり続けたいと願います。

少しでも平和な時代に向かえるように、
アトリエに出来る事を最大限に行っていこうと思います。

いまこそ、ダウン症の人たちの持つ、調和的な感性と、
平和のこころが広がっていかなければならないと思います。
そのために、彼らの素晴らしさを1人でも多くの方に知って頂くきっかけを、
作っていけたらと思います。
伝えることは勿論ですが、
それ以上に一人一人のこころが平和で満たされて、
繋がっていくことを、このささやかな場を守ることで、
実践していきたいと思います。

ここに来る人たちのこころが絶えず、豊かであり続けることが、
少しづつでも周囲に影響を与え、社会全体に広がっていくことを願っております。

こんな困難な時代にあって、このプロジェクトに可能性を感じ、
応援して下さる皆さまに感謝致します。
力を合わせて平和を信じ、創造していきましょう。

今後とも、どうぞよろしくお願い申し上げます。

2011年12月20日火曜日

こころの中にある場所

さて、今日も振込や事務仕事がいっぱいだ。
一日でなんとか終わらせて、明日は今年最後のプレに臨みたい。

昨日は夜、悠太をちょっと寝かせようと洋服のまま添い寝したら、
そのまま眠ってしまった。気がつくと夜中の3時。

今週のプレはてる君が来ているので、みんなにぎやかだ。

冬は空気が澄んで、景気がとてもきれいになる。
こんな場所に自分がいるのかと思う。

プレの教室でのみんなを見ていると、ちょっとした出来事でも、
一つ一つ、みんなで確認し合って場を共有して、想いを通わせている。
瞬間瞬間を慈しんで、世界の隅々までを愛しているなあと感じる。
世の中の人がみんな、こんな風になれたら、こんな気持ちを持てたら、
人を傷つけたり環境を破壊することもなくなると思う。

どんな出来事も、風景も人も自然も、この世界すべてを、
自分の細胞のように、深く感じ、味わっていたい。
やさしい気持ちで。
やさしくなればなるほど、消えて行かなければならない、
この現実の一つ一つが愛おしく、切なくなる。

彼らの知覚に近付くこためには、透明になって行かなければならない。
ほとんど、消えてしまう位に透明に。
感じる力が強くなれば、現実をヒリヒリするような感触で知覚出来る。

制作を通じて、彼らは深く一つになる。
なるというよりは、一つである場所に行く。
僕達スタッフも必ずそこについて行く。
どこまでもすすんでいいよ、大丈夫だよ、もっときれいなものが見えるよ、
と、これはスタッフが伝えることも、彼ら自身が伝えてくれることもある。

そこに立った時、この世界は本当に美しい。
そこに立った時、私達は本当の愛と平和に満たされている。

人のこころの中にはそんな場所がある。
僕達はいつもそこまで出掛けて行く。
生きることも、やがて死んで行くことも、この場所に立つために、
そこから見せてもらうためにこそあるのかも知れない。

その場所にこそ僕達はいる。
その場所にすべてがある。

遥か彼方の無限は、今ここにある私達のこころの内側にある。
すべての答えもこのこころの中に。
それが彼らの制作が示していることだ。

僕達は本当に回り道をしているのだ。
最初から探す場所は目の前にあったのに。

こころの内側にある調和を見つけに行こう。

2011年12月19日月曜日

強さについて

昨日は日曜日午後クラスの方達と、アトリエの後ケーキを食べた。
1、3週のクラスの方達は今年最後の教室だった。
それぞれが本当に良いクラスになっている。
仲間同士の信頼関係も素晴らしい。
見ていて、僕にはこんなに深い関係の友人はいないなあと感じる。
彼らの繋がりの強さや、言葉を超えたコミニケーションの深さも凄い。

プレクラスも今週で終わり。2、4週の土、日曜日クラスも今年最後を向かえる。

来年も良い場をみんなで創りたい。

もう、本当にずっとこんな日々を送っている。
ダウン症の人たちが制作に向かってくれるように、
彼らのこころと一つになり、そこから眺めてみたり、感じてみたり。
次の瞬間にはもっと深く世界を共有しようと努力する。
どうやったら、この豊かな世界が人に伝わるのか、
考え、模索し、様々な活動をする。
たくさんの人にあって、彼らの素晴らしさをお話しする。
苦しんでいる人、こころが動かなくなっている人には、
どうすれば、本来の調和的感覚に戻れるのか、一緒になって探っていく。

そうやって時が流れていく。
いつでも、もっと出来るはず、もっと深められるはずと感じている。
それでも、日に日に何かが深まっていく。

僕達が大切に思い、時に崇高にさえ感じる、彼らのこころ。
それを守り、育てていくことには、強さが必要だ。
今、いつも書いているが、大変な時代に突入している。
僕はこれまでもずっと強さを重視してきたが、いまこそ私達は強くあらねばならない。

良いことを、諦めず持続するのも強さがなければ不可能だ。
強さは誤解されている。強さはあまり大切にされていない。
例えば、とくにこの日本ではなのかも知れないが、
弱くあった方が、あるいは弱く見せていた方が特だったりする。
人にも共感される。
お互い弱いという部分を見せ合って、甘えて許し合っている。
強くあろうとすると、人は敬遠する。
でも、強さは大切なものを持ち、守るために不可欠だ。
伸びていこうとする存在をあえて、甘やかして、
自分達のそばからはなれないようにする。それをやさしさと勘違いする。
それは間違った文化だ。

どんな時でも、そしてこんな時はなおさら、強くならなければならない。
強さは頑さや頑固さではない。

弱いからこそ、弱さが分かり、やさしくなれると信じている人がいる。
それは違うと思う。
物理学や数学とは違うのだから、弱いから弱さに共感出来るというものではない。
こころが強ければ、弱さに深く共感し、弱さを共有することも出来る。
弱さに共感するには、そう出来るだけの強さが必要だ。

また、強く生きようとする人間や、人並み以上の能力を持つ人を、
弱さの中で引き止めてはならない。
行けるところまで行かせてみるのが、みんなのためだ。

勿論、弱い存在が守られ、生きられると言うことは大切だ。
でも、すべての存在が弱くなくてはならないと信じ込むのは間違いだし、
弱い存在と位置づけられる人達が本当に弱いのか、
あるいは弱い部分だけなのか、考え直す必要がある。

やさしい人間は強い。やさしさで自分を甘やかし誤摩化しているのとは違う。

強い気持ちを持てば、なんでも可能かも知れない。
まだまだ出来るし、これまで以上に強くなれる。

2011年12月18日日曜日

彼らから見えること

気がつくと、どんどん月日が流れている。
雪国で育ったので、冬の記憶は多い。
冬は寒いし、雪で真っ白になって、空は高く、空気は澄んでいる。
すべてのものが明晰になる。孤独感がある。
孤独になると明晰になる。

さて、早いもので今年ものこりあとわずか。(どこかで良く聞くフレーズだが)

誰しもが大変な年だったと記憶したはずだ。
本当に色んな事がある。解決出来る事も、出来ないことも。
でも、時は流れていく。

今、苦しんでいる人や、悲しんでいる人は多い。
絶望の真っただ中に居る人も。
世界全体が混乱している。何が正しく、どこへ行けば良いのか。
私達はどうしていけば良いのだろう。

こんな時代だからこそ、人間の原点をみつめ直したい。
可能性や希望をみつけたい。

アトリエでの日々も世の中の変動と無縁ではありえない。
でも、ここには何か大切なものがあるように思う。
前回も書いたが、だからこそ、今このプロジェクトに意義や価値を、
感じて下さる方達や、協力しようとして下さる方々が増えている。
力を合わせれば、何かが出来るはずだ。

今年もずっとダウン症の人たちと、制作の時間を過ごして来た。
このブログでもずっとそれをテーマにしてきたのだが、
彼らから学ぶこと、彼らから見えて来ることは本当に多い。

もう一度、原点に返って考えてみたい。
彼らの存在は私達に何を示しているのか。

理想的な状態にいる時の彼らは(つまり彼らの本質は)、
人間がこのように存在することが出来るという、可能性を示している。
美しい絵画が描けると言うことだけではなく、
彼らには描く行為と、生そのものがまったく一致している。
彼らは美の中に、言い換えれば平和と調和の中を生きている。

彼らと創る「場」には絶えず静けさと安らぎと、楽しさがある。

アトリエの場はダウン症の人たちの文化であり、
彼らの生命の本質であり、魂の「家」のようなものだ。

ここから私達は何を見ていかなければならないのか。
私達はこのような理想的な状態、平和や平安と言ったもの、
愛と言ってしまっても良いかも知れないが、
それを自分自身のこころの中に見つけ、自分のものとしなければならない。
彼らの在り方とは、私達がそうあらねばならない、
人間の本来の姿なのではないだろうか。

世界中が混乱しているのだから、
平和や共生を語る人は多いし、求められてもいる。
でも、愛や平和はそれを語る人自身、聞く人自身の、
こころの中に見出されていなければならない。
その人自身のこころが平和で満たされなければならない。

彼らの絵や彼らの存在は、私達のこころの奥に何があるのか教えてくれる。
目をこらし、耳を澄まそう。
静けさの中で感じ取ろう。そこにこそ私達の見出すべきものがある。

人間は本来、平和で自由で、何者にもとらわれない、存在だ。
こころを解放した時、いたるところに調和のハーモニーを聴き取ることができる。

私達の世界はやさしく平和だ。
すべては繋がりの中にある。

人類は後戻りの出来ない道に入った。原発はその一つだろう。

ここから先は、私達が本当はどんな存在で、世界はどんなものなのか、
もう一度、そこへ立ち返って、
調和と平和を見出していけるのかどうか。
私達自身のこころと感覚の力にかかっている。

ますます、彼らの示しているビィジョンが必要となって来ている。

2011年12月16日金曜日

希望

昨日は悠太の一ヶ月検診。早くも5600グラム。
異常もなく、元気に育っている。
よし子の疲れが少し心配。子供が元気な分、母親の身体には負担がかかっている。
帝王切開した傷跡がなかなか治らない。
一週間後にもう一度、様子を見ることになった。
先日は熱を出した。39度を越していたので心配だった。
少し快復したけど、これからが長いので要注意。
僕も少しでもよし子が休めるように気をつけているが、授乳だけは代われないし。
本当に自分でおっぱいが出せたらと、痛感する。(気持ち悪いが)

三重から肇さんが来てくれて、ずっと付き添ってもらっていた。
明日からはいよいよ、3人だけで生活していかなければ。

さて、始めてのことの連続で、この期間に考えたこと、学んだことは、
たくさんあるのだが、このまま書いていると、
子育てや家庭のことばかりになってしまうので、
そろそろ本題のアトリエに話題を戻していきます。

今日は朝からアトリエで打ち合わせ。
Tシャツを作ってダウンズタウンを応援するプロジェクト。
打ち合わせの度に、たくさんの人と会う。
発起人の溝口さんのお力によって、本当におおくの方達が興味を示してくれ、
一緒に協力してくれようとしている。
こんなに沢山の方に関わっていただけて、嬉しいかぎりだ。
そして、良い企画になっていきそう。
スピードの速い世界なので、アナルグなアトリエと進めていくのは、
お互いが努力していくしかない。
始めから参加するみんなの意識が揃うとは限らないし、
時には行き違いや、意識のズレが生じるだろうと思う。
でも、万全を期して、失敗を避けていては、いつまでたっても前へ進めない。
とにかく、力を合わせて、みんなにとって良いものを作っていきたい。
作家たちにも、保護者の方達にも、一般の方達にも、
もちろん関わって下さる企業の方々にも、すべての人にとって、
良いもの、何かを得られるもの、企画にしていきたい。

年末にきて、打ち合わせや取材もそうだが、来客者も増えている。
最近では小さなお子様を持つ方からのご連絡が多い。
お会いしてお話ししていると、みなさん本当に何かに希望を感じたいと、
切に願っておられる。

お仕事の方達も、ご興味を示してお越し下さる方達も、
こんな時代にも(だからこそかも知れない)、アトリエのような活動に、
何かしら希望や可能性を感じて下さっている。
アトリエ・エレマン・プレザンの存在が、
社会にとって有用なものであり続けるように、努力を続けたい。

少しでも、役に立ち、希望に繋がる仕事をしていきたい。
必要として、感心を示して下さる方達に、ささやかでも勇気が湧く
プロジェクトでありたいと思う。

人が響き合う、つながる場所がある。一人一人のこころの中に。
だからこそ、同じ希望を持って進んでいくことが出来る。
さあ、良いものを創ろう。良い関係と環境を創ろう。
迷ったり、悩んだり、失敗したり。
時には絶望して、諦めかけても、なにがあっても、
ほんの少しでも前に進めもう。
何かが少しだけ見えてくる。何かが少しだけ変わってくる。
何かが少しだけ動き出す。
そうやって少しだけ世界が良くなる。一つ一つの変化が楽しくなる。

やってもやらなくても、結果は同じと言う人がいる。
同じなら、やってみた方が楽しいよと僕は思っている。

挑戦することは楽しい。新しいことは楽しい。
挑み続ける人生は幸福だと思う。

希望を持って進んでいきたい。
来年度に向けて、色々考えています。
楽しみにしていて下さいね。
みなさんに喜んで頂ける、希望あるプロジェクトになっていくといいなと思います。

2011年12月14日水曜日

安全などどこにもない

自分の不注意や最善をつくせなかった結果が、誰かに残るのは耐え難い。
実は反省を書かなければならない。自分の失敗を伝えることで、
何らかのご参考になればと思う。
先日もそろそろ放射能測定器(ガイガーカウンターというのか?)を
買わなければならないと書いた。
今、母が帰り、肇さんが東京に来ている。
ロシア製のガイガーカウンターを持って来てくれたのだが、
それで自宅を計ったところ、とんでもない数値が出てしまった。
すぐに外へ出て周辺や、駅の方まで計った。
心配なアトリエも計った。
結果は、アトリエのエリアは三重県で知り合いの方が計った数値と、
そんなに変わりはなかった。
問題なのは自宅だ。昨日、エアコンや壁、窓等、拭き掃除して、
何度か計り直した。夜には落ち着いて、アトリエ付近と同じ位の数値になった。
考えられるのは、エアコンのある部屋だ。
出産前、生活スペースやよし子の体調と精神状態を考え、
自宅部分だけはどうしても引っ越ししなければ無理だと言うことになった。
バタバタと時間が経ってしまったので、
室内の放射性物質まで頭がまわっていなかった。
完全に注意を怠った結果だ。不注意、注意不足、危機管理の認識が甘かった。
一ヶ月近く、あんなに高い数値の場所で生活していて、
小さな悠太のことを思うと、反省してすまされることではない。
今のところ、数値は下がった。
今後、最善をつくして、これ以上の被爆を避け、
解毒出来る可能性があれば、やっていくしかない。

やっぱり放射能は怖い。結果が5年も10年も経ってから出る。
その時、どうなるのか、本当のところは誰も分からない。
ただ、推測することしか出来ない。

危機感を持つべきだと、何度も書いて来たが、こういう事があるからだ。

今回、アトリエとその周りの数値は比較的低く、
そう言う意味では、そこだけは守れた。
でも、実際のところ本当に大丈夫なのか、警戒は続けるべきだ。

前回も放射能のことを書いた。
条件が許される人は、安全な場所に避難するにこしたことはないと、
これも何度も書いた。
様々な意見を聞く。
命に関わることだし、価値観、人生観の問題でもあり、
誰しもが納得のいく同じ答えはないし、そもそも、答えなどないだろう。

お断りしておくが、安全な場所に避難するべきなのは当然だが、
僕自身がすべての責任を放棄して、この場を離れることはない。
子供の安全は考えるし、今後の状況次第で、
場合によってはよし子と子供だけでも、どこかに避難してもらう可能性はありうる。
日本に安全な場所などあるのか分からないが。

そのように、守るべきものを忘れてはいけないし、
優先すべき命を考え抜いて、疎かにしてはいけないという意味で、
避難することも考えるべきだと書いて来た訳だ。
後では取り返しがつかないのだから。

でも、もう一つ、忘れてはいけない事がある。
命より大切なものはあると言うことだ。
守るだけではいけない。
受け身ではなく積極的に良くしていこうとする事だ。

人はこれまで、安心、安全、安定を求め、
それがどこかにあると信じて疑わなかった。
その結果が自分さえ良ければ良い、生きてさえいれば良いという、
スケールの小さな考えと、縮こまった生き方となった。
いつも不安を抱え、心配ばかりしている。
いつも逃げている。自分さえ、自分の家族さえ助かれば良いと。
助かった先で何がやりたいのだろう。
生きている方が死んでいくより、いいに決まっている。
でも、生きて何をするかの方がさらに大切だ。
怖くて、逃げ回っていて、そこに幸福はない。

福島で被爆した子供達の中から、
「僕達の命は短いんでしょ」「僕達は子供も産めない」
という言葉が発せられていると言う。
痛ましい、あまりに切なく可哀想なことだ。
大人達は真剣に向き合っているのだろうか。
誤摩化さず、答えられる人生を送っている人間がどれだけ居るのか。
僕は直接、彼らと話したい。
本気で向き合いたい。
君達の命はもしかすると短いものになるかも知れない。
子供も産めない可能性がある。
それは原子力を生み出した人類に責任がある。
もっと言えば僕達全員に責任がある。
だから君達の命はみんなで背負い、考えて行かなければならない。
それはみんなの問題だ。
僕は生きて来て、色んなことを教えられて来た。
自分の命より大切なものを持ち、そのために生きる人達を見て来た。
人はいつか死ぬ。安全な場所も、安心もない。
でも、何かのために生きてみる時、こころには安らぎが生まれる。
大きなもののために自分を捧げる時、
この命が本当に価値あるものとして、充実してくる。
この瞬間を本当に輝かしいものにしてくれる。
そういう幸福を見つけるために生きよう。
どんな状況でも、何かをつかみ取ることが出来る。
何かを見つけることが出来る。
その喜びをつかもう。
それを知れば、私達の人生は長くても短くても価値あるものになる。
今より少しでも世界を良くしよう。みんなで良くしよう。
どんな悲劇の中にあろうと、世界は本当は美しいものなのだから。
それに気づくことが出来る様に、こころを磨いていこう。

2011年12月13日火曜日

良くしていこう

平日のプレのみなさんから、出産のお祝いをいただいた。
悠太は、本当にたくさんの人から祝福されて幸せだ。

早くみんなに会わせたい。
アトリエのみんなと一緒に育って欲しい。
人間にとって本当に大切なものにかこまれて、のびのびと生きて欲しい。
大切なものがなんなのか分かる人間に、
本当のことと、嘘のことが見分けられる人間に、
大切なものを丁寧に扱える人間に、
自分とまわりの人や環境にやさしく、愛のある人間になってほしい。
どんな生き方でもいいから、命を、生命を大切に慈しんで、
深く味わって、すべての時を充分に生きて欲しい。

それにしても、放射能は恐ろしい。
小さな未来ある命にとって、決定的に破壊的な暴力だ。

僕達はこのアトリエでも生命を基本にしているのだから、
いつまでも耐えているわけにはいかない。
そろそろ測定器も購入しようと思う。
自分の子供にしても、生徒たちにしても、守るべきものは守らなければならない。

このままでいいのか。
まずは正確な数値を出して、対策を練らなければならない。

守らなければならないものが守れなくなったら、環境を変えるくらいの決断は必要だ。

今の段階では、まだ東京は大丈夫だと思える。
でも、認識が甘いかも知れない。
本当に不安がある人には、個人的には移動することをおすすめしたい。

日本全体がダメになる可能性だって充分にある。

最善を尽くす。
楽観視しないで、事実を正確に見極めたい。

そのうえで、でも希望は捨ててはいけない。
私達は少しでも良くあること、良くすることのために、この場に居るのだから。
無駄なことに関わっているひまはないのだから、
少しでも何かのためになることをしよう。
少しでも次に繋げよう。
自分が居なくなった後に、この世界が今よりは少し良くなっている様に。
そのために全力を尽くそう。
もう、人に理解されなくても、誤解されてもいい。
もう、細かいことを気にしている時ではない。
何かの為に、何かが出来れば、それで良いはずだ。
本質と関わりのないことに煩わされるのはやめよう。
お互いを本当の意味で大切にしよう。
しっかり繋がりを意識しよう。
丁寧に大切に、やさしく、気持ちを前に向けていけば、
繋がりは強いものとして自覚出来る様になる。
そうすれば、無駄なことなど何もない。
今生きて、ここでしていることが、みんなと一緒に、みんなのためのものになる。

制作の現場で日々、つみかさねてきた、こころの平和な繋がり。
今、この小さな場にある深い調和が、全世界に広がらなければならない。
すべては良くしようと言う意志からはじまる。

良いこころを持てば、こんなに良い場が創れるのだから、
社会でもそれが出来ないはずはない。

すべての人が、今自分の居る場所で、最善をつくして、
みんなのためを生きれば、必ず、世界は良くなる。

今こそ本気で生きよう。

2011年12月12日月曜日

無限の前にたたずむ

今週も制作の場が充実したものになった。
毎回、発見も多い。

さて、本当に様々な事にふれ、書いて来た。
絵のこと、人生、思い出、学んできた事、会った人達。
悠太の誕生、その後の毎日、またアトリエのこと。

今後も少しづつ、これらの話題にふれていくことだろう。
でも、すべてのテーマは一つに繋がっている。

調和と言ってみたり、自然と言ってみたり、
人のこころやこの宇宙に、それを見出してみたり。

本当に必要なのは、私達の日々をどんな時間として過ごし、
向き合っていくのかだ。

何度も書いて来た。
何度も、何度も。
目の前にあるものを見つめて来た。
その時おきている現実を、精一杯受け止めて、立ち向かって来た。
私達は絶えず、この瞬間を、この場面を生きている。
私達はここにいる。いま、この場所に。
そこに何があるのか。
よく見て、全身で味わって、生きていたい。
この世界は無限だ。どこまでもはてしがない。

制作の場に入り、一人一人の内面に向き合う。
途方もない無限に包まれる。
そこには限界のない、自由な創造性が動いている。

僕はいつでも、無限を前にして、神聖さとおかしがたさを感じる。
とほうにくれる。
それでも、もっと奥へ、より深く入ろうとする。
近付こうとする。
限りなく、自分の無力を知り、でも、少しでもより良くあろうとする。
いつの間にか自分も消えている。
絶えず新しく、より深く見えてくる。
どこまで行っても終わりがない。
可能性は尽くす事ができない。

僕達は無限に挑む。
無限の前にたち、遥か彼方を見つめる。
どこまでも、どこまでも。
作品を生み出す創造性は、この自然と世界を生み出している原理であり、
それがバランスと調和なのだろう。

以前にも書いた事だけど、作品選定で数千枚の絵を見つめていると、
外の景色が色彩に満ちて、せまってくる。
力が抜けきっているのに、注意力と感覚だけが鋭く、研ぎ澄まされ、
隅々にまで無限が感じられる。
幻覚ではない。むしろ、普段は気がつかない本当の現実が現れる。
花が自然に開花する様に、
どこにも無駄がなく、なるべくしてなっているかの様に、
いくらでも作品が出てくる。
人間にとっての創造性とは何か。
それは、命であり、生きること。
日々、新しく、進んでいくこと。調和していくこと。

ダウン症の人たちとの、制作の場とはこのようなものだ。
そして私達の生きている世界や、
人間のこころの中もこのようにある。

すべては一つのところに収斂されていく。
多分、僕達は無限からやってきて、無限へと帰って行く。
その中で宝物のようなこの時間を大切にしよう。

2011年12月11日日曜日

タイミング

忙しいと色々ある。たいしたことではないが。
先日、これはブログに書かなければという、仕事上重要な気がすることを、
思いついたのだが、書く時間が無いまま忘れてしまった。
まあ、忘れるくらいだから、たいしたことではないのかも知れない。

昨日は哺乳瓶を煮沸消毒していて、お湯から出す時に手が滑って、
熱湯を顔にかぶってしまった。熱い。やけどはしなかったのでよかった。

少しエネルギーが足りないと、タイミングがズレだす。

タイミングって大事だ。
例えば、年に1、2回あるかないかだけど、教室中に絵の具をこぼす事がある。
日常的にはちょっとぼーっとしていた、という事になるが、
制作の場においてスタッフがぼーっとするなどありえない。
だから、全体的に何かバランスが悪い。タイミングがズレているとみる。
そういう時、どうするか。
流れに逆らわずに、ゆっくり呼吸を整えるしかない。
コンディションが良い時と悪い時で、仕事の質が変わるようでは、
本気で挑んでいるとは言えない。
高いレベルの仕事をする事が難しいのではなく、
高いレベルの仕事を絶えず保つことが難しい。
それが出来なければ仕事とはよべない。

ところで、タイミングと言えば、その人らしい絵が描ける様になるのにも、
その人と場のタイミングがある。
最初から上手くいくことが必ずしも良いとは限らない。
時には時間をかけることも必要。
最近、アトリエに通いだした、よう君は昨日のクラスで、
凄い作品を描いた。将来的にはゆうすけ君やしんじ君のような、
どっしりした作風の大物になるかもしれない。
最初の数回は色は赤しか使わなかった。
何度も赤だけで塗り込んでいく。それ自体なかなかの作品に仕上がっている。
一色しか使わなくても、沢山の色を目の前においておく。
本人は塗りながらも、筆圧や画面の構成や、絵の具の染み込ませ方を、
確認して描いている。その際、周りの色も良く見ている。
それは、描かない人でも同じ。
だから、本人が描くタイミングまでこちらはただ見守る。
描かない人も自分のタイミングで描き出す。
よう君の場合も急に色が重なりだす。
そこは動き出したら早い。
でも、本人のタイミングを無視して「他の色使ってみたら」と、
やってしまっていたら昨日のような作品はでて来なかったと思う。
自分のタイミングまで待つこと。
そこへ行くまで時間がかかれば、その分が後で活かされる。
実際に一色で塗っていた時の筆圧や、画面構成が充分に活きてそこに、
色彩が入ることで厚みが出た作品に仕上がっている。
彼らの場合、練習をしないのだから、こうやって学んでいるとも言える。

先週のクラスでは制作がまだ安定していない人に対して、
ゆりあが少し苦心していた。
プレでのイサもそうだけど、相手が迷いだした時に、
こちらもどうしようとなってしまったら、2人で出口を失う。
その瞬間こそ、ある程度相手との間合いを詰めて、注意力を注ぐ。
迷っても大丈夫、一緒に出口を見つけて、出て来ようねという、
強い姿勢が必要だ。
リラックスは大事だが、ダレることとは違う。
相手の注意力が逸れて、遊びの方に行ってしまうなと感じたら、
まず、こちらが絵に注意を注ぐ。その感触は相手に伝わる。

これもタイミングだ。
描くモードからズレていっているから、もう一度モードを変える。
僕から見ていると、態勢を整え直すことが難しいという部分より、
制作から逸れていっている、違う間合いに入って来ていることを、
早い段階で気づくことが出来るかだ。
ゆりあもイサも苦戦するとき、僕から見ていると、
もう少し早い段階から逸れて来ているのが分かる。
早い段階で修正出来れば、こちらの動きは最小限ですむ。
こちらの動きは小さければ小さいほど良い。

タイミング。描くのも休むのも、お話しするのも。
タイミングが外れていては違うものになってしまう。

一回に描く絵の枚数にしても、描く時間にしても、大事なのはタイミング。
何枚描いたと言うことではなく、どういう密度で時間が過ごせたかだ。
一枚で充分な日に、もっと描こうよとやってしまっては、次に繋がらない。
流れと本人の状態を見極めて、良いタイミングで終わること。
良い記憶と感触を残すことが大切。
一枚の絵が仕上がって、紙を変える時も間を置く方がいいのか、
流れを止めずにすぐに置くべきなのか。そのタイミングが命だ。
たくさん描く人。少ししか描かない人。
時間をかける人。すぐに終わる人。
大事なのはその人にとっての充実感と、タイミングだ。
短い時間で純度の高い制作に入る人もいる。
時間や枚数は問題ではない。質が重要なのだ。

2011年12月7日水曜日

量より質

昨日、プレのクラスの途中で、支払いの仕事があったので、
しばらくイサに見てもらって出かけた。
みんなに「ちょっと、銀行行ってくるね」と伝えると、
あきさんが「かさ持って行ってね。帰りに雨ふるよ」と言ってくれた。
本当に大人だなあと思う。
昨日は夕方から雨が降った。

寒くなって来た。
この時期に一番気を遣うのは、やはり体調管理だ。
夏はいくら暑くても、水分と涼しくすることでなんとかなる。
冬は風邪が怖い。
風邪をひいても僕は動けるが、人にうつしたら大変だ。
手洗いうがいと、食生活、睡眠。
なにせ、風邪をひいたから休みますと言う訳にいかない。
この場においては代わりはいない。
だから、毎年気をつけて過ごす。
用事がなければ外へは行かないことにしているが、
なぜ人の多い場所で、マスクもしないで平気で咳をしている人が、
あんなにも多いのだろう。
風邪をひいてしまって、それでもどうしても外に出なければならないなら、
せめてマスクくらいするのが常識だろう。

自分の身体は人や場の為に使うものだ。
良い仕事をするには、体調管理は不可欠。

月刊ソトコトの今月号、
「愛のギフト大特集 ベスト•オブ 社会をよくするお買いモノ」に、
アトリエ・エレマン・プレザン東京佐藤よし子が、商品を紹介いています。
今回はハラペコあおむしさんの野菜を紹介させていただきました。
食の安全と有機農業を応援するという視点です。
質の良い野菜は食べれば分かります。
ここもよし子の同級生のゆみちゃん(なれなれしくてごめん)が頑張っています。

彼女からは昨日、出産祝いで卵やお菓子や、
すてきなレシピの本を送ってもらった。
お手紙からも、よし子を本当に理解している、友情が感じられて嬉しかった。
ありがとう。

野菜は普段、他にも同じくよし子の親友でアトリエにも何度か来てくれた、
かおりんと九州で農業をしているなかたさんからも、送ってもらっている。
それぞれ、すばらしい仕事をしている。

農業問題が語られているが、僕は基本的に日本の農業は、
量より質で勝負するしかないと思う。
輸入を規制することで守ることが本当に出来るのか?
それよりも、違う価値化を目指すべきだ。
比較した時に、輸入物の方が安いから買うという人が多くても、
それを上回る価値があれば、こっちの方が高いが質がいいと選択する人も、
増えて来るはずだ。
それにはビジョンを明確にする必要がある。
日本はどこが強く、どこが弱いのか。
これまで農業だけでなく様々なジャンルが、弱点で勝負して来た。
もう少し自分を知るべきだ。

それはそうと世界的に質より量の時代がつづいたのだから、
そろそろ質を見直すべきだ。

このアトリエでも質にしか重点をおいて来なかった。
これからは質が問われる。
そして質を求める人が増えて来なければならない。

2011年12月6日火曜日

反復の意味

以前、こんなようなことを書いた。
制作の場において、こころの深いところに触れていると、
時に強い怒りや悲しみをぶつけられたり、ケンカしたがったり、
逆に恋愛感情をもたれたり、父性や母性を求められたりする。
それは、どこかで満たされなかった感情や、
解決出来なかった出来事の再現であって、そこを見極めなければならないと。
だから、スタッフは何者でもないのだ。
何者でもない事によって、その時にその人に必要な何者にもなれる訳だ。

また、逃げて向き合わなかったテーマに追いかけられるとも書いた。

つまり、人はくり返す存在だ。
よく、間違ったことをくり返す人や、恋愛で同じ失敗をくり返す人が居る。
まわりの人は、また、と思う。
でも、実はそれは悪いことばかりではない。
そもそも、人はくり返す。反復する。
同じことをくり返すことで、少しづつ自分の中で吸収し乗り越えていく。
だから、繰り返しを嫌ったり、恐れたりする必要はない。
むしろ、つまらないくり返しや、悪いくり返しを、
良いくり返し、よい反復、よいサイクルに変えていくことだ。

人はくり返すと言ったが、もっと言えば生物はくり返す。
世界はくり返すのではないか。
なんの為にくり返しや反復があるかと言うと、
例えば人は気持ち良さや、美味しさや、快感を身体に記憶させることで、
生命を循環させて来たからだ。
人は不快なものを避ける、痛いことを嫌う。
なぜなら苦痛は生命を傷つけるからだ。

生物は食べて繁殖して死んでいく。それはくり返し反復される。
それには気持ちがいいと言う記憶が刻まれている。

反復は生命にとって不可欠で重要なものだ。

制作する環境を創るという、私達の仕事もここに重点がある。
僕は人生の中でどんな小さな時間でも、
一人一人に良い経験や記憶を刻んでもらいたいと思っている。
その時間が次の場面で反復されるからだ。

昔、小さい子供と合宿のようなことをやっていた時、
僕が質の高い経験や道具ばかり提供するので、
ある人にそんな小さい記憶の残らない時にそこまでする意味はない、
もっと大きくなってからでいいと言われた。
それは全く逆だ。
記憶がないから大事なのだ。記憶がないとは無意識と言うことだ。
意識は自分でコントロール出来る。
記憶も、あれは良かった悪かったと自分で判断出来る。
でも、記憶のない時期や、無意識に入ったものは、
その人間の根幹を作っているにもかかわらず、自分ではどうすることも出来ない。
だからこそ、良い経験を刻む必要がある。
道具もそうで、分からない時に質の高いものを使うべきだ。
分かる様になったら、むしろ悪いものでも活かすことが出来る。

よく子育てでも教育でも、抱き癖とか甘え癖とか言う人がいるが、
その様なものはないと思う。
僕自身も学生達に対して甘いと言われることがあるが、
いつまでも甘えてくる人はいない。
甘えたいと言うことは、何か理由がある。
その時に甘えさせなければ、いつまでも成長出来ない。
いつまでたっても甘えているという場合は、
本当にしっかりと甘え切れなかったのではないかと思う。
大事なのはタイミングだ。
どんなに良いことも、それが必要な時期に行われなければ全く意味がない。
甘えさせるから、成長しないのではなく、
必要な時期にしっかり甘えさせなかったから、いつまでもひきずる。
厳しさもそうだ。厳しくするなんて、一瞬で出来ることだ。
それですぐに伝わる。下手なタイミングで厳しくしても、
いくら時間をかけても、本人の中には何も入って来ない。

これも、以前書いたが、絵の中に同じモチーフがくり返し、
反復されると言うことについて、進歩がないと見るのは誤りだ。
むしろ、良い経験や心地良さを刻むこと、
良いサイクルに入っていることを喜ぶべきだ。
くり返すこと、反復することで、そのテーマが自分のものとなる。
良いものを知るともっと知りたくなる。
良い経験をすると、もっと深めたくなる。
良い人に会うともっと会いたくなる。
人にやさしくされれば、人にもやさしくしたくなる。

テレビである写真家が、少し前から良い写真しか撮れない、
何を撮っても傑作になってしまう。
下手に出来なくなってしまったと語っていたが、
それは本当に自分の奥深くに経験が刻まれた結果だろう。

反復はとても大切なものだ。

前回、調和について書いた。
調和も再現や反復なのではないか。
キリスト教では、はじめに言葉があったと言うが、
例えば始めに調和やバランスがあったとする。
それを宇宙も自然も人も、くり返しなぞり、反復する本能があるのではないか。

昨日、プレのクラスを見ていて、みんなの楽しそうな様子が、
あっ数年前にもこんな場面があったなと感じた。
みんなでよい環境を創ろう。よい循環を創ろう。

2011年12月5日月曜日

調和

1、3日曜日午後クラスのみなさんから、出産のお祝いをいただきました。
ありがとうございます。

今日はよく晴れた。
土曜日のアトリエはたくまくんとあみちゃんが、自分の色をもって、
自分のスタイルが出来て来たなと思った。
たくまくんは描くのが凄く早いが、短い時間にぎゅっと凝縮された集中力と、
感覚の開放感がすばらしい。
やまとくんは早い時期から作風が確立されている。
ちえこちゃんは前回から少し雰囲気が変わって、前のスタイルもでちらも良い。
午後はえいたくんが、用事があって少し早く来る。
30分しか時間がないのに5枚も描く。
さすがはベテランの安定感。もう20年も描いているのだから尊敬する。
もえちゃん久しぶりのお休み。
だいすけくんは2人居る。こちらのだいすけくんは、始めてきた時に、
自分の事を三刀流の使い手だと紙に書いたので、みんなに三刀流と呼ばれている。
アトリエではただ1人、黒ペンと定規と鉛筆と絵の具を使って、
看板やポスターのような作品を描く。
道具を交互に器用に使っていく姿は職人のようだ。
これが三刀流の描き方かあ。
ハルコさんは最近、ゆりあのことをドキンちゃんと呼んでいて、
自分はバイキンマンで2人コンビだと言う。
作品のテーマもドキンちゃん、ゆりあの登場するものが多い。
お家も出てくる。凄いのはハルコさんは自分の画面をもっていて、
そこからドキンちゃんが何をしているのか、いつでも見えるらしい。
この前の「太陽描いたから暑くなっちゃった」発言につづき、
今回はパンを描いて「味がして来たー」と言う。

日曜日クラス、さとやんやっぱりすごいなあ。
特に前回と今回はノリにノッている。
なっちゃんの「パパ」シリーズもきれい。パパを描き続ける姿もかわいい。
女の子もいいなあ。
マーくん、「スーパーロボット」シリーズ。
上手くいくとガッツポーズしてみんなに見せる。丁寧に色を重ねる。
いつも終わった後はカードにも同じテーマを描いてもって帰る。
まあゆちゃんはお休み。いつも絵が終わるとお母さんになって、
粘土で料理を作ってくれる。「お父さん、早く帰って来なさい」と
いつも怒られる。今回はお母さんがいなかった。
午後はえいこちゃんがお休み。
けいこちゃんはいつもハイテンション。
絵もあかるいし、元気いっぱい。テーマも面白い。
なんと今回は、ペットボトルのフタというのまであった。
くわたけいすけが大好き。
すぐるくんにずっと「くわがたけいすけはさあ」と言われて、
「クワガタじゃないよ!クワタだよ!」とくり返していた。
すぐるくんの方はみんなの事が本当に大好きで、
いつもみんなの話を楽しそうに聞いている。
とくに男同士でてるくんと向かい合っていつもお話しする。
今回は最後にてるくんと共通の好みのディズニーランドの絵を描く。
シンデレラ城に花火が舞っている。
てるくんもいつも凄いけど、今回は8枚も描いた。
テーブルいっぱいにてるくんの絵を並べると、一つの世界が出来上がる。
アトリエ全部がその空間に包まれる。
軽やかで明るく楽しい気持ちと、やさしさにあふれた素敵な世界。
ゆうりくんは絵が本当に良くなったが、最近はお話も楽しむ様になった。
けいこちゃんと歌を歌い合って、みんなに「うるさい」と言われて、
笑っている。「うるさい」と言っている人達も笑っているから面白い。
日曜日は久しぶりに元学生チームのアカネエさん(ハルコさんのつけたあだな。本当はあかみねさん)が来てくれた。お友達のおかだくんもいい人。

出産前のドタバタで通っていた歯医者さんに行けなくなっていたら、
治療中の歯が痛みだした。そろそろ時間を作って行かなきゃ。

最近、本当に深く感じている事だが、宇宙も人のこころも、
自然に調和に向かって行く、というのは凄いことだ。
この世界のバランスは、ほんの少しでも狂っていては成り立たない。
丁度良いバランスに絶えずあるというのは、神秘以外の何物でもない。
すべては調和に向かっていく。すべてはバランスを保つ方向へ行く。
凄いことだ。
この単純な神秘が、彼らの作品の最も深くにある秘密だ。
以前、多摩美と共同で発行した冊子には「調和を求めるこころ」と書いてある。
この言葉は編集の方がつくった概念だ。
僕が元になる原稿を書いた時には、「調和するこころ」としか書かなかった。
細かいところだが、調和を求めると調和するでは意味が異なる。
調和を求める?
少し違和感がある。
ダウン症の人たちの作品には調和的な世界が現れているが、
調和を求めている状態が描かれている訳ではない。
調和を求めるのはあくまで私達の側なのではないか。
調和がそこにある時、調和を求めることは無い。

2011年12月4日日曜日

自分に投資する

セキユリヲさんから、お祝いのお葉書をいただいた。
素敵な写真でウサギが並んでいる。
本当に可愛くきれい。さすがセキさん、文字もすてき。
絵のようでも、デザインのようでもある。
嬉しいです。ありがとうございました。
無事、出産してから、お仕事の関係の方々からお祝いのお言葉をいただいている。
電話やファックス、お手紙、メール、様々なかたちで、ご連絡頂きながら、
お返事が出来ていない方々がいます。
本当にごめんなさい。そして、あたたかいお言葉を、ありがとうございます。

2日前に悠太のへその緒がとれた。
今日はどんな変化があるだろうか。

早いものでもう12月だ。一年はあっと言う間。
イサはいよいよ入試。ゆりあも卒論、卒制に向けて奮闘している。
2人とも、一生懸命だ。
悔いが無いように全力を出して欲しい。きっと次に繋がる。
思い切り前を向いて、全力で前進。それだけだね。
力を配分する人は、どこにも行けない。
力の出し惜しみをする人は、どれだけ経っても実力は身に付かない。
アトリエで、少なくとも全力で生きるという経験を知ってくれた2人。
その気持ちを活かして欲しい。
力は使えば、もっと出てくる。さらに使えば、さらに出る。
2人共、制作の場で僕が手を抜いたり、
力の配分をした場面を見たことが無いだろう。
僕自身、現場に入ればそこに居る人達の中で、
自分が一番真剣でなければならないと、常に思っている。
自分が賭けた力の分だけ、自分にかえってくる。
その事は、今は分からないが、時間と共に確実に分かる。
一生懸命何かをする事は、自分に投資するようなものだ。

10代の話を書いて来た。
お寺と、共働学舎と図書館を行き来する以外は、
一人暮らしをしていた時期も長かった。
これまで、振り返っても、決して恵まれた環境にはいなかったが、
僕は不思議と自分の願ったことは全部かなって来た。
その意味では運も良かった。欲しいものも手に入れた。
人にも恵まれた。
一つだけ、縁が無かったのはお金くらいだろう。
お金だけはいつも手に出来ない。
もしかしたら、それも守られている事かも知れないが。
そんな自分が、一番お金を自由に使えたのは一人暮らしをしていた時期だ。
いっぱい働いて、得たお金はほとんど使っていた。
僕の基準は、今は勉強する時期で、出し惜しみしてはいけない。
自分に投資せよという考えだった。
見るべきと思ったものは、どこまでも見に行った。
会っておくべきと感じた人には、どこまででも会いに行った。
本もたくさん買ったし、知らなかった世界にも触れてみた。
高級なお店にも1人で行ってみた。
この時期に、貯金ではなく、経験を刻むと言うことに、
自分に投資すると言うことに賭けてみたのは、後々本当にプラスだったと思う。

自分が見たり、聞いたり感じたりして来たもの。
出会った人達や行った場所。
そういった経験が自分を豊かにしてくれる。

間違った事もして来たかも知れない。人を傷つけた事もあった。
きれいな事ばかり書いてはズルいので、いずれそういった事もふりかえろう。

ただ言える事は、絶えず悔いが無いと言うことだ。
全力で行けるところまで行った。
見るべきものはみんな見たと言いきれる。
その時、その場においてやり残した事は何も無い。

自分にたくさんの経験を与え、投資すること。
失敗しようが成功しようが、正しかろうが、間違っていようが、
全力でやり抜く事。その経験が次に何が必要か教えてくれる。

そして、僕達の一番大事な役割であるアトリエの一日にしても、
一時も疎かにしてはならない。
今日も全力で真剣に挑む。また、新しい何かと出会わせてもらう。
毎日が楽しいとはこういう事だ。

2011年12月3日土曜日

はざまを生きる

悠太はとても元気。よく食べるので、大分ふとってきた。
夜は僕の腕をギュッと握って、見つめてくる。

木曜日は妹が来て悠太をダッコしてくれた。
いつか、夏に実家へ帰った時、妹と2人の子供がピッタリくっついて眠っていた。
その姿は微笑ましかった。おおらかな、「家族」を感じた。

それから共働学舎時代にお世話になった、まことさんも来てくれた。
朝、いきなり電話で「おーい、オレ、今どこにいると思う?」
「まさか、近くまで来てるの?」
「一応、母親の身体に負担かけたくないからさあ」
「まことさん、人に気をつかえないでしょ。いいから早く来てよ。」
という訳で。
でも、本当はずっと心配してくれてて、
突然と見せかけて、わざわざ時間をつくってくれたに決まっている。
そんな人だ。

今、朝このブログを書いている。
昨日は絵の具の準備をしながら、前回の作品を見ていた。
みんな、使う色が変わって来たなあと思う。

この前、音楽の話をしていたら、ある女性シンガーの話題になった。
僕も結構好きな人だ。
民謡(この言葉はあまり好きではないが)出身の人だが、
現代の歌を歌っている。
民謡でも名人だったと言う。
話していたのは、その人の現代の歌には魂が感じられて、
本当に凄みがあるのだが、案外、お得意の民謡を聴いても、
その感動はやって来ない。
僕からすれば、民謡にはそんなに魅力が無い。
話していた人も、現代の歌の方が、声に力があるとの感想をもらしていた。
面白いなあと思う。
僕なりの答えがある。
多分、民謡と違って現代の音楽は、彼女にとって自然には歌えない。
歌い易くもない。努力も必要だし、それ以上に、
民謡を捨てて、新しい表現をする事への葛藤も違和感もあるはずだ。
この葛藤や違和感、あるいは矛盾というものが、
とても重要で、それを避けずに見つめた時、本当の表現が生まれるのではないか。

よく、民族アートや、音楽や、芸能に対して、
それがその人達の本当の伝統ではなく、西洋化された見せる為のものになっている、
と批判する人がいる。だからつまらないのだと。
僕は逆だと思っている。
そういった民族の表現は他の文化とぶつかった時にこそ、何かが生まれる。
多分、西洋化されてつまらなくなったのは、
伝統を否定したからではなく、葛藤が無くなったからだろう。

このブログでも、様々な対比を書いて来た。
自然と文明だとか、言葉と言葉を超えた経験とか、
ダウン症の人たちと自閉症の人達とか。
僕は比較はしたが、どちらだけが正しいとは言って来なかった。
大事なのはその間を繋ぐこと。
僕はダウン症の人たちを尊敬している。
だが、自分が彼らと一体だとは言わない。
むしろ彼らと、この社会とを繋ぐこと、対話すること。
今、矛盾があれば、向き合うべきだ。
違いは無いと言ってしまえば楽だが、それは違う。
共働学舎にいたときもそうだったが、僕は大切なものを大切にしていきたい。
その為には同化してはならない。
間、境界、はざまこそが大切で、ある意味で矛盾に引き裂かれ続けることが、
誠実に生きることではないか。
エコロジーも宗教もヒッピーも、何か良い主義の人達も、
欠けているとしたら、この矛盾に向き合わないところだ。
人は正しいだけの場所にはいられない。
自分達だけは正しいところにいて、他の人や社会は間違っているという、
見方は誤りだ。
すべては繋がっていて、僕達はその中の一員だ。対話こそが必要だ。

矛盾を引き受け、はざまを生きよう。
何度も書いたが、クサい物にフタではいつもまで経っても解決しない。

僕が見ている20代の人達でも、もう一歩のところで自分と向き合わない。
悲しみや、怒りや孤独を恐れて、誤摩化そうとする。
悲しみを超えたければ、悲しみと向き合うしかない。
孤独を超えるには、真っ正面から孤独と向き合っていくしかない。

私達は、逃げたり避けたりして、向き合わなかったものに、
生涯つきまとわれ続ける。
何度も何度も、それは姿を変えてやってくる。
だから、思い切ってフタを開けて、なかみを見てしまおう。
よし、おまえと最後まで付き合ってやろうという態度を持とう。

育児が大変だという人は多い。
僕も大変だとは思うし、自分で出来ているともとても思えない。
ただ、みんな、何でも大変になってしまうのは、
これまでの自分やこれまでの生活を捨てられないからだ。
新しいものが来たら、それに合わせて、自分も新しくなればいい。
僕自身も最近は眠る時間が短くなったが、
そうすると長く寝るものだと言う思い込みは消えた。
そうやって変わって行くのが生きていくことだと思う。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。