2011年12月19日月曜日

強さについて

昨日は日曜日午後クラスの方達と、アトリエの後ケーキを食べた。
1、3週のクラスの方達は今年最後の教室だった。
それぞれが本当に良いクラスになっている。
仲間同士の信頼関係も素晴らしい。
見ていて、僕にはこんなに深い関係の友人はいないなあと感じる。
彼らの繋がりの強さや、言葉を超えたコミニケーションの深さも凄い。

プレクラスも今週で終わり。2、4週の土、日曜日クラスも今年最後を向かえる。

来年も良い場をみんなで創りたい。

もう、本当にずっとこんな日々を送っている。
ダウン症の人たちが制作に向かってくれるように、
彼らのこころと一つになり、そこから眺めてみたり、感じてみたり。
次の瞬間にはもっと深く世界を共有しようと努力する。
どうやったら、この豊かな世界が人に伝わるのか、
考え、模索し、様々な活動をする。
たくさんの人にあって、彼らの素晴らしさをお話しする。
苦しんでいる人、こころが動かなくなっている人には、
どうすれば、本来の調和的感覚に戻れるのか、一緒になって探っていく。

そうやって時が流れていく。
いつでも、もっと出来るはず、もっと深められるはずと感じている。
それでも、日に日に何かが深まっていく。

僕達が大切に思い、時に崇高にさえ感じる、彼らのこころ。
それを守り、育てていくことには、強さが必要だ。
今、いつも書いているが、大変な時代に突入している。
僕はこれまでもずっと強さを重視してきたが、いまこそ私達は強くあらねばならない。

良いことを、諦めず持続するのも強さがなければ不可能だ。
強さは誤解されている。強さはあまり大切にされていない。
例えば、とくにこの日本ではなのかも知れないが、
弱くあった方が、あるいは弱く見せていた方が特だったりする。
人にも共感される。
お互い弱いという部分を見せ合って、甘えて許し合っている。
強くあろうとすると、人は敬遠する。
でも、強さは大切なものを持ち、守るために不可欠だ。
伸びていこうとする存在をあえて、甘やかして、
自分達のそばからはなれないようにする。それをやさしさと勘違いする。
それは間違った文化だ。

どんな時でも、そしてこんな時はなおさら、強くならなければならない。
強さは頑さや頑固さではない。

弱いからこそ、弱さが分かり、やさしくなれると信じている人がいる。
それは違うと思う。
物理学や数学とは違うのだから、弱いから弱さに共感出来るというものではない。
こころが強ければ、弱さに深く共感し、弱さを共有することも出来る。
弱さに共感するには、そう出来るだけの強さが必要だ。

また、強く生きようとする人間や、人並み以上の能力を持つ人を、
弱さの中で引き止めてはならない。
行けるところまで行かせてみるのが、みんなのためだ。

勿論、弱い存在が守られ、生きられると言うことは大切だ。
でも、すべての存在が弱くなくてはならないと信じ込むのは間違いだし、
弱い存在と位置づけられる人達が本当に弱いのか、
あるいは弱い部分だけなのか、考え直す必要がある。

やさしい人間は強い。やさしさで自分を甘やかし誤摩化しているのとは違う。

強い気持ちを持てば、なんでも可能かも知れない。
まだまだ出来るし、これまで以上に強くなれる。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。