2013年12月23日月曜日

また1月に

今年最後のブログです。
読んで下さっている皆さん、今年も有り難うございました。

後半は深めの内容が多かったですが、
今はちょっとそんな部分にも触れて行った方が良い気がしています。

土、日曜日と最後に相応しい良い場になり、充実した時間だった。
土曜日も日曜日も保護者の方達がみんなでケーキを食べる時間を作って下さった。
いつも感謝です。
制作の場の事ばかり考え続けている僕を支えて下さっているのは、
こういうお気持ちのある方々なのだと思う。

毎回、この場で書いているようなことを深められるのは、
こうして共感して下さり、一緒に歩んで下さる方々が居るお陰です。

明日まで教室はありますが、
今年を締めくくるにあたり、どうしても短くても良いから、
この1回を書きたいと思いました。

来年は実践面をより充実させて行きたいです。

言葉ではよく言われますが、本当に本当に激動の時代です。
とんでもないことになっていると思います。
今の社会の中で、もう救いなど何処にもないのではないかと思わされます。
良くなる要因はほとんど無いのに、悪くなる条件は増えて行く一方です。
真面目に考えれば、もう無理なのでは、という諦めムードになって当然です。
絶望しなければ嘘だとさえ思います。
個人のこころの中も、自分や自分の家族さえ良ければという狭い、
悲しい考えが蔓延しています。

だからこそ、今こそ、立ち向かい続けなければならないと思います。
僕が場から教わって来たことの一つ。
自分のことなど忘れてしまえ、ということがあります。
何かの為に、誰かの為に、動くこと。

良く見ていると、若い人ばかりではなく大人達もこのごろ、
ちゃんと見ること、しっかり聞くことを忘れてしまっています。
物事を筋道立てて考えることや、考えや思いを丁寧に言葉にして伝えることを。
そういった当たり前のことさえ省略されています。

しっかり自分の頭で考えるべきです。
自分で感じるべきです。
その結果、必要を察知して動くべきです。
そう言うことを全く忘れてしまっているのです。

僕達自身の仕事にしても、関わる以上は絶えず、探求をして、
もっと上を目指す意思や覚悟が無ければ、やめてしまった方が良いのです。

今後に向けて気を引き締めています。

最近、特に気になるのは、巷に溢れた映像や音楽や食べ物や、
何やかやが、みんなギラギラ、ピカピカしている、ということです。
キラキラしていっけん奇麗そうですが、中身はスカスカです。
デジタルカメラにしてもハイビジョンにしても、
ただ光度をあげているだけのようなコッテリした画像を奇麗と思う人がいます。
色を見る感覚も麻痺して行きます。
画材屋を見ていても、そんな傾向は強くなっています。
普段、見る色が自然ではなく、あんなにギラギラしているのだから、
絵を見るにしても描くにしても変わって行かざるを得ないでしょう。
濃いだけの味の食べ物のようなものです。
音楽にしてもそうです。
やたらに音をいじくってべっとりさせています。
確かに、昔からそういう傾向はありました。
名前を出して申し訳ないですが、クラシックで言うと、
カラヤンとか小沢征爾があれだけ人気があると言うのは、
否定はしませんが、コカコーラが飲みたいという感覚なのでしょう。
まあ、分かりやすいということが一番にあるのでしょうが。

否定はしません。
でも、もっと繊細なものがあることにも気がついた方が良いと思います。
それから教育にはギラギラした画像や音楽は良くないでしょう。
眼も耳も簡単にやられてしまいます。

CDにしても10年位前のものと、最近のものとでは音の傾向がことなります。
専門的なことは分かりませんが、デジタルリマスタリングというので、
音を磨いているのですが、磨くにしても、どんな音を理想とするか、
という感性の問題が入ってくると思います。
勿論、作る方は売れるように作っているので、
分かりやすくピカピカにしたギラギラな音を好きな人が多いのでしょう。

身近なものを例にしましたが、
こういった傾向は文化だけでなく、
人のこころや行動にも現れて来ていると思います。

本当のもの、本物を知るための努力を忘れてはならないと思います。

土曜日の午前のクラスで、ちょっと最近気になっている男の子がいました。
絵がちょっと自由を失って来て小さくなっていました。
ここ数ヶ月のことです。

僕は一度、こころの深い部分まで一緒にすすんで行って、
共有した人に対しては、ある程度の距離感を保ちます。
これはルールのようなもので、分かり合っている者同士の暗黙の了解です。
大人のテレのような感じもあります。
とにかく最初は一緒に深い関係まで行って、
そこで一体になったら、それからはある距離でお互いを尊重するわけです。
僕も彼らもそのことは良く知っています。
だから、関係の深い人ほど、距離感があるように見えたりもします。
お互い分かっているので正面から行くことはありません。
そして、こういう深い関係にいたるまでには、そんなに時間をかけません。
まあ、長くても数ヶ月、1年はかからないです。

そんな訳で、その男の子にも、もう正面から行く場面は無かったのですが、
ここ数ヶ月の様子を見ていて、
ほうっておく訳には行かないかな、と考えていました。
土曜日の朝、最近の彼の絵を思い浮かべていました。
あんな色づかいでも構図でもなかったはずだ、もっと自由にのびのびしていたはずだ、
と感じて、よし、今日は久しぶりに正面から行ってみようか、と思いました。
勿論、それで何か変わるとは限らないのですが。
そう思って彼を待ちました。

彼はいつものように来て、椅子に座った時、僕を見て、ちょっと間をおいて、
「始めてアトリエに来た時、おれ、さくまさんと無意識が繋がったんだ」
「うん、そうだね」
そして、彼は紙を見て、すぐに筆をとりました。
すらすらと描きだすと、
すでに彼ならではの自由で伸びやかな絵が戻って来ていました。
僕は何もする必要がなかったのです。

どんな風に解釈しても良いと思いますが、
これが僕達が日々経験している世界です。

言えることは、ただ一つ、ひたすらより良くということと、
相手の良さから目を逸らさないで行くということです。
たとえ、本人が自分の良さを見失ったり、疑ったりすることがあっても、
ここに居る僕はそこを見続ける、ということをやめないということです。

目の前に居る存在は、ほとんど無限の可能性を持っています。
僕らは無限を相手にしているのです。
逃げてはならない、と思います。
いつまでも、どこまでも、深く突き進むことを、やって行きたいと思います。

さて、来年はすぐです。
アトリエは5日の日曜日クラスからのスタートです。

2013年12月20日金曜日

悲しみだけが美と真実を教えてくれる

この2日間、雨が続きました。
寒くて外は薄暗くて静かな冬です。

もうすぐクリスマスですね。

会員の皆様にお届けしております会報につきましては、
来年の4月の発行とさせて頂きます。
宜しくお願い致します。

このブログもあと、1、2回書きたいですが、
今回が今年最後となるかも知れません。

水曜日にプレクラスが今年最後だったので、みんなとゆっくりおやつを食べた。

絵画クラスは、明日からの土、日、月の3日でおしまいだ。
良い時間をみんなで創って行きたい。

そして、来年も更に新しいことに挑み、これまで以上の活動をしたいと思う。

ダウン症の人たちの持つ豊かな文化を正しく位置づけるべくやって来たが、
まだまだ本当の理解には程遠いと実感させられる日々だ。
福祉にせよ、美術にせよ、他のどんなジャンルにせよ、
彼らの持つ可能性はまだまだ伝わっていない。
悔しい思いも沢山して来た。
だからこそ、これからも諦めずに挑みたい。
現状に全く満足していない。
決めつけられて、たかをくくられている視点を覆したい。
覆して行ってこそなのだから、
これまでどこかであったようなアプローチはしたくない。
何故そうまで思うかと言うと、当然、日々彼らの凄さを見ているからだ。
本質からブレてはいけない。本当のところを知ってもらわなければ。
そんな想いで来年も挑みたいと思っています。

映画 かぐやひめの物語、気になっていたけど、なかなか行けず、
でも、ようやく見ました。
良かったです。

切ない悲しいお話です。
懐かしいやさしいお話です。
そして、人生や世界や生きることの深い部分が描かれています。

この映画版にしても原作の竹取物語にしても、
何故、こんなに人を惹きつけるのだろうか。
以前も書いたけれど、それは僕達、
一人一人のこころの奥にある記憶に触れているからだろう。

かぐや姫は去って行く。去って行く為に来たようなものだ。
だから、短い時間、一緒に過ごした誰もが悲しい思いをする。
そんな悲しい物語に何故、魅力を感じるのか。
それはその悲しみの中にこそ、美しさもやさしさも、輝きもあるからだ。
直視するには辛すぎるものがある。
その一つが孤独や悲しみだろう。
でも、孤独と悲しみだけが自分を浄化してくれる。
悲しみだけが人を純化し透明な認識の高みを教えてくれる。
孤独と悲しみだけが真実へ至る手段だ。

ただし、それは個人的な感情としての孤独や悲しみではない。
もっと普遍的な、人間が人間として存在していることの大本にある悲しさ。

かぐや姫の物語はそんな人間の真実に触れている。

かぐや姫を取り巻く人達。それは私達自身だ。
おじいさんもおばあさんも、彼女を射止めようとする男達も。
みんな私達自身だ。
それは何処までも過ぎ去って行く時を前にしている人間の姿だ。
誰一人、かぐや姫を自分の元に留めることは出来ない。
かぐや姫は誰のものにもならない。
何故ならかぐや姫とは美そのものだから。
そして美とは消え去るものだからだ。
でも、誰しもが最後には自分の元から去って行くであろうことに気がついている。
だから一人一人が切ないまでに一生懸命だ。
おじいさんもおばあさんも、男達も切なく悲しい真実に真っ正面から向き合っている。
去って行くであろう存在をみんなが逃げることなく直視している。
本当に生きるとはこういうことだと思う。

何もかもが消えて行く。何もかもが過ぎ去る。
何もかもが儚い。
やがてはすべてが流れて行く。
それを直視することは辛いことだけれど、そこにこそ美や真実がある。

やがて失われるからこそ、美しい。
悲しみを知らなければ、本当の美しさは分からない。
そんな美を体現している存在だからこそ、誰しもがかぐや姫に惹かれていく。

そしてこの儚い美はを前にした人々の視点と、
かぐや姫自身の視点はほとんど同じものだ。
だからその意味でかぐや姫を失う人々も去っていくかぐや姫も、
真実の美というものの前で一つになっている。
同じところを見ている。

かぐや姫とはこれもまた僕達自身なのだ。
どんな人のこころの中にもかぐや姫は存在している。

確かにかぐや姫はスーパースターだし、一般の人間ではない。
でも、そこには普遍的な認識が横たわっている。
僕達はいつの間にかかぐや姫に共感してしまう。

かぐや姫は一つの記憶を失わなかった人の象徴と言える。
自分が何処から来たのか。
月であり無限である場所から僕達はやって来た。
そしてやがては立ち去らなければならない。
ここはかりそめの場所だから。
出会うもの、人々、すべての瞬間が輝かしく、
あまりに悲しく、あまりに美しい。

すべては過ぎ去り、無限の彼方へと帰って行く。
そしてかぐや姫である僕達自身も、やがてはここから立ち去る。
そのことを誤摩化さない、忘れないということが大切なのではないか。

人は誰でもかぐや姫なのだ。
素直さとやさしさ、慈しみ、輝く美、すべてはあの透明な悲しみからやってくる。

今というこの時の中で、この瞬間、全力で生きていたいと思う。

彼方からの視線、無限の眼差しをもって見つめ認識の深みを生きていきたい。

制作の場はそのような自覚の中で、
大切に大切に動いて行くということが必要だ。

2013年12月16日月曜日

身も心も

何度も言ってもしかたないですが、寒いですねえ。
ゆうたが電話で声を聞かせてくれるのが嬉しい。
本当にやさしい子で、「パパ、大丈夫?パパ疲れた?」
「パパ、東京、お仕事?頑張ってね」とかいっぱい言ってくれる。
「パパ、さみしない?」
間違えて途中で電話が切れると、すぐにかけてきて「パパ、ごめんね」と言う。

それにしても恐ろしいことに気がついてしまったが、
今週中に仕事を全部終わらせておかなければならない。
間に合うのだろうか、と言っている場合ではないが。

今度の土、日、月曜日が今年最後の教室になる。

1、3週日曜日クラスは昨日が最後だった。
保護者の方達が準備してくれて、
少しの時間みんなでケーキを食べて過ごすことが出来た。
亡くなった方、今一緒にいられない方を思って、
こうして過ごせる時間を大切にしたいと感じた。
みんな、本当に良く憶えていて、あの時はああだったと振り返る時がある。

今週も土、日曜日は充実していた。
僕らの醍醐味は場が活き活きと動いている時。
透明で何処にも滞りがなく、軽やかで迷いも不安もなく、
スーっと気持ちが行き交い、作品は気がつくと出来上がる。
全部が見えているのに、あまりにも自然で遮るものが何もない。
ああー、今日は流れてるなあ、と感じる時。
物質に重力を感じないし、何の限界もないような感覚になる。
こういう次元に行く為にこそ、日々、一生懸命挑んでいる。

これからスタッフもより育てて行かなければならない。
場のピークの状態をよく知っておくことが大切だと思う。

僕達の仕事は簡単そうで難しく、難しそうで簡単だ。

僕はスタッフに対しては割に厳しいのかもしれない。
でも、僕自身はもっともっと厳しく育てられて来た。
誰からというわけではなく場からだけれど。

僕にとって場の要求は絶対だ。
場の要求には絶対服従してきた。
真剣にやり過ぎていたこともある。
何故そこまでするのか、聞かれることもあった。
僕にはそのようにしか出来ないから。そんな風にずっと教わって来たから。

場に従う。
これは僕にとって掟のようなもの。
場に入って僕が自分のしたいように振る舞ったことはない。

どんなに悲しくても悲しむなと言われれば、その通りにする。
場が必要とするように動く。
動作も内面のこころの動きであってすら場の命ずるままだ。

それを操り人形とかロボットとか表現してみたけれど、
それでも場の要求に身を任せている時こそ、僕は自由を感じる。

場は多くのものを要求してくる。
だから身軽であろうと思った。そして、すべてを場に捧げる覚悟をした。
身も心もというやつであろうか。
言い換えれば、場に魂を売った。

その結果、とても素晴らしいものを沢山与えられた。
それは今でも与えられ続けている。

何人もの人が「あなたはみんなと居る時が一番良い」と言った。
「みんなと居るときだけ」とも。

ある意味ではそこにしか場所がないというところまで、
ある時期、自分を追い込んで行ったのかもしれない。

でも、言えることは、すべてを捧げた者だけが見える世界がある、ということだ。
(当然、こんな書き方をちょっと恥ずかしいと思ってますが、
今日のところはお許しを)

そんな生き方をする人間がいても良いのではないかと思っている。
勿論、これからのスタッフにそこまでの在り方を要求しているわけではない。
人にはそれぞれ自分の道があるのだから。

ビリーホリデイの声がずっと耳に残っている。
様々な音楽を聴くけれど、人の声はやっぱり良いですね。

2013年12月14日土曜日

美しい時間

土、日曜日の教室も来週で今年最後になる。
制作の場に居るときが一番良いなあ、とつくづく思う。
それは緊張感もあるし、エネルギーも使うのだけど、
しばらく離れていると、場に入りたいという欲求は強くなる。
多分、1月にはまた帰ってきた、という充実感に包まれることだろう。

前回は悪いものだからといって、
潔癖性のようにすべてを排除しようとすることは危険だという話をした。
これとちょうど同じように最近よく見るのは、
これは絶対に良いとか、正しいと決めつけてみるということだ。

一例に過ぎないがいつの間にか農業や自給自足が偉いということになっている。
そういう扱いを目の当たりにした時、正直おどろいた。
偉いと思われているだけならまだしも、
偉いということにしておかなければ、という雰囲気を感じる。
そして、今の世の中、偉いと思われていることには、誰も意見を言わないようになる。
言わないと言うか、触れると自分が疑われると思うらしい。
そう言う時に人は偉いですね、といって黙る。
このままでは農業も福祉と同じになってしまう。

別に農業もボランティアも偉くも何ともない。
どんなことも問題意識を失うと間違った方向に行く。

特別に偉い仕事も偉くない仕事もあるわけがない。
ただ、真剣に生きているかどうか、それだけではないだろうか。

こういうことは書き出したらきりがないので今日はやめておこう。

最近、テレビで人のこころの傷を扱った番組がある。
ある意味、見せ物のように扱うことがどうか、とか色んな議論が成り立つと思う。
だけど、ひとまず、良い悪いはおいておこう。

芸能人が過去の辛い経験を始めて告白する、というのが多い。
それを見ていると、中に小さいときの経験が登場して、
やっぱり人生の原点というか、幼い頃と家族、その時期の環境。
それがどれほど、その人を決定づけているのか、考えさせられる。
本当に出来過ぎている程、家族との関係やそこでされたこと、言われたことが、
ずっとずっとその人を操って行く。

上手く出来過ぎている話を聞くと多くの人は、本当に?と感じるだろうが、
拙い僕の経験から言っても、割にそういう感じを抱かせるものの方が真実なのだ。

こころに傷を受け、それを何処までも持ち続けたまま、
影響を受け続けて生きている人達の生い立ちを見ていると、
その人達の少年、少女時代が本当に可哀想だ。

子供達がその目でどんな世界を見、どんな世界を感じているのか。
もっと良く感じてみる責任が大人にはある。
今の僕達に見えているよりも、遥かに大きく壊れやすく動いている世界。
そういうものを大切に出来るかどうかは、大人の生き方にも影響してくるだろう。

僕自身の話をすると、実はあまりに過酷だった生い立ちや、
そこで見たり経験して来たことの数々はほとんど語ったことがない。
言ったとしてもほんの一部、断片的なものでしかない。
振り返るのが辛いわけではない。そこから逃げ出したい訳でもない。
ただ、それを聞いた人が受け入れきれないだろうし、
聞く方が耐えられないような、あんまりプラスの影響を与えない話だからだ。
だから、今後もそう言うことは話さないだろう。

確かに人生もこの世界も偶然の連続で、次に何が起きるか分からない。
一寸先は闇とも言えるし、だからこそ面白いのだとも言える。
でも時々、全てが完璧にぴったり決まった、と感じることがある。
何もかもが決まっていて完璧に配置されていて、あるべきものがあるべき場所にある。
最初から最後までずっとその連続で。
そんな景色の中に自分が埋もれて消えて行く。
そう言う感じを持つ時、つくづく生まれて来て、生きられて、良かったと思う。
それは一枚の絵を眺めているようでもあり、
映画館で一本素晴らしい映画を見ている時のようであり、
そして音楽を聴いているようでもある。
それもそれぞれの作品をすでに知っていて、
大好きな内容を繰り返し経験しているような感じかもしれない。

ただ何気なく外を散歩している時、
空を鳥の群れが飛び、遠くの方から光が射し、風が葉っぱを揺らす時。
足音のリズムと世界の呼吸が重なる時。
その瞬間に同時にすべてを感じる。
そして、すべてがあまりに美しいのだと思う。

制作の場において、ひと時ひと時がそのような時間となることが理想だ。

2013年12月13日金曜日

こころという不確かなもの

本当に寒くなりましたね。
この時期の日本海側はまた過酷です。
最近はそんなでもなくなりましたが、小さい頃の雪に覆われた景色を思い出します。

ここ数年でどんどん加速して来ていることがあります。
僕はこの流れは本当に危険だと思っているのであえて書きます。

しょっちゅう起きていることですが、世の中の不正や失言が問題になります。
勿論、悪を認めたり肯定する気はありません。

でも、一方で一度、悪であるとか悪いとみなしたものに対しての攻撃は、
あまりにも暴走しています。
極端なまでに硬直したものの見方や抑圧や弾圧に危険を感じます。

こうした流れは必ず個人のこころに歪みを生じさせるからです。

攻撃している人達も、そう言う態度をとらなければ、
自分も悪の側に入れられるのではないか、という無意識の恐れがあります。

一方で今の社会は精神的に病んで行く人が増えています。

この現象は繋がっています。
こうあらねば、こうであってはならない、という縛りが人を病ませるのです。
強く抑圧されている人は、他人に対しても抑圧します。
強い圧がかかればこころは壊れます。

僕はこれまで個人と向き合って来ているので、
こころと言うものが一般の人達が考える程、単純でないことを知っています。

絶対の善とか絶対の悪など存在しません。
絶対を作り、固定するところに圧が生まれるのです。

社会全体がヒステリックなまでに絶対的な善を押し付け、
悪を存在さえしていないものとして、もしも生まれたら、
即座に潰すということを続けるとどうなるか。

一言で言うと、人が病んで行くか、作られた偽善が円満するだけです。
悪を全く無いようにしようとすることは、実は歪んだ形で悪を増やしてしまいます。
人のこころの中を見てみるとそのことはよりはっきりすると思います。

無菌状態が免疫力を退化させるのと同じです。

勿論、人が生きるうえでは決めつけることは必要で、
絶対にこうだ、ということにしておかなければ社会は纏まりません。
だから決めつけることは必要です。
ただ、それが極端になると危険だということです。

人のこころはそんなに理屈通りに出来ていません。
めまぐるしく揺れ動いているのがこころです。
良い状態にも悪い状態にもなります。
病むことだって、そんなに珍しいことでも特殊なことでもありません。
そう言うものとして大きく捉えなければならないと思います。

悪いものとか、汚いものを無いことにしないことが大切です。
認めること、それにつきる、と思います。

人のこころと付き合って行く時、
性急にこうなれば良いという答えを出すのは最も失敗する方向です。

決めつけなければ社会が成り立たない、と書きましたが、
だからこそ理想は定期的に外す、
解放するということでこころの弾力性を保つ必要があります。

こころの専門家やお医者さんなんかは、治したり良くしたりするのが仕事ですが、
僕なんかの仕事は外すこと、解放することです。たとえその時だけでも。
言い換えれば、お医者さんには答えがあるのですが、僕には答えが無いのです。
ゴールも無い。
でも、そこで自由になったこころはちょっとでも良い方向に向かうことは事実です。

僕はよくこころが動いている状態ということを書きます。
こころは決めつけや方向づけをすると固定され、止まってしまいます。
社会や教育はこの止めてしまう方向に向かい安いのですが、
止めているだけなら良いのですが、強い圧がかかりすぎると、
動くことが出来なくなってしまいます。

僕のいう制作の場とはこころが動いている場所です。
そう言う状態に場や人がなってくれる為には、
一度、全ての決めつけを外してしまいます。
だから何がなんだか分からない、何一つ定かなものがない状態でいます。
良く書いているように、自分も他人も分からないくらいに。
右も左も、上も下も無いような状態で居るわけです。
それはもう夢の様でもあるし、真っ暗闇で何も見えないようでもあるし、
光り輝く渦巻きのようなものに包まれているようでもあります。
音の響き、倍音の膨らみの様でもあります。
すべてが流れているけれど、何処にも固定した形として定着しないような状態。
自分は誰だろう、ここは何処だろう、と言ったような感覚です。
こうしていると、こころは自由に動きだします。

面白いのはそこから必ず何かが生まれ、結果として、
バランスはちょっとでも良い方向へ向かうということです。

だから、僕達は自分のことも他人のことももっと恐れずに信頼して良いと思います。

2013年12月12日木曜日

スローモーション

今週は打ち合わせが続いたので沢山の人に会った。
年末はいつもそうだけど、そうこうしているうちに事務仕事が滞る。
スケジュールを間違える。
人の迷惑にならないように、それだけは気をつけてはいるのですが。

そして、あっという間に時が過ぎている。
いつもこの時期にそれを実感して書いているけれど、
なんでこんなにすぐに時間が経ってしまうのだろうか。

これまで何度か触れて来たが、ダウン症の人たちのリズムや時間を考えている。
彼らはゆったりとした時間を生きている、と僕は言って来た。
僕達の生きている時間がすべてではなく、他の時間もあり得るのだと。
でも、本当は追求して行けば、そんな単純な話では無くなる。
本当のことを言うなら、彼らの時間のあり方こそが本来のもので、
僕達が日々、感じている時間の流れは人為的に作られた世界だとすら思う。

難しいテーマなのだけど、相変わらずさらっと書きます。
何故、時間が早くなって行くか。
それは僕達が現実を切り取ってその部分しか見ないようにしているからだ。
これは時間以外のすべてのことに当てはまる。
僕達は本来の現実を歪めて、便利に使う為に部分的な現実だけを切り取っている。
勿論、生きて行く為には切り取るしかないのだけれど、
切り取った現実がこの現実の全てだと思い込んでしまうから、
様々な問題が生まれてくる。

時々、スローモーションで映される映像を思い浮かべる。
あれは一応、現実をスローにしたものだ。
だけど、あっちの方が現実に近いのではないかと思う。
スローにした時、何がおきるのかと言ったら、
そこのある事や、動きに対して一つ一つ気づき、認識している状態が持続する。
本当は存在しているのに、見えていない様々な瞬間に出会う。
現実には僕達は多くのことを見落とし、見失うことで生きている。

何か事故にあった人や、
特殊な体験をした人達はその瞬間がスローモーションに見えたと話す。
僕自身も深く場に入っている時、そのように見えることが多い。
そうすると、人はそういう特殊な状況でおきたことが、特別な経験だと思うわけだ。
でも、実際には普段の僕達の見方の方が特殊なのかも知れない。

僕達は自分の考えていたり、必要としている要素だけを見ようとしているし、
機能的に使おうと、無意識に思っているので、自動的に現実を切り取ってしまう。

もう一つ、スローモーションを見ると、
現実が一つに繋がっていて、何処にも強弱や凹凸が無くなっている。
大切なものと、そうでないもの、必要な物とそうでないもの、
それらを瞬時に識別して切り取るからこそ、凹凸や強弱と言うものが生まれる。
スローモーションではそうではなく、どこか特別な箇所と言うものがない、
何処までも繋がっている現実があるだけだ。

特別なものや、特別な瞬間や、意味や価値がないとということは、
逆に全てのものが特別な価値を持つということでもある。

こうしたすべてが重要で大切なものとして、見え、経験される世界においては、
どこかだけが、特別でどこかだけが大切、という切り取りが無くなる。
その時、感じられるのは実際には時間がゆっくり流れるということではなく、
あるいはスローモーションは時間をスローにしたものではない。
つまり、そこでは時間が存在しない、ということだ。
時間が消えてしまっている。あるいは止まっていると感じるはずだ。
野球の名人級の選手がかつて、「ボールが止まって見える」と言ったという。

時間という存在自体が、現実を切り取ることによって始めて生まれるものだと言える。
どこかだけを強調し、大切にすることで、強弱、凹凸が生まれ、時間が生まれる。

夜、DVDで見たいお能の映像を映すのだけど、
毎回、途中で寝てしまう。どこから寝てしまったのかも思い出せない。
でも、夢うつつの中でも思うのだけど、
お能の世界はスローなのではなく、時間が存在しないのだ。
極端に凹凸や強弱の無くなった空間の中で、すべての存在があるかなきかの、
朧げな動きを続けて行く。
全ては人もものも消え入るギリギリのところで存在している。
僕にはお能の描く現実こそがリアルに思える。

自然の中の生き物や植物を見てみると、みんな風景や環境に溶け込んでいる。
つまりはその中で目立たない、いないように見える。

良い動きとは、自然な動きであり、自然な動きとは目立たない動きだ。

自然界においては目立つものは滅びる。

日本の作曲家の音楽が聴きたくて、早坂文雄という人のCDを聴いていた。
特にピアノコンチェルトは本当に素晴らしい。
名曲中の名曲と言って良いだろう。
たまたま解説書を開くと、片山という批評家がかなり長文を載せていて、
それだけで何か強い思いを感じたのだけど、文章も良かった。
特に勉強になったのは、日本には昔、色を示す言葉が少なかったという話だ。
そこでは明るいか、暗いかという濃淡でしか色が表現されていなかったと言う。
光の強さから無限のバリエーションの色が存在するだろうが、
そこで強調されるのは色どうし連続のほうだっただろう。
西洋のコントラストに対して日本のグラデーションというようなことが書いてある。
この指摘は面白い。

以前にも何度かダウン症の人たちの色彩感覚に対して、
色と色のコントラストより、色と色の近さだ、と書いたことがあった。

部分と部分が対立することで、凹凸、強弱、時間が生まれる。
対して、それら全ての連続する動きから見て、現実全体を認識することで、
あるかなきかの、目立たない存在となることを理想とする在り方。

時間が消えたように静かな世界。
そこには全てがあって、全てが意味を持つ。
特別な何かがあるわけではなく、全てが特別で掛け替えがない。

ダウン症の人たちの感性を、自然と調和すると言っているが、
自然と調和するとは、自然の中で目立たない、ということだ。
それが自然界においての本来の在り方ではないだろうか。

2013年12月7日土曜日

美と生命

さて、今日も教室前なので短めに書きます。

本当に色んなことを書いて来ましたが、
美の問題は生命に直結している、
というシンプルなことが核心にあるように思います。

だからこそ人は美を求めるのだし、
美はふざけたお遊びでもなければ、単なる個人の趣味の問題でもないと思います。

美は生命を成立させている厳粛な仕組みなのだと思うのです。

美には創る人も鑑賞する人も境がなく、ただ経験だけがあります。
それは切実なものであるべきです。

世の中が偽物で溢れ、本気になることから逃げているからこそ、
本物に触れる機会を創りたいと思います。

美は人を本当の意味で高め、幸せにするものであるはずです。

来年の展示に向けて東京からは200枚の作品を送り出しました。
選定を行っている学芸員の方から作品の感想を頂きました。
ありがたい、言葉の数々です。
本当に作品の核心を理解して下さる方は少ないです。
今回は得難い出会いだと思っています。

核心に触れる人が少ないのは、作品が難しいからではありません。
人は逃げも隠れもせず、
甘えを断ち切って、まっすぐに向き合うことが怖いからです。

本気で来る人には本気で答えるしかありません。
それは制作の場でも、外での仕事でも一緒です。
お互い真剣になるしかないという出会いが、高め合うことに繋がります。

先日は講義を行いましたが、学生達は真剣に聞いてくれました。
真剣になる場面の少ない世代かも知れないけれど、
本当のところでは人間は変わってはいないはずです。
すぐにメールをくれた人もいました。

教育の問題は、大人が本気を見せるかどうかにかかっています。

最近、外で帽子をかぶったまま食事している人をみかけます。
みっともないし、身体に悪いだけでなく、作っている人や場所に失礼です。
横で子供がみている。その子供が椅子の上で立ち上がる。
注意するのもかなり遅かったですが、相手を見もせずに言葉だけで注意している。
それに帽子をかぶったままの、
そんな態度の大人の言った言葉など子供に聞こえるはずがないのです。

美を経験するとは生命の本質に触れることです。
そこには豊かな味わいと、畏怖と敬意が生まれます。

作品だけではなく、日々の制作の場もそのような美しいものでありたいと思います。

ところで、羽生君、素晴らしかったですね。
君なんて言ってはダメですね。
羽生選手、真っすぐですね。フリーはミスもあったけど、感動しました。
真っすぐだし、勝負勘もあるし、勢いもあるし、何よりも度胸がありますね。

浅田真央選手も素晴らしかったです。
採点はともかくとして、羽生選手以上に感動したかも知れません。
今日はどうでしょうかね。
ミスがなくても高い点をとっても、
今回のこの2人のように素晴らしくなることはまれだと思います。

2013年12月3日火曜日

始まり

すっかり冬で、寒い寒いと思いながら暮らしているが、
外を歩くと本当に空がどんどん高くなっている。

そうか、忘れていたけど冬の空ってこんなに遠かったっけ。

昨日はイサが論文発表のため大阪だったので、
ぼくは久しぶりにプレでずっとみんなと過ごした。
稲垣君も久しぶりの登場だったので、いろいろ話した。

今日はイサとも少し話したけど、論文頑張ってるみたいだ。
彼とも7年の付き合いだけど、これまでの集大成の論文だ。

明日、女子美でお話しするので、ちょっと作品を画像で見せてあげたいと思って、
秘蔵というか、大切なものをいくつか見てみたが、
ダウン症の人たちの作品はやっぱり圧倒的だ。
こんなに良いものはなかなかないと思う。
絵画以外のジャンルでもそうそうあるものではない。

やっぱり作品につきるなあ、と何度も確認していた。

それと同時に何でも簡単に見せるべきではないなあ、とも思う。
大切に扱うこととか、敬意をはらうという態度が欠けている時代だからこそ。

作品は美しいと同時に、その美しさに人間や宇宙や生命の秘密が現れている。
そんな気がして仕方がない。

前回も型と即興について書いたが、ものを創るとか、表現するということが、
何処から来ているのか、その根源を示しているのが彼らの作品だと思う。

宇宙や生命がこのような現象として現れているのは何故なのか、
そこにはこの世界の様式や秩序があるはずで、
それが人の中から出てくる創造性の原理と繋がっているはずだ。

人の中に創造性が何故あるのか、と言うのは、
何故ビックバンで宇宙が生まれたのか、とかと同じくらいの謎だろう。

なぜかは分からないが、どのようにということは、
仕組みを知ることは出来ると思う。
制作の場を経験すること、こころの深い部分で起きていることに触れて行くこと、
そのプロセスをたどることは、
ある意味でこの世界の成り立ちに立ち会うようなものだ。

創造性の源から何かが生まれ、形を創って行く時、
そして美が生まれる瞬間、このプロセスを生命の様式と言って良いだろう。

以前、雑誌の取材で遊びということについてお話したことがある。
僕は制作の場をずっと見て来て、
ほとんど無限というくらいに途切れることなく生み出されて行く、
造形の連鎖を見ていて、人のこころの中にある創造性とは、
意味も目的も持たない純粋な遊びなのでは、と感じて来た。
それはもっと言えば、
この世界も宇宙も遊びのような純粋な動きが生み出したと言うことでもある。

すべては根源、始まりにこそ答えがある。
そして、僕達はいつでも始まりに立ち返ることが出来る。
そのことを教えてくれているのが、ダウン症の人たちの作品だと思う。

2013年12月2日月曜日

型と即興

色々と仕事が増えてくると、事務仕事だけでも朝終わらせるとスムーズだ。
早朝に時間をシフトさせると、朝日を見ることも出来るし。
そう言えば、久しぶりに一人でやっている日の出を見る会も始めるか。

日曜日の教室はいつもながらに明るかった。
1、3日曜日の午後のクラスは天気も良い日が多いのが不思議だ。
流れも勢いもあって一瞬で終わっていたりする。
彼らのリズムを分かりやすく伝えるために、
僕もゆっくりとか穏やかとか言ったりするが、
本当のことを言うとそれだけではない。
制作を見ていても感覚の動きを見ていても、
僕達より遥かにスピード感がある。
彼らの感性に敏感に反応して行くには、こちらもかなりのエネルギーを使う。

さて、またブログの更新が少なくなるかも知れないので、
その前に書いておきたいテーマがある。
本当はもっと別のことを書こうと思っていたのだが、
このことに気がついてしまったので荒削りながら書いてみたい。

やはり、ダウン症の人たちの制作における特徴のことだ。
紙を前に、座った瞬間に筆をとって動き出す。
あの即興性。アドリブなのに、最後には必ずあるパターンが生み出されている。
魔法の様に美しい。
彼らにはあるバランスや秩序があるし、スタイルがある。
それをパターンや法則として見ることも出来る。
それでも、色と線と戯れている時の彼らは即興であり、アドリブである。

以前、「型」について、様式や儀式も含めて考えてみた。
あの時はまだ追求が足りなかったように思う。
あの時点では、あそこまでしか分からなかった。

そこで、即興はひとまずおいておいて、型のことをもっと考えてみたい。
機械的とか、メカニックとかは否定的に言われることが多い。
僕自身も私的な部分で、
よくロボットの様に感情を動かさないと言われていた頃もあった。
昨日のブログの中でも、場の中では流れに反応しているだけだという話を書いた。
古典芸能の型のように、とも言ったが、
そんなこともあって僕は型と言うものが気になるのかも知れない。

自分の経験を入れられるので、場における僕自身の動きをまず考えてみる。
場の中に居るときでも、勿論僕も人間なので感情は動いているし、
思考も完全に止まっているわけではない。
でも、感情や思考を何処で使い、何処においておくのか、
どの程度のボリュームで出すのか、といった調整をおこない、
ある意味で指示を出している。
自分と言うものを消してしまうのではなく、道具として使う。
場の中ではすべての要素が意味を持つ。目の前のやかんであっても。
その要素の一つが自分であったりする。
すべては、どのように認識するかにかかっている。
時々、身体としての自分が消えて、純粋な認識だけになっているような場面もある。
プライドとコンプレックスが人を不自由にしていることは何度も書いた。
そのプロセスが明晰に見えるからだ。
なぜ見えるのか、
それは自分自身がプライドとコンプレックスを全く動かさないからだ。
実はそれは当たり前の話で、
その場に居る時、僕はただの操り人形なので、場の要求に従っているだけだからだ。
何をやっても自分の手柄にはならないし、逆に自分がどんな存在でも、
別に恥じることも媚びることもない。
認めるとか、肯定するとかではなく、ただ、善くも悪くもないということだ。

僕は言いなりになって、こうしなさい、ああしなさいという場の要求に従う。
何処までも服従する。操り人形の様にただ動かされているだけだ。

そう考えた時、これは限りなく「型」というものに近いのではないか。
尊敬する白洲正子はお能において、型とは人間がロボットになることと書いている。
個性も感情も入れてはダメで、ただ型に服従するのだと。
でも、これだけでは何のために、が分からない。
白洲正子は型に従って行けば、やがて個性も滲み出て来るものだと言っているが、
それでもまだ何かが足りない気がする。

確かにお能を見ていると、型がいかに人を自由にするか、という逆説を感じる。

ところで、グレン・グールドというピアニストも、
メカニックとか、ロボットと言われている。
そのグールドがある時、はっきり聴こえたと思えた。
初期の頃のピアノコンチェルトのいくつかを聴いていた時だ。
音は完璧なまでにひたすら決められた場所に置かれて行くだけだった。
でも、グールドはいつもの様に気持ち良くうなっている。
グールドは2人いるのか、と思ったこともある。
構成し完全に配置するグールドと、その調律に感動しているグールド。
グールドの感動は決して感情移入ではない。
音と音の関係性と重なりに快感を感じているだけだ。
グールドは自分が設定したテンポととリズムに正確に従う。
非人間的なまでに、感情や、音楽の情感を無視してただ一定のテンポを維持する。
ずっとそうやって音を重ねて行ったとき、何かが見える。
その時、僕はグールドの、完全に置かれるべき場所に置かれた音を聴いて、
これが世界だ、と感じたのだ。これが宇宙だ、と。

正確に刻まれていく音は、この世界の秩序のようだった。
あるDNAの研究家がどこかで言っていたことを思い出した。
遺伝子を研究している時、そこに書かれた情報を読んで行く、
その配列を見た時、あまりの完璧さに圧倒されたと。
すべては寸分の狂いもなく、完璧に並べられているのだと。
何人かの物理学者や他の科学者も同じようなことを言っている。
その研究家が見た宇宙の秩序と、
グールドが聴かせてくれた調律には共通するものがある。

グールだが設定したリズムとテンポを守って行くことは「型」と言って良いだろう。

とするなら、この世界にも宇宙にも秩序や調和という「型」があるということだろう。
型とは、その型を通して、型の核、型の奥にある型、普遍的型に至る為のもの。
ある時代にある人達が、
そう言った世界の秩序そのものを型として読み取って形にしたのだろう。

そうすると型は、型を感じとるためにある、ということも出来る。
宇宙の秩序を型の原型とするなら、その型をつかむということが核心にあるはずだ。

ここまでくれば、はっきりして来るのだが、つまりは即興のこともここで分かる。
即興やアドリブはその場の雰囲気を感じとって展開されて行く。
アドリブが美しくある為に、でたらめとの違いが何処にあるのか。
アドリブが美しく展開されているのは、
背後にある秩序をその場、その場でつかんでいくからだ。
そう考えれば、型と即興は同じものだ。
つまりはこの世界の秩序をどうつかみ反応出来るか、ということだ。

名人の型はアドリブに見える。また美しい即興も型の様に自然に見える。

落語の好きな人は、文楽、志ん生、みたいにいって、
それぞれ型と即興と捉えているが、志ん生は稽古に明け暮れているし、
文楽の自在さや遊びの軽さをどう見るのだろうか。
そこに志ん朝の芸を加えるなら、
即興が型に繋がって行き、型が即興に繋がって行く境地がありありと見える。

付け加えるなら、孔子の「心の欲するところに従って、のりをこえず」も、
道徳的な意味ではなくて即興と型の繋がる境地を言っているのではないだろうか。

こんなところから、ダウン症の人たちの制作における、
即興生と普遍的なバランス感の謎が、
人間にとっての根本のテーマに繋がることが分かってくる。

2013年12月1日日曜日

今日はちょっとだけ

今日から12月。
年が終わったり始まったりして、それによって何が変わるわけではないのだけど、
やっぱりなんか意識する部分がある。
それに、僕達は有限の時間の中で生きているのだから、
区切ることで気持ちを切り替えて、次に向かって行くのは有効だ。

昨日はすっかり思い違いをしていたが、
今日はいよいよ潜水艦を出発させる。
(潜水艦のことは前回のブログに書いてあります。)

この前、朝のニュースで海女さんを特集していた。
三重のアトリエの近くの話だったので見た。
素晴らしかった。
特に海に潜る前に身体を暖めて行く場面。
確か1時間とか言っていたが、大きな炎に背中を向けて、ひたすらじっとしている。
その表情が凄かった。
厳しさと謙虚さと、大きなものを相手にしている人間特有の静けさ。

ああいうのを見ると、自分の生き方を反省する。
足下にも及ばないなと思う。

途方もなく大きなもの、自然や宇宙といったものを前に、
僕達は小さな、小さな存在として、謙虚にそして真剣に生きなければならない。

人を幸せにするとか、それは大それた話で、そんなことを考えるのはおごりであろう。
でも、たとえわずかな時間でも幸せを感じてもらうことなら出来るはずだ。

僕の「場」での仕事は外から想像したり、ちょっと見たりした印象とは違って、
クリエイティブなものでも個性的なものでもない。
創造性や個性は作家の側の話であって、僕自身はひたすら受け身だ。
僕はその場に反応して行くだけだ。
ただ、それだけのことを全力でやって行くと、何かしら良いことが起きる。

人のこころや、「場」には原則がある。
それに従わなければならない。
どんなにこころの赴くままに見えても、それはそう見えるだけで、
実際には古典芸能の型の様に、法則に従っているだけだ。
型の様に見えないのは、こころや場の要求はその瞬間に変わって行くからだ。
場では思いつきで動くことも、我を忘れることも許されない。
ただひたすら流れを感じとり、順応していく。
場の要求に従って行く。なにも考えないで無心に。

一度、場に入ると無心になる。
目の前に人がいて、その人のこころは場の流れに従って行くと自由になる。
そのプロセスがめくるめく展開されて行く。
あまりに鮮やかで楽しい場面だ。

ゆうたが最近、良く言ってくれる言葉、「一緒に踊ろうよ」。
ゆうたはまず自分が踊って楽しくなってからそう言う。

僕らも場を見る人間はただ言葉で言っていてはいけない。
まず自分がすっと裸になって、さあ一緒にと。
楽しくなってもらえるか、自由になってもらえるかは、
まず目の前ですっと自分が入って行くかどうかにかかっている。

何度も書いていることでもあるので、今日はちょっとだけにします。

2013年11月30日土曜日

潜水艦

※以下のブログの訂正です。
ごめんなさい。すっかり今日が12月だと思って、教室があるように書いてありますが、
今日は5週目でアトリエはお休みです。1、3土曜日クラスの方はお渡ししているスケジュール表どうり来週となります。以下の文章は書かれたままとさせていただきます。


今の季節は光が本当に奇麗だ。
作家たちもどちらかというと、いつもより明晰で色も良く出てくる。
彼らの魅力は、ちょっとぼやっとした曖昧で繊細な部分にむしろ現れると、
思って入るが、明晰さが加わっても、その微妙な感じが損なわれることはない。

今日はどんな作品達が生まれるだろうか。
この1、3週目の土曜日クラスも、場の雰囲気、作品、
一人一人の活き活きした表情と、とても素晴らしい時間を重ねている。

僕は北陸の出身なので湿度には割に強いが乾燥には弱いのかも知れない。
それでも乾いた空気は光や色を美しくしてくれる。

日中の日差しの鮮やかさ、暖かさ。
それから夜の月は静かで美しい。
遠いところに行ってしまいそうなくらいに迫ってくる。

がぐや姫の物語、見たいなあ。
時間がないし、それに混んでそうですね。

月の光に懐かしさを覚える感覚と、自分たちがやって来た場所が、
どこか他のところにあって、今ここにある世界や自分が夢の様に感じられる。
そんな心境が一人一人のこころの中にあるのではないか。

本当は知っているのに思い出せない。
その懐かしい場所に行きたいという思い。
日本人は月を見ていてそんな風な心持ちになっていたのかも知れない。

そして、僕達は制作の場に入ることで、その感覚を蘇らせる。
僕達はずっと先まで進んで行くと同時に、遥かな過去へと、記憶の奥へと遡って行く。

そんな時間をこれからも共有して行きたい。

この前の日曜日、しんじ君の描いた「さくまさんの若い頃」は、
本当に懐かしく深く深く、奥の奥まで潜り込んだ作品だった。
その日、さとちゃんに「このっ潜水艦!」と言われたのだった。

以前に書いたはるこの言葉、もっともっと掘って、というのも思い出す。

さてさて、今日も潜水艦を動かして出発です。

2013年11月29日金曜日

現場魂

あえて、ちょっと泥臭いタイトルにしてみました。

いやー、寒いですねえ。
このパソコンのある部屋は暖房がきかないのでジャンパー着て書いてます。
風邪も流行ってきているようです。
皆様もお気をつけ下さい。
この時期はこの場も注意が必要になってくる。
アトリエでは免疫の弱い人も多いので、
もし風邪をひいたら他の人への配慮もお願い致します。
軽い場合は必ずマスクを、辛そうな時は無理をせずにお休みしてください。
特に長時間一緒に過ごしている平日のクラスの方達、ご注意下さい。

年末はやっぱり忙しくなってしまって、
このブログもなかなか更新出来ずにきてしまった。
その間にたくさんのことがあったので、書くべきテーマもたまってしまった。
まあ、でも焦らずにいきたい。

ゆうたの喘息が出てしまって、入院でよしこは大変だった。
肇さん、敬子さん、三重のみんながいてくれて本当に有り難い。
文香ちゃんも帰って来ている時期で心強い。

居てくれるということが、何よりありがたいことだとつくづく思う。

先日は本当に久しぶりに、共働学舎の悦子さんと電話でお話しした。
毎年、クリスマス会のご案内を頂くのだが、仕事で行けない。
悦子さんの声を聞くと安心する。
あれから長い時間がたっているのに、そんなことはふっと忘れて、
あの頃に戻って行く。
「大丈夫なの?みんな心配してるよ」
と言ってくれると、全然大丈夫なのに、
「うーん。なんとかギリギリやってますよ」と甘えてしまう。
子供の話になって、「あなたに似てせんが細いかもよ」と言われる。
え、僕ってそんなだったっけ、と思い出すと悦子さんにはずいぶん甘えていた。
こっちでは誰からも弱い人間だとは思われていないんだけどなあ。
むしろ逆なんだけど。
でも、ずっとそんな風に見ていてくれる人が居ると力も緩む。

さて、ちょっとわざとらしいタイトルにしたのだけれど、
やっぱり原点。なによりも制作の場を真剣に守って行きたいと思うこのごろ。

今度は女子美でお話することになっているが、
近頃は美術大学にヒーリングや表現を通しての関わりをテーマにする学科も増えた。

社会の流れを見ていても、障害を持った人達に何らかのアプローチで、
関わって行こうとする人達が増えて来たし、増やそうという動きもある。

僕自身はずっと関わって来た人間として、伝えて行かなければならないと感じる。
強い責任感を持って、本気で学び、関わろうとする人を育てたいとも思っている。
今は曖昧な形で何も知らない人が教えていることも多い。

これまで書いて来たように、僕の仕事は2つある。
1つはダウン症の人たちの未だ知られていない可能性の世界や、
豊かな文化を伝え、触れてもらうきっかけをつくること。
これまではこっちをどちらかと言うとメインにして来た。
でも、もう1つ大切なことがあって、
それは関わること、関係の中で一人一人のセンスを引き出すという、
現場での具体的な仕事をしていく人材を育てて行くこと。

長くなるので今回はさわりしか触れないが、
僕は関係性において個人のこころの中にあって、
外に現れていないその人の本当の部分を引き出して行く、
ということを自分の仕事として来た。
こういうことは僕が始めた頃、まだジャンルとして成立していなかったし、
今でもはっきりとしたジャンルは確立されていない。
僕がこのことを自覚して動き出した頃、
誰も参考にする人も居なければ、助言を与えてくれる人もいなかった。
ただ、数人の人が、お前のやっていることは仕事と呼んで良い、
と個人的に認めてくれるのみだった。

関係性において何が生まれて来るのか、
関わることで何が変わるのか。
経験を積めば積む程、関わる人間によって、内面にある何ものかが、
出て来るのか、出て来ないのかが決定することは明白になった。
そこには勿論、才能や技術も関係してくる。
努力もおおいに必要となる。
勘は最も大切なものだが、勘だけではなく、鉄則や法則もある。
仕組みはむろんある。

これからの為に僕は自分の知っていることは教えて行くつもりだ。
今、2人程、教えている。
この2人が、関わることで相手から良いものを浮かび上がらせて行く、
ということが出来るように、それを仕事としていけるようになってほしい。

いずれは、僕達のやっているようなこともジャンルとして成立することだろう。
指導でもなければ、セラピーでもヒーリングでもない。
教育でもない。
でも、関わることで本質的な何かが生まれる。
そういう関係を作る仕事。

このアトリエだけでなく、外にもそういう人材を育てる為に伝えて行く。

その為に、これまで20年近く、
内面的探求に関してはたった一人でやって来た部分を、
言葉にしていく必要もあるかもしれない。
メソッドやマニュアルには出来ないけれど、
ただ感覚だけでやって来たわけではないので、残せるものは残したい。

そんなことを考えていたりするが、
実際の場を守って行くことが一番大切なので、ゆっくり進めるしかない。

2013年11月22日金曜日

ここはどこ?

久しぶりのブログだ。
熱心に読んで下さっている方達がいて本当に有り難い。
伝えると言う仕事をこれからも大切にしていきたいと思う。
なにせ、核心はこんなところくらいにしか書けない。
取材や何かは自分たちが使えそうなものだけしか伝えないから。
そして世の中のそういった動きは本質から逸れて行くいっぽうな気がする。
一人一人の生き方や興味も、根源から遠ざかり、本質から逸れていくばかり。
虚しくないのかなあ。つまらなくないのかなあ。
人の事は気にしないと言うわけにもいかない。

2週間ほど、よし子と悠太が東京へ来てくれていた。
悠太の誕生日を一緒に過ごす事が出来た。
ご協力いただいた皆様にも感謝です。

とにかく、僕達はまったく未知の領域を追求してきたと思う。
ダウン症の人たちがどのような世界を生きているのか、
というような視点での本質的なアプローチはこれまで全く無理解に曝されてきた。
最近はかなり改善されてきたとは思っていたが、
やっぱりまだまだだと実感する。

こと障害という問題に対しては社会は大分改善されただろう。
オシャレっぽい感じの活動も増えたし、もっともらしくもある。
でも誰も本質的な事には触れようとはしない。
それは、どこかで甘く見ているからだ。
自分が変わりたくないからだ。自分たちの価値観が覆されたくないからだ。

僕自身も確かに伝えるということを強調してきた。
でも、これは勧誘でも布教活動でもない。
沢山の人に広げさえすればよいとする考えにも反対だ。
理解は正しくなければ意味がない。
誤った理解で数だけ増やしても弊害があるのみだ。

だから、あえて言いたい。
何の為にこの場があるのか。
ここはダウン症の人たちの本質である、人間の根源的力を追求する場であり、
彼らの良い部分を引き出し、守るばであり、また積極的に彼らから学ぶ場だ。
彼らに何を見るかは、こちら次第だ。
変わらなければならないのは私達なのだ。
従来のアプローチを続けたい方は続ければ良い。
福祉的なアプローチでの仕事が来る度に思うのは、
ここじゃなくても良いだろう、ということだ。
代わりは沢山あるだろう。

この何年かでかなり色んな場で話したり、伝えたりしてきたが、
僕自身はダウン症の人たちと一緒に見てきた事の入り口すらまだ語ってはいない。

時間がない、みたいな事はあんまり言いたくはないけれど、
もっと本質に向かおうよ、と思うのだ。

仲間達にも言い合って行きたい。もっと先へ行こうよ、と。

作品は凄いし、制作の場は奥深い。
もっともっと入って行くべきだ。

世俗的な次元の事はどうでも良いではないか。
地位や名誉やお金が欲しい人は、追いかけて行けば良いけれど、
ここの場とは無縁な事は確かだ。

ずっとこの場を続けてきて、いつでももっともっとと先を見てきた。
場に入るいじょうは奥深くまで行きたい。
もっと深く潜ること。もっと奥の奥まで見ること。
どこまでも行くこと。

深く深く、もっと深く。
その更に奥に宝物がある。人間の根源にある何ものかが。
一度行ったら終わりではない。また次も行く。

悠太とたくさん散歩して、疲れたのか「あっこ、あっこ」と言う悠太を抱っこして、
暗くなって行く商店街を歩いていた。
悠太はずっと話している。ニコニコ笑って。
「音ー、するねー。うえかなあー、したかなあー、どこかなあー」
楽しそうにリズムをつけて歌うように、くりかえす。
何度も何度も。
「上かなあー、下かなあー、何処かなあー」
うえかな、しなかな、どこかなー、何度もリフレインされる言葉を聞きながら、
歩き続けた。2人で暗くなって行く空間を真っすぐ進んで行く。
ここは本当に何処なのだろう。
上なのか下なのか。
不思議な夢でも現実でもない場所にいるような気がしてくる。
もっと行こう。もっと何処までも行こう。
うえかなあー、したかなあー、どこかなあー。

ずっと、ずっと奥まで行って、何にもなくなるところまで行って、
そうするとそこは何処でもないどこかで、
そこにはすべてがあって、上も下も、右も左も、前も後ろもない。
僕も悠太もいなくて、ただ名付けようのない無限だけがそこで息をしている。

絵の世界もこころの深くで経験する世界も、
人間のもっとも深いところにある経験は一つだ。
制作の場はそこまで潜って自由になって帰って来る為にこそある。

2013年11月6日水曜日

本物、偽物

もう11月。本当に早すぎる。
毎年、ああもう終わりかあ、早いなあと感じる。
やるべき仕事が間に合わない。

今日は少し掃除をしていて、ハウスダストなのか何なのか、
すっかり鼻がやられてしまった。
むずむずでくしゃみと鼻水が止まらない。
頭はぼーっとするし、ふわふわしてしまって身体に力が入らない。

鼻の奥が熱を持ってしまってじくじくしている。
こうなったら1日は続くので我慢していると、
背中の力が抜けてフーっと軽くなった。
しんどいけれど、緊張が解けて行ってこれはこれでありがたい。
今日は本当に身体が軽くて、ないみたいだ。

前回、ピアニストのポリーニのことを書くと言ったが、
今日は集中力が足りないからまたいずれにしましょう。
でも、今の浮遊しているような身体の感覚はポリーニの音楽のようだ。

当たり前のことなのだけど、
制作に向かっている作家たちは自分の感覚だけを頼りにしている。
そして、あの鮮やかな作品を生み出して行く。

他の何にも頼らず、甘えず、逃げずに、感覚を信じること、
感覚に賭けることが出来るかどうか。
これは今、私達が生きている環境の中で最も大切なことであり、
最も欠けていることなのではないだろうか。

近頃は日展の選考の不正が発覚したり、
食品表示の問題が話題となっている。
勿論、責任ある立場の組織が、
真摯な誠実な仕事をしなければならないのは言うまでもない。

ただ、いい加減に大きな流れを鵜呑みにして信じ込むのはやめた方が良い。
放射能の問題も経済の問題もそうだけれど、
これまでの価値観はもう崩壊している。
ある意味で確固とした何ものもないのが今の状況だ。

権威に媚びたり、偉い人が言ったということで信じ込むのは、
これまでも馬鹿げていたけれど、これからは更に時代錯誤だ。

こんな中でやっぱり大人は、世の中には本物と偽物があること、
そして、それは自らの感覚を研ぎ澄ませて判断すべきことだ、
ということを忘れてはいけない。
偽物がいつまでもまかり通るのは、偽物を許す大人が多いからだ。
本物が時として蔑ろにされ、それどころか弾劾さえされてしまうのは、
身をとして本物の価値を守ろうとする大人が少ないからだ。

子供達はそんな大人を見て育ち、大きくなってこんなことを言う。
本物も偽物もない、と、すべては相対的だ、と。
そんなわけがないと教えるのが大人の責任なのではないか。
本物と偽物というのがはっきりあって、
そこを見極め、判断し、選択するのは個人の責任であり、
時にはその選択において命を賭けるくらいの重大なものが含まれているということを、
しっかりと伝え、自らもその姿勢をみせなければならない。

僕のところで、制作している作家たちは途轍もなく大切なことを知っている。
感覚だけを頼りに迷いなく始めて、美と調和に行き着くすべを。
今、一人一人がそのような勇気と正直さとやさしさを取り戻さなければならない。

2013年10月31日木曜日

醒めて見る夢

秋晴れが続いて嬉しい。
ふと思ったのだけれど、僕ももう少しやわらかくならないかなあ。
以前と比べたらこれでも、大分楽に考えられるようになってきた。
こうあるべき、こうでなくては、が少しは減ったと思う。

真面目だけでは人も自分も疲れてしまう。

みんなで力を合わせれば、誰かが一人で頑張らなくても良くなるだろう。
そんな組織にして行きたい。

先日、よしこと仕事のことで、久しぶりに中身のことを話した。
普段は仕事に関しては具体的なことしか話さない。
彼女は何事も全力だから、子育てに入ってすっかり変わっただろうと思っていたが、
やっぱり真剣度は他の人とは違うな、と思った。
ボンヤリしているようにみせている時もあるけど、本当のところは考え抜いている。

イサもそうだけれど、これから新しいスタッフが加わって行ったとき、
どれだけ真剣な意識を共有出来るかだ。

東京のアトリエもここに通って来てくれている人達をまず第一に考える。
この規模にしては人数も多い。
東京は環境もずいぶん変わったし、
ここよりよっぽど手軽に習い事をするところなどいくらでもある。
行く場所がないから来る、という状況ではない。
大きな団体と比べたら、行き届かないところ、不便なところも多い。
特別な活動をしているので、理解していただかなければならないことも多い。
そんな中でここへ通い続けて下さっている方達がこんなにいる。

ただ看板を下げているだけでは誰も来てはくれない。
マスコミに取り上げられたくらいでは、
来てくれたとしても続けて来ようとは思わないだろう。

なによりも作家本人のこころに直接帰ってくることを大切にしてきたからこそ、
そこをご理解いただけているものと信じている。

一人一人のこころと感性という、とてもとても繊細な領域を扱っている以上は、
教育と一緒でサービス業にはなり得ない。
妥協してはひびくのは当人だ。
考えに共感出来ない方は参加していただく必要はない、という姿勢で進めてきた。
なにも人を拒絶するわけではない。
それくらい信頼関係を作らなければ進められない部分を行っているということだ。

だからこそ、僕達は責任を持って、いつでも真剣に仕事しなければならない。
アトリエの根幹である制作の場において、
僕はいちスタッフとして手を抜いたことは一度もない。

部屋を片付けていて、そろそろCDを売ろうかなと思って見ていた。
数年に一回は処分して必要な物だけにしようと思っている。
それでしばらく聴いていないものを、合間合間に聴いてみていた。
ポリーニのショパンがあって、一応上手いことは誰でも認めるけれど、
好きになれない演奏だったから、ちゃんと聴いてはいなかった。
久しぶりに聴いていたら、まず不思議なことに気がついた。
ポリーニは誰よりも正確無比で非人間的で、情感の伴わない機械的な演奏をする、
というくらいのイメージしかなかったのだが、
何か浮遊感のようなものを感じる演奏で、おやっこんなだったっけ、と思った。
そのうち、これがとてつもない音楽であることに気がついた。
精密機器の向うに何かがある。
音楽はもはやクラシックでもショパンでもなくて、
宇宙にいるような、無重力を浮遊しているような気になってくる。
臨死体験のようでもある。したことはないのだけれど。
そんなわけでポリーニを聴き直す気になった。

ポリーニの演奏にある浮遊感は、僕にとっては馴染み深いものだ。
それはいつもながらに言うのだけど、場に入っている時に時々ある感覚だ。
半覚半睡というのか。
ぼやっとしつつ意識を保つ。緩めつつ、パッと張る瞬間を見極める。

ポリーニの演奏は醒めた夢のようだ、と思った。
夢の中にいるのだけど、意識は醒めている。
夢だと認識すればする程、細かなところまで明晰に見えてくる。
見えるから見続ける、見続けているうちに、どんどんどんどん冴え渡って、
ますます醒めて行く。だけど夢は終わることなく続いている。
だから醒めたままずっと夢を見続けている。

もうちょっと詳しく書いてみたいので、また今度にする。

2013年10月29日火曜日

冷たい風

しばらくお客様が多い日が続く。
もう11月になる。早いなあ。

今週は新しいお仕事の打ち合わせ。
僕の外仕事。来年からアトリエとは別の仕事を一つ進めることになると思う。
これからのことを考えて行くと、僕は次に繋ぐことや、
もっと広い視野での仕事を進めて行かなければならなくなって来た。
アトリエの環境を守って行くためにもそれは必要だ。

今日は雨だったけれど、止んでからは暑くも寒くもなくて過ごしやすかった。
風はひんやりしている。

静かな夜に風を感じていると、色んなことが頭を通り過ぎて行く。

一緒にいてくれた人。教えてくれた人。決裂した人。
支えてくれた人。
たくさんの人がとにかく居てくれて、今があるし、この仕事がある。

生きて、何が出来るのだろう。どこまで行けるのだろう。

今は一緒に居られないけれど、よしことゆうたが居てくれる。
三重で2人を支えてくださっている肇さん、敬子さんの存在。

いつでも一人ではない。

それでもたった一人で立っている時がある。

何もかもが変わってしまったという感じと、全く何にも変わっていないという感覚。

見て来たもの、聞いて来たもの、体験して来たこと、
出会った人達、そんなすべてが折り重なって波のように動いて行く。

先の先の先まで来て、まだ先がある。
奥の奥の奥まで行って、さらに奥がある。
もっともっともっとどこまでも行きたいと思う。
沢山の人の思いを自分のこころの深くへ入れて。
何もかもが過ぎ去って行くのだけれど、何もかもがそのままここにある。

何一つ消えていない、と言うのもまた本当だ。
すべてはどんな小さなものも永遠に無くならないのだ、という感覚もある。

こころの中の深い場所には細かな片隅まで全部があって、
複雑な層をなしている。いつでも無限を感じていることが出来る。

冬が近づくと色んなことを思ってしまう。
忙しくなってくるのに、内省的になっている部分もある。

さて、年末に向けてこれまでとこれからを整えて行きたいです。
プロ野球、どうなるんだろう。
楽天のマー君、神懸かってきたなあ。
ああなると個人の力を超えちゃうから不思議。

2013年10月28日月曜日

幽玄

ぼちぼち風邪も流行りだしている。
体調をくずしやすい季節。
秋はよしことゆうたの喘息も心配だ。
なんとか頑張って乗り切ってくれているけれど、大変そうだ。

東京での作品出しは微調整の段階に入っているので、
来客があったり、打ち合わせに出かけたりになってきた。

もしかすると秋が一番季節を意識するのかもしれない。

200枚の作品が集まって、充実した心境だった。
ああ、やりきったなあ、納得出来る。満足出来るなあ、と。
制作の場では絶対にない心境だ。
いつでも、スッキリサッパリした状態とは無縁だ。
制作の場には終わりはないし、答えもない。そう思い込むと流れが止まる。
だから、作品を作品だけで扱うことは全く違う気持ちだ。
久しぶりに、いいなあ、という充実感に包まれてスッキリしていたのだけれど、
まあ、そんなのは3日間くらいのもので、今はもうそんな気持ちはない。
なにバカのこと考えてるんだ、さあ、次の仕事へ向かえ、と言われている気がする。

こうやってすぐに終わって、過去になって行くから新しく何か出来るわけだし。
まあ良いことなのではないだろうか。

もう一つ、
学芸員の方がどんな選定をされるか分からないが、
僕のところでは200枚の作品を出してしまっているわけで、
ある意味で出し切った状態なわけだ。
それで次にどうしよう、という不安を楽しんでいたわけだけど、
もうこの土、日曜日のクラスで良い作品が沢山描かれている。
これは作家たちの奥深さだ。
まだまだ未知の領域がある。

前回のブログで最後のところが上手く書けていない感じで気になってしまった。

つまり、右や左、上や下があるのか分からない、ということなのだけれど、
なにも昨日や今日思いついた話ではない。
ある意味でずっとそんなことを考えている。

凄く単純に言ってしまうと、人は自分というのがあって、
あ、ここに木があるな、と見て、時間が真っすぐに進んで行くと思っている。
過去があって現在があって未来がある、と。
でも、ちょっとでも違う次元に触れた経験があると、そんなことは言えなくなる。

例えば、だけど、僕の仕事と言うか生き方でもあるけれど、
人のこころというものに近づいてみるということをしてみる。
これが一対一の初期的な経験でさえ、相手の気持ちが自分の中で体感される。
少しでも深く入れば、もうどこまでが自分でどこまでがその人なのか分からなくなる。
繰り返すが、これは初期的な経験に過ぎない。
これが場という、もっと複雑な要素で出来ている空間に身をおくと更に、
話はややこしくなる。
身体の感覚が小さくなったり大きくなったり、無くなったりもする。
場は個が集まったものではなく、どの個からも現れない何かが現れるものでもある。
そういう経験を追求して行くと、
自分とか意識とか、世界とか、こころという言葉が何を意味するのか分からなくなる。
厳密に言おうとすれば、無限の動きが流れているとしか言えない。

何か流れて形になっているが、その形も動いていて次の形に向かっている。
そういう、言うに言えない動きだけがある。
自分とか木とか世界といって固定出来る何ものもない。
確かなものはないし手応えもない。
絶えず動き流れている。それが現実なのだと思う。

僕が持っているお能のDVDで名人の舞を見ていると、不思議な気持ちになる。
その名人は身体だけを使って、コマ送り、クローズアップ、スローモーション、
と様々な場面を描く。時間も空間も揺らぎ、確固としたものが無くなる。
身体がバラバラに動いたり、自然に流れたり、
過去と現在と未来は直線ではなくなり、混ざり合う。
すでに舞っている名人は人間ではない気がする。
自然や宇宙がそこにある。

身体を使って世界を断片化しバラバラにして混ぜ合わせて行く。
ある意味で徹底的に自然をいじって作り替えているわけだけれど、
そこになぜか自然さがある。
それは存在しない現実を作り込むわけではなく、
現実の奥にあって普段は見えていない本当の現実をつかんで行く行為だ。
お能が宗教や哲学と違うところは、そういう次元を信じろと言ったり、
言葉で描写したりするのではなく、実際に自分の身体で見せるというところだ。
お能と言うか、その名人がだろうけれど。
世阿弥が幽玄という言葉で表現している世界は、
名人においては具体的に見せることの出来るものだと言える。

そして、舞が終わると夢の後のように跡形なくその世界は消えている。
幻のごとくと謡が入ったりしている。

あの名人が舞っている時にはどんな風に世界が見えているのだろう。
きっと流れる色彩が無限に重なっては消えて行く、
しんじの絵のように見えているのだろう。

2013年10月25日金曜日

消えること、変わること、

寒いですね。
明日の台風、心配です。

年末に向けて、来年の様々な打ち合わせが入っている。

ここしばらく、制作の場と作品に集中していて、
彼らの近くにいて、時には一つになったりしてみて、
ますます確信が強くなる。
今こそ、彼らの作品の出番なのではないか、と。
今こそ、彼らの文化に触れるべき時なのではないかと。
そういうことが差迫って必要になっているのが今なのではないか、と感じる。

僕自身、沢山の痛みを経験して来たし、辛い思いもいっぱいあった。
それは、誰でもみんなそうだ。
そんな中で、何が気持ちを満たしてくれるのか、
見て、聞いて、感じて、そして考えて来た。
確かなものは美しいと思えるものだけなのではないか。

アトリエの場も、そこに流れる時間も、作品も、一言で言えば美しい。

美しいものを知ることが出来れば、どんな時でも生きて行ける。

世の中を見ていると本当に、感覚が麻痺してしまっているのでは、
と思うことがいっぱいある。
自分で感じることも考えることも出来なくなっている人達。

本当に放射能をコントロール出来ると思っている人がいるのだろうか。
とんでもないことが起きていて、避けることも逃げることも出来なくなった時、
せめて現実を見つめるところからしか、何もはじまらない。

見なかったことに、なかったことに、誤摩化そうとする人達。

外を歩いていた。
小走りですれ違った子供のシャツに血がついている。
僕はビックリして子供を追いかける。
近くで見るとその血はシャツの模様なのだった。
血染めの模様でシャレのつもりで作ったものらしい。
なんというセンスだろう。面白くないどころか、正気とは思えない。
このようなものを作る方も作る方だが、着せる親もどうかしている。

人間の感覚が狂って来ている。リアリティがおかしくなってきている。

お店で写真ばかりとる人達。
どこかへ行くと必ず、自分がその場にいることを写真で記録している。
何かを食べているところでさえも。
あれは経験を記録しているのではない。
予め経験を薄めて、処理しやすくしているだけだ。
あれは見ないように感じないようにしているようなものだ。

この現実は編集出来るものではない。記録出来るものではない。

経験することが怖いからああしている。
経験するとは自分が変わってしまうことだから。
もう引き返せなくなることだから。

ヘッドホンで音楽を聴きながら歩いたり、電車に乗ったりしている人たちも。
人にぶつかっても気がつかない。
迷惑なのはさておき、そんなことしても音楽なんか聴こえるわけがない。

本当に音楽を聴いたら、わざわざあんなものをつけなくとも、
どこでも音楽が鳴り響くはずだ。
それどころか世界のすべてがその音楽のように感じられるはずだ。
本当に絵を見たら、どこもかしこもその絵にみえるだろう。
経験するとは、変わること、今が過去になることだ。

知り合いに戦場でカメラを回す仕事をしていた方がいる。
面白い話を聞いた。カメラ越しに見ると恐怖を感じないが、
カメラを持たないと恐ろしくなるそうだ。
さすがはプロという話なのだが、それがカメラや記録という行為の危なさでもある。

僕達はいつの間にやら現実にいながら、現実を追体験してしまっている。
だから何を見ても聴いても、どこへ行っても、経験したことにならない。
それが今の世界だと言える。
どれだけ環境が汚染されていても、遠くの話のように聞いている。
そうやって半分眠ったまま、いつの間にか生命がすり減って行く。

分からなくなったら原点に返れ、とよく言われる。
今こそ、気持ち良いとか、美しいとか、美味しいという感覚を大切にしたい。

価値観が揺さぶられ、生きている世界が変わること。
全く新しい何かが現れ、これまでのすべてが終わって行く。
それが経験することだし、変化することだ。

僕の好きな志ん朝は「芸は消えるから良い」と言っていた。
人生もすべてそうだ。消えるからこそ新しくなる。

志ん朝には軽みがあった。流れるような透明感があった。
滞りがあってはいけない。リズム、リズム。

今、見たり、経験したりしているものがすべてではない。
あるとき、そんな現実がいっぺんに変わったりする。
そんな経験に自分を開いておくことが大切だ。

例えば、芸術表現にしても、絵画や音楽にしても、
あるとき、新しい概念が生まれる。
ダダ、シュールみたいなのもそうだし、なになに派とか。
キュービズム、フォービズム、アンフォルメルでも何でもいい。
もっと言うと四次元とか素粒子とか。
何故、ああいうのが出てくるかと言うと、それは新しいスタイルでも技術でもなくて、
見ている世界、見えている世界が変わって行くこと、
認識や経験が変わることだ。
世界の捉え方が突如として変わる。
その経験がさまざまな概念を生む。

今、見ているものがすべてではない。

談志は落語の中で他の落語を突如入れたり、
それが沢山混ざって来たりといった場面を作ることがあった。
沢山の話の前後が混ざり合ったりして行く。ピカソのように。
それをイリュージョンと呼んだりしていた。

すでに知っていると思って、現実を自分の頭で翻訳してしまうから、
新しい経験が出来なくなる。

評判が悪いようなので誤解を恐れずに言わなければと思う。
先日、見た松本人志監督のR100は傑作中の傑作だ。
やはり彼は天才だと思う。
世の中では評価されるべきものが全くされないことがよくある。

生きていると、習慣が生まれるから、濁って行く。
そこから差別や偏見や思い込みも生まれるし、
いつの間にか偏った見方しか出来なくなる。
フレッシュに物事を見つめてみたくてもなかなか出来なかったりする。

条件反射のように、あ、右だ左だと思って生きている。
でも、本当は何が右で何が左なのかさえも分からない。
上も下もあるのか分からない。

ダウン症の人たちの作品も名付けられないから面白い。
解釈しようにも出来ないところに価値がある。
彼らにはあんな風に見えているのだから。
だから、考えたり解釈したりするより、僕達もあんな風に見えるようになれば、
もっともっと楽しくなるはずだし、豊かになるはずだ。

2013年10月20日日曜日

曇り、雨、

今日も雨。
また台風が近づいているようだ。
最近は本当に多い。

10年に一度の、とか100年に一度のとかという言葉もよく耳にする。
やっぱり地球規模、惑星規模で大きく変化の時期なのかもしれない。

こころでも身体でも健康で調和を保って行くことは大切だ。

良くも悪くも変化して行く時は厳しいものだ。

僕達は毎日、個人のこころを見ている。
たった一人の人間がその場で楽しく笑顔でいてくれること。
そして、何か深く大きなものを自分の中から取り出してくれること。
ささやかな時間であっても、それがどれほど大切なことか。

昨日のアトリエでも、男の子が辛い状況にあることを、
ぶつぶつ呟いていた。時々、怒ったり、悲しんだりしながら、
独り言のようにしゃべり続ける。
言いながらも筆を動かし、絵を描き続ける。
ここで全部吐き出すように思っていることを言葉で出していく。
誰に聞かせるでもなく。
そうして行くうちに、絵に光が射し始める。
言葉も穏やかになり、顔も優しくなる。
「出来たよ」
「題名はある?」
「題名はー、おばあちゃん、ゆっくり休もうね」

どんな状況でも、落ち着いて自分を取り戻す時間は必要だ。
なんとか、そんな場をつくって行きたい。

何気ない瞬間がどれほど大切か。

夜中、しんじから電話。
「サクマちゃん、かいじゅうふうえかわい」(体重増えた)
「そのくらいで大丈夫だよ」
「ちょっこ休む、これいいね」

明日はヘルパーさんとお出かけと楽しみにしている。
早く寝な、と言って電話を切った。まあ寝ないだろうけど。

電話で聞くゆうたの声はどんどんはっきり言葉になっている。
この前の運動会はよく頑張った。
前日に喘息が出てたので心配だったけど、
朝、吸入して、行く、行くと言ったと言う。
かけっこは一番だったようだ。と言っても3人だけど。
でも、年上の子達と走って勝った。
まだ勝った負けたもないか。

今日は静かでずっと雨が降っている。
休みだったら、これも良い日なのだけど。

アトリエに向かってくる人達が心配だ。

少し部屋を暖めておこう。

2013年10月19日土曜日

作品選定

気がつくともう寒いですね。
秋の期間は少なくてもう冬に向かっている気配です。
ブログ、しばらく更新出来ませんでした。
原点回帰でかなり集中して制作の場に入っていました。
それから、来年の展示の準備が始まっています。

美術館での展覧会はキュレーターもいらっしゃるので、気持ちは楽です。
作品を預ければ良いといった感じで。
ただ、選定作業にしてもまさか何千枚もの作品を見て頂く訳にも行かないので、
その何千枚もの作品の中から、見ていただく作品を選ぶのは僕達の仕事になります。
ここもかなり責任重大です。緊張します。恐れもあります。
今回は東京アトリエから200枚、三重アトリエから100枚、の300枚を、
お渡ししてその中から学芸員の方が選定することになりました。

数千枚の中から200枚の作品を選ぶのは作業的にも大変です。
それから僕達の場合、制作の場でずっと一緒に見てきているので、
ある意味で自分たちのこれまでの仕事を試されてもいる訳です。
特に、ここ2、3年の作品を連続で見るのは、
自分が何をやってきたのか確認することでもあります。
初めて見て、あれっこれで良いのかな?とか作品の質があまり良くなかったりしたら、
これまでの仕事を否定しなければならなくなります。
僕の場合は更によし子が場から離れて、一人で続けてきたところでの仕事でもあり、
一生懸命、切り開いてきた人達を裏切れない訳です。
肇さん、敬子さん、よし子をまず、裏切れないし、
実際に描いて来た作家たちの最良の部分を引き出さなければ、
彼らにも申し訳ない訳です。

何度も書いていることですが作品の質は、関わる人間で大きく変化します。
彼らは本来、優れた感性を持っていますが、それが活かされるかどうかは、
環境次第です。
もし、あんまり良い作品が生まれていなければ、
作家の問題よりも関わる人間の問題が多いと思っています。
彼らが持っていないものを付け足したりはしません。
彼らに何か教えたり、プラスすることもありません。
ただ、彼らが持っている感覚を使ってくれるかどうかは僕達にかかっています。

彼らが本来持っている優れた感性を発揮してくれているかどうか、
それは一回、一回の場でも分かることですが、
作品を通して見て行くと、より客観的なものとなります。

これも前に書きましたが、制作の場で見ているときと、
作品を作品としてみる時とでは、見方が違います。
主観と客観のバランスが違うと言えるかも知れません。
そんな単純には言えないのですが。
まあ、作品を扱う時の方が客観性は強くなければいけないでしょう。
どこをとって、主観、客観と言えるのかは難しいですが。

アール・ブリュットやアウトサイダーアートと呼ばれているものが、
今、世の中にいっぱいあって、ブームとまでは言わないけれど、
見る機会、聞く機会が多くなっている。
正直な感想を書くとつまらない作品も多いし、視点も甘い。
こういうことをやっているとどうなるか、何度も書いて来た。
人からは飽きられる、作家たちは枯れて行く、そんな流れになって行く。
作品を扱う人間は厳しく客観的な視点で、
見る側に何かをしっかり提示出来なければならない。
そして、実際の現場で作家たちと向き合っている人達は、
作品よりも、描く意欲や動機、
もっと言えば作家のこころのあり方をこそ大切にすべきだ。
この2つは違うジャンルで、お互いに協力が必要だ。

こんな状況なので危惧していることも多いし、
アトリエには大きな責任があると思っている。

はっきり言ってしまえば、群を抜いた作品群を見せなければならない。
比較することではないのだけれど、そんなものじゃないよ、というものを見せなければ。
圧倒的な違いを見せる、とまで言っていいのか分からないが。
でも、それくらいの気持ちで挑まなければと思う。

お仕事でお会いする人には、そんな話もしていたので、
選定作業に入って作品が出て来ないとなったらどうしよう、
という恐れもあった。

今、ほぼ僕の作業はめどが立っていて、作品が手を離れ、
頭からも離れて行く日は近い。

東京アトリエは40名弱の作家全員の作品を数点づつ、200枚選んであります。
後は出展の意思確認もあるので、多少、入れ替えたりもしますが。

実は2年ほど前から、少しづつ作品を選んでおいたのです。
ただ、それは制作の場との連続の中でちょっと気になったものをよけておく、
という感じだったので、実際によく見て選ぶ時は、全く違ったりする訳です。

予想どおり、外を歩いていても景色に色や線が重なる。
目を閉じると絵が動き出す、そんな状態で数日を過ごしました。
見すぎると見えなくなるので、いかに作品から離れるかも大切です。

集中して選定を行った日は一日だけだす。
後は準備。
その日は朝5時に起きて、いつもより奇麗にヒゲを剃って、
40分かけてお風呂に入って、部屋も掃除して、そこから始めました。

始めるまで、恐れはありました。もし良いものが出なかったら。
でも、その恐れは別の形になりました。
あまりに作品が凄くて畏怖を感じました。
改めて、彼らの素晴らしさを感じましたし、圧倒されました。
200枚も良い作品てなかなかないと思います。

自分の仕事としても集大成が出てるなと思いました。
作家たちも、場も、みんな、自分の仕事も、肯定出来るなと思いました。
と同時に、全く新しく、次の段階に行くべき時期をやっぱり実感しました。

これらの作品群を送り出したら、今度はまた一から始めよう。
最初からやるくらいの気持ちで仕事に挑もうと思っています。
具体的なことではなく、抽象的なことですが。
ただ、それが具体的な形になって行く部分もあるとは思っています。

視覚を他のことには使わないようにしばらく過ごして、
作品の影響が抜けるまで、かなり音楽に頼りました。

美しいものは良いですね。
ただ、美だけが自分を救ってくれる、そんな気がします。

音楽のことをよく書きます。
でも、実際には数ヶ月、何も聴かないという日々が多いです。
時々、聴くから良いのかも知れません。
聴き始めると、あれもこれもと引っ張って来ていつまでも聴いてしまいます。
辛い思いも悲しい思いも、苦しかった日々も、
楽しかった甘い甘い思い出も、みんな過ぎ去って、
そんな人生のさまざまな場面で美しい音楽が鳴り響きます。
他のすべてが嘘でもまやかしでも、これだけは本当なのではないか、
これだけは信じられる、そんな美しい音楽があります。

美は調和です。やさしさであり、丁寧さです。
美は人に生の輝かしさを教え、希望を感じさせるものだと思います。
ダウン症の人たちの作品も、そのことを語っています。
この作品達が人々に生きていることの素晴らしさを感じてもらえるきっかけになれば、
大袈裟に言えばそんなことまで考えてしまいます。

2013年10月8日火曜日

本当のこと

日中はまだ暑い日もある。夜はすっかり秋だけど。

最近は特に現場に集中している。
良い時期だなあ、と思う。

しばらくはこのリズムで行きたい。

こういう時期はあんまり言葉を使うことが難しくなってくる。

深く入らなければならない作業、深く潜らなければならない作業があるので、
それが一段落してからまたゆっくり書きます。

みんなが楽しくなればいい。
みんなが笑えばいい。

少しでも良いものを残せれば。
続いて行く、繋がって行く何かを創ることが出来れば。

外へ出てみると、やっぱり秋だった。
日差しも、空の色も、草木も空気も秋のものだった。

沢山の言葉で語られているもの、見飽きる程、見ているもの、
もう分かったよと、きっとどこかでみんなが思っている世界。
その先に、まだ見たことも経験したこともないものがある。
知らない世界がある。
そこへ向かうことは楽しいことだ。
今後の僕達の仕事はそんなことを経験するきっかけを創る。

今、何かをするということを、僕はけっこう重くみている。
少し前なら出来ただろうけれど、今は何となくのことは出来ない。
今、やるからには本当のものでなければならない。

美しいものが見たい。美しくありたい。美しい場を創りたい。
これからも、みんなと一緒に。誰一人欠けることなく。

シンプルで良い。どこまでもシンプルで。
つつましくひそやかで、丁寧に変わらずに。

2013年10月5日土曜日

場の意味

肌寒くなってきて、今日は雨だ。
しばらくブログの更新が出来なかった。

東京アトリエはいくつか大きめの仕事が始まっている。
これで年末にかけては忙しくなる。

一ヶ月か二ヶ月に一度はゆうたに会うようにしている。

ゆうたの成長を書いて行くといっぱいになってしまうくらい、
今回も変化を沢山、見ることが出来た。

その時、その時がかけがえのない時間だ。

「海、大きいねえー」「いっぱい」「これとー、これとー」「大丈夫!」
「あじー、しゃけー」「これ、うーちゃんの」「パパここ、ママここ」
「こいちわー」「でんしゃんカンカン」

ゆうたの言葉。やさしい声とやわらかい手。

東京での仕事のリズムもすぐに戻って来る。
一人で居る時、フィッシュマンズの「宇宙 東京 世田谷」を聴いている。

色んな機会に色んな場所に行く。
色んな組織やお店と出会う。色んな空間に身を置く。
そんな中で、ここは良いなあ、落ち着くなあ、
とかここへ来るとインスピレーションが湧くなあ、という場がある。

僕達の場もそのように、人に自分に帰ることが出来る空間でありたい。

なんとなく、良い感じ、良い雰囲気、という感覚を人は感じる。
このなんとなく、
は実はかなり自覚的に一生懸命創る人がいなければ発生しない。

場を持ち、守り、維持することに強い責任を感じる。
ここがあって良かった、ここに救われた、そんなことを言ってもらうこともある。

誰かが必要としてくれているから、ここが存在している。
それなくしてはただの自己満足に終わる。
社会に、人に、必要とされる場であることを忘れてはならない。

三重にいる時だったか、ふとした瞬間に自然の大きさに圧倒された。
海と空がわっと迫ってきて、ここにいる、ということが強く自覚された。
僕はその場にいながら、その情景をどこか遠い場所から思い出しているようだった。

いつでもすぐそこに永遠が顔をのぞかせている。
自然は大きい。僕達はあまりにちっぽけだ。
これまでの自分や出来事が相対化されて、
そんなことはどうでも良いように思える瞬間。
ただ、この時だけが尊くて、
それを見るために生きてきたのだと感じさせられる瞬間。

僕のような凡人は絶えず高い自覚を保っていられるわけではない。
日常のほとんどの時間はしょうもないことばかり考えて行動している。
小さなことをああでもないこうでもないと。

だからこそ、本当のことを経験したいし、見てみたい。
そして、時々、そのような経験が与えられることがある。

さて、今日も行ってきます。制作の場へ。こころの奥へ。

2013年9月23日月曜日

すっかり秋ですね。

今日は少し肌寒いくらい。
この三日間、とても良いアトリエだった。
作品も良いし、みんなの表情も良い。佐久間も良い仕事が出来ている。
全部の条件が揃って良い場になる。

またしばらく三重へ行ってきます。

いくつもの話し合いに出席している。
今は考えを良く理解してもらうことが大切だ。
組織としてまとまって行くための下地づくりといえる。

ゆっくりではあるけれど、良い方向に進んでいるはずだ。

難しさも当然あるけれど。
それに社会の情勢もあってこちらの思いと行為だけでは、
どうすることも出来ないこともある。
でも、前向きに進めて行く他ない。

何度も聴いた志ん潮の落語。言葉のリズムと息づかい。
頭の中で繰り返し鳴り響く。
オスカーピーターソンのピアノも。

最近よく聴いている(いまさら)フィッシュマンズも頭から離れない。

またしばらく音楽を聴かなくなるだろう。

秋の虫の声が心地良い。

いつでも今が一番良い時期に感じられる。
仕事にしても、生活にしても、今が一番充実しているように感じる。
同じことはもう起きないのだし、思いっきり良い流れを創りたい。

ブログはまた来月からです。
三重でも打ち合わせが待っています。
良い方向にすすみますように。

みなさん、またすぐお会いしましょう。

2013年9月22日日曜日

極意

昨日のアトリエは素晴らしかった。
今は色が良くのっている。鮮やかだ。光ってるみたいだ。

前回のブログで一枚の絵を見ている時のような感じで、
場全体を見るということを書いた。
最初に一番必要なのは現状把握なのだけど、これは一瞬で行われなければならない。
一瞬で把握するためには絵としてパッと見ることだ。

この感覚は大事なので前回だけでなく、何度か書いてきたと思う。

書いたけれども、書いたことは忘れるので、いつものように忘れていた。
そうしたら、ハルコがまたそのテーマを与えてくれた。

絵を描きながらハルコはみんなのことを話していた。
目は紙を見ているのだけど、明らかに他のメンバーのことが見えている。
近い距離感で語ってみたり、もう少し遠い感じで話題に入れたりしている。
みんなも笑っている。
視点は多角的ですぐに変化して行く。
とても良く見えている。

それからしばらくして、三重での合宿の絵を描くと言うと、
イメージの中で情景が見えてきたのか、様々な場面を語りだす。
まるで今おきていることのように。
聞いている僕達も感覚ごと記憶の中に入って行く。
良く覚えているなあ、とも感じるけど、これは単なる記憶ではない。
それよりもここでハルコが見ている場所が重要だ。
ちょっと離れて上から見ているような感じだ。
でも、上からと言っただけでは上手く言えてはいない。

時間は混ざり合う。過去と現在と未来。
それから、現実と夢とイメージ。
どこまでがどこまでなのかがはっきりしないというよりは、
すべてが同じ配分で存在している。

作品自体もやっぱり上から見たアングルで描かれている。
でも、そこには上からは見えない視点も導入されている。
だから上からとは空間的な上ではなく、もっと内在的というか、
すべてが見渡せる場所としての上とあえて言おう。
その場所自体もやわらかく、確固としたものではない。

自分や他人、内部と外部と言った境界はほんの僅かにしか存在していない。
というよりは主体だけが無くなって後のものは全部ある感じだ。
主体は完全にないのではなく極めて弱くなっている。
すべてがただ過って行くだけのもののように。

このような感覚が絵のように全体を見ることに繋がる。
ハルコのように感度が高い人達は生まれつき、
こういった視点を持っているように思う。

分かりやすい言葉がないので、「俯瞰」と言ってみることが多いが、
本当のことを言うとただの俯瞰とは違う。
俯瞰は離れなければ出来ないが、
この全体を見る目は離れずに行われる。

外をぶらぶら歩いているとき、歩調がぴたりと決まる時がある。
時が刻まれて行く感覚があって、
その場ですべてが正しい位置にあることが自覚される。
そのとき、歩きながら、制作の場の全体が見える。

変な言い方をすると、ここに居るけれどあそこに居るという感覚でもある。

全体の中でのこの瞬間の位置であったり、宇宙の中での自分や命の位置であったり、
そういうものを自覚する瞬間がある。

ふとした何気ない一瞬にすべてが見える。
それは本当に一枚の絵のようなものだ。
バランスがあり調和があり、何がどこにあるのかが感じられる。

全体を認識する感覚は言わば極意のようなものだろう。
そこにこそ彼らの作品の秘密があるような気がする。

2013年9月21日土曜日

月の光

静かな季節。
昨日の夜、月の光が怪しいくらいに奇麗だった。

会うべき人に会ったり、行かなければならない場所が色々あったり、
気がつくと一週間が終わっている。
やっぱり制作の場が良いなあ。ずっとこれをやっていたいなあ、と思ったりも。
でも、やりたいことと、やるべきことは違ったりもする。

今日から3日間連続でアトリエだ。
どんな作品と出会えるだろうか。どんな場をみんなで創れるだろうか。

夜が長くなって、体調も変わって来るし、特に意識のあり方は変わる。
これから冬にかけて明晰さが増して来る。
緊張と弛緩の割合は季節によっても異なる。
このことは制作とも深く関わることだ。

僕の言う「場」にはその中だけでなく、
外の動き季節や社会の流れにもある程度の要素が加わる。

スタッフによってスタイルはそれぞれだ。
自然体で感性で行くようなタイプも居るし、
コツコツと下地を固めて行くタイプもいる。
セッションのような関わり方もあるし、
相手の懐に入って委ねるような関わり方もある。

感覚で捉える人、分析して自覚を持ちながら動く人。

とにかく、みんなが気持ち良く制作に入ってくれるためには、
様々な努力と工夫が必要だ。
そういうことを楽しめて、自分を磨きながら進んで行ける人材が、
これからもっともっと必要になって来るだろう。
何もこのアトリエのことだけを言っているわけではない。
社会的にそういった人材育成が急務になるだろう。

僕達はスタッフはみんな同列だと思っている。
上も下もない。実はキャリアもほとんど関係ない。
そして、本当に必要なことは教えることが出来ない。

一人一人が自分のこころと身体でつかむしかない。

伝えられることは1つだけだと思う。
それは場に入る時の、挑む時の姿勢だ。
外に現れる動きは様々だろう。スタイルは色々あるだろう。
でも、向かう時の気持ち、構えは1つだ。
少なくとも、本物の仕事をしている人はみんな一緒だ。
その姿勢、覚悟と言っても良い。
そういうものは姿を通して、気配を通してしか伝わらない。
だからこそ、一緒に場に入ることは大切だ。

僕の場合は、あくまで僕の場合だけれど、
制作の場において、関わって行くとき、絵を見るように全体を把握する。
時間の流れも空間の奥行きも、一人一人のこころのありようも、
すべてを含めて一枚の絵のように見て、そこでのバランスの中で動き、判断する。
どの位置に何があるべきか、ということだ。
緊張と弛緩、強弱、勢いと静けさ、笑いと注意力、
近さと遠さ、主観と客観、時間と力のバランス、配分。
どんな要素も、ハプニングや、例えば負の要素もそれ自体が悪いわけではなく、
全体の中での置かれる場所、ポジションが重要だ。
美しくあるべきだ。調和が必要だ。

忘れてはならないのは、ただ上手く行っているだけでは意味がない、
ただ悪いことがないだけではダメだということだ。
おっ奇麗だなあと人が感じるような場にならなければならない。

これって人生だな、とも思う。

長い夜。月の光がいつまでもそこにあった。
ゆうたが電話をしてくれる時がある、「パッ、パパアー」と叫んでいる。
話しかけると「うーん」「ハイイ」と返事して聞いている。
可愛いなあ。嬉しいなあ、と思う。
毎日、変わって行く、毎日、成長して行く。
切なくもあり、嬉しくもある。

昨日は夜、落語のCDを聴いた。久しぶりだ。寄席にもぜんぜん行かなくなったし。
今はやっぱり志ん潮かな。でも文楽も馬生も小さんもいい。
僕にとって志ん潮は別格。一つの感性形だ。
亡くなった時は他のファンもそうだったろうが、もっと老成されて、
枯れた後の芸が見たかったと思った。これからが見物だったはずだと。
でも、今は見解が違う。
あれ以上の形はないというところまで完成された芸だったし、
ある意味で言うともうこれ以上は行きようがないというところに居たと思う。
以前、グールドのことを書いたけど、
早い時期に完成形に到達してしまう人と言うのがやっぱりいると思う。
それはそれで、辛いことなのではないだろうか。

見えない方が、分からない方が幸せということもある。

見えてしまったからには、行かなければならないのだし、
到達してしまったとしても、命ある限り、生きて行かなければならない。

それでも天才には華があって、見ていて与えられるものは大きい。

人生も世界も本当に不思議で、少なくとも、良い悪いの基準では計れない。
そもそも、基準を作って計ろうとするのが間違いなのかもしれない。

僕達はこの深淵を、ただどこまで楽しめるかということなのではないか。
何も分からないからこそ面白いと言うのは、
仕事でもいつも感じることだ。

2013年9月17日火曜日

どこまでも

今日はスッキリした良い天気。
さわやか。

今週は打ち合わせが続く。

状況はめまぐるしく変わって行くけど、その中で最善を尽くすしかない。

ここ数年で何人もの人がこの世から居なくなってしまった。
それも大切な人ばかり。正直、寂しい。

色んなテーマがある。色んな考えがあるし、色んな生き方がある。
価値観はそれぞれだし、誰も強制は出来ない。
最後に決めるのは自分自身。

ただ、最近よく思うのは人には2種類の方向があるのみ。
有限を相手にするのか、無限を相手にするのか。

無限を相手にする以上は探求に終わりはない。

先へ行かなければならない。どこまでも行かなければならない。

遥か彼方。

思えば、いつの間にか途方もなく遠くまで来てしまった。
もう戻ることは出来ない。誰しもがそうだ。

無限とか永遠とか、そういう呼び方しか出来ないものへ向かって、
どこまでも入って行く。進んで行く。
しかも、僕達は人という生の存在を通してそこへ向かう。

目の前にあるものが、与えられたものだ。
与えられたものに何を見るのか。そこから何を受け取るのか。
そして、どう動くのか。

すべての答えは始めからそこにある。

みんなで楽しもう。

2013年9月16日月曜日

昨日のアトリエで

朝から強い風が吹き続けている。
台風はこれから関東に一番近づく時間だ。

昨日は雨が降ったりやんだりだった。台風の影響で欠席の人も多かった。

少人数でのアトリエだったが、外の喧噪をよそに別世界のような静けさだった。
静寂があり、深さがあり、どこまでも行き渡る注意力があった。
作品はどの作家も素晴らしかった。

静かな静かな、場で、僕達はどこまでも深く深く入った。

アトリエの時間が終わってぼーっとしていると、
さっきまでが夢のように感じられる。
十数年続けていても、この感覚はいつでも不思議で新鮮だ。

本当はいつまでもこの経験を深めて行きたいし、
ずっと制作の場だけを真剣に取り組んで行きたい、という思いもある。
でも、これからはもっと広く進めて行くべき役割がある。

作家もスタッフも、その場にある机や椅子や絵の具を見ているのではない。
ただ、そこに座って手を動かしているだけではない。
もっと、もっと多くのことがそこでは動いている。
僕達は形になる前のものを見ようとしている。
気配を感じとろうとしている。
それが、見え、感じとれるからこそ、1つの世界が共有出来る。

撮影のカメラは絵を書いたり話したりしている姿しか追うことが出来ない。
でも、そこでは本当は見えていない何ものかを作家も僕達も追いかけている。
僕達にとってそれは明白で当たり前のことにすぎない。

もし、具体的な事物を通して、その奥にある見えない動きを、
少しでも感じることが出来るのなら、それは素晴らしいことだ。

制作の場を見学した人達は多かれ少なかれ何かを感じてくれている。
それは不思議なくらい伝わるものだ。

目に見えるものばかり追いかけるのはつまらないことだ。
今の社会や人々の価値観はほとんどそうなってしまっている。
だから表面的、表層的になる。考えも捉え方も浅い。

言葉だってそうだ。
言葉を通して言葉の奥にあるもの、
言葉にならないものを感じとることに意味がある。

人は普段、無意識の内に見えているとか聴こえていると思い込んでいる。
実際には見えても、聴こえてもいないことの方が多いのに。

制作の場に立つ時、一番大切なことは、人の奥にあるもの、
表情や言葉や、姿の奥にあるものを見ること。
絵や筆の動きばかりではなく、その奥でまだ形になってはいないけれど、
確かに強く動いているものを感じとること。
そして、大切に形となって見える領域に持ってくること。

場はただの人の集まりでもなければ、小さな空間でもない。
場には力があり、意思がある。
一緒にいる人達とそれを共有し、今よりももっと良いものを見つけていくこと。

これは単純なことだけれど、
意識をどこに向けるべきかという大切なことの1つだ。

この台風だって、近づく以前に強烈な気配があったように。
今、風の奥に存在の力があるように。
物事の奥にはそれをそれたらしめている動きがある。
まだそこにないのに、すでに動きが感じられるという、人間に備わった能力。
誰しもが持っているそんな力が感性だ。

上っ面ばかり見ていると分からない。
分かっていると思い込んで威張っていると感じられない。
もっともっと大切なものがあるはずだ。

2013年9月15日日曜日

今日は台風が近づき、大雨なのでみんながアトリエに来るまでが心配。

ここ数回、書いてきたことは今後のアトリエがどうあるべきか、
ということを考えて行くために必要なことだと思う。

一番大切なのは作家たちの生きるリズムを崩さないことだ。
盛り上がったものはやがて静かになり、ブームはやがて廃る。
そのことは良いことでも悪いことでもない。
でも、そこで生きている人達が翻弄されてはいけない。

静かに、小さくても良いから存続出来るものでありたい。
今、必要なのは沈まない船をつくることだと思う。

人に繋げること、人を育てることが重要になってくる。
どんなに社会が変わり、制度が変わり、流行が変わっていっても、
良い意思と確かな技術と揺るがない確信をもった人間が育っていれば、
その人達がどんな形であれ、継続して行くだろう。

だから、誰かだけという状態から脱却しなければならない。
誰かでなければ出来ないという状況はやはり不自然だ。

最後のところでは人、なのだろう。

人が育ち、人が繋がり、人が助け合える環境にして行きたい。

僕も外へ出て行く仕事が増えているが、すべては人に繋げて行くためだ。
必ず、良い形になって行くだろう。

絵画の制作に関しては東京の場合、僕一人でほぼ見ているけれど、
今後はこの体制を変えていきたい。
この環境をしっかり守って行ける人材があと数名は必要だ。
今のところ、僕が場を離れることはないのだけれど、
それが可能な体制になっていなければならないと思う。

様々な考え方が可能だろうし、ここはまだこれから変わって行く部分があるだろう。

さて、まだまだ触れたい話題もあるのだけれど、今日はここまでにします。

2013年9月14日土曜日

今日も1日

蒸しますねえ。

ちょっと金沢に行って来ました。
ここ数年は母の体調も悪く、出来ればたまに行きたいと思いつつ、
なかなか時間が取れないできました。

どこにでもある話だけど、金沢の街は変わって、
かつてあったものがどんどん無くなって行く。

とんでもないことに樹齢100年を超える木々の伐採もあった。

アール・ブリュットのことを少し書かなければ、
と思っていたが、やっぱりいいか、という気もする。
時の流れには逆らえないこともある。

1つだけ、芸術の側も福祉の側も、そして受容する側も、
深く考えることなく、安易な逃げ道として盛り上げようとしていることは、
先のことを考えると様々な危険があることを忘れてはならない。

厚労省と文化庁は障害者の芸術活動推進という名目で、
支援人材を育成するとして、予算を3億円計上していると言う。
このことが良い方向に行くのか、逆の結果をもたらすのかは、
「支援人材」をどう解釈するかにかかっていると思う。

一番、危険なのはアートは力を失い現代における役割として、
ケアやコミニュケーションを考えているということと、
福祉は作品の販売や商品化で本人に還元されたり、
工賃を上げる手段と考えていること、
この2つが重なることで、芸術と福祉のどこまでも低い次元での融合がおきる。

その結果、何が起きるか、消費する側から飽きられ、やがて見向きもされなくなる。
すでに起きていることだが、作品の質が問われなくなるからだ。

持続可能なシステムを作ることは難しい。
でも、やがて滅ぶことが分かっている安易な手段に逃げてはいけない。

これ以上は書かない。何かを批判するために活動しているわけではないから。

現実と時間が答えを見せてくれるだろう。
10年、20年経ったとき、どんな活動が残っているだろうか。
ダウン症の人たちの文化は生き残らせなければならない。
すべての判断基準はそこにある。

1ヶ月近くも、呼吸が浅い状態が続いていたが、
昨日、すっきりして元気になった気がする。

後に残って行く良い仕事をしたい。
本当のところでみんなのためになることをしていきたい。

金沢で久しぶりに大好きな珈琲屋に顔を出した。
ここの店主は偏屈者と思われているが、いい職人さんだ。
相変わらず良い仕事をしている。
世の中がどんなに変わろうと黙って淡々としているわけではない。
戦い、批判し、笑ったり怒ったりしながら、でも、珈琲の質だけは落とさない。
人から嫌われることも多いし、ほとんど理解されることもない。
ただ、数は少ないがこの店でなくては満足出来ない、という一部の客が支えている。
嘘や誤摩化しがないから、本気の仕事を感じて、
深く愛している人達がいる。
自分の仕事に忠実で、一生懸命やっていれば、伝わるものだ。
そういうものは残って行く。
まだ、あんな生き方が認められるのだから、世の中も捨てたものではない。

金沢という街も年々、魅力を失っている。
それでも、いくつか隠れた名店や良い仕事をしている人達がいる。
数人だけど、この人がいるだけで金沢に値打ちが出て来るといえる程の方もいる。
こういうところにお店の名前を書いてしまう人がいるが、
僕はそれはしたくない。
もし、金沢に行く人がいれば個人的に教えます。

変な話になってしまってごめんなさい。
東京に帰って来ると3通も大切な友人からの手紙が届いていた。
このタイミングは本当に不思議なのだけど重なる。
この人達が支えてくれているから僕もやっていられるのだな、と思う。
本当にありがたい。

理解してくれる人の数は少ない。未だに軽蔑の目で見られることさえある。
それでも、本物の人に理解されていたり、大切にされたりする。
あれだけの方が評価して下さるのだから、自分の仕事を信じられる、
という気持ちになる時もある。まあ、普段はそんなこと考えないけど。

一生の中であと何回場に入るのか、本当の仕事が何回出来るのか、
分からないけれど、一回一回に魂を込めなければと思う。
瞬間こそが残るということを僕は長い時間をかけて知ったのだから。
誰かや何かに確実に残って行く、この瞬間をおろそかには出来ない。

今日はどこまで行けるだろうか。

2013年9月8日日曜日

使命

昨日も良い場になった。
特に午後のクラスは本当にみんな活き活きしている。

さて、いくつか書くべきテーマがあるのだけれど、
波風立つことは今は控えたい。
これまで、何事もはっきり正直に書いてきた。
大袈裟に言えば真実に近づきたいからだ。
目的は良くして行くために、認識や考えを伝えることであって、
人を批判したり恐れさせたりするためではない。
そういう結果に繋がったなら本意ではない。

身近な人達は僕には何でも言える、と思ってくれているし、
若い仲間等は何を言っても許されるとさえ思っている。
そういう人達がいてくれて嬉しい。

でも、やるべき使命に忠実であろうとすれば、
戦わざるを得ない場面もあるし、厳しい姿勢で挑むことも多い。

最近、ちょっと寂しいのは無用に怖がられたり、
遠巻きにされることだ。
当たり前のまっとうな、常識的なことしかしていないのにと思う。

人を恐れさせて支配するようなことは、最も嫌いなことだし、
むしろ、そういう人や権威と戦ってきた。

本末転倒だけは避けたい。

ただし、今後も伝えるべきことを濁すようなことはしない。
誰も言わないのだったら、こちらが言う他ないという話が沢山ある。

天気は安定しないけれど、少しづつ涼しくなって、過ごしやすくなってきた。

何度か話題にしてきたが、障害を持つ人達との関わりにおいて、
アートや表現を触媒にしようと言う流れが強くなってきた。
そのような環境も増えているし、美大もそういったジャンルで、
学科を作ったりしている。
ワークショップやイベントも多くなったなあ、と思う。
おそらくは福祉の政策もその方面を推奨する方向にあるのだろう。

ここでいつもながらに、問題も感じざるを得ない。
最近もたまたまだが、関わる人間というテーマにふれた。
忘れてはならないことは、そのような人のこころと関わること、
制作と関わることは、無自覚に行ってはならないということだ。
車を運転するのにも免許がいる。医者にも資格がある。
当然だが、知識と経験がなければ危険だからだ。
これはこのようなジャンルで関わろうとする時も同じだ。

障害を持つ人達と制作を繋ぐということは、
まだジャンルとして確立されてはいない。
それぞれが曖昧な思いで動き出してしまっている部分が大きい。
結果がどうなるかは、僕には想像出来る。
何のために何をしているのか分からないような、
いい加減な活動と、さして魅力のない作品があふれかえるだけだ。
活動にも作品にも魅力や生命力がなければ、やがて注目する人がいなくなる。
外の人が興味を惹かれなくなったものは、狭い世界で少しづつ衰弱して行くしかない。

そのような結果に終わらないためには、
関わることを真剣に考えている人達を本気で育てていくしかない。

もう1つ。
アートとしても、たとえばアール・ブリュットが、
これまでの美術の歴史とは別の部分で注目されている。
これについては、ゆっくり書く必要があるが、今はその時間がない。
いずれ、纏めて書こうと思う。

ただ、今言えることは、2つの流れは共に、
まだまだ、深く考えられていないために多くの危険性を伴っている。
自覚的に考え、現状と過去を冷静に分析して、次に向かう必要がある。

僕の立場で言えることは、作家たちの魂を軽く扱うのはやめるべきだということだ。
これらの結果はすべて作家の魂と直結してしまうのだから。

関わろうと思う人間は、謙虚さと確信と強い責任感をもって、
人生を賭けて挑むべきだ。

2013年9月7日土曜日

大切な記憶

曇り空が続くけれど、静かで悪くない。

夜、窓を開けて寝ると寒いくらいだ。
夜風は気持ち良い。
昨日の夜、カラスが飛び回って何度も何度も呼び合っていた。
会話しているように。
何かの前兆か、と思いながらも寝てしまった。
虫の声もする。
良い季節だ。

久しぶりに飼っていた犬の夢を見た。
やさしい目をして、草原のような場所で。

毎日、ゆうたの写真を見る。

合宿中の夜、みんなで流星群を見た。
深い闇、深い夜の空は明晰に星の輝きとともにあった。
昼間は地球だけど、夜は宇宙にいるのだった。

あの時はあの人とあの人がいたとか、
それぞれの情景には必ず、人の思い出が入っている。

一緒にいた人達のことを忘れることはない。

触れる感触も、匂いも音も、すべてが消えずにここにある。

記憶というのは不思議なものだ。
本物の記憶は身体の奥深くにある。

ダウン症の人たちが絵を描くとき、そこにははじめ、なんの手がかりもない。
彼らは習い覚えたものとして描くわけではないし、
僕達スタッフも教えるということをしない。
でも、彼らはすらすらと描いて行く。
迷いもない。絵を描くという感覚すらない場合も多い。

これを何故だろうと思う人も多いだろう。
仕組みを知りたいと思うかもしれない。

知ろうとするより、感じてみることが大切だ。
私達も最初から知っているのかもしれない。
こころの奥深く、身体の奥深くにある、生命の記憶に刻まれている感覚。

制作の場に向き合い、そこで経験することとは、
そのような人間の根本に関わる何ものかだ。

あるいは作品を見て美や調和を感じているとき、
私達は自らの内側にある本質を思い出しているのではないだろうか。

だから、ゆっくり作品を鑑賞し、味わって欲しい。
何か大切なものが感じられるはず。
それは今まで存在していなかった世界なのではなく、
ずっとずっとそこにありながら私達が忘れてしまっているものなのかも知れない。

僕の父は下町の工場の生まれで、早くに亡くなった人も多いが、
兄弟は10人近くいたはずだ。
それぞれが本家のようなところに戻って来ると、凄い人数になる。
家も大きかった。
父と母は早くに離婚していたので、いつの記憶なのか分からないけど、
僕はその家にいてみんなを見ていたことを思い出す。
いつも誰かがピアノを弾いていて、その音が心地良かった。

その時のみんなのいる感じを、僕はやっぱり絵のように覚えている。
そして、そこで鳴り響いていたピアノの音をふと思い出す時がある。

なにもかもが予め決まっていて、そこへ向かってすべては流れ、
消えて行くのに、それでも僕達は全力で行きて行くことしか出来ない。
そんな風に感じることがある。
それは切ないことでもあるけれど、
何か素敵な素晴らしいことでもあるような気がする。

宮崎駿監督が引退した。明日、オリンピックの開催地が決まる。

いつか、大きな地震が来るのだろうか。富士山はどうなるのだろうか。

今日はどんな場になって行くのだろう。
大切なものに触れる時は、注意深くやさしく、緊張感を持ちながらも、
ワクワクするような感覚になる。
場に入る時もいつも同じ。

さあ、今日も始めよう。

2013年9月6日金曜日

秋の気配。
この季節は僕にとっては寂しい感じがする。
でも、しみじみして楽しかったこととかを思い出したり、
大事な時間になったりもする。

外での仕事や打ち合わせが多くなってきて、
なんだか話すことが仕事のような変な気分だ。

さっき、喫茶店で稲垣君と遭遇。
彼とは本当にばったり会う確率が高い。
合宿後、最初の出会いだったので色々話した。

いろいろあるけど、いつも本当に思う。
僕のところに来てくれている若い人達。彼らが一番の仲間であり理解者なのだと。
純粋だから裏切れないなとも思う。

稲垣君は今、色んな場所で撮影しながら、どんどん新しいものに向かっている。
真剣に学んで自分を磨こうと挑戦を続けている。

話していておっと思ったのは、
彼が自分を磨いて行こうと思った動機についてだった。
良いことを聞かせてもらったと嬉しかった。
アトリエに来て、制作の場を見て、彼が気づいたこと。
それは、人は裸で存在していて、それだけで美しくなければならない、
ということだった。
どんなに着飾って、武装して、自分を誤摩化しても、
場に入って通用するものではない、と。
彼はアトリエで自分が通用しないと感じたと言う。
その悔しさを忘れないで、人間として自分を磨きたいと思ってやっていると。

彼の気づきは極めて本質的だ。

そして、制作の場での経験がそんな風に、
自分を育てて行くことに繋がってくれているなら、
これが本当に大切なこの場の役割の1つだと思う。

だからこそ、僕達は日々、真剣勝負だ。

彼が鋭く見抜いてくれていたように、
場においては、いっさいのウソや誤摩化しが通用しない。
言い訳しても無駄だ。
場に入った瞬間に、座った瞬間に、立った瞬間に勝負は決まってしまう。
ダメな場合は何をやってもダメだ。
逃げも隠れも出来ない。

僕達は捨てて、捨てて、裸になって場に立つ。
真っ正面から本質に向かって行く。

怖いことだし、厳しいことだとも言える。
でも、だからこそ楽しい。

逃げも隠れもせず、ここにいる。
その正直さがすべてを良くしてくれる。

せっかく生まれてきたのだから、
お金を貯えることや、地位や名誉を追い求めることに価値をおくのはつまらない。
権力にしがみついたり、媚びたり、恐れたりしてるだけで終わるのはばかばかしい。
威張ってみても、チヤホヤされても虚しさは消えない。

せっかく生まれてきたのだから、美しくありたい。
美しさは強さと共にある。
いまここで、真っすぐ立って、事物を慈しむ。
そうしてみると、他に何もいらなくなる。恐れもなくなる。

媚と恐れとプライドを捨て去れば、人は美しくなる。
制作の場ではそんな姿で向き合わなければならない。

明日もみんなのと真っすぐ繋がって行こうと思う。

2013年9月2日月曜日

再び、関わることについて

今日はちょっと別の話題で。

昨日のアトリエで、何気ないほんの5分程のこと。

しばらく前に、なんだか足がだるいなあと思っていた。
そして、気がついた。
アトリエ中、ずっと立ちっぱなしだからだ。
これまでずっとそうだったなら慣れているから疲れない。
そう、立ちっぱなしになったのはここ1年位の間だ。
それも立ちっぱなしになった時期から、制作の場において僕自身が使う、
体力やエネルギーは格段に必要なくなった。
だから、足はだるくなったけど、そんなに疲れない。

個人よりは場をより見るようになったし、何と言うか軽くなった。
僕のテーマはずっと「深く入ること」だった。
このことは以前も書いたが、今はそんなには深く入らない。
深く入らなくても、一人一人に必要なものは与えられるようになった。
与えるという表現は本当は適切ではないのだけど、
スタッフとしてやらなければならないことはある、というだけの意味で使う。
気をつけるべきは、与えようと思う人はスタッフとしては不適切だということだ。

そのことが何故、立ちっぱなしの理由かと言うと、
僕の場合、相手の隣に座ると、座った瞬間からその人の内面の深くに入る。
それはこちらでも分かるし、相手にも分かる。(無意識に分かる場合も含めて)
少し離れて見ている場合、どうしても立っていることの方が多くなる。

勿論、こんな物理的なことだけではない訳で、
座っても入らないこともあるし、立っていても深く入ることもある。
わざとそうすることもあるし、たまたまそうなることもある。
更に言うなら、立っていることは知らない人がやると、
確実に場を乱す結果となることを忘れてはならない。
制作している人達より視点が上にくるのだから当然だ。
威圧感も緊張感も与えてしまう。
ある程度の影響のコントロールが出来て、
気配を出したり消したり出来なければ、立ったまま見ているのはよくない。

前置きが長くなってしまった。
昨日のアトリエでのことだった。
みんながすらすら描いて終わって行く中、
まあゆちゃんの筆の動きがずっととまっていた。
彼女の場合はこんなことは良くある訳で、最後には描いていくので別に問題はない。
でも、僕を見た目が近くに座って欲しそうだったので、座ることにした。
最近は自立心が強くなっていたので珍しい。
彼女を見ないで自然に隣に座ると、耳元で「久しぶりな感じですね」と言われる。
凄い敏感さだ。すべて分かっている。
そして、本当に小さな声で、そっと、ゆっくりと「どうですか」と何度か。
筆を持って僕の方は見ずに、「また、一緒に行きましょう」と言う。
すると、虫の声がチ、チチチチ、と急に聴こえて来る。
筆は自然に動き出し、色が重ねられて行く。
透明な世界が広がる。魔法のように5分くらいですべては終わる。

僕が大切にしてきたこと、関わるということはこういうことを言う。
彼女の言った「一緒に行きましょう」という言葉。
それはこちらもいつでも同じだ。
何度も何度もこういった言葉を聞いてきた。
「行こうね」とか「奇麗なもの見せてあげるね」とか、そんな言葉を。
言葉にはしないでも態度や気配で同じことを伝えられることはもっと多い。

こういうことは大切なことで、本当は人には話したくない。
でも、書いたのは、関わることの繊細さと責任を知ってもらいたいからだ。

ダウン症の人達のみならず、
様々な障害を持つ人達の制作する環境は、これからもっと増えて行くだろう。
作品を世に出したり、売ったりしようという流れも強くなっている。
そんな中で僕が最も危惧しているのは、関わる人間の問題だ。
何度か、書いたかもしれないが、彼らの場合、誰が一緒にいても同じではない。
まだまだ、このジャンルの必要性は認識されてはいないが、
僕は「関わるプロフェッショナル」が必要だと考えている。
そういった人材も育てて行く必要があるし、
そういう存在が必要であるという認識も広めなければならない。
そこを抜きで宣伝や経済活動が動き出すのは怖いことだ。

これまでは作品や作家たちの魅力を中心に語ってきたが、
次には環境や関わる人間の仕事についても、
しっかりと1つのジャンルとして確立して行くべきだと考えている。

2013年9月1日日曜日

今日もアトリエ

さてさて、アトリエ前に準備が手間取ったので、
今日はゆっくり書く時間がありません。

諸々のイベントが終わり、普段の制作の場での仕事に帰っていく。

ちょっとだけ体調をくずし、久しぶりに音楽を聴いて、
歩いて、これも少しだけ夏をふりかえった。

これから進むべき方向も見えている。

更に色んなことがおきるだろう。

変えていくこと、より良くしていくことしか考えていない。
これまでのスタイルはもうそろそろ終わりにしようと思っている。

アトリエの作家たちのこころの世界は、
人間の原風景のようなものだ。
そこを見て、その手触りを味わって、そこからもう一度この世界に触れてみる。

やさしさ、平和、美の感覚、楽しさ、調和。
人と人、人と自然、世界や宇宙との関係。すべてとの繋がり。
言葉としてではなく、こころの奥からくる感覚を取り戻そう。

今の世界に必要なのはそのような、調和の感覚を知っていながら、
戦える強さをもった人々だと思う。

作家たちの世界に潜って、そこで知ったことを持って帰ってきて、
この混乱した世の中に挑んでいくべき時だ。

謙虚になって、もし上手く聞き取ることが出来たなら、
必要なことは全部分かるはずだ。

これから、僕自身もこれまでとは違う流れを創って行くことになるだろう。
詳しくはまたゆっくり書きます。
まずは、今日も場に入り、みんなと1つになって、どこまでも深く潜ります。

2013年8月30日金曜日

オーガビッツ感謝の会

今日は本当に蒸暑い1日でしたね。

昨日はオーガビッツの方々のお招きで、感謝の会に出席した。
沢山の方にお会いした。
実際に1つの商品を作る様々な部分に関わって下さっている方達や、
他の支援先のNPO等の方達。

それぞれ立場も違えば、考えも違う状況の中で、
仕事を通して社会に良い流れを創りたいという意思は1つだ。

これまでも何度か書いてきたが、アトリエの作品とのコラボにおいて、
これがベストな関わり方だとは思っていない。
でも、関わって下さっているどの方達も最善を尽くして下さっていることは確かだ。

皆さんとお会いして、お話ししていて、やっぱり強い感謝の気持ちを持った。

お互い、出来ること出来ないことがあって、
その制限の中で、何とか相手のために歩み寄る。

アトリエにとって社会との繋がりは大切だ。
社会への使命があるはずだ。
単に作品がデザインに使われることや、タグの50円の寄付が目的ではない。
(金額がどうかということや、寄付という扱いで良いのかという問題や、作品をそのように扱って良いのかという問題も、勿論考えていく必要はある。でも、何事もプロセスが必要だ。)
オーガビッツの考え、オーガニックコットンを広めることで、
環境を守って行くということや、その中で少しでも社会に貢献しようという、
その活動を共にする意識がなければコラボは成り立たない。
そういう意味で大きくは同じ目的意識を持って使命感を持って進んでいきたい。

アトリエ内部でも様々な考えを持つ方がいるでしょう。
この部分に関しては、強制はしたくない。
その意味で意思の確認をしている訳だ。
参加するかどうか、ご自分の意思でご記入いただいている。
1つのプロジェクトに関して参加する意思のない方の作品は扱わない。
この意味を考えてから、もし疑問や問題を感じられる方が居たら、
ご遠慮なく事前に申し出ていただきたい。
そのことには何の問題もない。
積極的に参加される意思のある方達で進めるべきだと思っている。
また、当たり前だが、参加されないという意思を示された方を否定することもない。

来年度から、こういった外部との関わりに関しては、
アトリエの中で別部門を創って行っていく予定だ。
僕は引き続き、人に会ったりはして、活動の意図をお話はするが、
細かい取り決め等は別の方が纏めていくことになるだろう。

移行期なので、ここに少し考えを書いておきました。

さて、他にも書くことは色々ありますが、今日はここまでにします。

2013年8月29日木曜日

帰ってきました。

東京に戻りました。
久々のブログです。
みなさん、ご無沙汰してしまってすいません。

かなり時間があいてしまったので、書くべきことが多過ぎます。
でも、出来るだけシンプルに行きたいです。

今、ざっと頂いているメールに目を通しましたが、
幸い急ぎのお仕事は入っていませんでした。
パソコンが故障中でメールの返信が出来ない状態になっています。
今週中に修理しなければと思い、どこに問い合わせるべきか調べています。

まずは何より夏合宿、無事終了、本当に素敵な日々でした。
ボランティアチームから嬉しいメールがいっぱい届いています。
みんなありがとう。
今回から強い情熱を持って参加してくれたキクちゃんこと菊池さんから、
心強いメッセージをもらいました。
返信出来るようになったらすぐに返しますね。ごめんなさい。

今回の合宿に関しては、協力してくれた方々に感謝することしか出来ません。
様々な事情で準備ができず、もう中止にするしかない、という状況の中、
少しでも何か出来ないか、直前まで模索してきました。

結果は合宿が出来て本当に良かったと思っています。

準備段階から三重アトリエチーム、三重の保護者の方々のお力なくしては、
今回の合宿は実現すらしなかったと思います。有り難うございました。
物資で援助して下さった方々、応援のメッセージを下さった方々、
ご寄付頂いた方々、いつもいつも本当に有り難うございます。

時間的にも、状況的にも、条件が整わない状態で始まった合宿でした。
様々な不備や反省点はあげればきりがありません。
でも、思いだけは強く持って、みんなで協力することで、
素晴らしい場になったと思っています。

参加してくれた作家たちは今回も美しい情景をいっぱい見せてくれた。
いつも、ビジョンと原動力の源であり、
彼らの存在からすべての活動が行われています。
いつでも、より高い場所へ連れて行ってくれてありがとう。

そして、そして、ボランティアチームのみんな、ありがとう。
最高のチームであり、誰一人欠けることが出来ない、
アトリエの誇るべき人間が集まっています。
一人一人の情熱と優しさと謙虚さと強い強い思いは、
他のどこの場所にもない、本当のチームワークを見せてくれています。

誰かが引っ張るのではなく、一人一人の自発性から生まれる、
素晴らしい働きがお互いを活かし合っています。

黙って一人で物を作ることだけが創作ではない、ということ。
創るということは生きるということだ、
ということを形で示した合宿だったと言えるでしょう。

3年前、初めて学生達と作家たちとの合宿を行った。
それから、それぞれがそれぞれの場所で沢山の経験をしてきた。
僕達は3年前より確実に前進している。
繋がりもより強くなっている。

一番の作品は場の中で調和を創って行くことだと思う。
今回の夏合宿はその実践の1つだ。
僕達は世界へ向けて更に調和を広げ、創って行かなければならない。

学ぶことに終わりはない。さらに進もう。

夏合宿が終わって1日空けて岐阜へ向かった。
講演を企画して下さった方々と夜、食事をご一緒した。
この出会いも素敵だった。
講演も良いものになった。聞いて下さった方々が熱心だったからだ。

今回は教育関係の方々が多かったが、
こういった場でお話しする機会が増えてきて、
色んな方とお会いしていて気がついたことがある。
ずっと前は、教育側の人達や、精神医療に関わる人達や、
福祉関連の方々と、あまりにも見解が違い過ぎて、お互い相容れなかった。
僕のような見方や実践はやっぱり異端だった。
でも、最近はそうでもなくなってきている、ということだ。
逆に僕のような向き合い方や、アプローチに強い関心を持って下さる方が増えてきた。
時代は変わってきている。
ようやく、これまでやってきたようなことが、
正式に見ていただけるようになってきたのではないかと思う。

合宿にしても、講演にしても、これまで間違っていなかったなと感じることが出来た。
そこのところはまたゆっくり書きます。

最後にちょっとだけ私的な話題で。
ゆうたとの宝物のような時間を過ごせて幸せだった。
ゆうたがいてくれることに何より感謝したい。

2013年7月27日土曜日

困難の中で

今日も暑くなりそうですね。
ブログの更新がずっと出来ていなくて申し訳ないです。

実は下書きの状態のが5こ位あるのですが、
今となっては気持ちも変わってしまいました。

まあ、色んなことがありました。
困難や別れや、無理解にさらされることや、残念なこと。
その中で制作の場はいつも明るくあたたかいものであり続けました。

どんな小さな場であっても、そこが人の安らぎや救いになるものでありたいです。

時代も困難の中にあります。
放射能の問題も一向に解決しないと言うか、解決はないでしょう。
東京の数値も上がっています。

社会のこと、世界のことから、身近なことまで、
様々な困難を目の前にしています。

その中で、今、何をするべきなのか。
問いかけながら、実行して行きます。

困難は人をシンプルにしてくれると思います。
僕自身もここ1、2年の間にずいぶん変わったと思っています。
自分の中の無駄なものがどんどん落ちて行きます。
削ぎ落とされて、最後には芯だけが残れば良いと思います。

核心だけを実行して行くべき時期だと考えています。

ダウン症の人たちの価値と魅力を発信すること。
し続けること。
それ以外に僕にはやるべきことはないと思います。

彼らの持つ調和のセンスこそが人間の希望なのだと考えます。

僕の周りでは今、機械関連の故障が多くて、
なぜかメールの送信が出来なくなったりしています。

なんとか、このブログはアップしたいのですが。

まずは素晴らしい合宿にしたいと思います。
皆さんともまたお会いしましょう。

しばらくブログはお休みです。
今度の更新の際にはまた楽しいご報告が出来ると思います。
皆さんもお元気で。

2013年7月18日木曜日

動機

今日はイサと買い出しに行った。

久しぶりの吉祥寺。変わってしまったなあ。
ゆざわやも小さくなっていて、物も少なかった。
こんなに変わるとは。

場所を変えて新宿の世界堂へ行った。
1日で終わる予定だったけど、やっぱりもう一度行かなければならない。

今、よし子のブログを読んで、
三重でみんなが一生懸命準備してくれている姿に感謝した。
やっぱり、みんなの気持ちが集まって何かが出来る。

自分の出来ないところや欠点を、沢山の人が補ってくれているから、
何かが出来ているのだとつくづく思う。

片山さんのこともあり、僕自身のこころの整理のためにも、
一度、信州に行って来ようと思っていたけれど、今回は断念した。

最近、特に動機が大切だと考えている。
本来の意味とか、最初の動機を失ってしまったのに、
活動だけが続いていたり、形だけが残っている、という状況をよく見る。
そして、問いかける。
今、何のために、何をしているのか。
これは何のためにあるのか。何のための自分の仕事か。
もし、動機を失ったら、あるいは違う方向に行くくらいなら、
やめた方が良いのだと思う。

このアトリエにはダウン症の人たちが通っている。
彼らの感性の素晴らしさを守って行きたいから、アトリエがある。
彼らが充分に本来の性質を発揮出来るためにこの環境がある。
そして、そこから見えて来る彼らの豊かな世界に可能性を感じるからこそ、
外部へ発信し、伝えて行く。

ダウン症の人たちは人間の持つ本来の可能性を示している。
多くの人がまだそのことに気がついていない。
彼らから学ぶことがどれだけあるのか知られてはいない。

学ぶことにも、知ることにも時間が必要だ。
時間を無視して早急にことを運ぶと無理が生まれる。

理解し合うためには対話が必要で、対話とは、
お互いの声をよく聞くことだ。

特に現代のような騒がしさの中では、
刺激ばかりに目がいき、静かにひっそりと存在しているものに、
気づくことは難しい。

忍耐強く、語りかけ続けること。
何かのきっかけになる種を播き続けること。

知って欲しいからと言って、勧誘はいけない。
それでは宗教になってしまう。
絶対に良いから分かって、という主張はかえって人が遠ざかる原因となる。

選択する可能性を提示し続ける。
選ぶのは一人一人。良いと思うか思わないかは、その人次第だ。

誰にも何も強制することは出来ない。
だからこそ、一人一人が主体的に選び関わる。
それが人間の尊厳と言えるだろう。

彼らから見えて来るやさしい世界。
ゆっくりと感じてもらえば、きっと自分を豊かにしてくれる世界。
そんな世界が確かに存在しているということを、
少なくとも僕は自分の経験として伝えて行きたい。
どう解釈し、どう判断されるかは、触れた人それぞれに任せする。
きっかけが、ゆっくりと育って行って、
いつの日か、同じ可能性に向かえる人たちが、
一人でも多くいてくれることを願って。

2013年7月16日火曜日

シンプルな言葉

ちょっと時間があいてしまいました。ごめんなさい。
昨日は少し暑さが和らいだみたいです。
今日も今のところ昨日のような気候ですね。

ここのところ、プレはイサがしっかりやってくれているので、
僕は外の仕事に出ることが多い。
いっぱい人に会っている。
今日もちょっと外仕事だ。

1つでも2つでもいいから、何らかの形を創って行きたい。
前を向いて歩いて行く。

いなくなった片山さんのことを何度も何度も思った。
不思議なことに、場での振る舞いが良くなって行く。
大切に思う気持ちや丁寧さが増して行くからだろう。

日常の中では上手く行かないことが多い。
特に変わって行くプロセスは強い痛みを伴う。

脱皮が必要な時だ。

ジルーが本当に大事に大事に扱われている、という話を聞いて、
高山さん家族に感謝だ。

生きていると本当に色んなことがある。
でも、すべての人が居て良かったなと思うし、
すべてのことがあって良かったと思える。

ただただ、良いことを目指す。それだけだろう。

ピンと来る方は少ないかも知れないが、
良い動きをすること、ただコップを持つのでも、
良い触れ方というのがある。
それを意識しただけで何かが変わる。
そんなことの積み重ねだと思う。

大きなことは出来ないけど、環境の中で調和して行けば、見えて来る。

色んなことでうるさく騒がれているけれど、
ダウン症の人たちのあり方には、生きるヒントが隠されている。
そのことが大事な訳で、みんな平等だから権利を手にしなければとか、
この人達も頑張って生きてます、みたいなことは方向が違っている。
そんなことをいつまでもやっていても、本当の意味では誰も関心を示してはくれない。

ここで僕が伝えて行くことも、これからよりシンプルにしていきたい。
これまで書かせてもらったことはとても大切なことなのだけど、
これからはそれらのことの要点をシンプルに語ってみたい。

そして、彼らの生き方、あり方から学ぶ、というテーマを深めて、
みんなが自分のこととして考えられるように書いてみたい。

これからも読んで下さいね。

2013年7月9日火曜日

ほんのちょっと、これからのこと。

あつい、あつい。
本当に暑いですね。

今後のアトリエの様々な活動や、新しい体制のための話し合いが始まっている。
具体的にはいずれご報告しますが、
作品展示以外の外部との仕事、デザインやグッツや様々な発信を、
纏めるチームを作ることになるだろう。
外へ向けてのお仕事は今後、アトリエの中で独立した部門として、
総合的に関わって下さる方達にお任せして行くことになると思う。

僕自身はそれをずっと願ってきたのだし、ようやくその時が近づいている。
僕は内容、中身と制作の現場と彼らの文化を伝える活動に専念する。

今はまだ具体的なところまでは行っていないのでご報告出来ない。
信頼関係とお互いの理解を深める段階にある。

それにしても、暑いですねー。

身体に気をつけつつ、頑張りましょう。



2013年7月8日月曜日

片山さん

急に暑くなって、制作するのもみんな一苦労。
でも、場はとても良く穏やかであたたかい。

作品だけ見てみると、やっぱり集中度や密度はやや落ちる。

どんな時でも、天国のような場所の空気感を創ってしまう彼らは凄い。

てる君と話していた。
「くじらは何を食べるんだっけ?」
「おさかなを食べるよ。人も食べる。シャチも食べる。」
「えっ、シャチも食べちゃうんだ」
「そう。カバも食べるよ」

すぐる君は富士山を見てきた言っている。
「富士山は何県?」
「長野県」
「日本一高いんでしょ」
「高いよ」
「標高何メートルくらい?」
「8メートル」

まさひろ君
「買い物はおけがわマインでします。最強のスーパーです。多分。」

今日は僕は打ち合わせに出て来る。

昨日、「別れ」について書いた。
そして、教室中に電話があった。学舎時代の恩師、まことさんからだった。
はるこのお母さんと、あきのお母さんが、あきこさんのお別れ会を開いて下さった。
楽しい会だった。あきこさんの子供達とも遊べて良かった。
家へ帰ってようやく、まことさんに電話をかけ直した。
尊敬する片山達夫さんが亡くなったそうだ。

別れは突然やって来る。
片山さんとの沢山の思い出をぼーっと考えていた。
片山さんが僕達にしてくれたことの大きさ、深さを思って、
感謝してもしきれない。
ほとんど、子供のような時代に出会ったから、ずいぶん甘えさせてもらった。

今はまだ、多くを語る気にはなれない。
こころからご冥福をお祈りします。

片山さんが行ってきたような、仕事や役割を継承出来るような実力はない。
でも、有り難うございましたで終わりという訳にはいかないだろう。

最後に会ったのはもう何年も前だ。
僕は今のアトリエでの仕事の本や資料を渡してきた。
友人から「面白かったと伝えてくれ」と言っていたと聞いた。
たぶん、本当に深く喜んでくれて、応援していてくれたのだろう。
言葉で教えるということをされない方だった。
一緒に居る中であたたかいものを伝える力があった。

僕はこれからしばらく、片山さんを思い出すだろう。
あまりに近過ぎて見えなかったものも見えて来るだろう。
偉大な方だった。その偉大さも今、初めて気がついたのだと思う。
その仕事をゆっくり見つめ、受け継げる部分は僅かでも受け継ぎたい。
少なくとも、あのころ僕達にしてくれた事の10分の1でも、
誰かのためにしていきたい。
多分、今回は思いを巡らす時間が必要だ。

片山さんの死を受け入れ、繋がりを自覚して、次に向かうために。
僕はこういう時はいつも早すぎるくらいに、早く気持ちを切り替えてしまうが、
今回はそれをしない。

大切に大切に、ゆっくり丁寧に生きましょう。
どんなことがあっても、最善を尽くして、みんなの事を思って行ければ、
いつでもやさしい気持ちになれる。
大切な事はそんなに多くはない。そんなに難しくもない。
答えはいつもシンプルだ。
こころをこめること。この時を大切に、人を愛して愛して、
悲しみも切なさも味わい尽くして、全身で感じて、
誰かや何かのために自分を使って行けたら良い。
どんどん深まって、どんどん力強いものになって行くだろう。

2013年7月7日日曜日

別れ

急に暑さが激しくなってきた。
この時期は熱中症に要注意。
体力の消耗も激しい。

アトリエの場にしても冬場が一番気を使うけれど、
夏も難しい季節だ。

土曜クラスはお休みが多かったが、静かな制作の時間が流れた。
アトリエが終わって、ハルコとゆっくり歩いた。
新しい道を教えてくれたり、どこの販売機を使っているかと話したり。

これからのこと、今、頂いているお仕事の話を書いて行こうと思っているが、
今日もまだ、その準備が出来ていない。

平日のクラスをボランティアで手伝ってくれていた、
あきこさんは先週が最後だった。
ありがとうございました。

本当に一人一人がかけがえのない存在だと実感する。

あきこさんが居てくれたこと、みんなと時を過ごしてくれたこと、
一緒に場を創ってきたこと、決して忘れることはないだろう。

別れは必ずやって来る。
だからこそ、気持ちをこめて、思いを込めて、一人一人と繋がる。
一緒にいる時間を深く味わう。

かつて、信州の共働学舎にいたころ、
研修に来ていた一人とこんな会話があった。
「ここではいつも別ればかりでしょ。」
「1年に50人以上の人と出会って別れるからね。」
「どうやって気持ちを整理するの。慣れるの。」

僕は最後まで慣れるということはなかった。
それは今でも。

でも、別れるということがあるからこそ、
いずれは離れて行かなければならないからこそ、
この瞬間が輝くのだと思う。
別れから学ぶものは本当に大きい。
10代の頃に多くの別れを経験してきたことで知ったこと、
教えられたことは貴重だと思っている。

死を考えなければ、生が分からないように、
別れを見なければ、出会いというものの奇跡を知ることは出来ない。

僕達が今、ここで一緒に居られることの大切さ。
それを深く実感するためには別れを意識することだ。

僕はいつでも、別れや死を見る。
いつかは離れなければならないし、いつかは立ち去らなければならない。
離れ方、去り方を意識したとき、
人に対して、場に対して、出来事に対しての振る舞いが変わる。

何をすべきなのか、ということもそこから見えて来る。

そっとそこに居て、何かを繋いで、奇麗な流れが生まれて、
何かが起きる。周囲が活き活きと自ら動き出したら、
こちらはそっと立ち去る。
気がつけば流れだけがある。

僕自身は与えられている役割の為に自分のこころも身体も最後まで使って行きたい。
使い終わったとき、静かにそっと消えて行ければ良い
何かと何かの間で、何かと何かを繋ぐために自分が居るのだと思う。

自分は何ものでもなく、何も出来ないという実感は、
いつでも自分を助けてくれる。
自分が小さく、小さくなった時、大きな力、ビジョンが、
見え、聴こえ、こうしなさいと命じて来る。

さて、僕にとってのもう一つの別れを書いておしまいにする。
個人的な話で申し訳ないが。
ずっと飼ってきた犬のジルーと別れた。
三重のアトリエに通う高山さんが引き取って下さることになった。
大切に育てて下さる方が居た事に感謝したい。

理由はいくつかあったのだけど、決断したのはゆうたのアレルギーの数値。
動物の数値が食物よりも強くなっている。
犬が居る時に喘息気味になることも分かった。(勿論それだけが原因ではないが)

ジルーと過ごした日々が懐かしい。
優しくて、ちょっとバカで、好奇心の強い、素直な犬だった。
僕の上にのって寝たり、顔をなめてきたり、
背中を押し付けてきてたり。
いつも一緒だったころ。忙しくてあんまり構ってあげられなかったころ。

一心同体と感じるくらいの強い気持ちもある。

これまで一緒に居られて本当に良かった。
可愛がってもらって、幸せに生きて欲しい。
大袈裟だけど、ジルーに教えられた事は一生忘れない。

ありがとう、ジルー。

2013年7月6日土曜日

ゆうたの喘息

皆さんこんにちは。
お元気でしょうか。

三重から帰ってきました。
早速、忙しくなりそうです。

いろいろと書かなければならないことがあります。
これからのこと、これからのアトリエのこと。
でも、今日はそんなに時間がありません。

次回以降で少しづつ書いて行きます。

今日は少し私的なことを書きます。
ゆうたと家族のことです。

このことも、書いておかなければならないと感じるのは、
これからのアトリエのこととも関わって来るからです。

結論から先に言います。
来年の3月以降、佐久間は月の半分は三重で暮らす方向で考えています。
東京の各クラスはしっかりとした体制のもと、
これまで通りの活動が出来るように整えます。
1週2週なのか3週4週なのか、どちらかに寄せて東京におりますので、
各クラス月2回の内、1回は佐久間が担当し、
もう1回は他のスタッフという形となる予定です。
無理なく移行したいと考えております。
また新体制が整いましたら正式にお知らせ致します。

今回は三重で合宿の準備や段取りを進める予定でした。

様々なお仕事が遅れてしまったことを反省しています。

ゆうたのこと。
今回は大きな喘息の発作があり、1週間の入院が必要だった。
小児喘息の中ではかなり重いもので、簡単に治るものではないと説明を受けた。
入院時のレベルは重篤。命の危険もある状態。

点滴と酸素の吸入を続けて少しづつ快復していった。
普段から動き回って縛られることが嫌いなゆうたは、
狭い病室にいるのがいやで、毎日点滴を引き抜こうとしてみたり、
酸素濃度を測る機械をはずして投げようとしたりして、
泣き続けていた。
外へ出て走り回りたいという強い欲求だった。
ゆうたの気が少しでも紛れるように、色んな遊びを考えた。
一緒に絵も描いた。
一日中、よし子のことも僕のことも、傍から離れさせなかった。

暴れ回って疲れた後にようやく寝入った、ゆうたの寝顔を見ながら、
不憫で仕方なかった。
何にも悪くないのに何故、こんなことにならなければならないのか。
ゆうたを思うと涙が溢れてきた。
よし子は冷静に僕に言った。
「私は3才から喘息が始まったけどこの子はこの時期から出てるから、私より重いよ。親は覚悟を決めて向かい合わないとね」

ステロイドによる日々の治療以外にないという判断で帰ってきた。

自分のことなら、と何度も考えた。
外を歩いているだけで石を投げられるような生活は当たり前だった。
誰に何を言われようと、攻撃されようと、脅されようと、
そんなものには屈しなかった。
何にも怖くはない。いつでも死ぬ覚悟で生きてきたから。

これまで、多くのものを犠牲にしてきた。
でも、今回はそうはいかない。
ゆうたを放っておくわけにはいかない。
母親だけに任せておく訳にもいかない。
ここは本気で家族の絆を深めていかなければならない。

ゆうたの喘息と立ち向かって行くために、
僕はよし子にとってもゆうたにとっても支えにならなければならない。
その為には、出来るだけ一緒にいなければならないと思っている。

そして、今回よし子に言われた家族としての僕の欠点は、
本当に深くこころに残った。

これを機に僕自身も変わって行かなければならない。

私的な話題を中心に今日は書いてしまった。
でも、それだけですすむという訳では勿論ない。
アトリエのこと作家たちのこと、家族のこと、三重のこと、
肇さん敬子さんのこと、協力して下さる方々のこと、
みんなにとって良い選択、みんなが喜べる道が必ずあると信じている。
それを見つけ、それを進めたい。

すべてのことが、これがあったから、こっちにいけて良かったよね、
と思えるようにして行きたい。

大丈夫。
真っすぐ前を見て歩き続けるだけ。

これは次回以降で書いて行くけど、アトリエの新しい動きも始まって行くだろう。
僕自身も新たな仕事にも挑んで行かなければならない。

さて、今日の土曜日クラスよい場をみんなで創ります。

2013年6月23日日曜日

ブログお休みします

昨日もアトリエの場も良く、作家たちも素晴らしかった。
こんなに良い時間を過ごしている人達は少ないだろう。

夕方から雨が降ったり止んだりだったから、
予備クラスの人達は傘に困っていた。

今日は長く続けている人の多いクラス。

さて、いよいよ明日から三重です。
合宿のこと以外に進めなければならない多くのことがあります。
このブログはしばしお休みします。
帰ってきてまた、新たなテーマで書き始めるのが楽しみです。

久しぶりのゆうたとの時間も楽しみです。
いっぱいいっぱい遊んであげたいです。

いつも読んで下さっている皆様、本当に有り難うございます。

これからどんどん挑戦して行きたいと思っています。
これまでと変わって行く部分も多くなると思います。

いつでも、前を見てすすんでいきましょう。

困難な時代ではありますが、
こんなに多くの人達が、
ダウン症の人達の示す世界に惹かれているという事実があります。
今だからこそ、必要な何かが彼らの中にあると感じます。

これから世界は破滅に向かってこのまま進んで行くのか、
ゆっくりとではあっても、意識を変えて行く人達が繋がり、
調和へ向かって行くのか。
調和は個人のこころから始まり、
身近な人達に広がり、世界中に広がっていく可能性を持っています。

だから、1人の個人を小さく見ることはできません。
すべてはその1人から始まるのだから。

作品や作家や、自らのこころと出会う、適切な環境を創って行きたいです。
そんな場から、一人一人が調和の心地良さを感じてもらう。
愛を持って丁寧に生きる人達が繋がって行く。
そんな可能性が引き出される活動を目指します。

さて、みなさんも元気でお過ごし下さい。
また良いご報告が出来ると思います。

2013年6月22日土曜日

いろいろ

雨が続いた。今日はすっかり青空。

今週はたくさん打ち合わせがあって、いっぱい人に会った。
アトリエの活動には本当に多くの方が関心をよせて下さり、
熱心に耳を傾けて下さる。
だからこそ、この社会の中で必要な役割を実行して行きたい。
多くのご期待に応えて行きたい。

かなり忙しくなってきたが、こころをこめて仕事して行こう。

最近、まますます思うのはブレないことの大切さだ。
少し前によし子と電話で話していて、こんな話題になった。
(彼女も急がしいのでなかなか連絡が取れず、電話がつながるとつい、あれこれ話してしまう時がある。)
こういうことだ。
僕達が東京でアトリエを始めた時は、同じ意識とまでは言わないまでも、
いくつか良い活動をする団体があったし、新しいことに取り組む人達がいた。
同時期に始まったようなところもあれば、古くからあるところが、
新しい意識で取り組み直しているものもあった。
10数年の間にちょっとは良かったそれらの活動も、みんなダメになって行った。
ここでいうダメは、こちらの価値観だから、
それらの存在意義を否定するものではない。
ただ、従来のあり方を変革すべく出てきた活動のほとんどが、
これまでの波にのまれ、つまらない昔ながらの組織になっていってしまった。
何故だろうと考えた時に、勿論、制度の問題も大きいが、
それも含め、やる側の意思の力が衰えるからだと思う。
まあいいか、という妥協。
こっちにおいでよ、という周りからの強い引き寄せ。
戦い続けることは疲れる。
それで少しづつ、みんな仲間になって行く。

体力が衰えると、つい甘えたくなる。
こっちにくれば、みんな仲良しだし、みんな分かってくれるよ、
という誘いに乗って、自分達の使命や美意識や厳しさを捨てて、
その中に入って行ってしまう。
中身はなあなあだ。
誰のために、何をするのか、今のありかたに何が欠けているのか、
そういった自覚を持ち続けなければならない。
ここまで言うと、誤解もあるかも知れないけれど、
結局、このアトリエしか残ってないのか、という思いもある。
改めて、ブレてはいけないと覚悟を決めなければ。

みんな楽したいらしい。苦しみたくないらしい。
でも、少なくとも僕は先へ行かせていただく。
これからは仕事もより絞って行くだろう。
馴れ合いの低レベルのお仕事はお受け出来ない。

とは言え、張っているのはかなり体力がいる。
これまでは全く意識しなかったけれど。
疲れたり、虚しさを感じたり、言いようのないジレンマにおちいったり。
未だにあがき続けている。

でも、作家たちから見えて来るビジョンが語る方向はこっちしかないと確信する。
彼らの持つ力を甘く見て欲しくないし、
低いレベルで扱われたり、語られ続けることに怒りを覚える。

僕達には強いビジョンが見えているのだから、
薄める必要はないはずだ。妥協したり諦めたりしてはいけないはずだ。

これまでこうして生きてきて。
こういう仕事に人生を捧げてきて、全く後悔はない。
本当に大きなものを貰ってきた。
はかりしれない光景が待っていた。思いもよらない幸せだった。
でも、一方で普通の人達が普通に望むであろう多くのことを、
諦めなければならなかった。犠牲という言葉は使いたくないけど。
多くのものを切り捨てて進まなければならなかった。
もし、普通に生きていたら、こうはならなかっただろうという多くの、
矛盾や葛藤や深い悲しみにも出会わなければならなかった。

それでも歩いてきた。

僕が16の頃からずっとお世話になってきた共働学舎のことだけど、
ある時期以後の活動を、僕は良いとは思っていない。
そういう意味では否定しているし、もっとこうあるべきだと思っている。
もし、全面的に良いと思っていれば一緒に働いているだろう。
でも、あれだけ、みんなで協力している姿にはやっぱり励まされる部分もある。

久しぶりに学舎の会報を読んだ。
まことさん夫妻の文章が素晴らしかった。
ちょっとだけ引用させて下さい。

「真一郎(創設者の宮嶋先生)が食卓で、ぼそっとこんなことをつぶやきました。
(共働学舎とは何かと言われたらそれは【家】。わしは四十年かかって家族を作ってきたんだなあ。)
私達は地縁も血縁もない、経済的雇用関係もない、どこかで共働学舎の名前に出会い、自分の居場所を求めてここへ来た人々の集まりです。出会うべくして出会って今ここに存在しています。家族のように生活し、隣の人が笑えば笑い、悲しめば悲しくなりして、縁を太くしてきたのです。(・・がいないと××ができない)とか(○○がいると仕事ができない)とかの声が聞こえます。でも、私達は仕事するために集まってきたのではなく、一緒に生きるために集められた仲間のはず‥‥共働学舎という家がつぶれないように、一人一人の家族が力を出し合えるようにと祈ります。」

これを読んでいて、やっぱり続けてきた人達は見えてくるものが違うなと感じた。
宮嶋親子が言う、家族というキーワードは本当に大きい。
僕達も20年先に(もし生きていられれば)こんなところに行っていたい。
宮嶋先生やまことさんと一緒に暮らし、働いていた時間は掛け替えのない宝物だ。

さてさて、今日、明日のアトリエも一生懸命、良い場にします。
明日は撮影も入る。
そして、月曜日からは佐久間は三重に行きます。
平日のクラスは関川君が進めます。
まだ、お話し出来る段階ではありませんが、これからに向けて、
色々新しいことにも挑んで行く予定なのでまたご報告しますね。

みなさまも良い1日になりますように。
天気、すごく良くなってきましたねー。

2013年6月19日水曜日

これからもずっと

おはようございます。
今日は早朝に書いております。

強い風が吹いて、気持ちが高揚する。
不謹慎かも知れないけれど、僕は自然が強烈に迫ってくる時、
何かワクワクしてしまう。

道路に木いちごが落ちていた。
なんでこんなところに。
いくつかつぶれていて、その赤が奇麗だった。

今日もこうしてここにいる。
かけがえのない時間の中に。

いよいよ大きな仕事に挑んで行かなければならない。
いつでも、全力でぶつかる覚悟はある。

いつまでなにが出来るのか分からないけれど、
終わりの時まで止まることはないだろう。

あんまり大袈裟な話をしたくはないけど、
振り返ってみるととんでもないことの連続で、今よく生きてるなあと驚く。

最初から濃厚な場面の連続だったけど、今後も続いて行くのだろう。
でも、不思議に何か大きなものに守られていたから、こうしていられる気もする。

これまで見せてもらったもの、教えてもらったことに、
しっかり恩返しして行かなければならない。

世界や人や出来事に、いつでも可愛がられ、愛されてきて、
見えなかったものを見させてくれたのだから。

一人では本当に何も出来ない。
沢山の人達と出来事が自分を引っ張って連れてきてくれた場所。
いつもありがとうと思うけれど、もっともっと返して行きたい。
1年前より、見えるようになっている、聴こえるようになっている。
感じられるようになっている。
もっともっと先が見えて来る。

まだまだ分からないけれど、
世界も生命も人も美も、どこまでも広く深く、終わりないものだ。
謙虚になればなるほど、それらは鮮やかな姿を見せてくれる。
どこまでもどこまでも。

今、自分がすべきことを愛を持って、丁寧に大切に実行させてもらう。
それがすべてだ。
ここにいる人たちだけではなく、この時を同じ地球の上で生きている人達。
みんなで共有している世界。
僕達は一緒にどんな場面でも、より良くして行くためにここにいる。
その自覚を忘れてはいけない。
いつでも。これからもずっと。

2013年6月18日火曜日

生命を失わないように

自分個人としての不調とか問題の解決法は、
僕にとっていつでも簡単だ。
良く寝ること。それから大好きな音楽を聴くこと。
寝ることですべては消えて行く。
何にもなくなってからっぽになって、身体もこころも軽くなる。
それくらい、深く寝る。
大好きな音楽を聴いていると、それだけで幸せになる。

これから先の課題は仕事のことも勿論だけど、
個人のレベルで言えば、成長して行くゆうたとの時間をどうやって作って行くか。
これからの時間は本当に本当に大切だ。

僕にとって未だ父なるイメージが持てない。
父との関係も時間も持たずに育ってきたから。
それは事実であって、だから悪いとか良いとか思っている訳ではないが。

ただ、確実に感じられることはゆうたは僕を必要としているということだ。

小さな頃の記憶にはいつでも美しい音楽があった。
祖父の手作りのスピーカーの前で、いつもクラシックのレコードを聴いた。
小学校の頃、音楽の授業でベートーベンの交響曲を聴く時間があった。
みんなが退屈で寝ていたり、長い長いと欠伸したりする中、
僕は聞き慣れた音楽のこの演奏は誰だとか、この解釈はどうだとか、
上手いとか下手とか思いながら聴いていた。

今日はアトリエ自体のお話はお休みしよう。

最近、また田中希代子の演奏を聴いている。
日本にまだクラシックが根付く前、まだ練習する環境もなかった頃の、
必死になって西洋音楽に追いつこうとしていた時期の演奏家達が本当に好きだ。

原智恵子、安川加壽子、田中希代子、諏訪根自子、巌本真理、
とか、書いてみるとみんな女性なのにも驚く。
一番好きなのはやっぱり原智恵子か。

こういう人達の演奏の記録はほとんどないから、いつも同じものを聴く。

何がそんなに良いかと言うと、音に魂があるからだ。

もともと、僕はクラシックに関して日本の演奏家は嫌いだ。
テクニックはあっても、個性がない。
技術だけで、何のために、何を表現するためにその技術があるのか分かっていない。
動機も必然性もない。
はっきり言って何をしたいのか分からない。本人もおそらく分かっていない。
音大やら音楽教育が問題なのだろう。
コンクールのあり方も原因の一つだろう。
でも、一番は時代だと思う。
何をするにしても、動機が持ちにくいことは確かだ。

日本の演奏家はテストで良い点を取るための優等生的な音楽しか作れない。
だからのっぺらぼうで薄っぺらい。
そんな音楽を聴いていたくはない。

それなのに、まだまだ土壌すら整う以前の演奏家に素晴らしい人がいたのは不思議だ。

日本人の美質の一つとされる、主張しない、謙虚で献身的という要素が、
良い方に出ているのがこの時期の演奏家達だ。
この人達も主張はしないし、個性を滅却しようと努力している。
音楽に尽くそうとしている。
西洋という理想を追いかけて、何とか食らいつこうとしている。
音楽の前でひれ伏して自分の命を捧げている。
そこに魂が宿る。

技術だけで言ったら、今ではもっと上手く演奏出来る人もいるだろう。
でも、このひたむきさや、やこめる力は、現代が失った何かだ。

良く言われすぎることではあるけれど、便利ははたして良いのか、
という疑問を本当に実感する場面は、こういうのを聴いている時だ。
私達は確実に何か大切なものを失ってきているのではないかと。

何をしているにしても、動機がない人は本当に多い。
何でも簡単に手に入る。
何でもある。何をしても何も変わらない。
そんな中で動機が持てるだろうか。

困難を経験していないということは、生命の力が弱まっていることだ。
自分を否定されない環境に慣れきってしまっているから、
ちょっとのことで傷ついたりする。
この世界も命もあって当然だと思っているから、有り難みを感じない。

もし、楽に生きる道があったとして、
それを選択するとしたら、結果は生命力を失って行くだろう。

田中希代子の演奏を聴いていると、
音楽を奏でることが容易ではなかったこと、
様々な困難と苦悩と、そこに立ち向かって行く勇気こそが、
彼女を輝かせていることに気がつく。
目指すものは辿り着けない程、遠くにあるからこそ、
進む勢いに迫力がある。
命をかけなければ、何も見えないし、何も分からない。
命をかけなければ、生きているとは言えないのではないか。

田中希代子の演奏は、清潔で健康で、真っすぐに前を見ている。
困難に負けず、自分にも負けない。
バランスを保ち、全体の構成力は抜群だ。
情に流されないで毅然としている。
気持ちよくエネルギーを発散しない。
しっかりと俯瞰して動じない。
自己を滅却して音楽に尽くしている。
個性も感情も否定して、音楽そのものに準じるからこそ、
音楽に希望が宿る。

簡単とか便利とかが生命力を削いで行くのと同じように、
規制によって改善しようという流れも危険な状態にきていると思う。
最近はやたらと規制が多くなっている気がする。
これをしてはいけないとか、言ってはいけないというものが過剰なまでに増えている。

何事も未然に防ごうという傾向も強いのだろう。
そのうち何も言えない、何も出来ないというのが自覚さえされなくなるだろう。

安全のために生命力を失ったのでは、何のための安全かさえ分からない。

流されないで、鵜呑みにしないで、命を全うしよう。
本気で全力で挑むからこそ面白い。

抑圧したり統制したりしても問題は何も解決しないだろう。
個人のこころを見ていると本当にそう思う。
制作の場での僕達の役割は制御をかけることではなく、
すべてを解放することだ。
押さえつければ問題は増えるだけだ。
逆に最初は怖いだろうけれど、完全に自由にして解放してみれば、
調和がとれてくることに気がつくだろう。
自由にして争いが起きたり、問題が起きたりするのは、
その自由がまだ徹底されていないからだ。

2013年6月17日月曜日

挑戦

今、買い物でスーパーへ行った帰り、自転車で走っていると、
月が奇麗に半分に割れて光っていた。

今日も蒸し暑かった。体力が消耗する季節。

今週は色々と打ち合わせが入っている。

今日の午前も来年の展示に向けての打ち合わせだった。
今回は学芸員の方が本当にアトリエに深い理解と共感をよせて下さっていて、
そういう意味では安心してお任せ出来る。
同じ意識でお仕事を出来ることは本当に嬉しい。
有り難い。
佐久間のことも分不相応なほど、高くかって下さっていて申し訳ない。
何とかご期待にはお応えしたい。

そんなこともあり、僕も人前に立って表でお話しする場面が増えてきそうだ。

どうなることやら、とも思うけれど、
自分を追い込んだり、自分に無理をさせたりするのはけっこう好きだ。

こうしてアトリエを続けていて、本当に嬉しいのは、
社会的責任を共有出来る方と出会うことだ。
一緒に良いことを目指して行ける、それが素晴らしい。
でも、案外こういう出会いは少ない。
ほとんどは無理解や誤解にさらされることの方が多い。

一生懸命、誰かだけでなくみんなのためと思ってやっているけれど、
理解されないことも多い。

僕達の活動は自覚を持って、選択して、一緒にやろう、
と思ってくれた方々と進めている。
僕達は自分で考える力を持った大人であるはずだ。
一緒にすすめる以上は覚悟と責任を持って、協力し合うべきだ。
ここは宗教ではないし、何かを強制させる場でもない。
沢山の選択肢の中から、この場を良しとして選んで下さっている方が、
集まっているはずだ。
勧誘もしないし、それぞれの考え方を否定する気もない。
厳しい言い方かも知れないが、アトリエを良いと思わないのであれば、
他へ行けば良いことだ。
自立した個人が同じ思いで協力し合っているはずだ。
アトリエを自分の思う方向に引き寄せたいと思ってしまう人達は、
もう一度このことを考えてみて欲しい。

障害のある人達も苦労して頑張ってます、
みたいなストーリーが欲しくて来る人も相変わらずいるけれど、
ここにはそんな物語はない。
欲しければ、他へ行っていただきたい。
何度か書いたけれど、そのストーリーそのままを供給している団体があるのだから。
僕達はないものを無理矢理提供はしない。
事実をいじって欲しくはない。

かつて、学生時代のよし子は様々な施設を研修して回っていた。
どこへ行っても、こんなんじゃないという不満を持っていた。
僕自身もずっとお世話になっていた共同体へ強い反発をいだいていた。
もっとこうしたい、もっとこうあるべきだ、と。
僕達はもし自分達が責任をもって場を創る時は、
もっと明るく楽しい場所にして行きたいと考えてきた。
そして、そんな場が実現出来ることは、この10数年で証明したと思っている。
この場を見に来てくれた方々はみんなそのように感じてくれた。

大切にしているものの種類が違う場合はあるだろう。
文房具屋で洗濯機が買えないのは当然ではないだろうか。

それでも、こうして応援してくれる人や支えて下さる方がいる。
近くにいる人達も、遠くにいる人達も、みんなの気持ちを受けて続けている。
有り難いなあと、いつも感じながら。

今週の土、日曜日も、場に入りながら、
今日も託されて、身体もこころも動いてくれて、
みんなと創って行けることが嬉しくて仕方なかった。
今週は流れも凄かった。
作品と言う結果だけで見ると、もっともっと良い時もあるのだけど、
流れ方、プロセスに凄みがあった。
こちらもグングン呑まれて行くようで、めまぐるしく場面が変わって、
クラクラするくらいだった。でも、当然楽しい。
目を閉じると、色彩や線がわーっと動き出して溢れて来る。

このブログも熱心に読んで下さる方達がいて、
しばらくお休みすると、心配していただいたり。

それから、時に切ないさや悲しさのある内容で書くと、
大丈夫ですかとか、一人暮らしで寂しいでしょうとか、お声もかけていただく。
ご心配なくです。僕はタフです。体力、気力だけがとりえなので。

思えば悲しさ切なさは自分の人生観なのかもしれない。
いつでもそれを感じているし、でも、だからこそ、
優しく丁寧に関わって行きたいし、すべての瞬間を慈しみたいと思っている。

良い環境を創って行くための条件は、大切にする気持ちと、
瞬間に対する集中力だと思うが、
それらは、この場は一回限り、もう2度とないという自覚から来る。

僕は自分に逃げ道を造りたくないし、いつでも明日がないという状況で、
全力で生きていたいと思う。

分からないからこそ、進んで行きたいし、
難しいからこそ挑戦する。
楽とか簡単にはいっさい興味はない。

どうなるか分からないから面白いし、
みんなで協力し合って良くして行く喜びがある。

挑戦する勇気を忘れないことだと思う。

まずは夏の三重合宿、みんなで良い場にしようね。

2013年6月10日月曜日

レンタル

毎日のようにこのブログを更新しているが、
しばらく書けないかも知れないからだ。

書ける時に纏めて書いて、しばらくお休みのペースで行かせていただきたい。

読んで下さっている方が意外に多いので、責任を感じてもいる。

毎日、アトリエで作家たちの内面と向き合っている。
もう10数年になる。
その前はさらに7、8年、様々な障害を持つ人達のこころの世界に潜ってきた。
その経験を元に色んな人に会ってお話する。
時々だかけど、講演もさせていただく。

いつもいつも同じことを実行し続けてきたし、言い続けてきた。
本当に単純にシンプルに言ってしまえば、
今、みんなが見ている生きている世界も、
一度、見方を変え、認識を変えてみると、もっともっと豊かで平和な、
新しいものと出会える、ということ。
そのための方法を伝えてきたと思うし、
僕自身、身を以て日々、実践している。

ここで、何度も言ってきた、良く見ること、良く感じること、良く考えること。
その意味は、あらかじめ決められた価値などないということだ。
無意識の前提を取っ払って欲しいと思う。
自分を縛っているものや、抑圧しているもの、セーブをかけているもの、
そういった様々な限界に気づいて欲しい。
自分の限界から自由になった人だけが、他の人を自由に出来る。

固定観念を捨てよう。
昨日も今日も明日も同じ世界があり続けているという幻想を捨てよう。

これまで言われ続けてきたことを疑ってみよう。
自分の目で見ること。自分の感覚を使って確認すること。
そうすれば、ようやく何かが見えて来る。

僕の仕事で言うと、ダウン症の人たちには独自の文化があり、
彼らの生きている世界がある。
それは、僕達が普段、感じとれなくなっていたり、
見えなくなっていたりする世界だ。
こんな簡単なことすら、いまだに本当には伝わっていない。
みんな自分が生きている世界だけがすべてだと思っているからだ。

本気になれば、いくらでも楽しいことはあるし、
美しいものに満ちているはずだ。

もっと敏感になろう。

所有の意識が物事を見えなくさせる、という話は以前に書いた。
もう一度、この話題に触れよう。

僕の仕事でいうなら、強いエネルギーをどこかに集中しなければならない時、
それをやりすぎると寿命を縮める。
それにエネルギーの出し方も弱まって行く。
感覚はピークを超えると衰える。どんどん弱まり鈍くなる。
技の冴えもなくなる。(正確さは増すかも知れないが)
全体的に自分の持っている能力は衰えて行くものだ。
だから、自分の能力以外のものを使えなければ、確実にダメになる。
能力以外のものをどう使っていくか、というのは面白いが今はふれない。

つまり、自分というのも、どこかから与えられたものであり、
いつかは返して行かなければならない。
すべてはレンタルだと思う。
何のために、何に使うために借りているのか、よく考えるべきだ。

身体もこころさえもレンタル。
感覚も思いもどこかから借りているもの。

ここにあるものや、ここに集まっているもの、
今、ある世界、すべてはこうして借りているものだ。
それらが僕達に何かを見せてくれている。
経験させてくれている。

借りたものは返さなければならないし、
何かのために使って行かなければならない。

大きな倉を創って食べ物や経験を保存しようとするから、
狩りをする能力がなくなる。

何も持たなければ、今日も探しに行かなければならない。
今日も狩りをして、食べ物を手に入れ、
楽しさや、美を手にしなければならない。
必要なものはその都度、見つけなければならない。
これが充実感であり幸せだと思う。

今日ある世界が明日もあると思うから、こころが動かない。
与えられている、借りているという感覚があれば、
今日現れてくれた世界に毎日、感動するだろう。

たとえ、都会のど真ん中にいようと、
そこは森であり原野であって、
人生に必要なものは自分で狩って来なければならない。
毎日毎日、狩猟するわけだ。

この森の中には何でもある。
ただ、見つけ出す能力さえあれば。

今日1日あれば、僕は一生分の楽しさを狩ることが出来る。

今日1日が見せてくれているもの、教えてくれているもの、
貸してくれているものを大切に扱おう。
そして、今、与えられているすべて、環境や能力や、
ものやこころ、そんなすべてはレンタルなのだから、
明日はないかも知れない。
だから、誰かや何かのために使って行こう。

2013年6月9日日曜日

水の如し

さて、今日もがんばろう。

暑くなりそうー。

やるべきことはただ一つ。単純で変わりないこと。
気持ちをこめて、思いを込めて、良い場を創って行く。

昨日は無意識について書いた。
母性についても以前、書いた。
こういう感情や心性はとてつもない可能性を持っていると同時に、
飲み込まれて行くと自己を失いかねない。
自己が肥大化している人達は少しはそういう経験も必要だけど。

僕はすべてはバランスだといつも考えているし、書いているが、
バランスと言っても、誰が見ても奇麗な安定した地点がある訳ではない。
この人にとっては良くても、あの人にとっては良くないとか、
この時期には良いけど、この時期には良くないとか。
こころを扱う仕事をしていると、
綱渡りのようなギリギリのところにいつもいて、
答えを次々に変えて行かなければならない。
だから、僕は絶対の答えを信じない。
答えとは今の状況の中ではこれが、かろうじて最善、
もしくは一番まし、というか落ち着きどころということだ。
それも、時間や場所や人によってどんどん変わって行く。
落ち着く場所などどこにもない。
すべては仮の宿のような状態だ。
僕が所有や安定に興味が持てないのも、
こころというものをテーマに生きてきたからかも知れない。

ゆうすけ君のよく使う言葉に「ぎりぎり完成」「ぎりぎりセーフ」がある。
僕にとってはいつでもそんな感じだ。

それは身体と同じかも知れない。
健康と言うけれど、老いない身体はあり得ない。
生まれてから、ずっと死に向かって少しづつ進んで行くのが生命だ。
死の時まで、多少不具合があっても、上手く使って行くことが出来ればベスト。
つまり、だましだまし。

こういうことは、何にでも言えることで、もたせる、
保たせるということが大切で、絶対に壊れないように完璧を目指すと、
逆にすぐに壊れてしまったりする。

善悪や損得では計れないものがあるというか、
ほとんどはそういうものだと思う。

人間には部分的に見る癖があるから、どうしても近視眼になるのだけれど、
全体のバランスで捉えると、そう簡単に良いか悪いかははかれない。

どこか悪いところや、欠点があるとそこを集中してみてしまったりする。
そうすると、単純にそこにエネルギーが集まる。
コンプレックスというものもこうやって出来る。

以前、書いたけれど、ぼやっと全体を捉えて、
動きの中で何処にでも行ける柔軟さが大切だ。

こころも身体も、最終的に大切なのは軽さだと思う。

僕もいつでも「場」に「軽さ」を求めている。
もっと軽くもっと透明感のある場になって行けたら。
僕自身もすきとおるような存在になっていきたい。

すべては水のように、どこまでも滞ることなく流れて行かなければならない。

2013年6月8日土曜日

無意識を使いこなす

今日も暑かったですねー。

土曜クラス、とても良い流れで作品も良かったけれど、とても疲れた。
こういう疲れ方はむしろ身体に良さそう。

3つくらい書きたいテーマがあるのだけど、
今はもっと実感の強いことを書くべきなのではないかという気がする。

久しぶりに作ったオニオンスープがかなり上手くいたった。

バーバーのアダージョとバッハのアリアと、いくつかの美しい音楽を聴いた。
最後に矢野顕子のバージョンで「中央線」を。

夜は静かで涼しい風が吹く。

でも、やっぱりちょびっとだけ真面目な話を書く。
あんまり、人に緊張感を持たせたくないし、なるべく言わないようにはしているが、
見学にこられる大人の方は指定した時間を守っていただきたい。
土、日曜日の絵画クラスは、本来は見せるための場でもなければ、
取材を受けるための場でもない。
たとえ、どんなに偉い人がおみえになろうと、僕は一度場に入れば、
自分の仕事を優先させていただく。
作家たちが一番優先されるべき場であることを忘れないでいただきたい。
このルールが守れない方は、他の場所へ行っていただきたい。

制作の途中から来られると、流れが一旦中断してしまう。
うちに来る若い人達はちゃんとそのことを理解している。
制作の少し前に来るか、途中から来る場合はそっと入って来る。
教えた訳ではなく、しっかりとそういった配慮が出来ている。
外の方達が同じような配慮が出来ないはずはない。

特に取材関連の方がいる時に、本来の状態になった時はない。

一番純粋な形は誰もいない時だ。
こんな矛盾で悩むくらいなら、
いっそのことお客さんをいっさい断ってしまおうか、と思うこともしばしば。
それでも、なるべくお互いのためになるように、お受けしている。

そういう事情をわきまえられる方に来ていただきたい。

さて、こんなことを書きたいと思った訳ではない。
無意識について考えてみたい。
この前、母性について書いてみたが、無意識も母性と近い。

例えば、一人の作家がいて、画面が塗り重ねられて行き、
限りなく一色に近い絵になって行く。
こんな時、凄いなあと、感動しながらも僕はヒヤヒヤしている。
無意識が深くなっているからだ。
どこかで、意識を目覚めさせてあげなくてはならない。
そこはギリギリのバランスだ。

こころというか、もう魂としか言いようがないほど深い作品になって、
その一枚は絵としてはやっぱり凄いのだけど、
だから僕も一緒に潜っては行くのだけど、
溺れて欲しくないし、何とか一緒に出口を探す。

無意識が深くなって行くと、コントラストがなくなって来る。
つまりはコントラストは意識だと言える。

ダウン症の人たちの最大の長所は無意識の強さだ。
だから、それを全面に出させてあげたいとも思うが、
そこはバランス。無意識が勝ってしまうと、
意識に属している意思や判断がぼやけてしまう。
一体化の力が強くなるのは良いが、分けることが出来なくなるし、
行ったまま帰って来られなくなる。

その見極めが大切だ。

ここはいつでもギリギリの勝負で、あちら側の世界に行くことで、
こちら側の世界をより良く出来なければならない。

忘れてはならないのは、
作家も僕達もこの社会の中で生きて行かなければならない、ということだ。
たとえ、だましだましであっても、誤摩化しながらであっても、
生き延びる工夫が必要だ。

僕の役割はその辺のバランスを見極めることだ。

技術的なことは書かないことにしているが、
例えば、年齢の低い子や体力のない人の場合、
ある時間内に勢いをつけることが必要だ。
体力が持たなくなると、視野が狭くなり、画面の全体が把握出来なくなる。
実際に見えなくなる場合もある。
自由とかオリジナルとかいってほっておいて良い訳ではない。
出口を失う前に見極めるべき時もある。

遊んでしまったり、入って行くことから逃げてしまうことがあるが、
そこに早く気づいて対応しなければならない。

彼らの長所は無意識の強さだと書いた。
だから関わる人間は無意識をどのように扱うべきか知らなければならない。
意識と無意識のバランスを保つには、どちらにも行き来し、
微調整出来なければならない。

あえて言えば、関わる人間に必要なのは、意識化された無意識。
自覚的無意識と言える。
意識でも無意識でもなく、その中間でもなく、
意識と無意識が同時にあるような感じだ。
心理学や精神医学が何と言おうと、何と否定しようと、経験的にそうなのだ。

起きていながら夢を見ているよようなものだ。
あるいは夢を見ながら起きている。
あくまで比喩であることはお忘れなく。

制作の場では自分のこころも人のこころも完全に解放されているべきだ。
こころが本来の姿で自由になっている時、
分からないのに分かる、ということや、
無限を前にしてどう振る舞うべきか、ということが明晰になって来る。

やや高度な話になってしまったが、最近の制作で感じたことだ。

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アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。