今日はイサと買い出しに行った。
久しぶりの吉祥寺。変わってしまったなあ。
ゆざわやも小さくなっていて、物も少なかった。
こんなに変わるとは。
場所を変えて新宿の世界堂へ行った。
1日で終わる予定だったけど、やっぱりもう一度行かなければならない。
今、よし子のブログを読んで、
三重でみんなが一生懸命準備してくれている姿に感謝した。
やっぱり、みんなの気持ちが集まって何かが出来る。
自分の出来ないところや欠点を、沢山の人が補ってくれているから、
何かが出来ているのだとつくづく思う。
片山さんのこともあり、僕自身のこころの整理のためにも、
一度、信州に行って来ようと思っていたけれど、今回は断念した。
最近、特に動機が大切だと考えている。
本来の意味とか、最初の動機を失ってしまったのに、
活動だけが続いていたり、形だけが残っている、という状況をよく見る。
そして、問いかける。
今、何のために、何をしているのか。
これは何のためにあるのか。何のための自分の仕事か。
もし、動機を失ったら、あるいは違う方向に行くくらいなら、
やめた方が良いのだと思う。
このアトリエにはダウン症の人たちが通っている。
彼らの感性の素晴らしさを守って行きたいから、アトリエがある。
彼らが充分に本来の性質を発揮出来るためにこの環境がある。
そして、そこから見えて来る彼らの豊かな世界に可能性を感じるからこそ、
外部へ発信し、伝えて行く。
ダウン症の人たちは人間の持つ本来の可能性を示している。
多くの人がまだそのことに気がついていない。
彼らから学ぶことがどれだけあるのか知られてはいない。
学ぶことにも、知ることにも時間が必要だ。
時間を無視して早急にことを運ぶと無理が生まれる。
理解し合うためには対話が必要で、対話とは、
お互いの声をよく聞くことだ。
特に現代のような騒がしさの中では、
刺激ばかりに目がいき、静かにひっそりと存在しているものに、
気づくことは難しい。
忍耐強く、語りかけ続けること。
何かのきっかけになる種を播き続けること。
知って欲しいからと言って、勧誘はいけない。
それでは宗教になってしまう。
絶対に良いから分かって、という主張はかえって人が遠ざかる原因となる。
選択する可能性を提示し続ける。
選ぶのは一人一人。良いと思うか思わないかは、その人次第だ。
誰にも何も強制することは出来ない。
だからこそ、一人一人が主体的に選び関わる。
それが人間の尊厳と言えるだろう。
彼らから見えて来るやさしい世界。
ゆっくりと感じてもらえば、きっと自分を豊かにしてくれる世界。
そんな世界が確かに存在しているということを、
少なくとも僕は自分の経験として伝えて行きたい。
どう解釈し、どう判断されるかは、触れた人それぞれに任せする。
きっかけが、ゆっくりと育って行って、
いつの日か、同じ可能性に向かえる人たちが、
一人でも多くいてくれることを願って。