2013年7月6日土曜日

ゆうたの喘息

皆さんこんにちは。
お元気でしょうか。

三重から帰ってきました。
早速、忙しくなりそうです。

いろいろと書かなければならないことがあります。
これからのこと、これからのアトリエのこと。
でも、今日はそんなに時間がありません。

次回以降で少しづつ書いて行きます。

今日は少し私的なことを書きます。
ゆうたと家族のことです。

このことも、書いておかなければならないと感じるのは、
これからのアトリエのこととも関わって来るからです。

結論から先に言います。
来年の3月以降、佐久間は月の半分は三重で暮らす方向で考えています。
東京の各クラスはしっかりとした体制のもと、
これまで通りの活動が出来るように整えます。
1週2週なのか3週4週なのか、どちらかに寄せて東京におりますので、
各クラス月2回の内、1回は佐久間が担当し、
もう1回は他のスタッフという形となる予定です。
無理なく移行したいと考えております。
また新体制が整いましたら正式にお知らせ致します。

今回は三重で合宿の準備や段取りを進める予定でした。

様々なお仕事が遅れてしまったことを反省しています。

ゆうたのこと。
今回は大きな喘息の発作があり、1週間の入院が必要だった。
小児喘息の中ではかなり重いもので、簡単に治るものではないと説明を受けた。
入院時のレベルは重篤。命の危険もある状態。

点滴と酸素の吸入を続けて少しづつ快復していった。
普段から動き回って縛られることが嫌いなゆうたは、
狭い病室にいるのがいやで、毎日点滴を引き抜こうとしてみたり、
酸素濃度を測る機械をはずして投げようとしたりして、
泣き続けていた。
外へ出て走り回りたいという強い欲求だった。
ゆうたの気が少しでも紛れるように、色んな遊びを考えた。
一緒に絵も描いた。
一日中、よし子のことも僕のことも、傍から離れさせなかった。

暴れ回って疲れた後にようやく寝入った、ゆうたの寝顔を見ながら、
不憫で仕方なかった。
何にも悪くないのに何故、こんなことにならなければならないのか。
ゆうたを思うと涙が溢れてきた。
よし子は冷静に僕に言った。
「私は3才から喘息が始まったけどこの子はこの時期から出てるから、私より重いよ。親は覚悟を決めて向かい合わないとね」

ステロイドによる日々の治療以外にないという判断で帰ってきた。

自分のことなら、と何度も考えた。
外を歩いているだけで石を投げられるような生活は当たり前だった。
誰に何を言われようと、攻撃されようと、脅されようと、
そんなものには屈しなかった。
何にも怖くはない。いつでも死ぬ覚悟で生きてきたから。

これまで、多くのものを犠牲にしてきた。
でも、今回はそうはいかない。
ゆうたを放っておくわけにはいかない。
母親だけに任せておく訳にもいかない。
ここは本気で家族の絆を深めていかなければならない。

ゆうたの喘息と立ち向かって行くために、
僕はよし子にとってもゆうたにとっても支えにならなければならない。
その為には、出来るだけ一緒にいなければならないと思っている。

そして、今回よし子に言われた家族としての僕の欠点は、
本当に深くこころに残った。

これを機に僕自身も変わって行かなければならない。

私的な話題を中心に今日は書いてしまった。
でも、それだけですすむという訳では勿論ない。
アトリエのこと作家たちのこと、家族のこと、三重のこと、
肇さん敬子さんのこと、協力して下さる方々のこと、
みんなにとって良い選択、みんなが喜べる道が必ずあると信じている。
それを見つけ、それを進めたい。

すべてのことが、これがあったから、こっちにいけて良かったよね、
と思えるようにして行きたい。

大丈夫。
真っすぐ前を見て歩き続けるだけ。

これは次回以降で書いて行くけど、アトリエの新しい動きも始まって行くだろう。
僕自身も新たな仕事にも挑んで行かなければならない。

さて、今日の土曜日クラスよい場をみんなで創ります。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。