2012年10月31日水曜日

難しくしないこと

このブログのページなのだけど、知らない間に機械の方が新しくなっていて、
デザインも変わっているし(読むページは変わっていない)、
新しい機能も加わっている。
こちらは紙に書くように書いているので、
性能が良くなっても逆に書きにくかったりする。
変わらないのがいいのになあと思う。
それで、新しい機能としてブログを何人の人が開いたのか分かるようになった。
知りたいような、知りたくないようななのだが、横に数字が出てしまうので、
ついつい見てしまう。
見るとやっぱり気になる。
有難い話なのだけど、本当に多くの人達が読んで下さっている。
そんなに良く書けていない回のページがたくさん開かれていたりすると、
申し訳ないし、恥ずかしいかぎりだ。
もっとも良く書けている回などあるのかと言われれば、返す言葉もない。
もう少ししっかりしたことを書いていきたい。

一つ一つのテーマにしても、実はもう少し深めてみたいのだが、
毎回、最後のところは時間切れで終わってしまう。
ただ、時間が来たから今日はこれくらいという方が、
長くなって複雑になっていくより良いのかも知れない。

以前、友人から「あんな時間がない中でよく毎回、濃い内容が書けるね。いつ練ってるの?」と聞かれた事がある。
答えは簡単で練っていないからだ。
ただもう書いているだけだ。
練った文章とは、やっぱり白州正子のような文章だろうと思う。
そして、本当の文章とはああいうのをいうのだろう。
言外に含むというのか、言わないで、言う。
書かないで、感じさせる。それがおそらく本当の文章だ。

そういうレベルのことが出来ないから練る必要もない。

時々、ああいうのを読むと、
ただ書きたいことを書くということが恥ずかしくなる。

さて、週に5日はダウン症の人たちと過ごしている。
そして、他の時間では様々な仕事の方とお会いしてお話しする。
違う世界を行き来するような感覚だ。
どっちが本当の世界かというのは、
やっぱり僕達の見解では作家たちの世界と言いきってしまうが、
でも大事なのは繋ぐことだと思う。
理解し合うこと。お互いの価値を認めて尊重出来なければならない。

ここへ来る人たちにしても、お仕事でお付き合いする人達にしても、
ダウン症の人達の世界にふれ、扱う時に、難しく考えてしまうことが多い。
問題を複雑にしてしまうことがある。
今の社会や人の生き方がそうさせてしまう。

でも、本来はもっと簡単なことだ。
ダウン症の人たちは、人間の生にある、単純で力強いリズムを教えてくれる。

作品が美しければ、素直にきれいだなあと感じることが大切だし、
楽しければ、楽しむ。笑いたい時は笑う。
自然に創造性があふれ、みんなが仲良く繋がることが出来る。
こんな穏やかでやさしく、そして力強い世界があることを認めれば良い。

彼らの世界は本当に分かり易い。
そこに入ればすぐに何かを感じることが出来る。
この感じる何かが大切だ。
これは一つの生き方だといえる。
こういう可能性を知って、活かしてみられたら、
僕達はもっと豊かになるし、もっと色んなものが見えてくる。

彼らは僕達の世界に語りかけている。
こんな風に生きてみようと。

私達が未だ使っていない人間の能力や感覚がある。
それを見てみたいと思えば良いし、
その可能性を素直に喜んで、試してみれば良いのではないだろうか。

物事を難しく考えたり、難しくしてしまうのは人間の癖だ。
そこにたくさんの力を使ってしまっている。
だから、感性が動かなくなる。

難しくすること、複雑にすることをやめて、
単純に簡単にしてしまえば、感性が動き出す。
そうすれば、人間としての本当の力が発揮出来る。
そんな、生き方をダウン症の人たちが示している。

2012年10月30日火曜日

こころが動くとき

急に寒くなって来た。
今月もブログの更新が少なくなってしまって反省。
ちょっと年末まではこれくらいのペースになってしまうかも。

さて、先日はラジオでもご紹介していただいた。
高橋源一郎さんにはご理解いただいた上に、本当に熱心に伝えて下さって、
感謝以外に言葉がない。

多くの方が関心を示して下さっている。
ご期待に応えられるよう、変わらない良い場を創り続けたい。

ドキュメンタリーの取材も入っている。
長期での撮影なので、まだまだ先になるのだろうが、
今度はどんな風に取り上げられるのだろうか。

映像も音声も、残念ながら本来の場を再現することは出来ない。
そこに確かにあったはずのある大切なものが消えてしまう。
それは本当に不思議なことだ。

例えば先日のラジオの場合、言葉を交わしている人達の表情は見えない。
でも、映像でその表情を撮影すればそれで再現される訳ではない。
大切なのはどのような方法も、
そこにある一部の要素をのみ拾うことが出来るということを自覚すること。
一部でもそれが何らかのヒントになるし、
そこから伝わる部分も大きい。

今回の場合は会話に焦点が当てられていたので、
その部分を切り取っていただいた訳だ。
当然のことだけれど、制作においては会話がすべてではない。
むしろ、言葉を必要としないことの方が多い。
ラジオで登場しただいすけ君とのやりとりにしても、
大事なのは彼が別にしゃべる必要がないということだ。
その場では彼の表情で気持ちが通じ合っていて成立している。
何か言ってよみたいな会話があったのは、
あれが彼とふざけ合う時に良く通じるからだ。
別に何かを言って欲しい訳ではない。
彼がテレて笑って、喜んでいるのをみんなも見て、
そこでそれぞれが楽しい気持ちになっている、というだけだ。
あの日は結果、彼から言葉が出た。
だからといって、それを目標にしていた訳ではない。
こころが動いていればそれでいい。
その意味では最初から彼のこころは動いている。
こころが動いていれば、良い関係が生まれ、良い場にもなる。
こころが動けば必ず良い作品が出来る。
みんなに聞こえる言葉が出て来たのもこころが動いていたからだ。
アトリエに入ったら、最初から最後まで楽しく、
そして深く制作して過ごす。
ゴールを目指して試行錯誤することはない。
どの瞬間もそこで完結している。

普段のアトリエでは静けさも大切な要素だが、
そこにある気配のようなものは映像にも映らない。
全員が一言も言葉を発しないで、深い創造性に浸っていることもある。
そんな時の彼らは、本当に凄いが誰も見たことがないと思う。
是非、知ってほしいが、見せることは出来ない。

まずはどんな一部でも良いから、彼らの魅力に出会って欲しいと思う。
そのために次は安定した場所を創っていくことから始めたい。

こころが動いているという表現を使ったが、これは重要なことだ。
人のこころは止まることがある。動かなくなることがある。
固まったとか、凍りついたとか。
恐怖や緊張、怒りや悲しみによってこころの動きが止まる。
固まるから、滞るから、動きが止まる。
だから、必要なのは解していくことだ。
固いものは動けない。やわらかくしていく。
こころが動いていれば、難しい事があっても解決していく。
例えば、感動というのも、つまりこころが動いたということだ。

人のこころも自分のこころも、動いているのか固まっているのか、
良く感じてみることが大切だ。
特にこころが動かなくなっている時は、そのことに気がつかないから。
こころが動く為には良いものに触れる、良い場に入るしかない。
でも、それさえしていればこころは動く。

2012年10月24日水曜日

出会いは真剣勝負

昨日は風も雨も激しかったが、今日は良く晴れて気持ちいい。
さて、お知らせです。
月刊誌GQに作家の高橋源一郎さんが、
アトリエ・エレマン・プレザンのことを書いています。
これまでの取材中心の記事とは違って、ご本人がアトリエを訪れ、
感じたことを書いて下さっています。
是非、お読みいただいてアトリエの空気を感じて下さい。

今週の金曜日(10月26日)にNHK第一放送「すっぴん」の、
源ちゃんの現場というコーナーでもアトリエのことをお話して下さるそうです。
こちらも、是非、お聞き下さい。

色んな形で、
ダウン症の人達の感性が注目されていくことに繋がって行けばと思います。

昨日のプレでハルコが外を見ながら、
何度も何度も「夢っぽいなあ」とつぶやいていた。
外の景色は、強風と雨と急な日射しで怪しげな淡い雰囲気。
ハルコのつぶやきを聞きながら景色に溶け込んでいくと、
本当にどんどんどんどん、夢の中にいるような感覚になっていく。
前に夢の中のような感覚になることが重要だと書いた事がある。
その時に、夢のような感覚とは現実感のないことではないとも書いた。
場を見るとき、細部を明晰に見過ぎない方が良いという話もした。
全体をぼやっと捉えると。
この2つ全体を固定せずにぼやっと捉えていることと、
夢の中にいるような感覚を持つことは、
言ってみれば創造的な場を創るための極意のようなものだ。
全体をぼやっと捉えることは、ぼーっとする事ではないし、
細部を見逃すことでもない。
夢の中にいるような感覚も、現実離れしたものではない。
あくまで自覚を持っていることが必要だ。
私達は普段、自分で作り上げてしまった世界の中でがんじがらめになっている。
知らず知らずの内に、自分も他人も制限して抑えている。
こんな状態では自由など想像もつかない。
抑えているものを全部取り払って裸になっていく為には、
ここで言う全体をぼやっと捉えることと、
夢の中のような感覚が必要だ。
それは自由にこころを動かす為のプロセスでもある。

ところで、最近も色んな方とお会いしているが、
人との出会いというのは本当に大切だ。
残念ながら、こういう活動をしていて、
深く通じ合える人と出会えることは滅多にない。
先日は久しぶりに、そんなお付き合いをさせていただいている方と再会した。
その数日後にはフラボアとの打ち合わせで、
デザイナーの佐々木さんとお会いした。
深く理解し合える方とは多くはお話しないが、大事なことはすぐに共有出来る。
そういう方とお付き合い出来る事は本当にありがたい。

普段着の付き合いみたいなことも良いけど、
やっぱり大切な人とはある程度、自分を引き締めてお会いしたい。
少しの緊張感は大事だと思う。
僕は出会いを大切にしたいから、出会いに備えることを忘れたくない。

僕がお会いする人の多くは、その後、
アトリエやダウン症の人たちに関心を示して下さる。
その可能性は自分次第でつながるどうかが決まってしまう。
長い間付き合っていけば、理解し合うことが出来るだろう。
でも、今の社会では時間は限られている。
どんな人とでも付き合っていくという風には出来ないだろう。
だから、真剣に仕事している人ほど、相手を見極めようとするし、
ある意味で付き合うにたる人間かどうか試しても来る。
出来る人ほど、相手がどのあたりの意識で動いているのか、
確かめ、確認しようと敏感になる。
その一回の出会いがすべてだ。そのとき、通じ合わなければおしまい。
あるいは、甘く見ていたり、こちらへの誤解や、認識に間違いがあった場合、
それを変えてもらえるかどうか、というところも重要になってくる。

試して来た方ほど、その後、ご理解いただいた時は、
深い関係になれる。

今でも思い出すとそんな方が数人いた。
勝負を恐れず、しっかり挑んでよかったと思っている。

もし、僕と会ったとき、こいつはつまらないなと思われてしまったら、
その後、ダウン症の人たちや活動に興味を持ってはくれない。
こいつ結構面白いなと、思っていただければ、
どんなことなのかな、と興味を持ってもらえる。
やり直しは出来ないのだから、勝負に備え、出会いに備えて挑むことが大事。

しっかり準備ができていれば、お互いにこの人はここを見ているな、
ということが通じて、深く繋がって行ける。

2012年10月15日月曜日

あきらめないこと

今日も色々と打ち合わせがある。
ここでも書くべきことはたくさんあるのだけど、
今日は何よりも優先してこのテーマで書く。

良い意志を持ってここに来てくれる人、
真っすぐに何かを求めてこのささやかな場までたどりついた人。
純粋な志を持った人達と出会うことが多い。

そんな将来有望な人達が、途中で挫折したり失望したりすることがないように、
出来ることなら応援していきたい。

人はどこまでも強くなる可能性を秘めているけれど、
脆く弱い存在でもある。
1人の人間の可能性は計り知れないが、
1人の人間では乗り切れない場面がたくさんある。
手を取り合って協力していくことが必要だ。
せっかく良い意志を持って歩み始めた人が、志なかばで諦めてしまわないように。
孤独を感じていまわないように。

良い意志はどこかで繋がっている事を忘れないで欲しい。
いつかはつうじることを忘れないで欲しい。
人に左右されず、古い習慣に足を引っ張られず、
自信を持って突き進んでいくこと。
批判や非難や無理解や、人の噂や誤解に、気をとらわれないこと。

そして、正しいことをおこなおうという人達に必要なサポートをしていこう。

少なくともその意志が強固なものになるまでは、
強い協力者や理解者が必要だ。

そういう人達を応援する気持ちを忘れてはならない。

一方で真剣に作り上げて来た場を、覗き半分で見に来る人達もいる。
悪い気持ちが場を汚すので、入れないことも多いが、
分かった上で見せる時もある。
そんな気持ちで見て真似しても、何も出来ないことはめにみえている。
外から情報を集めて考えだけ真似しようとする人達もいる。
こういう人達は結局のところ、やってみるしかないのだと思う。
やってみれば、分かるだろう。長く続けてみれば分かるだろう。
何かやっているように見せかけようとしても、いつかは分かる。
人はそんなに愚かではない。例え騙せたとしても、自分が楽しくはなれないだろう。
だから、こんな人達はほっておいていい。
言うまでもないことだが、現場は真似出来ない。
嘘だと思ったら試してみればいい。
それから、こんな人達に騙されることがないようにご注意いただきたい。

人のこころを相手にするのだから、責任はしっかり持つことだ。
間違ったものが普及することは人の魂を傷つける。

前にも書いたが、本当に真摯に学びたいと思う人には、
全部教えていいと思っている。

あるとき、こんなことがあった。
ワークショップの時に知り合った保護者の方と話していると、
子供が小さな頃はとても良い絵を描いたのだけど、
学校へ入って絵を教えられてから、まるで描かなくなってしまった、
という。作業所へ入ってからも絵の時間に描くことはなかった。
そんなある日、その作業所へ絵の指導に新しい人が入ったという。
その人がきてから、彼は再び絵を描くようになった。
その人と出会えて本当に良かったというお話だった。
それくらい、人は大切だ。
そして、続きだけどその指導者は僕達のアトリエにずっと前、
訪ねて来た人だった。
絵の指導をする事になったのだけど、
作業所の方針とズレがある、描く人達にとってどうしてあげるのが適切なのか、
というような相談を受けた。
やさしくとても良い人に見えたが、自信がなさそうだった。
アトリエを見せて、作家たちが活き活きと制作する姿から感じとってもらった。
色々とお話もした。

もし、あのとき彼の見学を断っていたら、と考える。
良い人間がいても、その人を応援する人がいなければ次に繋がらない。
種があっても、誰かが水をあげなければ実らない。
私達の社会はみんなで協力して水をあげることをしていない。
そとにいる子供達をたくさんの大人の目で育てるという、
当り前のことをしていない。
長い目で見ると、将来そのつけが回ってくる。
今すぐに役にたたないことでも、10年、20年後、
何かになることはいっぱいあるはずだ。

良い志を持った人達は決して諦めてはならない。
今、自分のしていることが理解されなくても、いつか伝わるはずだ。
時間はかかるし、時間はかけるべきだ。
続けること。ブレないこと。

あきらめないでほしい。
仲間はたくさんいる。そしてこれからも増え続けるだろう。

2012年10月14日日曜日

悠太のように

またしても鼻炎で鼻がムズムズする。

あんまり子育日記のようにすべきじゃないということと、
家族の報告みたいにならないように、しばらく悠太のことを書かないでいた。
でも、その間にも彼は毎日成長し変化している。
それ以上に親として自分が変わって行く部分の方が大きい。

ずっとずっと、「場」から学び、自分を変えて来た。
今は本当に悠太を通して学ぶことが多い。

こんなに可愛いものかと驚く。

今朝、アトリエに来る前に悠太が早起きしていたので、
布団の方へ行って、悠太の顔に近付くとニッコリ笑って、
両手を大きく開いて僕の顔を包み込んだ。
2人でごろごろ寝ていると、悠太が僕の顔を舐めたり撫でたりしてくる。
休みの日だと本当にすぐに時間が経ってしまう。
こうしている悠太の存在は凄いと思う。

もちろん、親として自分の子供が可愛いというのもあるけど、
それ以上に人間として、これが理想だと思う。
これは実は僕のたどりついた答えでもある。
つまり人間としてここに全部あると。
全身で抱きしめるだけで人を癒し救うことが出来る。
そんな存在は赤ちゃん以外になかなかいない。
もし、大人でこれができたら。
自分が追求して来たことのテーマでもあるのでつい、考えてしまう。
何回か書いているが、僕は足し算より引き算で考える。
教育はゼロの状態の人間に色んなものを+して行くことで、
成長していくと考えるが、僕は逆だと思っている。
今、悠太達の持っているものが一番大切なもので、
そこから色々プラスされて本来の力を失っていく。

制作の場でも同じだ。
僕達は教えないし、プラスしていこうとはしない。
むしろ、色々入って来てしまっているものを取り払う。
本来の力を邪魔しているものをとっていけば、その人の本当の姿に出会う。

制作において求められるのは、裸になることだ。
そうすると作家たちは見違えるような力を発揮する。
そこから、果てしない世界が見えてくるのだが、
彼らに本当の力を発揮してもらうには、いつも言うように、
スタッフに相応の現場力が必要だ。
これは小手先のテクニックではない。
極端に言うと目線を会わせた瞬間に、座った瞬間に勝負は決まっている。
言葉でどうこうしようと思っても遅い。
だから一瞬の為に僕たちは存在の力を磨いていく。
ある意味で絶えず勝負に備えている。

僕はたくさんの場に入って来たし、自分でもたくさんの場を創って来た。
たくさんの人間に会って来た。
現場での存在力を備えた人はまれだ。
さっきも書いたが足し算なら、いろいろ着飾れば地位とか権威とかで、
あたかも何者かであるように見せかけられるかも知れない。
でも、場ではその人の裸の存在に力がなければ、何も動かない。
場に入った瞬間から、何も持たないその人そのもので勝負しなければならない。

不思議なもので立っているだけで、存在の力の有る無しが分かる。
漫画のように「むむ、できる」とか、そんな世界だ。
だから騙せない誤摩化せない。
自分にはまだまだ他の部分があるんだと言っても無駄で、
そこに立っているその人が、その人の全てだ。

残念ながら、「むむ、できる」、みたいな人とはほとんど会わない。

悠太の実力に遠くおよばないということだ。

本当の僕を知っている人は、佐久間なんかどうしようもないと分かっているけど、
学生や若い人は僕を理想化していることもある。
場において僕が教えられたことは、いつでも全部あげるけど、
その先に行って欲しい。佐久間なんていらないというくらいのところまでは。
「佐久間さんには人間力があるから」と言ってもらったことがある。
これは滅相もない、とんでもないことだ。
当り前だが謙遜ではない。
僕をきっかけとして場から学び、もっと高い人間と出会って欲しい。
本当に人間力のある人に数人だが会った事がある。

そういう人達はただ何もしないでいるだけで、
人に良い影響をあたえる。場も良く出来る。
以前、お世話になっていた場所でマザーテレサと共に仕事をしてきたという、
男性とお会いした。お会いしたと言うとおこがましい。
見ることが出来た。
ああいう方が人間力があると言える存在だ。

もう1人はチベット人のお坊さんだったが、講演を聞かせていただいた。
人間はこんなにやさしくなれるのだと、感動した。

2人とも、キリスト教や仏教という宗教的な背景がある訳で、
宗教を持たない僕達が理想と出来るのかどうかは分からない。
でも、彼らが存在することで与える影響は大きい。
こんな人達には一生かけても足下にも及ばないだろうが、
日々、少しでも努力していくことは必要だ。

未だにこんなところにいる。
10年後にはもう少しましになりたいものだ。

2012年10月13日土曜日

先週のこと

朝晩は風も冷たく、肌寒くなって来た。
ここから体調をくずしやすいシーズンになる。
年末に向けて仕事と引っ越しの準備がいっぱい。

一年を通して制作の場を見ていると、季節と人の意識の変化はかさなっている。
秋、冬はやっぱり意識は冴える。空気が乾いてくると明晰な意識になる。
反対に湿った空気の中では、もう少し穏やかで場全体が渾然一体となっている。
一枚の紙を前にこころを開いていくとき、そこに様々な意識の層が現れる。
どの状態が良いということではなく、それぞれに相応しいアプローチがある。

環境とこころを活かしきること、それにつきる。

先週のプレクラスはいっぱいお客さんが来て、賑やかに過ごした。
いつも様々なかたちで応援してくれている、トキちゃんはパンを持って来てくれた。
みんな、おいしい、おいしいと言ってたくさん食べた。
ほんとに美味しいパンなので、アトリエでも紹介のチラシを置いています。

クリちゃんも久しぶりだった。どんどん成長しているフクちゃんとも会えて、
みんなは一日、楽しく笑いがたえなかった。
この場で少しでも時間を過ごした人達は、
彼らにとって仲間であり家族のような存在だ。

最近のアトリエでは稲垣君が熱心に通っている。
赤嶺さんとその友達モーリー(もりもとさん?)も来てくれた。

いつも書いていることだけれど、繋がりというものが一番大事だ。
場とはつながる場所だといえる。

辛いこと、苦しいこと、悲しいことはたくさんある。
生きているかぎりは。
どんな時も繋がれる人や場所があることは大切だ。
誰も力になれないことはある。でも、つながっていることは出来る。

つながることで、少しだけ何かが変わる。
何かが動き出す。そんなことをずっと経験して来た。

繋がる為にすべき事がある。
感じることだ。繋がりを感じること、場を感じること。
いつでもそこにある最良のものを感じること。

感じる為に今ここにいる。

2012年10月7日日曜日

雨続きの毎日

雨が降っている。
傘をさしながら道の途中に落ちている枯れ葉を見る。
枯れて、赤や黄色や茶色の混ざった葉っぱが雨に濡れて光る。
色と色の間にあるかすれた線や色と色が混ざり合った間を見ていると、
何度も何度も見て来た、アトリエの作家たちの作品を思い出した。
昨日も見ていたし、今日も見る。この感覚を。
雨は静かで人通りもなく、全ての音がとてもよく聴こえる。
鳥の声、虫の声。自然の音には「間」がある。そして空間の奥行きがある。
人がつくり出した音楽には何故かそれがない。
それでも私達は人が創るものを欲する。簡単に良い悪いはいえない。
風が吹き、木の枝が揺れ、葉が擦れる音がする。
ここにも音を発しているものより、静けさの方が強調される。
音の奥に空間があり、「間」があるからだ。
てる君の絵が浮かぶ。彼の描くものにも奥行きと「間」があって、
それは色や線以上に多くを伝えてくる。

静かなので音がよく響く。
歩いている自分の足音が聞こえる。
ハルコが「地球の音するね」と言ったことが思い出され、
まさしく地球の音を感じる。
僕達はこうやってつながっている。
みんなの見ているものを僕もこうして見ている。

突然だけど、私達が生きているこの世界や、日々見ている景色は、
一枚の絵と同じだと思う。
ここで言う絵というのは、ダウン症の人たちの作品をさしているのだけど。

ずっと絵を見ていると、世界中が絵の様に感じられたり、
外を歩いてみても見えるもの全てに、あの作品の息づかいや、
色や光や溢れ出る波が見える。
それはいっぱい作品に浸ったからではないような気がする。
つまりはもともと僕達の生きている世界はこんな風で、
それが感じられなくなることが多いのだけど、
ダウン症の人たちはいつでもそこに居て、しかもそれを絵に描くことが出来る。
だから、あの絵を成立させている秩序と、
自然界や宇宙にある原理とは同じものだ。

東北で紅葉を見た事がある。
それまで僕は枯れたものは好きではなかった。
紅葉より、新緑の生命力や単純さが好きだった。
でも、東北で本物の紅葉を見たとき、考えが変わった。
枯れることによって始めて見えてくる生命の本質があった。
あの色の多様性を見続けて、いかに生命は複雑なものが響き合うかに驚かされた。
そして、その中のどんな小さな些細な部分をも見逃してはならないのだ、
と強く感じた。多様なものが複雑に絡み合う。
音楽だしリズムだと思う。
絵もリズムだし、生きていることも生活もリズムだ。
アトリエで単純な動作をするとき、紙を貼る、絵具を溶くとき、
1人の時より、場でみんなといる時、そこにリズムがある。
良いリズムで行かなければ良い場にならない。
多様さが豊富であるほど、響き合う。
教育では一人一人の個性を尊重するというが、
本当の意味で個性とは何か分かっているのだろうか。
個性とはその人のリズムだ。
個性を尊重するには相手のリズムを感じとる必要がある。

響き合う場を創っていきたい。
ダウンズタウンはそんな場にならなければならない。

2012年10月6日土曜日

大切なものに触れる時の感覚

今日も教室以外にいくつか仕事が入っている。
なかなか書く時間がない。
でも読んで下さっている方が結構いるようなので、少しでも書いていきたい。

これからは、作品を見てみたい人は三重に行ってもらう、とうい流れにしたい。
東京ではきっかけをつくる。
もっと深く知りたい人、触れてみたい人は三重に行っていただく。
そんな風に出来る様に環境を整えたい。
伊勢志摩の自然環境の中でダウン症の人たちの調和の文化を体験していただきたい。

僕自身、自分の仕事はきっかけをつくることだと思っている。
幸い、たくさんの人達がこの場で良い出会いを得ている。

ダウン症の人たちとつながる事で、人間の本質的な生き方を考え直す。
その入口を創っている。

ここで出会う人はみんな何かしらを持ち帰って下さる。
いつか、それが広がって行く。

場に入る人は、みんな学んでいる。
作家たちも、僕達も。

本当の生き方が見えてくるはず。
ここではいつもいつも当り前なことが行われている。
だから難しく考え過ぎない事だ。

最近はアトリエに長期の撮影が入っている。
皆さんのご協力があってすすんでいる。
最終的にどんな作品になるのか、楽しみだ。
僕自身はその辺の事は何も考えない。
場を創ることがこちらの仕事なのだから。
場から必ず何かが伝わる。
監督は良い方だし、いつも謙虚に配慮して下さる。
見学の方であれ、取材の方であれ、場に配慮さえしてもらえれば、
後はお任せする。
僕達は精一杯良い場にするだけだ。他には何も出来ない。
そこから、何かを得て下さる方がいれば良い。
僕は映像の力というものをそれほど信用していない。
一番大切なものは映らないと思っているからだ。
それを覆していただけると有難い。

本当の生き方と書いた。
僕達は学んでいるとも。
ここではいつも当り前な事を大切にして来た。
今の世の中では何が当り前な事なのかすら見えなくなっている。
本当にこころから笑ったり、楽しんだり、真剣になったり、
人とつながったり、やさしい気持ちになったり。
そんな当り前な事を日々体験しているだろうか。

探しまわらなくても美しいものなんて、
目の前にいっぱいあるのに。
それを見つけるのには感性を磨く必要がある。

ダウン症の人たちの様に敏感に生きてみよう。
例えば、誰だって大切にしているもの、宝物があるはずだ。
服でも車でも何でも良いけど。
愛着のあるものを使っているときの自分の振舞を観察してみて欲しい。
職人が道具を扱う手つきと同じはずだ。
大切なものに触れるとき、消耗させない様に、壊さない様に、
かつそのものが一番輝く様に扱うはずだ。
つまり、大切なものを扱うとき、人はそのものに適した動作が自然と出来る。
技術ではない。
どのように振舞うべきか、どのように動くべきか。
テクニックにはしらないことだ。
ただ、大切に思う気持ちをやしなうことだ。

最も適切な無駄のない、理にかなった動作を行う為には、
細心の注意を払って大切なものに触れる気持ちになれば良い。
これをものだけでなく日常の中に流れている様々な状況に向ければ良い。

注意を払えば色んなことに気がつくはずだ。
僕達はこうやって制作の場を創り、こころとこころで響き合っている。
お互いを大切に思う。場を大切に思う。
そうすることで感性は磨かれていく。

見聞きすることは大切な事だけれど、
本当に大事なのは実際に見ること聞くことよりも、
見ようとするこころ、聞こうとするこころの方だ。
見るだけでは、見えないものは見えない。
聞くだけでは聞こえないものは聞こえない。
見ようとする感性、聞こうとする注意力が、
見えるものの奥を見せる。聞こえないはずのものが聞こえてくる。

今この瞬間を見逃してはならない。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。