2012年4月28日土曜日

家族

今日は本当にいい天気で暖かい。
ゴールデンウィーク前のアトリエ。
よし子と悠太はここからしばらく三重にいます。
僕も少し居れそうだったけど、仕事がいくつか入ったので、
今回はとんぼ返りになってしまう。

モロちゃん(元学生チーム諸橋さん)から手紙をもらった。
中国語の名刺を持って頑張っている。今頃はソウルかな。
忙しくお仕事をしながら、アトリエで皆と過ごした時間を思ってくれている。

時々アトリエの作家たちもモロちゃんの話をする。
色んな形でつながりを持ち続けて、いつかまた、ここで集まっていたみんなで、
何かが出来たらいいなあと思う。

ここで制作の場から学んだ人達、
様々なプロジェクトやイベントを手伝ってくれた人達の、
アトリエや作家達を思う気持ちは本物だ。

前にも書いたことだけど、学生達と出会ったことで、
僕はいっぱい学んだし成長出来たと思う。
沢山のものを今でももらっている。

これまで何気なくたくさんのつながりと、愛情に恵まれて来た。
僕自身も出会った人になるべく、自分のもらったものを、
あげようとして来た。

特に10代の頃、僕を受け入れてくれた人達。
一緒に暮らし、一緒に食べ、寝起きした人達のことは忘れない。

人間にとって本当に大切な経験がしにくくなっている。
大切なのは人と繋がって経験を共有して行くこと。

こんな時代になって、困難な状況の中で、
私たちはもう一度、そこへ立ち返ろうとしているような気がする。
これまで以上に「家族」や「家」がキーになって行くだろう。
それも以前のような血のつながりがメインに構成されたものでなく、
もっと広い「おもい」によってつながり、構成される新しい、
家族や家を創って行く時だ。

ダウンズタウンは夢ではなく、今の時代に必要なものだと思っている。
小さくてもあたたかい場所を創りたい。

2012年4月24日火曜日

スポーツ

今日は本当にいい天気。
てる君が来る日は何故か良く晴れることが多い。
絵のクラスの時でもそうだ。
彼の穏やかな雰囲気もポカポカの陽気がよく似合う。

さてさて、なんだかノートパソコンの調子が悪くて故障しそう。
今後のブログの更新方法を考えている。
もしかしたら携帯からになるかも。
アナログ人間なので(アナログな技術がある訳ではないので、アナログ人間ですらないかも知れないが)機械が変わると内容が変わる恐れがある。
だからちょっと時間がかかるかもしれない。
でも、なるべく読んで下さる方に失礼のない内容にしたい。

時々、スポーツを見る。
この前のフィギュアスケートの高橋大輔選手は素晴らしかった。
ああいう瞬間があるからいいなあと思う。(フィギュアがスポーツなのかは分からないが)
もっと前だけど、水泳の北島選手も凄かった。
あの目の強さは本物だ。

昔はスポーツは嫌いだった。科学と似ていて一面的だなあと感じていた。
でも、いいなあと思うところは嘘がないという部分だ。
勝ち負けは誤摩化せないから。
見ていれば分かるけど、スポーツの世界はいい顔をした人が多い。
何でだろうと思うと、やっぱり嘘のなさだろう。
我々の社会はいい顔をした人間が少なすぎる。
政治力や言葉や他人の力に頼って上へ行く人が多いからだろう。
いったい、権力や地位をとってしまったら、何が出来るのかという人も多い。
スポーツのように負ければおしまいの世界では、そんな嘘やごまかしがない。

時々、そんな世界を見ているのはいい。

このアトリエにいる作家たちだって、本当にいい顔をしている。
もし、スポーツのように何らかの人間としての良さを計る方法があれば、
彼らに勝てる人はそういない。
まあ、勝ち負けでないところがいいところだけど。

関わる側にしても実力を問われないということは、堕落しやすくもある。
これは気をつけた方がいい。
スポーツ選手を見習った方がいい所もある。

例えばよし子がよく行っていた美容院の美容師は、
僕らから見てかなりの技術を持っているが、
彼女は毎年、テストを受けて、自分を客観的に評価してもらっていると言う。
仕事をおぼえたばかりの頃はみんなそのテストを受けるらしいが、
ある程度になるともうしないらしい。
彼女はその店では店長なのだけど毎回受けている。
こういう姿勢が、僕達にも必要だ。

関わる人間として、ここにいて良いのか、僕は自分に問いかける。

介護や看護、教育といった様々な現場が、
大きく分けると人の心と関わりを持つという仕事と言える。
勿論、それ以外の専門的技術にも関わることではあるが、
大きく分けるならそういえると思う。
こういう仕事をしている人達が本当にそれに相応しい力を持っているか、
考えてみる必要がある。
少なくとも日々努力しなければならない。

また、こういうことを言ってしまうが、申し訳ないけど、
水泳のようにこころの中を泳ぐレースがあったとしたら、
僕はほとんど負けないだろう。
北島選手ほどの実力があると言いたい訳ではない。
泳ぎ方も知らない人が参加してしまっているだけだ。
ちょっとでも泳げればそれは負けないだろう。
この現状は問題だ。
色んな場面で人のこころと関わる人達に会って来た感想だ。
そんな訳はないと反論してくれれば幸いだ。

見ていて素敵だなと思える人が少ないのは残念。
それよりも、
たしか「家族に乾杯」という番組だったと思うけど、
色んな土地に行ってそこで暮らす人達とお話しする企画。
ここでの笑福亭鶴瓶は素晴らしい。
毎回とまではいかないけど、何度かに一度はこころの交流の理想的な形がある。
特にお年寄りと話しているときの彼はいい。
こういうのを見てた方がよっぽど勉強になるなあと思う。

こころは数値で計ることは出来ないし、勝ち負けを超えたものだ。
本当はこんなことを言ってはいけないし、スポーツと比較することなど出来ない。
今回は、学ぶことを忘れてはいけないという意味で、
あえて言ってみました。

2012年4月23日月曜日

誰も行かない道

アトリエのHPが新しくなった。
デザインはよし子の妹文香ちゃん。
よりアトリエの雰囲気を伝えるものとなって、制作現場の人間としても嬉しい。
デザインの中に彼女のアトリエを見る目が入っている。
アトリエ・エレマン・プレザンはスタッフそれぞれが自分の視点を持って、
役割をはたしていく。
組織には様々な視点がなければいけない。
うちわうけや予定調和は、知らない間に閉塞的な環境をつくってしまう。
外を見ること、それからお互いの違いを尊重することがとても大切。

勿論、基本になる認識は共有しなければならない。
このアトリエで言えば、創設した佐藤肇、敬子の美術の視点から、
ダウン症の人たちの感性を捉えていく、という基本がある。
その最初の発見と認識に絶えず立ち返ること。
ダウン症の人たちに共通した感覚があり、それが芸術の本質と深く関わる、
という、この出発点がなければ、他の全ての活動は成立しない。
この発見の中に未だつくせない、様々な要素と可能性がある。

ただ、それをどのように解釈し、どのように発展するかは、
関わる人間、一人一人が読み取り、創造していかなければならない。
そこに何を見るのかは、その人の生き方でもある。
それぞれが自分にしかない役割を見つけ、
協力し合うとき、良いものが生まれる。

例えば、東京のアトリエはよし子と僕が夫婦で運営しているが、
必ずしもいつも見解が同じとは限らない。
方向性をめぐって意見が分かれる時もある。
目的や目標は同じでも、方法は違ったりする。
それは良いことだと思っている。

もっと言えば制作の場に入ってしまえば、夫婦という関係も意味をなさない。
時々、仕事もプライベートも一緒だと大変では?と聞かれるが、
少なくとも制作の場ではお互い、1人になって、作家と向き合う。
夫婦で行う作業はもっと別のところ。
一人一人のこころに向き合う場で、夫婦の阿吽など通用しない。
お互いにそこに何を見ているのか、
どんな世界が見えているのか、知る由もない。
でも、不思議にだからこそ理解し合える部分が大きい。
僕にとって、制作の場でのよし子の存在は、自分より上だ。
存在の力で劣るから、僕には何と言っていいいか分からないが、
技のようなものがある。かろうじて互角かなと思う。(でもどうかな)

少し、僕個人のことを書く。
僕のやっているようなことは、たぶん誰もやっていないだろうと思う。
こんな生き方をしている人も、した人もいないと思う。
ある時、その事に気がついて、覚悟を固めた。
僕の仕事はジャンル化されていないし、今後もされることは無いはずだ。
だから、1人で歩くしかないと。
誰かを参考にする事も、教えてもらうことも出来ない。
いつの間にか、そんな道に入っていた。
前にも書いたが、16の頃にある障害を持った人と出会った。
僕は彼に人間の本質を見た。というか直感した。
そして、その世界を知りたい、体験してみたい。
彼から教えてもらいたいし、彼と同じ感覚で世界に触れてみたいと思った。
憧れから始まった、人のこころと一つになるという行為は、
実践を通して可能だと分かった。

このような視点から障害を持つ人と関わって来た人間は多分いない。
いいか悪いかは別として、僕しかいないだろう。

10代の頃は、ギリギリのところまで、人のこころと向き合って来た。
危険も犯した。
一歩判断を誤れば命を落とす、そんな場面に積極的に関わった。
だから理性の奥にあるこころの本質が、どんな動きをして、
瞬間にどんな変化をするのか、かなり見極められるようになった。
今、同じことをしろと言われても出来ない。

障害を持つ人のこころ(今ではダウン症の人たちのこころにより本質をみている)に
人間のこころの本質がある。という見方はあまりない。
学者や研究者のなかにはそういう見解の方も居るのかも知れない。
でも、僕のように本当に現場に入って体験の中でその事を見て来た人はいないだろう。

こころを見ていくと言っても、心理学や精神医学の見方ではない。
もっと感覚的で身体的なことだ。

毎回、ここで書いている共感という言葉も、
僕が言っているのはもっと身体的なことだ。
日常の経験で言えば、前に子供の頭が自分の頭と区別がつかなかったことを書いた。
さらに良くある話で、嫌いな食べ物の話を聞いていて、
自分は嫌いではなかったのにその人のイメージが伝わって、
自分もその食べ物が気持ち悪くなってしまったというような話。
こういうのは良く聞くけど、つまりはこころと言うのは、
他人のものでも、同じように感じとれるという例でもある。

それにしても、以前は色々、複雑に考えて来たと思う。
今は本当に単純だ。
一回一回の場で、みんなが「今日は気持ちよく描けたなあ」と思ってくれるように、
少しでも良い環境にしたいと思って、
気持ちをこめて教室をすすめている。

2012年4月19日木曜日

作品展示中

現在、コレクトポイント原宿店にて、
アトリエ・エレマン・プレザンの作家たちの作品が展示されています。
今回は5点と少ないですが、
お店の雰囲気にあった素敵な空間になっていると思います。
Tシャツやバックの販売もスタートです。
展示は5月4までとなります。
皆さま是非ご覧下さい。

実際に見ていただいて、感じていただきたいので、
作品や展示のことはあまり言葉にしないことにしています。
でも、一言だけ。今回はあえて、少しイメージを変えてみました。
強烈なインパクトを与える作品より、静かに優しく語りかけてくる、
シンプルで透明感のある作品が中心になっています。
今回の企画デザインで出ている作家とは別の人達が多いですが、
階段の最初にある家の絵は、今回の企画でTシャツになった猫の絵を描いた、
作家のはるこさんです。

そとで紹介されることの多い作家以外にも、
まだまだ、魅力ある人や作品がアトリエにはいっぱいです。

これからも、機会を作って色んな可能性をご紹介出来ればと思っています。

みなさん、いつも応援有り難うございます。
洋服やバック、ランチョンマット、コースター。
それから作品を楽しんで下さい。
こういった形でみなさんと作家たちとの繋がりが作れること、
本当に嬉しいです。

2012年4月17日火曜日

美しく

さて、今日も一日、頑張ります。

最近、体調が万全ではなかった。
ようやく鼻炎と気管支喘息のようなアレルギーが分かった。
クスリをのんで、少しづつ快復。

今日もいくつか教室以外に進めなければならない仕事がある。
平日のクラスは最近、ゆりあに大体は任せている。
仕事部屋からみんなの声を聞いているだけで、
良い場になっていることが分かる。
この期間でこういう場になるのだから、ゆりあに任せて良かった。
プレに最も必要な人材が来てくれたと思う。
むしろ、僕の方が邪魔してはいけないと思って、
入らないようにしている時もある。

あきもはるこもだいちゃんもゆうちゃんも、
みんな僕との関係から、次の段階が必要な時期が来ている。
ゆりあと新しい関係を築くことが、みんなの成長に見合った場面だ。

これは本当に不思議なことだけど、
変化していくとき、人や物や環境を変えなければいけない時、
自然にそのタイミングが分かる。

何か良いことや、良いものや環境があったとしても、
いいから絶対変えたくないと思わないことだ。
このままでいたいという気持ちが、流れを停滞させ、
既に変化の時期に来ているのに気づけなくする。
そうすると、いくら良いものでも悪くなる。
果物でも食べ時を逃すと腐ってしまうように。

人と人の関係も同じだと思う。
尊敬する人とずっと一緒に居たいと思う。
でも、そうすることは出来ない。
お互いに伸びていくからだ。
それが自然な時期が来たら勇気を持って離れる。
そうすると、また別の関係が生まれる。
もしかすると、一緒にいた時より、もっと一緒になれる。
これは僕に実際にあったことだ。

絵画のクラスにしても、平日のプレにしても、
スタッフとして一番大切にしなければいけないことは、
どんな瞬間も美しくということだ。
昨日のプレからはメンバーとゆりあの楽しい情景が感じられた。
お客さんを向かえることも多い。
ここはいつでも、どんな瞬間でも、一つ一つの行為や会話が景色になる。
どこの場面を切り取ってもきれい。
そんな場でなければならない。

一人一人が、こころも身体も病む時がある。
外の様々な出来事によって困難な要素が入ることもある。
そんな時でも、気持ちをあたためて、ゆっくりこころを、
愛情で満たしていく。

良い瞬間をいっぱい自分の中に入れていく。
次の人の為に、それをとっておく。
いっぱい貰ったら、いっぱいあげよう。

2012年4月14日土曜日

どんな時でも

今日は雨が強い。
さくらも大分、散ってしまった。
小学校の前のさくらが雨に濡れて濃い色になっている。
地面は散ったさくらでピンクがいっぱい広がっている。
きれいだなあと思う。

ブログを読んで早速、今回の商品を買って下さった方、数人からご連絡をいただいた。
本当にありがとうございます。

春先ということもあるけど、気候が安定しない。
体調をくずす人も多いし、気持ちが安定しない人もいる。
昨日も夜、家出中という人から電話があった。
話していると少し落着いたようだ。

僕も身体は強い方で、いつもあまり気になることはないのだけど、
最近はなんだかスッキリしない。
だるい感じと、空気が薄いような感じがする。

小さな地震がちょこちょこあるのも気になるところだ。

制作の場でも人生でも、そして自然、地球にもバイオリズムや周期というものがある。
僕は単純に流れと呼ぶ。
流れについては何度か書いたけど、
良いものや良い状況も、そのまま流れずにいると腐ってくる。
だから、良い状況が変化して悪くなったりすることは、
ある意味では必要なことだ。
流れは止まらないし止めてはならない。
悪い流れを恐れてはならない。避けてはならない。
プロセスとして充分に活かした方がいい。
恐れや不安や緊張は時に流れを止めてしまう。
どんな時でも、今の流れを感じよう。
どんな時でも今の流れを否定せずに、流れと共にすすもう。
良くなったり、悪くなったり、強くなったり、弱くなったり。
その時の波に乗って静かに楽しむ。

すべてはバランスだから良いものだけにしようとしてはいけない。

どんな時でも必ず、流れが何かを見せてくれる。
そこから学ぶ柔軟さと謙虚さだけが必要だ。

どんな時でも、何かを見つけよう。
どんな時でも良い場を創ろう。

今日の一日の中に、僕にとっては今日の教室の中にすべてがある。
さて、今日はどんな一日になるのか。
自分は少しでも良いものを場に残せるのか。

2012年4月11日水曜日

オーガビッツ×アトリエ・エレマン・プレザン

LEEでも紹介されていますが、
現在、オーガビッツ×アトリエ・エレマン・プレザンのプロジェクトとして、
洋服やバック等の商品が販売されています。
アトリエを応援して下さっている方々、
作家の保護者の方々に発売日をお知らせ出来なくて申し訳ございませんでした。
これからアトリエHPでアップするように準備が進んでいます。
保護者の方々にはプリントが郵送されますのでご確認下さい。
原画を描いた作家たちとご家族が現在の状況を把握出来ていないこと、
作品を扱う立場として反省しています。
今後、この様な企画をすすめていくとき、改善していくべきことの一つです。

みなさま、是非一度ご覧下さい。
それぞれが素敵な商品になっていると思います。
商品に関するお問い合わせは 豊島☎052−204ー7631へお願い致します。
各ブランドは
フラボア 03ー6853−5750
スタディオクリップ 03−3211−2273
グローバルワーク 0120−601ー162
チャオパニック 03−6805ー6860
となっております。

多くの方に触れていただき、作家たちの魅力が伝わって、
楽しくやさしい気持ちで繋がって行けたら、素晴らしいことだと思います。
今回の企画、みなさん、応援して下さい。

この企画は豊島オーガビッツの方々がたてて下さいました。
ダウン症の人たちの作品を洋服、バック等のデザインに使って、
きれいな商品を作り、それぞれにタグをつけ、
タグ50円分がダウンズタウンプロジェクトに寄付されるというものです。
豊島さんは綿を作る会社なので、
このプロジェクトを様々なブランドに提案し、
一緒にやりましょうと言っていただいたところとすすめていく。
その際、各ブランドで別々の企画にならないように、
共通のタグを作る。
どの商品に関してもこのプロジェクトのものは、タグ50円が寄付される。
というものです。

オーガビッツの方々がたくさんの企業に伝えてくれたお陰で、
こんなに多くの商品が生まれました。
あいだに入って、企画を練り、交渉し、アトリエにも細かく配慮いただいて、
本当に感謝です。
私達は会って下さいと言われれば、その人に会い、
取材を受けて下さいと言われれば受ける。
そんな風にしているだけで、形が整っていく。
関わって下さったみなさんの努力と比べれば、
私達はアトリエの少し延長したような感じですすめることが出来ました。
ただ、先ほども書きましたが、一つ反省点としては、
それぞれのブランドさんでどのようにすすんでいるのか、
最終的にどの会社のどの商品になって、いつ発売するのか、
そういった確認がとれなかったことです。
たくさんの会社や多くの人が企画に関わり、
それぞれがその人達だけですすんでしまったような印象があります。
お互いにはじめてのことで、不慣れなことも多く、
さらには前例がないこともあり、途中、企画が2転、3転する中で、
ようやく今のような形に纏まっていきました。
アトリエサイドとオーガビッツサイドのイメージのズレが、
ほんの少しだけあったのかも知れません。
アトリエはデザインの部分に、企画自体はタグ50円のチャリティに、
それぞれの比重が違っていたのかも知れません。
でも、ここは複雑に繋がる部分でもあり、単純ではありません。
どのような形なら、多くの方にご理解いただけるか、より良い方法を考えたいです。
関わって下さった方はみんな、
良い意志をもって、最善を尽くして下さったということはお伝えしたいと思います。

まずは新たな一歩が踏み出せたと思います。
勇気と希望を持って、可能性を信じて、一緒に踏み出してくれた方々、
最初の企画をつくって下さった豊島さん、各ブランドの方々、
作品で参加した作家たちと保護者の方達。
みんなの力で良いものが出来たと思います。

この企画を通して、もう一度、検証し直すことは必要でしょう。
それぞれがどうだったか、次にどこへ行くか。
また、一緒に考えましょう。

プロジェクトは始まったばかりです。
全ての人が、手放しで良いと思うとは思いません。
また、この形がすべてだとも思いません。
でも、新しい可能性が開かれ、一歩も二歩も前進したと思います。
いいも悪いも、考えるきっかけにもなるでしょう。

すでに店頭に並んでいる商品がそれぞれ、
たくさんの人に喜ばれるものでありますように。
彼らの作品が身につけられるものとなって、
みなさんの身近に幸せを運んでくれたらと思います。

僕はずっと彼らの絵を見て来ましたが、
個人的な経験から言うと、見る度に新しく見えます。
きれいなのはすぐに分かると思いますが、
もう一つ言うと飽きないと思います。

この機会をお見逃し無く、お知り合いにもお知らせいただいて、
まず見て下さい。
それから、よろしければ買って下さい。

これからも応援よろしくお願いします。

2012年4月9日月曜日

「場」は生きている

最近、つくづく思う。
場は生き物だと。
このブログで時々、場という言葉を使うが、
僕の言っている場というのは、この教室という場所であると同時に、
目に見えないけど存在している力のことだ。
良い人が集まれば良い場になるとは限らない。
一人一人が場を尊重することで良い場は生まれる。
作家も僕達もこの「場」に入れば自分が素になるという感覚をもっている。
みんなでそんな場にしてきた、そんな場を創って来た。
例えば5人、人が居て5人とも答えを持っていなかったとしても、
場が答えを出してくれる時がある。
でもこの5人がここに居なければ場というものは存在しない。

場が要求していることに、僕達は従わなければならない。
場に逆らっても何も上手くはいかない。
だから場を感じる必要がある。
場を見る必要がある。
さっきまで場が要求していたことが、今も同じではない。
場は生き物のように絶えず動き、変化する。

僕にはなんの力もない。
なんの能力もない。
何も出来ないし、何も知らない。
ただ、場から求められることを実行し、
場からもらい、場から学ぶ。
それがすべてだ。

作家がこころを開いてくれれば、必ず良い作品が生まれる。
こちらが本当に謙虚になって、敏感で居られれば、
今よりも少しだけ、こころを開いてくれる。
少しだけ見せてくれる。
ちょっとづつリズムが見えてくる。
場の密度が高まってくる。
あとは場が創ってくれる。
作家もスタッフも場の声に耳を傾ける。
やがて、今日の場はここへ行こうとしてたんだね、という場面を一緒に見る。

僕達は誰も答えを持っていない。
だから一緒に見つけることが出来るし、
一緒にみつけた時は一体感が生まれる。

場に入る。
何も持たずに、持っているものは外に置いて。
作家たちもスタッフもはだかになる。
さあ、今日は何がおきるのだろう。
何をみつけられるのだろう。
どんなところに行けるのだろう。
みんなでこれまでたくさんのものを見て来た。
これからも、許される限り、一緒に美しい場面を見に行こう。
みんなで本当に大切なものを与え合い、場からもらってきた。

みんなで、共有している世界。
こころの奥で繋がっている世界。
目に見えないけど存在していて、いつも思い合う、大切な場所。

そこに入るために僕達は生きている。

2012年4月7日土曜日

夢のような感覚

本日、4月7日発売の雑誌LEE最新号に、
今回のオーガビッツ×アトリエ・エレマン・プレザンのプロジェクトと、
アトリエの活動が紹介されています。
是非ご覧下さい。

前回、ヴィジョンの力について書いた。
少しだけ補足したい。
ヴィジョンと幻想や妄想の違いについて。
幻想や妄想もヴィジョンも今この場に現実には存在していないものを見ている。
でも、この2つは違うものだ。
幻想や妄想は現実と関わりのないものだが、
ヴィジョンはまだ現実になっていないとしても、
現実の奥に潜んでいて見える人には見えるものだ。
ヴィジョンは現実をよく見ることから生まれて来る。
それは、客観的で普遍的なものだ。
だからこそ、誰かが1人で強く願ったとしても実現されない。
現実はみんなの思いが一つになってこそ変化する。
その時期が来るまで、諦めずに動き続けられるかどうかだ。
まだ実現されていないヴィジョンは、まだ本当には望まれてはいない。
でも、望まれてもいないのに、
あるいは幻想や妄想であるのに実現されてしまうものがある。
独裁者の夢がその一つだ。
なぜ、そういうことがおきるかと言うと、力でねじ伏せるからだ。

ヴィジョンは力で強引に実行してはならないものだ。
強く願ったからといって、現実を思い道理にしようとしてはならない。
そのヴィジョンが本物なら、力を使う必要がない時が来る。
流れを無視したり、現実をねじ伏せようとした時、
ヴィジョンは幻想や妄想と同じものになる。

僕は本当に、ダウン症の人たちが持っているような感覚を使うと、
世の中がもっともっと良くなると思っている。
でも、普通に考えたら彼らのように感じたり見たりすることは出来ない。
科学的に言うと多分、人の内面を見ることは出来ないはずだ。
それでも、実際にはそういうことはあり得る。
その人が感じている事が分かってしまう時だってある。
それは不思議なことではあるけれど事実だ。

たとえば、アトリエでのこころの使い方についてはいつも書いている。
相手のこころと一つになること。
これは本当はそんなに特殊な能力ではなくて、
日常的に人が使っている能力を少しだけ発展させたものと言える。
誰でも日常的にあることだ。
体験にのめり込んでいたり、人と深く共感したり、
強い愛情が動いているとき、みんなが経験していること。

何気ない日常の中にある感覚。
この前、ゆうたの髪を筆にしてもらいに行ったのだけど、
丸坊主になったゆうたが可愛くて、頭をなでたりして一緒に遊んで過ごした。
夜、ゆうたをお風呂に入れて、先にゆうたを出して、
自分の頭を洗おうとしていたとき、あれっと驚いた。
自分の髪がいっぱいあったから。
いつの間にかゆうたの頭が自分であるような感覚になっていたようだ。
あれ、そうかあっちはゆうたの頭だったと。
ささいなことだけど、僕の言っている共感とはこんなことの延長にあることだ。

さて、もう一つ大切な感覚がある。
良い場が流れているとき、ここがはるか過去のような、
現実ではないような夢のような感覚になる時がある。
その時は共感もおきやすいし、境界もあまり感じられないので、
みんなが自分のこころに向かうのに最適な場になる。
そういう時の教室の一場面は必ずおぼえていて、忘れない。
夢のようといっても、リアリティがない訳ではない。
むしろ普段の現実の方がガチガチに固まっていて、
夢のような柔らかさを失っている。
だから、夢のような感覚の方がリアルといえる。
前に書いたことで言うと、普段の固まった現実というのは、
細部をじっと見つめ過ぎていて、全体が見えなくなっている。
自分で流れをせき止めていることに気づけない状態。

さっきの話しも一緒だけど、力に頼ってはいけない。
力技は良いところには行かない。
思いが強いから、固まるのだし、
何かを必死にやろうとするから出来なくなる。
見ようとすれば見えない。
例えば、明るくすれば何でも鮮明に見えると思う人は多いが、
暗い方がそのものを捉えることが出来ることだってある。
見るよりも聞くこと、聞くことよりも、感じること。
感じることよりも、夢の中にいるように漂っていること。

何かをするとき、しようと思い過ぎないことは大切だ。
何かを選択する時も、どちらが自然かをみればいい。

それにしても、毎年、桜がきれいになっていく。
花が変わったのではなく、こちらの見え方が変わっている。
日に日にきれいになっていくなんて幸せなことだ。

2012年4月5日木曜日

ヴィジョンの力

さすがにもう春と言っていいだろう。
暖かく、風邪も強い。
太陽は本当に有難いと思う。
僕が生まれ育った金沢という土地は、一年中雲に覆われ、
スッキリ晴れる日は少ない。
晴れたと思ったら、すぐに日が陰り雨が来る。雷も多い。
夏は暑く、冬は寒い。どんよりと薄暗く、じっとり湿っている。
夏でも冬もでも加湿器など使ったことはない。
冬場でも除湿器を使い続ける。
湿気によって、暑さも寒さも身にしみる。
そんな気候だから身体が腐りそうで、食べ物はたいがい塩辛いかひたすら甘い。
だから、僕は昔から太陽が好きだ。
ひなたぼっここそが身体も心も快復させてくれる。
日を浴びていると元気になる。
金沢をでてからは太陽を貰い放題だったが、ありがたみはいまだに変わらない。

でも金沢で良かったのは、海も山も森もすぐ近くにあり、
街も文化もそれなりにあるところだろう。
人は自然無くして生きられない。でも、自然だけでも今は難しい。

東京で暮らしていると、海へ行くにも山へ行くにも時間が掛かる。
空と風と太陽だけがいつでも触れられる自然だ。
勿論、コンクリートの下は土だけど、なかなか大地は感じられない。

もうひとつだけ、いつでもそこにある自然は、
毎回書いていることだけど、人のこころという自然だ。

疲れた時、行き詰まった時、どうするか。
どこからヴィジョンやインスピレーションをもらうか。
これは僕にとって重要なことだ。
なぜならヴィジョンなくして一日も成り立たない仕事をしているから。

例えば100メートル、あるいは200メートルを、全力疾走する。
その時、ゴールより何メートルか先を目指して走らなければならない。
ゴールピッタリを目指したら直前で失速してしまう。
これはヴィジョンの物理的な働きを表す例だ。
ヴィジョンはその様に直接的な力を持つものだ。

僕達はアトリエでヴィジョンを途切らせてはならない。
人は思いをなぞる。身振りをなぞる。
だからいつでも強いヴィジョンが無ければならない。
アトリエの活動全体に対してもこれは言える。

普通はヴィジョンがなくてもいい。
誰かがもっていれば。
あるいは時々、途切れてしまってもいい。
みんなで響き合うのだから、1人で努力することは難しい。
もう一度見出せばそれでいい。

でも、こうした活動を続けるには必ず、
誰か1人はいつでも強いヴィジョンを持ち続ける人間が必要だ。
誤解、偏見、無理解、様々な困難や、時代の負の流れ、
そういった中で挫けないヴィジョンを保つ。

制作の場においても、場に入ったらインスピレーションがあふれ続ける、
というテンションを保つ必要がある。
絶えずビンビン来ていないと、場の密度は高まらない。

ヴィジョンとインスピレーションは実際的な力だ。
それがあればどんな困難の中でもその場を良くしていける。

力を失いそうになったら、自然から貰う。
それから、僕の場合は尊敬している人を思い出す。
その人と過ごした時間や、その人が自分にくれたもの。
その人が見せてくれた景色。
その人のたちいふるまいや持っていた雰囲気。
思い出すともう一度、力が出る。
あのようにしなければ。あのようにありたいと。

自分がその場にいるいじょうは、その場をほんの少しでも良くしたいと思う。
そうしなければ、自分に教えてくれた人達に申し訳ない。

この様にヴィジョンは連鎖していく。
どんなことでも、次のことに、あるいは次の人に繋げてこそ価値がある。

2012年4月3日火曜日

無駄の無いふるまい

台風が来ているから、みんな気をつけよう。
アトリエに通っている人達も行き来がちょっと心配。
1人で来ている人は、危ない可能性のある日は各自の判断でお休みして下さい。

この前、ベビーカーにゆうたを乗せて歩いていたら、
ヨーロッパ人(多分ドイツ人)が店の外の席に座って2でコーヒーを飲みながら、
ノートパソコンを開いて話し合っていた。
いつも思っていたことだけど、日本の風土にその景色は合わない。
そのての店は海外の昼が長く乾燥した風土にこそ適している。
日本でやると何故か優雅ではなくなる。
とずっと思っていたのだが、その2人の外国人の姿はなんの違和感も無かった。
そこだけが外国の雰囲気になっていた。
だから気が付いた。
そのような場面は日本の風土に合わないという以上に、
日本人に合わない。あるいはヨーロッパの人たちに合う。
それが身体に刻まれた自然さというものだ。

前に自然さについて書いたが、こういう事だと思う。
自然な動作には無駄がない。どこにも力が入っていない。

なにかのプロとは本当はそういうことだと思う。
自分の仕事とする事が、自然になりきって、どこにも違和感がなくなった人。
昔、ガラスを作る職人さんを見た事があるが、
ガラスという素材が自由にどんなものにでもなるような、
柔らかいもの、固まらないものに見えた。
陶芸家がろくろを回しているときも、いともたやすく形になる。
自然で違和感がない。当り前な情景に見える。
なにかのプロとは、そのことの自然を身体に刻んでいる人のことだ。

肇さんから教わった話しだが、
良い絵は見た人が自分でも描けそうな気がするという。
簡単そうに見えるし、自然に描きたいと思う。
これも同じで、そこに自然さがあるし、無駄な力が抜けている。

イチローの身体能力の高さは多くの人が語っているだろう。
このブログでも彼の「型」に注目した事がある。
でも、もう一つ、彼の凄いところは、
構えているだけで、いかにもボールがバットにあたりそうに見える。
あたる方が自然な感じがする。
その自然さだ。

そのような達人でなくとも、あるいはプロでなくても、
違和感のない自然な動作やこころの使い方をするように心掛けることは大切。

どんな小さなことでも自然な動作には美しさがある。

良く美人アスリートとか紹介されているのに、
そんなに綺麗に見えない人がいる。(本当に失礼。主観の問題も勿論)
でも、みんなは競技中のその人を見ている。
そして競技中のその人はやっぱり綺麗だ。
その人が一番、活き活きと自然に出来ること。
その行為の中にある時、その人の美しさが全面に出る。

みんなそうだ。
だから、一人一人がどこよりも自然にふるまえる場所を創りたい。

大抵のジャンルでは長くその仕事をしている人には自然さがある。
それなのに子供や老人、それから障害を持つ人に関わり、
介護や介助や教育をおこなうような仕事をしている人達には、
このような自然さを持つ人が少ない。
見ていて違和感のある人の方が多い。(勿論、まれにではあるが、自然でほれぼれするような美しい動作と表情がある人もいる。しかもひっそりと。)
このことはもうちょっと改善されるべきだろう。

まだ、別の場所でアトリエを開いていた時、
電話でご連絡をいただいた方がいた。
養護学校で絵の指導をしているが、なかなかみんな描いてくれない、
それで描いている現場を見学させて欲しいと言う。
こういうお話はおことわりすることも多いが、
かなり真剣な様子だったので、どうぞとお返事した。
でも、みたらもっと分からなくなるだろうと思っていた。
見学の日。
彼はやって来るなり、不自然な大きすぎる声でみんなに挨拶した。
その最初の入りから、もう勝負は決まっていた。
とたんに作家たちのこころの動きが止まった。
僕は、後ほどお話しましょうとだけ言って、彼には少し離れた場所に座ってもらった。
僕は特別なことは何もしない。
みんなが自然に描き始め、笑い合い、いつの間にか時間が来て、
楽しかったねと終了した。
彼には何がおきているのかまるで分からなかっただろう。

なぜ、ある場所ではどんどん描いて、違う場所では描かないのか。
描く人と描かない人がいる訳ではない。
描くことが自然な環境か、そこに違和感がある環境かだ。
いつも言うが環境の中で大きな比重をしめるのは人だ。
関わる人間。
ここでは僕だが、僕は彼らが当然描くものとしてみている。
自然に。ここで少しでも、もし描かなかったらとか、
もっと他のことでもマイナスの思いや、心配や不安をもってしまったら、
彼らは描かない、というより描けない。
この方の場合は、始めた頃になかなか描かないなあと思ってしまったのだろう。
あるいは描いて欲しいと思ってしまっているのだろう。
こちらの思いが強いと相手は身動きが取れない。
困った事があると、みんなそこに意識を向けてしまう。
誰かが立ち上がって走り回ったりすると、焦って止めたり。
こちらが動揺すると流れは強くなってしまう。

無駄のないふるまいが大切だ。

2012年4月2日月曜日

「障害」について考える2

イサから無事大阪に着いたとメールがあった。
4月がスタートだ。
今日からはゆりあがスタッフとして、アトリエに入る。
2人とも楽しみだ。

イサ達にはもう充分に大切な事は伝えたと思っている。
今、思いついたから一つだけ。
絵が生まれているとき、見守る人間は作品を直視してはいけない。
あくまでボワッと漠然と見ること。うかがい見る感じ。
力を入れて見ることは、作家のこころの流れを方向付けてしまう。
どこにでも行ける柔らかさが必要だ。
見るともなく見るということだ。
細部を鮮明に見てはならない。全体をふわっと見ている。
どこにでも行ける余裕と隙間を持って。
直視したり、力を込める場面は、作家が流れと方向が定まって、
一つのモードに入ってからだ。
あるいは迷って本質から逸れていく時、こっちじゃないの?という意味で直視する。
それ以外の時は、力を抜いて流れを感じとる。
でも、ボーッとしてはダメ。
ぶち見(この言葉は何人かの学生と使っている。彼らの知っているあるエピソードから学んだもので、対象への思いが強すぎて場を壊しかねないほど見つめてしまう状況をあわらしている。)はいけない。
これは絵を見る時のような限定された場面だけの話しではない。
僕自身は生き方としてこれを学んだ。
物事は凝視すると、視野も狭くなるし、流れが固まる。
さらに出来事への自分の反応も鈍くなる。
しなやかに柔らかく動くためには、じっと見つめるより、
背後の雰囲気や包んでいる気配をまるごとふわっと捉えておいて、
限定しない。動きが変わればそれに従っていく。
絶えず大枠だけ把握しておいて、後は変化に身を任せる。
それが出来ると強い。
今よりももっと繊細に生きるということだ。
目の前にあるもの、それが何であれその対象に敬意をはらい、
大切に扱えば、普段意識せずにおこなっていた行為からでも得るもの、
感じとれるものは大きくなってくる。
自分が与えられて生きていることに気がつく。

さて、前回の続きだ。
問題にしているのは、あからさまな差別より、
人が無意識におこなってしまう、関係を絶つ行為。
それに親切心や平等や権利という大義名分で、
実は当り前の繋がりが持てなくなってしまっていること。

このアトリエに来ると、みんな明るさに驚く。
笑いは絶えないし、見せかけの親切さややさしさがはなにつく場面も無い。
作家もスタッフも一切の遠慮がない。
わざとらしさ、不自然さほど、人を孤立させるものは無い。
明るさもやさしさもつくってはいけない。
自然に出て来なければならない。
ここでは誰もが自然にふるまっている。
おかしなことをすれば笑うし、モノマネする。
間違えたり、失敗しても、みんなが当り前に笑う。
本人も喜んで笑う。誰も恥じることは無い。
こういう場が自然だ。

助けようとか、庇おうとか、分かるように話そうとか、
やさしくしてあげなければとか、おかしくても笑っては可哀想とか、
そんな思い込みは捨てることだ。
お互いに思ったことを思ったように言えばいい。

昔、こんなことがあった。
僕が働いていたところではたくさんの障害を持った人が生活していた。
そこへある女性がやってきた。
その方は肢体不自由で全身が思うようにならない。
手足も使えないので、口に筆をくわえて絵や文字を書く。
その生き方が人々の感動をよんでいて、カリスマのようになっていた。
マスコミでもかなり紹介されていたようだ。
その人のもとには、全国から大勢の人が訪れていた。
そのような名前のある方でもあるので、名誉のためここでは名前はふせておく。
僕は彼女とケンカしたことを懐かしく思い出す。
ことの発端は彼女がそこのメンバーに大きな態度を取り続け、
やってもらって当然といった感じで、お礼も謝りもしないところにあった。
それでも、周りの人達は彼女を崇めていた。
みんなが教えを乞うている感じだ。
体調の悪い人もいたので僕はその人を部屋に連れて行った。
みんなが自分のためにここへいて当然だと思っている彼女は、
その行為に腹を立てた。
その場では僕は謝った。あなたのお話を聞きたくない訳ではない。
彼をちょっと部屋まで送る必要があっただけだと。
ただ、この後もみんなが何をしてもお礼も無く、自分中心に事を運ぶ。
周りの人は相変らずかしこまっている。
違うぞ、と僕は思った。
しばらくするとそばにいた秘書のような人を通して、
「あなたは何を聞きたいですか」と言われたので、
僕は「何もありません。正直に言うとあなたから教わることは何も無い。それはここへきてからのあなたの横柄な態度で分かる。あなたは何も持ってはいない。あなたの方こそ、この場から何か学ぶべきことはないのか」と言ってしまった。
そこから激昂した彼女としばし言葉の応酬があった。

数ヶ月後、彼女から手紙とプレゼントを貰った。
一緒に議論出来て嬉しかった。
遠慮せずに自分に意見を言ってくれる人と初めて会った、と。
友達になってくれと言われた。

あの言葉は彼女の本心だったと思っている。
障害に配慮しすぎるあまり、決まりきった無難な態度を取り続けると、
当事者は孤独になっていくばかりだ。
そして、いつか歪んだ関係によってしか人と繋がれなくなってしまう。
平等の名の下に人を孤独にさせる行為もある。

この社会で不自由な状況にある人がいる以上は、
障害など無いと主張してはいけない。

何かをしてあげようと言う、思い上がった態度よりも、
どんな人達なのだろうと興味を持つべきだ。
興味で接してはいけないと思う人がいるようだが、
しっかり敬意をはらえば、興味は間違ったものではない。

そして、当事者側や関わる人間も、
条件や背景を否定することも恥じることも無い。
むやみにみんな同じ、平等だというより、
生まれ持った背景や条件を冷静に受け止めよう。
その上でマイナスに捉えないこと。
どうすればプラスになるのかみんなで考える。
障害はないではなく、障害と言われる条件は何なのか、
どうすればそれが良い方向で共存出来るのかを考えるべきだ。

2012年4月1日日曜日

「障害」について考える

ゆうたの皮膚のアレルギーが続いていたので病院に行って来た。
いい先生で漢方を出してくれる。
体調も良くなって来た。
アレルギー専門のところだったので、最近またでていたよし子の喘息もみてもらう。
ちょっと距離があるので車で移動。
良いところはやっぱりこんでいる。
全部で6時間もかかってしまった。

さて、今回のテーマは障害について。
こういう活動をしているから、質問は受けるが、正面から語ったことはない。
何故なら、違う次元のことを問題にしているからだ。
僕自身は前回書いたような人間の生き方や、感覚の力をテーマにしている。

今回はやや一般的なテーマをあえて考えてみる。

私達の社会にある問題の一つに「障害」あるいは「障害者」のことがある。
最近では触れない方が得だとばかりに無いことにされている場面もある。
正面から語るまいとする人も多い。
障害という言葉が出てくると、気持ちよくはないからだろう。
でも、なかったことには出来ないし、避けてはいけない。

例えば一番大きな問題は、差別だろうが、
これは人種や他の問題についてもつきまとう。
しかも差別の問題は難しい。
差別とは、偏見や誤解であるし、偏見や誤解は思い込みからくる。
ここの部分が難しいのだが、思い込みを持たない人はいない。
人は思い込みを持って生きている。
だから、差別の問題を外から語ることは出来ない。
すべての人が自分の問題として考えることだ。

結論を先に言えば、難しいことだが、日々思い込みをすてるしかない。

障害を持つ人に対してのあからさまな差別は無くなってはきている。
無いように見える。
でも、無視することも差別の一つだし、
関わりを持つまいとする流れはいまだにある。
そして、こういうものだと言う、思い込み、決めつけ。

知らず知らずのうちに上からものを見ている人が多い。
助けてあげたいという思いだって、上から目線の可能性は高い。

障害を持つ人達のグループも最近では、
オシャレでカワイイという軽いイメージをだしているものも増えた。
勿論、これまでのような汚い、暗いイメージはなんとかすべきだ。
でも、ただオシャレ感をだしただけでは、全く本質的には何も変わらない。
かえって、無いように見せようという、世の中の流れに一役かってしまう。
それに、そういう風に見せなきゃという媚がないか考えてみた方がいい。
大事なのはもっと内面的なこと。こころが通い合っているのかだ。

ここでも書いた気がするが、差別用語というものがある。
あからさまな偏見を含むものは無くした方がいいのは当り前だ。
でも、言葉を統制することで差別は無くならない。
むしろ逆だと思う。
例えば、よく見るが電車に精神障害の方が乗ってくる。
1人で歩き回ってぶつぶつ言っている。
あからさまに差別的な眼差しで見る人や、席を立って逃げていく人もいる。
でも、一番多いのは、見て見ぬふり。
いないことにしよう、関わらないようにしようとする人。
言葉を統制することもこれと同じで、
そうすることで関わりをもつまいとしているだけだ。
一つの同じ言葉でも、人を傷つけたり、逆に喜ばせたりする。
こういう風に言ったら傷つくかな、でももっと繋がりたいな、
もう仲良く話してもいいかな、まだ敬語の方がいいかな、
とかそうやって相手とこころの距離を確認していく、
それが関わることだ。
これを言ってはいけないと決めつけるのは、
言わなければ無難、もしくは関係せずにすむというだけのことで、
決して相手への配慮ではない。

障害なんて無いという人もいるが、
それもこれと同じで、ないことにしたいだけだ。
あるいは障害も健常も無いとか、どこからが障害と言えるのかとか、
さも平等にみえる発言をする人がいる。
まずはっきり言おう。
障害も健常も無いなんて嘘だ。
それから、自分だってこういう性格で生きにくいから、
自分だって障害者と言えるのだと得意げに話す人もいる。
これも違う。
障害とは、生まれつき、あるいは後天的に持つ身体的、心的条件が、
現行の社会システムの中で適合出来ずらい、無理を強いられることを言うのであって、
性格や癖のような問題とは異なる。
同じ理由から障害は個性であるというきれいごとも間違っている。
障害を持つ人達にも当然、個性がある。障害が個性なのではない。

関係しないために作られているシステムを平等と勘違いすることで、
障害を持つ人達は孤独を感じさせられて来た。
例えば、人とケンカも出来なかった。
ケンカも関係が強いと言う一つの現れだし、
直接的なコミニュケーションの形だと言える。
障害を持つ人とケンカする人は少ない。
自分に非があるように見られる可能性が高いからだ。
僕が昔、会って来た人の中には、これを逆手に取って健常者をいじめる人もいた。
僕はそういう卑怯を許すことは無い。
そういう人を見ると、必ず言い合うことになった。
面白いことだけど、その後に誰よりも仲良くなる。
彼らもそうやって腫れ物に触るようにされて来て孤独だった訳だ。
繋がりたい、でも距離を無くしてくれない、
無意識の差別を前にして、こいついい人ぶりやがってと、
試す気持ちで健常者いじめをしていたということだ。

そのうちの一つのケースを次回紹介しよう。
時間が来てしまったが、まだ書くことは多いので、次回続きを書こう。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。