2012年4月2日月曜日

「障害」について考える2

イサから無事大阪に着いたとメールがあった。
4月がスタートだ。
今日からはゆりあがスタッフとして、アトリエに入る。
2人とも楽しみだ。

イサ達にはもう充分に大切な事は伝えたと思っている。
今、思いついたから一つだけ。
絵が生まれているとき、見守る人間は作品を直視してはいけない。
あくまでボワッと漠然と見ること。うかがい見る感じ。
力を入れて見ることは、作家のこころの流れを方向付けてしまう。
どこにでも行ける柔らかさが必要だ。
見るともなく見るということだ。
細部を鮮明に見てはならない。全体をふわっと見ている。
どこにでも行ける余裕と隙間を持って。
直視したり、力を込める場面は、作家が流れと方向が定まって、
一つのモードに入ってからだ。
あるいは迷って本質から逸れていく時、こっちじゃないの?という意味で直視する。
それ以外の時は、力を抜いて流れを感じとる。
でも、ボーッとしてはダメ。
ぶち見(この言葉は何人かの学生と使っている。彼らの知っているあるエピソードから学んだもので、対象への思いが強すぎて場を壊しかねないほど見つめてしまう状況をあわらしている。)はいけない。
これは絵を見る時のような限定された場面だけの話しではない。
僕自身は生き方としてこれを学んだ。
物事は凝視すると、視野も狭くなるし、流れが固まる。
さらに出来事への自分の反応も鈍くなる。
しなやかに柔らかく動くためには、じっと見つめるより、
背後の雰囲気や包んでいる気配をまるごとふわっと捉えておいて、
限定しない。動きが変わればそれに従っていく。
絶えず大枠だけ把握しておいて、後は変化に身を任せる。
それが出来ると強い。
今よりももっと繊細に生きるということだ。
目の前にあるもの、それが何であれその対象に敬意をはらい、
大切に扱えば、普段意識せずにおこなっていた行為からでも得るもの、
感じとれるものは大きくなってくる。
自分が与えられて生きていることに気がつく。

さて、前回の続きだ。
問題にしているのは、あからさまな差別より、
人が無意識におこなってしまう、関係を絶つ行為。
それに親切心や平等や権利という大義名分で、
実は当り前の繋がりが持てなくなってしまっていること。

このアトリエに来ると、みんな明るさに驚く。
笑いは絶えないし、見せかけの親切さややさしさがはなにつく場面も無い。
作家もスタッフも一切の遠慮がない。
わざとらしさ、不自然さほど、人を孤立させるものは無い。
明るさもやさしさもつくってはいけない。
自然に出て来なければならない。
ここでは誰もが自然にふるまっている。
おかしなことをすれば笑うし、モノマネする。
間違えたり、失敗しても、みんなが当り前に笑う。
本人も喜んで笑う。誰も恥じることは無い。
こういう場が自然だ。

助けようとか、庇おうとか、分かるように話そうとか、
やさしくしてあげなければとか、おかしくても笑っては可哀想とか、
そんな思い込みは捨てることだ。
お互いに思ったことを思ったように言えばいい。

昔、こんなことがあった。
僕が働いていたところではたくさんの障害を持った人が生活していた。
そこへある女性がやってきた。
その方は肢体不自由で全身が思うようにならない。
手足も使えないので、口に筆をくわえて絵や文字を書く。
その生き方が人々の感動をよんでいて、カリスマのようになっていた。
マスコミでもかなり紹介されていたようだ。
その人のもとには、全国から大勢の人が訪れていた。
そのような名前のある方でもあるので、名誉のためここでは名前はふせておく。
僕は彼女とケンカしたことを懐かしく思い出す。
ことの発端は彼女がそこのメンバーに大きな態度を取り続け、
やってもらって当然といった感じで、お礼も謝りもしないところにあった。
それでも、周りの人達は彼女を崇めていた。
みんなが教えを乞うている感じだ。
体調の悪い人もいたので僕はその人を部屋に連れて行った。
みんなが自分のためにここへいて当然だと思っている彼女は、
その行為に腹を立てた。
その場では僕は謝った。あなたのお話を聞きたくない訳ではない。
彼をちょっと部屋まで送る必要があっただけだと。
ただ、この後もみんなが何をしてもお礼も無く、自分中心に事を運ぶ。
周りの人は相変らずかしこまっている。
違うぞ、と僕は思った。
しばらくするとそばにいた秘書のような人を通して、
「あなたは何を聞きたいですか」と言われたので、
僕は「何もありません。正直に言うとあなたから教わることは何も無い。それはここへきてからのあなたの横柄な態度で分かる。あなたは何も持ってはいない。あなたの方こそ、この場から何か学ぶべきことはないのか」と言ってしまった。
そこから激昂した彼女としばし言葉の応酬があった。

数ヶ月後、彼女から手紙とプレゼントを貰った。
一緒に議論出来て嬉しかった。
遠慮せずに自分に意見を言ってくれる人と初めて会った、と。
友達になってくれと言われた。

あの言葉は彼女の本心だったと思っている。
障害に配慮しすぎるあまり、決まりきった無難な態度を取り続けると、
当事者は孤独になっていくばかりだ。
そして、いつか歪んだ関係によってしか人と繋がれなくなってしまう。
平等の名の下に人を孤独にさせる行為もある。

この社会で不自由な状況にある人がいる以上は、
障害など無いと主張してはいけない。

何かをしてあげようと言う、思い上がった態度よりも、
どんな人達なのだろうと興味を持つべきだ。
興味で接してはいけないと思う人がいるようだが、
しっかり敬意をはらえば、興味は間違ったものではない。

そして、当事者側や関わる人間も、
条件や背景を否定することも恥じることも無い。
むやみにみんな同じ、平等だというより、
生まれ持った背景や条件を冷静に受け止めよう。
その上でマイナスに捉えないこと。
どうすればプラスになるのかみんなで考える。
障害はないではなく、障害と言われる条件は何なのか、
どうすればそれが良い方向で共存出来るのかを考えるべきだ。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。