2014年5月15日木曜日

三重へ行って来ます。

東京アトリエの皆さん、何かありましたら関川君に伝えて下さい。
メールはそのまま連絡出来ます。
宜しくお願いします。

今週は出発前にたくさんの人にお会いしたが、
本当に良い方々に恵まれているし、素敵なお仕事をなさっている方々が、
アトリエにも強い共感を寄せて下さっている。

お会いすれば多くを話さずとも通じる方がいる。
長くお付き合い出来ていて、お互い信頼で行ける方。

今日は都美術館の中原さんとお会いする。
ご自分の見解や信念をしっかり持ってお仕事をされている方だ。
誠実で謙虚な方。僕が言うことでもないが。
佐久間の仕事も評価して下さっていて、
僕が最も期待を裏切れないと思っている方の一人だ。

これからもアトリエから希望に繋がる発信をしていきたいです。
ご期待下さい。

2014年5月14日水曜日

これからのこと

明日の朝、展覧会の打ち合わせをして、
その後、三重へ行きます。

またしばらくは東京を離れます。

三重で始まるプロジェクトも良い形で繋げて行きたい。
今後のアトリエにとって重要なものになって来るだろう。

昨日は弁護士さんにもお会いした。
これからの展開を考えて行くと、法的整備が必要となるだろう。

三重ではきくちゃん、東京では柏木さんが一緒にすすめてくれている。

佐久間の役割はこれから変わって行くだろう。
現状を改善し、もっと言えば打破して行くためには、
僕は増々外へ出て行かなければならなくなるだろう。

アトリエとみんなのためになるなら、これまでのスタイルにこだわることはない。

求められていることに答えて行くのが仕事だと思う。

現場も求められたから創って来た。

こんなどうしようもない人間を必要としてくれた人達がいる。
ありがたい限りだ。

この前も書いたけれど、輝かしい現場もありました。
本当に高い次元に行って、使い切ってしまったときもありました。
一人きりで崇高なものを経験した時間。
仲間達に囲まれてお互いを見ながら場が活き活きと流れていた時間。

これは決して自慢ではないので聞き流して頂いて結構です。
仲間達がみんな笑っていることがありました。
佐久間は違う。佐久間が入ると変わる、特別な時間になる、
そういってくれました。そこにいたみんなが。
もっとやって、もっと場を創ってと、何人もの人に言われました。
どんな時間より良かったと言ってくれました。
誰よりも良かったと言ってくれました。
人生で一番大切とまで言ってくれた人もいました。
その時間を支えにして生きていると言ってくれた人もいます。

本当に場が生きて動いている場面、誰もが幸せを感じている時間、
それを見て来た多くの仲間達が佐久間の背中を押していました。
お前にしか出来ないことがある、と。

見ている人、知っている人は特別な場がどんなものか、
一度経験したことが忘れられない訳です。
残念ながらそういう次元での場を創って行ける人間は他にいませんでした。
ただ楽しそうなだけ、とかちょっと明るいとか、遊びがあるとか、
逆に真剣とか、そんな時間はあるでしょうが。
そのようなものと全く質の違うものが見いだされることもある、
ということです。

自分の仕事をを語ることは恥ずかしいことです。

三重ではよしこときくちゃんが、進めてくれていること、
東京では現場に立つイサがいて、一緒に考えてくれる柏木さんもいる。
当然ながら肇さん敬子さんの切り開いて来たものがあってこそ今がある。
離れた場所ではかつての仲間達もいつでも手伝いますと、
応援してくれている。

それぞれの思いに答えるように、目の前の仕事に挑みたい。
そして、それぞれが自分の役割を認識して、
感謝し合いながら協力して行きたい。
誰一人欠けても出来ないということを自覚して。

2014年5月13日火曜日

人と人

色んな人に会う。
社会的な立場のある方、もっと言えば偉いとか、権力があるとか、
そういった方ともお会いする機会が多い。

本当に謙虚で真摯で誠実な方がいる。
どんな立場にいてもそのような人に感動する。
そういう方と仕事をご一緒すると内容も良くなるし、こちらも成長する。
ありがたい。

最近、お会いした方々にはそのような貴重なご縁を頂いた。

世の中、その逆の方が遥かに多いから。

偉そうにしたところで、人間としての質は姿形に全部現れてしまっている。

媚びる人がいるから威張る人もいるわけだ。
媚びることほどみっともないことはない。
という以上に媚びることは無礼でもある。
媚びるということは、その人が自分の利益になると感じて、
そうするのだから、目の前で、その人が持っている物にたかっているのと一緒だ。

そういう場面を目にしなければならないのが嫌だ。
うらやむって何だろう。そんなに欲しいのだろうか。

僕達のアトリエのメンバー達は、そんな世界の真逆にいる。
どんな人も素のまま見ているから、基準が違う。

最後に残るのは人としての素の姿だけだと思う。

素の姿、そのままの形が美しい人が、稀にだけどいる。
作家達はみんなそうだけど、他にも勿論、そういう人がいる。

その人がどんな人間であれ、丸裸で触れ合う。
そこに始めて対話が生まれる。対話と言っても言葉ではなくて。
そういう形の最たるものが制作の場だと思う。

2014年5月12日月曜日

日曜日の時間

昨日は思いのほか深い場になった。
理想とする形とは違うけれど、結果は素晴らしかった。
だから理想だけではダメで、場の流れに従うべきなのだが、
かといって理想のイメージを全く持たないのもいけない。

場と言うものは無限だとつくづく思う。

場が存在するからこそ、一人一人の奥深いものが浮き上がってくる。
これだけ多くのものを見せてもらって、教えてもらって来た人間も少ないと思う。

僕が場を知ったのはずっと昔だけど、
今のアトリエでの仕事、特に土、日曜日の絵の時間に絞って考えてみても、
多くの時間を経験して来た。
一つの現場が2時間くらいで、その中にぎゅっと凝縮されている。

制作の場がすべてと言っても、
仕事としては他のことの方が生活のたいはんで、
その比率はどんどん場の方が少なくなっている。

それでも一番大切にして来たのはいつだって、その2時間だった。

大雑把に計算しても2000回を超える場に立って来た。

場に導かれる。作家達に教えられる。
見せてもらう。透明になって良い仕事が出来る時。
みんなと遥かな高みまで上って行くとき。
無数の奇跡を目の前にして来たし、体験し得ないようなものを体験して来た。
こんなにまでというほど、もらったものもある。
とことんやって来なければ見えない世界と言うのもある。
正確で的確な点を打ち続ける作業を続けた時期もあったし、
深く潜ることに注意点を注いだこともあった。
遥か高みを垣間見ることもあった。輝かしい場の後は放心してしまったり、
もうこれ以上行けない、これ以上は無理だと思ったり。
でも、良くても悪くても次の場までにはすべてを捨てて、
また最初から始めて来た。

答えはない。正解もゴールも存在しない。

ただ、作家達は凄いし、
その凄さもどこまで見せてもらえるかはこちら次第だ。

この世界にもっともっと素晴らしいものがあるということ。
次元が違うものがあるということ。
そこまで行くことが出来るということが分かったら、そこに賭けて行く。

場に入る時間はすでに以前の半分になっているけれど、
離れたことで見えて来ることも多く、それがまた場に反映されたりもする。
そしてこれまで見て来たもの、経験して来たもの、
そういった世界は作品をすら超えているし、
一人一人と僕達との大切な大切な共有財産なのだと思っている。
その世界をどんな風に使って行くのか、また伝えて行くのか、
今の僕にはまだ手をつけられない深い領域で、
見てしまったものにどうやって追いつき、人と分かち合う形をつくるか。
今後、模索して行くことも多いだろう。

2014年5月11日日曜日

体験

土曜日はお休みの人もいたが、静かな制作に入ることが出来た。

どんどん深まって行く。

今日も良い天気。

一つ一つの現場に命があり、場を離れても、
それぞれの時間が生き、成長して行く。

丁寧に作ったものを食べて行くべきなのと同じように、
丁寧に創られた場を、時間を、身体の中にこころの中に入れて行くこと。

人間を創っているのは体験だ。
大袈裟なものでも、ちゃちなものでもない、本当の体験を刻んでもらいたい。
自分自身も含めて。

2014年5月10日土曜日

汚さない動き

夜、絵具を作りながらテレサ・テンを聴いていた。
山岸さんからもらったCD。
拓巳さんからもらったピンクレディーと山口百恵のもある。
拓巳さんから来たのは、彼がどこかから持って来てしまった物だろうけど。

そんな2人も今はもうこの世にいない。
本当に不思議だ。

絵具を作っている時には、気持ちをこめることが出来る。
大切な時間だ。

人に伝えるということを僕なりに頑張って来たけれど、
そしてこれからも努力して行くつもりだけど、
実際にアトリエを見学したり一緒に過ごして来た人達には、
もっともっと大きな部分で伝わっているものがある。

そういうことを後になって言ってくれる人もいる。
ああ、ちゃんと伝わってたな、やって来て良かったなと思うし、
大切にしてくれてありがとうという気持ちにもなる。

これからはイサもそうだし、他の人達もそうだけど、
何かを感じてくれた人達が自分の仕事の中で繋いで行ってくれる。

やらなければ、やれなければ、ただの言葉にすぎない、
ということを示して来たつもりだ。
そして実際にやって見せて来た。

こころや創造性に寄り添う時に必要な繊細な動きと言うものは、
実際には様々な場所で求められるものだと思う。

海や川の音を聴いていると分かることだけれど、
流れと言うものは一時も留まることがないものだ。
人だけが、思考だけが止まってしまうし、固定してしまう。
川のようになれたら、川のように動けたら良い。それが理想だ。

大河の流れのような大きな動きをまず感じとる。
どんな場にもそれがあるのだから。
耳を澄まして聞き取れるようになること。
流れを自覚出来たら、それを最優先することだ。

何かをしようとか、してやろうという意識を捨てた方が良い。
場や流れの中でいかに邪魔してないか、違和感がないか、
そこだけを気をつけて行く。
濁ったもの澱んだもの、そういうものを持ち込まない。
人としてのいやらしさやいじわるさ、それが一番いけない。

場を汚さないこと、これが最も大切なことだ。
一つ一つの動作が自然でズレがなく、流れに重なるものになっていれば、
自分も他人も心地良く感じるものだ。

すべての瞬間が新しいし、今その場で何かが動いていて、
生まれつつある、創造性という奇跡を目の前にしていることを忘れてはならない。

2014年5月9日金曜日

やわらかいもの

さてさて、あっと言う間に一ヶ月が経とうとしている。

東京での仕上げの土、日曜クラス、良い時間にしたい。

来週少し用事が残っていて水曜日までは東京だけど、
すでに予定はいっぱいになってしまった。
打ち合わせ、ご見学の日程をお待ち頂く形となった方達、申し訳ありません。
6月に必ず。
そして保護者会も先送りになってしまいました。
こちらも6月はやりましょう。

三重との行き来でまだ良いバランスとスタイルを模索中だ。
今月は少し予定を入れ過ぎて細かな対応が出来なかった。

ご理解とご協力を頂き有り難う御座いました。
引き続きよろしくお願い致します。

東京都美術館での展覧会も近づいて来ました。
ぜひ、見に来て下さい。

不安も多い世の中になって来たし、
確かなものが求められる時なのかも知れない。
「ほんもの」とか「本質」とか、僕自身もテーマとしている言葉だけど、
そういうメッセージをよく見かけるようになった。
小林秀雄とか白洲正子とかのリバイバルも多い。
自然とか食とか身体にも注目が集まっている。
それくらい、色んなものの足場が失われてしまったのだろう。

基本的には良い流れなのだとは思う。

でも、確かなものを求めると硬くなりやすい。
ただでさえ、僕達は生きるために硬くなってしまっている。
硬くなると見えなくなる。

こんな時、ダウン症の人たちの持っている感覚を知るのは役立つと思う。

それとか、僕達が制作の場で見ているものとか、
こころや身体の使い方は、どんな時でも有効だと思っている。

確かさを求めるのではなく、もっと柔らかく流れを見る。
固定しない。力を抜く。外す。捨てる。
明晰に見ようとせずぼやっと見る。
からっぽになる。
そうしていると動いている現実に上手く対応して行ける。

本当はこの現実や世界と言うものは、柔らかくて捕らえ所のないものだ。
こうだとかああだとか言えないもので、何処までも流れて動いている。
現実は柔らかいのに、僕達の認識が硬くなっている。

柔らかい現実に触れている時、身体もこころも自由になる。
決めつけたり固定化しなければ限界もない。

漂うように流れるように、柔らかく変化に順応して行けばいい。

2014年5月8日木曜日

触れ得ない領域

別に曖昧模糊としたものが良いと言う訳ではないが、
近頃は簡単なプラスチックみたいな考えが広がっている気がする。

神秘とか言葉で言うのは容易いけど、
本当に計り知れない領域を感じたり予感したり出来ている人がどの位いるか。

戦慄とか、畏敬の念。それから恐れ。

ここから先は違うものがある、という感覚や、
触れてはならないという意識。
自分は全く知らないし、通用しない何かが確かに存在しているという実感。

世界にも人の心の中にもそのような領域が存在していて、
下手に解釈したり言葉にしたり整理することで、
分かった気になってはならないと思う。

制作の場に入るということは、
絶えずそういった感覚を研ぎ澄ませて、
真っ暗闇を(あくまで比喩だけど)何処までも突き進むことだ。

こころとか精神とか、あるいは愛であるとか、命や宇宙や、
そういうことを色々言ってみたりもするが、
僕の言っている場という観点から言わせてもらえば、
ではやってみせて下さい、見せて下さい、ということだ。
場においては、行けるのか行けないのか、出来るのか出来ないのか、
それがすべて。言い訳は不可能。
黙ってその場に立ってみれば、何処まで行っているのかなんて、
一目瞭然、みんなに分かってしまう。感じてしまうものだ。

だから良いのだと思う。ここには嘘がなくて。


2014年5月4日日曜日

いつもの時間

昨日のアトリエも最高だった。
みんな本当に活き活きしてるなあ。

ゴールデンウイーク中だけど、
こうしてぐっと深いところに潜って創造性を動かしていると、
外の騒がしさから遠く離れて行く。

今日はどの辺まで行けるだろうか。

2014年5月3日土曜日

音楽を聴く

最近、良い音楽に触れられる機会が多い。

音楽を聴いている時間が一番好きかも知れない。

ほとんどの人は世界はもう出来上がっていて、
自分はこうで、他人はこうで、外はこうなっている、と思っている。
でも、それは実はその瞬間、瞬間に創っている世界だ。
創られてしまうのがあまりに早いので、もう出来ていると感じてしまうだけ。

僕達は制作の場に入れば、ゼロから始めなければならない。
知識や経験は何の役にも立たない。
何かに頼れば、方向が固定して動きが止まる。
止まれば当然、出来上がった世界から一歩も出られない。

深いところまで入って行くためには、
出来上がったものを見るのではなく、今、この瞬間に生まれようとしている、
その運動を見なければならない。

音楽もそういうことを表している。
音楽はその場で生まれて、消えて行くから素晴らしい。

音楽ばかりでなく、絵画も他の芸術も、
固定された世界の背後にある、動きのようなものを捉えている。
この宇宙が生まれるプロセスも芸術表現のような動きと言える。

音楽を聴く体験は、こころや世界の深さに分け入って行く時の感覚とにている。

場は絶えず動き、何かが生まれつつある瞬間の連続。
敏感に反応して行かなければ、大切なものを逃す。

大事なのは俊敏な感覚を生み出す流れへの直感だ。

時に音楽はそれを与えてくれる。
今しも溢れ出て来る運動に、どう対応して行くのか。

すぐれた音楽を聴いているとき、やっぱり制作の場を思う。
こんな感覚で、こんな風に動いてみたいとか、
身体や意識の使い方、こうやって動かして行く、とか、
そういうインスピレーションが大切だ。

2014年5月2日金曜日

究極

最近、ある人を見直した。
やっぱりなんだかんだ言ってもプロなのだなあ、と。

色んな人が居る。
僕自身も含めて、時に間違いもおかす。
その時はそれが正しいと信じていても、変わって行く。
当たり前のことだけれど。

未だに青臭いけど、僕は究極のものを求めて行く。
いつまでも。何処までも。

場における究極は何もないこと。
人は何もないところから始まっているのだから、
何もないところに立ち続けられるはずだ。
何もないところにはすべてがあるが、何かがあるところには必ず何かがない。

何もない、何も持たず、何もせず、ぴたっと決まるバランス。
どこにも寸分の狂いもなく。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。