2015年12月25日金曜日

最終回

みなさん、メリークリスマス。
大きな大きな月が夜空に輝いている。

明日、明後日の土日のクラスが今年最後となる。
良い場になりますように。

さて、これでこのブログもおしまいです。
長い間、本当に有り難う御座いました。
大切に想って下さっていた方々、惜しんで下さった方、有り難うございます。

みなさんと出会えたこと、嬉しかったです。
例え離れていても素晴らしい時間を共有してきました。

ここに書いて来た全ての瞬間を全力で生きて来ました。
それらの場面は一つ一つが掛け替えのないものとして、
今も生き続けています。

作家達とスタッフが集まり、周りが大切にする思いを持つことで、
「場」と言うものが生まれます。

場から見える景色、場が僕達に見せてくれるもの、
連れて行ってくれた場所。
その時間は特別なもの。
そこから見える美しい景色を共有することが目的で書いて来ました。

もう多くは語る必要は無いと思っています。

場はたった一つのことを教えてくれました。
全ての存在するもの、人も出来事も、風景も、ここにある全部。
すべてはあるべくしてあって、必要な場所にあって、
そして輝いている、ということ。
今、そのように見えなくとも。
混沌と闇と破壊にしか見えなくとも。
苦しみの中にいようとも。

普段、僕達が見ているもの、見えている世界は、
表面的な上澄みの部分に過ぎない。
場は一つ一つの服を剥ぎ取って裸にしてくれる。

見えている世界、生きている世界、目の前の景色。
その奥の奥を見て行く。
そうするとそこには本当の光に満ちた美しい景色がある。

それを見るためにこそ僕達は生きているし、
それを深く味わうために、認識するために生まれて来たのだ。

場が教えてくれているのはこのことだけだ。

作品も人の心も、表面に現れて来る動きを通して、
その奥へ奥へ入って行こうとする。全身で感じようとする。
深く深く入って行く時、僕達は一つの動きになる。
場が示す最後の場所に立った時、僕達はすべてを見ている。
この世界のすべて。

何もかもが愛おしい。なにもかもが完璧で、何もかもが輝いている。
僕達はただただ、その場所に佇む。
言葉も時間も何も無い。そしてすべてがある。
得るものも失うものも存在していない。

これからも状況が許す限りは場に立つことだろう。
みんなと生きている喜びを分かち合って行きたい。

これで終わりです。

これから、更に良い場とそして活動を展開して行きたいと考えています。

そして、こういう形で定期的に書くことはありませんが、
何かお伝えする必要があることがあれば、その都度書くつもりです。

時々はそういう更新があるかも知れません。
こういう形で内面のことを現場以外で深く追求することは、
今後は無いかも、と思っています。どこかで形を変えてなら別ですが。
そんな意味でもこのようなテーマをこれまで書かせてもらえて、
本当に良かったと思いますし、熱心に読んで頂いて感謝しています。

みなさん、どうかお元気で。
良い意思を持つことで繋がり続けて下さい。

とんでもない時代が待っていると思います。
これから危機と困難は更に大きくなって行くだろうし、
それこそ滅びるかどうか、というところまで来ているのだと感じます。

それでも希望を失わずに、全力で生きて行きましょう。
場が見せてくれる景色、ここで描写して来たようなものから、
もし少しでも何かを感じて頂けるのであれば、
その景色、その感覚を時々思い出して下さい。
どんな状況の中でも究極のところでは僕達みんな幸せで、
もっと深くでは世界の全てが輝いているのだということを、
ほんの少しでも感じられれば、どんなに豊かになれることか。

あの場所に立っている安心感を思い出して下さい。
記憶が助けてくれると言う場面もあります。

ここで共有出来たことをお互いに大切にして行きましょう。

さようなら。
またどこかできっとお会いしましょうね。

皆さん、本当に有り難う御座いました。
これからもアトリエ・エレマン・プレザンの活動を応援して下さい。
皆様にとっても希望に繋がる展開をしていきたいと思っております。

これからもどうぞ宜しくお願い致します。

2015年12月24日木曜日

クリスマス

今日はクリスマスイヴ。
雪でも降るのではと思っていたのだけど、朝から穏やかな気候。
昨日はあんなに寒かったのに。

去年はどんなだったかなあ、と思い出そうとしても思い出せない。

記念日みたいな日は好きではなかったけれど、
最近はそう言うのあった方が良いと思っている。

幸せを感じることが出来たり、
もっと大事なことは人の幸せを願う日になれば。

東京では僕は一人だけれど、いつでも繋がりを実感出来る。

さて、今年も本当にもう終わってしまう。
このブログも次が最終回となります。

色んなこと書いて来たなあ。

人の心にも場にも終わりと言うものは無い。
そして限界もない。
だからこのブログではそのほんの入り口に触れたに過ぎない。
そこから先は感じる世界。実感と共に生きる世界。

昨日、映画「アラヤシキの住人たち」のトークに、
畏友井上宗高が舞台に上がったので、応援に行った。
みんなで飲みに行ったが気がつけば途方も無い時間話していた。
時を忘れるとはこのこと。
あの映画の中で一番好きなシーンはラストと言うか、ラストの一歩前。
何でも無い景色だ。アイスが溶けてしまうから誰が食べるのか、
と語り合っているところ。みんなが居るということ以外に何も無い景色。
でもただそこにみんなが居る景色が愛おしく奇麗だと思える場面。

同じ景色の中に居た事もあった。

何も変わらない部分と、大きく変わってしまった部分。

金沢にも帰っていない。

滋賀に居た時、色んな場所から琵琶湖を見た。
僕には帰りの電車の素朴な景色の方がよっぽど奇麗だった。
もう使われなくなった旅館を寮にして、僕らは4人くらいで生活した。
京都まで友達の車で走ったり。

サラリーマンだった人が一度一緒に働くことになって、
食堂で一緒にご飯を食べた。
それぞれのラインに戻る時、「腹一杯になったかい?」と彼が呟いた。
悲壮感が漂っていた。

僕はいつでも楽しかった。どんな条件でも肯定して行けた。

石川には海も森も山も川も、そして街もある。
寒い冬と暑い夏。

小谷村に水害があった頃、あれから1年は北陸へ向かうバスが出ていて、
電車が通れないので臨時でだったか。
崖の間を通る凄い道だった。

祖母が亡くなった日の北陸の雷も思い出す。
電車は新潟から豪雪地帯をなかなか進めず、半日かけて金沢へ。
寒かった。雪と雷。強い風。

そっと特別な景色を見せてくれた人達がいる。
その人達が居なかったら現場などやってはいなかったと思う。

それから一人一人のこころの中を一緒に生きて行くことにした。
だからここには境界は無いし、もっというなら時間もない。
時間がないから無限だ。そこに入ったらそこにずっといる。

もう説明なんてしなくていい。
場には理屈なんてないのだから。
理屈は全て時間で出来ている。言葉も時間で出来ている。
時間は限界が設定されている。

時間が消えて、無限が顔を出す。
場はそこを見続けよと、そこを生き続けよと言っている。

生の深淵。
これまで見たどんな景色も、これから見ることになるどんな世界も、
すでにこの場にあって、無限に包まれている。

僕が産まれたあの消毒の匂いのする家。
天狗の大きなお面を見て角を曲がった一軒家。
それから祖父と祖母がいた映画館の前の家。
僕は今でもずっとあそこにいて、そして2015年の東京の冬。
ここにもいる。
遥か彼方からずっと見ている視線。
人生の始まりから、終わりまで。
そしてこの世界の始まりから終わりまで。
遥か彼方から、見渡す視線。
それは自分自身のものでもある。

あんなに辛いことの連続だった人達も、今は穏やかに微笑んでいる。

今いる場所が何処なのか、これが何なのか、いつか思い出すよ、と
遥か彼方からの声が聞こえる。

この世界は途方も無い。
無限に抱かれて、そこで立っていればそれで良い。

どんな状況の中にいる人も、例えひと時でも幸せを感じられますように。
ハッピーであれる人は、この瞬間に喜びを噛み締めよう。

こころの奥にある時間の無い場所では、全てが完成されているのだから。

2015年12月21日月曜日

もうすぐ最終回

1、3週日曜午後クラスの方達、
毎年恒例のケーキの会をご一緒出来なくてごめんなさい。
僕も楽しみな時間だったのですが。

1、3週、土、日曜クラスの皆様、今年は最後に居なくてごめんなさい。
制作の時間を大切にして頂いて、いつも本当に有り難うございます。
良いお年をお迎え下さい。

日本橋の三重テラスでの企画、
素晴らしい展示となっております。
是非ご覧下さい。
どれだけ見続けても感動が薄れるどころか、深まって行きます。
本当に美しい作品達。

日曜日、ファッションジャーナリストの生駒芳子さんとトークを行いました。
素敵で楽しい時間でした。
根本のところが純粋な方だとすぐに感じたので、
お話ししていて気持ち良かったです。

充実した内容になったと思います。
トークが良かったと多くの方に言って頂きましたが、
生駒さんと皆さんのピュアさに感謝です。
都美術館の中原さん、うおがし銘茶の葉さんを始め、大好きな人達、
大切な方達が来て下さったことも嬉しかったです。

本当はまだまだ書きたいこともあり、
そして今だからこそ見えて来たこともあります。
さまざまな場や経験が去来しています。
でもそれはまたいつかどこかで。
時間を考えると、近い内に最終回を書かなければなりません。

もう終わりなのか、と。

展示の初日に来て下さった方が居た。
数年前、講演を聴いて下さって、それからこのブログをずっと読んできて
くれたと言う。もう終わりなんですね。残念です。ずっと楽しみにしていました。
そう仰って下さいました。
このページを離れた場所から大切にして下さった方達がいます。

ここに書いて来たように、自分のこころを良く見て、
人と世界を大切に、奥深くに進む気持ちがあれば、
僕達は何処にいようとも繋がっていることが出来ます。

これからも、一緒に大切にして行きましょう。

関東の方はもしお時間が許すなら、作品をご覧になって下さい。
どんな言葉より、こころの深くに届くものがあります。
そして人間は本来素晴らしい存在なのだと気づかせてくれます。

寒いですね。
皆様、お身体お気をつけ下さい。
元気でいて下さいね。

2015年12月18日金曜日

明日19日より

今日はグンと冷え込んだ。

さて、いよいよ明日から三重テラスでの展示がスタートです。
お忙しい時期かと思いますが1月7日までありますので、
お時間のある方は是非お越し下さい。

8点の作品はもう選んであるのだけど、緊張している。
今回は準備期間も少なく、そして当日まで搬入を行えないので少し不安。
前回の土、日曜の制作の場が良くて、そこで生まれた数点は、
本当は今回に相応しかったのだけど、残念ながら断念した。
乾燥の時間が必要なことと、一点入れ替えると、
全部組み直す必要が出て来てしまうこと。

作品自体はクオリティの高いものばかりで、そこには確信はあるのだけど、
いざ会場で並べてみて、上手く呼吸して馴染んでくれるか、というところ。

展示構成する時間は短い。

それでもきっときっと作品達は輝いてくれると思います。

初めて作品と出会う方も多いと思います。
楽しみにして下さい。
きっと素敵な世界にご案内出来ると思います。
あえて説明的なものは一切入れないことにしました。
絵から直接感じて頂きたいと願っています。

僕も三重テラスでまた新たに作品達に出会えることが楽しみです。

今年はスケジュールが厳しくお会い出来なかった方がたくさん居ます。
可能な日はなるべく会場に居ようと思いますので、お会い出来ると嬉しいです。

宜しくお願い致します。

2015年12月16日水曜日

僕達の中に

あまり寒くならないのは有り難いけれど、
何だか変な天気が続いている。

年末の仕事に追われ、やるべきことで出来ていないことも多い。

このブログもあと数回となってしまった。

この数年でも多くの出会いと別れがあった。

離れた場所で生きている人達をずっと思っている。
出会えたことに感謝している。

これからはより芯に入る伝え方や現場をやって行きたい。
僕自身、少しづつ在り方に変化が起きている。

ここでの言葉は場が見せてくれた美しい景色を描写する為にあった。
このブログが終わっても、どこかで話すだろうし、
直接お会いした方達にも伝えることを続けるだろう。

作品は直接、心の奥の世界を見せてくれるだろう。

ここでもやってきたように繰り返し描写していく事が大切。

イサには何度も何度も魂の場を見せて来たし、
芯に入るような情景を描写して来た。
それらの場面が彼の中を生きて動いてくれる日がくるだろう。

沢山の景色を僕に残してくれた人達が、この世から去って行った。

今僕はここにたった一人で座ってこれを書いている。

僕のことを佐久間さんは来る者は拒まず去る者は追わずだね、
と言った人がいるがそれは違う。
場と言うものは、いや、人生自体がそうなのかも知れないが、
来る者は拒むことは出来ない、去る者は追うことが出来ない。
それがこの世界の掟であるとも言える。
場はいつもやさしく、そして、厳しかった。
そこでは、どんなことも自分が決めて行くしかない。
自ら落ちて行く人、罠に嵌って行く人、逃げて行く人、
道から逸れて行く人。
手を差し伸べることは出来ない。それが場の仕組みなのだから。

僕達は明日どうなるのか分からない世界にいる。
この瞬間に良いものを残さなければならない。
目の前にいる人と一緒に行けるところまで行っておかなければならない。

僕の師匠だった禅の老師さんと名古屋の街を歩いたことがあった。
「のっぽ、お前が次にここを歩いた時、もうこれはないぞ。わしも居ない」
急にそう言われて、何も答えられなかった。
あの時の景色は忘れられない。そして言葉通りになった。

学舎時代、親方と金沢まで電車に乗ったことがあった。
東京から乗ったのだから、あれは学舎に居た頃ではなかったのだろうか。
記憶が定かではない。
その前後に父と会っていた気がする。
父がそば屋の戸をバーンッと乱暴に開け「もりくれっ」と怒鳴ったのが、
記憶の片隅にある。
親方とは電車の中で運命や神や、宇宙に他の生命体が居るのかについてや、
世界に終わりがあるのか、宇宙のどこかに天国があるのか、
等と少年のように純粋に語り合った。
金沢までかなりの時間をかけて走る電車で、通過する場所によって寒さが厳しかった。
あの電車ももう無い。

やまちゃんもノブちゃんもたくみさんも、そして片山さんも親方ももう居ない。

人生の全てが凝縮されたような素晴らしい現場がいくつもあった。
一緒に居た人達はため息をついたり涙を流したりした。
これ以上のものはない最高の瞬間。
僕らはその景色を一緒に見て来た。

大きな木が目の前にある。それを見上げると、どんどん視点が上に上がって行って、
その木自体も途方も無く大きくなって行く。
僕は別の目で別の世界を見ている。ここはいったい何処だろう。

悠太の声。「上かなー、下かなー、何処かなー」。
ここは一体何処だろう。夜の闇が何処までも広がる。

沖縄の陽射しの中で中年の男が言った言葉「ずいぶん遠くまで来てしまったなあ」
本当にいつの間にか、遠いところまで来てしまった。

ハルコの声。「もっと深く掘って。お空まで届くまで」
僕達は掘り続ける。日は暮れて行く。

身体の奥が揺れ続けていた。
津波の映像を見続けて、自分自身が大きな波となったようで、
全てが壊れ、流されて行く動きそのものとなっていた。
何の感情も感覚も思考も動かず、ただ大きな大きな波と化していた。
やがて奥の方から光が射し、調和に包まれて行った。
世界はそれでも輝くものとしてそこにあった。

ピグミーの歌声。何層にも何層にも折り重なって、
無数の線がそれぞれの道を走りながら分け入りながら、
無限のように、どこまでも複雑に混ざって行く。
それぞれはバラバラに動きながら、全体は一つの声を出している。

古代の人類が洞窟に描き残した壁画のように。
無数の時間と無数の空間が、一つの画面の中で重なっている。

夢の中のようなタルコフスキーの映画。その映画の中にこの世界があるかのように。

友枝喜久夫が舞っている。柔らかく無限と戯れる。
全ては仮のもの、仮の姿なのだと。
ここは夢の中で、全ては鮮やかな光の戯れなのだと。

一つの場が語ってくれること。
この光り輝く場所に、この世界の全てがあるのだと。

僕達はみんな終わりの場所に立って微笑み合っていた。
全ては本当に美しい。
だからどんなことがあっても大丈夫だよ。
この景色を見にこうね。忘れないでいようね。
ここでこそみんなが安心して仲良く一緒に居れるのだから。

そして、いつでも、どんな瞬間にも、その場所はある。
一人一人の心の奥深くに。

2015年12月14日月曜日

厳格な掟

最近は天気予報がなかなか当たらない。
今日もちょっと変な天気だった。

本当は少しセンチメンタルな内容で書きたいテーマがあるのだけど、
どうも今は違うのかも知れない。

今日も場の話だ。

繰り返すが絵は僕達にとっては目的ではない。
過程が正しければ良い作品は生まれる。それは結果に過ぎない。
ただ言えるのは高い質を持った作品が生まれていないのであれば、
プロセスに間違いがある、ということだ。
ここを弁えないで仕事をしている人が多いのであえて書いている。

さて、場にはそれ以上に大切なものがある。
前回も書いたように、一つの場において、一人一人が生ききるということだ。

長年、場と言うものを生きて来て、
場が素晴らしいと思う部分は、人の尊厳が現れるところだ。
人はそのままの姿が一番美しく、そして尊厳に満ちている。

自分の尊厳を奪ってはいけないし、まして他人の尊厳を奪ってはいけない。

場から見るなら、外の世界は嘘にまみれている。
媚び、諂う人間はそれによって自分が得をしようとしているのだから、
自分で自分の尊厳を奪ってしまっている。

地位も名誉もお金も、いざとなったら何の役にもたたないことを忘れいる。

いくら誤摩化しても場では見えてしまう。
立場が偉い人を恐れる人が多いが、それも自分が得をしたいからだ。

自分が何も貰う必要がなければ、誰のことも恐れることは無いだろう。

持ち物で自分を語り、立場で威張って見せているだけの人間に、
媚びるということは、たかって生きて来た証だ。

それよりも尊厳と言うものは立っていただけで漂っている。
絵でもそうだけど、1本の線だけで決まってしまう。

これからの時代、これまで通用して来た様々な道具が使えなくなって行くだろう。
色んなものを失って行ったとき、その人がそのままの姿で、
裸でその場に立って尊厳を持ち続けられるか。

場においては、上っ面の誤摩化しは全てはぎ取られる。
誰がする訳でもなく、場がそうするのだ。
威張っている人ほど惨めな姿が曝されるだけ。
弱くても素直であれば場から愛され、可愛がられる。

化けの皮を剥がされると言うよりも、最初から裸にさせられてしまう。
そこであたふたと逃げ回る惨めな人をこれまで、何人見て来ただろう。

ここにいる人達の方が遥かに立派なことは見てみれば一目瞭然だ。

だから場は本当の意味で平等だと思うし、
平等はなかなか怖いですよ、と言いたい。

場には厳格な掟がある。
僕はそれを忠実に守って来た。
作家達を見ていても、時に誤摩化したり逃げようとしてみたり、
僕達と変わらない姿を見せたりもするが、
最後のところで素直に前に進む姿は素晴らしい。

ここではみんなが場の仕組みをしっているし、
どうすれば人や自分が輝くのか分かっている。

見ていて人間と言う存在は美しいな、素晴らしいな、凄いな、
と思える場面が沢山ある。
自然の中で、ただ裸で何も持たずにその場に立っている姿。
自分の全てを賭けて一つの行為を行う。
尊厳に満ちた裸の存在同士が、全身でやり取りする。
響き合う。
相手を感じて、お互いを気持ち良くしようとする。
感じ合う。

今何のためにここにいるのか、感じてみよう。

2015年12月13日日曜日

場の神が降りて来る

土、日曜日のアトリエを終えて、沢山のことをまた教えられている。

本当に良い現場だった。
作家達の凄さが溢れ出ていた。
全員が最高の水準で制作していた。

そして、スタッフとしての自分の仕事、役割としても、
驚くほど正確で奇麗に動けていたし、必要なところで芯を捉えて、
深いところにぐっと入ることが出来ていた。

スポーツ選手や勝負事の世界を生きている人達、
あるいは芸術や芸能等の人達であれば、
最高の出来の時に神が降りて来たかのような瞬間があるだろう。
僕達の場を創るという仕事においてもやはり、そういうことはある。

よく言われるゾーンに入るというような。

やって来て良かったなと思える時だし、最高の幸せを感じる。

僕達の場合は良い時、悪い時が無いように、いつも一定の水準は保っているし、
かなりのレベルで仕事しているという自負はある。

それでも時に次元の違うような神懸かりのようなことが起きる。

この2日間は特に良かったけど、
この一年くらい、僕の入る現場はもう一段深まって来ていると感じていた。

これは不思議なことだ。
僕自身の感度は確実に落ちているし、腕も落ちている。
それははっきりと分かっていて、冷静に自覚している。
けれど、場自体はむしろ質が高くなっている。

不思議なことだし、場が何かを教えてくれているのだと思う。

いずれにしても僕の力ではない。

でも確かなことは作家もスタッフも全員がその瞬間全力で生きている、
ということ。
出し切っている、ということ。

全力同士が響き合うことほど楽しいことは無い。
生命が喜び活性化する瞬間だ。

可能性を閉じない、ということ、活き活きと全身全霊でその場を生きること。
そのことの大切さを噛み締めている。

出来なくなって行くことは多くても、
よりシンプルに力強くなれるのかも知れない。

それにしても一人一人の命の力や輝きがどれほどのものなのか、
思い知らされる。

分かり易く言えば場はチームプレー。
誰一人欠けても最高の時間にはならない。
自分を捨てて、場にとって良いプレーを出し合う姿。
社会全体がこの一つの場のようになれば、どんなに良いだろう。

人間にとっての基本は場の中に全部あると思っている

2015年12月12日土曜日

南風が運んで来たもの

昨日は本当に不思議な一日だった。
特別な時間。

雨があがり、気温が上昇して来てから、まるで天国のような景色が。

何だろう、何だろう、この懐かしさは、と。
ちょうど、2回に渡って夢の認識について書いたところだった。

世界は時に本当に美しいものを見せてくれる。

溶けるような、消え入るような景色を前に、
様々な場面が甦って来る。そのどれもが霞みがかっていて懐かしい。
それでも細部までぼやけている訳ではなく、どこまでも新鮮でもある。

ここはやっぱり夢の中。

この瞬間を大切に生きて行こう。
目の前の出来事や、今ここにいる人達のかけがえのなさ。

最近も濃い内容のブログとなっているけど、
もうすぐ終わるので置き土産のつもり。

今日もみんなと一緒に幸せな時間を、
命の輝く瞬間を場の中で実現して行きたい。

そしてどんな作品が待っているのだろうか。

2015年12月11日金曜日

夢の中を生きる

夜から強い雨が降り続けた。
雨があがって南風が生温い空気を運ぶ。

前回、かなり深いところまで書いた。
場の中で世界が夢として見えて来る、ということについて。
何度か夢の自覚、みたいな感覚について語ったと思う。

これが実は場とか人間の本質に関わる重要なことなのだと思う。

場に入れば僕達は全ての先入観を外して行かなければならない。
思い込みや、これまでの世界観を捨てなければ、
今この瞬間を動いているものを捉えることは出来ない。

きっかけはそんなことから始まったのだと思う。
最初の頃は出会った人の数だけ、
行った場の数だけ、めくるめく新しい景色が現れた。
どれもこれもが真実で、世界は一つではない、
自分が生きている世界だけが全てではないと知った。

場を生きる、ということは無数の人生、無数の現実を同時に生きるということだ。
でもそれだけではない。
一人一人の問題と向き合う時、その人が今ある世界を固定してしまった時に、
こころが歪んで行くことは明白だった。
人や環境や社会によって、歪んだり偏ったり、
ボロボロになってしまっている心もある。
一つ一つ解して行くということは、極端に言えばその人の世界を消すということ。
個性を消すということではない。
世界を消す。世界と言うのはこれが現実だ、という固定された形だ。
それが人を縛っている。
その形を現実として認識してしまって、他の人にも押し付けて行く。
こうしてお互いがお互いを縛って身動きが取れなくなる。
混乱や争いや病はすべてここから来ている。

だから無数の現実があるという認識だけでは先へ行けない。
何処でその現実、その世界を創ってしまって固定してしまったのか。
どうすればそこから自由になれるのか。
それこそが場が教える要となる。

現実と思い込んでしまっている世界を消す。
これによってしか、心が本来の自由な動きを取り戻す方法は無い。

場はその辺りから変わり始める。
何かが現れてもそれを決まったものとしては見ない。
背景を読もうとするし、動きを見ようとする。
触れ方もべったり触ったりはしない、もっと柔らかくそっと触れて行く。
ここからは動きはより微細になる。
人も世界も現実も、そして心と言うものも、確固としたものではなく、
柔らかい動きの中にあるのだと分かって来る。
そう、夢のようだと。
ならば現れている世界を夢のように見て行く必要があるし、
夢のように動き、夢のように扱わなければならない。

場は夢のようだという認識が生まれ、その先では全ては夢なのだという感覚になる。

そして日に日に夢の自覚が深まり、夢の中を生きているという認識が生まれる。

ここは夢で、僕達は夢の中を生きている。

瞬間瞬間を幻として認識し、夢として触れて行けた時に、
まっさらな本当の姿として、僕達は世界に出会うことが出来る。

夢の中を生きる感覚は、終わりから振り返るように生きて行く安心感と同じだ。
もうすでに全てはとっくの昔に終わっていて、
今ここにあるものはみんな、思い出のようなものなのだ、という感覚。
終わりの中には完成があり、完璧な調和がある。
この瞬間を、今を、ここにやって来る出来事を、
全力で生きているのに、何故か懐かしい気持ちになる。
この瞬間はずっとずっと昔にあったもの、
それをこうして全く同じように再現している。
夢の中を生きる。夢の中を走り抜ける。
様々なあたたかくやさしく美しい景色と出会いながら、
全ての瞬間と人を愛して、夢の中を何処までも舞うように。

みんな素晴らしいね、と思うし、全ての場面が美しい。本当に。

言葉では比喩としてイメージでしか伝えることは出来ない。
いずれにしても、場は深い場所で人間の本質に触れている。

2015年12月10日木曜日

「夢」「予感」「回帰」そして「終わり」を見ること

今日は寒いですねえ。
ジャンパー着て書いています。

色んな人に会うけど、本当に大変な時代に入っているのだと思う。
求めている気持ちも切実なものとなっている。

だから、もういい加減なものへは構ってはいられなくなるのではないか。

もっとも僕達からすれば、ずっと場と言うものに向き合って来て、
そこには人間の本質的なものが現れているから、
一瞬たりと簡単な場面は無い。
困難と向き合って、少しでも何かが見えてくるようにしていく。
その連続が現場なのだから。
むしろ、社会的な流れが上手く行っている時は、
ほとんどの人は本質に向き合おうとしない。

差別とか偏見をなくすべきだと多くの人は思うだろう。
でも、大切なのは気づくこと。
人間はどんな時も思い込みに生きていて、多くのことを見落としているのだから。
そこに気がつかないで、外の世界のせいにばかりしていてはいけない。

全ての混乱の元は人の心の歪み、偏りから生まれている。

場と言うのはそこに向き合って行って、何が問題を生み出しているのか、
しっかりと認識して、その限界を超えて行くことだ。

一言で言うなら場は人を幸せにする。
でもそのためには汚いものにもしっかり触れて行く必要がある。

場においては「場に入る」という状態が必要だ。
それが無ければただ表面を撫で回すだけで終わってしまう。
一生そうしている人だっている。

「入る」ということをしなければ何も始まらない。
そして、もっと言えば「深く入る」ことだ。

そうすれば普段見えていない物事の本質が見えて来る。
歪みや偏りが何処にあるのか、それをどうやって解して行ったら良いのか、
感じとれるようになるだろう。

人の心の中で良いことも悪いことも起きているが、
起きていること自体が問題なのではなくて、そのことへの反応だ問題だ。
全ては変化の中にあるのに、良いもの、悪いものを固定して、
世界や物語を自分で作りあげてしまう。
そこにその人の癖が出て来る。これが偏見の元となっている。

場においては動いている心は変化の中で見ている。
現れているものより、その動きを見ている。
そうでなければ創造性のような心の動きは見極められない。
柔らかく変化するものを動きの中で扱って行く。

様々な抑圧を外して行くと、自由で豊かな動きが戻って来る。
その本来の自由な動きの中からしか良いものは生まれない。

この世界が夢のようなものだと僕が言うのも、
変化と言うものがどのような形をしているのか描くためだ。
人が現実と呼ぶものは自ら作りあげた限界に他ならない。
そのような現実は本当は存在しない。
いつでも解釈して構成して、必死になって作り続けているだけのこと。
自分に限界を作ってそこから出られなくなった人が、
他人にも限界を設定して行く。
個々の形の違う限界同士が争いを起こす。

場から見るなら、はっきりと固定されて、ここまでと言えるような現実は無い。
良いものも悪いものもその場でそのように見えるだけで、
本当にあるのは変化と言うものだけだ。

だから夢のようだと言う訳だ。

場に深く入った時、そこでは行き来する全ての現象が夢として見える。
あるいは幻の中にいるという認識が保たれる。

世界は夢の中で、何の滞りもなく透明に澄み渡っている。

僕達はこの場と言う片隅、あるいは部分の中にいるが、
大きな全体の気配や予感がある。

「居場所」や「安心」は全体への予感からやって来る。

こう言っても良い。
安心は「終わり」からやってくる。

「終わり」は遥か彼方にあって、今ここにある。
深く入るとは瞬間の中で「終わり」を見てしまうこと。

「終わり」は全てを輝かせている。
大丈夫なのだと、どのようなものも瞬間も、
終わりの中で完成されていて、すべては美しいのだと。

世界の全てが一枚の絵のようにはっきりと見えて来る。
それが「終わり」の景色だ。

僕達はそこにいて、再び帰って来て、この場を生きている。
進むことは遡ること。
あらゆる動きは回帰だと言える。

場の中で一つ一つの場面をもう知っていると言う感覚や、
ずっと前に起きたことだな、と言う感覚は、
全体への予感であり、終わりから見た景色だ。

そして、僕達の生きているこの世界も、
僕達の人生も、どこかでもうすでに知っていることなのではないか。

生きることは繰り返しなぞること。
進むことは回帰すること。

この認識を持てた時、僕達は本当に安心して安らかに生きて行くことが出来る。

場が教えてくれたことだ。
荒唐無稽に思える方もいるかも知れないが、
こういう情景が自分を助けてくれることもある、
人を助けることもある、ということをどこかで少しでも思い出してもらいたい。

2015年12月9日水曜日

普遍的なもの

太陽はごちそう。
北陸のどんよりとした気候で生まれ育ったから、
本当にそう思う。冬場でもこうして日が照る時間があって幸せだ。

三重テラスでの展示に向けての作品選定がほぼ終わった。
限られた条件の中だけど楽しんで頂けるものとなるだろう。
額を良いので行ければ本当に良かったと思うが仕方ない。
その分、中身で勝負。
8点の作品はキャプションもいれず、無駄な説明を行わない。
純粋に絵の世界を感じて頂きたいと思う。
一点一点じっくり見て頂ければと。
ダウン症の人たちの豊かな文化に触れて頂きたい。

そして、展示の時期に書くことではないかも知れないが、
僕達は見せるために制作する訳ではない。
むしろ見せること、見られることから遠くにいるからこそ、
純度の高いすぐれた作品が生まれるのだ。

最近、いたずらに人に見せるために作品制作が行われている風潮がある。
様々な場所で本質に全く触れない、イベントや企画が行われている。

僕達は責任を持って意味ある活動、本質に触れる動きを続ける必要がある。

毎度言うことだが、10年後に何が残っているでしょうか?

一番大切なのは場であると、これは何度でも強調したい。
場での充実感の欠如を外での企画によって誤摩化してはいけない。

場に入って響き合うこと。そこで生きていること。
幸せを共有して行くこと。
それが僕達の仕事であると思う。

展覧会や他の企画は社会と繋ぐためであり、
充分に満たされた幸せをギフトすることだ。
それから知ってもらうこと、感じてもらうこと、
一緒に大切にして行きたい何かに気づいてもらうこと、
仲間の輪を広げて行くこと。平和を共有していくこと。

もう20年、場と言うものを通して、人の心を見て来た。
社会の中で、あるいは関係の中で人の心が傷つき、壊れて行く場面。
小さく萎縮してしまう場面。積み重なって身動きが取れなくなっている人。
人が生きるということは、本当に難しいことだ。
自由な囚われのない心を取り戻さなければ、真の平和などありえない。

人の心が自由に動いている本来の姿。
ダウン症の人達の作品はそれを示している。
今の世の中が最も必要としているものだ。

彼らを理想化している訳ではない。
彼らも僕らと同じく、様々な心の歪みを抱えてしまうし、
傷つき蓄積された影響によって身動きが取れなくなる場合もある。
だからこそ、本来の状態に近づいてもらう制作の時間を創っている。

彼らが本来の状態であれる時、そこで示される心の在り方こそが、
僕達も含めた全ての人間の根源にある姿なのだと言える。

多くの人がこの調和の輝きと出会うことを願うばかりだ。

2015年12月8日火曜日

こころから

土、日曜日の制作、とても良かった。
みんなと一緒に場に立てることを本当に幸せに感じる。

小さなアトリエでスタッフも不足している。
沢山の要望にお応え出来ていない。
でも、ささやかながらお受けしたお話や、
出会った方々へ心を込めて向き合って行きたい。

あれも足りない、これも足りない、と数えればきりがない。
その中で今何が出来るのか。出来ることを一生懸命にやっていく。

難しい時代にも入って来ているので、
運営面でも経済的な部分で厳しい状況におかれている。

どんな時でも最善を尽くすしか無い。

今日は曇りなのかな。

様々に書いて来たけれど、言葉で行けるところはこのくらいまでかな、と思う。
後は場のようにどれだけ、共有して行けるのか。

三重テラスでの小さな展示会は、今年最後の企画ということもあり、
そして沢山の状況を受け止めると、質の高い仕事で答えなければ、と思う。
条件的には難しい展示だけど、必ず良い企画になるように頑張ります。
ご期待下さい。出品される作品は8点ですが、その中でエッセンスを見て頂きます。
作品選定は今回は佐久間が一人で責任を持って行います。
8点の作品がダウン症の人達が共有している豊かな文化全体を、
感じて頂く入り口となれば、と思います。

人を幸せにしたい、という思いは大袈裟だしおごりだと思っている。
でも、少なくとも僕達が生まれて来てここにいるのは何のためなのか、
考えるとやっぱり目の前にいる人を楽しませたい、喜ばせたいと思う。
制作の場はそれだけを見るという生きる基本なのだ。

快、不快の感覚を大切にすると言うのもそこから来ている。
これらは基本だ。

僕は場において基本に忠実にやってきたと自覚している。
これからも更にシンプルに基本を守って行く。
みんなが気持ち良いということが大事だ。
感覚が鈍ると気持ち良さも感じないから、ここがなかなか難しい。

伝え方も在り方も、これからより直接的なものになって行くだろう。

人はもっともっと自由になれるし、
もっと素晴らしい世界に生きることが出来る。
抑圧されて小さく縮こまってしまった心を解放して、
本当に広い広い、無限のような場所に辿り着いて、
そこで幸せを感じてもらう。
それこそが僕達の仕事だと思う。

2015年12月4日金曜日

もう12月。
毎年この時期が来ると、一年が本当にあっと言う間に感じられる。

小谷も金沢も雪が降っている。

みんな元気でいて欲しい。

忙しいけれど、一緒に仕事してくれている人達はもっと忙しそう。

明日は制作の現場。
本当に場に立つよりも外で仕事する時間の方が多くなった。

それだけに場に還元出来るようにしていきたい。

どんな仕事も求められていることには答えて行きたい。

外は冷えるから、明日は気持ちも暖まる場になりますように。

深く深く、一緒にいられるように。

場を共に出来ない仲間達や、いつでも繋がっていてくれる人達。

みんなの幸せを一つの場の中で実現して行こう。
誰のことも忘れない。

前にも書いたけど、心の深くで、皆のいる場所に僕は行く。

場と言う船に乗って、みんなと一緒に、みんなのところへ。

何処までも行こうと決めたから、約束したから、みんなで進み続ける。
何処まで行くのかは分からない。
でも、その過程で沢山の美しい場面が見えて来る。

一緒にいっぱい見て来たね。

深く深く潜って行く。奥の奥に輝く場所があるから。

2015年12月3日木曜日

脱皮中

皆さんこんにちは。
冷え込んできましたね。

ようやくブログ更新します。
12月で区切ることに決めたので、本当に残り少ない時間となってしまいました。

今年も女子美術大学でお話しさせて頂きました。

そして、12月19日より日本橋の三重テラスにおいてミニ展示を行います。
トークも予定しています。
http://www.pref.mie.lg.jp/TOPICS/201511039420.pdf

あと何回くらい更新出来るのだろうか。

これまでのブログを少し思い出してみると、それは場に関する物語だった。
場が僕に見せたもの、場が僕に伝えたこと。

場は円を描き、その円はぐるっと回り閉じられて行く。
そんな気がしている。
ここで書いて来た全ての情景は今も鮮やかに思い出すことは出来るが、
同時に過ぎ去って行って過去となった。

これからまた新たな物語が始まることだろう。

これからも場に立ち続けることだろう。
でもそれはこれまで語って来たこととは違っているだろう。

最近、特に自分自身のことを意識したり考えたりするようになった。
そして、自由になった。
身体も気持ちも変化している。

皮が一枚一枚剥がれて、目から鱗が落ちて行く。

場に出会った頃から重要な使命と責任を背負って来た。
その道に進むために、かなり自分を改造して来た。
気がつけばサイボーグのようになっていた。
それが嫌なのではなく、一つの答えだと思って来た。
そして、今でも間違っていたとは全く思わない。
サイボーグと化さなければ出来ないことがあったから。
でも、その先があったことがようやく分かった。

人の心をずっと見て来た。
どんなに人が自分を制限し限界を作っているのか。
どれだけ自分で自分を縛っているのか。
無駄なものをとって行って削いで行って、本来の自由を知ってもらう。
それが僕の仕事だった。

場に立てば、当然人の心も自分のこころも明晰に見える。

でも日常生活ではそうはいかない。
いざ自分の人生となれば、手に負えない。

人のことは見えても自分のことは見えていない。

そこに気がついた。

力が抜けて、解放された。
長い時間の間で改造された部品を一つづつ取り外して、
何も無い元の状態に戻って行くプロセスを実感している。

一つのサイクルが閉じようとしている。
僕はより自由で新鮮な眼差しでかつての自分や場を味わっている。

脱皮はまだゆっくりと進行している。

これから仕事の上でもどんな風に変化して行くのか分からないけれど、
一言で言えば、もっと深い安心感や開放感を描写出来るようになれるかも知れない。
場においても。

現場でも他のことでも最終的には、ああ、大丈夫だなあとか、
すっと抜けると言うか、そういう隙間を作るために存在出来るのが理想。

生きていると言うこの現実、命や世界は本当に深い。
その深さをちょっと感じようよ、ということで、
それが出来たらもっと色んなことや人に優しくなれるはず。

人間に必要なのは、この場にいてどれだけ充実感を持てるかということだ。

人も世界も本当に深くて素晴らしいもの。
もっと見て、もっと感じよう。それを単純に実行するのが一つの現場なわけだ。

今度の土、日曜日クラスもそんな時間になって、
終わってみれば煌めくような作品に囲まれ、みんなの笑顔が溢れている、
そんな景色が見られれば良いと思うし、
僕達はいつでも響き合ってその場所まで行くだろう。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。