夜から強い雨が降り続けた。
雨があがって南風が生温い空気を運ぶ。
前回、かなり深いところまで書いた。
場の中で世界が夢として見えて来る、ということについて。
何度か夢の自覚、みたいな感覚について語ったと思う。
これが実は場とか人間の本質に関わる重要なことなのだと思う。
場に入れば僕達は全ての先入観を外して行かなければならない。
思い込みや、これまでの世界観を捨てなければ、
今この瞬間を動いているものを捉えることは出来ない。
きっかけはそんなことから始まったのだと思う。
最初の頃は出会った人の数だけ、
行った場の数だけ、めくるめく新しい景色が現れた。
どれもこれもが真実で、世界は一つではない、
自分が生きている世界だけが全てではないと知った。
場を生きる、ということは無数の人生、無数の現実を同時に生きるということだ。
でもそれだけではない。
一人一人の問題と向き合う時、その人が今ある世界を固定してしまった時に、
こころが歪んで行くことは明白だった。
人や環境や社会によって、歪んだり偏ったり、
ボロボロになってしまっている心もある。
一つ一つ解して行くということは、極端に言えばその人の世界を消すということ。
個性を消すということではない。
世界を消す。世界と言うのはこれが現実だ、という固定された形だ。
それが人を縛っている。
その形を現実として認識してしまって、他の人にも押し付けて行く。
こうしてお互いがお互いを縛って身動きが取れなくなる。
混乱や争いや病はすべてここから来ている。
だから無数の現実があるという認識だけでは先へ行けない。
何処でその現実、その世界を創ってしまって固定してしまったのか。
どうすればそこから自由になれるのか。
それこそが場が教える要となる。
現実と思い込んでしまっている世界を消す。
これによってしか、心が本来の自由な動きを取り戻す方法は無い。
場はその辺りから変わり始める。
何かが現れてもそれを決まったものとしては見ない。
背景を読もうとするし、動きを見ようとする。
触れ方もべったり触ったりはしない、もっと柔らかくそっと触れて行く。
ここからは動きはより微細になる。
人も世界も現実も、そして心と言うものも、確固としたものではなく、
柔らかい動きの中にあるのだと分かって来る。
そう、夢のようだと。
ならば現れている世界を夢のように見て行く必要があるし、
夢のように動き、夢のように扱わなければならない。
場は夢のようだという認識が生まれ、その先では全ては夢なのだという感覚になる。
そして日に日に夢の自覚が深まり、夢の中を生きているという認識が生まれる。
ここは夢で、僕達は夢の中を生きている。
瞬間瞬間を幻として認識し、夢として触れて行けた時に、
まっさらな本当の姿として、僕達は世界に出会うことが出来る。
夢の中を生きる感覚は、終わりから振り返るように生きて行く安心感と同じだ。
もうすでに全てはとっくの昔に終わっていて、
今ここにあるものはみんな、思い出のようなものなのだ、という感覚。
終わりの中には完成があり、完璧な調和がある。
この瞬間を、今を、ここにやって来る出来事を、
全力で生きているのに、何故か懐かしい気持ちになる。
この瞬間はずっとずっと昔にあったもの、
それをこうして全く同じように再現している。
夢の中を生きる。夢の中を走り抜ける。
様々なあたたかくやさしく美しい景色と出会いながら、
全ての瞬間と人を愛して、夢の中を何処までも舞うように。
みんな素晴らしいね、と思うし、全ての場面が美しい。本当に。
言葉では比喩としてイメージでしか伝えることは出来ない。
いずれにしても、場は深い場所で人間の本質に触れている。