2015年12月11日金曜日

夢の中を生きる

夜から強い雨が降り続けた。
雨があがって南風が生温い空気を運ぶ。

前回、かなり深いところまで書いた。
場の中で世界が夢として見えて来る、ということについて。
何度か夢の自覚、みたいな感覚について語ったと思う。

これが実は場とか人間の本質に関わる重要なことなのだと思う。

場に入れば僕達は全ての先入観を外して行かなければならない。
思い込みや、これまでの世界観を捨てなければ、
今この瞬間を動いているものを捉えることは出来ない。

きっかけはそんなことから始まったのだと思う。
最初の頃は出会った人の数だけ、
行った場の数だけ、めくるめく新しい景色が現れた。
どれもこれもが真実で、世界は一つではない、
自分が生きている世界だけが全てではないと知った。

場を生きる、ということは無数の人生、無数の現実を同時に生きるということだ。
でもそれだけではない。
一人一人の問題と向き合う時、その人が今ある世界を固定してしまった時に、
こころが歪んで行くことは明白だった。
人や環境や社会によって、歪んだり偏ったり、
ボロボロになってしまっている心もある。
一つ一つ解して行くということは、極端に言えばその人の世界を消すということ。
個性を消すということではない。
世界を消す。世界と言うのはこれが現実だ、という固定された形だ。
それが人を縛っている。
その形を現実として認識してしまって、他の人にも押し付けて行く。
こうしてお互いがお互いを縛って身動きが取れなくなる。
混乱や争いや病はすべてここから来ている。

だから無数の現実があるという認識だけでは先へ行けない。
何処でその現実、その世界を創ってしまって固定してしまったのか。
どうすればそこから自由になれるのか。
それこそが場が教える要となる。

現実と思い込んでしまっている世界を消す。
これによってしか、心が本来の自由な動きを取り戻す方法は無い。

場はその辺りから変わり始める。
何かが現れてもそれを決まったものとしては見ない。
背景を読もうとするし、動きを見ようとする。
触れ方もべったり触ったりはしない、もっと柔らかくそっと触れて行く。
ここからは動きはより微細になる。
人も世界も現実も、そして心と言うものも、確固としたものではなく、
柔らかい動きの中にあるのだと分かって来る。
そう、夢のようだと。
ならば現れている世界を夢のように見て行く必要があるし、
夢のように動き、夢のように扱わなければならない。

場は夢のようだという認識が生まれ、その先では全ては夢なのだという感覚になる。

そして日に日に夢の自覚が深まり、夢の中を生きているという認識が生まれる。

ここは夢で、僕達は夢の中を生きている。

瞬間瞬間を幻として認識し、夢として触れて行けた時に、
まっさらな本当の姿として、僕達は世界に出会うことが出来る。

夢の中を生きる感覚は、終わりから振り返るように生きて行く安心感と同じだ。
もうすでに全てはとっくの昔に終わっていて、
今ここにあるものはみんな、思い出のようなものなのだ、という感覚。
終わりの中には完成があり、完璧な調和がある。
この瞬間を、今を、ここにやって来る出来事を、
全力で生きているのに、何故か懐かしい気持ちになる。
この瞬間はずっとずっと昔にあったもの、
それをこうして全く同じように再現している。
夢の中を生きる。夢の中を走り抜ける。
様々なあたたかくやさしく美しい景色と出会いながら、
全ての瞬間と人を愛して、夢の中を何処までも舞うように。

みんな素晴らしいね、と思うし、全ての場面が美しい。本当に。

言葉では比喩としてイメージでしか伝えることは出来ない。
いずれにしても、場は深い場所で人間の本質に触れている。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。