今日は寒いですねえ。
ジャンパー着て書いています。
色んな人に会うけど、本当に大変な時代に入っているのだと思う。
求めている気持ちも切実なものとなっている。
だから、もういい加減なものへは構ってはいられなくなるのではないか。
もっとも僕達からすれば、ずっと場と言うものに向き合って来て、
そこには人間の本質的なものが現れているから、
一瞬たりと簡単な場面は無い。
困難と向き合って、少しでも何かが見えてくるようにしていく。
その連続が現場なのだから。
むしろ、社会的な流れが上手く行っている時は、
ほとんどの人は本質に向き合おうとしない。
差別とか偏見をなくすべきだと多くの人は思うだろう。
でも、大切なのは気づくこと。
人間はどんな時も思い込みに生きていて、多くのことを見落としているのだから。
そこに気がつかないで、外の世界のせいにばかりしていてはいけない。
全ての混乱の元は人の心の歪み、偏りから生まれている。
場と言うのはそこに向き合って行って、何が問題を生み出しているのか、
しっかりと認識して、その限界を超えて行くことだ。
一言で言うなら場は人を幸せにする。
でもそのためには汚いものにもしっかり触れて行く必要がある。
場においては「場に入る」という状態が必要だ。
それが無ければただ表面を撫で回すだけで終わってしまう。
一生そうしている人だっている。
「入る」ということをしなければ何も始まらない。
そして、もっと言えば「深く入る」ことだ。
そうすれば普段見えていない物事の本質が見えて来る。
歪みや偏りが何処にあるのか、それをどうやって解して行ったら良いのか、
感じとれるようになるだろう。
人の心の中で良いことも悪いことも起きているが、
起きていること自体が問題なのではなくて、そのことへの反応だ問題だ。
全ては変化の中にあるのに、良いもの、悪いものを固定して、
世界や物語を自分で作りあげてしまう。
そこにその人の癖が出て来る。これが偏見の元となっている。
場においては動いている心は変化の中で見ている。
現れているものより、その動きを見ている。
そうでなければ創造性のような心の動きは見極められない。
柔らかく変化するものを動きの中で扱って行く。
様々な抑圧を外して行くと、自由で豊かな動きが戻って来る。
その本来の自由な動きの中からしか良いものは生まれない。
この世界が夢のようなものだと僕が言うのも、
変化と言うものがどのような形をしているのか描くためだ。
人が現実と呼ぶものは自ら作りあげた限界に他ならない。
そのような現実は本当は存在しない。
いつでも解釈して構成して、必死になって作り続けているだけのこと。
自分に限界を作ってそこから出られなくなった人が、
他人にも限界を設定して行く。
個々の形の違う限界同士が争いを起こす。
場から見るなら、はっきりと固定されて、ここまでと言えるような現実は無い。
良いものも悪いものもその場でそのように見えるだけで、
本当にあるのは変化と言うものだけだ。
だから夢のようだと言う訳だ。
場に深く入った時、そこでは行き来する全ての現象が夢として見える。
あるいは幻の中にいるという認識が保たれる。
世界は夢の中で、何の滞りもなく透明に澄み渡っている。
僕達はこの場と言う片隅、あるいは部分の中にいるが、
大きな全体の気配や予感がある。
「居場所」や「安心」は全体への予感からやって来る。
こう言っても良い。
安心は「終わり」からやってくる。
「終わり」は遥か彼方にあって、今ここにある。
深く入るとは瞬間の中で「終わり」を見てしまうこと。
「終わり」は全てを輝かせている。
大丈夫なのだと、どのようなものも瞬間も、
終わりの中で完成されていて、すべては美しいのだと。
世界の全てが一枚の絵のようにはっきりと見えて来る。
それが「終わり」の景色だ。
僕達はそこにいて、再び帰って来て、この場を生きている。
進むことは遡ること。
あらゆる動きは回帰だと言える。
場の中で一つ一つの場面をもう知っていると言う感覚や、
ずっと前に起きたことだな、と言う感覚は、
全体への予感であり、終わりから見た景色だ。
そして、僕達の生きているこの世界も、
僕達の人生も、どこかでもうすでに知っていることなのではないか。
生きることは繰り返しなぞること。
進むことは回帰すること。
この認識を持てた時、僕達は本当に安心して安らかに生きて行くことが出来る。
場が教えてくれたことだ。
荒唐無稽に思える方もいるかも知れないが、
こういう情景が自分を助けてくれることもある、
人を助けることもある、ということをどこかで少しでも思い出してもらいたい。