今日はクリスマスイヴ。
雪でも降るのではと思っていたのだけど、朝から穏やかな気候。
昨日はあんなに寒かったのに。
去年はどんなだったかなあ、と思い出そうとしても思い出せない。
記念日みたいな日は好きではなかったけれど、
最近はそう言うのあった方が良いと思っている。
幸せを感じることが出来たり、
もっと大事なことは人の幸せを願う日になれば。
東京では僕は一人だけれど、いつでも繋がりを実感出来る。
さて、今年も本当にもう終わってしまう。
このブログも次が最終回となります。
色んなこと書いて来たなあ。
人の心にも場にも終わりと言うものは無い。
そして限界もない。
だからこのブログではそのほんの入り口に触れたに過ぎない。
そこから先は感じる世界。実感と共に生きる世界。
昨日、映画「アラヤシキの住人たち」のトークに、
畏友井上宗高が舞台に上がったので、応援に行った。
みんなで飲みに行ったが気がつけば途方も無い時間話していた。
時を忘れるとはこのこと。
あの映画の中で一番好きなシーンはラストと言うか、ラストの一歩前。
何でも無い景色だ。アイスが溶けてしまうから誰が食べるのか、
と語り合っているところ。みんなが居るということ以外に何も無い景色。
でもただそこにみんなが居る景色が愛おしく奇麗だと思える場面。
同じ景色の中に居た事もあった。
何も変わらない部分と、大きく変わってしまった部分。
金沢にも帰っていない。
滋賀に居た時、色んな場所から琵琶湖を見た。
僕には帰りの電車の素朴な景色の方がよっぽど奇麗だった。
もう使われなくなった旅館を寮にして、僕らは4人くらいで生活した。
京都まで友達の車で走ったり。
サラリーマンだった人が一度一緒に働くことになって、
食堂で一緒にご飯を食べた。
それぞれのラインに戻る時、「腹一杯になったかい?」と彼が呟いた。
悲壮感が漂っていた。
僕はいつでも楽しかった。どんな条件でも肯定して行けた。
石川には海も森も山も川も、そして街もある。
寒い冬と暑い夏。
小谷村に水害があった頃、あれから1年は北陸へ向かうバスが出ていて、
電車が通れないので臨時でだったか。
崖の間を通る凄い道だった。
祖母が亡くなった日の北陸の雷も思い出す。
電車は新潟から豪雪地帯をなかなか進めず、半日かけて金沢へ。
寒かった。雪と雷。強い風。
そっと特別な景色を見せてくれた人達がいる。
その人達が居なかったら現場などやってはいなかったと思う。
それから一人一人のこころの中を一緒に生きて行くことにした。
だからここには境界は無いし、もっというなら時間もない。
時間がないから無限だ。そこに入ったらそこにずっといる。
もう説明なんてしなくていい。
場には理屈なんてないのだから。
理屈は全て時間で出来ている。言葉も時間で出来ている。
時間は限界が設定されている。
時間が消えて、無限が顔を出す。
場はそこを見続けよと、そこを生き続けよと言っている。
生の深淵。
これまで見たどんな景色も、これから見ることになるどんな世界も、
すでにこの場にあって、無限に包まれている。
僕が産まれたあの消毒の匂いのする家。
天狗の大きなお面を見て角を曲がった一軒家。
それから祖父と祖母がいた映画館の前の家。
僕は今でもずっとあそこにいて、そして2015年の東京の冬。
ここにもいる。
遥か彼方からずっと見ている視線。
人生の始まりから、終わりまで。
そしてこの世界の始まりから終わりまで。
遥か彼方から、見渡す視線。
それは自分自身のものでもある。
あんなに辛いことの連続だった人達も、今は穏やかに微笑んでいる。
今いる場所が何処なのか、これが何なのか、いつか思い出すよ、と
遥か彼方からの声が聞こえる。
この世界は途方も無い。
無限に抱かれて、そこで立っていればそれで良い。
どんな状況の中にいる人も、例えひと時でも幸せを感じられますように。
ハッピーであれる人は、この瞬間に喜びを噛み締めよう。
こころの奥にある時間の無い場所では、全てが完成されているのだから。