2012年3月28日水曜日

人間の根源

春です。
今ここにいるのに、何故か懐かしい気持ちになるのが不思議。
この感覚は春になるとよく感じる。
自然食品のお店で、おつとめ品になっている抹茶を買った。
しばらく前に、急に久しぶりに抹茶がのみたいと思って、
どこかに道具があるはずだと、戸棚を開けて探し出した。
茶器なんか、そのへんの食器でいいし、
茶杓もスプーンがあればいい。だいたい分量は分かるから。
となるとお茶と茶筅さえあればいい。
茶筅がみつかったので、乾燥しているから、しばらくお湯に浸す。
自然食品のお店で買った抹茶は、思ったより美味しかった。
やさしい味で、目の前に緑が広がる。
お茶をのむと自然との一体感を感じる。

自分が見てからご紹介しようと思っていたが、
会期が短いので先に書かせていただきます。
ポレポレ東中野で、僕の尊敬する北村皆雄さんの監督した、
「ほかいびと ー伊那の井月ー」が公開されています。
4月6日(金)までなので、機会のある方は是非ご覧下さい。
と言いつつ、僕もまだ見れていません。
仕事とゆうたのことでなかなか時間がとれない。
でも、何とかどこかで時間をつくって、見に行こうと思います。

北村さんが監督されているのだから、良いはず。
北村さんとはそんなにたくさんお会いしたことはないが、
短い時間の中で、たくさんのことを教えて下さった。
長年、映像を通して人間とは何かを追求され、
失われ行く貴重な民族文化を記録し続けて来られた方だが、
僕のような若僧の話も真剣に聞いて下さる。
その謙虚さには頭が下がる。
アトリエにもダウン症の人たちと作品にも関心を寄せて下さり、
アトリエの移転の時にもお祝いしていただいた。

北村さんと何度かお話して、共通のテーマと言えるものは、
やっぱり人間とは何なのか、それも根源にまで行って、
本質を見極めたい、原点を知りたいということだ。
目の前に何かがある。ここに世界がある。僕達が生きている。
というような事実があって、その先をどんどん見てみたいと思う人と、
元はどうだったんだろう、これは何処からきたのだろうと考える人がいる。
勿論、人には両方あるが、どちらかが強い人がいる。
北村さんは人間の根源を見つめずにいられない人なのだろう。

僕はダウン症の人達の中に、人間の原型を感じる。
北村さんのお仕事は民族や文化の中に、それを探ること。
僕が作家たちに感じるのは、民族や文化以前の人間の持つ普遍性だ。

ずっと昔に見た写真。
素っ裸で、土の上で寝転がって、4、5人の男女が抱き合い、じゃれあっている。
人と人、人と自然が、交流している。
彼らの表情はとても素敵だ。
多分、彼らは全身の全細胞で生きている。皮膚の感覚は凄いだろう。
僕はこんな世界に憧れていた。
中学校くらいの時は、ネイティブアメリカンやアボリジニーの写真に見入っていた。
ある時、テレビでアイヌの人達の歴史を紹介していた。
刺青にも衝撃を受けたし、とにかく、様々な地域の先住民の人達が、
かっこ良く見えた。本当の人間の顔をしていると思った。
あの深いシワ。
僕はそういう世界を知りたかった。
今、自分達が生きている世界に決定的に欠けたものがそこにあった。
僕達は何かを失ってしまっている。
それを取り戻したいと思っていた。
自分が歳をとってもあんな顔にはならないと思うと、
この社会で本当の生き方が出来るのだろうかと感じた。
僕は日本の中でまだ本当の生き方をしている人がいるのかと、
探し歩いた。
今思うと、本当に素晴らしい方々が、会って下さった。
職人さんやお坊さん、いろんな生き方をしている人達にお会いした。
紆余曲折はあったが、共働学舎に行って、そこで生きる人達と出会ったことで、
僕は自分の求めて来たものに本当の意味で気が付いた。
始めは原始的な生活に憧れたが、少しづつ、関心は内面に向かった。
原始的、原初的なこころ。知覚や認識の世界。
裸のこころを持っている人達が目の前にいた。
僕はその人達から学び、彼らと一体化するすべを身につけた。
憧れていた世界。知りたい、触れてみたいと感じていた世界を、
かいまみることが出来、その世界の入口に立つことができた。

その後、僕はダウン症の人達に出会った。
ここへ来るためにすべてがあったのだなあと感じる。
人生は本当に不思議だ。
僕がずっと見てみたいと思っていた世界を、
すべて持っている人達が、ここにいて、僕は彼らと接する仕事をしている。

裸で土の上で寝転がっている人達の感覚。
私達はそれを取り戻した時に、初めて幸せをかみしめることが出来る。

大きな大きな世界。ちいさなちいさな、点のような自分。
周囲を無限が包む。
果てしない、広大な永遠に囲まれる。
途方もない崇高さ。
気の遠くなるような空間の広がり。
遥か彼方まで、ひたすらどこまでも、無限と永遠が広がっている。
その中で小さな自分がぽつんとここにいる。
何も知らず、何も持たず、何も出来ない存在として。
ただ、この場に抱かれ、たたずんでいる。
こんな感覚ほど幸福なものはない。

2012年3月27日火曜日

生きづらさを感じている人達

ようやく暖かくなるのかなあ。
この前、駅伝の日、すぐる君とお話ししていた。
「今日はマラソンやっているんだよね」
「すぐる君は誰か応援してるの?」
「一番は早ええのはゲーリー選手だよ」
「ゲーリー選手?知らないなあ。これから注目しようかな」
「ゲーリーはねえ、200メートルとか早いんですよ」
「えっ、短距離も早いの?」
「ゲーリーはポルトガル人だよ」
「あっ、分かったあ。ゲーリーってボルトのことでしょ」
「そう。ボルト選手」

彼と話していると本当に楽しい。
会話って気持ちを交流するものだから、あってるとか、それは間違いとかは、
あんまり意味がないような気がする。
会話でまで教育しようとする人もいるけど、
そんな事していたら気持ちが通い合わない。
お互いに楽しい、相手を思う気持ちがあればそれでいい。

この前の日曜日のクラスは、
しんじ君としゅうへい君とさとちゃんの3人が、
おやつの時間に楽しそうに話し合っている。
さとちゃんが時々、みんなの役を決めてお芝居になったり。
この3人は10年も付き合っているから、
本当に以心伝心でお互いが分かる。
羨ましいくらいに深い関係だ。
仲間がいる、自分の場所があると言うことは素晴らしいことだ。
そのためにこの場がある。
僕達スタッフはあくまで脇役に徹して、そっと彼らの世界を見守れたらいい。

まいちゃんが凄い作品を描いた。
作品の密度が高ければ高いほど、スタッフもエネルギーを使う。
良い疲れがある。
タイトルは「夜の太陽」。タイトルもかっこいい。

2月に大阪でおこなった公演を、今原稿に纏めている。
これは会報に載ることになっている。

こうしたアトリエを開いていると、どこで知るのか敏感で傷つきやすい、
ナイーヴな人達が訪ねて来ることがある。(一般の方)
会ってお話くらいはするし、少しくらいは支えになれたらとも思う。
でも、そういう人達に立ち向かうことの必要性を話すことも多かった。
気持ちが分かるからこその愛の鞭と受け取っていただきたい。

鈍感に何も感じないように、ただ自分だけがそんをしない生き方に、
みんな慣れてしまっている。こういう生き方には共感出来ない。
出来るだけ、得すれば良かったと思っているような世界には入り込めない。
だからそういう世界になじめないナイーヴな人達には、頑張って欲しい。

大切なのは、自分の違和感を維持しつつも、
違う世界を否定したり、批判するだけの場所に逃げないことだ。
難しからといって避けない。
理解されないからといって、諦めない。
傷つくことも、もっと言うと傷つけてしまわざるをえないことも恐れない。

僕自身も無理解にさらされることも多いし、
こういう言い方もなんだけど、なめられることもよくある。
そういう時は、逆に楽しくなる。
この人がもしほんのちょっとでも変わったら面白いなあと。
否定されても、批判されても、
よし、じゃあもう少し理解出来るようにしてみるかと思う。
難しい問題が出てくるほど、どこからこの難問に挑もうかなと、面白くなってくる。

お金、権力、脅しに屈することはない。
媚びることはしない。
どれだけ力を持っている人でも、怖いとは思わない。
僕には制作の場での作家たちの方がはるかに怖い。

自分を守るために武装する必要はない。
守れば守るほど、恐怖心は強くなるだろう。
何も持たずにからっぽでいるのが一番強い。

これからは、ナイーヴな人達だけでなく、みんな生きづらい世の中になる。
何も恐れずに、裸で、素直に立ち向かっていこう。

2012年3月25日日曜日

背景を感じとる

今日は良く晴れた。
気持ちの良い朝で、10年前と何も変わっていないように見える。
あの日以来、すべてが変わってしまったのだが。
でも、僕達は希望を持って新しい道を模索し続けるだろう。

ゆうたと2人でお風呂に入っている時間は本当に幸せ。
ゆうたがアレルギーみたいなので、
肇さんがたくさん採って来てくれたビワの葉の煮汁を入れて、
お湯にゆっくり浸かる。
ゆうたはゴキゲンでニコニコニコニコしている。
時々「ウー」とか「アー」と言って笑う。
やわらかい、フワフワの裸。

前回、全体を見る感覚について書いたが、
補足すると、細部を見ないということではない。
実は全体をみる感覚の中で、細部はより鮮明に見える。
自身が透明になって全体そのもののような感覚になる時があるが、
それは本当に良い時のことで、なかなかいつでもという訳にはいかない。
でも、そうなった時は、本当に次の瞬間が見たくて、
ワクワク、ゾクゾクしてくる。どんな瞬間も感じとれる感覚だ。

大切なのは、背景をみることだとも書いたが、
実際には背景は具体的なものとしてはっきり見えるものではなく、
感じるもの、直感するものだ。

全体を見るというのも、さあ見ようという話ではなく、
身体が全体を見る感覚になるということだ。

人にも物事にも背景がある。
人間は切り離して、一個一個見ていこうとする。
そうして物事を認識している。だから間違える。
何事も背景を捉えずして、見ることは出来ない。
背景とは関係でもある。
私達の目の前に見えているものは、みんな一つ一つ別々にある。
でも、背景は複雑に繋がっている。
それを感じとることが大切だ。

僕達は「場」や「流れ」を感じる。
背景を感じとる。
お話をしていても言葉の背後を見る。
全体の雰囲気、気配、空気。
そういったものは肉眼では見えない。
だから感じる、そして視覚ではない見方で、明晰に見る。

人間にとっての背景とは、動物や植物であり、
更なる背景は自然や宇宙となるだろう。
そこまで見ていかなければ、本質は分からない。
全体を見るとはそういうことでもある。
部分だけ見るから偏る。

言葉にも作品にも、行動にも背景がある。
そこを見て、そこに触れていく。

例えばゆうすけ君はその日に着ている服の色と、
描いている作品の色が調和している。
(ご家族のお話によると着る服は自分で選んで来ている)
アトリエの庭を背にして描いている時など、
緑の中で様々な色彩が溶け込み、更に自分の着ている原色の服も
一つになって、風景を創る。

実は場を感じることが出来ないと、一人一人を明晰に見ることは出来ない。
初めて絵を描く人を前にした時、
その人がどんな絵を描いたとしても、背景を見極めていなければならない。
もし、その人が自分の本質と違うところで描かざるをえなかったとして、
これがこの人の絵だと思ってしまったら、
あるいは「いい絵描くね」なんて、いってしまったら、
それでおしまいだ。そこから先に行けなくなってしまう。
だから、ここは通過点だな、よし次に行こう、もう少し見せてよという気持ち。
でも、それがもしその人の本質を表しているのに、
即座に反応できていなかったら、これも決定的だ。
関係はそこで切れてしまう。
この場合は、「素晴らしいね」とこころから表現できなくてはならない。

作家たち自身はというと、
ほとんどがこの雰囲気や空気感や、「場」を感じて表現する。
作品と作品の間で創造性の次の「波」を待っている時の表情。
てる君が描いているときなんかは、
サーフィンをする人が良い波が着たら乗ろうと、
海を見ながら待っている時の感覚に近い。
本当に謙虚で、本当に静かで、本当に楽しそう。

僕達も、今、目の前にあるものだけでなく、
その背景を感じとり、全体を見る大きな視野と、
細部を明晰に認識する、繊細な感覚をもって生きていこう。
大切に、丁寧に、やさしく、歩いていきたいものだ。

2012年3月24日土曜日

全体を見る感覚

お昼頃から、よし子とゆうたがアトリエへ来ることが増えた。
ここで僕と会うことをおぼえてきたのか、
ゆうたは僕の顔を見ると微笑みかけてくる。
遊ぶ時間も長くなってきた。
やさしい、やさしい、本当にいい子だ。

前回の水曜日のプレは、長く通って来たイサ(関川君)の最後の日だった。
あきさんは手紙を書き、はるこさんは得意の折り紙を作り、
ゆうすけ君は歌をうたい、だいすけ君はやさしくみつめていた。
それぞれが深い愛情を持って、見送っていた。
毎回、凄いなあ、絶対分かっているんだなあ、と感じさせられることは、
それぞれが自分の役割を知っているところだ。
ゆうすけ君は彼らしくふるまい、あきさんはあきさんらしく。
それぞれがバランンスよく、お互いの持ち味を発揮して、
まるでイサに「私達はこんなだよ」と伝えているように。
あきが出る時ははるこが見守り、はるこが出る時はあきが見守る。

自分の役割を知っていると言うことは、
場の中で、全体の中での自分の位置が確認出来ているということだ。
これは僕がイサに場を見る時に必要なこととして伝えて来たことでもある。
そこを彼らはみをもって示していた。

今、この時代に必要なことでもある。
環境や資源や、様々な争いの問題も、原子力の問題も、
すべては人がこの世界の中での自分の位置を忘れたことに原因がある。

動物も植物も、全体の中での自分の位置からズレることはない。
さまざまな地域の先住民はより自覚的に、全体の中での位置を知っている。

このアトリエも社会の中で役割や、必要とされる部分がなければ、
存在する意味がない。
何事も客観的に見ることが大切だと書いてきたが、
それは全体を見る視点を持つためでもある。
ただ、良い場所があってそこだけが、良ければいいのか。
こんな時代だからこそ、真剣に考えて行くべきだ。
どんな時でも可能性を示し、希望を伝えていくこと。

東京のアトリエは、作家たちのこころや魂を保護する場所であり続けて来た。
それは、どんな時でも必要な要素ではある。
でも、これからはこころや魂の問題以上に、
身体や物質のことが問題になってくる可能性がある。
安全や安心がない中で、どう選択していくのか。
例えば、放射能のことでも、このままみんながここに居て良いのか。
それから、かなりの可能性で首都に地震が来る。
先日も遠方から通われている保護者の方が、
「来る途中で地震があったらどうしようと思って」と仰っていた。
災害時用の道具を鞄に入れて、アトリエまで来ているという。
こんな状況の中で、みんなが安心出来るのか。
勿論、この場に入ったら、最善をつくすのが私達の役割だ。
ただ、これからは一人一人が、真剣に考えて行動しなければいけない。

私達も東京でのアトリエと同時に、
三重での環境づくりもすすめていく時だと感じている。

その上でどんな時でも希望を持とう。
この場で出来ることは最大限にやっていく。
ここに人が居る限り、どんな形でも続けてはいくつもりだ。

イサが最後の日だった週の月曜日は、
4月から来てくれる予定のゆりあが最初の見学。
イサにもゆりあにも、少し離れたところから教室を一度、見てもらった。
僕はこの時間を大切にしている。
時には離れて見てみること。
それから、一番最初は見学すること。
何故かと言うと、自分が場に入ってしまうと、一人一人は見えても、
場の全体が見えなくなるからだ。
イサにもゆりあにも、全体を見ることを伝えて来た。
その視点を養うためには、まず離れて見てみること。
入ってしまっては見えなくなる。
僕やよし子なら場に入っても、全体を見ることは出来る。
でも、最初は難しいだろう。

全体を見るとは、まんべんなくみることではない。
この人を見て、次にこの人をみてと、配分することでもない。
1人を見ることが全体を見ることであるような、見方。
お話ししていても、言葉を投げ合っても意味はない。
背景を見ること。
全く意味のない会話にみえて、響き合っていたり、
意味深そうでも、こころが全く動いていないそんな場面はよくある。
大事なのは背景だ。後ろで何が動いているのかだ。
「場」全体を見ることで、1人の人がより深く見える。
その人の答えを他の人が持っていたり、
その答えが予想もしなかったところから飛んできたりする。

どんな人にも、ものにも役割があり、その役割は全体の中で決まる。

日常の中でも、狭い視野でしかものが見えなくなっている人がほとんどだ。

全体を見る感覚が、これからの時代にも必要になってくる。
全体が見えてくると、様々な困難も、より深い次元にいくためのステップに見える。
すべてのことに意味が感じられる。
人に対してもやさしくなれる。
全体が見えてくると、自分はカメレオンのように、
環境に溶け込んでくるから、身が軽くなって何でも出来る。
自分が大きくなるとものが見えなくなるから、
よく見えるようになるためには自分を小さくすること。
そうすると感覚も研ぎ澄まされて、
透明な水のようになる。
全体を見る感覚はいつしか、自身が全体そのものという冴え渡った感覚をうむ。

2012年3月17日土曜日

エッセンス

今日は雨ですね。
先週はいくつか打ち合わせがありました。
また、良い企画が実現していきそうです。
少し先になることもあるので、報告は詳細が決定してからとさせていただきます。

ゆうたの意識が結構しっかりしてきたので、一緒に遊ぶ時間も増えたし、
遊び方も変わって来た。

さてさて、今回はここでおこなっていることのエッセンスを書こうと思う。
こうして、毎日、制作の場でダウン症の人たちのこころの動きと向き合っていると、
本当にたくさんのことが見えてくる。
自分の知覚も変容する。
そこから見えて来たこと、感じて来たことを通して、これまで書いて来た。
お話しして来た。今後もそうしていくだろう。

僕はいつでも、そこにある本質に目を向けたいし、
細かい枝葉のことには拘りたくない。
一番大切なことを、みんなと共有したい。
一番大事なものだけ伝えたいし、あげたいと思う。

ただでさえ、人の時間は限られている。
さらに今は大変な時代だ。良い時代でないことは確かだろう。
いつ何がおきるか分からない。
どんな場所で、どんな事になろうと、僕達は生き抜いて行かなければならない。

そんな中で、ああだこうだと議論している場合ではない。
人間にとって本当に大切なものはなんなのか。
幸福に生きていくためにどうして行けばいいのか。
そこをこそ本気で考えなければならない。

何度も書いて来たが、ダウン症の人たちの姿には多くのヒントがあると思っている。

では、ダウン症の人たちの在り方から、私達は何を学ぶべきか。
これは本質であり、精髄であり、エッセンスでもある。
彼らのように感覚を開いて、世界との関係をとり戻そう。

裸になること。素になることだ。
すべてを解放して、私達を囲む世界に触れてみよう。

固くなっている部分、濁っている部分、緊張をすべてとき、
まっさらになって見てみよう、感じてみよう。

アトリエの場は、本当に小さなもので5人も入ればいっぱいだ。
でも、ここには無限がある。
一人一人が内面に素直に向かって行くとき、
裸になって飛び込んで行くとき、必要なものはすべて、
目の前にある。ないものはない。

限界を作って、抑圧しているのは自分自身だ。
こころを見ていくとみんな、自分に催眠をかけているようなもの。

本当は限界もないし、必要なものは目の前にあるし、
恐れることは何もない。

もっと見つめてみよう。もっと耳をすまそう。
もっと深く感じ味わおう。
この世界がすべてを教えてくれるだろう。

作品に向かって行くとき、こんなことを彼らは知っている。
何かを強引に創り出すのではなく、
謙虚に自然に、世界から受け取れば良い。
何をすべきなのか。どのように振舞うべきなのか、その場が教えてくれる。

この瞬間を本当に生きていなければ、こういったことはつかめない。

危機的な状況でこそ、彼らのように素直に感じて、自然に動こう。

自分の中の無駄なものを落として行くと、
どんどん純化され、透明になって行く。
そうすると見えるようになる。感じられるようになる。
本当の意味で生きられるようになる。
何をするべきか、何をしてはいけないのか、分かるようになる。
人を笑顔にしたくなる。
大切な事はそれだけだ。

今からでも彼らのように生きてみよう。

2012年3月14日水曜日

みんなが幸せを感じるために

春らしくなってきましたね。
作家たちの使う色合いも季節と共に変化していきます。

さて、今週は来客が続いています。
今日も明日も打ち合わせ。

昨日はアトリエに赤ちゃんがいっぱいの日にしました。
クリちゃんの子供、ふくちゃん。いつもアトリエを応援してくれて、
一緒に仕事もしているトキちゃんの子供、てん君。
それからよし子とゆうたもそろって、みんなで過ごしました。

アトリエのみんなも大喜びでした。
ゆうすけ君が風邪でお休みだったのが残念。

いつかダウンズタウンで保育園ができたらと思っています。
良い環境で子供達が育っていくというシンプルなことが、
なかなか難しい世の中になっているので、
良いこころを育てるという基本を守った場を創りたいです。

アトリエの活動から見えて来たことは、普遍的なことが多いなと改めて感じます。

この場は、少しでもいいから人を幸せに出来てこそ価値があるのだと思います。

何人かの学生がここで学んで、社会に出ています。
彼らが、どんな場であれ、人を幸せな気持ちに出来る人間であり続けて欲しいです。

様々な場所でその様な人間が必要とされています。
私達に出来ることはたくさんあるはずです。

先日もテレビである看護士の方の特集を見ました。
確かに医療の現場で、苦しむ子供達に笑顔を与えていました。
こころが少し動いているなあと感じました。
でも、普段ここで挑んでいること、みんなに伝えているレベルと比べると、
もっとこころは動くはず、もっと繋がるはずと感じました。
子供の表情を見ていて、今ここに触れてあげるべきじゃないのかなと。
その方は社会ではかなり高い評価を受けているようです。
だから、学生達には自信を持ってと言っています。
実際に外の人にいい若者たちが集まっているねと言われます。
彼らは良い仕事が出来るでしょう。
被災地の子供達にカウンセリングをしにいくという、映像も見ました。
これにも子供達の表情を見て、もっと触れてあげるべきだと感じました。

目の前にいて、その人の気持ちを感じとって、
自然にこうしたい、もっと繋がろうという感覚が動くように、
アトリエに通ってきた学生達は、そういう感覚をつかんできています。
勿論、まだまだですが、あとは実践が能力を育てます。
必要とされる場はいたるところにあると感じています。

ちょっとした場面ですが、これから勉強に旅立つイサ君に伝えます。
長い時間の一場面なので、おぼえていないかも知れないけど、
動きが止まっていた人が居たね。
色々話しても、身体に触れても止まったままだった。
僕が手を握るとすぐに立ち上がった。
いつも話してるけど、しばらくは伝えられないから、言っておくよ。
なぜ、すぐに彼が動いたのか。
長い間付き合っているからでも、彼が僕のことを好きだからでもない。
テクニックでもない。
勉強に行ったら、これが分かるようになって帰って来て下さい。
一つだけヒントを。
僕は言葉に頼らなかった。ということかな。

幸福は世界中に広がって行かなければならない。
そのためにささやかながら、この場所で何が出来るのか。
僕達は日々、学び、少しでも良い場と、こころを深めて行く。
そして、これから多くの人に発信して行きたいと思う。

2012年3月12日月曜日

母子一体の時期

今日は良く晴れている。
アトリエの庭の木のはっぱの緑がとてもきれい。
光のあたり方で、無限のバランスの緑がある。
ここに風と空気という要素が加わって、動きもある。
それから鳥の声。
自然を眺めていると、景気に入り込んで行って、自分が自然になったように感じる。
春の日射しはやさしい。
自然さについて描いたが、制作の場も自然そのものになる時がある。
不思議なものでそんな時、鳥が自然に中に入って来ようとしてガラスにぶつかる。
ガラスだから時々はそんなことはあるのが普通だが、
ここでは一日に何度も何度もそんな事がある。
そして気がつくと場の空気が本当に自然だった時が多い。

一つ一つの季節はやがて過ぎ去って行くのに、
一瞬の情景に無限と永遠を感じてしまう。

日曜日のアトリエでは途中、久しぶりによし子と悠太がみんなと会った。
絵をみて悠太は何を感じているのだろう。
生徒たちは子供を凄く可愛がってくれる。
その姿がまたかわいい。
本心で人と接する彼らと触れ合って、悠太はどんな気持ちなんだろう。

毎日、変化して大きくなっていく悠太を見ていて、凄いことだなあと思う。
昨日は驚いた。
夜、いつものように泣き出したのだけど、
僕がいくらあやしても泣き止まない。
どこをどんな風にしてみても安心してくれない。
ようやくよし子にバトンタッチ。するとすぐに泣き止む。
想像はしてみたことはあるけど、そうかあとビックリ。
今は母親にしか本当の安心は与えられない。
よし子が近くにいれば、僕があやしていてもニッコリ笑っている。
母子一体である時期なのだろう。
そこには立ち入れないものすら感じる。

そんなこともあったので、改めて思うこともあった。
つまり、男が何をすべきかということだ。
僕自身は子供を見ること自体が好きなので、
何でもしてあげたいという部分が強い。
でも、これは制作の場でも同じだが、手を出してしまうほど簡単なことはない。
入ってはいけない領域というものもあって、そこを感じとることも必要だ。
最近では何でも手伝うということがいいことのように言われている。
でも、そもそも子育てを「手伝う」という言い方自体がおかしい。
自分の子供なのだから、母親も「育てる」だし父親だって「育てる」でいい。
どちらも手伝いなどではない。
それと手助けすることを男は勘違いしやすい。
特に最初の母子一体である時期は大切だと思う。
子供を見ることよりも、母親が子供と一緒に居れるように、
家事や周りのことをこそ手助けすべきなのかも知れない。
勿論、そんな時期であっても父親として関わり続けること、
子供の世話をする事は続ける必要がある。
一緒に遊んだり触れ合うことで親も子も成長するし。
さらにそれ以上に大事なのは、これは自分自身一番出来ていないので、
反省の意味で思うのだが、やっぱり母親の精神的な支えとなれるかどうか。
そこにつきると思う。どれだけ共感を持って安心感を与えられるか。
これは、仕事より難しい。

誰かが「母は孤独だ」と言っていた。
男には本当の意味ではそれは分からないのだろう。
だからこそ、どれだけ想像出来るかだろう。

それにしても、今日のアトリエの庭の緑を見ていると、
まるで夢の中にいるようだ。
今日は平日のプレ•ダウンズタウン。
どんな一日になるか。良い時間をつくりたい。

2012年3月10日土曜日

自然さを取り戻す

よし子と悠太は無事に帰って来た。
久しぶりに悠太と会って、一緒に過ごして変化にビックリ。
短い時間で、こんなに大きく成長するのかあと。
身体もガッチリ、表情もしっかりして見違えるようだ。

ここまで来るのも大変だっただろう。
悠太たちがいない間、東京ではいくつか大切な仕事に挑んだ。
それが出来たのも、よし子が三重で悠太を育てていてくれたこと、
肇さん敬子さん、文香ちゃんがサポートしてくれたお陰だ。
家族、親戚の方達だけでなく、三重ではたくさんの方のお世話になった。
この期間、悠太を育ててくれてありがとうございました。

金曜日に4ヶ月検診に行って来た。
同じ位の時期の赤ちゃんがいっぱい居た。
悠太はやっぱり大きい。エネルギーも凄い。

この子は本当にやさしくて、いい子だなあと思う。
じっと見詰められると可愛くてしかたない。
なるべく悠太と過ごせる時間を増やしていきたい。

さて、1ヶ月、2ヶ月でこんなに変化して行く悠太を見ていて思った。
もう、あのグニャグニャに柔らかかった時には戻れない。
しっかり人間になって行くとは、少しづつ不自由になって行くことでもある。
人は生きている限り、成長し続けなければならない。
でも、一方で成長とは、少しづつ固くなって行くこと。
世界を固定して行くこと、自分の限界を作って行くことでもある。
だから、成長して行くだけではいけないと思う。
成長より大切なのは、失わないこと、取り戻すことだと思う。
人も社会も時代も、成長と進歩には目を向けるが、
失わないことや取り戻すことの価値を忘れている。

アトリエをずっと続けて来て、ダウン症の人たちをずっと見てきた。
一般の方でも本当に様々な方がここを訪れる。
そんな中で感じてきたのは、人間は自然さを失う生き物だということだ。
このブログでも自然さということを何度か書いた。
私達がダウン症の人たちから学ぶべきなのも、この自然さだ。
制作の場に入ると、ただ居るだけでその人の本質が出てしまう。
そこで自然じゃないと場の中で違和感を感じる。
でも、自然にこの場に居れる人は滅多に居ない。
どこかに力が入っていたり、緊張があったり、あるいは流れが滞っている。
スタッフに要求されるのも自然さだと以前書いた。
考えてみると、人間だけが自然さを失う生き物だ。
他のどんな植物も動物も自然さそのものだ。

人間がなぜ、不自然になってしまうかと言うと、
意識や自覚を持つことが出来るからだ。
意識や自覚は自然さを奪ってしまう。
意識的な動作より無意識の動作の方が優秀なのはそのためだ。
考えも意識の一部だ。考えてしまうと出来ないことは多い。

意識出来る、自覚出来るということは人間の特権でもある。
大切なものでもある。
極めて難しいことなのだが、
私達がしなければならないことは、
意識して自覚して自然さを取り戻すことだ。
これが人間にあたえられた使命であるように思える。

赤ちゃんの頃は自然そのもので、なんの限界もない。
理想的な状態だ。でも、その自然さはやがて失われる。
失ったものを、今度は自覚を持って取り戻す。

例えば、アトリエでは少なくともスタッフとしては、
今から自然にしようと思って出来なければ場は動かない。
これは簡単ではない。
普通は自然とは意識しないことなのだから。
これも一緒だけど、さあ力を抜こうと思うと力が入ってしまう。
リラックスしようと意識すると緊張する。
でも、それが出来ることが大切なのだ。

自覚されない、意識されない自然さは尊いが、
やがて失われてしまうという弱さを持つ。
自覚された自然さ、意識的な無意識にはそういった弱点がない。
僕は制作の場ではそういう能力が必要だと感じてきた。

人は本能的に愛情をもっていて、繋がりたい、対象に入りたいと欲求している。
だから自然さがあれば、人や環境や事物に愛情が生まれ、
そこへと繋がるため、入り込むための注意力や観察力が働く。
そうするとその場で何をすべきなのかが分かる。
どのように振舞えば良いのかが分かる。
自然さがないと何事も勉強したり、訓練しないと出来ないと感じてしまう。
自然界で勉強や訓練をしている生き物は居ない。
自然さがあれば、どうすべきかが分かるようになっている。

ダウン症の人たちの制作における振舞も同じだ。
彼らは次にどの色を選べば良いのか分かるのだ。
それは自然さがあるからだ。
彼らの世界を知ろうと思ったら、私達も自然さを取り戻すことだ。
そうすれば彼らのことも分かるし、
彼らとの本当の繋がりをつくることが出来る。
その時、私達は共に新しい何かを、つかむのではないか。
人類の進むべき道を見つけるのではないだろうか。

2012年3月5日月曜日

僕にとっての制作空間

まだまだ、寒さが戻りますね。今日は一日雨の予報。

また個人的なことで申し訳ありませんが、いよいよ悠太と再会だ。
火曜日に帰って来ます。
一ヶ月でどんなに変わったか楽しみ。
やっぱり成長の過程は全部見ておきたいし、
出来るだけ一緒に過ごして、父親としての役割もはたしたい。
よし子が三重から送ってくれた写メールを整理した。
メールの写真も保存出来るってことと、
やり方をこの前、ゆりあに教えてもらったので、
昨日2時間も写真に見入ってしまった。
親ばかになるなんて、すぐだなと感じて、そこまでにした。

クリちゃんの子供、福太君も1才になりましたよー。
早いなあ。クリちゃんの送ってくれた写真を見ると、
フクちゃんもう大人のしっかりした顔になってる。
来週、みんなに会いにきてくれる予定です。
タイミングが合えば、福太、悠太の初競演もしたい。

日曜日、午後クラスはゆりあがどうしてもの用事で抜けたので、
久しぶりに1人で見る。
本当に良い時間だった。
良い時のアトリエは「ああ、流れてるなあ」と感じる。
良い流れは、途切れない。
すぐる君がお休みだったけど、他の4人とも作品も素晴らしいし、
笑顔も、関係も素敵で自然な流れにいた。

みんなと一緒に創って来た、この制作空間が僕にとってもいかに大切か、
思い知らされた一日だった。
最近は外での仕事が増えているけど、
やっぱり自分の一番相応しい場は、彼らと居るところだと思う。
僕は彼らにリラックスして良い気持ちの中で、
自然な流れに入れるようにすることが出来るし、
そうすると彼らは本当に多くのことを教えてくれる。
彼らがあたえてくれるものの大きさにはいつも驚く。
様々な人達や、アトリエを手伝ってくれる人やスタッフに、
この場の仕事を伝えるのにはいつも難しさを感じるが、
僕自身は制作の場において困難を感じたことはない。
すべては自然だ。
勿論、一日一日の教室はもっと深くいけるはずだと、
一回も自分に満足したことはない。
でも、制作の場に入ると楽しさしか感じない。

彼らに出会って一緒に生きられることも、
制作に関わることができていることも、本当に幸せだと思う。

いつかは制作現場で彼らと過ごすことを専門にしたい。

でも、こういった場や彼らの価値を伝えるには、
外に出て行くことも大切だ。
自分のしたいことと責任は別。

人には役割があり、責任があると思う。

少しづつ、変わり始めていることは実感する。
最近、外で人と会ってお話ししても反応は違ってきた。
ダウン症の人たち専門のアトリエですと言うと、
以前はなぜダウン症?というところから始まったが、
この頃は結構な割合で「ああ、絵がいいらしいですね」という言葉がかえってくる。
このことはアトリエ・エレマン・プレザンだけの功績ではないだろうが、
アトリエの活動がジワジワと認識を変えてきている部分はあると思う。
地道にでも伝えて行くことは大切な事だ。
いつか「素敵な感性を持つ人達」としてダウン症の人たちが認識され、
それが一般常識になってほしい。

そんなことを考えながら、外へ出掛けて行く。
彼らは言わなくても、何か察知するらしく、
僕が仕事を終えると「お帰りー」「お疲れさま」「ありがとう」と、
本当にそんな言葉をかけてくれる。

日曜日のアトリエでも、
えいこちゃんが心配そうに、
「今日、サクマさん1人ってことは私達帰ったらさみしいんじゃないの」と呟き、
てる君が僕の方を見てニッコリ笑う。
彼らのやさしさは普通のやさしさより一段深い。
自分で言うのも何だけど、彼らと僕の共有しているものは、
本当に深く大きいと思う。
彼らにも感謝しているし、
佐久間にこれをさせておこうと思って下さる方々、
アトリエのスタッフの仲間達や支援して下さる方、
私達を信頼して任せて下さる保護者の方々、
そういった方々に、いつも「ありがとうございます」という思いだ。

2012年3月3日土曜日

最初の気持ち

金曜日もちょっと取材をうけていた。
初めて会う人、まだアトリエやダウン症の人たちのことを知らない人、
そんな人の前で話す時、緊張もするし勉強にもなる。
たとえば、作家たちに対して、直接には会っていないのだから、
ここでのお話の印象が入口になることは確かだ。だから、責任を感じる。

会合やシンポジウムのような場所に呼ばれて行くと、
そこではすでに、ある前提があって、ある程度の認識を共有していたりする。
ある種の専門家が集まっている場合は、
だいたいがもうご存知のように、という様なお話が多い。

僕は知らない人に伝えることが大切だと思うし、
こちらも、初めてそのテーマに向き合う人から学ぶことが多い。
自分達も始めの気持ちを思い出すことが出来る。

正直に言うと、会合の様な場所では違和感を感じることも多い。
視点が偏り過ぎている。
実際に、その議論によって誰かが何かの役に立つのだろうかと考えてしまう。

書いた事があるかも知れないが、
ダウン症の人たちをめぐっても、様々な取り組みがなされ、
考察もされて来ているが、専門家も含め、すべての議論は、
社会の視点、こちら側の視点でなされている。
それが悪いとか、必要ないと言うことではなく、
その事実を自覚しなければならない、ということだ。
そして、時にはダウン症の人たちの側の視点に近付いてみる必要もあるのではないか。

初めて、見る人、聞く人、接する人には、だから可能性がある。
伝える側も、そういう人達を念頭におくべきだ。

私達は知らないことや、分からないことを恐れるより、
知っているとか、分かっているという思い込みの方を恐れるべきだ。

例えば、作品を例にとってみると、
展覧会で人の反応を見たり、お話を聞くことも多いが、
専門家より、素人の方が本質をとらえる。
それから、ダウン症の人たちに関わるお仕事をされていたり、
ご家族やご親戚にダウン症の人がいるといった、
彼らに近いところにいる人達は、実はなかなか作品が見えない。
近すぎて見えなくなると言うことも、確実にあるがそれ以上に、
彼らはこうだという生活レベルの思い込みが、
作品を見る純粋な目線を曇らせてしまう。
勿論、これは専門家とは違って、しかたのないことではある。
例えば一般的な例で母親がこどもを見る目は、一体化しすぎているから、
見えなくなる部分は多いという、よくある事実。
これも、そうなる位じゃなければ、子供を守って行くことも出来ないし、
ましてや最初から産むことなど出来ない。

近い視点というものは、どこかでこの母親的なものがある。

近すぎて見えなくなることがあるが、悪い訳ではない。
専門家が偏ってしまって、かえって本質から遠ざかってしまうのも、
悪いとは言えないかもしれない。
でも、だからこそ、時には素直に初めて見る目線を取り戻して、
最初の気持ちで感じてみる。

ダウン症の人たちの作品には力がある。
初めて見る人は、絵の前で涙を流すこともある。
1人や2人ではない。
展覧会では毎回、そんな場面を見て来た。
既にダウン症の人たちを知っている人や、
周りで触れている人にも、この気持ちを忘れないでいただきたい。

そして、初めて見たり、触れたりする人達に伝えたい。
今、僕達が生きている世界だけがすべてではないと。
もっと違う可能性も生き方も、感じ方もある。
もっと豊かにやさしく、平和な世界を創ることも出来る。
そんな可能性に対して自分を開いて欲しい。
ダウン症の人たちの魂に触れてみて欲しい。
そこには、何か大切なものがあるはずだ。
彼らは作品を通して、生き方を通して、それを伝えている。
私達もよく耳を澄まし、感じとろう。
すべてを知った気にならないで、分かった気にならないで、
いつでも探し、みつけに行こう。新しいものが満ちあふれている。
今の世界や生き方や、在り方を時には疑ってみよう。
こんなもんだと諦めてしまっていないか、
感覚も考えも閉じてしまっていないか、見つめなおそう。

ダウン症の人たちの持つ世界に気づくと、
僕達は今より豊かになることが出来る。
まずは、もしかしたら、なにかあるかも、と想像してみて下さい。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。