今日は良く晴れた。
気持ちの良い朝で、10年前と何も変わっていないように見える。
あの日以来、すべてが変わってしまったのだが。
でも、僕達は希望を持って新しい道を模索し続けるだろう。
ゆうたと2人でお風呂に入っている時間は本当に幸せ。
ゆうたがアレルギーみたいなので、
肇さんがたくさん採って来てくれたビワの葉の煮汁を入れて、
お湯にゆっくり浸かる。
ゆうたはゴキゲンでニコニコニコニコしている。
時々「ウー」とか「アー」と言って笑う。
やわらかい、フワフワの裸。
前回、全体を見る感覚について書いたが、
補足すると、細部を見ないということではない。
実は全体をみる感覚の中で、細部はより鮮明に見える。
自身が透明になって全体そのもののような感覚になる時があるが、
それは本当に良い時のことで、なかなかいつでもという訳にはいかない。
でも、そうなった時は、本当に次の瞬間が見たくて、
ワクワク、ゾクゾクしてくる。どんな瞬間も感じとれる感覚だ。
大切なのは、背景をみることだとも書いたが、
実際には背景は具体的なものとしてはっきり見えるものではなく、
感じるもの、直感するものだ。
全体を見るというのも、さあ見ようという話ではなく、
身体が全体を見る感覚になるということだ。
人にも物事にも背景がある。
人間は切り離して、一個一個見ていこうとする。
そうして物事を認識している。だから間違える。
何事も背景を捉えずして、見ることは出来ない。
背景とは関係でもある。
私達の目の前に見えているものは、みんな一つ一つ別々にある。
でも、背景は複雑に繋がっている。
それを感じとることが大切だ。
僕達は「場」や「流れ」を感じる。
背景を感じとる。
お話をしていても言葉の背後を見る。
全体の雰囲気、気配、空気。
そういったものは肉眼では見えない。
だから感じる、そして視覚ではない見方で、明晰に見る。
人間にとっての背景とは、動物や植物であり、
更なる背景は自然や宇宙となるだろう。
そこまで見ていかなければ、本質は分からない。
全体を見るとはそういうことでもある。
部分だけ見るから偏る。
言葉にも作品にも、行動にも背景がある。
そこを見て、そこに触れていく。
例えばゆうすけ君はその日に着ている服の色と、
描いている作品の色が調和している。
(ご家族のお話によると着る服は自分で選んで来ている)
アトリエの庭を背にして描いている時など、
緑の中で様々な色彩が溶け込み、更に自分の着ている原色の服も
一つになって、風景を創る。
実は場を感じることが出来ないと、一人一人を明晰に見ることは出来ない。
初めて絵を描く人を前にした時、
その人がどんな絵を描いたとしても、背景を見極めていなければならない。
もし、その人が自分の本質と違うところで描かざるをえなかったとして、
これがこの人の絵だと思ってしまったら、
あるいは「いい絵描くね」なんて、いってしまったら、
それでおしまいだ。そこから先に行けなくなってしまう。
だから、ここは通過点だな、よし次に行こう、もう少し見せてよという気持ち。
でも、それがもしその人の本質を表しているのに、
即座に反応できていなかったら、これも決定的だ。
関係はそこで切れてしまう。
この場合は、「素晴らしいね」とこころから表現できなくてはならない。
作家たち自身はというと、
ほとんどがこの雰囲気や空気感や、「場」を感じて表現する。
作品と作品の間で創造性の次の「波」を待っている時の表情。
てる君が描いているときなんかは、
サーフィンをする人が良い波が着たら乗ろうと、
海を見ながら待っている時の感覚に近い。
本当に謙虚で、本当に静かで、本当に楽しそう。
僕達も、今、目の前にあるものだけでなく、
その背景を感じとり、全体を見る大きな視野と、
細部を明晰に認識する、繊細な感覚をもって生きていこう。
大切に、丁寧に、やさしく、歩いていきたいものだ。