2012年3月25日日曜日

背景を感じとる

今日は良く晴れた。
気持ちの良い朝で、10年前と何も変わっていないように見える。
あの日以来、すべてが変わってしまったのだが。
でも、僕達は希望を持って新しい道を模索し続けるだろう。

ゆうたと2人でお風呂に入っている時間は本当に幸せ。
ゆうたがアレルギーみたいなので、
肇さんがたくさん採って来てくれたビワの葉の煮汁を入れて、
お湯にゆっくり浸かる。
ゆうたはゴキゲンでニコニコニコニコしている。
時々「ウー」とか「アー」と言って笑う。
やわらかい、フワフワの裸。

前回、全体を見る感覚について書いたが、
補足すると、細部を見ないということではない。
実は全体をみる感覚の中で、細部はより鮮明に見える。
自身が透明になって全体そのもののような感覚になる時があるが、
それは本当に良い時のことで、なかなかいつでもという訳にはいかない。
でも、そうなった時は、本当に次の瞬間が見たくて、
ワクワク、ゾクゾクしてくる。どんな瞬間も感じとれる感覚だ。

大切なのは、背景をみることだとも書いたが、
実際には背景は具体的なものとしてはっきり見えるものではなく、
感じるもの、直感するものだ。

全体を見るというのも、さあ見ようという話ではなく、
身体が全体を見る感覚になるということだ。

人にも物事にも背景がある。
人間は切り離して、一個一個見ていこうとする。
そうして物事を認識している。だから間違える。
何事も背景を捉えずして、見ることは出来ない。
背景とは関係でもある。
私達の目の前に見えているものは、みんな一つ一つ別々にある。
でも、背景は複雑に繋がっている。
それを感じとることが大切だ。

僕達は「場」や「流れ」を感じる。
背景を感じとる。
お話をしていても言葉の背後を見る。
全体の雰囲気、気配、空気。
そういったものは肉眼では見えない。
だから感じる、そして視覚ではない見方で、明晰に見る。

人間にとっての背景とは、動物や植物であり、
更なる背景は自然や宇宙となるだろう。
そこまで見ていかなければ、本質は分からない。
全体を見るとはそういうことでもある。
部分だけ見るから偏る。

言葉にも作品にも、行動にも背景がある。
そこを見て、そこに触れていく。

例えばゆうすけ君はその日に着ている服の色と、
描いている作品の色が調和している。
(ご家族のお話によると着る服は自分で選んで来ている)
アトリエの庭を背にして描いている時など、
緑の中で様々な色彩が溶け込み、更に自分の着ている原色の服も
一つになって、風景を創る。

実は場を感じることが出来ないと、一人一人を明晰に見ることは出来ない。
初めて絵を描く人を前にした時、
その人がどんな絵を描いたとしても、背景を見極めていなければならない。
もし、その人が自分の本質と違うところで描かざるをえなかったとして、
これがこの人の絵だと思ってしまったら、
あるいは「いい絵描くね」なんて、いってしまったら、
それでおしまいだ。そこから先に行けなくなってしまう。
だから、ここは通過点だな、よし次に行こう、もう少し見せてよという気持ち。
でも、それがもしその人の本質を表しているのに、
即座に反応できていなかったら、これも決定的だ。
関係はそこで切れてしまう。
この場合は、「素晴らしいね」とこころから表現できなくてはならない。

作家たち自身はというと、
ほとんどがこの雰囲気や空気感や、「場」を感じて表現する。
作品と作品の間で創造性の次の「波」を待っている時の表情。
てる君が描いているときなんかは、
サーフィンをする人が良い波が着たら乗ろうと、
海を見ながら待っている時の感覚に近い。
本当に謙虚で、本当に静かで、本当に楽しそう。

僕達も、今、目の前にあるものだけでなく、
その背景を感じとり、全体を見る大きな視野と、
細部を明晰に認識する、繊細な感覚をもって生きていこう。
大切に、丁寧に、やさしく、歩いていきたいものだ。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。