2012年3月10日土曜日

自然さを取り戻す

よし子と悠太は無事に帰って来た。
久しぶりに悠太と会って、一緒に過ごして変化にビックリ。
短い時間で、こんなに大きく成長するのかあと。
身体もガッチリ、表情もしっかりして見違えるようだ。

ここまで来るのも大変だっただろう。
悠太たちがいない間、東京ではいくつか大切な仕事に挑んだ。
それが出来たのも、よし子が三重で悠太を育てていてくれたこと、
肇さん敬子さん、文香ちゃんがサポートしてくれたお陰だ。
家族、親戚の方達だけでなく、三重ではたくさんの方のお世話になった。
この期間、悠太を育ててくれてありがとうございました。

金曜日に4ヶ月検診に行って来た。
同じ位の時期の赤ちゃんがいっぱい居た。
悠太はやっぱり大きい。エネルギーも凄い。

この子は本当にやさしくて、いい子だなあと思う。
じっと見詰められると可愛くてしかたない。
なるべく悠太と過ごせる時間を増やしていきたい。

さて、1ヶ月、2ヶ月でこんなに変化して行く悠太を見ていて思った。
もう、あのグニャグニャに柔らかかった時には戻れない。
しっかり人間になって行くとは、少しづつ不自由になって行くことでもある。
人は生きている限り、成長し続けなければならない。
でも、一方で成長とは、少しづつ固くなって行くこと。
世界を固定して行くこと、自分の限界を作って行くことでもある。
だから、成長して行くだけではいけないと思う。
成長より大切なのは、失わないこと、取り戻すことだと思う。
人も社会も時代も、成長と進歩には目を向けるが、
失わないことや取り戻すことの価値を忘れている。

アトリエをずっと続けて来て、ダウン症の人たちをずっと見てきた。
一般の方でも本当に様々な方がここを訪れる。
そんな中で感じてきたのは、人間は自然さを失う生き物だということだ。
このブログでも自然さということを何度か書いた。
私達がダウン症の人たちから学ぶべきなのも、この自然さだ。
制作の場に入ると、ただ居るだけでその人の本質が出てしまう。
そこで自然じゃないと場の中で違和感を感じる。
でも、自然にこの場に居れる人は滅多に居ない。
どこかに力が入っていたり、緊張があったり、あるいは流れが滞っている。
スタッフに要求されるのも自然さだと以前書いた。
考えてみると、人間だけが自然さを失う生き物だ。
他のどんな植物も動物も自然さそのものだ。

人間がなぜ、不自然になってしまうかと言うと、
意識や自覚を持つことが出来るからだ。
意識や自覚は自然さを奪ってしまう。
意識的な動作より無意識の動作の方が優秀なのはそのためだ。
考えも意識の一部だ。考えてしまうと出来ないことは多い。

意識出来る、自覚出来るということは人間の特権でもある。
大切なものでもある。
極めて難しいことなのだが、
私達がしなければならないことは、
意識して自覚して自然さを取り戻すことだ。
これが人間にあたえられた使命であるように思える。

赤ちゃんの頃は自然そのもので、なんの限界もない。
理想的な状態だ。でも、その自然さはやがて失われる。
失ったものを、今度は自覚を持って取り戻す。

例えば、アトリエでは少なくともスタッフとしては、
今から自然にしようと思って出来なければ場は動かない。
これは簡単ではない。
普通は自然とは意識しないことなのだから。
これも一緒だけど、さあ力を抜こうと思うと力が入ってしまう。
リラックスしようと意識すると緊張する。
でも、それが出来ることが大切なのだ。

自覚されない、意識されない自然さは尊いが、
やがて失われてしまうという弱さを持つ。
自覚された自然さ、意識的な無意識にはそういった弱点がない。
僕は制作の場ではそういう能力が必要だと感じてきた。

人は本能的に愛情をもっていて、繋がりたい、対象に入りたいと欲求している。
だから自然さがあれば、人や環境や事物に愛情が生まれ、
そこへと繋がるため、入り込むための注意力や観察力が働く。
そうするとその場で何をすべきなのかが分かる。
どのように振舞えば良いのかが分かる。
自然さがないと何事も勉強したり、訓練しないと出来ないと感じてしまう。
自然界で勉強や訓練をしている生き物は居ない。
自然さがあれば、どうすべきかが分かるようになっている。

ダウン症の人たちの制作における振舞も同じだ。
彼らは次にどの色を選べば良いのか分かるのだ。
それは自然さがあるからだ。
彼らの世界を知ろうと思ったら、私達も自然さを取り戻すことだ。
そうすれば彼らのことも分かるし、
彼らとの本当の繋がりをつくることが出来る。
その時、私達は共に新しい何かを、つかむのではないか。
人類の進むべき道を見つけるのではないだろうか。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。