よし子と悠太は無事に帰って来た。
久しぶりに悠太と会って、一緒に過ごして変化にビックリ。
短い時間で、こんなに大きく成長するのかあと。
身体もガッチリ、表情もしっかりして見違えるようだ。
ここまで来るのも大変だっただろう。
悠太たちがいない間、東京ではいくつか大切な仕事に挑んだ。
それが出来たのも、よし子が三重で悠太を育てていてくれたこと、
肇さん敬子さん、文香ちゃんがサポートしてくれたお陰だ。
家族、親戚の方達だけでなく、三重ではたくさんの方のお世話になった。
この期間、悠太を育ててくれてありがとうございました。
金曜日に4ヶ月検診に行って来た。
同じ位の時期の赤ちゃんがいっぱい居た。
悠太はやっぱり大きい。エネルギーも凄い。
この子は本当にやさしくて、いい子だなあと思う。
じっと見詰められると可愛くてしかたない。
なるべく悠太と過ごせる時間を増やしていきたい。
さて、1ヶ月、2ヶ月でこんなに変化して行く悠太を見ていて思った。
もう、あのグニャグニャに柔らかかった時には戻れない。
しっかり人間になって行くとは、少しづつ不自由になって行くことでもある。
人は生きている限り、成長し続けなければならない。
でも、一方で成長とは、少しづつ固くなって行くこと。
世界を固定して行くこと、自分の限界を作って行くことでもある。
だから、成長して行くだけではいけないと思う。
成長より大切なのは、失わないこと、取り戻すことだと思う。
人も社会も時代も、成長と進歩には目を向けるが、
失わないことや取り戻すことの価値を忘れている。
アトリエをずっと続けて来て、ダウン症の人たちをずっと見てきた。
一般の方でも本当に様々な方がここを訪れる。
そんな中で感じてきたのは、人間は自然さを失う生き物だということだ。
このブログでも自然さということを何度か書いた。
私達がダウン症の人たちから学ぶべきなのも、この自然さだ。
制作の場に入ると、ただ居るだけでその人の本質が出てしまう。
そこで自然じゃないと場の中で違和感を感じる。
でも、自然にこの場に居れる人は滅多に居ない。
どこかに力が入っていたり、緊張があったり、あるいは流れが滞っている。
スタッフに要求されるのも自然さだと以前書いた。
考えてみると、人間だけが自然さを失う生き物だ。
他のどんな植物も動物も自然さそのものだ。
人間がなぜ、不自然になってしまうかと言うと、
意識や自覚を持つことが出来るからだ。
意識や自覚は自然さを奪ってしまう。
意識的な動作より無意識の動作の方が優秀なのはそのためだ。
考えも意識の一部だ。考えてしまうと出来ないことは多い。
意識出来る、自覚出来るということは人間の特権でもある。
大切なものでもある。
極めて難しいことなのだが、
私達がしなければならないことは、
意識して自覚して自然さを取り戻すことだ。
これが人間にあたえられた使命であるように思える。
赤ちゃんの頃は自然そのもので、なんの限界もない。
理想的な状態だ。でも、その自然さはやがて失われる。
失ったものを、今度は自覚を持って取り戻す。
例えば、アトリエでは少なくともスタッフとしては、
今から自然にしようと思って出来なければ場は動かない。
これは簡単ではない。
普通は自然とは意識しないことなのだから。
これも一緒だけど、さあ力を抜こうと思うと力が入ってしまう。
リラックスしようと意識すると緊張する。
でも、それが出来ることが大切なのだ。
自覚されない、意識されない自然さは尊いが、
やがて失われてしまうという弱さを持つ。
自覚された自然さ、意識的な無意識にはそういった弱点がない。
僕は制作の場ではそういう能力が必要だと感じてきた。
人は本能的に愛情をもっていて、繋がりたい、対象に入りたいと欲求している。
だから自然さがあれば、人や環境や事物に愛情が生まれ、
そこへと繋がるため、入り込むための注意力や観察力が働く。
そうするとその場で何をすべきなのかが分かる。
どのように振舞えば良いのかが分かる。
自然さがないと何事も勉強したり、訓練しないと出来ないと感じてしまう。
自然界で勉強や訓練をしている生き物は居ない。
自然さがあれば、どうすべきかが分かるようになっている。
ダウン症の人たちの制作における振舞も同じだ。
彼らは次にどの色を選べば良いのか分かるのだ。
それは自然さがあるからだ。
彼らの世界を知ろうと思ったら、私達も自然さを取り戻すことだ。
そうすれば彼らのことも分かるし、
彼らとの本当の繋がりをつくることが出来る。
その時、私達は共に新しい何かを、つかむのではないか。
人類の進むべき道を見つけるのではないだろうか。