2012年3月3日土曜日

最初の気持ち

金曜日もちょっと取材をうけていた。
初めて会う人、まだアトリエやダウン症の人たちのことを知らない人、
そんな人の前で話す時、緊張もするし勉強にもなる。
たとえば、作家たちに対して、直接には会っていないのだから、
ここでのお話の印象が入口になることは確かだ。だから、責任を感じる。

会合やシンポジウムのような場所に呼ばれて行くと、
そこではすでに、ある前提があって、ある程度の認識を共有していたりする。
ある種の専門家が集まっている場合は、
だいたいがもうご存知のように、という様なお話が多い。

僕は知らない人に伝えることが大切だと思うし、
こちらも、初めてそのテーマに向き合う人から学ぶことが多い。
自分達も始めの気持ちを思い出すことが出来る。

正直に言うと、会合の様な場所では違和感を感じることも多い。
視点が偏り過ぎている。
実際に、その議論によって誰かが何かの役に立つのだろうかと考えてしまう。

書いた事があるかも知れないが、
ダウン症の人たちをめぐっても、様々な取り組みがなされ、
考察もされて来ているが、専門家も含め、すべての議論は、
社会の視点、こちら側の視点でなされている。
それが悪いとか、必要ないと言うことではなく、
その事実を自覚しなければならない、ということだ。
そして、時にはダウン症の人たちの側の視点に近付いてみる必要もあるのではないか。

初めて、見る人、聞く人、接する人には、だから可能性がある。
伝える側も、そういう人達を念頭におくべきだ。

私達は知らないことや、分からないことを恐れるより、
知っているとか、分かっているという思い込みの方を恐れるべきだ。

例えば、作品を例にとってみると、
展覧会で人の反応を見たり、お話を聞くことも多いが、
専門家より、素人の方が本質をとらえる。
それから、ダウン症の人たちに関わるお仕事をされていたり、
ご家族やご親戚にダウン症の人がいるといった、
彼らに近いところにいる人達は、実はなかなか作品が見えない。
近すぎて見えなくなると言うことも、確実にあるがそれ以上に、
彼らはこうだという生活レベルの思い込みが、
作品を見る純粋な目線を曇らせてしまう。
勿論、これは専門家とは違って、しかたのないことではある。
例えば一般的な例で母親がこどもを見る目は、一体化しすぎているから、
見えなくなる部分は多いという、よくある事実。
これも、そうなる位じゃなければ、子供を守って行くことも出来ないし、
ましてや最初から産むことなど出来ない。

近い視点というものは、どこかでこの母親的なものがある。

近すぎて見えなくなることがあるが、悪い訳ではない。
専門家が偏ってしまって、かえって本質から遠ざかってしまうのも、
悪いとは言えないかもしれない。
でも、だからこそ、時には素直に初めて見る目線を取り戻して、
最初の気持ちで感じてみる。

ダウン症の人たちの作品には力がある。
初めて見る人は、絵の前で涙を流すこともある。
1人や2人ではない。
展覧会では毎回、そんな場面を見て来た。
既にダウン症の人たちを知っている人や、
周りで触れている人にも、この気持ちを忘れないでいただきたい。

そして、初めて見たり、触れたりする人達に伝えたい。
今、僕達が生きている世界だけがすべてではないと。
もっと違う可能性も生き方も、感じ方もある。
もっと豊かにやさしく、平和な世界を創ることも出来る。
そんな可能性に対して自分を開いて欲しい。
ダウン症の人たちの魂に触れてみて欲しい。
そこには、何か大切なものがあるはずだ。
彼らは作品を通して、生き方を通して、それを伝えている。
私達もよく耳を澄まし、感じとろう。
すべてを知った気にならないで、分かった気にならないで、
いつでも探し、みつけに行こう。新しいものが満ちあふれている。
今の世界や生き方や、在り方を時には疑ってみよう。
こんなもんだと諦めてしまっていないか、
感覚も考えも閉じてしまっていないか、見つめなおそう。

ダウン症の人たちの持つ世界に気づくと、
僕達は今より豊かになることが出来る。
まずは、もしかしたら、なにかあるかも、と想像してみて下さい。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。