2011年11月30日水曜日

無きにしかず

悠太は本当に元気。よく食べ(飲みか?)よく寝、よく泣く。
全身で生きている。
見ていると時間がすぐにたってしまう。
今日まで敬子さんに居ていただいた。入院時からずっと付き添って貰ったことになる。
本当に助かりました。
今日からはうちの母が手伝いに来る。

前回、制作に向かう彼らの、精神的自立度の高さについて書いた。
僕達スタッフはいわば自転車の練習の時の様に、
後ろから支えて走って行って、本人が気が付いた時には手を離している。
いつの間にか、本人が1人で走っている。
こころを一つにする、一体となることの大切さは何度も書いた。
それ以上に大事なのは、いかに離れるかなのかも知れない。
離れることが上手く出来なければ、次の世界が見えて来ない。
制作における自立のみならず、
親離れ、子離れ、古い環境から離れて、また新しい関係が生まれる。
そうすることで、お互いが伸びていく。

実際に制作の場において、離れる技術は大切だ。
すでに自立的な動きが始まっているのに、いつまでもべったりしていたら、
前の関係に戻ってしまうし、自由なこころの動きを阻害することになる。

すべてのことが、そうだが足し算より引き算だと思う。
何が必要か考えること以上に、何が必要でないかを考え、
必要の無いものは取り外すことだ。

例えば、僕達の仕事でも極論すれば、本当は無くなればいいのかも知れない。
つまり、みんなが彼らのこころと一つになれる様になれば、
こういった活動も必要は無くなる。
ダウンズタウンもそうだ。
社会全体が、彼らの文化を受け入れ、共存出来る平和なものになれば、
ダウンズタウンもいらない。
これらは極端な言い方だが、
この様に、絶えず無きにしかずという理想に向けてすすんでいれば、
本質から逸れないのではないだろうか。

今の社会も、人も、無くても良いもの、無くても成り立つものばかりを、
追い求めている。
無くても良いものがあると、人は命の力を失う。

いつでも、手を加えるのは最小限にと思っている。

アトリエの活動も、最も必要な本質にだけピントを合わせていきたい。

2011年11月29日火曜日

超えていくこと

悠太は毎日すくすく育っている。凄い食欲。
毎日変化する姿は、本当にかわいく楽しい。
寝る時間や休む時間が無くなったが、悠太の顔を見ていると、一瞬で疲れが抜ける。
今が一番、子供と一体の時期だ。
ただただカワイイだけの時期。それだけでいい時期。
今見ている悠太の顔は一生忘れないだろう。
成長と共にこの一体感は消えていく。消えなくてはならない。
環境も人も、関係も変化していく。
変化していく事で、新しいものが生まれ、新しい世界が見えて来る。

関係が変わって行く事は、成長し変化し新しくなっていくこと。
日々、超えていくこと。それは一生つづく。

プレのクラスを見ていても、ハルコやあきやてるくんとの関係は、
エコールの頃とは確実に違う。
みんなは精神的には、僕を必要としなくなっている。
そこから僕との関係も新しいものになっていく。
それが面白い。

以前、自立について書いてが、そういう部分を見ていると、
精神的な意味では彼らは、結構自立している。
20代の学生達より、精神的自立はすすんでいる様に見える。

前にすすむ。とどまってはならない。
成長を抑え合って、甘え合っていてはならない。
今、少しづつ自分の過去を振り返っているが、
すでに終わったものは超えて行かなければならない。
今の僕はもうそこにいないし、もうそこを見てはいない。

服だって小さくなったら、脱ぎ捨てるしか無い。
無理やり着ていてはいけない。

今の環境や関係が衣服の様に、自分の伸びていくサイズと合わなくなることはある。
とどまってはいられないのだ。

でも、超えていった先で、かつて一体であった頃のあたたかい記憶が、
自分を救ってくれる。その思い出を宝物の様に持って、超え続けていけばいい。

今年を最後に2名の生徒がアトリエを離れることになった。
数年間、制作を見守って来たので、本当に残念でさみしい。
2人とも先日のうおがし銘茶での展覧会に出品していた。
たくさんの人の目に触れて、好評を得ていた。
かなちゃんは強い筆圧で、立体感のあるシンプルできれいな作品を描いて来た。
作業所に通いだしてからは、作品に勢いが無くなって来ていて、
疲れて来ているなあと心配していた。
ゆうすけくんはもう1人いるが、こちらのゆうすけくんは、
展覧会で「ためいき」という大人っぽい作品を出品して、見る人を感心させた。
色彩感覚が鋭く、線の使い方がすばらしかった。
2人とも、きれいな作品を描き続けてくれた。
アトリエで活き活きと、みんなと楽しんでくれた。
アトリエを離れても、こういう時間を大切に、
作品に現れていたこころが守られていく事を願っている。

制作の場の質を保つため、少人数で一クラスを創っている。
そのために、2名抜けると運営は大変だが、また新しいメンバーに出会えるだろう。
また、生徒数が入り過ぎてお断りしなければいけないこともあり、
このバランスは難しい。

余談だが、先日アトリエで保護者の方の1人が、
「作品がいいからすべて成り立つんですよね」と言うようなことを仰った。
確かに彼らの作品は素晴らしいし、
作品を生み出す彼らのこころの純度が、すべてを成立させている。
その事は事実だ。
でも、この言葉は間違っていると思う。
作品はすばらしいが、それはほうっておいて勝手に出て来るものではない。
紙と絵の具があれば良い作品が描ける訳でもない。
環境を保つことの重要性を忘れては、
いかに素晴らしいものも簡単に崩れてしまう。
その意識は、みんなで共有していたい。
もう一つ、伝え方や場所をしっかり選ばなければ、
ただ流れに任せていると、いつの間にか価値のないものに見えてしまうだろう。

そう言えば、しばらく前のことだが、こんな事があった。
アトリエの裏に養護学校か何かのスクールバスがある。
そのバスの前で自閉症の女の子がずっと、何か叫び続けていて、
大人がいっぱい立ち尽くしている。小学校も近くにあって、
小学校の警備員みたいな人達まで、道が危ないとでも言う様に、
話し合い、見守っている。またしても誰も何もしない。
女の子はうろうろ歩き回って叫び続ける。
僕は犬の散歩をしながら近付く。
女の子の顔を見ると、ああやっぱりという感じ。
何かタイミングを逃したみたいだ。
その間にみんなが怖がるから、ますます出口を失ったのだ。
僕は話しかけ易い様に、自分を無防備にして無意識で近付く。
彼女は急にニッコリ笑って「おっおはよーございまーす」という。
「ああ、おはよう」と僕が答える。
彼女はそのままバスに乗って行く。それでおしまい。
ただ、挨拶がしたかっただけなのだ。
こんなことが分からない人があまりに多いから、
生きづらい環境を強いられている人達がいる。

2011年11月28日月曜日

共働学舎2

土、日曜日クラスではみなさんから、お祝いをいただきました。
本当に有り難うございます。

以下、前回の続きです。
読まれていない方は前の回からお読み下さい。

こころの無垢とは何か
共働学舎を再び訪れて

宮島真一郎先生(親方)との対話 つづきから

親方  ダウン症の子が描いた絵はどんなテーマが一番多いのかい。

佐久間 そうですねえ‥‥、人によって異なりますが、身近なもの、
行った事のある場所や好きなものですかねえ。

親方  人物が多いのかな?

佐久間 人物はそんなに多くはないと思います。
お母さんやお父さん、友達といった、テーマはよく出て来る気はしますが。

親方  ものを似せて描くこと。忠実に写し取って描く事が出来るかい。

佐久間 ものを忠実に写し取るというよりも、そのものにある雰囲気とか、
全体に流れる空気の様なものを、捉え、形に表現出来る人達ですね。

親方  ダウン症の子たちはどんなところに障害がありますか?
脳でですか?身体ですか?やはり大きな部分は脳でしょうか?
その様な研究はすすんでいるのだろうか。

佐久間 うーん。‥‥。
僕の知るかぎりでは、ダウン症の人たちに対しての研究は、
まだそんなに進んでいないのではないでしょうか。
染色体に異常があるということまでは分かっていますが、
その事が、どんな意味を持つのか、
身体やこころや知覚にどのような影響あるのか、
まだよく解明されていないのではないでしょうか。

親方  やはり、脳ではないかね。身体はどうだろう。

佐久間 身体も普通の人達に比べれると弱いです。
合併症として心臓に疾患を持つ人も多いですし。

親方  彼らの絵のどこが一番、魅力かな。

佐久間 色彩感覚だと思います。感覚が鋭い。

親方  君達が展覧会を開くと、子供達は喜ぶのかい?
色んな人達が彼らに質問したりしたら、答えられるのかい?

佐久間 そうですねえ。彼らは展覧会そのものよりも、絵を描く事自体を喜びます。
もちろん、見てもらう事も嬉しいし、喜ぶのですが、
絵を描く喜びはそれ以上です。
質問は日常的な事なら、彼らは答えられます。
もっと抽象的な質問は僕達が答えることになります。

親方  ダウン症の子たちは美しいものを感ずる感覚が強いのでは無いかい?

佐久間 まさしくそうです。

親方  感覚が敏感であることは非常に大変な、生きにくい事なんじゃ。
食べ物でも美味しいと感じる感覚が強いかい。
食べ過ぎてしまうのではないかい?

佐久間 食べ過ぎてしまう事は多いですね。

親方  そういう時、ダメとか、今はおやつの時間じゃないとか、
言わないで少しでもいいから、一緒に食べてあげて欲しいんじゃ。
そうすると、とても喜ぶんじゃ。

佐久間 はい。分かります。

親方  まあ、大変な事だけど。本当に敏感だと言う事は大変だけど、
それを一緒に分かってあげることなんじゃ。
本当はこの共働学舎にも、ダウン症の人が居るべきなんじゃ。
でも、ここは過酷だし敏感だと難しいじゃろうなあ。

佐久間 はい。

親方  今は、共働学舎も君達のところだけだからなあ。
ダウン症の子を見ておるのは。報告会でみんなに伝えてくれよ。
(記憶違いで、私達が共働学舎としてダウン症の人たちを見ていると思っているようだ)

佐久間 はい。分かりました。

親方  それから名前をよく呼んであげる事じゃ。名前を呼んであげるだけでも、
深ーいコミニケーションになるんじゃ。手を握ってあげる事も大事じゃ。
きれいな景色を一緒に、きれいだねえと、ゆっくりみてあげることじゃ。
決して急かしたりしてはダメだね。

佐久間 良く分かります。

親方  たくみも小さい頃は大変な子じゃった。
気に入らないと物を壊したり、走って来てわしにぶつかって来たりな。

佐久間 あのたくみさんが、ですか。

親方  そうじゃ。今じゃ考えられんだろう。
わしの所に来た時はたくみもまだ、10幾つじゃった。
どんな事があってもわしが、「たーくみー」と呼ぶと、
喜んで走って来たもんじゃ。

佐久間 はい。

親方  ダウン症の子は、言葉がしゃべれないかい?

佐久間 決してそんなことはありません。
個人差はありますが、特に、親しい人とはとてもよくしゃべりますよ。

親方  言葉は苦手ではないかい?

佐久間 特にそのような印象はありませんが、環境によっても違うと思います。
良い環境があれば、言葉の能力も相当出て来るのではないでしょうか?

親方  数字、数が苦手ではないかね?

佐久間 そうですね。確かに計算は少し苦手ですね。

親方  一番出来ない事は、一番苦手な事は何かね?
どんな点がいちばーん、普通の人より劣っているのかね?

佐久間 うーん。‥‥。

親方  つまり、嘘というのはどうかね。
嘘をつくと言う事が、出来ないのではないかね。

佐久間 なるほど。そうですね。彼らは外面的にばかりでなく、
内面的にも嘘が無いと思います。
(何とかついて行くが、親方のシンプルな言葉の鋭さに内心、ドキッとした)

親方  わしは嘘をつく事が人間の中で一番良くない、
罪ふかーいことだと思うんじゃ。
脳を専門に研究している科学者に聞いてみた事もあるんじゃ。
嘘をつく、悪い事をするのは人間の脳のどんな部分が機能してそうなるのか。
これはまだ、科学では分からないようだ。

佐久間 はい。そのようですね。

親方  わしはなあ、人間の脳のどこかにある、
そういう嘘を言う機能というのが、特定されれば、
そこをどうかして悪を無くすることが出来るのではないかと。
それを望む気持ちもあるんじゃ。

佐久間 はあ‥‥。
(やっぱり、この人は凄いと思う。確かに危険な発想だが、あまりに真っすぐに純粋に探求して行く迫力におされる)

親方  この共働学舎でも、嘘をつく、物を盗むと言う、
いちばーん悲しい事がおきるんじゃ。
わしはここに来たいと言った人間は誰でも受け入れて来た。
たくさんの問題がおこった。
本当に教育と言うものがあるのなら、
人間を悪を無くせなければ嘘なんじゃ。
そうしなければ、戦争も何も無くならないのじゃ。
ダウン症の子たちが嘘を言えないのは、
人間の脳のどんな所に由来するのか。それが大事なんじゃ。
しかし、こころというものは、脳ではない。イエスキリストという人は、
そのこころを変える力を持っていたはずなんじゃ。
こころを変える力が無ければ、教育の意味はないんじゃないか。

佐久間 こころを変える、と言うことは大変な、途轍もない事だと思います。
ただ、これまで人類は計算や悪を為す源になる、能力ばかりを伸ばして来た。
良い事をする能力、良いこころの力というものもあるはずです。
時間はかかるでしょうが、
そういう能力を伸ばして行く事の価値を認識する必要があると思います。
ダウン症の人たちは、素直で平和なこころの能力を持っています。
そこから学ぶ事は出来ると思います。

親方  うんうん。そこなんじゃ。

佐久間 それから親方、心臓の悪い人が、気持ち良く絵を描くことで、
身体が良くなって行く様な事があるんでしょうか?
僕は実感的にはある様な気がするのです。

親方  それは勿論じゃ。
人間の気持ち、こころというものが、
最もふかーく反映されるのが心臓なんじゃ。
嫌な事やストレスを経験した時、心拍数がすごーく変化するんじゃ。

佐久間 なるほど。

親方  ダウン症の子の素直さというものは、健常の人間にもあるものかね?
僕の先生の羽仁もとこという人は、こころのやさしい人じゃったが、
歌を歌うと本当に音痴じゃった。
音痴である事と、やさしいことに何か繋がりがあるかね?

佐久間 あるような気がします。
音程や文脈を合わせる能力、辻褄を合わせる力や、計算といったものは、
人間の中にある純粋な感覚の力とは別のもののような気がします。

親方  そうだね。

佐久間 親方は共働学舎を辞めたいと思った事はありますか?

親方  何回もあるよ。
まことがこうして手伝ってくれなければ出来なかったと思っとる。
ここに来る人たちは、みんな自然に集まって来たんじゃ。
わしが頼んだ訳じゃないが、たくさんの人が手伝ってくれた。
そして、自然にここの生活がある。

佐久間 最近はどんな事を考えますか?

親方  寝る前にガンジーの自伝を読んでもらうんじゃ。
インドという国は様々な問題を抱えている。
その中でガンジーがはたして来た役割は大きい。
一度、ガンジーに会いたいのじゃが、わしみたいなものに会ってくれるかな。
(あの世でということかな?)

佐久間 でも、親方はマザーテレサには会いましたね。

親方  そうじゃ。マザーテレサとは兄弟のようなもんじゃった。
会うとすぐにこころが通じ合った。よく手紙もくれた。

佐久間 本当に親方やまことさんの姿を見て来たから、今の自分があります。

親方  とんでもない。
わしの方こそ、君達に教えてもらいたい事がいっぱいあるんじゃ。
ダウン症と言う言葉は良くないねえ。何か良くないイメージがある。
良い名前は無いか?考えてくれよ。

佐久間 そうですね。名前を考えないといけないですね。
親方、久しぶりにたくさんお話し出来て楽しかったです。
ありがとうございました。

親方  ありがとう。良い仕事をしてくれよ。頼んだよ。ありがとう。
報告会にも来てくれよ。

佐久間 はい。ありがとうございました。

その日、私達は車が通れない山奥にある真木共働学舎へ向かった。
今回の目的は多摩美の学生を連れて行く事だった。
久しぶりに、まことさんと真木へ向かう、山道を歩く。昔はみんなの食料を運んでいたけど、今回は自分の荷物と若干のみんなの飲み物だけ。
まことさんは、歩きながらも道の確認をして、次に歩く人や明日歩く人の為の道を造っている。真木に着くと、まことさんは真っ先にみんなの仕事場へ向かい、進み具合を見てアドバイスしていく。織物を織っている人達には、なぜ最後の部分が上手くいかないのか説明する。一人一人を本当によく見ている。みんなの作っている織物はすばらしい。色彩感覚も織り方も凄い。これを作品として認識出来る人がいないのが残念だ。特にクニちゃん(発達障害の人)のはいい。みずほさん(この人も発達障害の人)えのきどさん(統合失調症の人)やまぎしさん(左官屋の親方をしていて、現場で転落事故後に記憶喪失となり、脳に障害を残す。今、このレポートを写している時点ではすでに亡くなられた)クニちゃん達が、ニコニコしながら、ゆっくり話しかけて来る。懐かしい気分だった。彼らと話していると10数年がすぐに吹っ飛んで昔に返る。彼らとの関係の中では何も変わっていない事に気付き、この様な深い関係を持てた事の幸運を実感する。

佐久間 みずほさん、元気?

みずほ げんきだよ。佐久間君やなんかもー、げーんーきかなーとおもえるからしてー。
最近はー、名探偵コナンもー、あんまり見れないからねー。
今日はー、バンクーバーでーフギアがあるよ。

クニちゃん んっんっ佐久間君、東京は楽しい?僕も今年、んっんっ。
モーニング娘のコンサート行くんだよ。

佐久間  クニちゃんと言えば、上野だよね。あとはフィリピンパブでしょ。

クニちゃん んっ、なーに言ってんだよ。もう行ってないよ。
クニちゃんの髪は自分で脱色して茶色。額とこめかみの辺りは剃っている。ピンクのマニキュア。指にはカラーのテープが巻いてある。猫に噛まれたと本人は言う。

佐久間   えのきどさん、矢沢永吉、聴いてる?

えのきど  やっ矢沢永吉、聴いてる聴いてる聴いてる。

佐久間   矢沢永吉のどこがいいんだっけ?

えのきど  いっ一番強い。

佐久間   2番目は?

えのきど  2っ2番目は舘ひろし。舘ひろし舘ひろし、クールズ。

佐久間   3番目はえのきどさんだよね。

えのきど  いやっ。俺はよっよわっちいよわっちいよわっちい。よちよちよち。

佐久間   今日は学生を連れて来たんだけど、彼はどう?

えのきど  カッコいい。2っ2枚目。

佐久間   えのきどさんも渋いよね。

えのきど  しっ渋くない渋くない渋くない。かっかっこわるいかっこわるい。
5っ5枚目5枚目5枚目。ごっ5枚目ガシラ。

えのきど  (ニッコリ笑いながら)佐久間君、昔の方が面白かったね。

佐久間   えっ。昔っていつ?

えのきど  わっ若い頃。

佐久間   昔の感覚を取り戻さなきゃ。

やまぎしさん  今度は夏来てね。

佐久間      夏?

やまぎしさん イワナ釣って食わしてあげる。

佐久間    わーありがとう。

やまぎしさん 菜箸、いる?

佐久間    えっ、やまぎしさんがつくったやつ?ほしいなあ。

やまぎしさん じゃああげるよ。

(彼とはこれが最後になってしまった。やまぎしさん、本当にありがとう。最後にもらった菜箸、大事に大事に持っています。いっぱい教えてくれてありがとう。天国で僕のことも見守っていて下さい) 

こうして話していると、嘗ての感覚が蘇って来る。だが、今はもう違うように見えている事も事実だ。あの頃より彼らが見える。彼らが分かる。なぜだろう。私は彼らに愛されていた。私自身が、彼らほど純粋な愛を持つことが出来るまでに、多くの時間が必要だった。
共働学舎には障害という概念は存在しない。ここには、様々な立場の人がやって来る。やって来ると言ったが、中には連れて来られた、置いていかれた人達もいる。誰がどのような問題や障害を抱えているのか、実は誰も知らない。ただ、来た人達と共に生きる。生きていく中でたくさんの問題が発生する。それによって初めて一人一人の問題や病と向き合う事になる。農業がやりたい、福祉の勉強をしたい、人間を知りたい、コミニティに興味がある、様々な意欲ある人達も多くやって来る。だが、この場に最後まで残って生活して行くの人の多くは、結果的に様々な問題を抱え、行き場を失った人達、ここにしか居られない人達なのだ。誤解を恐れず、あえて言えば最底辺の人達。そんな、人達が共に生きる中で、見出しているものにこそ、私は人間の失って来た多くの宝が潜んでいるように思う。
夜は、まことさんと少し飲みながら話す。お風呂はクニちゃんに、昔みたいに一緒に入ろうと言ったが、うんうんと言いつつ私達が出て来るのを待っていた。みずほさんと一緒に入って色々話した。学生のイサがいたので大学で何をやっているのか、みずほさんに話してみた。

佐久間 平和学の構築って言うのもあるんだよ。

みずほ 平和学のー、こーちくー?できるといいねー。
白土三平さんのー漫画やなんかはー、過激でー、問題になった事もーあるからし     てー。平和学ーだったらー、「ほのぼの」なんかはーほんとにー平和学のーこうち    くーみたいだね。

まことさんは、夜もみんなの織物の直しをしていた。それからアタッシュケースの鍵を開けて、えのきどさんのタバコとお金と薬の管理をする。えのきどさんはしっかり、まことさんの隣に座って見守る。えのきどさんの今週のむ薬を種類分けしているが、本当にたくさんの種類でややこしい。途中、まことさんがうとうとしだすと、クニちゃんが薬の仕分けを自然に手伝いだす。3人が並んで座って、真木の景色に溶け込んでいる。助け合って生きている3人を見た。また、まことさんに背中で教えられている気がした。
翌日、私達は真木の山を降りる。雪の積もった田んぼの中を、えのきどさんが走りながら見送ってくれる。ニッコリ、笑いながら。手でギターを弾く真似をしながら、矢沢永吉のルイジアナを歌ってくれる。歌いながら、走りながら、雪につまずき、転びそうになって、ころんで、また走って笑う。そしてまた歌う。何かを伝えてくれている。本当に嬉しい。えのきどさんの矢沢永吉は時間よ止まれ以外はめったに歌ってもらえない。

もう一カ所、立屋共働学舎にも私にとって大切な人達がいる。
はやしさん(脳に障害がある。北海道の牛小屋で生きて来た)オブオブ(産まれる時に産道で詰まり未熟児として誕生。脳機能に障害を抱える)のぶちゃん(彼女も未熟児として産まれたようだ。自閉症と麻痺がある)さくみさん(プラダーウイリー症候群)さとやん(自閉症)たいすけ(幼い頃、交通事故に遭い、半身不随となり脳にも障害を残す)

はやしさん おおー、あ、あ、あんたは、うっうしぎゅうしゃによくおったな。
そーーか。とっ東京の田舎におるんか。

のぶちゃん さーふまくんっ。だーれだとおもっったよー。

オブオブ わし、今日、微熱やねん。カレー食うか?

さとやん あっあっ、もしよかったらっ、何時のバスで来たかっていうか、
どこについたかっていうかっ、いーや、べっべつに詮索する訳じゃないけど。

みんなの言葉と話し方にホッとする。

今回はたいすけが絵を描きたいと言って来たので、工芸室でクレヨンと紙をかりて、アトリエを開く。たいすけがからかうように「どーやあってーかーくーのー、せーんせー」と笑う。「先生じゃねーよ。たいすけの好きなように描けよ。なに描く?」「じゃーてーきーとー」。「真っすぐ座るんだよ。よし、太いやつを使おう。なんでも描いていいよ」「わーかったー」クレヨンを持つとすぐに始まった。時々、こちらを見詰めて微笑む。「いいなあ。やっぱたいすけすごいな」。身体を自由に動かせない分、全身を使っての集中力が強くなる。色を塗りながら、どんどん深い世界に入っていく。目付きが変わる。手が自然に動き出す。たいすけのこころが目の前に見えて来る。絵が出来ると2人でしばらく深い時間を味わう。こころとこころが出会い、繋がる。たいすけは立ち上がって、ストーブの前へ移動して休む。しばらくして、たいすけの方を見ると、笑顔で「あーりーがーとー」とゆっくり私を見詰める。わざとドラマっぽく「たいすけー」と抱きしめる。それから小林さん(おそらく自閉症)が電車の絵を描く。最初は恥ずかしいと言ったり、間違えたとか、どうやったら描けるのとか、迷っていたけど、「大丈夫、大丈夫」と声を掛けていく。途中から、電車の中の色を重ねだす。「それ、すごいね。きれいだね」というと、自信にあふれた表情になった。のってきた。表現もグンと深くなり、楽しみだす。「明日帰るの?さみしい。まっ、また来てね。いっいつ来るの」とこちらに話しながらも描いていく。「えっ駅はどうやったら描けるの?」「さっきの電車みたいにイメージして、思い切ってやってみれば、絶対描けるよ」「こっ今度は駅、いっ一緒に描こう」「おお、いいねえ」。たくみさんも来る。「僕も描いていい?」「もちろんいいよ」。たくみさんは牛の絵を描く。いつも牛の世話をしているから、よく観察している。「わあー。たくみさんの牛だあ。いいなあ」というと、私の顔を見て、「そーかあ。佐久間君達はこういう仕事をしてるんだあ」、ドキッとする。かつて生活を共にしていた人達の魂に、今度は作品を通じて出会うことができた。
たった3日間の滞在だったが、十数年前の時間が蘇った不思議な感覚だった。彼らとの関係はあの頃と何も変わっていなかった。変わった所があるとすれば、自分の中に生まれた、自覚と確信だけだ。こころが繋がる瞬間への揺るぎなき確信。
私が共働学舎と出会ったのは16歳の時だった。初めてはやしさんに会った時の印象は忘れられない。強烈な個性と、何もしないでただそこに存在しているだけで、輝くような存在感があった。私はその人になにかしら崇高なものを感じた。何も持たない、誤摩化さない、生きている事だけがあるような存在。人間の持つ本来の尊厳と強さ、やさしさ。彼は、無駄なものをすべて削ぎ落としたような凄みをもってそこにいた。そこには何者によっても汚される事の無い純粋さがあった。彼らは私に何を与えてくれたのだろうか。宮島先生の言葉に「人間というものを理解しようと思ったら、一般の健常な人を見ても決して分からない。障害と呼ばれるような人を見ていく時、初めて人間とはどのような存在なのかが分かる」というのがある。私はこの言葉を何度か、先生の口から聞いている。なぜ健常者、普通の人間との付き合いから人間の本質が見えないのか。それは、私達が意識の表面でコントロール出来る、浅い部分でしか人と触れたり会話したりしないように訓練されているからだ。そこでは決して、なまの、裸の人間の本質は現れて来ない。逆に絶えず裸で剥き出しの、人間そのものとしてしか生きられない人達がいる。その人達と向き合う事は、自分自身と向き合うに等しい。私達が、眠り、目覚めて生きているこの世界。この日常。この世界は決して普段私達が思っているような、単純なものではない。それは、意識が情報として操作したり管理したり出来るようなものではない。それは簡単に分かったり、理解したり出来るようなものでもない。正しい見方や、一つの感じ方がすべてな訳でも決してない。世界はもっと広く、もっと豊かだ。至るところに、新しさがあり、発見がある。たくさんの見方、感じ方が存在している。人間は、もっともっと、生命の力を持っている。そういった事を、彼らから学んだと思う。
共働学舎の実践の最も大きな特徴は、障害者と健常者を分けないというところにある。学舎に絶えずあるのは、共に生きる「生活」だ。生活の中に人間に必要なすべての要素がある。
問題がおきた時に初めて、相手の存在を知り、共存の仕方を模索する。一歩乗り越えると、単一だった世界が、多様性に満ちた、豊かさと包容力を持った大きなものになっていく。
相手を知る事は、医療や専門の技術による事ではない。ただ生きていく、共にある事の実践の中で、お互いを理解する。問題が生まれて来るのは、健常者も障害者も同じだ。学舎では目の見えない親方の手を引いて半身麻痺の青年が道案内する。自閉症の人が、統合失調調の人の薬を分けるのを手伝ったりする。生活の中では思わぬ事がたくさんある。誰でも得意なこと、苦手なことがある。一つ一つの出来事の中に入って行く事で、奇跡のようなこころの癒しが起こる事もある。誰も障害や病気の話題を話す事は無い。また、避ける事も無い。障害者と健常者を分けないと何度も書いたが、実際にはここには、そもそも障害者と言う概念自体が存在しないのだ。ある意味で完全な共存の場が出来るまでは、我々全員が障害者なのだ。そして学舎はすべての人間が「障害」でなくなる、多様性と共存の社会を目指す。身体や精神の医学で不可能と言われている事が、日常の中で次々におきる。しゃべれないと言われた人も、当り前に話す。私は始めて学舎を見た時「日本のインド」だと思った。当時は衛生環境も良くなかったが、誰も病気になる事が無かった。(医療を拒否して亡くなっていった人達はいる)社会的には様々な問題のみならず、病を抱えた人達が多かったが、みんな「生」においては強かった。自分で食欲をコントロール出来ない病気を持つ人が居たが、彼は隠れて牛の餌や、腐った残飯を食べてまったく平気だった。みんな汚い場所でハエに集られて、生水を飲んで、活き活きしていた。ぜんぜん歯を磨かないでも、虫歯にならない人もいた。生きる力は強烈だった。たくさんの個性が集まる事で、日々の生活が自分の許容力をどこまでも鍛えていく訓練となった。作るものは、米、野菜、牛乳、建物、工芸や木工品、すべてを素人としてゼロから考え、協力しながら進めていく。やってみれば、下手でも何でも出来ていく。出来ないときは、出来る人を外にさがして相談しにいく。そんな生活。

共働学舎について、不充分ながらも、重要な部分を書いてみた。
ここから、あえて問題点と課題を指摘したい。部外者の意見だが、私自身が学舎に育てられた部分が大きいからこそ書こうと思う。ただ、客観的にという事ではなく、自分自身いかに愛され、育てられて来たのかも確認したうえですすめていこう。学舎では何も教わる事無く、実際の生活に飛び込んでみて学んで来た。それが学舎の思想でもあった。だから、メンバーの一人一人と触れ合う中で学んだ事がほとんどだ。だが、今にして思うと、親方やまことさん、他にも指導的立場にいた数人の大人達には、それとなく教えられて来たこ場面がたくさんあった。親方には16才で出会ってからずっと、大切にしていただいた。まだ、何も分からず、学舎にも居着く事無く、色んな場所を彷徨っていた頃、手紙や電話を何度もいただいた。講演会で金沢に行くから合おうと連絡をいただいて、ホテルを尋ねた時はゆっくり話してもらって、また一緒に生活しようと誘ってもらった。それもきっかけの一つもとなり、本格的に学舎での生活が始まってからも、様々な場面で見守ってもらってきた。夏休みに残っていると「わしが帰るから付き添いをしてくれ」と言われ、名古屋まで色んな話をしながら移動した。親方と移動すると、障害者介助として電車の料金が半額になる。そのお金も全部出してもらった。駅員に「わしはここで下りるが、彼はこれから金沢で行くんだが、半額になるかい?」と無茶な事を言って「それは無理です」と答えられると、本当に不思議そうにしていた。金沢までの切符も買ってもらった。誕生日にはエーロッパのどこかの国に伝わる祝い方だと言って、歌をみんなに歌わせた。その歌にはセリフ部分が入り、最後の部分で不快なやつだと付け加える。親方は「佐久間君。いつも女の子とばかり遊んでいる。でも純真でやさしい男だ。お金の事など考えた事も無い素直な男、愉快なやつだ」と、確かそんな風に歌ってくれた。実際、親方は私のどこかを気に入ってくれていたのだと思う。指導的立場にいた男性からはよく、「親方は同じ事を○○には許さないのに、佐久間なら許されるんだよなあ」と冗談まじりに言われる事もあった。また、若気の至りで正義感のつもりで、あるメンバーと決定的に衝突して、もはや一緒に生活出来なくなった時、最終的にその人は学舎を離れたのだが、後で寮母的存在だった女性に「親方は2人共を選ぶことは出来なかったのよ。佐久間君を選ぶ事しか出来なかったのよ」と諭されたこともあった。親方は週に一度、メンバーの様子を私に聞いた。誰々はどんな調子か、体調はどうか、気持ちはどうか。少しづつ分かって来たのは、そうやって他のメンバーの事を聞いているというよりも、私の認識や人を見る目線がどれ位深まっているのか、見守っていたのだ。でも、あの頃はまだまだ見えていなかった。認識も浅かった。
まことさんとの思い出は、長くなるのでまた別の機会に。
この旅の終わりによし子が「私達はまだ、親方やまことさんの足下にも及ばないね」と言ったが、私も同感だった。

さて、あえて家族のように愛するが故に、学舎への批判も書かせていただく。まず、言わなければならない事は、これまで書いて来たような学舎の在り方、思想を自覚している人間がいなさすぎる。その結果、雰囲気が暗く、重くなりがちだ。障害者も健常者も分けないという思想が、かえって健常者の能力や成長を抑えてしまっている事にも原因があるのではないだろうか。私自身は自覚的に場を守り、雰囲気を保ち、一人一人の内側にある心の動きを読み取る能力のある人間が、必ず必要だと思っている。あえて言えば、そのような能力を鍛え、責任を持つ必要のある人間を育てる為に「場をつくるスタッフ」を分けるべきだ。そして、何人かに1人はスタッフがいるようにしなければならない。こうしたとしても、学舎の理念を傷つけないどころか、より理念に近付くと考える。メンバーの持つ力が、まだ充分に発揮されてはいない。それは、彼らの内側に、どのような世界が広がっているのかを見抜き、引き出す人間がいないからだ。例えば、私が話しかけると彼らは急に活き活きとして、溢れ出る存在のオリジナリティをぶつけて来る。表情が無くなっている人に、実は発揮されていない「生きている世界」が気付く人がなけば、彼らは自己の無い奥にある、豊かな世界を見せる事も、活かす事も無い。こちらが耳を傾けなければ、聞こえて来ない世界がそこにあるのだ。だから、彼らのこころの宇宙にもっともっと近づき、引き出していくべきだ。人の心の奥に入って行く為には、経験と勘が必要だ。目の前にいる人間の内奥にある動きを、感じ取る能力が必要なのだ。スタッフには相手の間をつかみ取る力と、全体の流れを読む勘が必要だ。ここでも、あえていえば経験に裏打ちされた技術が要求されると言えよう。そして、場全体をリラックスしたものにしていかなければならない。緊張がある所には、一人一人が本当の姿を見せる事は無い。あかるくなければならない。あかるいとは、エネルギーがあると言うことだ。エネルギーが不足すると流れが滞り、問題もおきやすい。良い流れ、自然な流れがある時は、場はあかるい。学舎の課題は、いる人達自身が、学舎の真の価値や可能性、その意味を理解し、自覚していないところにある。学舎がどうあるべきか、というビジョンが弱い。これだけの多様性を持って人間の生き方を提示出来る場は貴重だと思う。これからの時代、特に学舎のような生き方は必要になって来ると思う。以上が学舎への思いから出た課題部分だ。この事は、学舎にいた頃から感じて来た事だったが、東京で自分が取り組んで来た仕事によって、より深く見えて来た事だ。私達は絵画表現と言う媒体を通すことで、こころの奥に入りやすい。また、美を生み出すという、はっきりした方向性が見えている事で、本質から逸れる事が無い。なぜか。美から逸れないことが、彼らのこころの本質から逸れない事でもあるからだ。気持ちよく、身体も精神も活き活きしている時こそ、美が生まれる。創る人も、見る人も美の前で同じ心地よさを味わう。美とは生命のバランス感覚だ。生物はみな快に向かう。気持ちよいもの、心地よいもの、美しいもの、笑い、それらは生命が本来的に持っているバランスの中から出て来る。美味しい食べ物が身体を養うように、美によって我々は存在の充実感を味わう。美しく生きるとは、美しさを発見出来る、精神の純粋さを磨くと言うことだ。本能が気持ちよいと感じる場所に美がある。

さて、最後にこのレポートのテーマである、無垢なるこころとは何か。言い換えれば、私が学舎で出会った人達に見、今はダウン症の人たちに純度の高い形で見出しているものは何か。これがもっとも重要なテーマだ。無垢なる魂、それは私達自身の心の奥にある。
私は16の頃、共働学舎とそこに生きる人たちに出会った。若い頃に彼らと、非常に深い魂の繋がりを持てた事は重要だった。その後22歳になったころ、ダウン症の人たちに出会った。アトリエ・エレマン・プレザンを主催する佐藤肇、敬子のアドバイスを受けて、自分の教室を持つ事となった。私の追求して来たテーマはずっと変わらなかった。生活を通してであれ、制作を通じてであれ、人間のこころの奥に入り、つながり、そこにある根源的世界を共有していくこと。人間のこころの奥にある無垢なる魂は、障害を持っている人達に顕著に現れていた。無垢なる魂とは何か。無垢であるとは、こころに何一つ無駄なものをつけないこと。真の「素」であることだ。学舎ではやしさんに出会ったとき、崇高なものを感じたことは書いた。あのとき感じた崇高さは、森や海に感じるような自然さでもあった。例えば、野生の動物の動き方の美しさ。人間も本来はそのような美しさを持っている。無駄なものが削ぎ落とされ、「素」になった時に、そのような存在の尊厳が現れる。そして、私がこれまで、見てきた中で、もっとも人間の無垢なる「素」の姿、こころが現れているのがダウン症の人たちだった。私達の社会では、人間のこころにあまりに多くのものがくっついてしまっていて、素になった時に現れる、本来の豊かさはなかなか見えて来ない。
では、こころの無垢なる領域から、私達は何を学んでいけるのか。その心の在り方を知り、自分のものとしなければ意味が無い。理屈では決して見えて来ない。現実の生のこころを相手に実践し、どんな風に動くのか知ることが必要だ。実践から出て来た確信をここに書こう。こころがまっさらで、なんの滞りも無く、素であるとき、その動きはどのようなものだろうか。それは大宇宙や自然界の原理、原則と同じ動きをするのだ。それが、ダウン症の人たちが美を生み出せることの理由だ。自然にある秩序と調和こそ美の原点だ。人間のこころの奥には、宇宙があり自然がある。すべてがある。人間のこころに触れるとは宇宙や自然の奥底に触れることなのだ。私達に必要なのは感覚を研ぎ澄まして、ダウン症の人たちのような存在のこころを知り、自身の中にも同じものを見出していくこと。その事によって、この自然界の調和の声を聞き、真に豊かで平和な生き方を創ることだ。これをこのレポートの結論としたい。

2011年11月26日土曜日

共働学舎のころ

三重からよしこのお母さんの敬子さんに来ていただいている。
病院からずっと付き添っていただいた。
よしこはまだ傷口が少し痛むようだ。
でも、日に日に快復して来ている。一ヶ月検診までは安静にと言われている。
ゆうたの世話にも、よしこも僕も慣れて来た。
昨日はゆうたがなかなか寝つかなかった。

木曜日に自電車で区役所へ、ゆうたの出生届を出してきた。

さて、続きのお話を書いて行かなければと思っている。
なかなか、時間が取れないので、今後は少しゆっくりペースで書かせていただく。

共働学舎にいた時代について、共働学舎について書いてみたいと思って、
考えていたが、数年前にイサと学舎を訪れた際、僕が書いたレポートがある。
今読み返してみて、これ以上の説明も記述も僕には書けそうもない。
そこで、そのレポートをそのまま、ここへ写すことにする。
なので、とても長くなってしまうことと、
最近ブログで書いている内容と重複する部分が多いことをお断りしておきます。
それから、一つだけ補足。
僕が語る学舎はNPO化以前のもので、現在の共働学舎とは異なる。
現在の共働学舎は、全く違う姿に変わってしまったように、僕には思える。

こころの無垢とは何か
共働学舎を再び訪れて

20010年2月15日、久しぶりに共働学舎を訪れた。2泊して17日3時にはバスで東京へ向かった。この短い旅の感想をまとめてみたい。

12年前までは、私は共働学舎でメンバーとして生活していた。学舎を出た後は、しばらくあの場で学んだ体験を言葉にすることが出来なかった。安易に言葉にしてはいけないような気もしていた。今、改めて振り返ってみると、間違いなく学舎での生活が自分の核を作っているのだと実感する。
東京でおよそ10年間、ダウン症の人たちの絵画制作と、彼らの文化を発見し、伝えて行く仕事に携わって来た。絵を見詰め、引き出して行く行為は、制作者とこころを一つにして同じ景色を見、同じ感覚を働かせること。言い換えれば、共にこころの奥深くに潜って行く事だ。そんな時間を共にすると、一人一人がどのようなこころの世界を生きているのか、はっきりと分かる。絵を見るとはこころを見る事だ。外の世界の様々な制約や、ストレスや、プレッシャーを外し、リラックスしきった時の彼らのこころの在り方に、私は感動し続けた。
感動は途切れる事なく、日々新しくなって行った。こうして制作の時間を共にして来た経験が自分自身にも変化をもたらして来たと思う。その変化によって、今の私にはかつてと違った見え方が芽生えて来た。私が働くアトリエ・エレマン・プレザンでは、ダウ症の人たちが描いた作品をアール•イマキュレと呼び、位置づけしている。アール•イマキュレはアトリエ・エレマン・プレザンを開設した佐藤肇、敬子によって見出され、その後有識者達に認知されて来た。絵画の問題はおくとしても、では、イマキュレ、無垢とは何だろう。ダウ症の人たちの作品にはまさしく、無垢なるものが形になって現れている。そういった作品がなぜ生まれるのか、彼らがイマキュレのこころをもって生きているからだ。無垢なる魂、純粋で汚れのない精神、ピュアなもの。人間のこころの奥には純粋な空間が潜んでいる。それは決して、ダウン症の人たちだけが持つものではない。誰のこころの中にもあるものだ。
ただダウン症の人たちは、こころの奥にある純粋な空間が、隠されたり塞がったりしないで、すぐに目の前に表すことが出来る。ダウン症の人たちに代表される様な存在は、私達に自分自身の真の姿に向き合わせてくれる。私達の社会では、こころの純真さは絶えず隠されていて、意識と計算が支配している。時々、裸の存在、自分を偽らず、いつでも素でいるような存在に出会うと驚いてしまう。だからこそ、その様な存在、純粋で無垢で自由な存在に目を向けるべきだ。私達の覆い隠している姿、目をつぶって、無かった事にしているけれど、本当は自分自身である存在。隠されたこころの力、人間の持つ可能性がそこにある。
そういった存在は、様々な形での障害、精神、知的、あるいは身体に障害を持った人達の中に多く見出せる。文化的マイノリティもそうだ。私達の過去であるこどもや、将来である老人にも見出される事が多い。私達の社会や、思考が健常で、正常、常識、もっと単純に言えば「普通」と思っている範囲は、極めて狭く限定され、条件づけられたものにすぎない。それ以外の領域を、排除したうえで、私達は生きている。この社会では、例えば年寄りはそのまま存在する事は出来ず、介護し管理しなければならないか、施設に預ける事で、社会の外においておかなければならない。こどもは成人するまで、いったん教育と言うシステムの中で管理され、裸の状態では存在出来ないようになっている。遊びと言う限られた「裸」すら失われつつある。障害者は施設か作業所で管理されている。彼らはいずれにしても、社会の外におかれるか、社会に少しでも適合させようと「普通」という限定された領域に、会わせる努力を強いられている。このように、他を排除し、自らの領域を制限したうえで、成立している「普通」という概念を疑う必要がある。この様な「普通」の中から覆い隠されている領域、排除され見えなくなっている存在こそが、私達が実際のところ最も恐れ、かつ実は最も必要としている、素直さ、やさしさ、ここで言う無垢なる魂なのだ。

私がそういった存在に初めて出会ったのが共働学舎だった。そこで生活する人たちから見えてきたものは大きい。彼らのこころは裸で、姿形も偽る事無く個性丸出しだった。存在丸ごとで、コミニケーションを計り、誤摩化しの通用しない存在だった。やさしく微笑み、誰に対してもこころを許す人。時にパニックに陥り、暴れる人。ものを盗む人。1人で放浪する人。良い事だけではなく、様々な問題を抱えながら生きている人達。でも、そこには真実でないものは何も無かった。人間が生きる事で起きて来る、様々な困難を共有し、乗り越えて行く事で、多様性と共存と言う価値が発見出来る。彼らは本当の人間の顔をしている。
強烈な個性を持ち、喜びや悲しみの深さは計り知れない。生きるエネルギーの強さ。やさしさ。

バスが小谷村の山の上に着く。一時間も早く着いたけど、電話するとすぐにまことさんが迎えに来てくれた。車で少し下にある家へ向かう。家に着くと宮島真一郎先生(親方)が迎えて下さった。宮島先生は元々自由学園で教師をされていた。教師を辞めて、共働学舎を始めた事にたくさんの理由があり、思想的な意味も大きい。学舎では先生は居ないという理由で、宮島先生も自分が先生と呼ばれる事を嫌う。大工の親方のように、全体を責任をもって見守るという意味で、メンバー達には親方と呼ばれている。私も親方と呼ばせてもらっている。親方は実際に大工の技術を持っている。目が見えないのにもかかわらず、設計図も無しに的確に指示を出して、建物を造る姿を私自身たくさん見て来た。
親方が話す中、奥さまの澄子さんがストーブに薪を焼べる。室内に煙が立ちこめる。
親方は最近では記憶も曖昧になり、勘違いも多いと言う。

宮島真一郎先生(親方)との対話

親方  佐久間君か。よくきた、よく来た。元気か?
ところで、君は今どんな仕事をしとるのだったかな?
佐久間 ダウ症の人たちのためのアトリエを開いています。
親方  ああ、そうじゃったな。ダウン症の子は喜んで描くのかい?
非常に活き活きと、楽しいという気持ちで描くのかい?
佐久間 はい。すごく喜んで描いています。
親方  そうか。そこで、君は技術を教えるのかい?こういうものを描きなさいと指導す     るのかね?
佐久間 いえ、そういうふうには教えません。彼らがどんな風に描くのか見守ります。線と    色にこころの動きを感じ取って、良いものが動き出したらほめます。リラックスし    て描けるように雰囲気を作って、環境を整えるのが僕達の役割です。

対話の続きから、次回につづきます。

2011年11月25日金曜日

退院

よし子とゆうたは、水曜日に無事退院しました。
自宅で静養して、ゆうたにおっぱいをあげています。

よし子とゆうたが帰って来て、生活は一変した。
ゆうた中心に毎日の時間が流れている。昼と夜の区別もない。

朝、犬の散歩で外を歩いていても、見える景色が新鮮だ。
生まれ変わった様な気分。

でも、本当に一日の時間が足りない。

今日はこれから、明日の絵の具をつくる。
しばらく、テレビも新聞も見ていないが、立川談志が亡くなったと聞いた。
残念だ。
思えば、談志の落語を聞きに通った日々もあった。懐かしい。
嫌いな人も多いだろうし、もちろん、すべて肯定出来る人でもなかったと思う。
でも、僕は結構好きで聴いて来た。

前に、自閉症の人達のことを書いた。大雑把な捉え方ではあったけど。
そこでピアニストのグールドのことも書いた。
既に全体として成立している世界を、あえていったんバラバラに分けて、
捉え直して、独自に再構成するという在り方。
そこに彼らの世界像があり、それは科学的であり、現代的であるとも言える。
だから、今この時代を生きていて、そんな世界観を無視することは出来ない。
談志の落語もそうだったと思う。
落語自体の背景を分析し、パーツを置き換え直したりしていた。
本質を追究した結果、現代を無視出来ず、落語を解体して、解釈し直した。
もし、落語自体を素朴に信じ信頼し、芸を磨くだけに集中して演じていれば、
多分、名人と呼ばれていただろう。
誰からも批判されなかったし、尊敬だけされていただろう。
でも、どんな時も、本質を追究すると言うことは過酷なことだ。
敵も作るかも知れない。
それを恐れず、本質を追究した姿は誠実だと思う。

昔の人のことを考えると、スケールの大きい人も多いし、
大らかで、人間の本来の姿だなあと思える。
でも、僕たちはそこへは帰れない。
この時代にあった生き方。この時代にあった表現が必要なのだろう。

でも、だからこそ、一方でダウン症の人たちが持っている様な世界を、
深く経験し、知る必要がある。
現代に決定的に欠けた何かが、そこにあるだろう。

彼らは繋がりを生き、愛情と喜びを教えてくれる。
失われた環境や世界との本当の関係を思い出させてくれる。
繋がりを感じ取れる能力を蘇らせれば、
僕達はもっと幸せで、やさしくなれる。

2011年11月22日火曜日

さあ、続きを書こう

なんだか不思議に、守られているという感覚がある。
あたたかいぬくもり、景色がやさしい。
守らなければならない存在を持つことで、逆に守られている感覚が生まれる。

生徒の中に、いつも調子が悪くなると、ひっきりなしに電話して来る人が居る。
あれが怖いとか、不安だとか話すのだが、
いつの間にかただ電話してくるだけで、
「今日は××曜日」くらいしか話さなくなっていた。
それで、こちらも忙しい時期だったので、しばらく電話をとれなかった。
何度もかかって来ているので、久しぶりに出ると、
「なんだよー。心配させんなよ」という。
いつのまにか、心配して電話して来ていたのだ。

飼っている犬だって、僕が出かけていると心配して待っている。
はじめは、寂しがっているのかと思ったが、
様子を見ていると心配しているようだ。
真剣に仕事していたりすると、表情を読みながら心配そうにする。

モロちゃんからお祝いのお手紙をもらった。
本当に嬉しい。
ゆうたと会ってやってね。
海外出張、がんばってね。いつでも応援してるよ。

さて、そろそろ自分を振り返る作業の続きも書かなければならない。
10代のころの話を書いた。あの続きを少し書こう。
初めて共働学舎に出会ったのは16才の時で、本当に数ヶ月しか居なかった。
その後も何度か出入りはしていて、
代表の宮島先生とは手紙のやりとりをしたり、
講演で金沢に来る時は誘って下さったりした。
僕は当時もう金沢には居なかったが、会いに行ったのをおぼえている。
宮島先生のことは好きだったし、尊敬もしていた。
でも、共働学舎に腰を据えて、仕事しようという決断が出来なかったのは、
まだ自分の中で追求すべきテーマがあったからだ。
中学校を出てからずっと、本物の先生を探して来た。
本当のことを知っている人が必ず居るはずだと。
何故、お寺の中にそのようなものがあると直感したのかは、今もって謎だ。
ただ、中学校の時から、図書館に通い詰め、様々な本を読んで、
自分でも詩や小説まがいのものを書いていたが、
何か一番大切なものの近くまで行けても、
それを握りしめることができない様な、感触が残っていた。
自分が求めるものを体現している存在に出会うしかないと思った。

17の時、探し求めていた存在と出会えた。
今思うと、恵まれ過ぎた出会いだった。
僕はその人にひたすら付き添った。
そして、その方が7日間続けて教えるという時に、
「おいノッポ、お前は7日終わるまで、わしの身の回りの世話をしろ」と言われた。
今でも忘れられない。その7日間で僕は自分の人生で最も大切な事を学んだ。
すべてが終わって、一度解散となった。
僕は名古屋の駅へ向かいながら、考えていた。
これで僕が求め続けたものはもう得られた。
いわばこころの鍵を手に入れた。
後は深めて深めて、ひたすら深めて行くだけ。
それから、人と共有すること、伝えることだと。
2つの選択肢があった。
このままこの人に付いて行ってお坊さんになる。
もう一つは人と分かち合う方だ。
共働学舎にいた人達、仲間達と分かち合って一緒に生きる。
どちらかだ。どちらかに決めたら、本気でその道に進もう。

夜行電車に乗る事になっていた。待ち時間がまだ相当あった。
僕は駅前の本屋さんで本を買うことにした。
たまたま出会ったのが中沢新一の「雪片曲線論」という本だった。
その本の半分のところまで、読んだ時点で僕は変わっていた。
そこには、これまで仏教の中で僕の先生たちが語り、実践して来たことが、
そのエッセンスがより広い普遍的な文脈で表現されていた。
仏教的な語り方はもう古いと思った。
もっと広い場所で、今の時代を生き、新しい伝え方、
実践の仕方を作って行くべきだと。強い啓示を受けた。
よし、共働学舎で田畑を耕しながら、様々な人達と、助け合う生活をしよう。
人と生きる中で、学んで来たものを実践し深めようと。
僕はその日寝ずに本を読んだ。
これから始まるという実感があった。
朝、駅に着くとすぐに宮島先生に電話した。

あの頃の感触は本当に鮮やかに思い出す。

ではなぜ、共働学舎だったのか。
僕はそこに何を見、そこでどんなことがしたかったのか。
確かに宮沢賢治のようになろうという思いもあった。
でももう一つの経験があった。
僕が学んで来たことは、どのように自分のこころを良い状態に保つか、
ということ。良い状態に保たれたこころから何が見えるのか。
おおまかに言えば、そんなことだった。
僕はお寺で学んでいたが、実は一人暮らしをしていた頃に、
ある脳機能に障害を持つおじさんと出会った。
その人と触れ合っていて、気が付いた事がある。
僕は人のこころに耳を澄ましたり、深く入って行って、
どうなっているのか読み解いたり、一体化したりといった、
作業を始めると、その瞬間に自分のこころが敏感になって、
違うモードに入る。そんな自分を発見した。
僕の場合、自分のこころを探求するより、
人のこころを前にした時、遥かに深く体感出来るのだ。
それが僕と言う人間なのかと、自分の変化に気が付いた。
僕は人のこころに深く入ることが出来る。その時、自分も良い状態になる。
もし、共働学舎のような場所に行けば、この自分をもっと磨くことが出来る。
そんな思いもあった。
でも、それ以上に好奇心も強かった。

こころの鍵を手にしてから、すでに17、8年も経つ。
もっと深いところまで行けているはずだった。
もっと自分のものに出来ているはずだった。
まだ、こんなところに居るのかと思ってビックリする。
それほど人のこころが変わるのは、難しく時間が掛かる。
でも、やりがいがある。いつでも面白い。
10年後にはどんな自分になっているだろうか。
ゆうたはどんな子に育つだろうか。

10代の頃の話はまだ続きます。

2011年11月21日月曜日

帰る場所

あんまり寝ていない。
昨日は教室が終わってすぐに病院へ。
三重から来ていただいている敬子さんには、
夜だけ交代して健康ランドの仮眠室で休んでもらうことになった。
ゆうたは2時間おきに、おっぱいやオムツ交換を要求して泣く。
よしこは出産後、胃腸を悪くしていたので、まだ栄養も取れていない。
少しづつ回復はして来ている。トイレも行けるようになった。
まだ、おっぱいの出方は安定していないのと、ゆうた自身が大きいので、
半分母乳、半分粉ミルクという感じで。
僕はオムツをかえたり、ミルクをあっためて与えたり、哺乳瓶を消毒したり。
今が一番かわいいのかも知れない。楽しい。
2時間おきに泣くので、眠れないがやっぱり合間は寝ている。

土、日曜日は絵を見ているので、結構神経を使う。
10年ほどやってきて、絵画クラスの前後は必ずこころと身体を休めて、
万全の状態で教室に入るようにして来た。
でも、こどもが居たらそうも言っていられない。
今週はしっかり冷静に、自分の現場が出来ているか観察してみたが、
大丈夫。これなら行ける。
教室の質を落とさず育児も出来ると思う。

それにしても雰囲気を見ていると、多分ゆうたはわんぱく小僧になりそうだ。
僕とぜんぜんタイプが違いそうで楽しみ。

来年は新しい企画が始まる予定だ。
今、それに向けて準備している。
何度か著作権についても書いたが、今お話ししている会社も、
作品を出すことになる保護者の方達も、深い理解者ばかりで安心した。
新しいことに挑戦する時は、
最初の人達は勇気を持って開拓して行かなければならない。
そのために信頼関係が必要。
初めから、色々整備されている訳ではないので、
どうしても、細かいところでは不備が出てしまう。
希望を持って、次に繋げる。今回足りなかったところがあったら、
次は改善して行く。みんなにその様な姿勢が必要だ。
作家は作品を提供する、企業はデザインと商品化への諸々の力を提供する。
アトリエは繋ぐための作業を提供する。
私達はここで何日も作業が必要である場合でも、
手数料や人件費を頂かずにおこなっている。
年間を通して労力を考えると、案外たいへん。
でも、それぞれが協力し合って何かが生まれる。
良い活動につながる。

それとは別に、そろそろ仕事の仕方も考えて行かなければならない。
やっぱりこういった活動も含め、
作品を社会に紹介たり、デザインとして仕事を受けたり(まだ仕事としての企画は難しく、チャリティ枠でのお話ばかりなのが現状)といった、
場面はアトリエの中で別部門をつくりたい。
これまでは全部、僕達で進めて来たけど、それでは限界がある。
それに、もっと適任者が居るようにも思っている。
制作の場に関しては1人スタッフを育てているが、
そことのセンスは全く違ってくるので、この部門のスタッフも必要だ。
勿論、経済的に人を雇うことはまだ難しい状況だ。

個人的には僕は、お金の交渉や(今回は少しでも作家本人に使用料が入るようにお願いしている)権利を整える作業に時間を費やしたくない。
やりたくないのではなく、それだけ違うセンスを動かしていたら、
制作の場が疎かになる。
作品を生み出す、作家のこころと一つになるという現場において、
お金や権利とは無縁の次元を生きなければならない。
最初からこの矛盾は分かっていたが、
今この時点であらためて考えて行こうと思う。
とはいえ、しばらくは全部の作業に関わって行かなければならないだろうが。

いつかは、一番大切な「場」に全エネルギーを注ぎ込んで、
ひたすら質を高めて行ける環境を創りたい。

彼らは本当に奥深い。
まだまだ汲めども尽きない領域が存在している。
僕の本当の役割はそこにふれて行くことだと思っている。

でもでも、みんなが喜び合えている時は、やっぱりやって良かったなと思う。
だから、まあもっと機能的に整うまでは、僕でよければ何でもやりますが。

昨日のアトリエでは、なっちゃん、さとし君、絶好調。
午後は、てる君とすぐる君という男子2名がお休み。
ゆうり君、作風が安定して、はっきり個性が出て来た。
他では居ないタイプでやっぱり魅力的ですばらしい。
けいこちゃんは相変らず、ラテン系、超健康的作風。
色がいいなあ。
えいこちゃんはみんなが帰った後も、最後に1人で描いて、
すごくきれいな作品になった。
しばらく絵の感じが元気がなかったけど、
最近また色鮮やかな明るい、
そしてやさしいえいこちゃんの作品が戻って来て嬉しい。
良い作品を描く時、「家」というテーマになってることが多いけど、
彼女にとって「家」が幸せの象徴なのだろう。

今日は平日のクラス、プレ。
あきさんはるこさん、だいすけ君ゆうすけ君。
ここも本当にもう一つの家族の様な雰囲気。
時々、外でお仕事があって、プレに帰って来ると。
アキさんハルコさんを中心に、みんなが、
「おかえりー」と言ってくれる。
うあー、帰って来たー、ほっとするーと思う。
そういえば、絵画のクラスでも、生徒たちで、
「ただいまー」と入って来る人が結構いる。

帰る場所、落ち着く場所って大事。

先週は出産に立ち会うために、イサにプレを任せていたので、
今日は久しぶりだ。
さあ、良い場を創ろう。

2011年11月20日日曜日

生きる姿勢

毎日、自分の中で起きている変化を実感している。
不思議だ。何をしていても穏やかに感じられる。
何かが変わっている。

昨日はアトリエの後も用事があってゆうたに会えなかった。
今日はアトリエが終わったら会いに行きたい。

こどもが産まれると、こどもの目を通してもう一度、最初の世界を見ることが出来る。
そんな気がする。

制作の場でも実は同じで、僕はやっていて自分の知覚なり、感性なりが、
変化して来なければ、何も出来ていないと感じる。
一人一人に寄添っていると、色んなものが見えて来ると同時に、
少しだけ、自分の視点が変化している。
そうやって様々な人や存在や出来事が、自分の見え方、言い換えれば、
自分の生きている世界を作っている。

目の前で起きている現実を丁寧に大切に、あつかって行かなければならない。
それが自分を大切にすることだ。

スタッフを育てる時にも思うことだが、特にこのような場の場合、正解はない。
一つ一つの場面で、ここではこう振舞うべきとか、こういう子には、
こう接するべきとか、そういう決まった方法はない。
僕の中での答えはあるが、それは僕とその人との関係においてのみ、
意味を持つ。この時は、こうという教え方は出来ない。
でも、一番大事なこと、それだけは言葉だけではなく、
身をもって教えて行く。
それは、その人に向かって行く、あるいは制作の場に対する、
姿勢、覚悟だ。以前、気合いといういい方もした。
でも、本当にこの向き合う姿勢によって、同じ現実が違って来る。

身の回りに中途半端な現実しかないようなら、
自分の姿勢が中途半端なのかも知れない。
冒頭の話ではないが、実は犬一匹飼ってみても、世界は変わるものであるはず。

何をしても同じ変化のない自分を生きている人がいる。
色んなことを経験してみても変わらない。
それは、自分の姿勢や態度が変わらないからだ。

1人でヒマラヤに登って、ハアハア、ゼーゼー言っている自分を、
映像に映して、インターネットで公開している人がいる。
それを見て、感動し、勇気づけられるという人もいるようだ。
見せることで自分を慰めている人も、それを見て勇気をもらっている人も、
それは決して本物の経験でも体験でもないと知るべきだ。
彼はいつまでたってもヒマラヤへは行けないだろう。
なぜなら、いつでも電子通信の中で人と繋がり、
自分の頭の中でだけ生きているからだ。
だからヒマラヤへ行っても、自分の頭の中から一歩も出ることができない。

どれだけたくさんの経験を積んでも、そこへ向かう姿勢が変わらなければ、
何一つ変化はない。
姿勢が変われば、そのへんのオジサンからでも得るものは多い。

その人が見ているものは、その人そのものだ。
何かを大切にするのか、粗雑に扱うのかでは、同じものでも、
そのものの実感が変わって来る。

向き合う姿勢。
そこが真剣であったなら、たとえ間違っていても気付き、修正出来て来る。
友情、恋愛、家族、師弟関係。
真剣にその人に向き合うことで、自分が創られる。

今の自分の見ている現実が素晴らしければ、
たくさんの人がそれを見せてくれたんだと思う。
自分以外の人やものによって自分が創られる。

ちょうど、夫婦でお世話になっている友人の方がいて、
いま、そのご夫婦も出産を控えているお友達でもあるのだが、
だんなさんのほうと男同士で話していた。
女性はもっと大変だけど、男としても仕事との両立が大変ですね、
という流れだった。
彼は「両方は絶対難しいから、どっちも半分半分の力で行くしかないですよ」
と仰る。僕は絶対、そんな考え方は出来ない。
仕事や生活のみならず、何事に対してもそんな考えは出来ない。
半分半分なんて、そんな態度で生きたくはない。
出来るかどうかはともかく、すべて全力ですよ。

余談だけど、この前アトリエでさとちゃんが他の子と遊んでいて、
ちょっと半分ふざけて言い合いになった時、
急に「言っとくけど私、あなたのことみとめてるんだからね!」と言っていた。
すごいなあ、と思った。
例えば恋愛していて、ケンカでもして、こんな言葉を言える女性に出会ったら、
本当にハッとして勉強になるだろう。
なんというか人間力というか。

2011年11月19日土曜日

幸福論

昨日はアトリエで、たまっていた事務仕事をして、よしことゆうたに会いに行った。
よしこは結構消耗したから、回復に少し時間がかかるかも知れない。
あかちゃんは可愛くて、いくらでも見ていられる。
すぐに時間が経ってしまう。
よしことゆうたが見せてくれているものによって、
僕自身、また新しい世界に入って行く。本当に不思議だ。
ゆうたが産まれて確実に何かが変わった。
僕の場合、自分の生の深まりが直接、教室の場に反映される。
逆もそうだ。教室で感じる世界が日常を深めて行く。
生きているのが面白い。
2、3年前とも制作を見る目は全く変わっている。
多分、一生変化して行くのだろう。

出産に向けて、たくさんの方から励ましのお言葉を頂いていた。
直接、ご連絡出来ていなくて、申し訳ないが、
多くの方がブログを読んで下さっているようで、嬉しいメールが届いている。
ありがとうございます。

家に帰ってニュースを見ると、
ブータン国王が来日されているとのこと。
ブータンは多くの文明とも、アジア諸国とも異なり、
物質の豊かさばかり追い求めるのではなく、国民の幸福度を基準として、
国づくりをして来ているという。
すばらしいことだ。日本も見習うべきだろう。
多くの国が西洋化する事によって、幸福を失った。
何故だろうか。
何故、物質の豊かさと幸福とが反比例するのか。
お金を例にとろう。
お金を持つと、物事が容易になる。お金で交換すれば努力しなくても出来る。
この容易になる、努力しなくなるというのが曲者で、
簡単なものに、便利なものに思いはこもらない。
簡単になれば、生命自体も簡単な存在になる。
実は困難こそが、深い世界を見せてくれる。
例えば、人が亡くなる。
その人との関係が浅いものであればある程、死は容易に受け止められるだろう。
簡単とはこのように関係が浅いことを意味する。
だから、関係が深ければ、悲しみも傷も深く、受け止め、乗り越えるのも困難だ。
でも、その困難が僕達に見せてくれる豊かさは他ではかえられない。
深い悲しみは自己を純化し、無駄なものを削ぎおとしてくれる。
本当にきれいなものを見せてくれる。
人は失うことによって、得られるものが多い。
困難を避けていては本当の世界は見えて来ない。

物質の豊かさを得るのに、たくさんの技術が必要だった。
この技術をのみ、この世界は価値とし、能力とした。
このままでは幸福になど絶対になれない。
幸福になる力そのものも価値であり能力であると認めることだ。
幸福を運だと勘違いしてはいけない。
黙っていてどこかから転がってくるのが幸福ではない。
幸福とは見出すもの。努力によって深めて行くものだ。
どんな場所にも状況にも幸福は存在する。
見付けだす感覚の力を磨くことだ。

何が言いたいのかと言うと、
やっぱりダウン症の人たちのことだ。
アトリエの場にある幸福度はブータン以上だと自負している。
彼らが幸福を生きる能力をそなえているからだ。
このような価値にも学ぶべきだ。

もう一つ。
先日、僕達も特別研究員として所属している多摩美の、
芸術人類学研究所から、会員向けの冊子をお送り頂いた。
それを読んでいて、編集後記にスタッフの方の書いておられる文章について。
福島から排出された放射性物質の量から計算すると、
それがこの地上から消えてなくなるのに数万年の歳月を要すると、
その方は続けてこう書いておられる。
数万年後の人類が振り返ったとき、私達の文明をどう思うだろうかと。
負の遺産だけを残した愚かな時代として振り返るだろうと。
いつもお世話になっている方に申し訳ないが、
仲間としてあえて言わせていただく。
黙って、放っておいて数万年先に人類がいるとお思いだろうか。
何もしないでぼーっとしていて、何とかなるだろうと、
いつか誰かが愚かだったと回想しているだろうと。
その様な危機感とリアリティの欠如が、このような問題を生んだのではないか。
その様に言葉のうえで記号化して世界を見ていると、
数万年後に振り返る誰もいなくなっているのではないか。
これは現実であり、我々は今、責任を持って人類の生き延びる道を模索している。
大きな目で物事を捉えると言うことと、危機感の欠落を混同してはならない。
多分、何気なく書いたのだろう。
この様な大きなテーマは何気なく書くことではない。
あえて、外からではなく仲間として言わせていただいた。
気を悪くされないことを願う。

楽天的とかプラス思考と、希望を持ち続けることは違う。
しっかり危機感も責任感も持って、クサいものにふたをせず、
真剣に深く生きていきたい。
挑む姿勢が出会うものの深さを決める。
同じ現実でも、そこから何をもらうのかは人によって違う。

幸福はどれだけ深く生きるかにかかっている。
人は幸福になり、人を幸福にする責任がある。

2011年11月17日木曜日

無事産まれました。

みなさんには大変お待たせしました。
また、ご心配お掛けしました。

よしこは昨日、午後2時すぎに無事出産しました。
難産で、本当に大変でしたが、みなさまにも支えられて、
なんとか乗り越えました。

なんと陣痛開始から64時間、その前日からよし子も僕も不眠の状況でした。
サイズも大きく、4200グラムありました。
名前はアトリエのハルコさんがつけてくれました。
「悠太」です。よろしくおねがいします。

よしこもゆうたも本当に頑張ってくれた。
改めて、女性は強い、凄い存在だと感じた。
そして、出産って神秘で神聖なものだなと思った。
本当は男には近付くことの出来ない領域なのだと思い知らされた。
こんな場面を見せてくれた2人に感謝。
その間、アトリエを守っていてくれたイサ、みひろ、ありがとう。
そして、色んな場所から応援して下さっていた方々に感謝。

よしこの命に挑む真剣さにあらためて、尊敬の思いを持った。
自然な出産がしたいと努力を重ねて来た。
食事管理、運動、勉強、毎日、真剣に取り組んで来た。
僕自身もささやかながら、お灸とマッサージを欠かさなかった。
でも、よしこの真剣さはその比ではなかった。
それだけに、助産院での出産が不可能と判断され、
病院に移った時の彼女の涙は忘れられない。
なんとか本人の望むように産ませてあげたかった。
でも、その後での彼女の諦めない姿勢は立派だった。
病院でも陣痛促進剤を拒み、最後まで自分の力で挑戦しようとした。
僕は止めることが出来なかった。
それでも、どんなに頑張っても、ゆうたは出て来なかった。
お医者さんから、体力の限界だから、陣痛促進剤で早めて行こうと言われて、
僕達はあと一日だけ待って下さい、それで無理だったら、
先生の言うとおりしますと言って、最後の挑戦をした。
その時点でもう3日も寝ていなかった。
その日の夜、僕はお腹のゆうたに向かって語りかけた。
「人の力で人工的に出て来たくないどろう。今日が最後のチャンスだよ。自分の力で出て来なさい。」と。
その日の陣痛は凄かった。朝には絶対産まれるという勢いだった。
だから次の朝を迎えたとき、僕はよしこもゆうたもこれだけ頑張って、
出て来れないのには何か理由があるはずだと思った。
もうお医者さんの言うとおりにしようと。
なおも午前中は陣痛促進剤で最後の努力。
やっぱりギリギリのところまでいっても、戻ってしまう。
帝王切開が決まって、手術の準備を見守りながら、
よしこの無念さを思って涙が止まらなかった。
でも、よしこは強かった。
半身麻酔でお腹を切っているお医者さんに、
「かっこいいですね。」「それは、なんの道具ですか」と話しかけて、
微笑んでいる。やっぱり凄い女性だと思った。
無事産まれたゆうたをみたら、すべてのこだわりから解放された。
これで良かったと心底思えた。
ゆうたは狭い産道を潜ろうとしたあととして、
頭の先が細くすぼまっていた。2人とも最大限によく頑張った。
生命を疎かにせずに、命がけで立ち向かった。

考えたことがある。
出産前によく、経験者から「男はなんの役にも立たない。無力だ。」
という言葉を聞かされた。
出産に付き添いながら、最初の日、その言葉ほんとうか?と感じた。
僕は付き添いながら、自分に出来る事があるし、
ささえることが出来ると実感していた。
陣痛のタイミングも本人が力を少しでも抜くことが出来る間合いも、
分かった。
役に立たないと言ってしまうのは、
出来ることをやり抜かない言い訳になってしまう様な気がした。
制作の現場でも同じことが言える。
どんなに僕達スタッフが努力しても、描くのは作家たちだ。
その絵の答えはその本人にしかない。
ある意味で僕達はどうすることも出来ない。
でも、役に立たないわけでも、無力でもない。
スタッフには役割があり、
スタッフの存在によって作家たちは安心して、
制作の深みへと入り込んで行く。

でも、さらにでも、
最後の日に自分で決断し、微笑みながらお腹を切られていた、
よしこを見ていて、やっぱり男は無力。
何も出来ない存在だと感じた。
最後の決断も命をかけ、命を守る真剣な姿勢も、
その尊厳はすべて本人にあるのだから。

出産を終えて、子供の形を見て、お医者さんも、
帝王切開で正解でしたね、と言ってくれた。
ゆうたは大きく、肩も固めで産道で回転することは出来なかったと。

2人は精一杯やり抜いた。
すばらしかった。

いっぱい、学んだ。
みんな、ほんとうにありがとう。
そして、これからも悠太をどうぞよろしくおねがいします。

2011年11月13日日曜日

もうすぐ

さて、今日も時間に追われながら書いています。
これから教室です。
朝、よしこの体調に変化があったので助産院へ。
早ければ今日の夜か、少なくとも3日以内に産まれそうです。
また、みなさんにご報告します。
たくさんの方から連絡を受けています。
一人一人にご報告出来ていませんが、ほんとうに感謝しています。
もうすぐ、ご報告出来ると思います。

今日は教室を見ながら、出産の方にも意識を向けて一日、過ごします。

いざとなれば、助産院は遠くないので大丈夫です。

前回までのブログの続きは少し落ち着いてから書きます。

土曜日のアトリエは、最近いいなあと思っている、やまと君の作品が素晴らしかった。
比較的新しく入ったメンバーからも、どんどんいい作品が生まれています。
昨日のクラスではないけど、あみちゃんも凄みを感じさせる作品を創っています。
スタッフのゆりあとの関係が深まるにつれ、作品も良くなって行っています。
そこが面白い所。誰かとのこころの共有が作品に反映されて、
深い所に入って行く。関わることで、本人の奥にある世界が見えて来る。
あみちゃんとゆりあは今、そんな関係にあります。

入ったばかりのしょう君も彼らしい作品になってきました。
最初は遠慮がちな絵だったのが、昨日は大胆に色を塗り込んでいます。
本人の気持ちがそのまま、絵の変化として出て来ます。

さて、今日はベテランのクラス。
どんな時間になって、どんな作品が生まれるのか。
どんな、会話が交わされるのか、楽しみです。

そして、我が子はどのタイミングで産まれて来るのか。
もしかして教室中に陣痛が始まるかもしれません。

でも、とにかく、楽しみな一日です。
ゆりあが来たので、準備します。
それでは、みなさんも良い一日になりますように。

2011年11月9日水曜日

ちょっと続き

共働学舎について書こうと思っていたら、
最近整理していた荷物の中から、僕が共働学舎を離れる時にみんながくれた、
メッセージがみつかった。
その中にちい(あだ名)の書いてくれたページを懐かしく読んだ。
あれから10年以上が経過したが、改めてありがとうという気持ちになった。
いつか一緒に働いて来た仲間達のことも書きたいが、
今回は彼女の書いてくれたメッセージを紹介する。

佐久間くんへ
初めて佐久間君にあったのは稲刈りのとき。
なんにもわからなかった私は、佐久間くんが年上にみえたっけ。27、8才にみえたよ。
会話をするようになったのは、たしか、牛舎の3階にあったじゃがいもを移動させたとき。話したかったけど、なかなか出来なかった私に、佐久間くんから話しかけてくれた。私さ、男の子と話すの苦手だったけど、佐久間くんは自然体で接してくれた。それが私の中から、かべをとりのぞいてくれたのだろうと思うよ。それからはさ、他のメンバーのみんなとも話せるようになったんだ。てっぺい君(その後、彼と結婚)ともね。おぼえてる?3人で、とおもろこしを刈ったあと、道路でねっころがって、空を見てた。あのとき、学舎のいい所に気づいたんだ。佐久間くんは、仕事は楽しくやるものだと教えてくれたよ。私ずっと時間内でのいそがしい仕事だったから。楽しむことは大切だよね。
今の私は、なんでだろう。昔より笑顔がへったよね。昔がすべて良いわけじゃないけど、いつも笑ってる「ちい」でいたいな。佐久間くんみたいにみんなをひっぱっていくのは、むずかしいけど、みんなと元気にやっていこうと思う。
私が元気ないとき、はげましてくれてありがとう。
相談にものってくれてありがとう。
これからも、佐久間くんらしさで、がんばってね。
私もがんばるよ。連絡ちょーだいね。一緒にあそべたらいいね。
ちいより

これを読み返していて嬉しかった。
もう一つだけお世話になった神林さんからのメッセージを書く。

佐久間くん
5年間 ありがとう。
時には激しく、時には柔和で、
時には赤子のようなあなたを、
小谷の地より、見守っています。
神林

みんなには本当に感謝している。

10代のころ

出産までもう少しという感じになってきた。
今週あたりかなと思っている。
たくさんの方からご連絡をいただいている。
もうすぐ、良い報告が出来ると思います。

さて、これから数回に渡って、僕自身の個人的経験をふりかえって行く。
そこからダウン症の人たちにみる、人間のこころの源にどのように出会ったか、
なにかしら有意義な実験例がみられるのではないか、とも感じている。
最初に書いてしまうと、これで一連の流れを書いたら、
もうふりかえることはしないだろう。
過去はもう過ぎ去った。次の時間に行かなければならない。
いつでも今が一番面白い。

学生達と話していると、10代の頃を思い出すことが多い。
話していて、「佐久間さんの青春は濃いね」とよく言われる。
僕から見ていると、彼らの生が薄い。
勿論、それは彼らの責任ではない。環境に原因があると思う。

確かに、自分でみても僕の10代は濃かった。
何もかもが強烈で、美しいものともたくさん出会ったけど、
きれいごとではない世界にもいた。
褒められるようなことはして来なかったと言うか、出来なかった。
でも、とにかく必死で、生きて、探し求めて、動き回っていた。
内面的にも、外面的にも放浪の日々だった。

あの時代に多分すべてがあると思う。

時間は終わりのないくらい長く感じられて、何でも出来る様な感覚があった。
今ある世界が信じられなかった。
もっと本当のもの、もっと本当の人がいる。
もっと深いものがあるはずだと感じていた。
僕は自分の先生を探し求めていた。

小さい頃の話はまた今度。
中学校3年生くらいから、話そう。
僕の家は母子家庭でもあり、生活保護を受けていた時代もあった。
兄は中学校を卒業と同時に就職したし、
僕自身も自然に進学と言う発想はなかった。
親に学費や生活費を長く負担させたくはなかった。
それと早くこの環境から抜け出さなければという切迫感もあった。
中学校の最後の年は僕はほとんど、学校には行かなかった。
図書館に行って一日本を読むか、
山の方にあるお寺に通って、住職と話したり、座禅をくんだりしていた。
卒業と同時に制服を着たままバスに乗り、そのお寺に向かった。
その日から、若いお坊さん達との修行の日々が始まった。
お寺での生活は厳しいものではあったが、僕は自由を感じた。
それまでの家と街との関係から解放されて、
いつでも何でも出来ると言う感覚があった。
初めて自由を知った。自由とは文字通り何をやってもいいし、
何でも出来るが、かわりにその行動は自分で全責任を負わなければならない。
言い換えれば自由とは命がけの行為だ。
何者にも縛られないが、誰も何も助けてはくれない。

お寺には元暴力団(今話題の?)の方や元右翼の方も何人かいた。
そういった方々からも色んなことを聞いた。
住職はどんな人も受け入れる大らかな方だった。
でも、当時の僕には人格者であるというだけでは物足りなかった。
もっと本物がいるはずだと、恩を受けながらも生意気に思っていた。
でも、住職は僕が外でたくさんのお寺を巡って、
先生を探してくることに反対はしなかった。
はじめこそはそのお寺に半年位いたが、
その後は、様々な場所を回って時々帰って来る程度になっていた。
滋賀県や兵庫県や、地元石川の能登の方でも暮らした事がある。
半分、お坊さん、半分フリーターの様な生活だった。

巡り巡って僕は結果、自分の先生を見付ける事が出来た。
今考えても幸運なことだった。
さらには、あらためて書くと思うが、信州にある共働学舎に出会ったのもこの時期だ。

お寺にいた最初の頃、思い出すのは雪の中を草履で、托鉢してまわったこと。
長いこと歩いて、街の方に出た時、学生達が歩いている。
僕の同級生達だ。向こうは学生服を着て話しながら歩いて行く。
その反対側で僕達はお経を唱えながら草蛙で雪の上を歩いて通り過ぎる。
彼らとは全く違う方向に自分は進んでいるのだと実感する。

思い起こせば、16、7才の時に最も大切な2つの出会いがあった。
一つは共働学舎との出会い。もう一つは名前はふせておくが(知られている方でもあるので差し障りがあってはいけないので)あるお坊さんとの出会い。
両方とも強烈なものだった。
禅寺では師匠を老師と呼ぶ。その老師の声は今でも思い出す。
「おい、ノッポ。大事なのは生活態度じゃ」

今だから、正直に書くが愛を知らなかったあの頃は、
たくさんの女性達と恋愛のまねごとをしていた。
お互い必死で、何が恋愛なのかも分かっていなかった。
傷つけることでしか乗り越えることが出来なかった時代、
たまたま響き合ってしまって、悪かったと思う人も多い。
でも、今ではみんな結婚してこどもを産んでいる。

思えば、本当に長い時が流れた。
あの時あったもののほとんどは、今はもうない。
何もかもが変わって行く。僕自身もあの頃の自分ではない。
もう戻ることは出来ない。
でも、宝物の様な思い出でもある。
今では時間は永遠ではないと分かるし、自分には限界があると認識出来る。

この話はここからが始まり。
共働学舎のこと、そこで出会った人達のこと、これから少し書いていきたい。

2011年11月7日月曜日

これからのブログ

少し前に著作権について書いたが、そこで誤解もあるという部分にふれた。
日曜日のクラスで、てる君のお母さんやえいこちゃんのお母さんに、
保護者の方達みんながそういった考えでいる訳ではないと、
励ましの言葉を頂いた。
お2人のように深いご理解と、共感の思いを寄せて下さる方がいるからこそ、
私達もやって来て良かったと思える。
一番身近にいる保護者の方達に、本当は同じ思いを持っていただきたいと思う。
一方で、勿論、誤解される方のお気持ちも分からなくはない。

教室はすぐる君がお休みだったけど、他のみんなは元気。
面白かったのは、しゅへい君が日にちを間違えて来て、
せっかくここまで来たんだからみんなと描いて行けば、という場面があって、
向かい側に座っていた、てる君と仲良くお話ししていた。
てる君がしゅうちゃんの絵を見て、「白がいいね」と言う。
鋭いと思う。修ちゃんの絵はいつも余白の活かし方がシャープで美しい。
余白の方にこそ本質があったりする。
てる君が「僕も今日は白を描くよ」という。
最初の3枚くらいはいつもより色を使わない。
それがまたきれい。順応性の高さに驚く。
「休憩して、いつもの絵を描くよ」と言ってからは、
またいつものてる君の絵になっている。
このやわらかさと適合力の高さ、さすがてる君。

しゅうちゃんはいつもと違うクラスでも楽しそうに制作。
終わった後は小説を書く。
「また来週も来ていいですか?」「もちろん、いいよ」

しゅうちゃんと同じクラスのしんじ君から、たまたま電話がかかって来たので、
しゅうちゃんに渡すと、2人で楽しそうに話している。

しゅうちゃんは、本の査定の仕事をしているという。
「どうやって分けるの」「いい本と、悪い本と、普通の本に分けるんだよ」

教室が終わった後、片付けにも興味を示すしゅうちゃんだった。

さて、前回、自分の経験して来たことをふりかえることを通じて、
何かを伝えたいなどと大袈裟なことを書いてしまった。
少しそんな要素も入れて行こうと思うが、
同じ人間が書いているのであんまり、かわりばえもしないかも知れない。
これまでも結構本気で書いて来たので、これからも同じかも。

時々、聞かれることに、どんなきっかけでダウン症の人たちの世界にひかれるようになったのか、というテーマがある。
勿論、肇さんや敬子さん、それからよし子という、最初にその世界を見て来て、
教えてくれる存在に出会ったことが、興味を持つきっかけだったことは確かだ。
ただ、そこへ行くまでの人生の中で、自分なりの色んな必然性があった。
これまで出会った人達、先生や仲間達、様々な環境と出来事が、
教えてくれたことがあって、僕はダウン症の人たちの世界に出会った。
そして、この十数年で彼らの在り方からたくさんのことを教えてもらった。
彼らから直接学んだことは多い。
最も大切な事はほとんど彼らから教わったと言える。
僕は彼らに描きやすい環境と、安心感と、一体感を与える。
彼らのすぐれた本質を見せて欲しいから、
こころから楽しんでリラックス出来る状態をつくる。
そうやって彼らと僕は与え合って、一緒になって一つの世界に入る。
僕達はお互いを高め合っている。一方的な関係ではない。
彼らとつくって来た時間の中で、得たものは本当に大きい。

ようやく少しだけ見えて来た。
ようやく少しだけ分かって来た。
でも、まだまだ先は長い。終わりはない。
いつも新しく、いつも楽しい。

こんなに素敵な世界を知らずに生きていくのは勿体ない。
なんとなく、生きている人。
悩んでいる人、がんじがらめになっている人。
地位や権力やお金ばかり追いかけている人。
色んな人が居るけれど、こんなに奥深く豊かな世界もあると知ってもらいたい。

もし明日、世界が終わるとしたら、どんな気持ちになるだろうか。
この世界から何を見せてもらったか。なにを教わったか。
たくさんのものを見せてもらって、教えてもらって、
本当に素晴らしかったと言えるだろうか。
僕はいつでもそんな気持ちで生きていたい。

もっと奥深く豊かなものがある。
それがこの世界だ。
せっかく生まれて来たのだから、それを見てみたいと思えばいい。
僕はダウン症の人たちが生きている世界は、その事を教えてくれると思っている。

その出会いのきっかけとなった、これまでの話を時々書いていくことにする。
これまで通りの様々なテーマを書くことも続ける。
そんな予定でいる。

2011年11月6日日曜日

自分を超えたもの

しばらくブログを書く時間がとれなかった。
よしこは出産予定日が来て、検診ではあと一週間くらいだと言われた。
子供が大きいのでゆっくり下りてくるという予想だ。
お灸も毎日して、身体もやわらかくなって来ている。経過も順調。
土、日曜以外の日に産まれてくれればと思う。
少し落ち着いてから、ご報告したいが、実は家を一軒借りた。
アトリエの二階の一部屋でずっと暮らして来たが、
こどもが産まれたら、さすがに場所がないということで、
アトリエと住居は分けることになった。
とはいえ、週五日は僕がアトリエに居るので、
昼間はずっとアトリエにいる生活は変わらない。
荷物を運んだり結構忙しい一週間だった。

さて、今日もアトリエ前なのであまり時間はない。
しかも、まだテーマも決まっていないのに書き出してしまった。

そう言えば、昨日たまたまキオスクで今月のソトコトを見たら、
移住特集だった。それだけではないどろうけど、放射能のことが大きいのだろう。
とんでもない時代になってしまった。
核分裂まで起こしてしまっているらしいし、
極端な話をしてしまえば、もう助からないかも知れない。
ここまで言うと、嫌な人も居るだろうが、
少なくともそれくらいの危機感と覚悟を持って、
後悔のないように全力で生きなければならない。
ぼーっとしている時間などない。
力の出し惜しみをしている暇などないと思う。

こどもも産まれて来る。
これからの時間をどうすごし、こども達に何を伝えるべきなのか。
今は真剣勝負だ。

だから次回から少しづつこのブログの内容も変えて行くつもりだ。
これまで、なるべく個人的なことは書かないようにして来たが、
これからは僕自身が学んで来たことをふりかえって書いていきたい。
自分が経験して来たことが一番分かることだから。
それでなにが伝えられるのかも分からないが、
とにかく自分自身を見直すうえでも書いてみようと思う。

書くテーマがなくなりませんか、と聞かれることがあるが、
実は今までの流れで書いていく分には、いくらでも書く事がある。
時間さえあれば書きたいことだらけだ。
だけど、少し雰囲気を変えて行きたい。
たとえば、始めのころはテーマだけ決めてあって、
そのテーマについて思いつくことを書いていた。
書き終わるまで自分が何を書くのか分からない。
書きながら考えて、思ってもみないところに話がいった。
でも、その書き方に慣れて来たのか、
最近ではそのテーマについて多分、こう書くなと予想がついてしまう。
自分が分かってしまう。
教室の場でも同じだが、自分のコントロールはしっかり出来ていなければならないが、
自分がどう動くのか分かってしまっていては新しいことは起きない。
僕の場合だと、自分を見極めつつも、ここから先、自分はどう反応するだろうか?
という部分は意識的に残しておく。
意識的に無意識を使う。意識だけになってしまっても、
無意識だけになってしまっても上手くいかない。
自覚的に無意識である場面を残しておくことで、
偶然が入り込んだり、自分の枠を超えることが出来る。
例えば制作の場では作家もスタッフも「自然であれ」と要求されている。
でも自然にというのは意識しないから自然な訳で、
今から自然になろうと言うことには無理がある。
あえてそこをおこなうのが制作の場だといえる。
作家もスタッフも自覚を持って自然になる。
それは日常ともちょっと違うし、いわゆる非日常でもない。

自分の自然体や無意識を自覚的に使えると、面白いことはたくさんある。
こういう言い方をすると、おごっていると勘違いされるかも知れないが、
そういう意味ではなく、実は僕は、自分を見ていて勉強になることが多い。
それは自分を、予想出来る範囲にとどめないようにする時があるからだ。

制作を見ていてもいつも思うが、
作家本人が自分でも予想しなかった作品を仕上げることは多い。
いや、むしろ制作において本人の思いを超えることの方が日常だ。
自分の気付かなかったものや、
自分を超えた世界に入れることが彼らの凄さだと思う。

自分の中に自分を超えたものがある。
自分を遥かにこえた大きな世界がある。
そこに出会うためには、謙虚で敏感であらねばならない。
空気と流れを感じ取って順応する。
感覚の声に耳を傾ければ、どんな時でも何かが見えて来る。
困難な時こそ、自分を超えて行く感性が必要だ。
この困難を前にして、それでもまだ可能性はあると感じたい。
すべての鍵は「感じること」にある。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。