悠太は本当に元気。よく食べ(飲みか?)よく寝、よく泣く。
全身で生きている。
見ていると時間がすぐにたってしまう。
今日まで敬子さんに居ていただいた。入院時からずっと付き添って貰ったことになる。
本当に助かりました。
今日からはうちの母が手伝いに来る。
前回、制作に向かう彼らの、精神的自立度の高さについて書いた。
僕達スタッフはいわば自転車の練習の時の様に、
後ろから支えて走って行って、本人が気が付いた時には手を離している。
いつの間にか、本人が1人で走っている。
こころを一つにする、一体となることの大切さは何度も書いた。
それ以上に大事なのは、いかに離れるかなのかも知れない。
離れることが上手く出来なければ、次の世界が見えて来ない。
制作における自立のみならず、
親離れ、子離れ、古い環境から離れて、また新しい関係が生まれる。
そうすることで、お互いが伸びていく。
実際に制作の場において、離れる技術は大切だ。
すでに自立的な動きが始まっているのに、いつまでもべったりしていたら、
前の関係に戻ってしまうし、自由なこころの動きを阻害することになる。
すべてのことが、そうだが足し算より引き算だと思う。
何が必要か考えること以上に、何が必要でないかを考え、
必要の無いものは取り外すことだ。
例えば、僕達の仕事でも極論すれば、本当は無くなればいいのかも知れない。
つまり、みんなが彼らのこころと一つになれる様になれば、
こういった活動も必要は無くなる。
ダウンズタウンもそうだ。
社会全体が、彼らの文化を受け入れ、共存出来る平和なものになれば、
ダウンズタウンもいらない。
これらは極端な言い方だが、
この様に、絶えず無きにしかずという理想に向けてすすんでいれば、
本質から逸れないのではないだろうか。
今の社会も、人も、無くても良いもの、無くても成り立つものばかりを、
追い求めている。
無くても良いものがあると、人は命の力を失う。
いつでも、手を加えるのは最小限にと思っている。
アトリエの活動も、最も必要な本質にだけピントを合わせていきたい。