2011年11月30日水曜日

無きにしかず

悠太は本当に元気。よく食べ(飲みか?)よく寝、よく泣く。
全身で生きている。
見ていると時間がすぐにたってしまう。
今日まで敬子さんに居ていただいた。入院時からずっと付き添って貰ったことになる。
本当に助かりました。
今日からはうちの母が手伝いに来る。

前回、制作に向かう彼らの、精神的自立度の高さについて書いた。
僕達スタッフはいわば自転車の練習の時の様に、
後ろから支えて走って行って、本人が気が付いた時には手を離している。
いつの間にか、本人が1人で走っている。
こころを一つにする、一体となることの大切さは何度も書いた。
それ以上に大事なのは、いかに離れるかなのかも知れない。
離れることが上手く出来なければ、次の世界が見えて来ない。
制作における自立のみならず、
親離れ、子離れ、古い環境から離れて、また新しい関係が生まれる。
そうすることで、お互いが伸びていく。

実際に制作の場において、離れる技術は大切だ。
すでに自立的な動きが始まっているのに、いつまでもべったりしていたら、
前の関係に戻ってしまうし、自由なこころの動きを阻害することになる。

すべてのことが、そうだが足し算より引き算だと思う。
何が必要か考えること以上に、何が必要でないかを考え、
必要の無いものは取り外すことだ。

例えば、僕達の仕事でも極論すれば、本当は無くなればいいのかも知れない。
つまり、みんなが彼らのこころと一つになれる様になれば、
こういった活動も必要は無くなる。
ダウンズタウンもそうだ。
社会全体が、彼らの文化を受け入れ、共存出来る平和なものになれば、
ダウンズタウンもいらない。
これらは極端な言い方だが、
この様に、絶えず無きにしかずという理想に向けてすすんでいれば、
本質から逸れないのではないだろうか。

今の社会も、人も、無くても良いもの、無くても成り立つものばかりを、
追い求めている。
無くても良いものがあると、人は命の力を失う。

いつでも、手を加えるのは最小限にと思っている。

アトリエの活動も、最も必要な本質にだけピントを合わせていきたい。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。