よし子とゆうたは、水曜日に無事退院しました。
自宅で静養して、ゆうたにおっぱいをあげています。
よし子とゆうたが帰って来て、生活は一変した。
ゆうた中心に毎日の時間が流れている。昼と夜の区別もない。
朝、犬の散歩で外を歩いていても、見える景色が新鮮だ。
生まれ変わった様な気分。
でも、本当に一日の時間が足りない。
今日はこれから、明日の絵の具をつくる。
しばらく、テレビも新聞も見ていないが、立川談志が亡くなったと聞いた。
残念だ。
思えば、談志の落語を聞きに通った日々もあった。懐かしい。
嫌いな人も多いだろうし、もちろん、すべて肯定出来る人でもなかったと思う。
でも、僕は結構好きで聴いて来た。
前に、自閉症の人達のことを書いた。大雑把な捉え方ではあったけど。
そこでピアニストのグールドのことも書いた。
既に全体として成立している世界を、あえていったんバラバラに分けて、
捉え直して、独自に再構成するという在り方。
そこに彼らの世界像があり、それは科学的であり、現代的であるとも言える。
だから、今この時代を生きていて、そんな世界観を無視することは出来ない。
談志の落語もそうだったと思う。
落語自体の背景を分析し、パーツを置き換え直したりしていた。
本質を追究した結果、現代を無視出来ず、落語を解体して、解釈し直した。
もし、落語自体を素朴に信じ信頼し、芸を磨くだけに集中して演じていれば、
多分、名人と呼ばれていただろう。
誰からも批判されなかったし、尊敬だけされていただろう。
でも、どんな時も、本質を追究すると言うことは過酷なことだ。
敵も作るかも知れない。
それを恐れず、本質を追究した姿は誠実だと思う。
昔の人のことを考えると、スケールの大きい人も多いし、
大らかで、人間の本来の姿だなあと思える。
でも、僕たちはそこへは帰れない。
この時代にあった生き方。この時代にあった表現が必要なのだろう。
でも、だからこそ、一方でダウン症の人たちが持っている様な世界を、
深く経験し、知る必要がある。
現代に決定的に欠けた何かが、そこにあるだろう。
彼らは繋がりを生き、愛情と喜びを教えてくれる。
失われた環境や世界との本当の関係を思い出させてくれる。
繋がりを感じ取れる能力を蘇らせれば、
僕達はもっと幸せで、やさしくなれる。