悠太は毎日すくすく育っている。凄い食欲。
毎日変化する姿は、本当にかわいく楽しい。
寝る時間や休む時間が無くなったが、悠太の顔を見ていると、一瞬で疲れが抜ける。
今が一番、子供と一体の時期だ。
ただただカワイイだけの時期。それだけでいい時期。
今見ている悠太の顔は一生忘れないだろう。
成長と共にこの一体感は消えていく。消えなくてはならない。
環境も人も、関係も変化していく。
変化していく事で、新しいものが生まれ、新しい世界が見えて来る。
関係が変わって行く事は、成長し変化し新しくなっていくこと。
日々、超えていくこと。それは一生つづく。
プレのクラスを見ていても、ハルコやあきやてるくんとの関係は、
エコールの頃とは確実に違う。
みんなは精神的には、僕を必要としなくなっている。
そこから僕との関係も新しいものになっていく。
それが面白い。
以前、自立について書いてが、そういう部分を見ていると、
精神的な意味では彼らは、結構自立している。
20代の学生達より、精神的自立はすすんでいる様に見える。
前にすすむ。とどまってはならない。
成長を抑え合って、甘え合っていてはならない。
今、少しづつ自分の過去を振り返っているが、
すでに終わったものは超えて行かなければならない。
今の僕はもうそこにいないし、もうそこを見てはいない。
服だって小さくなったら、脱ぎ捨てるしか無い。
無理やり着ていてはいけない。
今の環境や関係が衣服の様に、自分の伸びていくサイズと合わなくなることはある。
とどまってはいられないのだ。
でも、超えていった先で、かつて一体であった頃のあたたかい記憶が、
自分を救ってくれる。その思い出を宝物の様に持って、超え続けていけばいい。
今年を最後に2名の生徒がアトリエを離れることになった。
数年間、制作を見守って来たので、本当に残念でさみしい。
2人とも先日のうおがし銘茶での展覧会に出品していた。
たくさんの人の目に触れて、好評を得ていた。
かなちゃんは強い筆圧で、立体感のあるシンプルできれいな作品を描いて来た。
作業所に通いだしてからは、作品に勢いが無くなって来ていて、
疲れて来ているなあと心配していた。
ゆうすけくんはもう1人いるが、こちらのゆうすけくんは、
展覧会で「ためいき」という大人っぽい作品を出品して、見る人を感心させた。
色彩感覚が鋭く、線の使い方がすばらしかった。
2人とも、きれいな作品を描き続けてくれた。
アトリエで活き活きと、みんなと楽しんでくれた。
アトリエを離れても、こういう時間を大切に、
作品に現れていたこころが守られていく事を願っている。
制作の場の質を保つため、少人数で一クラスを創っている。
そのために、2名抜けると運営は大変だが、また新しいメンバーに出会えるだろう。
また、生徒数が入り過ぎてお断りしなければいけないこともあり、
このバランスは難しい。
余談だが、先日アトリエで保護者の方の1人が、
「作品がいいからすべて成り立つんですよね」と言うようなことを仰った。
確かに彼らの作品は素晴らしいし、
作品を生み出す彼らのこころの純度が、すべてを成立させている。
その事は事実だ。
でも、この言葉は間違っていると思う。
作品はすばらしいが、それはほうっておいて勝手に出て来るものではない。
紙と絵の具があれば良い作品が描ける訳でもない。
環境を保つことの重要性を忘れては、
いかに素晴らしいものも簡単に崩れてしまう。
その意識は、みんなで共有していたい。
もう一つ、伝え方や場所をしっかり選ばなければ、
ただ流れに任せていると、いつの間にか価値のないものに見えてしまうだろう。
そう言えば、しばらく前のことだが、こんな事があった。
アトリエの裏に養護学校か何かのスクールバスがある。
そのバスの前で自閉症の女の子がずっと、何か叫び続けていて、
大人がいっぱい立ち尽くしている。小学校も近くにあって、
小学校の警備員みたいな人達まで、道が危ないとでも言う様に、
話し合い、見守っている。またしても誰も何もしない。
女の子はうろうろ歩き回って叫び続ける。
僕は犬の散歩をしながら近付く。
女の子の顔を見ると、ああやっぱりという感じ。
何かタイミングを逃したみたいだ。
その間にみんなが怖がるから、ますます出口を失ったのだ。
僕は話しかけ易い様に、自分を無防備にして無意識で近付く。
彼女は急にニッコリ笑って「おっおはよーございまーす」という。
「ああ、おはよう」と僕が答える。
彼女はそのままバスに乗って行く。それでおしまい。
ただ、挨拶がしたかっただけなのだ。
こんなことが分からない人があまりに多いから、
生きづらい環境を強いられている人達がいる。