2011年11月6日日曜日

自分を超えたもの

しばらくブログを書く時間がとれなかった。
よしこは出産予定日が来て、検診ではあと一週間くらいだと言われた。
子供が大きいのでゆっくり下りてくるという予想だ。
お灸も毎日して、身体もやわらかくなって来ている。経過も順調。
土、日曜以外の日に産まれてくれればと思う。
少し落ち着いてから、ご報告したいが、実は家を一軒借りた。
アトリエの二階の一部屋でずっと暮らして来たが、
こどもが産まれたら、さすがに場所がないということで、
アトリエと住居は分けることになった。
とはいえ、週五日は僕がアトリエに居るので、
昼間はずっとアトリエにいる生活は変わらない。
荷物を運んだり結構忙しい一週間だった。

さて、今日もアトリエ前なのであまり時間はない。
しかも、まだテーマも決まっていないのに書き出してしまった。

そう言えば、昨日たまたまキオスクで今月のソトコトを見たら、
移住特集だった。それだけではないどろうけど、放射能のことが大きいのだろう。
とんでもない時代になってしまった。
核分裂まで起こしてしまっているらしいし、
極端な話をしてしまえば、もう助からないかも知れない。
ここまで言うと、嫌な人も居るだろうが、
少なくともそれくらいの危機感と覚悟を持って、
後悔のないように全力で生きなければならない。
ぼーっとしている時間などない。
力の出し惜しみをしている暇などないと思う。

こどもも産まれて来る。
これからの時間をどうすごし、こども達に何を伝えるべきなのか。
今は真剣勝負だ。

だから次回から少しづつこのブログの内容も変えて行くつもりだ。
これまで、なるべく個人的なことは書かないようにして来たが、
これからは僕自身が学んで来たことをふりかえって書いていきたい。
自分が経験して来たことが一番分かることだから。
それでなにが伝えられるのかも分からないが、
とにかく自分自身を見直すうえでも書いてみようと思う。

書くテーマがなくなりませんか、と聞かれることがあるが、
実は今までの流れで書いていく分には、いくらでも書く事がある。
時間さえあれば書きたいことだらけだ。
だけど、少し雰囲気を変えて行きたい。
たとえば、始めのころはテーマだけ決めてあって、
そのテーマについて思いつくことを書いていた。
書き終わるまで自分が何を書くのか分からない。
書きながら考えて、思ってもみないところに話がいった。
でも、その書き方に慣れて来たのか、
最近ではそのテーマについて多分、こう書くなと予想がついてしまう。
自分が分かってしまう。
教室の場でも同じだが、自分のコントロールはしっかり出来ていなければならないが、
自分がどう動くのか分かってしまっていては新しいことは起きない。
僕の場合だと、自分を見極めつつも、ここから先、自分はどう反応するだろうか?
という部分は意識的に残しておく。
意識的に無意識を使う。意識だけになってしまっても、
無意識だけになってしまっても上手くいかない。
自覚的に無意識である場面を残しておくことで、
偶然が入り込んだり、自分の枠を超えることが出来る。
例えば制作の場では作家もスタッフも「自然であれ」と要求されている。
でも自然にというのは意識しないから自然な訳で、
今から自然になろうと言うことには無理がある。
あえてそこをおこなうのが制作の場だといえる。
作家もスタッフも自覚を持って自然になる。
それは日常ともちょっと違うし、いわゆる非日常でもない。

自分の自然体や無意識を自覚的に使えると、面白いことはたくさんある。
こういう言い方をすると、おごっていると勘違いされるかも知れないが、
そういう意味ではなく、実は僕は、自分を見ていて勉強になることが多い。
それは自分を、予想出来る範囲にとどめないようにする時があるからだ。

制作を見ていてもいつも思うが、
作家本人が自分でも予想しなかった作品を仕上げることは多い。
いや、むしろ制作において本人の思いを超えることの方が日常だ。
自分の気付かなかったものや、
自分を超えた世界に入れることが彼らの凄さだと思う。

自分の中に自分を超えたものがある。
自分を遥かにこえた大きな世界がある。
そこに出会うためには、謙虚で敏感であらねばならない。
空気と流れを感じ取って順応する。
感覚の声に耳を傾ければ、どんな時でも何かが見えて来る。
困難な時こそ、自分を超えて行く感性が必要だ。
この困難を前にして、それでもまだ可能性はあると感じたい。
すべての鍵は「感じること」にある。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。