2011年10月31日月曜日

こころを開く

ブログは普段、早朝に書いている。
書いてからアップするのが少し後になる事があるけど。
今日は久しぶりに夜、これを書いている。
よしこの出産予定日が近付いているので、散歩の時間を増やしている。
毎日よく歩く。
昔はよく歩いていたなあと思う。
休みの日は一日散歩していた。
東京に居るとあまり散歩する気分にならなくて、歩かなくなっていた。
歩きながら自分のリズムを取り戻すということがある。

いつも書いているけど、ダウン症の人たちから学ぶことは多い。
彼らはいつも何かを発見している。
今日もハルコが「タイヤかわいい」と時々つぶやくので、
なんのことだろうと思っていると、アトリエの横の窓のカーテンをめくると、
隣の家で作業中のトラックにタイヤがいくつか積んである。
ああ、あれのことかと思う。でもカーテンがあってよく見えてたなと思う。
よーく見れば、ちらっとは見えるのだけれど。
そんな些細なことに気が付くのは、彼女の敏感さだけど、
もっと大事なのは、いつでもこころを開いているというところだと思う。
生きていて世界が狭まって来たり、行き詰まって来たりしたら、
それはこころが閉じているからだ。
このブログでも真面目とか真剣にとか努力と言うことを一番大切に書いて来たが、
それらはともすると、閉じたものにもなりやすい。
一生懸命になりすぎると視野が狭くなることもある。
頑張りすぎると、自分の周りのことしか見えなくなる。
彼らの制作を見ていても感じるが、
彼らは一点集中をしない。
一点集中すると、力も入るし、見えなくなるものが多い。
彼らはまず力を抜いて、何も拒まない状況の中で、
選択せずに周りの状況全体に意識を向けている。
いま、ここでは同時に色んなことが起きている。
でも、私達は普段ひとつかふたつ位のことにしか気が付いていない。
だから狭い世界に生きている。
だから行き詰まる。だから迷う。悩む。緊張し、やさしくなくなる。

こころを開いていれば、いつでも豊かな出来事に出会うことが出来る。
ささやかな物事でも、限りない豊かさをもって感じられる。
そうすると毎日が楽しくなるし、人にやさしくなれる。

決めつけたり、こんなものだと思って生きていないだろうか。
やっても出来ないと思っていないだろうか。
限界を作っているのは自分自身だ。
本当は不可能なことなど何もないはずだ。

僕達スタッフにとってもこころを開いていることは、とても大切な事だ。
こころが閉じていたら、場を良くすることが出来ない。
良いものや楽しいものや可能性が近くにあっても、開いていなければ気付けない。
一瞬の変化を見逃してはいけない。
一瞬、凄いものが現れるかも知れない。
それを拾えなかったら、人のこころにはふれられないし、
人と一つになることなど出来ない。
いつも開き続けること。これもスタッフの役割でもある。
相手のこころを開けなければ、良い作品は生まれてこない。
相手のこころを開きたければ、まず自分がこころを開く。
はだかになってもらいたければ、自分がはだかになる。
自分が武装していて「安全だからはだかになって、何も持たないで来て」
といっても、誰も来ない。怖いし恥ずかしい。
だからまず、自分は何も持たない、すべて見せる。はだかになる。
リラックスしてなんて言ったら、誰でも緊張する。
自分がリラックスした状態で人に向き合えば、相手は必ずリラックスする。

こころを開くのも、慣れていなければ、怖いし、プライドの高い人は、
自分のありのままを隠す。
でもそうしているとつまらない。閉じた場所にずっと居るしかない。
何も恐れるものはない。
何も恥じることはないし、何も拒むことはない。
開いているともっともっと楽しい世界が見える。

先日、たまたま良い本に出会った。
「志村ふくみの言葉 白のままでは生きられない」という本。
志村さんの言葉は深い経験と人間性の深淵から発せられていて、
僕にはまだまだ理解がおよばない言葉も多いが、はっとさせられる本だ。
こんなふうに丁寧に生きなければと思うし、
仕事って人生って、こうあるべきと思う。
改めて深く生きたいなあと思う。
確か別の本での志村さんの言葉で極道とは道を極めること、というのがあった。
先生が「極道どすなあ」と言ったと書いていた。
志村さんも道を極められた方だ。
僕も言うもおこがましいことかも知れないが、極みを目指して行きたいと
感じさせられた本だった。

今回のテーマに少しは関係ありそうな言葉を、一つだけ引用させていただく。
「こちらの心が澄んで、植物の命と、自分の命が合わさったとき、ほんの少し、扉があくのではないかと思います。」

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。