2011年10月11日火曜日

自分の言葉を持つ

土曜日のクラスを見ていて、
季節の変わりめこそ、スタッフは全力で臨まなければと思った。
みんな、調子が悪いまでは行かないけど、作品に勢いが感じられない。
それでも、制作の時間の中で瞬間をしっかり拾っていけば、
一人一人が、自分のリズムを取り戻すことも実感出来る。
良い時も、悪い時もあるのは自然で、大きな流れに逆らってはいけない。
ただ、スタッフに出来ることはたくさんある。
受け止め、受け入れ続けることで、どんな時でも安心感を持ってもらうこと。
良い時は最大限に良さが出るように。
悪い時はその流れが最小限で経過していけるように。
少し、調子が悪いなという程度のことは、
次良くなった時にはプラスになる。
だから、不調というものも悪いものではない。
無理によって生まれたものではなく、自然の流れから生まれた不調には浄化の力がある。

最近は本当に本を読まなくなった。
休みの日は、よく音楽を聴く。
時間のある時は、やっぱりクラシックを聴く。
小さい頃、祖父の手作りのアンプの前で正座して長い時間、
2人で聴き続けていた。
その習慣から、僕の場合、少し時間を置いて見詰め直したり、
味わったりする時には、音楽をゆっくり聴くという時間を持つようになった。
この前は久しぶりに、原智恵子のショパンのピアノコンチェルトを聴いた。
やっぱりいつも感動する。
ピアノは特に好きな楽器ではあるが、この人は別格だ。
原智恵子のピアノは人生そのものだ。
前回、経験が自分を生かすという話を書いたが、
この人の演奏はまさしくそれだと思う。
伝記も出ているが、僕は読まないことにしている。
深く生きたに決まっているし、その人の人生は外面の出来事より、
内面の経験に現れる。ふつう内面は見えないが、音楽の場合は見える。
こんなに一つ一つの音を大切にする人が、
人生の場面や経験を深く生きなかったはずがない。
ショパン自体は好きな作曲家ではないが、原智恵子の演奏で聴くと本当に素晴らしい。
過去を振り返って、味わいなおしているような演奏。
あらゆる瞬間、情景が美しく思い出されている。
かといって、感傷にひたる様な甘さはみじんもない。
厳しさ、揺るがない強さ。どこまでも気品を保っていて、感情に溺れることはない。
特に2楽章は、儚さ、悲しさ、やさしさにあふれていて、
一つ一つの音を慈しむように弾いている。
人を愛し、人生を愛し、繊細でありながら、
強く深く生きた人にしか出来ない演奏だろう。
これ位、濃く深く生きたいと思う。

さて、今回は言葉について考えてみたい。
先月くらいから、また来客者シーズンに入って来たようだ。
様々な方がいらっしゃる。
初めて来て下さる方や、普段全くご縁のないお仕事の方々とお話ししていると、
言葉の大切さ、重要性が実感される。
自分の言葉次第で、その方のきっかけになるか、ならないかが決まってしまう。
内容に興味を持てるかどうか、
間に立ち、案内する人間によって全く違った結果になる。
あたりまえかも知れないが、言葉によってしっかり伝えることは大切だ。

アトリエに来ている学生達や、
最近仕事を通じて出会う同世代の方達を見ていて、言葉の力が弱いなあと感じる。
良いものをいっぱいもっているけれど、
それを言葉で人に伝えることが出来ない。
一方では情報化で世間には言葉が溢れている。
メールやブログ等を見ていると、本当に人にものを伝えたくて、
書いているのか疑問を持つ文章が多い。
自分に向けて自分で書いているだけと言うことだろう。
自分の分身の様な人達ばかりで集まって、
そこでしか通じない言葉を使っている人達も多い。
言葉をもっと大切にした方がいい。
言葉は自分のためにあるものではない。
言葉は人に伝えるためにある。

深い経験は言葉にできない。
それはかけがえのないものであり、その場にしか、その瞬間にしかないものだ。
だからこそ、価値がある。
言葉にできる様な世界だけで生きていてはいけない。
でも、言葉にできない経験にだけ執着してもいけない。
かけがえのない、固有の経験を大切にしすぎてはいけない。
それはある意味で、自分だけが大切ということだ。
言葉に出来ないとは、客観視出来ないということだ。
物事を離れた視点で俯瞰できないということだ。
それが出来なければ、物事の本当の意味は分からない。

人も経験も、その場を離れて、後になって本当に分かる事があると、
前回も書いた。それと同じ。
言葉にするとは、言葉を持つとは、
自分の経験や、自分の見ているものを一旦離れて、見詰め直すことだ。
客観視すること、俯瞰して見ることはとても大切な事だ。

本当に深く入るには、深く離れなければならない。
深く離れるには深く入る経験が必要だ。

人も仕事も同じ。
本当に愛していて、深く一つになりたければ、
離れること、離れる経験を持つことができなければいけない。

言葉にするとは客観視すること、離れることだ。
一旦、大切なものから離れたことで、より多くの人に伝えることが出来る。
伝えることで、人と繋がるが、
伝えるためには一度離れなければならない。
だから、言葉にするとは、孤独になることだ。
孤独にならなければ人は真実にたどりつく事が出来ない。
孤独を恐れてはならない。
孤独にならなければ、より深く繋がることも出来ない。

多分、昔は固有の経験しか存在しなかっただろう。
人はもっと素朴に生きていた。
客観や普遍などなかった。人はそれで幸せだった。

今は違う。
人は普遍に至らなければ、この世界を良い方にもっていく事が出来ない。
昔が良い訳でも、今が良い訳でもない。
事実は否定出来ない。
過去に帰ることも出来ない。
前を向いて、やるべきことをやっていこう。
言葉の力を信頼して、人に伝え、繋がろう。

僕のブログについて、独特の雰囲気があると言って下さる方がいる。
嬉しいことだ。
読みづらいということかも知れないが、
もし、ここに何か良さがあるとすれば、
僕が自分の言葉で語っているからだ。
僕は誰の言葉にも影響を受けていない。
自分の言葉は自分で見付けるしかない。
言葉に力がないという事がある。
なぜ、そうなるかと言えば、さっきの言葉の氾濫と一緒で、
人が言葉に責任を持たなくなったからだ。
力のある言葉とは、言葉に対して、絶えず責任を持ってこそ生まれる。
だから、人の言葉を真似てはいけない。
自分の言葉を探し、自分の言葉を持つことが大切だ。
経験は言葉を深め、言葉は経験をもう一度深める。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。