土曜日のクラスを見ていて、
季節の変わりめこそ、スタッフは全力で臨まなければと思った。
みんな、調子が悪いまでは行かないけど、作品に勢いが感じられない。
それでも、制作の時間の中で瞬間をしっかり拾っていけば、
一人一人が、自分のリズムを取り戻すことも実感出来る。
良い時も、悪い時もあるのは自然で、大きな流れに逆らってはいけない。
ただ、スタッフに出来ることはたくさんある。
受け止め、受け入れ続けることで、どんな時でも安心感を持ってもらうこと。
良い時は最大限に良さが出るように。
悪い時はその流れが最小限で経過していけるように。
少し、調子が悪いなという程度のことは、
次良くなった時にはプラスになる。
だから、不調というものも悪いものではない。
無理によって生まれたものではなく、自然の流れから生まれた不調には浄化の力がある。
最近は本当に本を読まなくなった。
休みの日は、よく音楽を聴く。
時間のある時は、やっぱりクラシックを聴く。
小さい頃、祖父の手作りのアンプの前で正座して長い時間、
2人で聴き続けていた。
その習慣から、僕の場合、少し時間を置いて見詰め直したり、
味わったりする時には、音楽をゆっくり聴くという時間を持つようになった。
この前は久しぶりに、原智恵子のショパンのピアノコンチェルトを聴いた。
やっぱりいつも感動する。
ピアノは特に好きな楽器ではあるが、この人は別格だ。
原智恵子のピアノは人生そのものだ。
前回、経験が自分を生かすという話を書いたが、
この人の演奏はまさしくそれだと思う。
伝記も出ているが、僕は読まないことにしている。
深く生きたに決まっているし、その人の人生は外面の出来事より、
内面の経験に現れる。ふつう内面は見えないが、音楽の場合は見える。
こんなに一つ一つの音を大切にする人が、
人生の場面や経験を深く生きなかったはずがない。
ショパン自体は好きな作曲家ではないが、原智恵子の演奏で聴くと本当に素晴らしい。
過去を振り返って、味わいなおしているような演奏。
あらゆる瞬間、情景が美しく思い出されている。
かといって、感傷にひたる様な甘さはみじんもない。
厳しさ、揺るがない強さ。どこまでも気品を保っていて、感情に溺れることはない。
特に2楽章は、儚さ、悲しさ、やさしさにあふれていて、
一つ一つの音を慈しむように弾いている。
人を愛し、人生を愛し、繊細でありながら、
強く深く生きた人にしか出来ない演奏だろう。
これ位、濃く深く生きたいと思う。
さて、今回は言葉について考えてみたい。
先月くらいから、また来客者シーズンに入って来たようだ。
様々な方がいらっしゃる。
初めて来て下さる方や、普段全くご縁のないお仕事の方々とお話ししていると、
言葉の大切さ、重要性が実感される。
自分の言葉次第で、その方のきっかけになるか、ならないかが決まってしまう。
内容に興味を持てるかどうか、
間に立ち、案内する人間によって全く違った結果になる。
あたりまえかも知れないが、言葉によってしっかり伝えることは大切だ。
アトリエに来ている学生達や、
最近仕事を通じて出会う同世代の方達を見ていて、言葉の力が弱いなあと感じる。
良いものをいっぱいもっているけれど、
それを言葉で人に伝えることが出来ない。
一方では情報化で世間には言葉が溢れている。
メールやブログ等を見ていると、本当に人にものを伝えたくて、
書いているのか疑問を持つ文章が多い。
自分に向けて自分で書いているだけと言うことだろう。
自分の分身の様な人達ばかりで集まって、
そこでしか通じない言葉を使っている人達も多い。
言葉をもっと大切にした方がいい。
言葉は自分のためにあるものではない。
言葉は人に伝えるためにある。
深い経験は言葉にできない。
それはかけがえのないものであり、その場にしか、その瞬間にしかないものだ。
だからこそ、価値がある。
言葉にできる様な世界だけで生きていてはいけない。
でも、言葉にできない経験にだけ執着してもいけない。
かけがえのない、固有の経験を大切にしすぎてはいけない。
それはある意味で、自分だけが大切ということだ。
言葉に出来ないとは、客観視出来ないということだ。
物事を離れた視点で俯瞰できないということだ。
それが出来なければ、物事の本当の意味は分からない。
人も経験も、その場を離れて、後になって本当に分かる事があると、
前回も書いた。それと同じ。
言葉にするとは、言葉を持つとは、
自分の経験や、自分の見ているものを一旦離れて、見詰め直すことだ。
客観視すること、俯瞰して見ることはとても大切な事だ。
本当に深く入るには、深く離れなければならない。
深く離れるには深く入る経験が必要だ。
人も仕事も同じ。
本当に愛していて、深く一つになりたければ、
離れること、離れる経験を持つことができなければいけない。
言葉にするとは客観視すること、離れることだ。
一旦、大切なものから離れたことで、より多くの人に伝えることが出来る。
伝えることで、人と繋がるが、
伝えるためには一度離れなければならない。
だから、言葉にするとは、孤独になることだ。
孤独にならなければ人は真実にたどりつく事が出来ない。
孤独を恐れてはならない。
孤独にならなければ、より深く繋がることも出来ない。
多分、昔は固有の経験しか存在しなかっただろう。
人はもっと素朴に生きていた。
客観や普遍などなかった。人はそれで幸せだった。
今は違う。
人は普遍に至らなければ、この世界を良い方にもっていく事が出来ない。
昔が良い訳でも、今が良い訳でもない。
事実は否定出来ない。
過去に帰ることも出来ない。
前を向いて、やるべきことをやっていこう。
言葉の力を信頼して、人に伝え、繋がろう。
僕のブログについて、独特の雰囲気があると言って下さる方がいる。
嬉しいことだ。
読みづらいということかも知れないが、
もし、ここに何か良さがあるとすれば、
僕が自分の言葉で語っているからだ。
僕は誰の言葉にも影響を受けていない。
自分の言葉は自分で見付けるしかない。
言葉に力がないという事がある。
なぜ、そうなるかと言えば、さっきの言葉の氾濫と一緒で、
人が言葉に責任を持たなくなったからだ。
力のある言葉とは、言葉に対して、絶えず責任を持ってこそ生まれる。
だから、人の言葉を真似てはいけない。
自分の言葉を探し、自分の言葉を持つことが大切だ。
経験は言葉を深め、言葉は経験をもう一度深める。