2011年10月3日月曜日

別の生き方

土、日曜日の教室が終わると、
いつも「もっと出来るはずだ」と思う。
その時その時はベストを尽くしている。
それでも、まだまだ自分のはたすべき役割として、質をあげていきたいと思う。
幸いなことに、この10年で自分の身体的、精神的コンディションによって、
役割をまっとう出来なかったことはない。
勿論、まわりの支えあってのこと。
絶えず、ベストをつくして、さらに上の働きが出来るようにしていきたい。

もう少し、もっと出来るし、やらなければならない、という気持ちが、
次の現場に活かされてくる。

僕の場合、週のうち5日はダウン症の人たちと過ごしている。
それも、制作に関わっていく彼らのこころの深い部分にふれる時間としてだ。
こういった日々をおくっていると、気付かされることは多いが、
それ以上に、自分の見方、感じ方自体が変化していく。
社会の側から彼らを見る眼差しに対して、
僕の場合は、彼らの側から社会を見る眼差しが出来てくる。

彼らには彼ら独自の文化があると言うことは、自明のことのように思える。
いつも、本当に言いたいのはこのことなのだが、
この世界は私達があたりまえに唯一と信じているものが、すべてでは決してない。
もっと違ったものの見方や感じ方も存在する。
一つの世界しか知らず、それがすべてと思うのは、
間違っているし、差別を生む原因にもなる。
でもそれ以上に、生き方として勿体ないことでもある。
もっと豊かな可能性があることに気が付かなければ、損だと思う。

障害や福祉の問題とは全く別のこととして、
偏見抜きにダウン症の人たちの文化を知ってもらいたいと思う。

数値どおり生まれた人が生きていれば、
この地球上の千人に1人がダウン症だということになる。
そこに何らかの意味がないはずはない。
私達はすでにあるものを見つめていない。
読み解こうとしてこなかった。

彼らと過ごして来て、彼らの文化を教えてもらって、
僕の立場から言えるのは、人間のこころの持つ力は素晴らしいと言うことだ。

言葉で書くのは難しいが、
人間は本来もっている能力の、ごく一部しか使っていない。
もっと全身で感じることができる。楽しむことができる。
生きていることはもっと凄いことだ。
そんな事を、彼らは教えてくれる。

瞬間、瞬間におきている出来事が、
流れている時が、この世界の動き全体が、
直接、繋がりの中で自分の皮膚で感じられたら、どうだろうか?
その時、私達の生はもっと劇的で、強烈で、そして楽しいものとなるはずだ。

そんな可能性を想像してみるのも、何かきっかけになると思う。

大事なのは、自分の知らないもの、分からないものを、
存在しないことにしないこと。
まだ、知らないけれど、そこに入って行けば、
何かがあるかも、何かがみつかるかも知れないという感覚が必要だ。

私達はこれまで、こうやって生きて来た。
でもそれだけじゃないかも知れない。
行き詰まったら、別の生き方や可能性にも目を向けたい。

このことは社会全体にも言える。
これまで信じて来た価値だけがすべてだろうか?
豊かになって失ったものも多いと人は言う。
ならば、別の可能性の存在にも目を向けてみたらどうだろう。

このやり方をこれ以上続ければ破滅するというところまで来ても、
これまでの進め方に固着するのは異常だ。

時間はかかるかも知れないけれど、
人間にとって本来の在り方とは何か、考え直してみることも必要だろう。

彼らの文化を知ろう。
感じてみよう。
そこには人と世界との繋がりがあり、
生きる喜びと、他の存在への思いやりがある。

感じる力が強まれば、
本当に何が必要なのか、何をすべきなのかが分かるはずだ。
この世界はもっと奇跡のように豊かで、謎と神秘に満ちている。
もっともっと、大きく、深い。
大いなる感覚を忘れてはならない。
畏怖する謙虚な感覚を忘れてはならない。
私達のこころの中に刻まれた記憶として、
人間は必要なことはすべて知っているのかもしれない。
ただ、そこへ至るためには、
裸になって、感覚を研ぎ澄ませていかなければならない。

制作することや、
こころに向かっていくことは、
自分と世界との本来の繋がりを取り戻すことでもある。

ダウン症の人たちの文化を知ることで、
私達は、今とは別の生き方の可能性を感じてみることができる。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。