2013年6月23日日曜日

ブログお休みします

昨日もアトリエの場も良く、作家たちも素晴らしかった。
こんなに良い時間を過ごしている人達は少ないだろう。

夕方から雨が降ったり止んだりだったから、
予備クラスの人達は傘に困っていた。

今日は長く続けている人の多いクラス。

さて、いよいよ明日から三重です。
合宿のこと以外に進めなければならない多くのことがあります。
このブログはしばしお休みします。
帰ってきてまた、新たなテーマで書き始めるのが楽しみです。

久しぶりのゆうたとの時間も楽しみです。
いっぱいいっぱい遊んであげたいです。

いつも読んで下さっている皆様、本当に有り難うございます。

これからどんどん挑戦して行きたいと思っています。
これまでと変わって行く部分も多くなると思います。

いつでも、前を見てすすんでいきましょう。

困難な時代ではありますが、
こんなに多くの人達が、
ダウン症の人達の示す世界に惹かれているという事実があります。
今だからこそ、必要な何かが彼らの中にあると感じます。

これから世界は破滅に向かってこのまま進んで行くのか、
ゆっくりとではあっても、意識を変えて行く人達が繋がり、
調和へ向かって行くのか。
調和は個人のこころから始まり、
身近な人達に広がり、世界中に広がっていく可能性を持っています。

だから、1人の個人を小さく見ることはできません。
すべてはその1人から始まるのだから。

作品や作家や、自らのこころと出会う、適切な環境を創って行きたいです。
そんな場から、一人一人が調和の心地良さを感じてもらう。
愛を持って丁寧に生きる人達が繋がって行く。
そんな可能性が引き出される活動を目指します。

さて、みなさんも元気でお過ごし下さい。
また良いご報告が出来ると思います。

2013年6月22日土曜日

いろいろ

雨が続いた。今日はすっかり青空。

今週はたくさん打ち合わせがあって、いっぱい人に会った。
アトリエの活動には本当に多くの方が関心をよせて下さり、
熱心に耳を傾けて下さる。
だからこそ、この社会の中で必要な役割を実行して行きたい。
多くのご期待に応えて行きたい。

かなり忙しくなってきたが、こころをこめて仕事して行こう。

最近、まますます思うのはブレないことの大切さだ。
少し前によし子と電話で話していて、こんな話題になった。
(彼女も急がしいのでなかなか連絡が取れず、電話がつながるとつい、あれこれ話してしまう時がある。)
こういうことだ。
僕達が東京でアトリエを始めた時は、同じ意識とまでは言わないまでも、
いくつか良い活動をする団体があったし、新しいことに取り組む人達がいた。
同時期に始まったようなところもあれば、古くからあるところが、
新しい意識で取り組み直しているものもあった。
10数年の間にちょっとは良かったそれらの活動も、みんなダメになって行った。
ここでいうダメは、こちらの価値観だから、
それらの存在意義を否定するものではない。
ただ、従来のあり方を変革すべく出てきた活動のほとんどが、
これまでの波にのまれ、つまらない昔ながらの組織になっていってしまった。
何故だろうと考えた時に、勿論、制度の問題も大きいが、
それも含め、やる側の意思の力が衰えるからだと思う。
まあいいか、という妥協。
こっちにおいでよ、という周りからの強い引き寄せ。
戦い続けることは疲れる。
それで少しづつ、みんな仲間になって行く。

体力が衰えると、つい甘えたくなる。
こっちにくれば、みんな仲良しだし、みんな分かってくれるよ、
という誘いに乗って、自分達の使命や美意識や厳しさを捨てて、
その中に入って行ってしまう。
中身はなあなあだ。
誰のために、何をするのか、今のありかたに何が欠けているのか、
そういった自覚を持ち続けなければならない。
ここまで言うと、誤解もあるかも知れないけれど、
結局、このアトリエしか残ってないのか、という思いもある。
改めて、ブレてはいけないと覚悟を決めなければ。

みんな楽したいらしい。苦しみたくないらしい。
でも、少なくとも僕は先へ行かせていただく。
これからは仕事もより絞って行くだろう。
馴れ合いの低レベルのお仕事はお受け出来ない。

とは言え、張っているのはかなり体力がいる。
これまでは全く意識しなかったけれど。
疲れたり、虚しさを感じたり、言いようのないジレンマにおちいったり。
未だにあがき続けている。

でも、作家たちから見えて来るビジョンが語る方向はこっちしかないと確信する。
彼らの持つ力を甘く見て欲しくないし、
低いレベルで扱われたり、語られ続けることに怒りを覚える。

僕達には強いビジョンが見えているのだから、
薄める必要はないはずだ。妥協したり諦めたりしてはいけないはずだ。

これまでこうして生きてきて。
こういう仕事に人生を捧げてきて、全く後悔はない。
本当に大きなものを貰ってきた。
はかりしれない光景が待っていた。思いもよらない幸せだった。
でも、一方で普通の人達が普通に望むであろう多くのことを、
諦めなければならなかった。犠牲という言葉は使いたくないけど。
多くのものを切り捨てて進まなければならなかった。
もし、普通に生きていたら、こうはならなかっただろうという多くの、
矛盾や葛藤や深い悲しみにも出会わなければならなかった。

それでも歩いてきた。

僕が16の頃からずっとお世話になってきた共働学舎のことだけど、
ある時期以後の活動を、僕は良いとは思っていない。
そういう意味では否定しているし、もっとこうあるべきだと思っている。
もし、全面的に良いと思っていれば一緒に働いているだろう。
でも、あれだけ、みんなで協力している姿にはやっぱり励まされる部分もある。

久しぶりに学舎の会報を読んだ。
まことさん夫妻の文章が素晴らしかった。
ちょっとだけ引用させて下さい。

「真一郎(創設者の宮嶋先生)が食卓で、ぼそっとこんなことをつぶやきました。
(共働学舎とは何かと言われたらそれは【家】。わしは四十年かかって家族を作ってきたんだなあ。)
私達は地縁も血縁もない、経済的雇用関係もない、どこかで共働学舎の名前に出会い、自分の居場所を求めてここへ来た人々の集まりです。出会うべくして出会って今ここに存在しています。家族のように生活し、隣の人が笑えば笑い、悲しめば悲しくなりして、縁を太くしてきたのです。(・・がいないと××ができない)とか(○○がいると仕事ができない)とかの声が聞こえます。でも、私達は仕事するために集まってきたのではなく、一緒に生きるために集められた仲間のはず‥‥共働学舎という家がつぶれないように、一人一人の家族が力を出し合えるようにと祈ります。」

これを読んでいて、やっぱり続けてきた人達は見えてくるものが違うなと感じた。
宮嶋親子が言う、家族というキーワードは本当に大きい。
僕達も20年先に(もし生きていられれば)こんなところに行っていたい。
宮嶋先生やまことさんと一緒に暮らし、働いていた時間は掛け替えのない宝物だ。

さてさて、今日、明日のアトリエも一生懸命、良い場にします。
明日は撮影も入る。
そして、月曜日からは佐久間は三重に行きます。
平日のクラスは関川君が進めます。
まだ、お話し出来る段階ではありませんが、これからに向けて、
色々新しいことにも挑んで行く予定なのでまたご報告しますね。

みなさまも良い1日になりますように。
天気、すごく良くなってきましたねー。

2013年6月19日水曜日

これからもずっと

おはようございます。
今日は早朝に書いております。

強い風が吹いて、気持ちが高揚する。
不謹慎かも知れないけれど、僕は自然が強烈に迫ってくる時、
何かワクワクしてしまう。

道路に木いちごが落ちていた。
なんでこんなところに。
いくつかつぶれていて、その赤が奇麗だった。

今日もこうしてここにいる。
かけがえのない時間の中に。

いよいよ大きな仕事に挑んで行かなければならない。
いつでも、全力でぶつかる覚悟はある。

いつまでなにが出来るのか分からないけれど、
終わりの時まで止まることはないだろう。

あんまり大袈裟な話をしたくはないけど、
振り返ってみるととんでもないことの連続で、今よく生きてるなあと驚く。

最初から濃厚な場面の連続だったけど、今後も続いて行くのだろう。
でも、不思議に何か大きなものに守られていたから、こうしていられる気もする。

これまで見せてもらったもの、教えてもらったことに、
しっかり恩返しして行かなければならない。

世界や人や出来事に、いつでも可愛がられ、愛されてきて、
見えなかったものを見させてくれたのだから。

一人では本当に何も出来ない。
沢山の人達と出来事が自分を引っ張って連れてきてくれた場所。
いつもありがとうと思うけれど、もっともっと返して行きたい。
1年前より、見えるようになっている、聴こえるようになっている。
感じられるようになっている。
もっともっと先が見えて来る。

まだまだ分からないけれど、
世界も生命も人も美も、どこまでも広く深く、終わりないものだ。
謙虚になればなるほど、それらは鮮やかな姿を見せてくれる。
どこまでもどこまでも。

今、自分がすべきことを愛を持って、丁寧に大切に実行させてもらう。
それがすべてだ。
ここにいる人たちだけではなく、この時を同じ地球の上で生きている人達。
みんなで共有している世界。
僕達は一緒にどんな場面でも、より良くして行くためにここにいる。
その自覚を忘れてはいけない。
いつでも。これからもずっと。

2013年6月18日火曜日

生命を失わないように

自分個人としての不調とか問題の解決法は、
僕にとっていつでも簡単だ。
良く寝ること。それから大好きな音楽を聴くこと。
寝ることですべては消えて行く。
何にもなくなってからっぽになって、身体もこころも軽くなる。
それくらい、深く寝る。
大好きな音楽を聴いていると、それだけで幸せになる。

これから先の課題は仕事のことも勿論だけど、
個人のレベルで言えば、成長して行くゆうたとの時間をどうやって作って行くか。
これからの時間は本当に本当に大切だ。

僕にとって未だ父なるイメージが持てない。
父との関係も時間も持たずに育ってきたから。
それは事実であって、だから悪いとか良いとか思っている訳ではないが。

ただ、確実に感じられることはゆうたは僕を必要としているということだ。

小さな頃の記憶にはいつでも美しい音楽があった。
祖父の手作りのスピーカーの前で、いつもクラシックのレコードを聴いた。
小学校の頃、音楽の授業でベートーベンの交響曲を聴く時間があった。
みんなが退屈で寝ていたり、長い長いと欠伸したりする中、
僕は聞き慣れた音楽のこの演奏は誰だとか、この解釈はどうだとか、
上手いとか下手とか思いながら聴いていた。

今日はアトリエ自体のお話はお休みしよう。

最近、また田中希代子の演奏を聴いている。
日本にまだクラシックが根付く前、まだ練習する環境もなかった頃の、
必死になって西洋音楽に追いつこうとしていた時期の演奏家達が本当に好きだ。

原智恵子、安川加壽子、田中希代子、諏訪根自子、巌本真理、
とか、書いてみるとみんな女性なのにも驚く。
一番好きなのはやっぱり原智恵子か。

こういう人達の演奏の記録はほとんどないから、いつも同じものを聴く。

何がそんなに良いかと言うと、音に魂があるからだ。

もともと、僕はクラシックに関して日本の演奏家は嫌いだ。
テクニックはあっても、個性がない。
技術だけで、何のために、何を表現するためにその技術があるのか分かっていない。
動機も必然性もない。
はっきり言って何をしたいのか分からない。本人もおそらく分かっていない。
音大やら音楽教育が問題なのだろう。
コンクールのあり方も原因の一つだろう。
でも、一番は時代だと思う。
何をするにしても、動機が持ちにくいことは確かだ。

日本の演奏家はテストで良い点を取るための優等生的な音楽しか作れない。
だからのっぺらぼうで薄っぺらい。
そんな音楽を聴いていたくはない。

それなのに、まだまだ土壌すら整う以前の演奏家に素晴らしい人がいたのは不思議だ。

日本人の美質の一つとされる、主張しない、謙虚で献身的という要素が、
良い方に出ているのがこの時期の演奏家達だ。
この人達も主張はしないし、個性を滅却しようと努力している。
音楽に尽くそうとしている。
西洋という理想を追いかけて、何とか食らいつこうとしている。
音楽の前でひれ伏して自分の命を捧げている。
そこに魂が宿る。

技術だけで言ったら、今ではもっと上手く演奏出来る人もいるだろう。
でも、このひたむきさや、やこめる力は、現代が失った何かだ。

良く言われすぎることではあるけれど、便利ははたして良いのか、
という疑問を本当に実感する場面は、こういうのを聴いている時だ。
私達は確実に何か大切なものを失ってきているのではないかと。

何をしているにしても、動機がない人は本当に多い。
何でも簡単に手に入る。
何でもある。何をしても何も変わらない。
そんな中で動機が持てるだろうか。

困難を経験していないということは、生命の力が弱まっていることだ。
自分を否定されない環境に慣れきってしまっているから、
ちょっとのことで傷ついたりする。
この世界も命もあって当然だと思っているから、有り難みを感じない。

もし、楽に生きる道があったとして、
それを選択するとしたら、結果は生命力を失って行くだろう。

田中希代子の演奏を聴いていると、
音楽を奏でることが容易ではなかったこと、
様々な困難と苦悩と、そこに立ち向かって行く勇気こそが、
彼女を輝かせていることに気がつく。
目指すものは辿り着けない程、遠くにあるからこそ、
進む勢いに迫力がある。
命をかけなければ、何も見えないし、何も分からない。
命をかけなければ、生きているとは言えないのではないか。

田中希代子の演奏は、清潔で健康で、真っすぐに前を見ている。
困難に負けず、自分にも負けない。
バランスを保ち、全体の構成力は抜群だ。
情に流されないで毅然としている。
気持ちよくエネルギーを発散しない。
しっかりと俯瞰して動じない。
自己を滅却して音楽に尽くしている。
個性も感情も否定して、音楽そのものに準じるからこそ、
音楽に希望が宿る。

簡単とか便利とかが生命力を削いで行くのと同じように、
規制によって改善しようという流れも危険な状態にきていると思う。
最近はやたらと規制が多くなっている気がする。
これをしてはいけないとか、言ってはいけないというものが過剰なまでに増えている。

何事も未然に防ごうという傾向も強いのだろう。
そのうち何も言えない、何も出来ないというのが自覚さえされなくなるだろう。

安全のために生命力を失ったのでは、何のための安全かさえ分からない。

流されないで、鵜呑みにしないで、命を全うしよう。
本気で全力で挑むからこそ面白い。

抑圧したり統制したりしても問題は何も解決しないだろう。
個人のこころを見ていると本当にそう思う。
制作の場での僕達の役割は制御をかけることではなく、
すべてを解放することだ。
押さえつければ問題は増えるだけだ。
逆に最初は怖いだろうけれど、完全に自由にして解放してみれば、
調和がとれてくることに気がつくだろう。
自由にして争いが起きたり、問題が起きたりするのは、
その自由がまだ徹底されていないからだ。

2013年6月17日月曜日

挑戦

今、買い物でスーパーへ行った帰り、自転車で走っていると、
月が奇麗に半分に割れて光っていた。

今日も蒸し暑かった。体力が消耗する季節。

今週は色々と打ち合わせが入っている。

今日の午前も来年の展示に向けての打ち合わせだった。
今回は学芸員の方が本当にアトリエに深い理解と共感をよせて下さっていて、
そういう意味では安心してお任せ出来る。
同じ意識でお仕事を出来ることは本当に嬉しい。
有り難い。
佐久間のことも分不相応なほど、高くかって下さっていて申し訳ない。
何とかご期待にはお応えしたい。

そんなこともあり、僕も人前に立って表でお話しする場面が増えてきそうだ。

どうなることやら、とも思うけれど、
自分を追い込んだり、自分に無理をさせたりするのはけっこう好きだ。

こうしてアトリエを続けていて、本当に嬉しいのは、
社会的責任を共有出来る方と出会うことだ。
一緒に良いことを目指して行ける、それが素晴らしい。
でも、案外こういう出会いは少ない。
ほとんどは無理解や誤解にさらされることの方が多い。

一生懸命、誰かだけでなくみんなのためと思ってやっているけれど、
理解されないことも多い。

僕達の活動は自覚を持って、選択して、一緒にやろう、
と思ってくれた方々と進めている。
僕達は自分で考える力を持った大人であるはずだ。
一緒にすすめる以上は覚悟と責任を持って、協力し合うべきだ。
ここは宗教ではないし、何かを強制させる場でもない。
沢山の選択肢の中から、この場を良しとして選んで下さっている方が、
集まっているはずだ。
勧誘もしないし、それぞれの考え方を否定する気もない。
厳しい言い方かも知れないが、アトリエを良いと思わないのであれば、
他へ行けば良いことだ。
自立した個人が同じ思いで協力し合っているはずだ。
アトリエを自分の思う方向に引き寄せたいと思ってしまう人達は、
もう一度このことを考えてみて欲しい。

障害のある人達も苦労して頑張ってます、
みたいなストーリーが欲しくて来る人も相変わらずいるけれど、
ここにはそんな物語はない。
欲しければ、他へ行っていただきたい。
何度か書いたけれど、そのストーリーそのままを供給している団体があるのだから。
僕達はないものを無理矢理提供はしない。
事実をいじって欲しくはない。

かつて、学生時代のよし子は様々な施設を研修して回っていた。
どこへ行っても、こんなんじゃないという不満を持っていた。
僕自身もずっとお世話になっていた共同体へ強い反発をいだいていた。
もっとこうしたい、もっとこうあるべきだ、と。
僕達はもし自分達が責任をもって場を創る時は、
もっと明るく楽しい場所にして行きたいと考えてきた。
そして、そんな場が実現出来ることは、この10数年で証明したと思っている。
この場を見に来てくれた方々はみんなそのように感じてくれた。

大切にしているものの種類が違う場合はあるだろう。
文房具屋で洗濯機が買えないのは当然ではないだろうか。

それでも、こうして応援してくれる人や支えて下さる方がいる。
近くにいる人達も、遠くにいる人達も、みんなの気持ちを受けて続けている。
有り難いなあと、いつも感じながら。

今週の土、日曜日も、場に入りながら、
今日も託されて、身体もこころも動いてくれて、
みんなと創って行けることが嬉しくて仕方なかった。
今週は流れも凄かった。
作品と言う結果だけで見ると、もっともっと良い時もあるのだけど、
流れ方、プロセスに凄みがあった。
こちらもグングン呑まれて行くようで、めまぐるしく場面が変わって、
クラクラするくらいだった。でも、当然楽しい。
目を閉じると、色彩や線がわーっと動き出して溢れて来る。

このブログも熱心に読んで下さる方達がいて、
しばらくお休みすると、心配していただいたり。

それから、時に切ないさや悲しさのある内容で書くと、
大丈夫ですかとか、一人暮らしで寂しいでしょうとか、お声もかけていただく。
ご心配なくです。僕はタフです。体力、気力だけがとりえなので。

思えば悲しさ切なさは自分の人生観なのかもしれない。
いつでもそれを感じているし、でも、だからこそ、
優しく丁寧に関わって行きたいし、すべての瞬間を慈しみたいと思っている。

良い環境を創って行くための条件は、大切にする気持ちと、
瞬間に対する集中力だと思うが、
それらは、この場は一回限り、もう2度とないという自覚から来る。

僕は自分に逃げ道を造りたくないし、いつでも明日がないという状況で、
全力で生きていたいと思う。

分からないからこそ、進んで行きたいし、
難しいからこそ挑戦する。
楽とか簡単にはいっさい興味はない。

どうなるか分からないから面白いし、
みんなで協力し合って良くして行く喜びがある。

挑戦する勇気を忘れないことだと思う。

まずは夏の三重合宿、みんなで良い場にしようね。

2013年6月10日月曜日

レンタル

毎日のようにこのブログを更新しているが、
しばらく書けないかも知れないからだ。

書ける時に纏めて書いて、しばらくお休みのペースで行かせていただきたい。

読んで下さっている方が意外に多いので、責任を感じてもいる。

毎日、アトリエで作家たちの内面と向き合っている。
もう10数年になる。
その前はさらに7、8年、様々な障害を持つ人達のこころの世界に潜ってきた。
その経験を元に色んな人に会ってお話する。
時々だかけど、講演もさせていただく。

いつもいつも同じことを実行し続けてきたし、言い続けてきた。
本当に単純にシンプルに言ってしまえば、
今、みんなが見ている生きている世界も、
一度、見方を変え、認識を変えてみると、もっともっと豊かで平和な、
新しいものと出会える、ということ。
そのための方法を伝えてきたと思うし、
僕自身、身を以て日々、実践している。

ここで、何度も言ってきた、良く見ること、良く感じること、良く考えること。
その意味は、あらかじめ決められた価値などないということだ。
無意識の前提を取っ払って欲しいと思う。
自分を縛っているものや、抑圧しているもの、セーブをかけているもの、
そういった様々な限界に気づいて欲しい。
自分の限界から自由になった人だけが、他の人を自由に出来る。

固定観念を捨てよう。
昨日も今日も明日も同じ世界があり続けているという幻想を捨てよう。

これまで言われ続けてきたことを疑ってみよう。
自分の目で見ること。自分の感覚を使って確認すること。
そうすれば、ようやく何かが見えて来る。

僕の仕事で言うと、ダウン症の人たちには独自の文化があり、
彼らの生きている世界がある。
それは、僕達が普段、感じとれなくなっていたり、
見えなくなっていたりする世界だ。
こんな簡単なことすら、いまだに本当には伝わっていない。
みんな自分が生きている世界だけがすべてだと思っているからだ。

本気になれば、いくらでも楽しいことはあるし、
美しいものに満ちているはずだ。

もっと敏感になろう。

所有の意識が物事を見えなくさせる、という話は以前に書いた。
もう一度、この話題に触れよう。

僕の仕事でいうなら、強いエネルギーをどこかに集中しなければならない時、
それをやりすぎると寿命を縮める。
それにエネルギーの出し方も弱まって行く。
感覚はピークを超えると衰える。どんどん弱まり鈍くなる。
技の冴えもなくなる。(正確さは増すかも知れないが)
全体的に自分の持っている能力は衰えて行くものだ。
だから、自分の能力以外のものを使えなければ、確実にダメになる。
能力以外のものをどう使っていくか、というのは面白いが今はふれない。

つまり、自分というのも、どこかから与えられたものであり、
いつかは返して行かなければならない。
すべてはレンタルだと思う。
何のために、何に使うために借りているのか、よく考えるべきだ。

身体もこころさえもレンタル。
感覚も思いもどこかから借りているもの。

ここにあるものや、ここに集まっているもの、
今、ある世界、すべてはこうして借りているものだ。
それらが僕達に何かを見せてくれている。
経験させてくれている。

借りたものは返さなければならないし、
何かのために使って行かなければならない。

大きな倉を創って食べ物や経験を保存しようとするから、
狩りをする能力がなくなる。

何も持たなければ、今日も探しに行かなければならない。
今日も狩りをして、食べ物を手に入れ、
楽しさや、美を手にしなければならない。
必要なものはその都度、見つけなければならない。
これが充実感であり幸せだと思う。

今日ある世界が明日もあると思うから、こころが動かない。
与えられている、借りているという感覚があれば、
今日現れてくれた世界に毎日、感動するだろう。

たとえ、都会のど真ん中にいようと、
そこは森であり原野であって、
人生に必要なものは自分で狩って来なければならない。
毎日毎日、狩猟するわけだ。

この森の中には何でもある。
ただ、見つけ出す能力さえあれば。

今日1日あれば、僕は一生分の楽しさを狩ることが出来る。

今日1日が見せてくれているもの、教えてくれているもの、
貸してくれているものを大切に扱おう。
そして、今、与えられているすべて、環境や能力や、
ものやこころ、そんなすべてはレンタルなのだから、
明日はないかも知れない。
だから、誰かや何かのために使って行こう。

2013年6月9日日曜日

水の如し

さて、今日もがんばろう。

暑くなりそうー。

やるべきことはただ一つ。単純で変わりないこと。
気持ちをこめて、思いを込めて、良い場を創って行く。

昨日は無意識について書いた。
母性についても以前、書いた。
こういう感情や心性はとてつもない可能性を持っていると同時に、
飲み込まれて行くと自己を失いかねない。
自己が肥大化している人達は少しはそういう経験も必要だけど。

僕はすべてはバランスだといつも考えているし、書いているが、
バランスと言っても、誰が見ても奇麗な安定した地点がある訳ではない。
この人にとっては良くても、あの人にとっては良くないとか、
この時期には良いけど、この時期には良くないとか。
こころを扱う仕事をしていると、
綱渡りのようなギリギリのところにいつもいて、
答えを次々に変えて行かなければならない。
だから、僕は絶対の答えを信じない。
答えとは今の状況の中ではこれが、かろうじて最善、
もしくは一番まし、というか落ち着きどころということだ。
それも、時間や場所や人によってどんどん変わって行く。
落ち着く場所などどこにもない。
すべては仮の宿のような状態だ。
僕が所有や安定に興味が持てないのも、
こころというものをテーマに生きてきたからかも知れない。

ゆうすけ君のよく使う言葉に「ぎりぎり完成」「ぎりぎりセーフ」がある。
僕にとってはいつでもそんな感じだ。

それは身体と同じかも知れない。
健康と言うけれど、老いない身体はあり得ない。
生まれてから、ずっと死に向かって少しづつ進んで行くのが生命だ。
死の時まで、多少不具合があっても、上手く使って行くことが出来ればベスト。
つまり、だましだまし。

こういうことは、何にでも言えることで、もたせる、
保たせるということが大切で、絶対に壊れないように完璧を目指すと、
逆にすぐに壊れてしまったりする。

善悪や損得では計れないものがあるというか、
ほとんどはそういうものだと思う。

人間には部分的に見る癖があるから、どうしても近視眼になるのだけれど、
全体のバランスで捉えると、そう簡単に良いか悪いかははかれない。

どこか悪いところや、欠点があるとそこを集中してみてしまったりする。
そうすると、単純にそこにエネルギーが集まる。
コンプレックスというものもこうやって出来る。

以前、書いたけれど、ぼやっと全体を捉えて、
動きの中で何処にでも行ける柔軟さが大切だ。

こころも身体も、最終的に大切なのは軽さだと思う。

僕もいつでも「場」に「軽さ」を求めている。
もっと軽くもっと透明感のある場になって行けたら。
僕自身もすきとおるような存在になっていきたい。

すべては水のように、どこまでも滞ることなく流れて行かなければならない。

2013年6月8日土曜日

無意識を使いこなす

今日も暑かったですねー。

土曜クラス、とても良い流れで作品も良かったけれど、とても疲れた。
こういう疲れ方はむしろ身体に良さそう。

3つくらい書きたいテーマがあるのだけど、
今はもっと実感の強いことを書くべきなのではないかという気がする。

久しぶりに作ったオニオンスープがかなり上手くいたった。

バーバーのアダージョとバッハのアリアと、いくつかの美しい音楽を聴いた。
最後に矢野顕子のバージョンで「中央線」を。

夜は静かで涼しい風が吹く。

でも、やっぱりちょびっとだけ真面目な話を書く。
あんまり、人に緊張感を持たせたくないし、なるべく言わないようにはしているが、
見学にこられる大人の方は指定した時間を守っていただきたい。
土、日曜日の絵画クラスは、本来は見せるための場でもなければ、
取材を受けるための場でもない。
たとえ、どんなに偉い人がおみえになろうと、僕は一度場に入れば、
自分の仕事を優先させていただく。
作家たちが一番優先されるべき場であることを忘れないでいただきたい。
このルールが守れない方は、他の場所へ行っていただきたい。

制作の途中から来られると、流れが一旦中断してしまう。
うちに来る若い人達はちゃんとそのことを理解している。
制作の少し前に来るか、途中から来る場合はそっと入って来る。
教えた訳ではなく、しっかりとそういった配慮が出来ている。
外の方達が同じような配慮が出来ないはずはない。

特に取材関連の方がいる時に、本来の状態になった時はない。

一番純粋な形は誰もいない時だ。
こんな矛盾で悩むくらいなら、
いっそのことお客さんをいっさい断ってしまおうか、と思うこともしばしば。
それでも、なるべくお互いのためになるように、お受けしている。

そういう事情をわきまえられる方に来ていただきたい。

さて、こんなことを書きたいと思った訳ではない。
無意識について考えてみたい。
この前、母性について書いてみたが、無意識も母性と近い。

例えば、一人の作家がいて、画面が塗り重ねられて行き、
限りなく一色に近い絵になって行く。
こんな時、凄いなあと、感動しながらも僕はヒヤヒヤしている。
無意識が深くなっているからだ。
どこかで、意識を目覚めさせてあげなくてはならない。
そこはギリギリのバランスだ。

こころというか、もう魂としか言いようがないほど深い作品になって、
その一枚は絵としてはやっぱり凄いのだけど、
だから僕も一緒に潜っては行くのだけど、
溺れて欲しくないし、何とか一緒に出口を探す。

無意識が深くなって行くと、コントラストがなくなって来る。
つまりはコントラストは意識だと言える。

ダウン症の人たちの最大の長所は無意識の強さだ。
だから、それを全面に出させてあげたいとも思うが、
そこはバランス。無意識が勝ってしまうと、
意識に属している意思や判断がぼやけてしまう。
一体化の力が強くなるのは良いが、分けることが出来なくなるし、
行ったまま帰って来られなくなる。

その見極めが大切だ。

ここはいつでもギリギリの勝負で、あちら側の世界に行くことで、
こちら側の世界をより良く出来なければならない。

忘れてはならないのは、
作家も僕達もこの社会の中で生きて行かなければならない、ということだ。
たとえ、だましだましであっても、誤摩化しながらであっても、
生き延びる工夫が必要だ。

僕の役割はその辺のバランスを見極めることだ。

技術的なことは書かないことにしているが、
例えば、年齢の低い子や体力のない人の場合、
ある時間内に勢いをつけることが必要だ。
体力が持たなくなると、視野が狭くなり、画面の全体が把握出来なくなる。
実際に見えなくなる場合もある。
自由とかオリジナルとかいってほっておいて良い訳ではない。
出口を失う前に見極めるべき時もある。

遊んでしまったり、入って行くことから逃げてしまうことがあるが、
そこに早く気づいて対応しなければならない。

彼らの長所は無意識の強さだと書いた。
だから関わる人間は無意識をどのように扱うべきか知らなければならない。
意識と無意識のバランスを保つには、どちらにも行き来し、
微調整出来なければならない。

あえて言えば、関わる人間に必要なのは、意識化された無意識。
自覚的無意識と言える。
意識でも無意識でもなく、その中間でもなく、
意識と無意識が同時にあるような感じだ。
心理学や精神医学が何と言おうと、何と否定しようと、経験的にそうなのだ。

起きていながら夢を見ているよようなものだ。
あるいは夢を見ながら起きている。
あくまで比喩であることはお忘れなく。

制作の場では自分のこころも人のこころも完全に解放されているべきだ。
こころが本来の姿で自由になっている時、
分からないのに分かる、ということや、
無限を前にしてどう振る舞うべきか、ということが明晰になって来る。

やや高度な話になってしまったが、最近の制作で感じたことだ。

2013年6月7日金曜日

宿命

暑いですね。
本格的な夏になったら凄そうだなあ。

もっともっと、制作の場を深めて行こう。
明日も頑張ります。

先日、街を歩いていると。
「あれっ、佐久間君じゃないの?」
「えー、こんなところで。Nさんじゃないですか」
「久しぶりー」
「ちょっとNさん、お時間あります?お茶でも」
「30分位なら大丈夫だけど」
「じゃあ、行きましょう」

そんな、ことがあって結局1時間くらい話し込んでしまった。
Nさんはもう15年も前にほんのしばらくだけ一緒に働いたことのある方だ。
よく覚えていたなあ。

Nさんは天涯孤独の人だ。
孤児院のようなところで育って、その後も同じような場所で働いている。
一緒に子供達の合宿をしたことがあるけれど、
たくさんいる大人の中で、僕とNさんのところに子供が集中していた。
僕の方にはやんちゃな子達が、Nさんの方には引っ込み思案な繊細な子達が、
それぞれ集まって来ていた。
言葉を交わさないでも、お互い似た者同士の感じがあって、
すぐに仲良くなった。
そのころ、Nさんは文学的で僕はちょっと闘争的なところがあって、
似ていながら、反対の性質も仲良くなれた要因の一つ。

Nさんは、何度も何度も僕の顔を見て「変わってないなあ」とつぶやいていた。
他の人達はみんな変わったな、と言うのに。
多分、Nさんの方が正しいような気がする。

今の話もずいぶんしたけれど、
結局、連絡先も交換せずに、僕達は分かれた。
もしかしたら、もう一生会うことはないかも知れない。
でも、僕達は最初からそんな関係で繋がっている。
お互いの掟を守っている。

お互いに自分の仕事に帰って行く。

Nさんに変わらないと言われたことは、意味もなく嬉しかった。

どんな人の一生もどこかにパターンがあって、
基本のモチーフはずっと変わらないのではないだろうか。
人はそのモチーフを何度も何度も繰り返しなぞって行く。
繰り返し繰り返し、同じテーマが現れて来る。
それは良いことでも悪いことでもない。
ただ、自分のテーマを愛せるようになったとき、
運命とか宿命とかいうことの価値を見つけられる。
誰も、本当のの意味でこの力に抗うことは出来ない。

アトリエの作家たちの描く絵のように、
日々、刻々変化しているのに、基本となるパターンは変わらない。

現在も過去も、様々な出来事や人々や情景が、雨のように降って来た。
それぞれの場面は鮮明で、匂いも音もある感じで、
手で触れているようでもある。
でも、そこには自分だけがいない。
いや、感じているのが自分なのか。
場面はすべて断片で連続性がない。
無数の断片がちらちら散って、降り積もって行く。

凄いスピードであると同時にスローモーションのようでもある。
その流れを感じながら、僕はあてもなく街を歩き続けた。

歩くリズムで街の景色が変化して行く。
記憶も一定のリズムで現れては消えて行く。

これまで、本当にたくさんのことが起きたようであり、
まったく何も起きていないようでもある。

生まれたから、生き続ける。
生まれたから、歩き続ける。
僕達はみんなどこかからかやってきた。
ここにいるのは留まるためではない。
進むためにいる。
そして、やがては立ち去らなければならない存在なのだから。

やり残したことはないか。確かめる。

愛を持って挑み、与えられた使命を果たし、
笑顔で去って行くために、明日も良い働きをしていきたい。

それから、いつでも、自分を大切にしてくれた人達に感謝の気持ちを忘れずに、
ありがとうの気持ちで、毎日の役割を実行して行きたい。

2013年6月6日木曜日

真っ向勝負

今日も曇りか。
少しは雨降った方が良いのだけれど。

サッカーは盛り上がったなあ。
あんまり、こういうムードで書きたくはないんだけど、
でも、やっぱり本田選手には感動した。

いつも書いていることだけど、
勢いと勝負勘、挑む勇気が大切だ。

嫌われても、バカにされても、敬遠されても、怖がられても、
行かなければならない時は、何処までも行く。

みんな、思ったことだろうけれど、
あのプレッシャーの中で、他の誰でもなく自分が決めるんだという決断と、
真っ向勝負でど真ん中に蹴る勇気。

試合が終わっても本田選手には笑顔がなかったし、
記者会見での和気あいあいムードを壊して行ったのも共感出来る。
本当の責任感とはそういうものだ。

ちょっとのことで満足して、居心地の良い場所に居続けようとする人。
みんながそうやって、一緒にここに居ようよ、と留まってしまう。
そこで立ち上がって、もっと行くという気合いを見せる人は、
やっぱりけむたがられる。もう宿命だ。

人生も仕事も本当はこういった勝負と同じだと思う。
何をやっていても、一段高いことが出来る人は、決して留まることをしない。

ずっと進み続ける姿は時に周りを疲れさせるのかもしれない。

でも、生きているということは動いている、変化しているということではないのか。

アトリエでのあり方にしても全く同じ。
様々な場があるだろう。僕も少なからず見て来た。
居場所があれば良いというレベルのもの、楽しければ良いというレベル、
経済的な効果が上げられれば良いというレベル。
色んな価値観があるだろう。
僕はもっともっと先にあるものを追い求めている。
単なる遊びの楽しさや、単なる馴れ合いの仲の良さは求めていない。
本当のものにはもっと透明感があって、もっとすべてがある。
何となくのものではなく、もっと力強いなにかだ。

自分の楽しさや満足や安らぎがゴールではないはずだ。
もっと先があるし、そこには本当の楽しさがある。

時々、辛口なコメントを書かざるを得ないのも、
低次元で満足してしまう人が多いからだ。

本田選手の勇気あるゴールと会見での場を壊す発言は同じ原動力から来ている。

それにしても、真っ正面からゴールを狙ったように、
真っすぐで嘘や誤摩化しのない姿は清々しい。

2013年6月4日火曜日

継承

梅雨と言いながらも、雨が降らない。
暑い日が続く。
まだ、朝と夜は風も冷たく気持ちいいけど。

日曜日にアトリエが終わってから、電話がなった。
稲垣君だった。
しばらくアトリエに来ていなかったので、どうしてるかなあと思っていた。
「渡したいものがあるので、今からアトリエ行っていいですか」

何だろう、と思っていると、僕の誕生日プレゼント。
ありがとう。

そして、彼は自分のテーマを見つけて、これから撮影に入るということだった。

良い流れに来ているし、僕もとても期待出来るテーマだった。
ぐんぐん前に向かって進んで行く。本当に嬉しい。

イサも一生懸命だ。

僕ももう一度、挑むくらいの勢いで行かなければと感じる。

笑われるかも知れないけれど、やっぱり彼らに負けてはいられない。

ゆうたが、少しづつ言葉を発音出来るようになっているそうだ。
保育園にもなれて、楽しんでいる。
良かった。本当に良かった。

絵のクラスもプレも、毎日、素敵な時間になっている。

先週の土曜日の「プロフェッショナル」志村ふくみは凄かった。
ここまで書かなかったのは、僕が語るのも失礼だからだ。
でも、あのレベルに達している人でさえ、思う色が出せないで、
悪戦苦闘している姿には勇気づけられる。
桜を見つめる目が印象的だった。
「色ならぬ色」という言葉。それから、いのちをうつしかえるということ。

子供を2人のこして、一人で染色の道へ入る時の話。
目をつむると色がちらついて、いても立ってもいられなかった。
というエピソードは凄まじい。

極めるということは、やはり様々な犠牲を伴わざるを得ないことなのか。
多分、答えはないのだろうが。

それから、いつか、このブログで、
辰巳芳子さんと佐藤初女さんが対話してくれたら、
どれだけ素晴らしいか、ということを書いた。
もしかしたら覚えている方もいるかも知れないが。
その対談が実現するそうだ。
人から聞いたことなので詳しくは分からない。

志村ふくみさんも教える活動を始めたようだし、
偉い人達が今、繋げるということに力を注いでいることを実感する。
それだけ、社会が危機的だということもあるだろう。

次に繋げる。継承して行くということが本当に大切だ。

2013年6月2日日曜日

今日は曇り。
薄い靄の中からぼんやりと日差しが覗く。
この世ではないどこかのようだ。
朝、起きる度に違う世界に居るような気がしてしまう。
1日を深く生きると、その1日ですべてが終わって行くから、
次の日が全く新しい何かになっている。
退屈だと思う人は、1日、全力で生きてみるといいと思う。

夜に寝て朝、まだこれまでと同じ現実があるとは限らない。
これで最後。そう思うと真剣になるし楽しくなる。

さて、土、日曜日のクラス、いつも以上に集中している。
僕自身も。
今、裸足でアトリエにいる。
保護者の方や見学の方には失礼だと思っているが、お許し願いたい。
出来るだけ身軽に動きやすい状態で、場に集中しなければならない時期だ。

アトリエで作家たちと過ごしていると、
彼らの一言で情景がさっと変わる瞬間がある。
そこに無いものが見えたり、どこかの場所のイメージがリアルになったり。
言葉だけでその景色を共有させてしまう力がある。
これは彼らのイマジネーションの力が凄いということと、
場にいる時、僕達はみんなお互いのこころの中のものを共有しているからだ。
場においては、具体的に見えているものがすべてではない。
むしろそういった物質的なものは変化して行く一部の要素に過ぎない。
その場にいる時、僕達にはこころに行き交うあれやこれやの情景が、
現実と同じ位に見えている。
夢も現実もそれほど大きく変わらない。
生も死もそんなに違わない。

誰かが「森の中」と言えば、景色は森になる。
「小さい頃」の話になれば、小さな頃みていた風景が見えて来る。

多くの道具や装置を使わずに、場面を変えて行く能のようだ。

僕達は場の中にいても、普段と同じように振る舞い話す訳だ。
すべての動作は日常にあるものだ。
ただ、違うのはそこに意識と自覚が入るということだ。
ただ手を上げ下しするという何気ない動作も、
自覚しつつ行うと何かが変わって来る。
それは茶道と同じだ。

仮に茶道とかお能とか言ってみたけれど、
やっぱり伝統というのは考えられているなあ、と思う。
でも、本来の意味が忘れられがちでもああるけれど。

最近は、絵を描き終わった後、あやなちゃんが川へ水汲みに行く。
確か、少し前は井戸から汲んでいた。
最近は川まで汲みに行くと言って箱を持って、
少し歩いてから床に箱をつけてすくっている。
その動作を見ながら僕達も川の前にいるような気持ちになるし、
川の音や、流れが感じられる。
水汲みって懐かしいなあ。
井戸から川って、どんどん遡っているんだけど。

今日は元気いっぱいのクラスだ。

2013年6月1日土曜日

響くこころ

今日も暑くなりそう。
これってもう夏なのかなあ。

さて、今日も集中して気持ちを注いで、みんなで良い時間の中へ入ります。

この前、散歩の途中、小学生の男の子が号泣していて、
友達も大人も振り返りながら、「どうしよう」という感じだった。
歩きながら泣いているのだけど、ちょっとづつ歩きが遅くなって、
途中で止まってしまった。
泣かせといた方がいいかなとも思いながらも、
泣きかたが結構激しいので、可哀想になってきて近寄って、頭を撫でた。
何も言葉はかけない。
男の子はすぐに泣き止んでじっとしている。
「行ける?」「うん。行く」「よし、じゃあね」
走って友達のいる方へ向かって行く。

素直だなあ。
あれだけ泣くことが出来るから、すぐに立ち直ることも出来る。

大人はなかなかああは行かないし、
子供でも最近の子であそこまで反応出来る子は少ない。

こころは動いていて、触れれば感触があり、打てば響く。
この手応えで対話する訳だ。

健康な状態とはこういうことをいう。

もう夏かあ。
梅雨の雨はまだまだ欲しいところだ。



書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。