今日も暑かったですねー。
土曜クラス、とても良い流れで作品も良かったけれど、とても疲れた。
こういう疲れ方はむしろ身体に良さそう。
3つくらい書きたいテーマがあるのだけど、
今はもっと実感の強いことを書くべきなのではないかという気がする。
久しぶりに作ったオニオンスープがかなり上手くいたった。
バーバーのアダージョとバッハのアリアと、いくつかの美しい音楽を聴いた。
最後に矢野顕子のバージョンで「中央線」を。
夜は静かで涼しい風が吹く。
でも、やっぱりちょびっとだけ真面目な話を書く。
あんまり、人に緊張感を持たせたくないし、なるべく言わないようにはしているが、
見学にこられる大人の方は指定した時間を守っていただきたい。
土、日曜日の絵画クラスは、本来は見せるための場でもなければ、
取材を受けるための場でもない。
たとえ、どんなに偉い人がおみえになろうと、僕は一度場に入れば、
自分の仕事を優先させていただく。
作家たちが一番優先されるべき場であることを忘れないでいただきたい。
このルールが守れない方は、他の場所へ行っていただきたい。
制作の途中から来られると、流れが一旦中断してしまう。
うちに来る若い人達はちゃんとそのことを理解している。
制作の少し前に来るか、途中から来る場合はそっと入って来る。
教えた訳ではなく、しっかりとそういった配慮が出来ている。
外の方達が同じような配慮が出来ないはずはない。
特に取材関連の方がいる時に、本来の状態になった時はない。
一番純粋な形は誰もいない時だ。
こんな矛盾で悩むくらいなら、
いっそのことお客さんをいっさい断ってしまおうか、と思うこともしばしば。
それでも、なるべくお互いのためになるように、お受けしている。
そういう事情をわきまえられる方に来ていただきたい。
さて、こんなことを書きたいと思った訳ではない。
無意識について考えてみたい。
この前、母性について書いてみたが、無意識も母性と近い。
例えば、一人の作家がいて、画面が塗り重ねられて行き、
限りなく一色に近い絵になって行く。
こんな時、凄いなあと、感動しながらも僕はヒヤヒヤしている。
無意識が深くなっているからだ。
どこかで、意識を目覚めさせてあげなくてはならない。
そこはギリギリのバランスだ。
こころというか、もう魂としか言いようがないほど深い作品になって、
その一枚は絵としてはやっぱり凄いのだけど、
だから僕も一緒に潜っては行くのだけど、
溺れて欲しくないし、何とか一緒に出口を探す。
無意識が深くなって行くと、コントラストがなくなって来る。
つまりはコントラストは意識だと言える。
ダウン症の人たちの最大の長所は無意識の強さだ。
だから、それを全面に出させてあげたいとも思うが、
そこはバランス。無意識が勝ってしまうと、
意識に属している意思や判断がぼやけてしまう。
一体化の力が強くなるのは良いが、分けることが出来なくなるし、
行ったまま帰って来られなくなる。
その見極めが大切だ。
ここはいつでもギリギリの勝負で、あちら側の世界に行くことで、
こちら側の世界をより良く出来なければならない。
忘れてはならないのは、
作家も僕達もこの社会の中で生きて行かなければならない、ということだ。
たとえ、だましだましであっても、誤摩化しながらであっても、
生き延びる工夫が必要だ。
僕の役割はその辺のバランスを見極めることだ。
技術的なことは書かないことにしているが、
例えば、年齢の低い子や体力のない人の場合、
ある時間内に勢いをつけることが必要だ。
体力が持たなくなると、視野が狭くなり、画面の全体が把握出来なくなる。
実際に見えなくなる場合もある。
自由とかオリジナルとかいってほっておいて良い訳ではない。
出口を失う前に見極めるべき時もある。
遊んでしまったり、入って行くことから逃げてしまうことがあるが、
そこに早く気づいて対応しなければならない。
彼らの長所は無意識の強さだと書いた。
だから関わる人間は無意識をどのように扱うべきか知らなければならない。
意識と無意識のバランスを保つには、どちらにも行き来し、
微調整出来なければならない。
あえて言えば、関わる人間に必要なのは、意識化された無意識。
自覚的無意識と言える。
意識でも無意識でもなく、その中間でもなく、
意識と無意識が同時にあるような感じだ。
心理学や精神医学が何と言おうと、何と否定しようと、経験的にそうなのだ。
起きていながら夢を見ているよようなものだ。
あるいは夢を見ながら起きている。
あくまで比喩であることはお忘れなく。
制作の場では自分のこころも人のこころも完全に解放されているべきだ。
こころが本来の姿で自由になっている時、
分からないのに分かる、ということや、
無限を前にしてどう振る舞うべきか、ということが明晰になって来る。
やや高度な話になってしまったが、最近の制作で感じたことだ。