2013年6月18日火曜日

生命を失わないように

自分個人としての不調とか問題の解決法は、
僕にとっていつでも簡単だ。
良く寝ること。それから大好きな音楽を聴くこと。
寝ることですべては消えて行く。
何にもなくなってからっぽになって、身体もこころも軽くなる。
それくらい、深く寝る。
大好きな音楽を聴いていると、それだけで幸せになる。

これから先の課題は仕事のことも勿論だけど、
個人のレベルで言えば、成長して行くゆうたとの時間をどうやって作って行くか。
これからの時間は本当に本当に大切だ。

僕にとって未だ父なるイメージが持てない。
父との関係も時間も持たずに育ってきたから。
それは事実であって、だから悪いとか良いとか思っている訳ではないが。

ただ、確実に感じられることはゆうたは僕を必要としているということだ。

小さな頃の記憶にはいつでも美しい音楽があった。
祖父の手作りのスピーカーの前で、いつもクラシックのレコードを聴いた。
小学校の頃、音楽の授業でベートーベンの交響曲を聴く時間があった。
みんなが退屈で寝ていたり、長い長いと欠伸したりする中、
僕は聞き慣れた音楽のこの演奏は誰だとか、この解釈はどうだとか、
上手いとか下手とか思いながら聴いていた。

今日はアトリエ自体のお話はお休みしよう。

最近、また田中希代子の演奏を聴いている。
日本にまだクラシックが根付く前、まだ練習する環境もなかった頃の、
必死になって西洋音楽に追いつこうとしていた時期の演奏家達が本当に好きだ。

原智恵子、安川加壽子、田中希代子、諏訪根自子、巌本真理、
とか、書いてみるとみんな女性なのにも驚く。
一番好きなのはやっぱり原智恵子か。

こういう人達の演奏の記録はほとんどないから、いつも同じものを聴く。

何がそんなに良いかと言うと、音に魂があるからだ。

もともと、僕はクラシックに関して日本の演奏家は嫌いだ。
テクニックはあっても、個性がない。
技術だけで、何のために、何を表現するためにその技術があるのか分かっていない。
動機も必然性もない。
はっきり言って何をしたいのか分からない。本人もおそらく分かっていない。
音大やら音楽教育が問題なのだろう。
コンクールのあり方も原因の一つだろう。
でも、一番は時代だと思う。
何をするにしても、動機が持ちにくいことは確かだ。

日本の演奏家はテストで良い点を取るための優等生的な音楽しか作れない。
だからのっぺらぼうで薄っぺらい。
そんな音楽を聴いていたくはない。

それなのに、まだまだ土壌すら整う以前の演奏家に素晴らしい人がいたのは不思議だ。

日本人の美質の一つとされる、主張しない、謙虚で献身的という要素が、
良い方に出ているのがこの時期の演奏家達だ。
この人達も主張はしないし、個性を滅却しようと努力している。
音楽に尽くそうとしている。
西洋という理想を追いかけて、何とか食らいつこうとしている。
音楽の前でひれ伏して自分の命を捧げている。
そこに魂が宿る。

技術だけで言ったら、今ではもっと上手く演奏出来る人もいるだろう。
でも、このひたむきさや、やこめる力は、現代が失った何かだ。

良く言われすぎることではあるけれど、便利ははたして良いのか、
という疑問を本当に実感する場面は、こういうのを聴いている時だ。
私達は確実に何か大切なものを失ってきているのではないかと。

何をしているにしても、動機がない人は本当に多い。
何でも簡単に手に入る。
何でもある。何をしても何も変わらない。
そんな中で動機が持てるだろうか。

困難を経験していないということは、生命の力が弱まっていることだ。
自分を否定されない環境に慣れきってしまっているから、
ちょっとのことで傷ついたりする。
この世界も命もあって当然だと思っているから、有り難みを感じない。

もし、楽に生きる道があったとして、
それを選択するとしたら、結果は生命力を失って行くだろう。

田中希代子の演奏を聴いていると、
音楽を奏でることが容易ではなかったこと、
様々な困難と苦悩と、そこに立ち向かって行く勇気こそが、
彼女を輝かせていることに気がつく。
目指すものは辿り着けない程、遠くにあるからこそ、
進む勢いに迫力がある。
命をかけなければ、何も見えないし、何も分からない。
命をかけなければ、生きているとは言えないのではないか。

田中希代子の演奏は、清潔で健康で、真っすぐに前を見ている。
困難に負けず、自分にも負けない。
バランスを保ち、全体の構成力は抜群だ。
情に流されないで毅然としている。
気持ちよくエネルギーを発散しない。
しっかりと俯瞰して動じない。
自己を滅却して音楽に尽くしている。
個性も感情も否定して、音楽そのものに準じるからこそ、
音楽に希望が宿る。

簡単とか便利とかが生命力を削いで行くのと同じように、
規制によって改善しようという流れも危険な状態にきていると思う。
最近はやたらと規制が多くなっている気がする。
これをしてはいけないとか、言ってはいけないというものが過剰なまでに増えている。

何事も未然に防ごうという傾向も強いのだろう。
そのうち何も言えない、何も出来ないというのが自覚さえされなくなるだろう。

安全のために生命力を失ったのでは、何のための安全かさえ分からない。

流されないで、鵜呑みにしないで、命を全うしよう。
本気で全力で挑むからこそ面白い。

抑圧したり統制したりしても問題は何も解決しないだろう。
個人のこころを見ていると本当にそう思う。
制作の場での僕達の役割は制御をかけることではなく、
すべてを解放することだ。
押さえつければ問題は増えるだけだ。
逆に最初は怖いだろうけれど、完全に自由にして解放してみれば、
調和がとれてくることに気がつくだろう。
自由にして争いが起きたり、問題が起きたりするのは、
その自由がまだ徹底されていないからだ。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。