2013年6月2日日曜日

今日は曇り。
薄い靄の中からぼんやりと日差しが覗く。
この世ではないどこかのようだ。
朝、起きる度に違う世界に居るような気がしてしまう。
1日を深く生きると、その1日ですべてが終わって行くから、
次の日が全く新しい何かになっている。
退屈だと思う人は、1日、全力で生きてみるといいと思う。

夜に寝て朝、まだこれまでと同じ現実があるとは限らない。
これで最後。そう思うと真剣になるし楽しくなる。

さて、土、日曜日のクラス、いつも以上に集中している。
僕自身も。
今、裸足でアトリエにいる。
保護者の方や見学の方には失礼だと思っているが、お許し願いたい。
出来るだけ身軽に動きやすい状態で、場に集中しなければならない時期だ。

アトリエで作家たちと過ごしていると、
彼らの一言で情景がさっと変わる瞬間がある。
そこに無いものが見えたり、どこかの場所のイメージがリアルになったり。
言葉だけでその景色を共有させてしまう力がある。
これは彼らのイマジネーションの力が凄いということと、
場にいる時、僕達はみんなお互いのこころの中のものを共有しているからだ。
場においては、具体的に見えているものがすべてではない。
むしろそういった物質的なものは変化して行く一部の要素に過ぎない。
その場にいる時、僕達にはこころに行き交うあれやこれやの情景が、
現実と同じ位に見えている。
夢も現実もそれほど大きく変わらない。
生も死もそんなに違わない。

誰かが「森の中」と言えば、景色は森になる。
「小さい頃」の話になれば、小さな頃みていた風景が見えて来る。

多くの道具や装置を使わずに、場面を変えて行く能のようだ。

僕達は場の中にいても、普段と同じように振る舞い話す訳だ。
すべての動作は日常にあるものだ。
ただ、違うのはそこに意識と自覚が入るということだ。
ただ手を上げ下しするという何気ない動作も、
自覚しつつ行うと何かが変わって来る。
それは茶道と同じだ。

仮に茶道とかお能とか言ってみたけれど、
やっぱり伝統というのは考えられているなあ、と思う。
でも、本来の意味が忘れられがちでもああるけれど。

最近は、絵を描き終わった後、あやなちゃんが川へ水汲みに行く。
確か、少し前は井戸から汲んでいた。
最近は川まで汲みに行くと言って箱を持って、
少し歩いてから床に箱をつけてすくっている。
その動作を見ながら僕達も川の前にいるような気持ちになるし、
川の音や、流れが感じられる。
水汲みって懐かしいなあ。
井戸から川って、どんどん遡っているんだけど。

今日は元気いっぱいのクラスだ。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。