2014年3月21日金曜日

冷たい風

しばらくブログお休みさせていただきます。

土、日曜日のアトリエが終わったら三重へ行きます。

今日は曇りだったけど、時々、神々しいような光が射して、
この世に居るとは思えないような景色になった。

夜。
月は探しても見当たらない。
代わりに星が光っている。

プレの日、事務仕事をしているとみんなの話し声が聞こえて来る。
ハルコが春になったのになんで寒いの?とイサに聞いている。
三寒四温って言って、今日はその内の三寒のほうなんだよ、って、(笑)
微笑ましい。

みんな仲良し。ここではそれが当たり前だけど、それは結構凄いことだ。

イサ達にアトリエを任せて行く期間の絵の具が間に合わないので、
今日は世界堂に買いに行ってきた。

お通夜に行くので喪服を出してたら、見つからない。
やっと揃ったのだけど、黒のネクタイまでいって、数珠がない。
見つけるのに結構時間がかかってしまった。

これから増々良い仕事をしていきたい。
世界一の場と、高い水準の作品と、繋がる環境を。
もっともっと広げていきたい。

制作の場は僕も続けていくが、引き継ぐ形が出来なければならない。
これが難しいのは分かっているけれど、僕がいらないくらいにならないと。
自分で言うのもなんだけど、またそれを言ってしまうのが僕なのだけど、
場においての僕の動きはすきがない。
流れるような奇麗さもあり、迫力もある。
そこを超えていってもらいたい。

関わるということや、場を創る、場の中で流れを見て、
こころに触れていく、と言うようなことを自覚的に実践して来たのは、
こういうことがジャンル化されていないので、ほとんど僕だけだと思う。独学だ。

必要な知識は全て場から教わって来た。
それでも、全然モデルが無かった訳ではない。
僕は初期の頃、ある時期のまことさんの仕事から学んだ。
直感があった。ここから何かが見えて来るのでは、という。
言葉を通しては教わっていない。
見て、盗んだ。盗んでもっと深めて発展させた。
そして超えた。
と言っても、発展させたり超えたりしたのは、
僕の見つけたテーマに関してだけで、
まことさんはもっともっと色んな仕事をしている。
僕がそこから拾ったものは、まことさんからすれば、一部のことで、
仕事としても自覚していない部分だっただろう。
僕が出来ると思ったのは、場とか関係というものだけで、
これはその頃、まだ誰も自覚していなかった。

イサにも盗んで超えていく気迫が必要だ。
その場に立ったら、勝負が決まる。そういうものだ。
立っている姿を見れば分かってしまう。分からない人でも直感的に感じている。
とても単純だ。単純だから誤摩化しがきかない。
黙って立っているとき、間合いが完璧でなければならない。
余裕があっても全身に気迫が漲っていなければならない。
動きは自然で美しくなければならない。
場に入った時から勝負が始まっている。
そしてそれは生きる姿勢でもある。
これが最後だと思って挑めば、必ず良い仕事ができる。
それが全てだと思う。

今日はちょっと直球すぎる書き方をしたが、
場を離れる時期が出てくるので、覚悟を共有したいという思いで書いてみた。

春の雨

寒い夜です。
雨もいっぱい降りましたね。

夜中に、それもこんな精神状態でブログを書くのは始めてです。
でも、気がつくとパソコンを開いていました。

アトリエの夢をずっと応援して下さっていた方が亡くなりました。
熱い思いで共感をよせて下さっている方でした。
いつも相談にのってくれて、応援して下さるばかりでなく、
出来ることは何でもすると仰っていました。
お忙しい中、たくさんの時間を割いて下さいました。

いつかは一緒にあれをやろう、これをやろうと語り合ってもいました。

そんなこと以上に人として、本当に良い方でした。
正直すぎる人でした。

ご冥福をお祈り致します。

よし子から電話があって、呆然としてしまいました。
落ち込んだ様子の声だったので「とにかく落ち着いて」とか言いながらも、
僕自身、一体何が起きたのか理解出来ませんでした。
今でもよくわかりません。

色んな場面を思い出してしまって、眠れません。
信じられない、やるせない、そして何かに対して怒りさえ感じてしまいます。
人間として良い人ばかりが死んで行く。
どういうことなのか全く理解出来ない。
不条理を感じます。

朝から降り続いた今日の雨は何かを予感させていたのかも知れない。

暖かかった昨日までの2日間、気がつくとまん丸い月が光っていて、
何か語りかけるようだったのも不思議でした。

週が空ければ春が待っている。

最近は悲しいことばかり、辛いことばかりだ。
どれだけの別れを経験しなければならないのだろう。

どんな時でも前へ進み続けなければならないのだろうか。

それでも、僕は泣きながらでも歩き続けるだろう。
誰のこともどんなことも、決して無駄にはしない。
大切な大切なものをくれた人達のことを絶対に忘れない。

掛け替えのない瞬間を抱きしめて。
本気で全身で生きて行く。

出会えたからこそ、悲しむことも出来る。
悲しみをもらったことに感謝しよう。
出会いは本当に素晴らしい。
どんなに短い時間でも一緒に居られた人みんなに、ありがとうという気持ちで、
歩いて行きたい。

この土、日曜日も制作の場に立ちます。
一度きりの真剣勝負を噛み締めていきます。
みんなから少しでも多くの笑顔が生まれる場を創りたいです。
その瞬間瞬間にこれまで出会った人達への感謝をこめて、
目の前の一人一人に接して行きます。
僕達はその場でやり残しの無いように一緒の時間を過ごして行きます。
その記憶は消えることがありません。

どんなことも輝きと共に刻まれていきます。

2014年3月17日月曜日

始まりの季節

春ですね。

今月中に予定していたいくつかのことは間に合わなかった。
来週は三重に行く。
少しづつバランスを考えて東京での仕事もしっり責任を持って行きたい。

暖かいですね。
やさしい光とふわっとした感じの景色がひろがっていて、春を感じる。
ぼやっとした夢の中にいるような感じ。

作家たちも同じで、女子は恋愛や結婚の話題だし、
男子は夢や不思議な世界の話になる。

てる君は夢の話をずっとしていた。
思い出しているというより今目の前に見ているように。
夢を語りながら夢の中にいるような気配。
絵にも描いていて、真ん中に黄色い箱があって鍵が閉まっている。
でも箱自体は強く子固定されていないようでぼんやりしたやわらかい形だ。
箱の中にはお化けやネズミが閉じ込められていると言う。
鍵は閉まっているけれど、周りにはすでにお化けやネズミが出て来ている。
奥の方には魂がいるという。
一応は箱の中に入っているけれど、ある程度の行き来があるというような表現。
その淡い感じと透明感がてる君らしい。
すぐる君は不思議な世界の入り口を描く。
入り口のドアがこれも黄色だ。
中へ入ると不思議の世界がずっと続いている。
3つの穴やトンネルや地下鉄を使ってもこの世界へ入ることができる。
何処から入っても同じ不思議な世界に行くそうだ。
そして出口から出ると桜の木があって女性が手招きしているという。

土曜日のクラスの一人はもう一人の自分が違う場所で生活していると言っていた。
彼は、と時々言って説明してくれる。
ずっと聞いているとどっちがどっちなのか分からなくなる。
今はどっちの人生を生きてるの?と聞くと、同時だよと答える。

現実のむこう側にあるものとか、見えるのもの奥にある気配とか、
何かと何かの間にあるものとか、
そういった次元に対して敏感になる季節なのかも知れない。

こころが柔らかくも脆くもなり易い季節でもあり、
不調になる場合も多いのだけれど、そういう意味で良い部分もある。
凝り固まったこころが少し柔らかくなったり、流れが生まれたりもする。

もう一人の自分である彼や、不思議な世界のドアや、
ネズミやお化けや魂が入っている箱と鍵が意識に上って来る時期だ。
すぐる君の言う出口にあるという桜の木が印象的だ。

今年も桜が咲いてあの鮮やかな色を見せてくれるだろう。
ぱーっと咲いて、風に舞って散って行く景色。

やっぱり一年は春から始まるという感じが強い。
これからへ向けて動き出そう。

2014年3月14日金曜日

不確定

春になってきて、調子が悪かったりする人からの電話も増えています。
この時期は焦らず、悪い時は流れが変わるのを待つことも大切です。

僕自身も変化へ向けて準備に追われる日々ですが。

先日は埼玉で講演をさせて頂きました。
これまで以上に熱心な方々の集まりで、こちらも話に熱が入りました。
こうした書き物と違って講演は聞く人次第であったりもします。
真剣な人が多ければこちらも自然に真剣になります。

最近、色んなことがあったり、気づかされたりします。
人生ってすごいな、と今さらながらに思います。
過去のことでも今だから分かることも多いのですが、
僕が書いたり発言することで迷惑をかけてしまう人が居るので、
まだ言えないことがたくさんあります。

あえて書く必要も無いけれど、家族のこと、父や母のことなんかは、
やっぱり自分が歳をとって、こんな言い方はなんだけど、
みんな居なくなってからしか言えないことは多い。
自分がどれくらい生きられるかなんて分からないけど。

何故、こんな話から入ったかと言うと、今自分は楽しいと思うからだ。
あえて言えば幸せを感じるからだ。

僕の場合は、制作の場に立つこと、
一人一人が自分のこころの深くへ潜って行くとき、
一緒に行ってずっと傍に居ること、共感し共有し、一緒に見つけること、
それを仕事にして来た。
そして、この仕事がすべてを教えてくれた。
難しい仕事だ。辛いことも苦しいことも沢山ある。責任も重い。
でもそれ以上に素晴らしいものをたくさん見る。

人生を賭け、命を賭けられるものを持つことは幸せなことだ。

ちょっと特殊な経験をして来たけれど、そこで学んだことは大きい。
制作のプロセスを追って行くということは、
心の生の裸の動きを見て行くということだ。
心が何処で制御されているのか、どこから固まっているのか、
限界が作られて行くのか。どうすれば自由になるのか。
そんな動きをずっと見て的確に扱って行くためには、
敏感であらねばならないのは勿論だが、それ以上に制限や限界を知って、
それを外すことが出来なければならない。
それは人に対しても自分に対しても一緒だ。
そうやって行くと確実に見え方や感じ方が変わって行くし、
そうすると世界も変わる。人生観や世界観も変わる。
変わると言うより現在の僕の見解では無くなるという方が近い。
決まった見え方や感じ方が無くなって行く。
それが自由になって行くということでもある。

自由については以前書いたけれど、人は自由を恐れている。
何故なら自由とはいっさいの安全や安定を外すことだからだ。
何の保証もないということに気づくことだからだ。
誰も何も守ってくれるものは無いし、ここから先どうなるか全く分からない、
予想も出来ないという感覚こそが自由の一部だ。
こういう感覚は怖いが、いざその中に飛び込んでしまえば気持ちが良い。

僕達は小さな頃から植え付けられた思い込みで、
自分に限界を作り、不自由になっている。
その癖を取って行くことが大切だ。
どこかに安全や安心があるという思い込み。
こうすればこうなるという思い込み。
こうしたからこうなったとか、もっと言えば、あれはああでこれはこうだという。
木は木だと言うのも思い込みの一つだ。
木は木のような何ものかにすぎない。

ちょっと難しい話になってしまっただろうか。
一言で言ってしまえば、不確定こそが真実であり、
不確定こそが楽しいということだ。

確かだと確定出来ているものこそが幻想だといえる。

僕自身もちょっと前まではまだ確定出来るものがいくつかあった。
不確定は一つの領域だった。
でも、今は違う。不確定がほとんど全てになってしまった。
何一つ確定出来ない。
そうなって行くにしたがって自由になるし、楽しくもなる。

ふと周りを見渡したとき、そこにあるすべてが不確定で、
自分が誰なのか、はたしているのかさえも分からない、
そんな中に放り込まれていることに気がつく。
いつの間にかここにいる。
まだなにも知らないし、これからも決して分かるはずが無い。
無駄な思い込みや偏りを外した時にこうした不確定が見えて来る。
それを自由と呼ぶ。そこには常に新鮮さしかない。

分かるということは存在しない。
ただ分かると思い込むことで安心しようとしているだけだ。
安心は良いことだと思われているが、存在しない安心を求めるあまり、
様々な暴力が生まれ、自分も人も抑制し、気づかずに身動きがとれなくなっている。

そんな全てを捨てて、不確定の中に飛び込む。
それが創造するということであり、それが生きるということだ。
それが遊ぶこと、楽しむことだ。

この世界は本当は不確定だ。
不確定は面白い。

2014年3月11日火曜日

自分を動かすもの

今日は3月11日。
あれから3年も経ったのですね。
思うとことは色々ありますが、僕達は仕事を通して希望を創って行きたいです。
どんなにわずかでも。

今日は埼玉で講演です。
いつも話すことは一つです。
ダウン症の人達が教えてくれていることは、今の社会にとって、人間にとって、
大切な大切な根源的なことなのだと思っています。
少しでも多くの人がその価値に気づき、平和な社会になれば、と願います。

先日は共働学舎のまことさんが泊まって行きました。
1年に一度位は会うことがあるのだけど、ゆっくり話をするのは久しぶり。

相変わらず突然やってきて、飲もうとということで待ち合わせて、
最後は狭いスペースに布団を敷いて、こうして一緒に寝るのも懐かしい。
かつてはみんな雑魚寝していたけど。

仲間達に連絡出来ていないことで、うしろめたい思いもあったので、
せめてまことさんと会えて良かった。

珍しく色んな話が出来た。

お世話になっている人達に、本当はお会いしたいのだけど、
不義理をしてしまっていることが多い。
休みの日があれば連絡しようかなとも思うのだけど、
どうも電車に乗って移動するのもおっくうになっている。
なんとかしなければ。

まことさんと話していて、あのころは見えていなかった多くのことが見える。
見えるようになった。
そして、知らなかったいくつかの情報もあった。
あの頃、知っていればと思わなくもないが、知るべき時ではなかったのかも知れない。
パズルのピースを集めて行くように、たくさんのことが一つの絵になっていく。
そうか、そういうことだったのか、とか。
悪かったな、申し訳なかったな、とか。
後悔は無いけれど、切ない気持ちや悲しい思いになる話もいくつか。
それでもいつでも精一杯やって来たことは事実だ。
後悔は無いけれど、誰に対しても感謝はある。

いっぱいの人達の思いを乗せて、僕は創られている。
思いの中には希望も喜びもあり、悲しみも苦しみもある。生も死もある。
どんな時も一人ではあり得ない。

動いて行くことにも伝えて行くことにも大きな責任がある。

僕を動かしてくれている、多くの思いと願いに、
今日も感謝と共に人前に立つ。

2014年3月3日月曜日

僕達の役割

肌寒さは続きますが、春も近づいて来ましたね。

これからののことがあるので、準備がいっぱいです。
頭がついて行っていないのか、仕事上のミスも増えました。
ご迷惑おかけした方々に申し訳ないです。

これまで制作の場にかなりの割合で集中させてもらって、
ありがたい日々だったと思います。
とてもやりがいのある仕事です。
そして自分が最も力を発揮出来たジャンルでもありました。
今後も場に立ち続けるでしょうが、割合は減って行くことになります。
自分自身のライフスタイル面でも不安もあります。
でも、今はなによりもきっちりと引き継ぎを成功させたいと思っています。

大切なことは伝えて来たと思います。

どんな仕事も簡単な仕事は無いでしょう。
制作の場に立ち作家たちが自然に創造性を発揮するための場を創る、
その環境に責任を持ち、作家たちと関わり続けるという僕達の役割も、
様々な難しさがあります。

僕達は作家に対してはオリジナリティや自発性を最も大切に考えます。
指導的な手を加えないだけではなく、どこにその人の本来の個性があるのか、
素早く感じとりながら、余分な要素、
邪魔をしている影響を取り外すことが出来なければなりません。
作家一人一人の持ち味が、
一枚の絵の中ですべて発揮されていなければならないのです。
自由になってもらうためには何でもします。

それが全てではないのですが、場の雰囲気もとても重要です。
勢いがあり過ぎてもいけない。弱過ぎてもいけない。
もっと言えば丁度良過ぎてもいけない。
どんな時もバランスを見極めて行く。

僕達はいつでも、必要な場所に的確に点を打って行かなければならない。
それは狂いがあってはならないことです。正確でなければならない。
ちょっとしたズレが大きなことに繋がるからです。

強い強い注意力と、それを保ち続ける体力が必要です。

作家が良い状態に入ってくれた時(ここまで行くのが難しい)、
良い流れに乗って、そのまま行けば決まるという最後のところ、
この数分か長くて10分位の時間が実は大切です。
そこへ行くまでに必要とされたような細やかな技術はもう捨ててしまった方が良い。
あるところまで行ったら、俯瞰も、冷静さも、捨てる。
ちょっとは危険を冒してでも、自分も作品に溺れてみる。
自分のすべてを投げ捨てて、作家と一緒になってその流れに入って行きます。
思い、覚悟、気合い、愛情、尊敬心といったものは確実に伝わり、
場や流れに密度を生み出します。強い共感も一体感も生まれます。
その時はもうこれが最後でも良いと思うくらいの気持ちで行きます。
また大袈裟かもしれませんが、命をかけます。
この時は小手先の技術や思考はもう必要ないです。
ただ、人と人の芯だけが残ります。
創造性の動きだけがひたすら密度を高めて行きます。
作家が10のレベルで行くとしたなら、
確実に12か13位まで上がっていくものです。
これは間違いありません。
そこを経験した後には作家との信頼関係も深まって行くのです。

僕達は生命の芯に関わる大切な大切な仕事をさせてもらっている。
そのことへの感謝と責任を忘れてはいけないと思っています。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。